峯澤典子 著『あのとき冬の子どもたち』
(「図書新聞」17.3.25号)

 この詩集は、ひとつひとつの詩語が、わたしに語りかけてくるかのように聞こえてくる。それは、しかし、静かに、なにかを強く伝えたいというのではなく、独り言のようでもあり、吐息のような呟きでもあり、遠くを見つめながら小さな声で歌っているようでもある。読み終えて、この詩集を閉じてみると、わたしは、水が流れるような物語のなかにいた。
 「マッチを擦っても/新年のみちには犬の影もない/ひと足ごとに/夜の音が消えてゆく/冷気を炎と感じられるほど/ひとを憎むことも/許すことも できなかった/……」(「流星」)
 情景は心象でもある。「ひとを憎むことも/許すことも できなかった」と語る時、詩語を紡ぎだす人は、どんな関係性のなかにいることになるのだろうか。他の詩篇に接してみれば、時間の流れのなかで変容していく関係性に逡巡し立ちすくんでいる有様を投射しているように、わたしには感じられる。
 「……/幼いころ/水さえほしがらなくなった猫や犬の/肌の日向の匂いが/ゆっくり冷えてゆくのを/いちにちじゅうでも/ひとばんじゅうでも/見守った/あのやわらかな時間の流れから/いつ/離れてしまったのだろう/……」(「一羽」)
 小さな命が消えていくかもしれないという場所にい続けているイノセントな少女期(少年期)への憧憬と、そして悔恨と評するのは簡単だ。「あのやわらかな時間の流れから/いつ/離れてしまったのだろう」という心象は、「ひとを憎むことも/許すことも できなかった」と語ることへ通底していく。時間は戻らないのだ、憧憬や悔恨は、なにも慰藉しない。ただ、受けとめること、そのこととして感受し続けることに、自分たちの、爐い洵瓩あるのだと、作者の声は、わたしに、語りかけてくる。このような感受の有様とはなんだろうかと思う。ある理不尽なことが生起したとき、ひとは、直截に憤りを胚胎していく。それは、ある意味、必然的なことだ。だが、それで、なにかが、変わるだろうか。わたしたちは、理不尽なことには敏感だが、どんなことが起きても変わらずにある、切実なものに眼を向けることを忘れがちになる。微細で繊細なといえるほどの小さな出来事に絶えず視線を向け続けていくことが、憤怒を持って理不尽なことに向かっていくよりも、なにかを変えていく動力になるのではないかと、詩人・峯澤典子が語っていると、わたしには思われるのだ。長くなるが、もっとも、わたしを喚起した詩篇の一部を引例しよう。
 「……/生まれてはじめて/たったひとりで/息がつづくかぎり/全力で走り抜けたあと/気恥ずかしいくらいに/からだの奥で揺れつづけていた/草の香りや/空の高さ/それらを生の中心と定めたとき/そよぎだしたすべての感情を/わたしは木のようだと思ったはずだ//誰かを追い抜くためではなく/ただ走ってゆける喜びに/そよぐこころを/讃えながら/木は育っていった/のびすぎた枝はいつの日か/人や じぶんを/深く傷つけてしまうことなど/知りもせずに/……」(「改札の木」)
 「のびすぎた枝」とは、なんという暗喩だろう。わたしの発語は、いつだって「のびすぎた枝」だったのではないかと、暗澹たる思いになる。誰もが、無意識に人を傷つけ、自分自身を深い暗渠へと誘っていく。
 「……/あげられるものは/もう骨しかなかった/それでも父は/あめ、ゆき、と/くちをひらきつづけた/ぎこちなく子を寝かしつけた若い日のように/……/父を呼ぶことのなかった町に/列車が入った/雪はやみ/子は/静かな包みにくるまり/ひとり 眠った」(「冬の子ども」)
 「……/兄妹のように水色の似た/川から川へ/行先を失った時間は運ばれ/水際のわたしの姿も/霧雨に溶けだす前の/別れのあいさつも/はじめから存在しない//旅人の影の/かたちをした雨雲が/横切り/消えてゆくのを/映す水だけの/永遠」(「水の旅」)
 「あめ、ゆき、と/くちをひらきつづけた」、「旅人の影の/かたちをした雨雲が/横切り/消えてゆくのを/映す水だけの/永遠」と、これらに込められた心象は、鮮烈だ。いいようのない、息苦しさのなかで、それでも、なにか小さな通路のようなものを詩人・峯澤典子は詩語によって照射している。
 第六十四回H氏賞受賞作・第二詩集『ひかりの途上』(七月堂、13年刊)から三年半、いま、峯澤典子の詩世界は、間違いなくひとつの達成へと向かっている。そして、峯澤の詩表現が、いつしか「生の中心」を捉えることを願っている。

(七月堂刊・17.2.1)

専修大学経営学部森本ゼミナール・編
『大学生、限界集落へ行く――「情報システム」による南魚沼市辻又活性化プロジェクト

(「図書新聞」17.3.11号)

 本書は、専修大学森本祥一ゼミの大学院生を含む十三名の学生たちが、新潟県南魚沼市にある世帯数15(うち高齢者世帯は4)、住民数が43人(いずれも2015年6月時点)の辻又集落において地域活性化を模索すべく活動した二年間(2014年6月から16年2月)にわたる記録集である。経営学部に参集する学生たちだけあって、マーケティングの知識をもとに「情報システム」という考え方によって活動していったことになる。本書に分け入って行く前に、わたしなりの、限界集落といういい方に対する疑念を述べてみたい。
 集落(村落)の人口が減少し、住民の高齢化が進み、やがて集落(村落)の存続が難しくなることを、〈限界〉という言葉で形容することに、行政側の思惑が潜在しているように感じられて同意できないのだ。
 なによりも村落共同体が、明治近代化過程を経て衰退していくことになったことを、まず認識すべきである。それは、敗戦期を経て、戦後復興というかたちで進められた高度経済成長下で、さらに加速されていったといえる。幾つか象徴的な事例を挙げてみる。ダム建設の推進で、ダム湖に消えた集落が、どれだけあったかを考えるべきなのだ。あの成田空港建設においても、農家の土地を簒奪し、集落(村落)を解体させていったことも、付け加えるべきかもしれない。極めつけは、平成の大合併だ。村という最小単位の自治性を解体して、町や市へ吸収させたことで、ますます集落(村落)の存立を弱体化させたことだ。もはや、過疎化した村落は、その共同性を持続させていくことは困難だといえる。歯止めも活性化も、その方途はなかなか見出すことはできないのが現在という場所なのだ。
 よく考えてみれば、大都市圏以外の地方都市も、同じような情況を強いられている。シャッター街状態の小都市は、もはや特異な事態ではなく常態化しているといえるからだ。いったい、緊密な関係性を連携すべき最小単位の共同体という有様は、やがて消失していくしかないのだろうかと暗澹たる思いになる。このような感慨のなか本書を読み進め、学生たちの思いに接し、まだまだ、狎篷将瓩垢襪里倭瓩い覆抜兇犬燭箸い辰討いぁ3萋阿両楮戮蓮∨椽颪鮗蠅砲箸辰篤匹鵑任發蕕Δ箸靴董学生たちによる住民たちとの応答を引いてみる。
 「―辻又に住んでいて良かったと思うことは?/水落『自然にしたがって生きられること。人間関係が都会と比べてややこしくないし、農業は自分のやりたい時間にできるからね。(略)』/(略)/―辻又で復活してほしい行事はありますか?/水落『昔から伝わる伝統の踊りや歌を守っていきたい。無理かもしれないが、山の資源がお金に換わる時代になってほしいね。そして村のなかで子どもたちの声をたくさん聴きたい』」(水落義太郎・81歳、聞き手・大嶋杏奈)
 「幸せだと感じるのは、自然がのどかで、自由なところかな。いまもここに住んでいる理由としては、そうだな、まあ、しょうがなくて住んでいるかな。」(佐藤眞一・65歳)
 「今は毎月1回、集落の常会があって、それが楽しいね。みんな一緒に集まって話をしたり、困りごとの相談とか、まあいろいろだなあ。良いことも悪いこともあるさ。」(佐藤重夫・85歳)
 村落的な共同性は、一見閉じられた有様に思われるかもしれない。濃密な関係性によって個の自由がないとも。それはある種の偏見であることを、辻又の人たちが述べていることで理解できるはずだ。「自然にしたがって生きられる」「人間関係が(略)ややこしくない」「幸せだと感じるのは、自然がのどかで、自由なところ」「みんな一緒に集まって話をしたり、困りごとの相談とか、まあいろいろだなあ」といった言葉のなかに、いわゆる共同体に潜在する相互扶助性というものが、辻又にはあることを示している。編者たちは、最小の「情報システム」は、「人と人との『コミュニケーション』で」(大嶋)あると述べているが、森本祥一は、さらに「私たちのような外部のものが入り込み、情報の循環を促すことが必要になります。私たちが媒介となることで集落の住民同士が話をする機会を増やしたり、集落内の情報を掘り起こして伝えたりして、集落内での情報の循環を回復させます」と言い添えている。
 辻又では「昭和の時代には祭礼興行を行ってい」て、「踊りや演劇、唄、芝居をやり、プロの浪曲師を呼ぶこともあ」ったようだし、「江戸の頃は、辻又神楽舞や辻又花火、辻又歌舞伎などの興行もさかんだった」という。「昔から伝わる伝統の踊りや歌を守っていきたい」と語る住民の声に応える方途を考えていくことも、コミュニケーションであるといえるはずだ。
 学生たちが巻末座談会で語っていたことが、印象的だった。
 「自分の中では『集落』に『昔のもの』という偏ったイメージがあって、そういう共同体が存在していることが逆に新鮮でした。」(井上智晶)
 「(引用者註・活性化は必要かどうかということにたいして)今の生活を維持できる何かしらの対策は必要だと思いますが、それ以上の活性化は逆効果な気もします。」(大嶋)
 彼ら彼女らが、辻又集落の住民たちとの交流を通して得た経験を未知の共同性の有様へと繋げて欲しいと思う。

(専修大学出版局刊・16.7.28)

 Yoga教室は、四月になれば、三年目に入ることになる。時間が経つのは早い。なにひとつ、運動系(誤解のないようにいえばスポーツとか純粋に身体を動かす行為を意味している)のことをやってこなかったものにとって、奇跡的な二年間といえるかもしれない。この間なにか、心身に変化はあったのかと問われれば、よくわからないとしか、いいようがないし、だんだん身体を動かすことにキツサを感じるようになっているのは、確かなのだが、週に一度、往復40分超を歩いて通っていることは、なにがしかの効果はあるに違いないといい聞かせている。
 二年も続けてこれたのは、Yogaの固定した自分のイメージを払拭させて、“気楽”に、参加できる雰囲気を作ってくれた講師の方の存在が大きいといっていい。その講師の方が、事前に伝えられたから、ココロの準備はできたのだが、先週、用事があり、初めて代行の講師の方が来ることになった。Yogaには、様々な流派のようのものがあり、また、講師それぞれの考え方によって、違いがあることは理解していたつもりだったが、代行の講師の方は、ある意味、わたしが教室に通う前に抱いていたYogaのイメージに近いものだった。呼吸を丁寧にしていくことを伝えながら、静かに身体を動かしていくことを基本に据えていたように思ったからだ。だから、ポーズの数は、それほど多くはないから、濃密といっていいかもしれない。どちらがいいとか、自分には合っているといったことをいえるほど、Yogaを極めているわけではないから、なんともいえないが、結局、ある種の慣れの様なものがあるから、どうしても、代行の方のやり方に若干、戸惑ってしまったということになるかもしれない。
 さて、ここからが本論だ。今週、初めて、当日、事務所から電話が入り、急遽、休講になったのだ。講師の方にどんな不都合があったのかは分からないが、そういう事態は初めてだったので、不安感を抑えることが出来なかった。今週から新年度の申し込みが始まったので、講師変更があれば、嫌だなと思いながらも、手続きはしたのだが……。来週は果たして、講師の方と一緒に出来るのかどうか。

※【追記・3.7】無事(!)に講師の方が復帰された。やれやれ。

樋口一葉 原作・千明初美 漫画『漫画版【文語】 たけくらべ』
(「図書新聞」17.1.21号)

 樋口一葉という作家の有様にたいして、わたしは、ただ直截に二十四歳で夭折した女性という視線で確定させてきたように思う。それは、作品自体にしっかりと接してこなかったことに由来する。擬古文に馴染めないものにとっては、『たけくらべ』や『にごりえ』という作品は、やや難渋な感覚を強いられるからだ。しかし、本書は、あえて文語体(ただし原文にない言葉を口語文にして適時に組み込んでいる)のまま、漫画作品として編集しているから、本書の「解説」で三田誠広が述べているように、「コミックのようなコマ割りに適度に配置された擬古文が心地よく、作品の中にたちまち惹き込まれるような効果を」放っているといっていい。漫画(画像)の力といえば、それまでかもしれないが、千明初美の柔らかな描線は、一葉が紡ぎだす明治中期の吉原遊郭周辺の人々の暮らしと佇まいを、鮮鋭に表出しているからだといえる。なによりも、登場人物たちの描像が、千明漫画によって、地の文との共鳴を引き出し、少女・少年期独特のイノセントな情感を醸成させているのだ。
 12Pから33Pまでの育英舎に学ぶ子供たちを一気に描いていく場面は、物語の核となる美登利、信如、正太郎、長吉、三五郎たちの関係性を浮き上がらせ、しかも、擬古文の読みづらさが、いつの間にか気にならず、読み通せたような感じにさせるのは、漫画的膂力という他はない。特に、美登利を描像する場面(23P)は、圧巻だ。画面上方、美登利の顔のアップを挟むようにして、右上に、「解かば足にもとゞくべき/毛髮を、根あがりに/堅くつめて前髮大きく/髷おもたげの――」を配置し、左上に、「色白に鼻筋とほりて、/物いふ聲の細く罎靴、/人を見る目の愛敬ふれて、/身のこなしの活々したるは/快き物なり。」を配置している。下方には、美登利の歩いている姿を町の若者が見ているカットを置き、「大邁阿糧登利 十四歳」(原文になし)を右下に、「へえ…/きれいな/子だ」(原文になし)、「今三年の/後に見たし」と、左下に、爐佞だし瓩鯑れている。長いセンテンスで続く原作と違い、改行されることで、リズム感のようなものが滲み、三田が述べているように、擬古文が心地よく感じてくる(つまり読めるような感じがする)から、やはり、視覚的なものは、大きな意味を持っているということになる。
 わたしは、共感する漫画作品を小説作品と同様の位相で読んできた。つまり、自分が評価する表現作品をカテゴライズしたことがないということだ。小説や短詩型、さらには漫画(劇画)、映画、音楽、絵画であっても、それぞれのジャンルとして見做すのではなく、例えば、つげ義春の作品と、漱石の作品を同等に見通すということである。文学的な名作を漫画にして刊行する場合は多々あるが、それ自体を否定するつもりはまったくない。ただし、本書のように、一葉の作品世界の情感と、千明初美の漫画的表現が、見事に共振、共鳴し合うことは、もしかしたら、稀有のことなのかもしれない。
 十三歳から十六歳の少女・少年たちの、それぞれの数カ月の時間を描出する物語の最終場面は、深い予兆を湛えたものになっている。
 「或る霜の朝」「寒いと思つたら/庭に霜柱が…」「白水仙の作り花…」「いつたい誰が…」「何ゆゑとなく懐かし」「誰やらに似かよふ」「淋しく罎姿…」「聞くとも/なしに/傳へ聞く、」「其明けの日は/信如が/何がしかの學林に/袖の色かへぬべき/當日なりしとぞ。」
 右頁(144P)に、美登利の哀しげに俯く顔のアップ、左頁(145P)には、信如の後ろ向きの袈裟姿。そして、右下に「水仙の作り花」の一輪挿しのカットを入れた最終面で『漫画版【文語】 たけくらべ』は、閉じていく。
いずれ、美登利は、姉と同じように「大邁亜廚陵圭となり、信如は僧侶となって、二人は会いまみえることはないのだ。少女・少年期の淡い恋情を物語っていく一葉の作家としての深い表現性は、わたしが拘泥していた夭折した女性作家などという教科書的な視線を、見事に解体してくれるものだといってもいい。
 鷗外が『舞姫』を発表したのは、五年前の明治二十三年だ。漱石が熊本の第五高等学校に赴任したのは、一葉が亡くなった明治二十九年(1896)である。漱石が、初の小説作品『吾輩は猫である』を発表したのは九年後の三十八年のことになる。
 『たけくらべ』は、雑誌「文學界」(1893〜98)に発表、断続連載されものだ。「文學界」は、いまさらここで説明するまでもないかもしれないが、上田敏、北村透谷、島崎藤村、田山花袋、松岡國男(柳田國男)らが集結していた月刊文藝雑誌であった。一葉がどんな場所で表現していたのかを想起してみるならば、漱石、鷗外とはいわないまでも、明治期文学として、もっと高い評価を得て当然だと思わないわけにはいかない。
 さらに、もう一つ付言しておきたいことがある。わたしにとって、千明初美は、まったく未知の漫画家であったが、七十年代、雑誌「りぼん」で活動していたことを本書の奥付で知ったことになる。実は、いま思いがけない機縁を得たことがわかったのだ。わたしが、デヴュー作『絶対安全剃刀』以後、全作品を愛読している漫画家・高野文子が敬愛してやまない作家だったということだ。近々、高野文子の企画・監修による千秋初美の復刻版作品集が刊行されるという。
 このようにして、本書を通し多くのことを喚起されたと、強調しておきたい。

(武蔵野大学出版会刊・16.9.20)

 Yogaシリーズの文章を八か月ぶりに再開する。友人に、Yoga話を最近アップしていないが、もしかしたら、もう止めたのかといわれたからだ。“遠く離れてみれば”、とすることで気楽に何かを綴ることができるのではないかと思ったのだが、生来のナマケ癖(わたしは、けっして文章を綴ることが好きなわけではないのだ)が、なにも書かない、書けないまま時間だけが過ぎていってしまったということになる。
 いま、あらためてYogaを始めて、なにか効用があるのかと考えてみると、不思議なことに、深酒しても、あまり気分が悪くならなくなったということに、最近、気がついた。だからといって、酒量が増えたというわけではない。自分でも、よくわからないのだが、とにかく、いわゆる、二日酔いというものが、極度に減ったといっていい。敢えて、効用といってみたが、本当は、そういうことではないと思う。極めて、不完全なYogaを実践していると自覚するものとして、効用などといってはいけないと思うからだ。それでも、週に一回、一時間、呼吸のタイミングを気にしながら、自分の体を動かすということは、これまでの自分の身体の時間性のなかでは、ありえないことだったし、特筆すべきことなのだ。
 わたしは、率直にいえば、Yogaをやっているなどとは、とてもいえないと思っている。それでも、Yoga的なものに馴染もうとする自分を確認することに、なにがしかの感応を覚えるのだ。錯覚だとは、理解しているつもりだ。なんとなく、〈酒〉を、心地よく飲めるような気がするから、それが恐いといえば、そうなのかもしれないが、だからといって、健康的になったなどとは、まったく考えていないのだが、それでも、どこかで、溜飲を下げている思いはある。

白石成二 著
『教養としての日本史―古代の歴史から日本の今を見る[上・下巻]

(「図書新聞」16.12.24号)

 総頁数が千頁を超える大著を前にし、圧倒されながらも、まず一瞬、考えてしまったのは、書名に冠した犇詰椶箸靴騰瓩箸いΩ斥佞世辰拭狠里箸靴騰瓩發修Δ世そのようないい方をされると、わたしは、直ぐに、犇詰椨瓩筬狠劉瓩鮨箸砲弔韻燭らといって、たいしたことはないんだといいたくなってくるからだ。しかし、ここでの犇詰椨瓩砲蓮表層的な装いから最も遠くにある、自らで考え思考していくことの意味が含まれていることを著者の次のような視線によって理解することになる。
 「本来歴史とは、歴史家に固有な問題意識と基準によって方向づけられた意欲的な選択の行為であるが、それが忘れられ、今日に至っている。現在の様々な問題についても『現代史が専門ではない』として目をそらすわけにはいかない。(略)歴史家の網野善彦氏は、歴史学の現状が個別分散化の傾向が強くなっていることを憂いながら、個別研究の前提として全体の歴史をどのように考えているかという見方が必要であるという。だから『すべての歴史家が通史を書くべきである』と指摘しているが、そこには網野氏がかつて高校の歴史教師として自らが日本の通史を教えてきた背景があると思われる。網野氏の著書が歴史研究者だけでなく、多くの一般読者にも受け入れられたのは、歴史を俯瞰する『史観』を提供していたからだと思われる。」(「序論」)
 「史観」といえば、なにやらイデオロギーの色彩があるかのように思えるが、それは違う。網野が戦後、いわゆる歴史学界のなかに身を置いたころ、マルクス主義史学が主流であった。そこでどのようにして自由に思考していくかという格闘によって、独自の網野史学を構築していったからだ。著者が網野を援用して述べる、「歴史を俯瞰する」という視線こそ、研究者たちだけの問題ではなく、わたしたち自身にも切実なこととして考えていくべきことなのだ。
 だからこそというべきか、著者によって編まれる狷本史疔椶蓮独自の世界を展開している。全七編に分け、それぞれ以下の表題を付している。「第一編 宗教・思想」、「第二編 衣食住の歴史」、「第三編 年中行事」、「第四編 古代の人物評伝」、「第五編 動物たちの歴史」、「第六編 社会生活・社会問題」、「第七編 日本人の心性と日本人論」というようにである。
 第一編では、仏教や神道における受容の時間性を辿りながら、「靖国」へと論及していく。
 「戦死者の多くは家の墓や仏壇で祭られるだけでなく、各都道府県単位の護国神社で祭られ、さらには靖国神社で祭られるという多重祭祀である。普通の死者は家の墓に入れば、それで終了となるという単一祭祀である。戦死者に対し多重祭祀が自動的に行われていることに私たちはほとんど自覚していない。(略)いとも簡単に人が神になるとする精神性は、それが個人や神祭りに限定されるのであれば別に問題ではない。(略)招魂慰霊の儀礼によって創り出される神々は、その創出も祭祀も解釈も、その時々の人間の利害関係によって平和祈願のみならず、戦意高揚や戦勝祈願や戦死美化などの意味づけが無限に拡大されていく宿命にあるのであり、その特徴をしっかり認識しておく必要があるのである。」
 「靖国」問題を、著者のように述べるならば、たぶん、多くの人は素直に理解できるのではないかと思う。わたしは、「多重祭祀」ということにこそ、重大な矛盾を孕んでいると考える。例え戦地に行ったからといって、一人ひとりの死は、個的な死であって、国家の一員であるという位置づけで国家祭祀のなかに取り込むことには、無理があるといっていい。ましてや、戦地での死者の多くは、食糧難や劣悪な環境の中に置かれたための病死であることを思えば、見殺しにした国家によって、「戦死美化」なんかにされたくはないはずだ。
 「『日本書紀』という書物は大変やっかいな歴史書である。それは史実を公正な立場でしるしたものではないから」(「第四編」)だという確かな視線の先に、歴史の深層を切開していく著者の鮮鋭さが際立っていく。
 「そもそも人の年を満年齢で数えるようになったのは、アジア・太平洋戦争後のことで、たかだか七十年余の歴史しかない。(略)数え年を廃止し満年齢とすることは、実は国家の有様に関わる大きな問題が背景にあった。(略)中国の方式を天皇制の導入と共に取り入れ、独自の元号を作り、毎年の元旦に朝賀の儀式が行われた。したがって正月の元日は単なる年の始まりではなく、天皇によって定められた暦の元日であり、(略)天皇の下にある者は皆この日に年を重ねたから、元旦は日本人全員の誕生日だったのである。(略)つまり数え年は天皇を主権者とする国家の仕組みの中に位置づけられていたのである。」(「第六編」)
 数え年が満年齢へと移行していく問題と元旦(元日)の位置づけをめぐって、天皇制を浮き彫りにさせながら展開していく著者の思考の有様に共感したい。例えば、かつてわたしに、元旦に餅を雑煮にして食することは、天皇制に関わることだと教えてくれたのは、村上一郎であった。わたしたちは、長年に渡って続いてきた正月の風習を、日々生活していることの連続性のなかに見出す限り、天皇制が作り出したものかどうかなど、関係はないといっていいかもしれない。だが、居心地のいい関係性が、なにかの契機によって、醜悪で頑強な集団性に転化してしまうことを忘れてはならないのだ。
 「歴史はナショナリズムと密接な関係がある。自国を等身大以上に美化しようとする傾向や手軽な物言いは人の心をくすぐる。それは今も変わらない。しかしそれは自分たちが『見たい歴史』に他ならない。その心地良さの裏側には排除と対立が見え隠れするが、『教養としての日本史』はその対極にある共生と融和を目指すものである。共生と融和の歴史を多くの人が『教養』として共有するならば、ささやかでも今の社会に資することができるかもしれない。」(「第七編」)
 著者が、「心地良さの裏側には排除と対立が」潜在していると指摘していることを、切実なこととして考えていくべきだと思う。そして歴史の網の目を、自分自身の眼を通して解きほぐしていくべきなのである。

(創風社出版刊・16.9.25)

 遠矢さんの作品「さらばミラボー橋」を読んだ。文字と文字の間から、遠矢さんの〈声〉が聞こえてくるようだった。この作品は、九十年代に発表したものを、04年7月と05年1月に改稿されて、塙さんと小川さんたちの雑誌に掲載されたものだ。時系列的にいえば、わたしが、初めて遠矢作品に接した第二作品集『ぺちゃんこにプレスされた男の肖像』(04年3月刊)の後ということになる。そこに、なにか不思議な因縁を感じる。そして、十数年振りに、「風の森」に再掲載されることを、遠矢さんは、どんなふうに思っているのだろうかと聞いてみたかったのだが。
 第二作品集に収められている諸作品に比べて、「さらばミラボー橋」は、硬質さが、やや抑えられているが、沈潜する思念とでもいうべきものは、より鮮烈に描かれているといっていい。渡瀬、キーコ、おやじ、それぞれの描像が実に魅惑的なのだ。舞台は、あの五月革命が生起した68年、パリだ。

      ※

 わたしは、遠矢さんの幅広い関係性のなかでも、最も遅くに知りあっている。通交した時間としても十二、三年ほどでしかない。しかし、いろんな意味で濃密であったと思っている。
 わたしが、作品集『ぺちゃんこにプレスされた男の肖像』を「図書新聞」紙上で書評したことが契機だった。共通の知人(わたしにとっては友人)を介して、遠矢さんの方から連絡をくれて、国分寺の喫茶店で会ったのが最初だった。三、四時間は話しただろうか。様々な話のなかで、シャンソン歌手を仲間で応援しているということを聞いて、驚いたものだった。わたしは、シャンソンは嫌いではないし、比較的、聞いている方だが、なんとなく、自分自身の思い込みで、シャンソンを聞いていると公然といいにくいものがあると考えていた。遠矢さんは、レオ・フェレ(1916〜93)という名前を挙げ、パリ五月革命に連帯したアナキストでシャンソン歌手であることを説明してくれる。アポリネールの「ミラボー橋」に曲をつけて発表したのが53年の4月のことだ。遠矢さんによると、日本でレオ・フェレを唄うシャンソン歌手はほとんどいないが、唯一、若林圭子さんだけで、その若林さんを応援しているのだという。その時、まさか、わたしも若林さんに関わっていく、狠膣屬琉貎有瓩砲覆襪箸蓮¬瓦砲盪廚錣覆ったといえる。
 07年3月、遠矢さん、Mさん、Nさん、そして、わたしの四人が主催して若林さんのライブを小さなスペースではあったが、行った。まさか、シャンソンのライブをやってしまうとは、遠矢さんと会うまでは、想像できなかったことだ。

      ※

 清掃車の臨時雇いとして働く渡瀬は、パリで、「キーコという女との同居生活」を始める。だが、「一緒にくらしたのはわずかだったが、しばらくの間にすっかり耳になじんだ『ミラボー橋』のメロディを残して、ある日彼女は」、「わたしたちの『レオ・フェレ戦線』のために、民衆の新しい革命のために、大切な資金として拝借していきます。どうしても今必要なのです。どうか悪く思わないで下さいね」と書置きを残して姿を消した。キーコの奔放な振る舞いは、遠矢さんの筆致にかかると、愛おしさを感じさせるのだ。やがて、再会することになるのだが、キーコは歓楽街に佇んでいた。キーコは渡瀬を犁勠瓩箸靴童做さず、『自由のために闘い、愛のために死ぬ娼婦解放戦線』というパンフを彼に渡して立ち去っていく。キーコをめぐる描写は、苛烈な言葉と行動のなかにあるのだが、どこか、爐曚里椶劉瓩箸靴織ぅ瓠璽犬鬚△燭┐襦牋Δしさ瓩任△蝓↓爐曚里椶劉瓩箸いκ薫狼ぁ△燭屬鵝△海里海箸、遠矢作品独特の硬質さをいい意味でやわらげて、作品の奥深さを読み手に感受させているといいたい。

      ※

 遠矢さんとは、高尾山のビアガーデン行が忘れられない。他にK神父、Nさんら四、五人で毎年夏に誘われて出かけたものだった。遠矢さんは、わたしのような酒飲みの酔っぱらいとは違い、ビールを淡々と飲み、つまみもそんなに食べるでもなく、しかし、話し好きだから、会話は途絶えることはなかった。いまとなっては、どんな話で盛り上がったのかは、まったく覚えていない。ほんとうは、遠矢さんは、K神父とNさんとやっている読書会というか、研究会に、わたしを誘いたかったようだ。しかたがなく一、二度顔をだしたことがある。わたしは、元来、勉強会や研究会の類は好きではなく、本を読むなら一人でするものだと思っていたから、遠矢さんには申し訳なかったなと、いま思い返している。

      ※

 作品で描かれている68年5月、わたしは、その頃どうしていただろうか。遠矢さんは三十歳だ。もちろん、パリには行っていないはずだ。わたしは、東北の日本海側の高校を卒業して上京、予備校生という身分だった。前年の67年10月8日に新左翼諸派による羽田闘争があり、全国的な学園闘争が拡がりを見せていた頃だ。パリ五月革命は、よく覚えている。リーダー格のダニエル・コーン=バンディは、アナキストであったことを知って、強い関心を持ったからだ。彼の『左翼急進主義』は、直ぐに翻訳出版されたので、買い求めて読んだ記憶がある。調べてみたら、その後、ドイツの緑の党に関わったようで、大きく右旋回しなかっただけでも、いいほうかなと思ったりした。

 「学生達の蜂起は、社会革命の萌芽を射程にいれた全面的な民衆蜂起への深まりと成熟を夢想したまま、途絶しつつあった。」「『山猫ストだぜ。旗なんて必要かよ。CGTの汚れた赤旗なんぞ糞くらえだ』(略)『黒旗はどうかね。おやじの好きなさ』(略)『黙ってろ、お前ら。わしはな、赤でも黒でも青でもありゃせん。ただの人間だあね』不意にレオ・フェレおやじが、運転台のドアを半開きにし、顔を突き出すとユーモラスな調子で怒鳴り返しきた。」

 遠矢さんは、プライベート(家庭・家族)なこと以外は、よく自分のことを話してくれた。狎岫瓩筬狎牒瓩亡悗錣辰涜臺僂世辰燭海箸髻だから、心情的には、犢瓩坊梗个靴討い辰燭海箸覆匹鬚覆鵑粒囲△發覆年少のわたしに吐露していた。わたしは、指向性としては、犢瓩覆里もしれないが、敢えて恰好をつけさせてもらえば、このレオ・フェレおやじのように、「赤でも黒でも青でもありゃせん。ただの人間だ」ということになると思う。そんなようなことも、よく話して、遠矢さんと意気投合したことを覚えている。

      ※

 遠矢さんが、「風の森」に参加するようになったのは、東谷貞夫(筆名、伯爵・神山宏)さんの強い慫慂による。「風の森」にもう少し書き手を揃えたいと考えていた東谷さんは、わたしに誰か推薦したい人はいないかと何度も、尋ねてきた。当時は年四回発行であったため、遠矢さんにそれとなく打診したところ、幾つかの雑誌に参加しているため、年四回、「風の森」に作品を発表することは、長い付き合いのある他の雑誌に書けなくなってしまうということで、逡巡していた。半ば、強引に、「風の森」に傾注するように進めたのが東谷さんだった。
 よく、遠矢さんは、自分の作品の感想を聞きたがって、電話を掛けてきていた。遠矢さんは、わたしのようなものの感想を真剣に聞いてくれる人だった。だから、曖昧な言葉遣いはできなかった。
 「風の森」に参加するようになってから、東谷さんが、原稿に赤を入れてくると遠矢さんから電話が掛かって来たことがある。遠矢さんは、赤入れされることを憤っているのではなく、赤入れする根拠に納得できなかったのだ。後々のことになるのだが、二人はなんだかんだいっても、同志のような関係になっていくのだが、最初は、かなりぎくしゃくしていたように思う。もともと、その表現方法はかなり違うふたりだが、しかし、潜在する資質のようなものは、かなり重なるところがあるとわたしは思っている。東谷さんは、遠矢さんの作家性に惹かれるあまり過剰に立ち入ったともいえるからだ。電話好きの遠矢さんが、頻繁に東谷さんから長電話が掛かってきて大変だと、わたしに笑いながらいっていた表情が忘れられない。
 10年12月、「風の森」忘年会をかねて、遠矢さんの作品「路上の鈴」が、「まほろば賞」特別賞・五十嵐勉賞を受賞したお祝いを狷運涌貽鵜瓩如行った。場所は、東谷さんが贔屓にしていた新宿サントリーラウンジ昴であった。と、ここまで記すと、いかにも華やかなことだと思われるかもしない。
 遠矢さんらしいエピソードとして記しておきたい。忘年会とお祝いの会すべての費用は、遠矢さんが賞金から払ったのだ。発案者は東谷さんなのだが、彼がいうには、祝いの会など必要ないから忘年会だけにしようと遠矢さんは抵抗したらしい。結局、主賓がすべて負担する宴にすることで遠矢さんも納得したというのだ。その時の集合写真から120Pに顔写真を掲載した(提供は越田さん)。

      ※

 わたしは、創作をしないから、勝手なことをいっているだけだが、作家には、中・短篇作品をテリトリーとする人と、長篇に拘泥する人がいると思う。同人雑誌を発表の場にすると、どうしても、長篇作品はなかなか掲載しにくいというのはわからないではない。遠矢さんが参加した頃は、年四回発行であったから、長篇構想のもとで、連作で中・短篇作品を掲載していったらどうですかと、提案したことがある。たんに、一読者としてのわたしが、遠矢さんの長篇作品を読みたいからなのだが、遠矢さん自身も、当然のこと、そういうことを考えていたようだ。ただ、モチーフをどうするかというのが、一番の難題だったと思う。いろいろ思案した結果、自伝的なことを書いてみようと思うと告げられた。複雑な出自や事情めいたことは、折に触れて話してくれたから、シンドイかもしれませんが、期待していますと応答したと思う。第13号(10年8月)から「夢遊の時代」が始まる。だが、思わぬ長期の入院生活によって、三回の連載で中断したことになる。

      ※

 今回、掲載することになった「さらばミラボー橋」は、偶然にも、遠矢さんから直接、別れを告げているような感じがしてならない。表題が、爐気蕕亅瓩箸いΔ海箸發△襪、作品の終景をいま一度、見てみれば、そう思うはずだ。

 「前方の路上で、バリケードに立てこもった学生や若い労働者達の隊列が、対峙するド・ゴールの武装部隊と正面衝突していた。勝敗はその時点で決まっていたのだ。人々は手にした石畳みの欠片や棒切れ、ガソリンの詰まったウィスキー瓶の類を握ったまま捨てようとしなかった。最後の抵抗は、苛烈さの度合いを深め、しだいに絶望の淵に沈んでいく。/『さあ、前へ出るぞ、わし等もな』おやじは笑いながら渡瀬の肩を叩き、ドアを開いた。」

 遠矢さんは、「さあ」という声とともに、「前へ」と進んでいったのだ。わたしには、そう思わせてくれる〈声〉が作品から聞こえてくる。

(『風の森 第二次第五号[通巻20号]』2016.12.20)


奥山忠信 著『貧困と格差――ピケティとマルクスの対話
(「図書新聞」16.11.26号)

 トマ・ピケティの『21世紀の資本』の邦訳が刊行されて、二年経った。出版直後の喧騒を思うと、メディアからピケティの文字を、あまり見なくなっている現在、さてピケティ評価というものは、どういうことになるのだろうかと思っていたところ、本書に接するという幸運に遭遇した。わたしは、何人かの論者のピケティ観のようなものを表層的に眺めただけだから、本当は、本書の評者には、相応しくないかもしれないが、書名と、副題のマルクスとの“対話”であれば、ピケティの思想の一端を掴めるのではないかと、読み進めていった。
 著者は、詳細にピケティの分析を論及しながら、極めて明快に、ピケティの思考の核心を切開してくれている。
 「ピケティの『資本』は会社の資本財だけではない。」「収益を生む資産は、すべて『資本』と呼ばれる。」「資本の概念を広げることで、資本を持つ人の力と資本を持たない人の力の対立はより鮮明になる。鮮明になるだけでなく、現代の格差の持つ理不尽さも浮き上がってくる。」
 ピケティの独自性は、多彩なデータを駆使しながら、マルクスのような資本家対労働者といった生産関係にフォーカスするのではなく、所得(資本)配分に視線をあてて現在を見通すところにあるといっていい。
 かつて、わたしたちは、中間層の所得が増えて、一億総中流社会に達したなどと喧伝されて、資本主義社会が福祉国家の様態へと進んできたと錯覚したものだった。しかし、そんな幻想は、バブル崩壊期を経て見事に霧消していったといえる。ピケティが示唆しているのは、高格差社会という現状であり、「上位10%が35%の所得を取得し、将来は45%にな」ると警告していると著者は述べる。そして、ピケティが提案するのは、「所得税に対する累進課税の復活」と「富裕税としての資本税」であるという。いわゆる、富の再配分ということになる。
 「ピケティの分析によれば、多くの人が資産を持つようになったのが今日の特徴である。ただし、富裕者と貧者では資産の格差が極めて大きい。労働所得の格差の比ではない。ピケティの資本税は、格差を是正し、透明性を高めるために富裕層に課す税である。」「ピケティとマルクスは、貧困と格差の問題に関して豊富な分析ツールを提供してくれた。日本経済の現状は暗く、うまい話は何もない。(略)国家の衰退を思わせる状況である。(略)崩壊の危機はもうすぐそこまで来ている。現実は小手先で解決できるようなものではない。」
 わたしは、著者に誘われてピケティの小気味よい分析と税に関する提案に、諸手を挙げて首肯したいと思いながらも、どこかで逡巡している自分を確認せざるをえない。均等な、あるいは平等な課税システムを導入したからといって、それが、格差を縮小したり、解消されていくものなのだろうかと思わざるをえないからだ。本書では、「貨幣の謎」と題した一章を設けているように、多様な経済システムが拡大しているなかで、貨幣(ドル)を交換価値の象徴と見做すことに限界が来ているといえるのではないだろうか。国家(あるいは政府・行政機構)が、経済を統制、コントロールしていくには、もはや不可能な領域に現在、達しているとみるべきである。富裕層に高い課税を課し、貧困層を無課税にしたとしても、格差は解消されない段階に来ているといえるからだ。「日本経済の現状」を著者は「国家の衰退を思わせる」と指摘しているわけだが、政治的な意味では、まだ、国家(政府・行政機構)は、存在しえても、経済システムに関していえば、もはや、国家は無化されてしまっているといっていい。そういうアンビバレンツな状態を、わたしたちは認識していくべきだと思う。
 「マルクスは、資本主義を歴史上の1つの発展段階として見ている。その意味は、一定の時期に形成され、一定の時期に終わりを迎えるという意味である。それは、人間が商品や貨幣や資本に振り回されることなく、経済を制御することのできる社会が到来するということである。これがマルクスの社会主義社会であった。」
 いつからか、世界の先進的な資本主義国家群は、超資本主義社会というかたちに変容されてきたといえる。そういう意味でいえば、マルクスが想起していたような資本主義社会はとうに解体してしまっているといっていい。現在の超資本主義社会がどこまで、変貌ではなく変容していくのかは、誰にも、想像できないだろう。
 ただし、わたしなら、反資本主義としての、「人間が商品や貨幣や資本に振り回されること」のない社会の到来を、いまだに夢想したいと思っている。

(社会評論社刊・16.9.10)

大澤広嗣 著『戦時下の日本仏教と南方地域』
(「図書新聞」16.11.5号)

 一九三一年の満洲事変を発端とした十五年戦争という悪夢のような歴史的時間の終焉から、七十年以上経ったことになるが、いまだに、中国や韓国とは、政治的な軋轢を残存し続けている。それは、十五年戦争の後半だけを切り取って、第二次世界大戦とか太平洋戦争といった歴史教科書的な言辞によって歪曲し、アジアへの侵略ということを被膜のように覆ってきたからだといっていい。そもそも、大東亜共栄圏という理念のもと日本帝国軍隊による北は満洲から、南は東南アジア諸地域に渡る侵略・統治政策が、やがて、アメリカとの対峙を生起したということを認識しない限り、アジア諸国との軋轢は無化されることはない。
 ところで、東アジアへの視線は、現在的な事象の大きさから多様な論議をなされてきたといっていいが、東南アジア諸地域に対しての、いわゆる南進政策を分析する論述には、わたしが接してきた限りでは、なにか曖昧性を払拭できないものが多いような気がしてならなかった。もしかしたら、暴論を承知でいえば市川崑監督の『ビルマの竪琴』(原作・竹山道雄)に象徴されるように、日本(人)への親和性を過大評価し、無意識のうちに聖戦のような幻想性を瀰漫させてきたからだといえなくもない。
 本書は、これまで論及されることが少なかった日本の仏教者たちの〈戦争協力〉に焦点を当てた画期的な論考集である。しかも、対象となる場所は東南アジア諸地域である。もちろん、一概に、〈戦争協力〉というものを、わたしは、断罪したいわけではない。協力には積極的な加担から、消極的な関わりまで多様なかたちとしてあることを了解したうえで、本書が提起する問題は、多くの示唆を有しているのだ。
 「戦時下に、日本の仏教界では、政府や軍部の命令により同地(引用者註=東南アジア)に日本人僧侶や仏教学者を派遣した。彼らは、武力進攻前に情報収集などの謀略活動に関わり、進攻当初における宣撫工作に従事して、占領後には宗教行政を担当する行政職員として着任し、仏教を通した文化工作活動の実施に協力するなど、随所で関わっていた。」(「序論」)
 なぜ、「僧侶や仏教学者」たちが、政府や軍部の命令に従ったのかといえば、「仏教宗派は、『宗教団体法』に基き設立認可を受けており、政府の指導監督下にあったためであ」り、「連合組織の大日本仏教会は、『民法』に基く公益法人として設立されており、当時の社会的文脈では、戦時下における国策に貢献する『公益』目的の活動が求められた」からだ。しかも、「各宗派の管長は、天皇から任命された勅任官という待遇を受け」て、「高級官僚と同等」(「結論」)の存在としてあったからだと著者は述べている。明治近代天皇体制というものは、薩長政権という独占的な支配システムを潜在させていくために、それまでの天皇制をディスコントラクションさせて、成立させたものだといっていい。多様な神道をすべて、天皇を頂点とした国家神道に統一していったように、諸仏教を天皇の勅命のもとに、国家仏教のようなかたちに再編していったことが、本書の中で論及されていく連合組織(大日本仏教会、国際仏教協会、仏教圏協会、興亜仏教協会など)の有様から見て取ることができるのだ。
 本書の中で、わたしが、最も刺激を受けた論考(「第三部 日本仏教の対南文化進出」―「第一章 真如親王奉賛会とシンガポール」)に関して触れてみたい。
 真如親王とは、「平安前期の第五一代平城天皇(略)の第三皇子で、出家前は『高丘親王』と呼ばれた。(略)出家して、法名を「真忠」と名乗った。後に『真如』と改め、(略)空海(略)に参じ、その十大弟子の一人に列せられ」、「求法のため、唐を経て、天竺(インド)へ向かう途中、『羅越国』で虎に襲われて物故したとされる。今日では、小説家の澁澤龍彦による絶筆『高丘親王航海記』のモチーフとして知られている」と著者は記述していく。「羅越国」は、ラオスという説が有力だったが、「マレー半島南端付近とする説が主流となっ」ていき、「日本がシンガポールを占領する前後から、同地が真如親王の終焉の地とする主張が増えて」、「記念建造物を求める動きが急激に高ま」り、「関係者によって真如親王奉賛会が発足」したという。そして、大衆文化や教科書にも採り上げられ、「戦争の進展に伴って、にわかに真如親王の存在が増大していった」ことになる。敗戦によって事業は中断したとはいえ、内外において天皇制を補強していくような神話づくりを行っていくことの様態を、あらためて考えてみるならば、「大東亜共栄圏」という虚妄なる理念の陥穽が露呈していくことがわかる。西欧列強へ対峙していくために、〈アジア〉という感性を紡ぎ出すのは、間違いではない。しかし、〈アジア〉はひとつという時の、ひとつは、みな同じということではなく、神国日本が先導していって、はじめてひとつになれるのだという錯誤が、天皇制という〈宗教〉を根拠にしていることを、わたしたちは、忘れてはならないと思う。

(法蔵館刊・15.12.8)

重村智計 著『日韓友好の罪人たち―学問的試論のすすめ
(「図書新聞」16.10.29号)

 わが列島と半島の隣国は、近くて遠い関係にある。だが、約一五〇年前までは、大陸の王国とともに友好なる繋がりを長きにわたって続けてきた関係にあったのだ。アジアの片隅の列島国家は、断絶させていた欧米列強との関係を修復した途端、アジアの盟主たらんと明治近代を疾駆していった結果、戦後七〇年間、半島の隣国との了解関係は、絶えず齟齬を生起し続けている。
 毎日新聞論説委員としてテレビなどで、歯切れのいいコメントと解説をわたしたちに提示し続けてきた著者による、日韓関係の過去から現在、そして未来へと向けた論集が、本書だ。そもそも、日韓の関係は、一五〇年の間に複雑な情況的事柄を包含しながら横断してきたことで、問題の所在をなかなか切開しにくくしてきたといえる。どこか、一点、特化してフォーカスしていくとするならば、わたしは、日清戦争を挙げる。朝鮮を清国の圧政から解放させるという偽善的な旗印で開戦し、結果、韓国併合という半島の統治体制を構築し、日露戦争、満洲事変を経て日中、日米開戦へとなだれ込んでいった。こうした、わが列島国家の敗残の歴史を、いま一度、深く考えていくべきだと、わたしなら、いいたいと思う。
 「『太平洋戦争の起源は日韓併合に遡る』と私は考えている。この認識は、日本人の常識にはなっていない。真珠湾攻撃(略)から、およそ三〇年四ヶ月前に、日本は韓国を併合した。この結果、国際社会の尊敬を失い、米英と中国、ロシアに『恐怖』を与え、彼らに敵対する『脅威』と認識された。(略)日韓の千年に及ぶ長い歴史は、『日本が朝鮮半島に軍事的、政治的に深く関わること』を戒めている。(略)韓国併合では、独立から七〇年が過ぎた今もなお恨まれる。/隣の国を併合し、植民地にしてはいけなかった。」
 三〇年以上にわたった統治した側と統治された側という列島と半島の関係は、なぜ、その後、七〇年経ても、親近なるものへと転換できなかったのだろうか。著者は、エドワード・サイードが提示した「オリエンタリズム」という概念を援用して、「日本的オリエンタリズム」という視線で論断していく。
 「私がこの本で取り組むのは、『国際政治としての韓国・北朝鮮問題』である。『国内問題としての朝鮮問題』ではない。『朴槿恵はひどい』、『金正恩は普通じゃない』と言って、日本人に同意を求めて干渉させようとする。/これが、『日本的オリエンタリズム』を生む。長年に渡り、雑誌『世界』と日本の多くの学者や知識人は韓国を『南朝鮮』と表記してきた。韓国に対する差別の表現であった。これこそが、『日本的オリエンタリズム』の起源である。(略)私は『日本的オリエンタリズム』による差別を指摘し、『差別と蔑視意識の解決』を目指している。(略)朝日新聞が『慰安婦報道』で謝罪した原因は、『新聞記者が運動家になった』ためである。また、『運動を真実と勘違いした取材力の弱さ』と言うしかない。/韓国の反日には、(略)多くの社会問題と『韓国病』が存在しているが、日本人には理解できない。(略)『日本語と韓国語は、語感と感情が微妙に異なる言語だ』との留保が常に必要だ。日本では、韓国や北朝鮮について、あたかも、自分の国かと勘違いして語る風潮が強かった。日本人が韓国の指導者を口汚く非難する。この心理の背後には、日本人の差別や蔑視意識がある。私は、これを『日本的オリエンタリズム』とする学問的分析を明らかにしてきた。/一方、韓国が求める『歴史認識』や『慰安婦問題』、『独島問題』は、『韓国的オリエンタリズム』であるうえ、韓国語の表現なのだ。」
 韓国との関係のなかには、確かに、北朝鮮を長い間、評価する一部ジャーナリズムと左翼的知識人たちの言説に影響された「差別と蔑視意識」があったし、独裁政権や軍部やKCIAなどの影の権力構造によって、非民主国家という偏狭な視線で韓国を捉えていたことは、否定できない。だが、著者の鋭利な論断は、「韓国的オリエンタリズム」というものをも浮き彫りにしていくことにある。つまり、わたしたちは、著者が提示する「日本的オリエンタリズム」と「韓国的オリエンタリズム」は、パラレルなものであることに喚起されて、ひとつの通路を見出すことを可能にしているといっていい。
 「日韓の歴史対立には、『歴史観の違い』が大きい。韓国は『歴史の教訓』を強調するが、日本は『歴史の教訓よりも事実としての理解』を強調する。『日本に支配された国民』と『戦争に敗れた国民』の歴史に対する見方は異なるのだ。」
 実は、「教訓」の源は、幻影に満ちたものであることを知るべきであり、「事実」というものは、いつでも都合よく改変されるものだということを認識すべであるというのが、さしあたって、わたしの捉え方だ。だが、列島と半島のパラレルな関係は、断絶させることのできないものだということだけは、確かなことだと強調しておきたい。

風土デザイン研究所刊(16.9.15)


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