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2018.02.17 Saturday

戦後における詩誌の始まりと渦動を丹念に辿り記述――      「荒地」と「列島」の間にある異和を象徴する戦後詩という迷宮

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    南川隆雄 著『いまよみがえる戦後詩の先駆者たち』
    (「図書新聞」18.2.24号)

     戦後生まれのわたしが、詩に強い関心を抱くようになったのは十代後半の時(六八〜六九年)だった。敗戦時から二十数年という時だったから、戦前期(近代詩というべきかもしれない)以外の詩人たちは、自ずと戦後詩人であり、戦後詩ということになる。現代詩という感覚で、同世代や幾らか先行する世代の詩人の詩作品を読むようになったのは、戦後詩の狎礼瓩鮗けた後、数年経ってからだった。そもそも、吉本隆明に誘われるようにして、「荒地」派の詩人、特に、鮎川信夫や田村隆一を知ったのが、わたしにとって戦後詩へ傾注していく大きな契機であった。そして、詩誌「荒地」は、埴谷雄高や平野兼たちの「近代文学」と拮抗する表現誌として、わたし自身のなかでは認識していくようになる。鮎川死後刊行された全集の第一巻の『全詩集』(八九年三月)は、全十章で、一九四六年から八二年までを発表順に七章まで収め、八章は「1937〜1943(戦中詩篇)」(年号表記はママ。以下同)、九章は「1937〜1981(拾遺詩篇)」、十章は「翻訳詩」という構成になっている。一章(1949〜1951)は、「耐えがたい二重」から始まる。詩誌「新詩派」(一九四六年七月)が初出である。
     やや迂遠したが、ここから、本書に分け入っていくことにする。戦後詩史という視線を持って、それぞれ個別の詩人たちの表現を辿ることも重要なことに違いないが、戦時下を通過しての戦後であることを考えれば、本書のように表現の場がどのようにかたちづくられ、どのような詩人たちが集い、切実に表現行為を再開していったのかということに照射していくことは、わたしなら当然のことのように思う。著者は次の様に述べていく。
     「戦後詩はそれが書かれた時代の作者の実生活と不可分に密着している。(略)実生活とは、占領下に与えられた民主主義と勃興する社会主義運動という環境下での衣食住の極端に欠乏した日々の暮らしである。そんななかで若い世代の詩人たちは詩に向きあった。さらに年長の先行の詩人たちは、戦前・戦時の仕事への批判と反省という重荷を背負った。戦後詩はこうした個人生活・社会生活のなかで産み出された。」
     このように、戦後詩が紡ぎ出されていく場所、つまり、戦後における詩誌の始まりと渦動を、著者は本書で丹念に辿り記述していく。そして、「戦後詩誌の嚆矢として」とりあげていくのは、北九州で発行された「鵬」(後、「FOU」)という詩誌だ。わたしにとって、まったく未知の詩誌であった。創刊号は、四五年十一月。しかし、「占領下に与えられた民主主義と勃興する社会主義運動という環境下」、やがて、編集代表者の岡田芳彦のなかで「イデオロギー重視の傾向」が、「ますます深刻」化していき、四八年九月、十七号で「唐突な終刊」を迎える。
     「鵬」の創刊後の翌年、多くの詩誌が各地で発行されたという。なかでも、同時期(四六年三月)に創刊された「新詩派」(編集代表、平林敏彦。平林は、後に伊達得夫が創刊した「ユリイカ」の編集に携わる)と「純粋詩」(編集発行、福田律郎)を著者は詳述しながら、「荒地」へと視線を射し入れていく。「新詩派」(同年六月号)には、「四二年に『寄港地』を発表して以来の長い沈黙を経て復員後の『田村隆一が戦後はじめて詩誌に発表した』」と推測できる「石」、「翳」の二作品が掲載された。そして田村との繋がりで翌七月号に、鮎川にとって戦後、初めて詩誌に発表した作品「耐えがたい二重」が掲載されることになる。「新詩派」は、四七年十一月、通巻第八集をもって終刊する。
     「純粋詩」の通巻第七号で、田村隆一の「審判」が掲載された後、四六年十二月発行の第一〇号に田村をはじめ、鮎川、木原孝一、三好豊一郎、中桐雅夫ら(後に北村太郎も参加)、「荒地」(第二次の創刊は、四七年九月)の面々が結集している。鮎川の詩作品に添って述べてみるならは、十一号に「死んだ男」、十七号に「アメリカ」と「『アメリカ覚書』」が掲載されている。この二作品は、「繋船ホテルの朝の歌」(「詩学」)や「橋上の人」(戦時下に出された三好豊一郎らの詩誌「故園」が初出だが、改稿して四八年「ルネサンス」に発表)とともに鮎川の初期における代表作群と見做された詩篇だ。
     「福田主導の『純粋詩』は二年目あたりから『荒地』グループの詩人を取り込んだ。戦後のこれらの詩人の出発に比較的安定した足場を提供した『純粋詩』の功績は大きかった。しかし『荒地』グループの撤退後、福田は左傾し、(略)『造形文学』と改題し、これには関根弘、長光太らが加わったが、一年余のちに(略)終刊となった(略)。その後福田を含む『造形文学』の同人の一部は五二年三月創刊の『列島』へと移っていく。」
     戦後詩が時代情況によって強いてくるものに対し抗えるか否かという分岐する様態を、「鵬/FOU」の岡田、「純粋詩」の福田に象徴的に表れているといっていいと思う。イデオロギー(あるいは皮相な思想)という自己表現(表出)と相反する方位へと向かう詩人たちがいたとすれば、それは、「先行の詩人たち」が背負った「戦前・戦時の仕事への批判と反省という重荷」を無化していくことになると、わたしは断言したくなる。
     「荒地」と「列島」の間にある異和を象徴する戦後詩という迷宮を、しばしば暗澹たる思いで感受してきたわたしにとって、本書に接し、多くの詩人たちの躍動する像を戦後詩の時空間として見通すことが出来たことは大きい。

    (七月堂刊・18.1.20)


    2018.02.03 Saturday

    民衆運動の理想的なかたち                          ――「希望を探り当て」ることこそ、これから先へ進む契機

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      高田 健 著『2015年安保、総がかり行動           ――大勢の市民、学生もママたちも学者も街に出た
      (「図書新聞」18.2.10号)

       安倍晋三の傲慢で強気な政権運営が続いている。わたしは、敢えて、ファシズム政権とか極右政権とはいわないことにしている。なぜなら、彼の場合、理念なき空虚な政治屋といっていいからだ。猴浩民営化瓩鉢爛▲戰離潺ス瓩鯊佝罎垢襪世韻任茲わかるように、いまでは、反原発を叫んでリベラル的なスタンスを取っている小泉純一郎と共通の因子を持っていると見做していいと思う。小泉(都知事の小池もそうだ)も、薄っぺらなスローガンを言うだけの理念なき空虚な政治屋にすぎない。
       民主党の自己崩壊によって、第二次安倍政権が成立したのが12年11月、一年後の13年12月には、「秘密保護法」を強行採決によって成立させ、15年9月には、集団的自衛権を形骸化させる戦争法案(安保法制)を強行採決、そして今年になって、共謀罪法案も強引に成立させ、この間、安倍シンパだった籠池に対する想像を絶する国有地払い下げの値引きを行った森友問題、猜⊃喚瓩陵Г経営する加計学園に獣医学部新設を優先的に容認するという加計問題など、“政治”とは、些かも関係のない行為が露わになってきている。それでも、先の衆院議員選挙で依然、案定多数の議席を獲得して、安倍は、さらなる長期政権を目論んでいるのだから、狎治瓩覆鵑討匹海砲發覆ぞ態だといっていい。
       ところで、大きな拡がりをもって反対行動を生起させた、戦争法案(安保法制)の成立から、既に二年以上、経過したことになる。著者は、その時の行動(闘争)を、敢えて、「2015年安保」、つまり、60年や70年の安保闘争を敷衍するかのように、「2015年安保闘争」と捉えていく。
       「『2015年安保』は安倍政権のいう『平和安全法制整備法』(略)に反対する運動で、たしかに日米安保体制、そのもとでの新ガイドラインの新しい段階での具体化に反対する運動ではあるが、直接に日米安保条約に反対する課題をかかげたものではない。/この『2015年安保』は日本の戦後の民衆運動史のなかで、『60年安保』『70年安保』につづく大規模な大衆運動であり、(略)一連の大規模な、全国的市民行動を総称したものと考えられる。/それだけにこの運動は多くの経験と教訓に満ちており、これを振り返っておくことは今後の市民運動の展開を検討する上で、きわめて重要だ。」
       著者がこのように述べながら、「総がかり行動」の軌跡を詳述していく。2014年12月、「約半年の準備期間を経て、『戦争をさせない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会(略)』が『戦争をさせない1000人委員会』『解釈で憲法9条を壊すな!実行委員会』『戦争する国づくりストップ!憲法を守りいかす共同センター』の3団体によって発足した」のだという。そして、これまでの「組織」よって「動員」する運動とは別に、「総がかり行動」という幅広い呼びかけによって、「インターネットや新聞行動を媒介にし」て、「個人の参加を容易にした」ことで、「従来、反戦平和運動に参加していなかった人びとや、かつては参加していたがその後、参加していない個々人に参加の機会を大量に提供した」と述べていく。
       確かに、組織型運動では、拡がりに限界はある。個々人の参加が数多く参加して、いわば、自然発生的に運動が高揚していくことは、民衆運動(著者に倣うわけではないが、敢えて、わたしは大衆運動とはいわない)の理想的なかたちを表わしているといっていい。
       ひとつだけ、どうしても述べておきたいことがある。安保法制(戦争法)反対運動を著者が敢えて安保闘争と称していることだ。改憲反対という考え方が悪いわけではない。「日米安保体制、そのもとでの新ガイドラインの新しい段階での具体化に反対する運動」であること、それ自体、むしろ、“日米安保条約”に密接に関わることだと思うからだ。つまり、“日米安保条約”やそれに付随する“日米地位協定”は、憲法違反というよりも憲法を超えた法体制であることを忘れてはいけないと思う。もっと、極端にいうならば、日米安保条約体制そのものは、九条を逸脱しているといいかえてもいい。可能ならば、もう一度、本来の反安保闘争を惹起すべく、民衆運動の可能性を探りたいと考えるのは、わたしだけではないはずだ。
       著者は、「あとがき」で、「私たちはあきらめていない」と述べている。あきらめることは、“希望”をあきらめることになる。直近で、“希望”という言葉が、政治屋のせいで手垢に塗れてしまったが、「希望を探り当て」ることこそ、これから先へ進む契機となることだと、著者は、本書で、わたしたちに伝えようとしているのだといいたいと思う。

      (梨の木舎刊・17.3.19)

      2017.12.30 Saturday

      〈情況〉へ相渉るとは

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        ……君との談論は二年ぶりになるけど、その間、安保法制や共謀罪の強行成立、モリカケ問題と永田町界隈は怒涛の有様だったな。聞くまでもないけど、先日の衆議院選挙は、もちろん行かなかったよね。
        ――当然、安倍VS小池の怨恨劇場は、パスさせてもらった。旧民主党の分裂にも全く関心がないからね。残念ながらというべきか、国政・地方に関わらず選挙は、生まれてこの方、一度だけ行ったことがある。丁度、今年の雰囲気と似ているから、あまり思い出したくないけどね。
        ……それは、初耳だ。驚いたな。いつなんだい、一度だけの失敗は(笑)。
        ――十二年十一月の第四十六回衆議院選挙だ。当時の滋賀県知事・嘉田由紀子と飯田哲也が結成した「日本未来の党」に、野田政権時末期の民主党を離党した小沢一郎らが結成した「国民の生活が第一」が合流、「卒原発」を旗印に百二十一人が立候補して、結果、九名しか当選しなかった惨憺たる選挙のときだった。見誤った自分が、情けなかったな。小沢贔屓の「日刊ゲンダイ」が百名は間違いなく当選して大きな反原発勢力ができるなんて、アドバルーンを挙げていたからなあ。まあ、飯田という男は、当時テレビによく出ていて、反原発の論陣を張っていたが、どうも目立ちたがり屋のようで、しかも小沢嫌いらしく、比例名簿の順位をめぐって提出時間ぎりぎりまで揉めたらしいから、「希望の党」の、倏喀瓩筬猗耄秉膂稔瓩、まるでデジャヴのようだね。小池の若狭のような存在といえば、わかりやすいかな。当人はもちろん、見事、落選したわけだが。
        ……そういえば、小池と前原を繋いだのが小沢だったという噂が随分あったな。まあ、途中から小沢も小池の頑なな姿勢に失望して距離を置いたようだけど。懲りない男だよな、小沢も。
        ――今回から、十八歳以上が選挙権を持ったわけだけれど、意外な結果が出ているよね。
        ……昔なら、若者の右傾化とか保守化というところだけど、確か、自民党への投票率が過半数を超えているらしいね。それが、高齢者になるほど、自民党への投票率はかなり下がっていると最近の新聞に記事が載っていたのを読んだけど。我々が学生時代の頃は、若者の左傾化、年長者になるにしたがって保守化していくという図式が定型だったけどね。
        ――本当に、そう捉えているのか知らないけれど、共産党や社民党は、主義主張が変わらないから保守なんだという見立てらしい。自民党は、改憲というくらいなんだから、変えてくれるという意味では革新なんだろうな。
        ……まあ、俺も別に左翼性や革新性に拘っているわけではないから、どうでもいいけど、安倍・自民党がカクシンなんてありえないよな。アメリカ国家の忠実な番犬であることを自負しつつ、アジアのなかでは日本国第一主義という確信(カクシン)犯ではあるけどね。それはそうと、君の高校の同期生でもあるカネダクンは随分頑張ったのに、小選挙区では辛くも当選したようだね。希望と共産が選挙協力していれば、当然、小選挙区では落選だったわけだけど。
        ――彼(アイツ)の話は、もういいよ。同期であることを知っている友人・知人からは、随分、言われたからね。イナダ某女といい、彼(アイツ)といい、政治家は理念(まあ、しっかり持っている政治家はほとんどいないだろうが)も大事だが、パブリックサーバントであることを、まったく意識していないから、上からの目線で自分本位のトンチンカンな応答しかできないということだろうな。
        ……まあ、それは、安倍が一番象徴的なんじゃないか。
        ――青木理の『安倍三代』(朝日新聞出版、十七年一月刊)によれば、学生時代、会社員時代と全く目立たない存在だったらしいね。政治的な発言もほとんどしなかったようだし。しばしば安倍の祖父は岸信介だったと喧伝されているし、本人も、それを自慢げに語っているようだが、岸は母方の祖父であって、安倍家直系の祖父・安倍寛は戦時下の政治家なんだけど、東條と対立して反戦の立場を貫いたらしい。父親の晋太郎は、よく知られているように温和な政治家然としていたし、竹下登、宮澤喜一と並び、自民党のニューリーダーといわれ、二人は首相の地位に登りつめたが、晋太郎は六十七歳で亡くなったことが、どんな影響を晋三に与えたかはわからないが、反面教師として見ていたのかもしれないな。まあ、言葉は悪いが、本質的にはマザコンの柔な男だとわたしは思うけどね。母親(岸の長女・洋子)は、八十九歳でいまだ健在のようだし。この『安倍三代』の書評で、中島岳志が、面白いエピソード紹介していたので、以下、引いてみることにする。

        「昨年の6月19日、安倍晋三首相は東京の吉祥寺で演説のマイクを握っていた。すると安倍内閣に批判的な市民が押し寄せ、『帰れコール』をくり返した。/しばらくは無視をしていたものの、我慢ができなくなった首相は、次のように言いかえした。『私は子供の時、お母さんからあまり他人の悪口を言ってはいけない。こう言われましたが、(略)妨害ばっかりしている人がいますが、みなさん、こういうことは止めましょうね、恥ずかしいですから』/私は首相が口にした『お母さん』という言葉が、どうしても気になってしまう。ここに露出したナイーブな幼さと、あの高圧的なタカ派イデオロギーのアンバランスに戸惑いを覚えるからだ。しかし、両者は一体のものとして安倍首相の人格を形成している。ここを読み解くことが安倍晋三を理解する鍵となる。」(「毎日新聞」一七年三月二十六日・朝刊)

         別に、「安倍晋三を理解」したからといって、〈情況〉へ相渉ることができるなんて思わないし、思いたくもないが、第二次政権になって、異様なほど強気に抗弁するのを見て、そのうち、また、政権を自ら投げ出すだろうと思っていたけれど、意外にも、持っているから(笑)、なぜなんだろうと考えている。どうも、かなりの投薬で身心を抑えているという噂を聞くけれど、それにしても自民党の他の政治家(国会議員)たちが、これまた異様におとなし過ぎるのも、実はよくわからないな。
        ……つまり、こういうことだよね。もう二度と、いや正確にいえば三度かな、下野したくないという思いが、多くの自民党議員に強すぎるんだろう。少なくとも、第二次安倍政権は、菅や野田の無能さや排除の論理(民主党政権成立の功労者である鳩山や小沢に対する距離感)によって政権の自壊があったとはいえ、憎き民主党政権から、権力を簒奪してくれたんだからね。よく、国会答弁で安倍は、野党に向かって、あなた方民主党政権の時は、こうだったが、わたしたちのいまの自民党政権は、これこれこうで違うんです、よくなったじゃないですかと、頻繁に述べるのを聞くに及んで、「他人の悪口を言ってはいけ」ませんよ、貴方の母上に言われたでしょうと言いかえしたくなるよね。
        ――唐突に、談論のテーマが移るように聞こえるかもしれないが、アキヒト天皇は、安倍が嫌いなんだろうな思うがどうだろう。安倍は、第一次政権時、戦後レジームからの脱却などと勇ましいスローガンを立てていたわけだが、だからといって、愛国教育といっても、戦前のような天皇を敬うとか、つまり天皇制には、あまり関心がないとわたしには感じられたね。
        ……たぶん、そうだろうな。それと、アキヒトさんは、いまの象徴天皇制を壊したくないのだと思うよ。象徴天皇制は、いうなれば、九条とともに、もっとも戦後レジームを象徴的に表わしている形態なんだから。
        ――しかし、アキヒトの生前退位は、意外に大きな波紋を投げかけたことになるが、安保法制や共謀罪反対と声高に叫ぶ陣営から、なんら反応がないのは、なぜなんだろうかと思わざるをえないな。メディアがあれほど、モリカケ問題について、一般の声を反映させようとしているのに対して、もっぱら識者の声や意見を載せて、穏当にこの問題を進めていこうとする意図が見えて仕方がないんだが。
        ……君の持論は、こうだろう。アキヒトさんの生前退位の声明は、象徴天皇制、つまり天皇制の永久不変で強固な存続を補強していくものだということになるのだろうな。もっと激烈にいうならば、なぜ生前退位ではなく、生前降下しないのかということなんだろう、君の思いは。
        ――もう、九年ほど前になるんだけれど、吉本(隆明)さんにインタビューした時、天皇制はこれからどうなっていくと思いますかと尋ねたら、次のように述べてくれたのが、いまだに印象に残っている。

        「いまはどうか、という問題になってくると、なにが違ってきたかといえば、ほとんどの問題が、それは皇室なら皇室自身の自覚の問題になっていると思います。/つまり、たとえば、『もう、こういう広いところに住んでいるのはやめにしよう』などという、自分たちの意思と自覚の問題に任せればよいのではないかと思います。ようするに任せておいて、もし、そういう気持ちまで持っていけないというのなら、いけないままでもいいということになります。/放っておくといえば、怒られそうですが、そのように任せておけばいいし、ことさらこれはどうだということは、もういいよという感じになっています。/これはぼくのような戦中派だからそうなのかもしれないけれども、それはご自分たちの自覚で、わたしたちはこういうところにはいたくないとか、いない方がいいのではないかとか、そのように家族、親族、周りの担当役人の間の協議でもってそう決めたらすぐやめて、元の京都へと行くかとか、あるいはどこかで楽しく暮らすということでいいと思います。/そうすれば、ぼくはまったく文句をいう気はないです。だから、いまはきっとご当人たちの自覚というか考え方次第の問題でいいのではないかと、というようになってきているといえます。僕はそういう考え方を持ちますし、また自分としてもそれがいちばんいいと思っています。」(『第二の敗戦期』十二年十月・春秋社刊、138〜139P)

         あらためて、いま読み返してみると、アキヒトさんの生前退位は、かなり思い切った〈自覚〉のうえでのものなんだろうなと思わざるをえないな。本当は、「どこかで楽しく暮ら」したいんだろうから、東京のど真ん中より、京都の御所の方が環境はいいし、暮らしに適しているのは間違いないしね。
        ……まあ、象徴天皇制の維持というよりは、アキヒトさん自身、天皇という存在性に、ある種の理想を仮託したいのではと思うところが、俺には感じるけどね。
        ――確かに、継体天皇起源説を意識したような、わたしたちには半島の方々の血も入っているとか、戦後憲法を大事にしたいと述べたり、アキヒトはヒロヒトの爐◆機△修Ν甍奮阿猟戚曚鮓凖匹垢襪のように、思いもよらない発言をしてきたのは認めざるをえないな。
        ……君が評価する原武史が、新聞紙上で鋭いことを述べていたね。
        ――そうだった。ある意味原則論なんだけど、確かに一理はあると思わせたね。要するに現憲法下では、天皇の国政への関与ができないのに、生前退位発言によって国政を動かしてしまっているということだよね。彼の発言をコンパクトにまとめてみれば、次のようになる。

        「私が知る限り、戦後、天皇が意思を公に表し、それを受けて法律が作られたり改正されたりしたことはありません」「今回の天皇の『お気持ち』の表明と、その後の退位へ向けての政治の動きは、極めて異例です」「本来は天皇を規定するはずの法が、天皇の意思で作られたり変わったりしたら、法の上に立つことになってしまう」「『天皇が個人として、当事者として問題提起することは憲法違反にあたらない』という意味の発言をした学者もいます。あれには驚きました。その結果、政治が動いてもいいとは」「日本国憲法の国民主権の原則との矛盾を避けるには、あらかじめ国民の中に『天皇の年齢を考えると、そろそろ退位してもらい、皇太子が即位した方がいい』という意見が広がり、その国民の『総意』に基づいて、天皇が退位するという過程をたどることでしょう。憲法は天皇の地位を『国民の総意に基づく』と定めています」(「朝日新聞」一七年三月十八日・朝刊)

         原の原則論は分からないわけではないが、そもそも戦後憲法は、犢駝韻料躇姚瓩亡陲鼎い得立したのではないのだから、誰もが思うように、わたしたちの、狒躇佞亡陲い騰畭牋未靴討い燭世ましょうとはならないよな。九条問題でも、安倍自民党側の発意や、意を汲んだ国民会議といった怪しげな連中からの動きはあっても、国民から自然に改憲しましょうというのは、ないに等しいわけだからね。そもそも、憲法なんて空気みたいなものだというのが、わたしの考えで、立憲主義とかいって、権力を縛るものだといった憲法解釈には納得できないな。わたしは、これまでことあるごとに述べてきたが、第一章第一条から第八条まで、「天皇条項」である日本国憲法を是とはしたくないな。第二章第九条の「戦争放棄条項」と、第三章第十条から第四十条までの「国民の権利及び義務」条項を「天皇条項」の前に配置して第一章、第二章とすべきなんだ。
        ……それは、分かるよ。それなら、「国民の総意」も現実味を帯びてくるよな。それと、アキヒトさんの時もあったらしいが、即位儀礼の大嘗祭の日程も、退位から即位のスケジュールに影響を与えているといった記事を見たような気がするけど。そもそも、明治天皇やそれ以前の江戸期の天皇は、大嘗祭を完璧に行ったとは思えないよね。
        ――そうだね。ある種の宗教的権威を付加するものであって、それは、時として政治的権力より上位に想起されるものだから、もし戦後憲法上の問題で天皇の即位儀礼を語るとすれば、違憲論が出てもおかしくないといえる。
        ……あと、女性週刊誌的な好奇心でいえば、雅子さんは、皇后にはなりたくないのではないかと思うが、どうだろう。
        ――皇太子妃といった立場だから苦しんだともいえるし、わたしには、あの二人の関係性は分からないなあ。かつて、オーストラリア人ジャーナリストのベン・ヒルズによる『プリンセス・マサコ』(〇七年八月、第三書館刊)という本を書評のため読んだことがあるが、ハーバード大から東大というキャリアを考えただけでも、外交官の仕事を夢みていたのは確かなようだ。皇室外交という空無な言葉で宮内庁側は強烈に説得したと書かれてあったな。それで、少しは心が動いたのと、当初反対していた父親が国連大使という飴によって説得する側になったのが大きかったようだ。しかし、皇室外交なんて絵に描いた餅で、要するに子供をしかも男子を生むことを強要されたようなものだから、雅子さんでなくても、心が病んでいくのは当然だろうね。
        ……なんだか、〈情況〉から、どんどん遠のいていく感じになったけど、まあ、君も健康には留意して相渉りあっていくことを願っているよ。

        (『風の森 第二次第六号[通巻21号]』2017.12.20)

        2017.10.24 Tuesday

        「天然自然と人間は一体なのだ」という認識を汲み入れるべきだ       ――自然をめぐる時間意識へアプローチしながら、切開していく

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          川村晃生 著『見え始めた終末――「文明妄信」のゆくえ
          (「図書新聞」17.11.4号)

           わたしは、パソコンを活用しているが、スマホ・携帯電話の類は持っていない。メールのやり取りは、パソコンで充分だし、通話に関しては家の固定電話で足りている。携帯電話が急激に普及しだしたころ、外を歩いていると、独り言をいいながら歩いていく人たちに遭遇して、度々、驚いたものだった。それが、携帯を手に持って話しているのだと認識するまでかなりの時間を要したことを思い出すが、最近、それ以上の異様な光景を見て、愕然としたことがある。スマホ・携帯(もちろんパソコンも)は便利なツールであることは、認めるし、わたしは科学技術の進歩をすべて否定するものではない。あくまでも、使う側の主体的な意志によって、利便性を生かすべきだと思っているからだ。だが、最近出会った異様な光景とは、大型店の前でスーツ姿の男女(勤め帰りか、出先から勤め先に戻る途中なのかは分からない時間帯だった)が、大勢、横並びになって、全員が一様にスマホを見ていたのだ。最初は、大勢の人がいたので、大型店の入り口前で、なにかイベントのようなものをやっているのかと思ったが、そうではなかった。「ポケモンGO」をやっていたことを知ったのは、それから何日か経ってからだった。
           「言葉が空洞化し、完全に無力化してしまったら、それは人間の社会ではない、(略)いまこの社会は、そこまで来ているのだが、当然のことながらその認識は薄い。(略)近時、それを裏付けるような現象が起こった。二〇一六年七月に起こったポケモン現象である。(略)『ポケモンGO』は、配信と同時に、昼夜を問わず、また子供のみならずいい年をした大人までが、スマホを片手に全国各地で探索が始まった。(略)公園といい神社といい、いそうな所を求めて人々の徘徊が目につく。(略)そしてついに、車の運転中、ポケモンに熱中するあまり、人を轢き殺すという事故まで起きてしまった。(略)こうした状況に鑑みれば、IT化の罪は重い。そして人類の歩みもそろそろ終末に近づいているように感じるのだが、困ったことにそれもだんだんと確信になりつつあるのである。」
           もしかしたら、わたし自身、あの異様な光景に出会わなければ、著者のこの記述に感応しえたかどうか分からない。それにしても、一年以上も異様な現象が続いているのだとしたら、それは、戦前期の大政翼賛体制下の異様な情況に通底していくのではないかといいたくなる。
           著者は、「文明妄信」によって、環境破壊(壊れゆく景観)を生起させている現在を、文学(古典から芭蕉、漱石など)を通し、自然をめぐる時間意識へアプローチしながら、切開していく。
           「(略)私たちはいま、いのちへのまなざしを閉ざしながら加速度的にいのちへの感性を鈍らせていると言えよう。それはいのちの虚失化ということであり、また別の言い方をすればいのちの不可視化とも生命感覚の鈍化とも言っていいだろう。」
           著者は、そのことを、〈生命リアリズムの喪失〉という言葉で括りたいとする。確かに、ほんらい人間という存在と自然というものは、切り離すことのできないものなのだ。もちろん、この場合、自然とは草花や木々だけではなく、人間以外のすべての生物(命あるもの)が含まれる。だから、自然とは生命活動によって形成されているものであり、それは、まさしく〈生命のリアリズム〉を表象しているのだといってもいい。
           本書の終章で、著者が、農本的ユートピア、あるいは農本的アナキズムを江戸期に提起した安藤昌益の「自然世」や「直耕」という概念に触れて論述していくことは当然のことだと、わたしには思った。
           「天地自然と人間は一体なのだという思想が、その基本に据えられているのである。また平野、山里、海浜とそれぞれの住む地域が異なれば、当然産出されるものも穀類、薪材、魚と異なるのであるから、お互いにそれらを交換し合って、過不足のないような生活を営むことができる。」「(略)誰もが耕して子を養育し、養育された子は長ずるに及んで耕して親を養い、子を育てる、この連続こそが人間の歴史だというのである。近代は余りにも、この繰り返しの歴史を軽視しているのではあるまいか。そこでは昌益の忌避し非難する欲望や搾取があまりにも突出し、いまを生きる人々の権欲があまりにも拡大されているように思われる。」
           ここまで、過剰な利便性のなかで生きているわたしたちが、後戻りして質素な生活をすべきだといいたいわけではない。すくなくとも、〈生命のリアリズム〉ということの内実、「天地自然と人間は一体なのだ」という認識を日々の暮らしの時間のなかへ汲み入れていくべきだと本書を読み終えて、わたしが切実に思ったことである。

          (三弥井書店刊・17.4.20)
           

          2017.08.26 Saturday

          西脇詩の世界を「再発見」                           ―――――西脇の生涯における「二度の大きなターニングポイント」

          0
            加藤孝男、太田昌孝 共著『詩人 西脇順三―その生涯と作品
            (「図書新聞」17.9.2号)

             わたしは、四十六、七年ほど前、たまたま偶然、小千谷を訪れ、西脇の生家を見ている。その頃、もちろん西脇順三郎(一八九四〜一九八二年)という名前は認知していたが、作品にはまだ接していなかった。現代詩はかなり読んでいたが、なんとなく敬遠していたというのが、正直な思いであった。後年、自分から進んでというのではなく、必要があって『ambarvalia』(一九三三年刊)を読む機会があり、その詩世界にたいし率直に共感を抱いたといっていい。その後『旅人かへらず』(一九四七年刊)を読み、戦時下を挟んでの空白期を経て、戦後、刊行された詩集の世界に親近感を持つとともに、かつて訪れたことがあった小千谷という場所を想起しながら様々なことを感受していったことになる。
             本書は、「新潟日報」紙に二〇一四年六月から一五年一〇月まで連載されたものを纏めたものだという。なによりも、ひとつの機縁を思わないではいられない。連載を始める前、二人の共著者はともに、「小千谷とロンドンという西脇の精神形成において重要な場所へ赴任することになった」(加藤孝男)のだという。本書は全4章の構成で第4章は、「西脇順三郎の詩の魅力をあじわう」と題して詩作品をめぐって論及している。第1章から第3章までを「西脇順三郎の魂にふれる旅」として、故郷・小千谷、留学先の英国、そして、帰国後、東京と最後の場所でもあった小千谷との往還にふれながら、その生涯を描出していくわけだが、著者たちは、西脇と同じ場所にいたという感慨が、「魂にふれる」といういい方に象徴化させていると理解できる。
             西脇に『超現実主義詩論』(一九二九年刊)や『シュルレアリスム文学論』(三〇年刊)の著書があることで、わたしが距離感を持ったことの所以だったように思う。ヨーロッパや日本のシュルレアリスムが、思想運動的な色彩を潜在させていくわけだが、西脇の詩表現からは、どうしてもそのことが繋がらないように感じたからだ。
            「詩を作るということは、時代感覚に鋭敏になるということである。『シュルレアリスムは一つの憂鬱である』とも西脇は述べた。そもそもこの運動は、フロイトの精神分析に影響を受けて、人間の無意識や夢といったものを描くことで、社会にからめとられてしまった意識を解放するところに意義を見いだしている。/その作詩法は、時に、無作為に言葉を連ねていくというような方法によった。しかし、西脇はこうした無意識によりかかった作詩法を批判し、独自な『超現実』の考え方を導いている。西脇が繰り返し述べるのは、人間がもっている習慣化した意識を打ち破り、新たなヴィジョンを描くことであった。そのために、遠く離れたイメージを連結して、詩を作れと言った。」(加藤孝男)
             この加藤の論述によって、わたしは、自分自身の異和感を払拭するとともに、「遠く離れたイメージを連結し」た『ambarvalia』(ロンドンで知りあい結婚したマージョリ・ビッドルと離婚した翌年の刊行ということになる)という詩集を直ぐに想起することになる。
             西脇の生涯に視線を向ける時、「二度の大きなターニングポイント」があり、ロンドン時代と、小千谷へ疎開することになった「四四年から四五年にかけての九カ月」だったとして、太田昌孝は、次のように述べていく。
             「私自身、四〇回ほど当地を訪れたが、小千谷を深く知れば知るほど、その民俗、伝統、自然が蔵する豊かな魅力に心打たれた。そして、この小千谷で一八年に及ぶ、青少年時代を過ごした西脇の精神的基層には、ほぼ無自覚的にこの雪深い町が持つ諸要素が滋養のように堆積していったのではないかと考えるようになった。(略)折口によって掘り起こされた日本民俗への関心が、実は自身のなかでたしかに堆積していたことを、西脇は小千谷での疎開生活においてまさに『再発見』した。『西洋と東洋の融合』という独自の詩的アラベスクを完成させることになるのである。」
             もちろん、ここで太田が指摘しているのは、『旅人かへらず』を想起してのことである。折口を始め、柳田國男との交流があったことを、わたし自身は、それほど重要視してこなかったが、大田の論及には承服せざるをえない。わたしは、一度しか小千谷に訪れたことはないが、それでも、自分が生まれた雪国・秋田と共通する情感を喚起されたことはいうまでもない。
             戦時下に詩は書かず、当然、戦争賛美詩とは無縁なかたちで、戦後、『旅人かへらず』を著したことの意味は大きい。
            「戦争であらゆるものが失われてしまった日本人にとって、想像力さえあれば、一篇の詩からでも夢を見ることができたのである。」(加藤孝男)
             こうして、本書は、わたしに、西脇詩の世界を「再発見」させてくれたといっていい。

            (クロスカルチャー出版刊・17.5.31)

            2017.07.29 Saturday

            なぜ、イスラム教だけが、絶えず排撃されるのだろうか         ――信と不信の狭間はいつだって鏡のようなものだ

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              ケヴィン・バレット 編著、板垣雄三 監訳・解説
              『シャルリ・エブド事件を読み解く
              世界の自由思想家たちがフランス版9.11を問う

              (「図書新聞」17.8.5号)

               シャルリ・エブド事件が、15年1月7日、パリで起きてから、二年半が経過したことになる。本書は、事件の深層を切開しながら、それが、01年9月11日のアメリカ同時多発テロから近年の「イスラム国(IS)」よるテロまでの連鎖を、イスラム過激派によるものとすることに疑義を呈していく苛烈な論考集である。
               わたし自身、シャルリ・エブド事件に関していえば、「攻撃から何時間もたたないのに、フランスの中で10万人以上の人々が集まり、その多くが『わたしはシャルリ』のプラカードを持」ち、四日後には、「約300万人がフランスで行進に加わり、うち200万人がパリで行進し」(ケヴィン・バレット)て、報道と表現の自由を叫ぶということに、ある種の異様さを感じてしまったといえる。風刺や諧謔によって特定の宗教を貶めることが、表現の自由といえるのだろうかということが、直ぐに抱いた疑念だったからだ。わたしは、無宗教者だが、どのような宗教であっても宗教を信じる人を批判したり否定したりは絶対にしない。信と不信の狭間はいつだって鏡のようなものだとわたしは考えているつもりだ。なぜ、イスラム教だけが絶えず欧米国家群から排撃されるのだろうか。
               「イスラム教の預言者に対する数々の攻撃は、この宗教と文化に対する絶滅を意図した、文化的ジェノサイドの一部ではないのか。多くのムスリムはそう考えている。」「イスラムに対する戦争が、元来、シオニストによるパレスチナのイスラム教聖地への侵略と占領の産物だったということは、ずっと議論されてきた。(略)シオニストによるイスラムの中心地の破壊が、一方に攻撃的拡張主義のユダヤ人ナショナリズムと、これに対応して生じてきた、基本的に防衛的な(ときに戦闘的な)イスラム・ナショナリズムと、の間の衝突を、必然的に引き起こすことになる。」 「イスラム教には、他の宗教を尊敬し、保護してきた長い立派な歴史がある。既存のどんな宗教であれ、宗教的人物であれ、それを冒涜することは、ムスリムにとって呪われるべきタブーである。」(ケヴィン・バレット)
               パレスチナにおけるシオニストを全面的に支援する欧米国家群にとっては、必然的にムスリムは敵となるわけだ。その論旨からいえば、バレットや本書の他の論者たちは、9.11も、シャルリ・エブド事件も、容疑者が直ぐに特定されたり、痕跡を残していることに疑義を呈しながら、事件の「でっち上げ」を主張していくことになる。
               執筆者の一人、元ホワイトハウス政策分析官のバーバラ・ホネガーは、「米国およびイスラエルのシオニストが、9.11事件を周到に計画して組織的に実行し、ムスリムの犯行としてでっち上げ、拡大中東地域のムスリムの領土を侵略・占領することを正当化して、イスラエル外交・安全保障の目的を達成しようとした」と述べながら、シャルリ・エブド事件に関しても、「『テロとの戦い』につきまとってきたパターンが繰り返されるのを見ることになる。9.11からロンドン地下鉄爆破事件、マドリード駅爆破事件、さらにはボストンマラソン爆弾事件まで、テロ事件に直接・間接に係わった者たちは、欧米の一つあるいは複数の犲0足畩霾鶺ヾ悗筏燭錣靴ご愀犬鬚發辰討い燭箸いΔ海箸澄廚斑任犬討い。スノーデンによって暴露されたアメリカのNASAによる個人情報監視システムがあれば、テロは未然に防げるはずだと思うが、それが目的ではないということは、ホネガーの論及が補強していくことになるといっていい。
               また、別の角度からの捉え方もある。周知のようにシャルリ・エブド事件は、「週刊紙オフィスを攻撃し、11人を殺し、10人に傷害、内5人は危篤の重傷を負わせ」、「別のもう一つの攻撃は、アメディ・クリバリという男が、ユダヤ教食品店で複数のユダヤ人常連客を殺した」、二つの「攻撃」で形成されている。「問題は『誰が得をするか?』である。/明らかにムスリムではない」と、レーガン政権の財務次官補だったポール・グレイグ・ロバーツは述べながら、「テロ攻撃と称されるものは、(引用者註・パレスチナ人を支持しだした)フランス政府をワシントンやイスラエルの路線に戻すのに役立った」と論じている。
               本書の原著は、事件後、直ぐの15年4月にアメリカで緊急出版されたものだ。執筆者たちは、「社会的・宗教的・民族的帰属も思想信条もいちじるしく多様で、個性的」(板垣雄三)であるにも関わらず、情況の深層をそれぞれの視線で的確に、しかも鋭く切り込んでいるといっていい。
               それに比べて、わが列島の首相が友人や応援団に利益供与をしていることに、憤りを感じる日々だが、表層の部分だけでも、その陥穽は明らかであるにもかかわらず、メディアや対抗勢力に鋭利性がないことを見透かしているかのような振る舞いを政府中枢はしている。それは、わたしたちの現在というものが、本当に逃げ場のない深刻なものだというわけではないことの証左なのかもしれないが、むしろ、そのような弛緩した情況に対して、わたしは、暗澹たる思いになる。

              (第三書館刊・17.5.10)

              2017.06.17 Saturday

              「感性」と「文化」を連結させて、どのような像が紡ぎだせるのか  ――「一九六八年」前後の文化の変化について描き出す

              0
                渡辺 裕 著
                『感性文化論 〈終わり〉と〈はじまり〉の戦後昭和史

                (「図書新聞」17.6.24号)

                 「感性文化」とは、不思議な捉え方のように思われる。そもそも、「感性」や「文化」という概念には、極めて多様なイメージが胚胎しているから、その二つを連結させて、どのような像が紡ぎだせるのだろうかと、わたしは、本書を前にして、真っ先に感じたからだ。
                 著者の言葉を援用してみるならば、次のようになる。
                 「一九六八年という一年だけにピンポイントで特定できるかどうかはともかくとして、この一九六〇年代末から七〇年代前半にかけてのこの時期に、文化のあり方や感性のあり方に大きな変化があったということは、もちろんこれまでにもいろいろな形で論じられてきた。」「『一九六八年』前後の感性の変化も、単に『戦後』の中での話としてだけみているのでは不十分である(略)。」「戦前から、場合によっては明治以前から続いてきた古い文化のあり方を視野におさめ、そこからの連続や断絶のありようを見極めながらその歴史的位置をはかるような見方が必要である。」
                 そして、「戦後文化論」とでもいうべき視線から、「『一九六八年』前後の文化の変化について、『感性文化』をキーワードに描き出すことが本書の目的」であると述べながら、一九六四年東京オリンピックにおけるメディアをめぐる様々な事象と、六九年に入ってから生起した新宿西口広場における「フォークゲリラ」の諸位相という二つのテクストを中心に、本書は論じられていく。また、その周縁の位相として、「ディスカバー・ジャパン」に象徴される環境保全の動態と高速道路をめぐる都市景観ということも対象化していく。
                 著者が、一九六八年という時間性に拘泥するのは、過剰気味に、しかも皮相に表出されてきた「一九六八年論」に与したいからではなく、「一九六八年といえば、『明治百年』の年」であるとしながら、「戦後」という時空間を、「明治以前」からの「連続や断絶のありようを見極めながらその歴史的位置をはかるような見方が必要」であるという捉え方をしているからだ。
                 本書の前半部では、市川崑監督による映画『東京オリンピック』(六五年公開)をめぐる「記録か芸術か」論争に焦点を当てている。高校生時、リアルタイムで観た印象でいえば、アベベが淡々と走る表情をスローモーションで捉えた場面しか思い出せないのだが、そもそも、記録映画か芸術映画かといった視線が、入り込む余地のないものだったといいたい気がする。著者は、論争が、リーフェンシュタールの『民族の祭典』『美の祭典』(三八年)と比較されながら行なわれたことを紹介しているのだが、それらの作品は、「記録か芸術か」という以前に、政治的プロパガンダ的色彩が被膜のように覆われてしまったという悲運性があることを思えば、市川作品と対称化させて作品評価するのは無理があったのだ。
                 「市川の《東京オリンピック》は、古い時代の記録映画のあり方を問い直し、新たな局面を切り開く先兵的な役割を果たした一方で、多くの部分で『テレビ以前』の古い感性に支えられて成り立っていたともいえるだろう。」
                 もちろん、芸術映画というカテゴリー自体、わたしも含めた普通の観客にとってはなんの意味もないし、記録映画というジャンルが確立していた時代ではないし、ドキュメンタリー映像といった考え方も希薄であったわけだから、著者の捉え方には、同意できる。
                 わたしは、当時(六八〜六九年)、「フォークゲリラ」にほとんど共感を持っていなかった。友人に無理やり連れて行かれて一度だけ現場を見たことはあったが、ベ平連の活動も含めて、「友よ」という歌を象徴として、親近性を抱くことはなく、過ごしていた。ただし、本書によって、『朝日ソノラマ』(五九年創刊、七三年休刊)が、「フォークゲリラ」や「学生運動」を取り上げていたことは知っていたが、吉田拓郎を七〇年七月号から三ヶ月続けて特集していたことは、まったく知らなかった。つまり、わたしは、吉田拓郎をその頃、認知していなかったわけで、『朝日ソノラマ』は、「吉田が全国に名声を広げてゆくのを推し進めていった」ともいえることになる。
                 「吉田拓郎の活動などをみると、フォークゲリラや関西フォークの人々の活動とは遠く隔たっている印象を受けることは事実で、そのことを指して、フォークソングの変質が語られ、学生運動などの反体制運動の挫折やそれに由来する、『シラケ』ムードの支配、政治的無関心世代の台頭といったことが語られることも少なくない。たしかに大きな流れとしてそのような側面があったことは否定できないが、この時期のフォークゲリラやフォークソングの流れには、そのような『政治主導』の説明では捉えきれない、文化の様々な領域で起こっている構造変化が絡んでいるように思える。」
                 わたしが、吉田拓郎の最初のアルバム『青春の詩』(七〇年一〇月)を初めて聞いたのは、七一年の春頃だったような気がする。その中に収められていた「イメージの詩」にある「古い船を今動かせるのは古い水夫じゃないだろう」という歌詞に共感したものだった。著者ふうに述べてみれば、その時の感性を、「友よ」より遥かに投射していたと思えたからだ。そもそも、挫折やシラケなどといったいい方は、後付的なものであって、ましてや、「政治」よりも、もっと切実なものがあることを、誰もが知っていたはずなのだ。そういう意味で、いまでも、音楽や映画が感性を刺激してくれるものとしてあり続けているのは変わらないはずだ。だから、十年ほど前から、若者たちによる街頭での抵抗と対抗の運動がサウンド・デモのかたちを採っているのは、「フォークゲリラ」とどこかで水脈のように繋がっているといっていいかも知れない。

                (春秋社刊・17.4.20)

                2017.06.10 Saturday

                「日活ロマンポルノ」時代を俯瞰する貴重な映画誌                    ――日本映画史のなかでも多くの傑作・名作を生みだしたことは断言していい

                0
                  ワイズ出版編集部 編『日活 1971-1988 撮影所が育んだ才能たち
                  (「図書新聞」17.6.17号)

                   わたしにとって日活映画とは、少年期は小林旭(石原裕次郎には、それほど共感を抱くことはなかった)の渡り鳥シリーズであり、二十歳前後の頃は、折からの対抗と抵抗の渦動のなか、鈴木清順監督の旧作品がまとめて上映されたのを観て清順世界に魅了されていったことを、取りあえずは意味している。その時期、鈴木清順は日活を解雇されていたため作品を撮ることはできなかったが、澤田幸広の『反逆のメロディー』(70年)、と『関東幹部会』(71年)を観て、衝撃を受ける。そして、藤田敏八の『八月の濡れた砂』を71年8月、立ち見で観た記憶がある。それが、旧体制での最後の日活作品だったのを、後で知ったのか、その時すでに認知していたのかは、もう覚えてはいない。
                   本書は、71年11月、新体制での日活作品、いわゆる日活ロマンポルノ(後に、「にっかつロマンポルノ」)としてスタートした、二作品(西村昭五郎監督・白川和子主演『団地妻 昼下がりの情事』と林功監督・小川節子主演『色暦 大奥秘話』)から、88年11月の「ロッポニカ」最後の二作品(藤田敏八『リボルバー』、金澤克次『首都高速トライアングル』)までの詳細なフィルモグラフィーを付し、作品に関わったプロデューサー、監督、脚本家、俳優など、総勢一〇八名のインタビュー、エッセイなどを収録した、「日活ロマンポルノ」時代を俯瞰する貴重な映画誌である。
                   フィルモグラフィーを眺めながら、いくつかのことを思い起こしたといえる。わたしにとって、共感した作品の多くは、藤田敏八と澤田幸広を別として、ロマンポルノ作品によって初めて知った監督たちだった。神代辰巳(68年、『かぶりつき人生』がデヴュー作品)、加藤彰、曽根中生、田中登、山口清一郎、村川透、根岸吉太郎など、思いつくままに挙げていけば、神代以外は、ロマンポルノ作品がデヴュー作ということになる。当時しばしばいわれたことだが、ロマンポルノ作品になったことで、多くの優れた監督や脚本家がデヴューできたということは、確かだった。
                   白川和子とともに、ロマンポルノ作品の最初の主演女優となった小川節子は、「デビューする事にな」った時、「本心は、嫌でたまりませんでした」と述懐しながらも、「『日活ロマンポルノ』というのは、大きな、ひとつの時代を作ったのかも、と思います」と本書のなかで述べているように、間違いなく、日本映画史のなかでも、多くの傑作・名作を生みだしたことは、断言していい。わたし自身が観たなかで、いま、それらの作品名を書き記すと、それだけで字数を費やすので、本書からの発言を例示することで、わたしの日活ロマンポルノ作品に対する思いに代えさせたい。
                   「何より魅力的だったのは、ロマンポルノに登場する女優さん達であった。(略)初期の白川和子、片桐夕子を始め田中真理、山科ゆり、宮下順子、芹明香など独特の存在感を持った彼女たちを間近で見られるのが楽しかった。」(鵜飼邦彦)、「一九八五年夏、入社二年目の僕は宣伝部に移動していた。(略)最初の担当作品として相米慎二監督の『ラブホテル』(略)を与えられた。(略)ヒロイン名美が不倫の上司から一方的に切られた受話器に向けて、それでも話し続ける長い長い独白。バックには山口百恵の『夜へ』が切々と流れる。(略)自分が心打たれたこの映画を世の中に伝えたい。僕はこの作品を担当できる自分の幸せに感謝した。(略)本社地下の定員四十ほどの試写室には吉本隆明さんまでが現われ、連日『ラブホテル』の試写で埋まった。」(東康彦)、「当時、僕らプロデューサーや企画部がもっとも苦労したのは、脚本作りだった。それまで日活映画を書いてくれたライターはもういない。」(伊藤亮爾)、「企画会議をプロデューサーと企画部の社員と一緒に行った中(略)で、『十分に一回、エロティックなシーンがあれば何をやってもいい。ジャンルは問わない』ということを確かに言いました。(略)日活ロマン・ポルノはプロデューサーシステムというのではないけれどプロデューサーが中心になって作品を作っていきました。」(黒澤満)、「体制に順応して幸せな生活を送っている奴はいいロマン・ポルノを作れなかったんじゃないのかな。なんだかんだで、みんなはちゃめちゃだった。/僕はロマン・ポルノの本質は反体制だと思っているんだ。」(佐々木志郎)
                   わたしは、「日活ロマンポルノ」が作られる数年前、東映任俠映画に熱狂し、共感していた。どんな犲匆馭姫撚茘瓩茲蠅癲対抗と抵抗の情念を漂わせていたからだ。ある種のアナーキーな心性といえばいいだろうか。一群の「日活ロマンポルノ」作品にも、そのことは、地続きのように繋がっていたから共感していたのだと、いま振り返っても、そういい切ることができる。そして、そのことは、いまだに、わたしの心奥に、深く刻まれているのだ。

                  (ワイズ出版刊・17.4.25)

                  2017.05.13 Saturday

                  生命あるものすべてに視線を馳せる人                                     ―直良信夫の孤独な研究者としての《像》を鮮鋭に照らし出している

                  0
                    杉山博久 著『直良信夫の世界 20世紀最後の博物学者
                    (「図書新聞」17.5.20号)

                     直良信夫(一九〇二〜八五年)という名前を知らなくても、「明石原人」の“発見者”といえば、多くの人は、何らかの応答ができるはずだ。「明石原人」をめぐって、著者は本書で、次のように触れている。
                     「一九三一年(略)四月、兵庫県明石市の西八木海岸の崩壊した砂質粘土層中から採集された人類腰骨は、一時、Nipponanthropus akashiensis(ニッポナントロブス・アカシエンシス)と呼ばれたこともあったが、学会の正当な検証を受けることもなく、一九四五年(略)五月の東京大空襲によって消失してしまった。この人類腰骨をめぐっては、先生(引用者註・直良信夫)への不当な誹謗・中傷ばかりが姦しかったようである。」
                     わたしは、考古学的なことにいくらかでも、関心があるのは、それは、民俗学や人類学、生態学、発生学、さらに加えて歴史学といったことへの関心も含めて、それぞれを繋げたかたちで思考の有様として意味があると思っているからだ。それぞれを学的に特化(あるいは専門化)して考究していくことの危うさをいつも考えているといえる。つまり医療の世界が専門的に分化しすぎて、領域の横断ができにくくなり、必ずしも、わたしたちのためにはならないことに通じてしまうことを思えば、それは明らかであろう。
                     本書の巻末に付された略年譜を見れば、岩倉鉄道学校工業化学科を卒業後の十八歳の時に農商務省臨時窒素研究所に勤め、空中窒素固定法の研究に従事、この間、貝塚の探訪など考古学的なことに関心を持っていく。研究所退職後、兵庫県へ転居、地質学や古生物学を徳永重康に師事し、学ぶ。二四年九月、日本考古学会や東京人類学会などに入会する。三八年に早稲田大学理工学部採鉱治金学図書室に勤務、以降、精力的に著作活動に入っていく。こうしてみれば、わたしの個人的な推察でしかないのだが、考古学プロパーではない直良にたいして、「明石原人」の発見は、反発や疑念が考古学会から起きるのもわからないではない。しかし、ほんらいなら、学会全体が直良に協力していくようなかたちで精査していくべきなのではないかと思うのだが、そのようなことは難しいことなのかもしれない。
                     さて、本書の副題に、「20世紀最後の博物学者」と付されたのは、直良信夫の生涯にわたる仕事を考古学だけにとどまらず広範な領域にあることを示している。
                     「直良先生は、その長逝の折り、“最後の博物学者”という修辞を冠して呼ばれたように、考古学ばかりでなく、古人類学や古生物学(動・植物)、現生動物の生態学や動物学的研究、地質学、先史地理学などの各分野にも通暁し、さらに古代農業の研究にも顕著な業績を遺している。また、ナチュラリストとしても一流と評される存在であった。先生の学問領域が極めて広汎であることについては、独学であったため、研究の途上で生じた疑問はすべて自身で解決しなければならなかったからと先生の話であった。」
                     “ナチュラリスト”といういい方は、現在ではあまり用いられない捉え方になるかもしれない。わたしなら、生命(いのち)あるものすべてに視線を馳せる人とでもいいたい気がする。
                     本書は直良の未発表原稿を織り込みながら、「峠」、「カワウソ(獺)、モズ(鵙)」、「シカ(鹿)、ゾウ(象)」、「葛生の洞窟と花泉の化石床」、「イヌ(犬)、ニホンオオカミ(日本狼)」、「古代農業」、「貝塚・銅鐸と日本旧石器文化」といった項目立てのもとに直良の研究足跡を詳述している。異色は、最終章に配置された「児童図書」をめぐってのものとなる。そのなかから、「原人」をめぐる二つの記述に絞って触れてみたい。
                     戦後、直良は、栃木県安蘇郡葛生町(現佐野市)の探査を始める。そして「洞窟への踏査・研究」を続け、五〇年に「葛生原人」の人骨を発見する。だが、「現時点では、葛生出土の人骨を更新世のものとする先生の理解は完全に否定されてしまった」が、「洞窟や岩陰遺跡に包蔵されていた獣類化石などの調査報告は、学問の進展によって、補訂を必要とする部分があるとしても、いまも、基礎的な資料として、十分にその価値を主張し得るだろうと私は考えている」と述べながら、「明石原人」へも言及していく。
                     「発見の背景をなす日本旧石器文化の存在を提唱した仕事こそ、先生の多くの考古学的業績のなかでも、もっとも顕著な業績であったと考えている。」
                     研究対象が広汎なため、直良の調査報告がなかなか理解されにくかったのではないかと思われるし、わたしには、「独学であったため、研究の途上で生じた疑問はすべて自身で解決しなければならなかった」という直良の感慨は、単独で広汎な研究領域をひたすら遂行していった矜持のようなものに聞こえてくる。だから、ふたつの「原人」をめぐることは、自身の仕事のなかで特化されるべきことではなく、すべての業績と同等のものだと思っていたはずだ。本書は、そういう意味で、直良信夫の孤独な研究者としての《像》を、鮮鋭に照らし出しているといっていい。

                    (刀水書房刊・16.11.13)

                    2017.03.18 Saturday

                    小さな出来事に絶えず視線を向け続ける                           ――峯澤典子の詩世界は、ひとつの達成へと向かっている

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                      峯澤典子 著『あのとき冬の子どもたち』
                      (「図書新聞」17.3.25号)

                       この詩集は、ひとつひとつの詩語が、わたしに語りかけてくるかのように聞こえてくる。それは、しかし、静かに、なにかを強く伝えたいというのではなく、独り言のようでもあり、吐息のような呟きでもあり、遠くを見つめながら小さな声で歌っているようでもある。読み終えて、この詩集を閉じてみると、わたしは、水が流れるような物語のなかにいた。
                       「マッチを擦っても/新年のみちには犬の影もない/ひと足ごとに/夜の音が消えてゆく/冷気を炎と感じられるほど/ひとを憎むことも/許すことも できなかった/……」(「流星」)
                       情景は心象でもある。「ひとを憎むことも/許すことも できなかった」と語る時、詩語を紡ぎだす人は、どんな関係性のなかにいることになるのだろうか。他の詩篇に接してみれば、時間の流れのなかで変容していく関係性に逡巡し立ちすくんでいる有様を投射しているように、わたしには感じられる。
                       「……/幼いころ/水さえほしがらなくなった猫や犬の/肌の日向の匂いが/ゆっくり冷えてゆくのを/いちにちじゅうでも/ひとばんじゅうでも/見守った/あのやわらかな時間の流れから/いつ/離れてしまったのだろう/……」(「一羽」)
                       小さな命が消えていくかもしれないという場所にい続けているイノセントな少女期(少年期)への憧憬と、そして悔恨と評するのは簡単だ。「あのやわらかな時間の流れから/いつ/離れてしまったのだろう」という心象は、「ひとを憎むことも/許すことも できなかった」と語ることへ通底していく。時間は戻らないのだ、憧憬や悔恨は、なにも慰藉しない。ただ、受けとめること、そのこととして感受し続けることに、自分たちの、爐い洵瓩あるのだと、作者の声は、わたしに、語りかけてくる。このような感受の有様とはなんだろうかと思う。ある理不尽なことが生起したとき、ひとは、直截に憤りを胚胎していく。それは、ある意味、必然的なことだ。だが、それで、なにかが、変わるだろうか。わたしたちは、理不尽なことには敏感だが、どんなことが起きても変わらずにある、切実なものに眼を向けることを忘れがちになる。微細で繊細なといえるほどの小さな出来事に絶えず視線を向け続けていくことが、憤怒を持って理不尽なことに向かっていくよりも、なにかを変えていく動力になるのではないかと、詩人・峯澤典子が語っていると、わたしには思われるのだ。長くなるが、もっとも、わたしを喚起した詩篇の一部を引例しよう。
                       「……/生まれてはじめて/たったひとりで/息がつづくかぎり/全力で走り抜けたあと/気恥ずかしいくらいに/からだの奥で揺れつづけていた/草の香りや/空の高さ/それらを生の中心と定めたとき/そよぎだしたすべての感情を/わたしは木のようだと思ったはずだ//誰かを追い抜くためではなく/ただ走ってゆける喜びに/そよぐこころを/讃えながら/木は育っていった/のびすぎた枝はいつの日か/人や じぶんを/深く傷つけてしまうことなど/知りもせずに/……」(「改札の木」)
                       「のびすぎた枝」とは、なんという暗喩だろう。わたしの発語は、いつだって「のびすぎた枝」だったのではないかと、暗澹たる思いになる。誰もが、無意識に人を傷つけ、自分自身を深い暗渠へと誘っていく。
                       「……/あげられるものは/もう骨しかなかった/それでも父は/あめ、ゆき、と/くちをひらきつづけた/ぎこちなく子を寝かしつけた若い日のように/……/父を呼ぶことのなかった町に/列車が入った/雪はやみ/子は/静かな包みにくるまり/ひとり 眠った」(「冬の子ども」)
                       「……/兄妹のように水色の似た/川から川へ/行先を失った時間は運ばれ/水際のわたしの姿も/霧雨に溶けだす前の/別れのあいさつも/はじめから存在しない//旅人の影の/かたちをした雨雲が/横切り/消えてゆくのを/映す水だけの/永遠」(「水の旅」)
                       「あめ、ゆき、と/くちをひらきつづけた」、「旅人の影の/かたちをした雨雲が/横切り/消えてゆくのを/映す水だけの/永遠」と、これらに込められた心象は、鮮烈だ。いいようのない、息苦しさのなかで、それでも、なにか小さな通路のようなものを詩人・峯澤典子は詩語によって照射している。
                       第六十四回H氏賞受賞作・第二詩集『ひかりの途上』(七月堂、13年刊)から三年半、いま、峯澤典子の詩世界は、間違いなくひとつの達成へと向かっている。そして、峯澤の詩表現が、いつしか「生の中心」を捉えることを願っている。

                      (七月堂刊・17.2.1)

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