奥山忠信 著『貧困と格差――ピケティとマルクスの対話
(「図書新聞」16.11.26号)

 トマ・ピケティの『21世紀の資本』の邦訳が刊行されて、二年経った。出版直後の喧騒を思うと、メディアからピケティの文字を、あまり見なくなっている現在、さてピケティ評価というものは、どういうことになるのだろうかと思っていたところ、本書に接するという幸運に遭遇した。わたしは、何人かの論者のピケティ観のようなものを表層的に眺めただけだから、本当は、本書の評者には、相応しくないかもしれないが、書名と、副題のマルクスとの“対話”であれば、ピケティの思想の一端を掴めるのではないかと、読み進めていった。
 著者は、詳細にピケティの分析を論及しながら、極めて明快に、ピケティの思考の核心を切開してくれている。
 「ピケティの『資本』は会社の資本財だけではない。」「収益を生む資産は、すべて『資本』と呼ばれる。」「資本の概念を広げることで、資本を持つ人の力と資本を持たない人の力の対立はより鮮明になる。鮮明になるだけでなく、現代の格差の持つ理不尽さも浮き上がってくる。」
 ピケティの独自性は、多彩なデータを駆使しながら、マルクスのような資本家対労働者といった生産関係にフォーカスするのではなく、所得(資本)配分に視線をあてて現在を見通すところにあるといっていい。
 かつて、わたしたちは、中間層の所得が増えて、一億総中流社会に達したなどと喧伝されて、資本主義社会が福祉国家の様態へと進んできたと錯覚したものだった。しかし、そんな幻想は、バブル崩壊期を経て見事に霧消していったといえる。ピケティが示唆しているのは、高格差社会という現状であり、「上位10%が35%の所得を取得し、将来は45%にな」ると警告していると著者は述べる。そして、ピケティが提案するのは、「所得税に対する累進課税の復活」と「富裕税としての資本税」であるという。いわゆる、富の再配分ということになる。
 「ピケティの分析によれば、多くの人が資産を持つようになったのが今日の特徴である。ただし、富裕者と貧者では資産の格差が極めて大きい。労働所得の格差の比ではない。ピケティの資本税は、格差を是正し、透明性を高めるために富裕層に課す税である。」「ピケティとマルクスは、貧困と格差の問題に関して豊富な分析ツールを提供してくれた。日本経済の現状は暗く、うまい話は何もない。(略)国家の衰退を思わせる状況である。(略)崩壊の危機はもうすぐそこまで来ている。現実は小手先で解決できるようなものではない。」
 わたしは、著者に誘われてピケティの小気味よい分析と税に関する提案に、諸手を挙げて首肯したいと思いながらも、どこかで逡巡している自分を確認せざるをえない。均等な、あるいは平等な課税システムを導入したからといって、それが、格差を縮小したり、解消されていくものなのだろうかと思わざるをえないからだ。本書では、「貨幣の謎」と題した一章を設けているように、多様な経済システムが拡大しているなかで、貨幣(ドル)を交換価値の象徴と見做すことに限界が来ているといえるのではないだろうか。国家(あるいは政府・行政機構)が、経済を統制、コントロールしていくには、もはや不可能な領域に現在、達しているとみるべきである。富裕層に高い課税を課し、貧困層を無課税にしたとしても、格差は解消されない段階に来ているといえるからだ。「日本経済の現状」を著者は「国家の衰退を思わせる」と指摘しているわけだが、政治的な意味では、まだ、国家(政府・行政機構)は、存在しえても、経済システムに関していえば、もはや、国家は無化されてしまっているといっていい。そういうアンビバレンツな状態を、わたしたちは認識していくべきだと思う。
 「マルクスは、資本主義を歴史上の1つの発展段階として見ている。その意味は、一定の時期に形成され、一定の時期に終わりを迎えるという意味である。それは、人間が商品や貨幣や資本に振り回されることなく、経済を制御することのできる社会が到来するということである。これがマルクスの社会主義社会であった。」
 いつからか、世界の先進的な資本主義国家群は、超資本主義社会というかたちに変容されてきたといえる。そういう意味でいえば、マルクスが想起していたような資本主義社会はとうに解体してしまっているといっていい。現在の超資本主義社会がどこまで、変貌ではなく変容していくのかは、誰にも、想像できないだろう。
 ただし、わたしなら、反資本主義としての、「人間が商品や貨幣や資本に振り回されること」のない社会の到来を、いまだに夢想したいと思っている。

(社会評論社刊・16.9.10)

大澤広嗣 著『戦時下の日本仏教と南方地域』
(「図書新聞」16.11.5号)

 一九三一年の満洲事変を発端とした十五年戦争という悪夢のような歴史的時間の終焉から、七十年以上経ったことになるが、いまだに、中国や韓国とは、政治的な軋轢を残存し続けている。それは、十五年戦争の後半だけを切り取って、第二次世界大戦とか太平洋戦争といった歴史教科書的な言辞によって歪曲し、アジアへの侵略ということを被膜のように覆ってきたからだといっていい。そもそも、大東亜共栄圏という理念のもと日本帝国軍隊による北は満洲から、南は東南アジア諸地域に渡る侵略・統治政策が、やがて、アメリカとの対峙を生起したということを認識しない限り、アジア諸国との軋轢は無化されることはない。
 ところで、東アジアへの視線は、現在的な事象の大きさから多様な論議をなされてきたといっていいが、東南アジア諸地域に対しての、いわゆる南進政策を分析する論述には、わたしが接してきた限りでは、なにか曖昧性を払拭できないものが多いような気がしてならなかった。もしかしたら、暴論を承知でいえば市川崑監督の『ビルマの竪琴』(原作・竹山道雄)に象徴されるように、日本(人)への親和性を過大評価し、無意識のうちに聖戦のような幻想性を瀰漫させてきたからだといえなくもない。
 本書は、これまで論及されることが少なかった日本の仏教者たちの〈戦争協力〉に焦点を当てた画期的な論考集である。しかも、対象となる場所は東南アジア諸地域である。もちろん、一概に、〈戦争協力〉というものを、わたしは、断罪したいわけではない。協力には積極的な加担から、消極的な関わりまで多様なかたちとしてあることを了解したうえで、本書が提起する問題は、多くの示唆を有しているのだ。
 「戦時下に、日本の仏教界では、政府や軍部の命令により同地(引用者註=東南アジア)に日本人僧侶や仏教学者を派遣した。彼らは、武力進攻前に情報収集などの謀略活動に関わり、進攻当初における宣撫工作に従事して、占領後には宗教行政を担当する行政職員として着任し、仏教を通した文化工作活動の実施に協力するなど、随所で関わっていた。」(「序論」)
 なぜ、「僧侶や仏教学者」たちが、政府や軍部の命令に従ったのかといえば、「仏教宗派は、『宗教団体法』に基き設立認可を受けており、政府の指導監督下にあったためであ」り、「連合組織の大日本仏教会は、『民法』に基く公益法人として設立されており、当時の社会的文脈では、戦時下における国策に貢献する『公益』目的の活動が求められた」からだ。しかも、「各宗派の管長は、天皇から任命された勅任官という待遇を受け」て、「高級官僚と同等」(「結論」)の存在としてあったからだと著者は述べている。明治近代天皇体制というものは、薩長政権という独占的な支配システムを潜在させていくために、それまでの天皇制をディスコントラクションさせて、成立させたものだといっていい。多様な神道をすべて、天皇を頂点とした国家神道に統一していったように、諸仏教を天皇の勅命のもとに、国家仏教のようなかたちに再編していったことが、本書の中で論及されていく連合組織(大日本仏教会、国際仏教協会、仏教圏協会、興亜仏教協会など)の有様から見て取ることができるのだ。
 本書の中で、わたしが、最も刺激を受けた論考(「第三部 日本仏教の対南文化進出」―「第一章 真如親王奉賛会とシンガポール」)に関して触れてみたい。
 真如親王とは、「平安前期の第五一代平城天皇(略)の第三皇子で、出家前は『高丘親王』と呼ばれた。(略)出家して、法名を「真忠」と名乗った。後に『真如』と改め、(略)空海(略)に参じ、その十大弟子の一人に列せられ」、「求法のため、唐を経て、天竺(インド)へ向かう途中、『羅越国』で虎に襲われて物故したとされる。今日では、小説家の澁澤龍彦による絶筆『高丘親王航海記』のモチーフとして知られている」と著者は記述していく。「羅越国」は、ラオスという説が有力だったが、「マレー半島南端付近とする説が主流となっ」ていき、「日本がシンガポールを占領する前後から、同地が真如親王の終焉の地とする主張が増えて」、「記念建造物を求める動きが急激に高ま」り、「関係者によって真如親王奉賛会が発足」したという。そして、大衆文化や教科書にも採り上げられ、「戦争の進展に伴って、にわかに真如親王の存在が増大していった」ことになる。敗戦によって事業は中断したとはいえ、内外において天皇制を補強していくような神話づくりを行っていくことの様態を、あらためて考えてみるならば、「大東亜共栄圏」という虚妄なる理念の陥穽が露呈していくことがわかる。西欧列強へ対峙していくために、〈アジア〉という感性を紡ぎ出すのは、間違いではない。しかし、〈アジア〉はひとつという時の、ひとつは、みな同じということではなく、神国日本が先導していって、はじめてひとつになれるのだという錯誤が、天皇制という〈宗教〉を根拠にしていることを、わたしたちは、忘れてはならないと思う。

(法蔵館刊・15.12.8)

重村智計 著『日韓友好の罪人たち―学問的試論のすすめ
(「図書新聞」16.10.29号)

 わが列島と半島の隣国は、近くて遠い関係にある。だが、約一五〇年前までは、大陸の王国とともに友好なる繋がりを長きにわたって続けてきた関係にあったのだ。アジアの片隅の列島国家は、断絶させていた欧米列強との関係を修復した途端、アジアの盟主たらんと明治近代を疾駆していった結果、戦後七〇年間、半島の隣国との了解関係は、絶えず齟齬を生起し続けている。
 毎日新聞論説委員としてテレビなどで、歯切れのいいコメントと解説をわたしたちに提示し続けてきた著者による、日韓関係の過去から現在、そして未来へと向けた論集が、本書だ。そもそも、日韓の関係は、一五〇年の間に複雑な情況的事柄を包含しながら横断してきたことで、問題の所在をなかなか切開しにくくしてきたといえる。どこか、一点、特化してフォーカスしていくとするならば、わたしは、日清戦争を挙げる。朝鮮を清国の圧政から解放させるという偽善的な旗印で開戦し、結果、韓国併合という半島の統治体制を構築し、日露戦争、満洲事変を経て日中、日米開戦へとなだれ込んでいった。こうした、わが列島国家の敗残の歴史を、いま一度、深く考えていくべきだと、わたしなら、いいたいと思う。
 「『太平洋戦争の起源は日韓併合に遡る』と私は考えている。この認識は、日本人の常識にはなっていない。真珠湾攻撃(略)から、およそ三〇年四ヶ月前に、日本は韓国を併合した。この結果、国際社会の尊敬を失い、米英と中国、ロシアに『恐怖』を与え、彼らに敵対する『脅威』と認識された。(略)日韓の千年に及ぶ長い歴史は、『日本が朝鮮半島に軍事的、政治的に深く関わること』を戒めている。(略)韓国併合では、独立から七〇年が過ぎた今もなお恨まれる。/隣の国を併合し、植民地にしてはいけなかった。」
 三〇年以上にわたった統治した側と統治された側という列島と半島の関係は、なぜ、その後、七〇年経ても、親近なるものへと転換できなかったのだろうか。著者は、エドワード・サイードが提示した「オリエンタリズム」という概念を援用して、「日本的オリエンタリズム」という視線で論断していく。
 「私がこの本で取り組むのは、『国際政治としての韓国・北朝鮮問題』である。『国内問題としての朝鮮問題』ではない。『朴槿恵はひどい』、『金正恩は普通じゃない』と言って、日本人に同意を求めて干渉させようとする。/これが、『日本的オリエンタリズム』を生む。長年に渡り、雑誌『世界』と日本の多くの学者や知識人は韓国を『南朝鮮』と表記してきた。韓国に対する差別の表現であった。これこそが、『日本的オリエンタリズム』の起源である。(略)私は『日本的オリエンタリズム』による差別を指摘し、『差別と蔑視意識の解決』を目指している。(略)朝日新聞が『慰安婦報道』で謝罪した原因は、『新聞記者が運動家になった』ためである。また、『運動を真実と勘違いした取材力の弱さ』と言うしかない。/韓国の反日には、(略)多くの社会問題と『韓国病』が存在しているが、日本人には理解できない。(略)『日本語と韓国語は、語感と感情が微妙に異なる言語だ』との留保が常に必要だ。日本では、韓国や北朝鮮について、あたかも、自分の国かと勘違いして語る風潮が強かった。日本人が韓国の指導者を口汚く非難する。この心理の背後には、日本人の差別や蔑視意識がある。私は、これを『日本的オリエンタリズム』とする学問的分析を明らかにしてきた。/一方、韓国が求める『歴史認識』や『慰安婦問題』、『独島問題』は、『韓国的オリエンタリズム』であるうえ、韓国語の表現なのだ。」
 韓国との関係のなかには、確かに、北朝鮮を長い間、評価する一部ジャーナリズムと左翼的知識人たちの言説に影響された「差別と蔑視意識」があったし、独裁政権や軍部やKCIAなどの影の権力構造によって、非民主国家という偏狭な視線で韓国を捉えていたことは、否定できない。だが、著者の鋭利な論断は、「韓国的オリエンタリズム」というものをも浮き彫りにしていくことにある。つまり、わたしたちは、著者が提示する「日本的オリエンタリズム」と「韓国的オリエンタリズム」は、パラレルなものであることに喚起されて、ひとつの通路を見出すことを可能にしているといっていい。
 「日韓の歴史対立には、『歴史観の違い』が大きい。韓国は『歴史の教訓』を強調するが、日本は『歴史の教訓よりも事実としての理解』を強調する。『日本に支配された国民』と『戦争に敗れた国民』の歴史に対する見方は異なるのだ。」
 実は、「教訓」の源は、幻影に満ちたものであることを知るべきであり、「事実」というものは、いつでも都合よく改変されるものだということを認識すべであるというのが、さしあたって、わたしの捉え方だ。だが、列島と半島のパラレルな関係は、断絶させることのできないものだということだけは、確かなことだと強調しておきたい。

風土デザイン研究所刊(16.9.15)

太田尚樹 著『尾崎秀実とゾルゲ事件――近衛文麿の影で暗躍した男
(「図書新聞」16.9.3号)

 ある時期まで、ゾルゲ事件とは、昭和期の戦時下における政治思想的な〈暗部〉として語られてきたといっていい。しかし、わたし(たち)にとって、コミンテルンの諜報活動に翻弄された、日本帝国の一知識人の悲哀を考えてみた時、事件の実相よりも、浮き上がる様々な様相のみが、〈物語〉として意味があるという捉え方になる。なぜなら、戦前から戦後も含めスターリン主義的な共産主義運動は、欺瞞に満ちたものであり、なんの共鳴も感じられないからだ。率直にいえば、そもそも、尾崎秀実ほどの類まれな情況分析家(評論家)が、コミンテルンの皮相な戦略に、自らの理念・理想をなぜ、仮託しようと思ったのかが、わたしにとって理解できないことであった。だが本書は、ゾルゲ事件とその背景となる時代情況を織り交ぜながら、精緻に事件の実相と尾崎の思想的相貌を論及し、わたしが抱いていた疑念を払拭させてくれた刺激的な論考であった。
 尾崎の個人史的な位相に視線を射し入れてみるならば、幼少期に日本統治下の植民地・台湾で過ごしたことが、後に、「革新思想に傾倒していった潜在的な必然性のひとつとみて差し支えあるまい」と著者が述べていることは、了解できる。さらに、いえば、一高卒業後、東京帝大に進学した翌年、関東大震災のさ中、無政府主義者・大杉栄(他に妻の野枝と甥の宗一)らが虐殺された出来事に、「強い衝動」を受け、「社会問題をまともに研究の対象とするに至った」と、逮捕後の「上申書」に記されていることを、本書で引いていることに、注視したい。大杉は、自身が虐殺される六年前(1917年)に生起したロシア革命を、理想社会をかたちづくる方向とは違う場所へ向かっていると、既に予見していた。尾崎が逮捕された1941年当時は大粛清を経てスターリン独裁体制下であったし、遡って朝日新聞社上海支局に転勤して、ゾルゲと知り合うことになった1927年頃は、政敵・トロツキーを追放して共産党内の権力を完全掌握しつつあったことを考えれば、ソ連・コミンテルンによる諜報活動は、そのままスターリンの権力基盤とソ連による世界支配を補強するものでしかなかったことになる。尾崎が思い描く、アジアの民衆を解放して理想社会をつくるといった構想と、コミンテルンの目指すものは、初めからまったく違うベクトルを持っていたことに、事件の悲壮な実相が含まれているといっていい。
 「スパイ活動は通常、自国や自らの帰属する組織に利するのが目的であるが、尾崎の場合は帰属性をもたないソ連と中共の勝利のために、日本の情報を提供していた。彼がスパイ行為にはしったのは、単なる価値観の共有ではなく、自国の国家体制、なかでも軍部主導の体制打倒が根底にある。/そのために尾崎個人としては、コミンテルンが掲げる世界共産主義革命を信じていくしかなかった。だが一方のゾルゲは、世界革命など夢想に過ぎないと、すでに気が付いていた。」
 朝日新聞を退社した尾崎は、請われて第一次近衛内閣(1938〜39年)の嘱託に就いた。そこで、その後、日本軍が満洲侵略をするための理念的基軸となっていった東亜新秩序声明(1938年)に関わっていったといわれている。
 蒋介石政権に対抗しうる政権を作り上げて、「東亜共同体、本当の意味での新秩序」を「纏めていく」べきだという尾崎の発言に触れながら、著者は次のように述べていく。
 「日本と蒋介石を戦わせようとした、尾崎の強硬姿勢がうかがえ、蒋介石軍を叩くことが中国共産党側に有利に働くという、尾崎の本音がみえている。(略)だがその結果は、国共合作によって中国共産党はまず蒋介石を抱き込み、その後日本が敗北すると、今度は蒋介石も台湾に追いやられ、日本と国民党政権を共倒れさせることができたことになる。/これは本音と建前が交錯して一体化した例であるが、尾崎の評価の難しさの一つである。」
 東亜新秩序声明から十ヵ月後の1939年9月にヨーロッパで第二次世界大戦が生起する。「日本の指導者たちは再び惑わされたが、新秩序建設に走った近衛内閣も官僚も陸軍強硬派の思索も、所詮はオポチュニズムでしかない」と断じながら、著者は、「日華事変を拡大させ、さらに運命の日独伊三国同盟から北部仏印進駐、南部仏印進駐まで強行してしまったのは、すべて近衛内閣のときであった。内閣の責任の一端を負う者として、アメリカを深く研究した跡が見られない尾崎も、対米関係を悪化させた責めは免れない」と論及する。
 わたしの考えは、こうである。尾崎が「平和主義・反戦主義」の思想を胚胎したある種のコミュニストであったかもしれないが、幼少期の植民地・台湾での生活のなかで、初源のアイデンティティーが形成されたと見做してみれば、イノセントなアジア主義者だったと捉えてみたいのだ。スターリンは、本来、広大なシベリアがそうであるようにアジア的様態を潜在していたロシア(ソ連)を急速な軍事・経済的な発展によって西欧化(脱アジア化)を目指していったといえる。そこに、尾崎とソ連・コミンテルンとの埋めようもない空隙があったといえるはずだ。アジア主義者・尾崎秀実の理念と理想が霧消していく必然は、ゾルゲとの出会いから既に始まっていったというべきかもしれない。

(吉川弘文館刊・16.3.1)

 送られてきた三冊の詩集に接し、不思議な感慨を抑えることができなかった。もしかしたら、一冊ずつ手にしていたら、湧いてこなかったかもしれない感覚といってもいい。わたし自身は詩(短詩型も含めた詩的表現全般)を紡ぎ出せないまま、ただ、〈読む〉ことに、感受の有様を確認してきただけだから、作者(表現者)の側にたいし、何がしかのことを照射しながら論及する立場ではない。だから、ほとんど、感想めいた言葉しか記すことしかできないかもしれないが、〈読む〉という行為を言葉にしてみようと思う。三冊の詩集のそれぞれの著者に関して、最初に申し添えておきたいのだが、黒崎立体(以下、敬称略)、高塚謙太郎の二氏は、まったくの初見である。藤井晴美は、未知ではないが、いつどこで、作品に接したのかまでは記憶に残っていない。

◎黒崎立体詩集『tempo giusto』
 詩集名の“tempo giusto”とは、本詩集の扉に記されている説明では、「正しい速度で。(一般に、心拍の速さと言われる。)」ということのようだ。また、他の二詩集とは違い、奥付に著者の来歴が配置されてあって、本詩集が第一詩集であることが、了解される。ただし、本人のブログによれば、09から16年までに発表された詩篇から23篇を選んで収録したとある。八年間という時間性を考えた時、わたしは、ある年代においては、加速化して進行していくものとしてあるのではないかと思われるのだが、著者は、敢えてひとつの詩集に、“正しい速度で”、時間性を置いたことになる。この詩集は、章立てをしていないが、章の区切りのような感じで、写真を入れてあり、三章立てのような構成となっている。巻頭の「ねじ」から「がらくた」までと、「Kのデッサン」から最後の「edge away」までの間には、表出される詩語に微妙な差異を、わたしには感じられた。時間列の構成なのかは、類推するしかないとして、著者の思いのなかには、詩のモチーフとして、「ねじ」から「がらくた」までの世界を放出しなければ、「Kのデッサン」以後の世界へと辿ることが出来なかったということが、潜在していたのではないだろうか。
 「おにいちゃん」、「わたし」、「おかあちゃん」、「おとうちゃん」、「おとうと」、「父」、「母」と発せられる詩語がかたちづくる物語のなかに流れていくのは、なぜか「死」だ。

 「おかあちゃんが病気でたおれて/子宮を取ったと聞いた時/わたしはとてもほっとした/もう、なんにもうまれてこない//おかあちゃん、あとはもう死ぬだけだね」(「ねじ」)
 「ぼたん雪が落ちていくのを/部屋の窓からながめていた/集団自殺みたいに/ぼろぼろ、/ぼろぼろ、//」「わたしの意識の鋳型を取った/(むりやりにつながれた星座を死ねますように/((死ねますように/(((死ねますように/ふるえるように」(「雪ちゃん」)
 「まだ、冬というなまえがあった日に。/ガスをひねったら楽に死ねるし死体もきれいだ、そう言って笑うあなたのなみだのことを覚えている。いっしょにしんでくれる? うん、しぬあなたに抱えきれないものとして私が存在していたのだと、気がつけるはずもないほど遠い日の、甘い会話。あなたに広がっていたいちめんの雪をいま、見ている。その中に転がる檸檬ほどの、可愛い死、」(「Yのデザイン」)

 「死」は、自分では体験できないものだ。「死」へと至るかもしれないという時間を予感できても、それは、「死」ではない。「死」は、いつも他者の「死」として、自分の内界に訪れてくるものなのだ。それはある意味、残酷なことだといっていい。「おかあちゃん、あとはもう死ぬだけだね」という視線は、自分より年齢が嵩み、しかも病気をしたのだから、母の方が先に死ぬだろうという悲しい類推をここでは語らせていることになる。しかし、ほんとうは、そんなことは誰にもいえないことなのだ。「ガスをひねったら楽に死ねるし死体もきれいだ、そう言って笑うあなた」に、いずれ「死」が訪れるのは確かなことかもしれない。だが、わたしは、「死」というものは、予感を孕みながらも、突然、訪れてくるものだと思っている。そういう意味でいえば、「檸檬ほどの、可愛い死、」という作者の視線に、わたしが無意識のうちに慰藉されていると気づくことになる。

 「光は、/屈折するからきれいだ/ささやかな場所にたっして揺らぎつづけるひと熱、」(「光について」)

 もしかしたら、「光」は、作者にとって、「檸檬ほどの、可愛い死、」を透過させて辿り着いた「死」の反照として鮮烈な詩語を潜在させようとする強い意志の表れのような気がしてならない。

◎眥邑太郎詩集『sound & dcolor』
 詩篇の最後に“うしろがき”のような短文が付されている。そこには、「言葉がもつ幾重もの意味の層が常に揺れつづけることで色がひろがり、私たちの脳である種のリズムが生まれてくることも確かで、韻律といった場合、単なる音韻上のリズムをさすわけではなさそうです」ということが記されている。

 「名まえをうかべながら/気がつくと海そのものになっていて/ゆたかなさようならのように/波おとをたてながら遠ざかっていった」(「さようならのように」)
 「ゆびのかずや/ねごとのくらさ/ゆれつづけるみみたぶのはやさ/これらいっさいがとおくながい年号となって/わたしをみつめている」(「ゆれつづける」)

 このように、ひらがなを多用した詩篇たちに出合うと、無意識のうちに音(おん)が韻律を醸し出し、そこに物語がかたちづくられていくように感受できる。「さようなら」という別離の言葉が、「豊かな」ではなく、「ゆたかな」と形容されることによって、海の波のように、向こうへ引いていったとしても、また、こちらがわにやってくるというように、「ゆたかなさようなら」には、人と人との往還性を持った関係の有様を胚胎していると見做したくなる。
 「ゆれつづけるみみたぶのはやさ」からは、なにを感じとることができるだろうか。時の流れが、時間という数的なものを昇華して、「とおくながい年号」として永遠に刻み続けるということを表象しているといっていい。

 「母語のようにしずかな朝/舟に歯をたてておとがちらばる/水をひたしはじめる海うみ/おはよう」「舟は/もうじき地平へ落ちる」「ひとつひとつが舟の照りかげりだとしたら/海はやさしい」(「さすらいおもいで」)

 わたしは、「母語のようにしずかな朝」ではじまる、この詩篇に、一番感応したといえる。最終の三行は、こうだ。

 「やさしい海のおと/ゆれているのはひだひだのわたし/うごいているのはひとつひとつのおまえ」

 あたかも、二篇の詩篇が往還するかのように紡ぎだされたのが、「さすらいおもいで」という詩篇だといっていいはずだ。こうして、恣意的かもしれないが、わたしが眥佑了軆犬鯑匹鵑生紊隆響曚箸いΔ海箸砲覆襪、もう少し、付言したいことがある。たまたま、詩集三冊が届いた後、一年に一冊手に取るかどうかという間隔で読む『現代詩手帖』を今回(八月号)、購入した。遥か年少の友人(ノミトモダチ、カラオケトモダチ)の小林坩堝の連載詩が始まったからだ。特集名が不思議だ。「2010年代の詩人たち」とは。編集長の藤井一乃は、「『2010年代の詩人』は存在しない。第一詩集を刊行したり、賞を受賞したりして『2010年代に登場した詩人』たちがいるだけである。それでも、いまこの詩人たちがどのように現在を見ているのか知りたい気持ちはつねにある」と記しているから、どうにか、その企図するところはわからないではない。だが、ここでは、「第一詩集を刊行したり、賞を受賞」することを前提にしていることが、気にかかるということだけはいっておきたい。
 眥邑太郎が特集の詩人として三篇の詩篇を寄せている。詩集の方で詩篇に触れたわけだから、ここでは、「2010年代の詩人たち」へのアンケートが収載されているので、眥佑留答を引いてみたいと思う。「現在、関心があること」にたいして、「憲法九条」と答えている。「詩を選んだきっかけ」や「いま、これからの詩をどう考えるか」という問いにたいして、それぞれ「今思えば、言葉で遊ぶのに手頃だったので詩を書いてきたのだと思います。/もちろん詩は思想そのものです」、「詩というものがあるとするなら、音やリズムに技術は収斂されていくかもしれません。/もちろん詩は思想そのものです」と答えていた。
 「憲法九条」とか、「詩は思想」(実際、『詩と思想』という詩誌があるが)だといった言葉を見ると、わたしの性(さが)のような、悪癖のような反応が立ちあがって、取り留めもない言葉が露出しそうなので、別の応答をしてみたいと思う。本詩集を読み、『現代詩手帖』八月号に収載された詩篇を読んでも、作者の言葉として、「憲法九条」とか、「詩は思想」といった言葉は、唐突感のように思えたといっていい。作者の“矜持”と、作品性はイコールのように表れるわけではないから、わたしが、唐突感に思えたのは、たんに感受性の問題かもしれない。わたしが、眥佑了輅咾髻読んだ先に、「憲法九条」とか、「詩は思想」という問題があるとすれば、“具体的に”、眥佑呂匹考えているのかを、ぜひ知りたいと思う。

◎藤井晴美詩集『グロッキー』
 短詩のようなものから物語詩まで、多彩なヴァリエーションの詩篇によって構成された、この詩集は、苛烈な物語性で貫かれている。そして、読むものを圧倒させる力があるといえばいいだろうか。いや、むしろ知らず知らずのうちに読むものを〈迷宮〉へと誘っていくような作者の〈声〉が聞こえてくるといった方がいいかもしれない。

 「君を絞め殺したくなる夜がまた来る/大きなまつ毛をつけて/一万円札のような/マントでできた/濁った空間に/ぼくは鼻血を流したいんだ」「君は絞め殺しても笑っている」(「ぼくの切実な君」)

 詩語の苛烈さにもかかわらず、陰惨な感じを受けないのは、語りのようなリズムが清冽さを醸し出しているからだといいたくなる。あるいは、作者の発語の場所から、清冽さが染みだしているように感じられるからなのかもしれない。前出の『現代詩手帖』誌で、小林坩堝が、藤井晴美詩集『夜への予告』(七月堂・15年10月刊)にたいして、「現代詩の深みに嵌りたい方に。鮮やかに錯乱したイメージの連続にたちまち中毒するはず」(「百年/百冊 これから詩に出会う人のために」)と述べていた。なるほど、本詩集においても、「鮮やかに錯乱したイメージの連続」は、健在だといえる。
 「二十歳の練習問題」と題された長編詩(物語詩といった方がいいかもしれない)は、その白眉だ。ほんとうは、作者の履歴や作品歴を意識外において作品に向き合うべきだろうが、第一詩集『おおぼく、クリスティーヌよ』に纏わる物語であるため、どうにか、作品歴(正確かどうかは分からない)を検索して、それが、私家版として1975年12月に刊行されていることがわかった。
 この詩篇は、詩書出版社と第一詩集の刊行をめぐる遣り取りとその顛末が、作品のひとつの流れとしてある。この国の詩壇というものがあるとしたら、ここでモチーフ(モデル)となっている詩書出版社と社主の有様がいまとなっては、どうしようもないものを作り上げているのだなと類推できるように表出されている。作品では、出版社名は初潮社(あまりに嵌り過ぎている)であり、社主の名は大田急郎である。誰が見てもどこの出版社か、社主かは明白だ。わたし個人のことを語るのは、詩集の感想を述べる場にはふさわしくはないかもしれないが、敢えていってみる。わたしは、この社主のモデルたる人物に、かつて二度ほど宴席で会っている。わたしが、敬愛する詩人のことを話題にした時、彼から、その詩人を貶めるようなエピソードが発せられたのだ(本人には悪意はなく、冗談めいた会話を発したに過ぎないかもしれないが)。品位などというものを、わたしは問題にしたいわけではないが、詩壇なるものは、幻のような亡霊以外なにものでもないということを、あらためて認識したことになる。

 「『ウチの名前を冠するより、こういうものはご自分で出されたほうが、自身の手づくりでやられたほうが処女詩集としてやはり迫力が違う。みなさんそうですよ』と言って大田は体よく断った。」
 「『有力な詩人の推薦でもあれば話は別ですが、そういうものがない以上、ウチも出版社ですからね、そこはわかっていただかないと』と小声でそっと耳打ちされたような気がするが、あの生臭い呼気が、もうはっきりしなかった。」

 厚顔な社主が、“メス井猿美”の“処女詩集”の発行を断ったことにたいして、「私は勝ったのだ。」と宣して、詩篇は閉じられていく。
 もちろん、ここで語られる物語詩が、フィクションか否かということは、些末な問題だが、次のようなことが喚起されていくといえる。詩人は、詩集を出すことで詩人として認知されるのだろうか。小説家は、人知れず小説を書き続けるだけでは、小説家とはいえないのだろうか。音楽家は、カラオケ店で歌を唄うだけでは、音楽家(歌手)とはいえないのだろうか。わたしは、藤井晴美の詩からイメージを勝手に増幅させて、そんなことを想いながら、迷路のような場所を彷徨うことになる。
 しかし、藤井晴美にあっては、そんなことはどうでもいいことだと思う。初潮社(思潮社)や大田急郎(小田久郎)にたいして、恨み辛みを吐きだしたいのではない。ただただ、幻のような亡霊を解体したいだけなのだと思う。

 「畳君!/黄色くなったぼくの二十年前のおちょぼ口の記憶よ、さばさばした世間話があった。河原の土手に。商店街の広告とどぎついしみったれた開店祝いの造花の花々、宝船。贋の町。」「ビー玉の暖簾は不動で不服、じゃらじゃらと濁った眼を陽に向けてへらへらしているグロッキーな光景、砂ぼこりの。下駄の音が響く。」「口よ、盲目の口よ、ああぼくの稲妻。縦と横にエレベーターの鎖が切れる大脳皮質のぼくの正義は死刑だ!」(「蠅」)

 他者への刃は、そのまま、自分自身にも突きつけられていく刃であることを、藤井は熟知している。だから、「二十歳の練習問題」という詩篇を表出できるのだ。二十年前だろうが、四十年前だろうが、「グロッキーな光景」を見据える視線があれば、その時のことが、絶えず、「現在」という場所へと還流してくるからだ。


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黒崎立体詩集『tempo giusto』(七月堂刊・16.7.9・四六判・88P・定価[本体1200円+税])
眥邑太郎詩集『sound & dcolor』(七月堂刊・16.7.15・A5変型判・102P・定価[本体1200円+税])
藤井晴美詩集『グロッキー』(七月堂刊・16.7.20・四六判・56P・定価[本体800円+税])

坂根 武 著『わが魂の「罪と罰」読書ノート』
(「図書新聞」16.7.30号)

 本書を全篇読み通して、真っ先に気づいたことがある。「作者」といういい方は書かれていても、ドストエフスキーという作家名が、まったく表記されていないことだった(テクストの出典、並びに訳者の表記がないのも、同じ考え方かもしれない)。そして、『罪と罰』の主人公名のラスコーリニコフは、当然、頻出することになるのだが、さらにいえば、ラスコーリニコフを「彼」と表記しながら、その「彼」に寄り添うようにして、『罪と罰』を読み解いている。これは、著者とラスコーリニコフが、魂の共振をしているのだと見做してもいいかもしれない。書名に、「わが魂の」と冠したのは、まさしく、そのような共振を象徴しているからだといえる。
 「このエッセイは、一読書人の、『罪と罰』という小説の純個人的な読書感想文である。それ以外何もない。ほかの批評家の意見への言及もなければ、時代背景への考察もない。そもそもの初め、人は白紙の状態で読書の喜びを知り、後になっては他者の意見に耳を傾けつつも、結局は己独自の感動を以って読書を終えるものとすれば、私のこのエッセイは、読書の原初の姿そのままといっていいだろう。こんな『罪と罰』論もあっていいのではないか。」(「あとがき」)
 「エッセイ」といういい方といい、「純個人的な読書感想文」といういい方にしても、自分が書いたものへ自註的ないい方としては、ある意味、潔いといえるが、ほんとうは、どのように読んだかということを自分のなかで反芻していくことと、そのことを他者に直截に伝えることの間には、大きな懸隔があるといえるはずだ。それは、読後感を自分以外は読むことのない、日記のようなかたちで記すことと、読書ノートとして公開することの違いは大きいはずだとわたしなら思う。
 にもかかわらず、本書に接して、読む(感受する)ことと書く(表現する)ことの間隙に、どのような位相が潜在することになるのだろうかと思いながら、わたしなりの『罪と罰』考と本書との往還を想起しながら述べてみることが、本書に対する、わたしの「ノート」ということになるはずだ。
 「(略)ラスコーリニコフが手を下したのは、老婆の身代わりにした己の命だった。そのあまりにも生々しくも恐ろしい記憶は、一瞬彼の意識から抜け落ちたのだ。この自己死意識が、警察署での恐怖の体験の底に流れている。(略)呼び出しの理由は事件とは無関係な些細な事だった。それを知った時の動物的な歓喜とはじけるような解放感。彼は職員相手にペラペラと身の上話を始めたがそれも束の間だった。心の中には、己の死体が横たわって死臭を放っている。」
 ラスコーリニコフは、なぜ、二人の女性を殺したのかという問い掛けは、『罪と罰』という作品の最も核心的な視線であるといっていい。だから、ラスコーリニコフという存在を社会的、歴史的背景から読み解くことが、ある意味、オーソドックスなかたちではあるが、著者は、ここで、「自己死意識」という考え方を提示していく。そして、「心の中には、己の死体が横たわって死臭を放っている」と徹底して読みきっていくのだ。しばしば、夢幻なる世界の彷徨が描出されたり、どこまで深く自らの心奥の中で贖罪感が胚胎しているのか不分明なかたちで描かれていたり、ラスコーリニコフ像へフォーカスしていくことの困難さが、『罪と罰』にはあるが、著者は、「自己死意識」という視線を通して、ラスコーリニコフに寄り添っていく。
作品中、もうひとつの核心的な場所は、ラスコーリニコフと、自らの行為を告白する相手、ソーニャとの関係性ということになるが、著者は、次のように捉えていく。
 「もしラスコーリニコフがソーニャに出会っていなければ、彼は自殺で以って人生に終止符を打っていただろう。彼は秘密を打ち明ける相手もなく、巨大な虚無は彼を飲み込んでしまったに違いない。」「ソーニャが彼の顔を見たのは、殺人犯でありながら己のオノの犠牲者でもある死の表情であったとわかるだろう。そしてそれを見て、ソーニャに取り憑いた恐怖がラスコーリニコフに感染したのもうなずけるだろう。このようにして、二人が共に同じ恐怖の中で一体になった不思議な瞬間が理解できるだろう。」(傍線ママ)
 宗教(神)の問題が、さらに大きな問題として作品中には横断しているといっていい。わたしは正直なところ、これまでドストエフスキーと宗教の関係を留保にしながら読んできた。ラスコーリニコフとソーニャを「恐怖の共同性」の中に措定するということは、そのまま、著者が、「ラスコーリニコフは神に反逆する思想を実践した」と見做していくことに繋がっていくわけだが、どこかで、そのことに首肯したくなる自分が、いることに気づかされることになるといっていい。

(編集工房ノア刊・15.12.20)


前川整洋 著『巨匠探究――ゲーテ・ゴッホ・ピカソ
(「図書新聞」16.7.16号)

 わたしは、「巨匠」や「巨人」(例えば、「思想界の巨人」というように)と称して、影響を受けた先人を捉えたことがないので、書名を見て、一瞬、逡巡してしまったといっていい。だが、読み終えて感じたことは、著者の丹念な論及と解析によって、「巨匠といえども、才能にまかせて降って湧いたように作品ができ上がったのではない。才能を厳しく磨くだけではなく、境遇や歴史の潮流との相互作用から才能は育まれ、作品へと開花したのだ」(「はじめに」)ということを率直に了解することになる。著者は、伝記的位相と作品世界を巧みに交錯させながら、そこへ繊細に視線を射し入れて、それぞれの〈像〉を浮き上がらせている。だから、本書によって、わたしが、思い込んでいたゲーテに対する偏見は見事に解体され、青春期から共感していたゴッホとピカソへの親愛性をあらためて確認できたといえる。
 わたしは、「詩、小説、戯曲さらに科学上の発見、政治家としての実績と、業績は多岐にわたっている」と著者が述べていくゲーテの「偉業」に対して、いつも不分明さのようなものを抱いてきた。それは、例えば、ワイマール公国のアウグスト公からの強い要請で宮廷政治家として長年活動しながら、精力的に創作活動をする膂力の源泉はどこにあるのか理解できなかったからだともいえる。
 「宮廷社会の視野の狭さ、発展性の欠如を見極めながら、当時の社会通念や宗教の教義に没入したようなスタンスはとらず、自然科学にも則った世界観を推し進めている。(略)混迷する社会において欲望や失望にさ迷う人びとは限りなく多いが、ゲーテ作品には自然界の深淵さが流し込まれていて、迷いを打開する手引きが暗示されている。というより、迷いを昇華するための思想と理想追求のエネルギーを、ゲーテはもたらしている。そのエネルギーの向かう先は、自然への畏敬と文化芸術をベースにした世界の合一でなくてはならない、と感じとれる。」
 「当時の社会通念や宗教の教義に没入したようなスタンスはとら」なかったということは、ゲーテに「キリスト教だけが宗教なのでは」ないという開明性があり、「イスラムの文化や思想への理解を言明し」ていて、それが、『西東詩集』という抵抗詩集へと結実していったと述べている。このようにゲーテを捉えていく著者の論及は、そのまま、宮廷政治家から、『色彩論』、『ファウスト』を著わしていくゲーテの膂力の源泉を顕在化させているといっていい。
 絵画作品を論じる場合、文章による創作作品とは違い、図録や画集に掲載された作品と実際の作品とは同じではないという障壁をどうするかという問題がある。だから、本書の著者は、展覧会で観た作品の印象に基づいて、極力論及していく。その姿勢のなかに、わたしは、著者が考える「探究」することの意義を見出さざるをえない。
 「ゴッホ展で誰もが最も期待しているのは、『夜のカフェテラス』(略)であるはずだ。(略)人垣の間から部分的にしか見えていなくても、輝きをはなっている。どうにか最前列に立てた。アルルの街中の狭い通りのカフェテラス、そのベランダを煌々と照らしているガス灯の明かり。(略)人々にとっては見慣れた灯かりであるが、闇を照らし、温もりのある天空を出現させている。」
 「『ゲルニカ』はパリ万国博のスペイン館に展示された。それはピカソによる社会活動の金字塔となった。/この絵は平面的に描かれていて、映像的な悲惨さや残忍さを表現しているのではない。象徴性や寓意性で戦争とは何かを差し出している。さまざまな解釈がなされてきたのであるが、(略)解釈は鑑賞者に委ねられているといった方がよい。(略)『ゲルニカ』の全体的なイメージは、私には、行き場のない亡霊の徘徊のように見えたが、犠牲を無駄にすることなく新らしい世界へ踏み出そうとする意志も込められているのである。」
 まるで、読み手を実際の作品を観ているかのように誘っていく著者の「夜のカフェテラス」鑑賞は、そのまま、「ゴッホの絵に美の極致を見る人もいれば、理想郷をイメージする人やコスモロジーを感じる人もいる。鑑賞者それぞれの人生観、世界観、自然観との呼応からさまざまな耀きを見せてくれる」と述べていくことに繋がり、ゴッホ〈像〉を鮮烈に紡ぎだしていく。さらには、「ゲルニカ」への開かれた視線によって、「誰が見てもピカソとわかる作品の耀きは、耀きを失うことはない」として、「巨匠」であることの本質をピカソ〈像〉として提示していく。
 こうして、本書が、まぎれもなく、「巨匠」への鮮鋭なる「探究」の書であることを、わたしたちに示しているといっていい。

(図書新聞刊・16.4.30)

佐藤竜一 著『海が消えた 陸前高田と東日本大震災―宮沢賢治と大船渡線
(「図書新聞」16.5.7号)

 東日本大震災から五年が経った。五年という歳月は、多くの人にとって、重く感じられてきた時間のはずだと思いたい。だが、わたしもそうなのだが、被災地から遠く離れているものにとって、どうしても、崩壊した原発のある福島の方へ視線が行きがちになることを意識せざるをえない。ほんらいなら、宮城、岩手へと至る広範な太平洋沿岸の場所は、いまだ、「復興」という言葉から遠い状態にあることを、視線のなかに入れるべきなのだ。
「阪神大震災から五年経て、神戸周辺では仮設住宅がなくなった」にもかかわらず、著者の生まれ故郷・陸前高田をはじめ「東日本大震災の被災地では」、「仮設住宅がなくなるめどはたっていない」と著者は述べながら、次のように被災地の「現在」を記している。
 「元々過疎化が進行しており、産業基盤が弱く、交通の便が悪い地域で起きた東日本大震災は、阪神大震災と比べてより被害が深刻で、今後地域がどうなるのか、不透明である。(略)震災後、多くのジャーナリストが現地入りし、その被害のすさまじさを書き記した。それはそれで価値があったと思うが、次第にそうした報道熱は冷めていく。(略)大震災発生から五年を契機に被災地の報道はいっそう少なくなり、ついには忘れさられてゆくのではないか。私はそのことが恐いと、思った。/被災地に住む人々の生活はむしろ苦しくなるばかりで、むしろこれから様々な支援が必要になると考えるからだ。」
 時間の経過とともに、当事者以外の人たちの記憶というものは、希薄になっていくものだと、よくいわれることなのだが、だからといって、「現実」から目をそらしていいわけではない。被災地の人たちの日々は、わたしたちの日々と同じ時間が流れているという当たり前のことを忘れてはならないからだ。
 本書は、宮沢賢治学会イーハトーブセンター理事であり、多くの賢治に関する著書を持つ著者が、賢治と陸前高田を通る大船渡線(陸前高田まで開通したのは、賢治死後、数カ月経ってからだった)をめぐる論考(「第四章 宮沢賢治と大船渡線」)と故郷への痛切な思いを連結させながら震災以後を問う文章群によって構成されている。「外」からの視線ではなく、あくまでも、「内」からの視線だからこそ、見えてくるものがある。しかも、同じ岩手県内とはいえ長く一関に住む著者にとって、生まれ故郷とは、「内」でありながらも、「外」でもあるという微妙な距離間を潜在させているからこそ、郷愁感というものは、わたしたちの日常という物語にとって普遍性を持つものだということを示してくれている。
 本書の第二章「それぞれの大震災」では、中学の同級生で画家の鷺悦太郎や地元の醤油製造会社社長、ジャズ喫茶店主たちのことが語られ、第三章「死者を悼む」では、従兄たちや伯母、母のことを述懐していく。
 そして、第一章が、「高田松原と奇跡の一本松」と題して、震災後、奇跡的に唯一残った一本の松をめぐって述べながら、郷愁というものの象徴性を浮き彫りにしていく。「国の名勝、日本百景のひとつ、白砂青松の高田松原は」、「年間百万人の海水浴客でにぎわう、市民にとっては精神的支柱」であったという。それが、震災によって「壊滅的な打撃を受け」たのだ。
 「七万本の松が高田松原に植えられていたとされるが、唯一残ったのが奇跡の一本松である。高さは約二八・五メートル、直径は八七センチあり、震災後の調査により、樹齢が一七三年と確認された。江戸時代後期、天保年間に植えられたものと推定される。」「陸前高田市民の約一八〇〇人が死者・行方不明者になっている。大震災以前の陸前高田の人口は約二万四千人にすぎない。/その一割弱の人々が犠牲になったことになる。(略)生き残った人々の生活も平坦ではない。仮設住宅に暮らしている人々、仕事に就くことができずに苦しんでいる人々も多い。そうした人々にとって、奇跡の一本松は希望や勇気を与える象徴的な存在だった。」
 しかし、その一本松も、「根元まで来る海水の塩分で根腐れを起こし」、調査した結果、枯死と判断された。だが、「多くの人々の鎮魂・追悼のためのモニュメントとして」、保存されるのが決まり、いったん、伐採し薬剤処理などをして「再生した奇跡の一本松が依然同じ場所に姿を現」すことができたという。「復興」という言葉より、むしろ、「再生」ということの方が、被災地の人たちの明日への言葉として相応しいのではないかと、著者が語る一本松の物語は、伝えている。

(ハーベスト社刊・15.12.23)

 Yogaを始めて、一年が経過した。4月から新年度だから、二年目に入ったことになる。この一年、休んだのは二回だけだ(父の一周忌法要のためと、妻が急な仕事で休むため、一人では参加する気がなく休んだ二回ということになる)。それにしても、よく続けてきたものだと、つくづく思う。何度も記すことになるのだが、これまで定期的に続けてなにか(勉強会や研究会、もちろん、身体を動かすことも含めて)をやるということが、なかったから、自分でも、不思議でならない。まあ、ひとりではなく、二人で通っているし、進んでいくというよりは仕方がなく付いていくだけだという感覚でいるから、持続できたのかもしれない。
 講師の方には、指示通り動かないことにたいして、何度も、注意、喚起されるにもかかわらず、めげずに、やっているのだから、自分でも、随分、寛容になったものだと思う。だが、ポーズに対する身体の反応に無理があるのか、いまだに、呼吸のタイミングが掴めないからか、Yogaが終わった後、最初の頃に比べて、かなり〈イタミ〉を感じるようになった。
 Yogaを始めるようになって、Yogaに対しては、もちろんのこと、様々なことで心的な部分で変わってきたかなと思うことがある。別に、Yogaをやれば、健康になるとかは、まったく思っていないから、淡々とやるだけだと自分には言い聞かせている。いや、そもそも、言い聞かせるということ自体、駄目なんだろうな。
 今月の12日に、教室の面々(私たちを入れて七人の受講生)と、講師の方とで、終わった後、花見ランチをした。いろいろ話してみて、そんなに大げさにYogaのことを考えているわけではないことに、共感を持ったといっていい。わたしのように、酔っぱらって、駅の階段を転げ落ちたから、バランスよくしたいとか、二日酔いしないためとか、屁理屈を言う人たちではないことに、自分自身の有様に、申し訳ない気持ちになったものだ。
 もちろん、講師の方のスタンスがいいからなのだが、そもそも、Yoga教室に男性が少ない理由(ワケ)は、わたしのように、過剰にYogaというものを意識過ぎるからだと思う。
新年度からは、なるべく、Yogaから遠く離れて、ただ、カラダを動かすということに、集中したいものだ。そして、素直に、感謝の言葉(ナマステ)を言えるようにしたいと思う。

 23日に、〈外Yoga〉というものを体験した。ますます、不思議な世界に入り込んでしまいそうな気がする。

久保昭男 著『物語る「棚田のむら」―中国山地「上山」の八〇〇年
(「図書新聞」16.4.2号)

 本書は、著者が生まれ育った「むら」をめぐって、横断する時間を視野に入れながら、風土と暮らしの風景を記述したものだ。場所は岡山県英田郡英田町上山(現在、美作市上山)。中山間地の百戸ほどの集落でありながら、大芦池という溜池の灌漑水によって、かつては棚田が広がっていたところだ。
 「一九八〇年代の初めのこと、二十年ぶりにこの地を踏んだわたしはがく然とした。谷川のほとりにあった水田が一か所、そしてまた一か所、葛と灌木におおわれ、山地との境も見分けられない。(略)棚田の風景に溶け込み、自然のひとコマとなって過ごした体験からすると、この変わりようは他人事とは思えなかった。(略)荒地と化した光景を前にして上山から遠去かっていた歳月がよみがえり、新たな想いが湧き上がった。――棚田はいつ拓かれたのか、むらはどのようにして出来たのか、と。」
 このように述べながら、「本にまとめようと思い立ってから十数年」経って、ようやく結実した本書には著者の渾身の想いが込められているのは、充分に理解できる。ただし、“渾身”と形容してみたが、全篇を通した印象は、情緒的な表現に陥らず、極めて俯瞰的に、しかも精緻に「上山の八〇〇年」を描出している。わたしが、あえて渾身といういい方を冠したのは、「思い入れのあまり実像を歪めること」のないように、「『棚田のむら』を対象化」しようとした著者の姿勢に共感したからなのだ。
 さらにいえば、著者にとっての個的あるいは私的な場所を採り上げていながら、「上山」という空間が、ある意味、普遍性を持って、「むら」という共同性を表象していることが、伝わってくるのだ。その中心が、「大芦池という溜池」の有様といっていい。田畑や人びとの暮らしにとって必要不可欠なものが、「水」であることは、誰もが知っていることだ。海や河川、湖の近接に暮らしているのなら、それほどの労力を必要とせずに、水利は可能となるが、「上山」のような中山間地は、そういうわけにはいかない。
 「大芦池はいつ、だれが造ったのかは分かっていない」としながらも、著者は「池造り神話」を渉猟しながら、「上山神社由緒書」を辿り、「大芦池の改修は、五世紀から九世紀のあいだ、何度か繰り返された」だろうと推論していく。そして、改修は戦後の五十七年まで断続的に続いてきたのだ。しかもその時は、村人たちの無償奉仕によってなされたという。これは、戦後期でありながら、貴重な共同体内における相互扶助の遺産だといっていい。
 「江戸時代の農地評価によると、(略)上山は『下田』にランクされている。(略)河川流域のような洪水や旱害におそわれることもないので、数百年もの長いあいだ水稲中心の農業を営んでくることができた。これは地形をいかした、溜池を中心とする灌漑システムに負うている。」
 河川の場合は、ある程度、自然に委ねることになるが、溜池は、そうはいかない。絶えず、人の手によって改修していかなければならないのだ。だから減反政策や人口減少、高齢化といったことによって、棚田を維持していくことが困難になっていくのは、避けようもないことだといえる。わたしは、昨今、よくいわれる限界集落といういい方に、反発を覚える。だからどうしたといいたいからだ。一見華やかな都市という相貌にだって、「限界性」ということが絶えず、胚胎していることを忘れてはならない。わたしたちが、人として生活していくということは、無意識のうちに限界性を超えていくことからしか、ありえないからだ。
 「二〇一〇年代を前にして、棚田再生の動きがもちあが」り、「大阪のグループが立ち上げた『英田上山棚田団』をはじめ多くの人が参加して、荒地と化した棚田の復旧にとりかか」ったそうだ。そして「野焼きを行って埋もれていた元のかたちをよみがえらせたとき、むらの人たちは二度と見ることがないと思っていた棚田の風景に息をのんだ」という。そして、そういう人たちが、あらたに「上山へ移住してきた」のは、限界というものをある意味、無化してくれたことになる。
 だが、なぜか、わたしは、「上山にはひとり暮しをする年寄が何人もいる。住み慣れた家で寝起きし、見慣れた風景と朝夕向きあうことに安らぎをおぼえるのか、足腰の立つうちはむらを出て子どもたちの世話になる人は少ない」という暮らしの風景の方に惹かれてしまうのだ。そこには、無意識の共同性(相互扶助性)へと向かう心性があるからだと思う。

(農山漁村文化協会刊・15.8.5)


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  • 「内」からの視線で震災以後を問う                              ――「復興」より「再生」の方が、被災地の人たちの明日への言葉として相応しいのではないか。
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