浅野詠子 著『彫刻家 浅野孟府の時代 1900―1984
(「図書新聞」20.3.7号)

 彫刻家、浅野孟府(一九〇〇〜八四)といっても、詳しく知っている人はそれほど多くはないはずだ。わたしも、中学生時に白土三平の劇画作品『忍者武芸帳 影丸伝』(貸本漫画版)に感動し、その後、父親、岡本唐貴が画家であること知り、十代後半から岡本が親交をもった人物の一人として浅野孟府という名を微かに記憶の中に留めたに過ぎない。
 本書の著者は、同姓ではあるが、浅野孟府と縁戚関係はない。長く、「奈良新聞」の記者をしていた著者にとっては、金沢出身で、東京美術学校で学び、その後、東京と大阪を往還しながらも、敗戦後は大阪を拠点にして後半生を送った孟府とは、地理的には近い関係にあったということになる。
 「孟府は自作に未練をもたず、作品よりも創作行為そのものを大事がっていた。(略)戦後のあるとき、著名な実業家から胸像の依頼が来たが、造っては壊し、造っては壊しをくり返しているうちに納期が過ぎて、注文がご破算になったことがある。(略)孟府自身は、多くを語らぬ人であった。日記や自伝などは何も残していない。本業の彫刻は遅作、寡作であることに加えて、当人は寡黙。これらすべて孟府の魅力を深くしている。」
 二〇年、「孟府と唐貴は、神戸で出会った」という。二年後、上京し共同生活を始める。二人は東京美術学校に入り、北村西望に師事する。その後、彫刻と絵画を並行して続ける。やがて、大正から昭和へと時間が移行する時期は、左翼運動、プロレタリア美術運動といったことが渦巻く時であった。唐貴は一貫して左翼運動に身を投じるが、孟府は、どうか。二八年、「階級闘争を志向するプロレタリア美術運動のグループ展」に、「レーニン像」を制作し出品している。
 「村山知義の自伝によると、当時のアバンギャルドの美術家たちは、アナーキズムとコミュニズムの区別はよくわかっていない。(略)この視点は、孟府没後の追悼式において朗読された一代記の内容とも符合する。「孟府にとって左翼とは、クロポトキンの無政府主義までは理解できても、マルクスはそれほどわからず、バルザックの評価に共鳴していただけで、何か新しいもの、ファッショナブルなものとして認識されているようでした」と追悼式の台本にはある。」
 村山は、硬直したコミュニスト(共産党員)であるから、認めがたいアナキズムと混同して理解されることは許せないだけなのだ。むしろ、孟府が、「クロポトキンの無政府主義」を理解していることの方が凄いと、わたしなら率直にいいたい。
 「孟府はブタ箱に出たり入ったりする渦中、人形劇をはじめとする児童文化のジャンルに独特な造形を次々と開花させていく。」
 本書の口絵に彫刻作品とともに孟府制作の人形三体(人形アニメ『羅生門』・六三年)の写真が収められている。三〇年に、人形劇団「トンボ座」、三二年に「人形トランク座」に参加、そして、三五年、「大阪人形座」を旗揚げする。「そこに二九歳の青年」で、「戦後、東宝映画『ゴジラ』の怪獣を造形する利光貞三」が加わる。彫刻、絵画、人形制作と多岐に渡って創作活動していく戦前期のなかで、孟府は、戦意高揚映画に関わる。日米開戦一周年に合わせた『ハワイ・マレー沖海戦』(監督・山本嘉次郎、特撮・円谷英二、四二年・東宝)という作品だ。
 「映画の美術を孟府が引き受けた直接の動機は、生活のためだと、次男潜の自伝にある。(略)三六(略)年に生まれた長女に「映」という名をつけている。(略)映画は、孟府の造形世界における里程標といえるだろう。」
 左翼から転向し戦争協力映画をというのではなく、「造形世界における里程標」という著者の位置づけは納得出来るような気がしてならない。
 敗戦後の孟府は、彫刻の仕事は続けながら、新聞小説の挿絵も描いているが、けっして生活は楽ではなかった。
 「孟府が世を去ったのは、一九八四(略)年、満開のサクラがちらちらと舞う四月一六日のことであった。(略)死の八ヵ月前まで、孟府は制作していた。(略)芸術家の人生には満潮期と退潮期があるといった評論家がいるが、こと孟府の生涯においては退潮期があったことを感じさせない。過労で倒れる寸前までこの像に取りかかっていたことを思うと、生涯、造形師を貫いた。」
 著者の視線は、孟府にたいして優しく注がれていく。左翼的な渦動に身を置きながらも、たぶん、多くの思想家や文学者のような、転向などという様態とは関係なく、造形の仕事が好きだったという理由で、戦意高揚映画に関わる孟府の像は、「作品よりも創作行為そのものを」切実に考える稀有な存在を表出しているといっていいと思う。

(批評社刊・19.11.5)

前山光則 著『ていねいに生きて行くんだ《本のある生活》
(「図書新聞」20.2.29号)

 七十年代から八十年代にかけて(何号まで発行されていたかは正確にはわからない)、福岡で『暗河』(編集・石牟礼道子、松浦豊敏、渡辺京二)という雑誌が刊行されていた。わたしは、何号か購読している。本書の著者は、最初期から関わっていて、第四号に「島尾敏雄序論(1)」が掲載されたという。以後、『暗河』の「編集作業にも深く関わることとなった」と述べている。『暗河』の発売元となっていた葦書房の流れを汲む弦書房のホームページに「本のある生活」と題して二〇一〇年二月からコラムを連載してきて、現在、三五〇回以上続いている。その中から七十編を収めたものが本書である。
 書名の「ていねいに生きて行くんだ」は、淵上毛錢(一九一五〜五〇年)という熊本県水俣出身の詩人の「出発点」という詩の一節からとられている。
 「美しいものを/信じることが、//いちばんの/早道だ。//ていねいに生きて/行くんだ。」
 著者は、「さんざん飲んだくれて癌を発病した人間」だが、克服してきた。しかし、妻は一八年七月に亡くなる。享年七一。「亡妻の遺品を整理していて久しぶりに」、毛錢のこの詩を目にしたのだ。
 「妻の使っていた「3イヤーズ・ダイヤリー」との名がついた手帳の最後のページに、きちんとした大きな字で全文が記されていたのである。これを目にして、こみあげてくるものがあった。」
 奥付をみると著者が編集した『淵上毛錢詩集』(石風社・一九九九年刊、増補新装版二〇一五年刊)が記載されている。二人の間では、毛錢の詩世界は対なる関係性を表象し続けるものとして、あったに違いない。
 本書は、本と出会う生活を綴った文章群によって構成されているのだが、それは、同時に出会った本の著者たちへの追悼、思いを綴る文章群によってかたちづくっている。
 石牟礼道子、弘夫妻のことを、「妻は、自分が癌で苦しんでいながら、石牟礼さんのパーキンソン病が不治の難病であることを「かわいそう」と、いつも気にかけていた」と述べるとともに、弘氏を著者は次のように語っていくことは、同じ教師という親近性だけではない思いが滲んでいる。
 「温厚な人柄で、周囲の人たちから「石牟礼先生」と呼ばれて慕われ、道子さんの活動を陰で支えた。定年まで教師として勤め上げて以後は、地元水俣で自適の日々であった。」
 森崎和江、河野信子、石牟礼道子と列記して、鮮鋭な九州の表現者で私的なことが露わだったのは、ある意味森崎だが、石牟礼は、ほとんど知られていない。わたしは、河野さんとは、私的に通交したから、ある程度はわかる。この違いが、わたしにとって石牟礼道子に対する逡巡のような感じを抱き続けてきたのだが、本書によって氷解した。
 本書の巻頭に配置されたのは、島尾敏雄をめぐる文章だ。著者は大学卒業間近の頃、旺文社で文庫本編集などのアルバイトをしていた。担当の編集者に島尾敏雄で一冊出すことを提案、たまたま上京していた島尾に二人で会いに行って交渉し快諾してくれた。一年後に旺文社文庫版『出発は遂に訪れず・他八編』が「発売され、よく売れて、版を重ねた。島尾氏には、以後もわたしの最初の本『この指止まれ』(葦書房)の帯文を書いてくださったり、雑誌『暗河』の編集を担当していた時期には(略)座談をしてもらったりしたのであった」と述べている。一七年七月、奄美で行われた「島尾敏雄生誕一〇〇年記念祭」に参加して加計呂麻島呑之浦を再訪した時のことを綴る箇所を引いてみる。
 「特攻用の震洋艇が格納されていた幾つかの壕が、浜辺のそばの山襞にまだ残っている。その中の一つには、映画「死の棘」ロケの際に撮影用に作られた実物大の模型が置かれている。(略)さほど大きくないボートだ。しかも、ベニヤ製。これは本物もそうだというから、哀しい。(略)島尾敏雄氏は敵艦に突撃して散ることを任務とし、日々を過ごした。立派に死ぬこと以外は考えてはならなかった。(略)八月十五日になって不意に敗戦……、両人(引用者註・島尾敏雄とミホ)の当時の心の内を想像していると、胸が詰まってしかたがなかった。」
 わたしは、一八年十一月に初めて呑之浦を訪れた。入江は静かな水面を見せてくれていた。わたしも、震洋艇の模型を見て、哀しかったとともに空しかった。こんなベニヤ製で米軍のどんな船に突撃しようと考えたのかと思うと敗戦近い日本国家の指導者の虚妄さによって、多くの犠牲者が出たことに憤りを感じないわけにはいかなかった。 
 あらためて、「ていねいに生きて行く」ことを考える切実さを思わないわけにはいかない。

(弦書房刊・19.9.30)
              

上 幸雄 著『奴隷貿易の旅』
(「図書新聞」19.12.7号)

 「奴隷貿易」とは、著者のオリジナルな視線ではないが衝撃的な捉え方だといっていい。書名は「旅」とあるが、歴史的な淵源を探る紀行(調査研究といいかえるべきかもしれない)といった意味合いがその言葉には当然、含まれていく。
 「「奴隷貿易」ビジネスは、他所の土地で、勝手に人を拘束・鹵獲(ろかく)・保有し、他人に売り飛ばし、利益を得ることだが、最終的には、とうとう、他人が持つモノ、ヒト、土地(地下資源を含む)のすべてを領有する権利や実態へと発展したのであった。(略)人を本人の意思に反して拘束し、他人に売り飛ばすことへの批判を展開した人権主義やヒューマニズムの精神や行為は、奴隷貿易の持つ非人間性に対して添えもの程度にしか存在しなかっただろう。」(「はじめに」)
 著者は、ポルトガル第二の都市、ポルトを訪れ、エンリケ王子に関わる歴史的建造物や文化施設をめぐる。エンリケ王子とは何者か。一三九四年、ジョアン一世の第三王子として生まれる。時は、「キリスト教の勢力がイスラム教の勢力を押し返す勢いの真っ只中」だった頃だ。「自国領内からいち早くイスラム勢力の国外追放に成功したのが」、ポルトガルであり、「その余勢を駆って(略)イスラム勢力の橋頭堡であるセウタへの攻撃に出」て、その「先陣に立ったのが」、エンリケ王子だ。王子は、「それまで地中海沿岸地域のごく一部に留まっていたアフリカ大陸に関する知識を(略)習得し(略)、アフリカ大陸を大西洋に沿って南下する発想を得たことであった。それは、まさに大航海時代の到来を予告するもの」(「第二話 エンリケ王子の登場」)だった。
 イタリア人、コロンブスは、スペインのイザベル女王の支援を得て、アジア(インド)へ向かう航路として「大西洋を西に行った方が早道」であると考え、新大陸(アメリカ大陸)に到達したことになる。著者は、エンリケ王子の航海から、「コロンブスはすでに奴隷貿易という発想を持っていた」(「第六話 コロンブス」)と断言する。
 イギリスのリヴァプールに「国際奴隷制ミュージアム」があるという。そこを訪ねた後、著者は次のような思いを述べている。
 「博物館の展示について、日本の場合を考えてみる。太平洋戦争で「中国大陸・朝鮮半島に侵略していった過程」、「シンガポールに侵攻し、たくさんの市民を殺した過程」、「ハワイのパールハーバーを急襲した過程」、「南太平洋の島々を占領していった過程」など、日本軍による周辺諸国に対する侵略過程やその背景を子供でも分かる展示や解説をしている博物館や歴史資料館があるだろうか。」(「第十一話 エリザベス一世の時代」)
 確かに、そういうものはない。さらにもう少しつけ加えていうならば、朝鮮人連行や徴用工の問題は、大日本帝国の統治下にあった朝鮮人に対する奴隷労働以外のなにものでもないといい切ることができる。
 さて、わたしたちは、コロンブスのアメリカ大陸発見という歴史的な事象をそのまま画期的なこととして受容してきたが、そのことによってどういうことが生起したかを考えてみれば、画期的などと称揚できることではない。それは先住民(インディオ他)に対する収奪、虐殺、その後、労働力としての奴隷をアフリカから強制連行して、「アフリカ人奴隷は、アメリカという巨大消費地を得て、需要が大きく伸びると、それまでの衝動的・断片的商品から、計画的に大量に獲得して、需要を満たす商品へと大きく変貌を遂げ」(「第十七話 奴隷貿易のはじまり」)ていったのだ。
 その結果、「急速に奴隷市場が拡大していくなかで、みるみる巨大な化け物へと変身していった。(略)奴隷貿易で獲得した奴隷により、アメリカ大陸では「奴隷制」が生まれ、その奴隷制が拡大するにつれ、奴隷の需要が増し、それがまた、奴隷貿易を盛んにしていった」(「同前」)わけだが、やがて、「奴隷性」は、「黒人差別」として変容し、普遍化されていくことになる。アメリカンデモクラシーは、虚妄に過ぎないことの時間性が、それらに包含されてきたのはいうまでもない。
 著者が本書で試みていることは、明快だ。「ヨーロッパ」―「アフリカ」―「アメリカ」という大西洋三角(奴隷)貿易を俯瞰していくことだ。本書では、ポルトガル、スペイン、イングランドの西欧の王国が奴隷貿易によるアフリカへと至る一辺の道筋を描出していった。しかし、二辺目、三辺目へと辿り完結していかなければ、「アフリカ人自身が味わった旅からすれば、一瞬のまばたき程度にもあたらない」(「終幕」)し、「奴隷貿易の旅」は終わらないと、著者は述べているが、わたしは、最初の一辺が重要であり、後は、わたしたち一人ひとりが受け継いで、「アフリカ的世界」の暗渠を見通していくべきだと思う。もちろん、現在の「アフリカ」は、「内戦」が至るところで生起しているが、これは、「奴隷貿易」の消えることのできない残照であると考えていいからだ。

(歴史の旅クラブ刊・19.9.9)

浜田明範 編『国立民族学博物館論集❻ 
再分配のエスノグラフィ 経済・統治・社会的なもの

(「図書新聞」19.10.5号)

 わたし(たち)は、ともすれば、再分配といえば一見、経済政策的な用語と見なしたくなるが、経済人類学者カール・ポランニー(一八八六〜一九六四年)が提示した互酬(贈与)、再分配、交換(市場)のなかのひとつの概念である。本書は人類学の立場から、「贈与や交換、貨幣といった花形のトピックの陰に隠れがちであった再分配について(略)正面から議論したものである」と編者は「あとがき」で述べている。人類学という視点からのフィールドワークとして、「フィンランドの高齢者向け通報システム」の問題や「沖縄・離島社会を事例に」して、「介護保険法とコミュニティ」の問題、そしてインド、メラネシア、ガーナ北部、ミクロネシア・ポーンペイ島、ガーナ南部における再分配の様相を切開していく民族誌(エスノグラフィ)としての諸論稿を収載したものだ。
 わたし(たち)の世代は、ポランニー、経済人類学といえば、直ぐに栗本慎一郎を想起する。ただ、本書でのポランニーは、批判的継承という位置付けにあることを思えば、歳月の流れの早さを感受せざるをえない。
 編者の浜田明範は、「再分配とは集めて配ることである」とする「ミニマルな定義」によってアプローチしながら、「多様な現象を視野に入れながら、改めて再分配と集団の関係について人類学的に議論することは「社会的なもの」に関する研究にも貢献することになりうる。「社会的なもの」の形すら想像しづらくなっている現代日本において、世界各地からの事例を通じて具体的なイメージを提供したうえで、それを通して思考を紡いでいく人類学のできることは決して少なくない」(「序論 再分配を通じた集団の生成」)と述べていく。
 本書を構成している第1章から第7章までの論稿のすべてに言及したいが、ふたつの論稿から強く関心を惹かれた箇所を引いてみたい。
 インドの初代首相ネルー(一八八九〜一九六四年)が五〇年代に、「建設中の巨大コンクリートダムについて」発言したことをめぐって田口陽子は次のように論及していく。
 「ネルーは「今日、最も偉大な寺院、モスク、グルドワーラー[シク寺院]は、人間が人類全体の利益のため働く(略)場所である。このバークラー・ナーンガル[ダム]よりすばらしい場所がありうるだろうか」と述べた(略)。この発言は、ネルーの世俗主義の象徴として言及されることが多い。」「ダムが寺院とのアナロジーでつなげられることにより、近代の神格化(ダムの寺院化)も生じている(略)。」「インドの近代化の過程では、従来の枠組みと近代的な枠組みがアナロジカルに結びつけられることにより相互に変容していった。そのなかで、生モラル的再分配と国家的再分配も、相互に参照されながら変化している。」(「第3章 再分配のアナロジー」)
 ダムと寺院がアナロジカルに繋がっていくことによって「近代の神格化」が進行していくという視線は刺激的だ。これは、いうところの後進国(地域)だけに顕著にみられることではなく、先進国(地域)にもいえることだと思う。神格化ということに抵抗があるならば、象徴化といいかえてもいい。被爆国にもかかわらず、刻々と原子力の平和利用という象徴化によって多くの原発がつくられていったこの国の醜態を想起すればいい。
 「ミクロネシアのポーンペイ島における共同体規模の再分配」の事例に着目して河野正治は述べていく。
 「ポーンペイの「村の祭宴」における再分配は、明確な中心と確たる境界を持つ単一の共同体を再生産するのではない。むしろ、誰から何を集め、誰に何を配り直すのかという再分配の行為は、村という共同体をめぐる境界づけや意味づけを多様に出現させるのである。」「再分配を通してポーンペイの村を研究するのではなく、ポーンペイの村において再分配の効果を研究する試みであった。こうした研究の強みは、共同体のような人びとのまとまりが閉じられているように見えて異質なものに開かれているとか、非一貫的で重層的に構成されているという指摘にとどまらず、そうした現実がいかに構成されるのかを多様で入り組んだ具体的な過程として跡づける点にある。」(「第6章 再分配を通じた村人のつながりと差異化」)
 わたしの関心は、再分配というよりは、そのような行為、行動をする共同体内の様相とは何かということにある。いわば、共同体というミクロなものは、社会や国家といったマクロなものへ透徹させていくなにかを内在させているといえるからだ。
 「再分配の行為は、村という共同体をめぐる境界づけや意味づけを多様に出現させる」、「共同体のような人びとのまとまりが閉じられているように見えて異質なものに開かれている」といったことを起点として、広義の共同性から「社会的なもの」へと至る通路を見通せるエスノグラフィに期待したいというのが、さしあたっていま思うことである。と同時に、人類学や民族学、民俗学がいまだ、アクチュアルに現在を見通すことのできる方法だと、いいたい気がする。

(悠書館刊・19.4.22)

松本圭一郎、中川理、石井美保 編『文化人類学の思考法』
(「図書新聞」19.8.17号)

 文化人類学もそうだが、民俗学、あるいは民族学といった思考方法は、マルクス主義に象徴化される唯物史観や記紀神話を根拠に語られる王権の物語を相対化させる手立てとして、かつて、わたしは多くのことを感受してきた。近年、多様化する思考のなかで、幾らか、遠のいていた文化人類学というものを、本書によってあらたな可能性の方位へと導かれることになったといっていい。
 編者三人による「序論 世界を考える道具をつくろう」は刺激的なことが述べられていく。
 「私たちは、いろんなものを区切り、名づけ、その枠のなかで生活を営んでいる。でもじつは、それぞれの枠を区切る境界はそれほど強固なものではなく、いつのまにか変更されていたり、消滅していたりする。現実と現実ではないものとの区別さえ、じつは不確かなものでしかない(略)。」
 境界や区別は、強固なものではなく、不確かなものだという編者たちの言及は、示唆的だ。ともすれば、差異化、差別化して、排除していくことを真っ当なことだと思考する現在の情況(トランプ主義をはじめ、多くのことが想起される)を考えてみれば、きわめて危ういことだといってみたくなる。そして編者たちは、「人が生まれ育ち、年老いて死んでゆくという、一見すると自然で普遍的にみえる営みにも、多様な可能性があることに気づく。それは(略)、ある制度や秩序のもとでの生を相対化し、別のありうる姿を見いだすことにほかならない。そこに、人類がずっと昔から他者や動物などと関係を築きながら、そのつど生み出してきた古くて新しい共同性の手がかりがある」と論述していく。
 この、「古くて新しい共同性の手がかり」を求めていくことこそが、本書を現在における文化人類学として屹立させていく方途だといってもいい。
 そうなのだ。わたしが、レヴィ=ストロースの『親族の基本構造』や、モースの『贈与論』に喚起されながら、共同性、つまり共同体の始原性に関心を惹かれていったことを考えてみれば、「古くて新しい共同性の手がかり」となるのは、当然のことだといえる。
 そして本書では、ミシェル・フーコーの権力論が引かれ、アナキズムを射程に入れて独特の思考を展開していくデヴィッド・グレーバーを何人かの論者が取り上げていく。本書は全三部構成で、「世界のとらえ方」、「価値と秩序が生まれるとき」が、第吃堯第局瑤肪屬れ、最終、第敬瑤、「あらたな共同性へ」だ。
 「文化人類学にとって贈与がいまだに重要なのは、それが経済や政治、宗教といった別個のものと考えられている領域それぞれに深くかかわっているからだ。それをゆさぶろうとする力のあらわれでもある。」(松村圭一郎「贈り物と負債」)、「ケアの論理とコミュニズムの論理は通底しており、ケアについて考えることは、人間社会が社会的動物であるという、その社会性と共同性の根源を考えることにつながるものだということにほかならない。」(松嶋健「ケアと共同性」)
 わたしは、ケアという論理、もう少し平明に述べてみれば、ケアという行為は、無償の行為といいかえてもいいのではないかと思う。
 それは、つまり、〈贈与〉ということに近似していくはずだ。もちろん、対価なくしては、ケアを特化して従事することは、困難であり持続不可能なことはわかっている。
 しかし、その心性において、〈贈与〉ということを引き寄せない限りはありえないと思う。松嶋が、「人間社会が社会的動物であるという、その社会性と共同性の根源を考えることにつながるものだ」と述べているのは、〈贈与〉を「経済や政治、宗教といった別個のもの」と見做さざるをえないということに連関していくといっていい。松嶋はさらに、次のように述べて結語していく。
 「ケアについて考えることは、弱き存在である人類が、不確実性に満ちた世界のなかで生き延びる道をどのようにして育んできたのかを考えることである。それは人類史のなかで現在をとらえ、私たち自身の今ここでの思考と実践を変えることで、異なる明日と異なる共同性を開く道でもある。」
 こうして、人類学が、そして、わたしたちが、「あらたな共同性」へと思考していくことを、考えていくべきである。

(世界思想社刊・19.4.30)
 

山口拓夢 著『短歌で読むユング』
(「図書新聞」19.7.13号)

 わたしは、フロイト(一八五六〜一九三九)には近接しながら離れることはなかったが、ユング(一八七五〜一九六一)に対してはどうしても距離感を拭うことができないでいた。契機は、河合隼雄の著作だった。河合隼雄の仕事を通してユングは、わたしにとって、ようやく近接した存在になったといえる。しかし、本書の表題には、心理学とは遠く離れた表現に思われる「短歌で読む」ということを冠している。著者は歌人なのだろうかと思い、略歴をみれば、札幌大学女子短期大学部教授で、西洋哲学、神話学専攻とある。前著は、『短歌で読む哲学史』(田畑書店)。帯文には、「哲学歌人」(斎藤哲也)と記されている。本書に分け入ってみれば、短歌は、小見出しのように挿入されているのが分かる。
 「人類の集合的な無意識が呼びかけてくる夢や神話で」(『変容の象徴』)、「心とは自分を癒す手掛かりを探し求めてはたらいている」(『分析心理学』)、「元型と向き合う人は無意識を自我に取り入れ深化へ向かう」(『元型論』)、「道教の教えが届き赤の書の対話を止めて現実に戻る」(『赤の書』)、「永遠の潜在的な現実が共時性には働いている」(『自然現象と心の構造』)
 本書のなかには多くの短歌が配置されている。難解なユング理論を、短歌によって、少なくともイメージとして感受できるかもしれないと思わせてくれる。ユングの思考の核心は「無意識」ということになるが、さらに拡張して「集合的無意識」へと至る。「集合的な無意識が呼びかけてくる」といったことや、「無意識を自我に取り入れ深化へ向かう」ということが、ロジカルな論述ではなく、「歌」の言葉で紡ぎ出されていくと、なにか理解の通路に立っている気がする。
 もちろん、「いつもユングの書を友としていた」(「あとがき」)という著者だからこそ、深い理解の中で、「歌」の言葉を紡ぎ出せるのだといっていい。
 「フロイトとユングは五年間の親しい交際ののち、(略)ユングはフロイトの性理論に疑いを持ち、フロイトはユングが宗教にモデルを求めて無意識を解釈しすぎるのを警戒した。」(「第一章 入門的な著作」)
確かに、わたしが、どうしてもユングに共感の通路を見出せないでいたのは、牧師の家に生まれ、信仰心のようなものが底流にあったと捉えていたからだ。
 「ユングは人格の中心を意識と無意識を統合した、自己というものにおくべきだ、と結論づけます。(略)達成された自己のイメージを言い表そうとすると、神のイメージのような宗教的形象へと近づいていきます。」(「同前」)
 「ユングの父にとって牧師の仕事は不向き」だったようで、「信仰に興味を持って父を質問攻めにし」ても、「通り一遍の教義を説明するだけ」だったという。ユングが真摯に宗教を起点とする方位へ向かっていったのは、父との逆立した関係性が大きかったことが理解できる。
 「ユングが見てきた多くの患者は、心に向きあうために、悪魔か深くて青い海のどちらかを選ぶかを迫られています。(略)宗教経験のある人は、生命、意味、美の源泉を自分に与え、世の中と人類に新しい輝きを与えてくれる大きな宝を内に秘めています。このような信仰が幻想だと誰が言えるのでしょうか。心理学は、無意識が生み出す象徴を注意深く考慮に入れるのです。神経症はあまりに現実的なものなので、助けになる経験も同じぐらい現実的でなければいけません。」(「第四章 批評と宗教観」)
 この一節の始めに付された短歌は、「内的な神体験とシンボルは救いになれば神の賜物」である。確かに救いを求め、苦しみから解放されたいと希求する人の前で、「信仰が幻想だ」ということの意味はない。悪魔ではなく、「深くて青い海」があるなら、わたしも素直に見たいと思う。
 「自己というのは、言い換えれば、ユング心理学の中心的な課題、個性化の過程という人格の深まりの実現の歩みの到達点を表す最も重要なキーワードです。」「心理学的に見るならば、自己とは意識と無意識との統合です。それは、心の全体性を表します。(略)現代では意識と無意識に亀裂が生じ、人は世界観の喪失の危機に瀕しています。このような亀裂を橋渡しするために、意識と無意識の統合による心の全体性の回復、言い換えれば個性化の歩みが必要とされています。心の深化の最終段階において、人は自己という人格の全体性の回復の元型と出会い、無意識と意識の結合の過程へと降りていくのです。」(「第六章 共時性と自己」)
 そして、著者は、「ユングの心理学」を、「道に迷った現代人の心の案内役として、人生の旅に寄り添っているように」思うと結んで、本書を閉じていく。
 わたしは、著者による深いユング理解に誘われるようにして、ユングをめぐる「旅」に出たいと思っている。

(田畑書店刊・19.4.25)

窪島誠一郎 著『ぜんぶ、嘘』
(「図書新聞」19.6.29号)

 窪島誠一郎は、長野県上田市にある信濃デッサン館(一九七九年設立、二〇一八年休館)と無言館(九七年設立・開館)の館長として知られている。わたし自身は三度ほど訪れたことがある。しかし、信濃デッサン館が昨年の三月に休館したことは、うかつにも知らなかった。
 窪島は、八一年、四十歳の時に、著書としては初めての『父への手紙』(筑摩書房)刊行以後、精力的な執筆活動を続け、数多くの著作を出してきているが、詩集としては、『くちづける』(一六年)に次ぐ二冊目となる。
 昨夏、「命にかかわる病で手術入院し」た。「退院したらこの詩集を出してもらえる、というのが大きな生きる目標になった」と、「後記」に記している。信濃デッサン館の休館も、そのことが影響していたのかもしれない。
 「砂時計の砂が落ちるように/ふいにだれかが、水槽の古びた栓をぬくと/『今』が、すうっと消える/手のとどかないところに すうっと消える//この風景だけは/いつまでも 変わらない/わたしが死んでも/何も変わらない」(「何も変わらない――塩田盆地を望む――」)
 塩田盆地(塩田平)の風景、つまり、信濃デッサン館がある場所から俯瞰できる風景は、確かに素晴らしい。初めて訪れた時、もちろん無言館はまだなく、小さな美術館というイメージだった。だから、変わらないであり続ける風景と、「水槽の古びた栓をぬくと/『今』が、すうっと消える」という非対称な感覚に深い哀しみが滲んでくるかのようだ。
 「死の匂いは/わたしの『希望』の匂い」(「死の匂い」)、「『生きること』から/のがれたいのは/けっして『死にたい』ことではない」(「安楽死」)
 死は、予期している限りは死ではない。生きていることから離反して死を想起することもありえないと、わたしなら考える。「死」と「希望」の連関には、反転した鏡のように自身の心的な面を投影している。それは、「生きること」と「死にたい」ことも表裏の有様を持っていることを意味している。夭折した画家たちの作品の展示を想起した詩人にとっては、「死」と「生」は、常に表裏の感覚のなかに包まれてきたことになるはずだからだ。
 「母の足音がかなしい/駆け出した私を/遠くから追ってくる母の足音がかなしい//『母』という言葉がかなしい/『母』という文字がかなしい」(「かなしい母」)
 詩人には、二人の母がいた。母というものは、本当は一人しかいないはずなのに。ずうっと一人だけの母を母と思ってきた詩人にとって、母とはなにものであったのか。母は、詩人にとって「かなしい」有様であったことになるのだろうか。いや、母をそのように想う自分自身が、「かなしい」有様なのだと告白しているように、わたしには思われる。
 「その街が/記憶から消えたのはいつだろう/ふっと私の故郷が/地図から消えてしまった」(「街」)
 自分自身の出生を記す謄本には、生地が記されている。それは、嘘の記述であってはならないものであるはずだ。だが、生地(故郷)は、生まれた場所でも故郷でもなかった。
 「いたずらに目覚めを急かせる/まぶしい朝陽が苦手/言葉すくなく/身悶えするように沈む/夕陽のほうに惹かれると言ったのも/ぜんぶ嘘、といったら/わたしはやはり磔の刑でしょうか//ぜんぶ嘘、といったら/わたしを許してくれますか」(「ぜんぶ、嘘」)
 「嘘」という言葉に、詩人が込めているものはなにか。本当のことがあって、「嘘」があるのだろうか。そうではないと思う。詩人にとって、「嘘」は、いいようのない「声」であり、必死の思いで発する言葉にならない「声」のような気がする。
 『父への手紙』のなかに次のような一節がある。
 「私は『つくりごと』の嘘をかさね、またその嘘の訂正のために嘘をかさねた。懸命にこしらえあげた自己訂正が、もう一つの新しい嘘をうんでゆくのはつらかった。(略)おまえの出生地はどこかと人から問われても、私にはこたえられない。しばらく考えたすえ、父母から教えられた通り、(略)こたえる。ここから、すでに私の嘘ははじまっているのだった。嘘というより、自分自身でも確信のもてないアヤフヤなうけこたえがはじまっていた。」
 窪島誠一郎にとって、「嘘」は、「本当のこと」の反語ではない。「嘘」には、自分自身の有様のすべてが詰まっているのだ。「嘘」がなければ、存在自体もあり得なかったということになるからだ。そうであるならば、やはり、「嘘」は、必死の思いで発する言葉にならない「声」なのだということになる。

(七月堂刊・19.3.11)

             ―1―

……前回(「情況的言語の空虚さについて」―『風の森 第二次第七号』18.12.20刊)、君との談論で、くだらない小熊の妄言に付き合っていたら、紙数が尽きてしまい、「本当は、元号改元批判をしたかったが、まあ、そのうちにやろうよ」と言って、終わってしまったから、今回は、その続きをやろうよ。
――そうだね。じつは、長年の友人のN君から、たけもとのぶひろ著『今上天皇の祈りに学ぶ』を送ってもらったので、まず、その本に触れながら、僕なりの象徴天皇制の問題点を切開していきたいと思うけど、いいかな。
……たけもとのぶひろ(竹本信弘)といえば、あの滝田修のことだね。彼が、“今上天皇の祈り”へ傾注していたとはね。意外だな。
――ところで、新元号決定という茶番劇を見せられて一カ月、明日から新元号初日というところで、この談論が放たれるというのも、なにか因縁めいているが、まず、たけもと氏への接近を試みてみるよ。
……そんなに力を込めないで、気楽にやっていこうぜ。
――たけもと氏は、いまの、いや今日までの天皇明仁を今上天皇と呼んでいるが、わたしは、とりあえず天皇明仁と称するので、了解して欲しい。三年前のビデオメッセージ「象徴としてのお努めについての天皇陛下のお言葉」を契機として、たけもと氏は語りはじめているわけだが、まず、生前退位(譲位)に関して次のように述べていく。

 「(略)報道はすべて一斉に『退位』で統一されています。その地位から『退く』ことは許されるが、地位を『譲る』という言い方は許されません。なぜか。(略)今上天皇として存在する天皇は、天皇制の安定と皇室の継承に資するのが務めです。なによりもまず『日本社会という共同体を構成する人々』にとっての天皇でなければなりません。フツーの日本人がジョーシキ的にイメージする天皇の姿がこれです。共同体社会日本の『人々』が『天皇』との間にくり広げる世界です。(略)天皇というのは、皇室祭祀を主宰する祭司(巫祝・神官)でもあるということ、そういう存在だということです。(略)しかし、もともと天皇が国民の為に祈る祭祀であったものについて、国家権力――時の政府が、天皇家の『私的行事』としてのみ『許す=黙認する』という、この構図は、いったい何を意味しているのでしょうか。(略)祭祀でもあるし・そうあらねばならない天皇に対する軽視あるいは無視、天皇の祭祀(祈り)からの、国民排除の本質は、〈祈り〉で表される『国民統合の象徴』としての、天皇の実践よりも、実は象徴天皇制を飾りに貶めることによって、国家権力による国民『統治』の方をより重視するという事だと思います。」(「まえがき」―37〜41P)

 わたしは、たけもと氏のように、天皇になんら思い入れはないし、「日本国憲法」第一条の「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」という表現はあまりにレトリックに満ちていて、共感も抱いてはいない。それでも、天皇明仁が退位、生前譲位を企図したことの真意は、安倍一強体制への危機感から来るものであることは間違いないといえそうだ。新元号も、安倍が無理やり「令和」を候補に入れて、結局、そのまま決定したということが、まことしやかに言われ出しているからだ。
 安倍やその周辺が、「『国民統合の象徴』としての、天皇の実践よりも、実は象徴天皇制を飾りに貶めることによって、国家権力による国民『統治』の方をより重視するという事」を画策しているのは、確かだとしても、帝国憲法とは違う、統帥権のない「元首」に据えた方が、不分明な象徴という有様より、政治利用しやすいと考えるのは、自民党保守派(日本会議派)の思惑といっていいと思う。しかし、だからというべきか、天皇明仁の生前退位そして譲位が、象徴天皇制の強化へと繋がってしまうと、わたしなら推断せざるをえない。後にも触れることになるが、そもそも、「天皇が国民の為に祈る祭祀」とはなにかと問いたい。言葉を表層的に捉えるなら、天皇教の信者である国民の為に、教祖・天皇が祈る祭祀ということになるといわざるをえない。江戸期の天皇家の宗教がどういうかたちであったのかは、わからないが、神道を全面に出して天皇像をかたちづくろうとしたのは、薩長政権の明治政府以降のはずだ。大嘗祭もかたちを変えることなく継続されてきたのかどうかもわからない。そもそも、血統が不断に続いてきたものではない以上、天皇家という存在性自体、疑ってかかるべきだといわざるをえない。

 「陛下の衷心より発する『被災地お見舞い』という行為は、被災者国民の心を動かしました。そして、彼らが体験したその感動は、ブーメランのように、両陛下の胸に帰ってくるのでした。(略)彼らの感動を受けとめる陛下ご自身の心の中に、『天皇』という地位によっては尽くすことのできない、『個人』という在り方が生まれる――そういうことではないかと思うのです。『明仁』という名の『個人』が、天皇という地位を務めながらも、その地位から引き剥がすことができない、その『個人としての存在』を主張する。/今上天皇は、自らのうちに、そういう二重性を抱えもつ『天皇』を務めてこられたのではないか、と思うのです。」(「第二回 『個人』としての問いかけ」―61P)

 たけもと氏が、「『天皇』という地位によっては尽くすことのできない、『個人』という在り方が生まれる」と捉えるのは、あまりにも鮮鋭すぎる。天皇明仁が、「明仁」という「天皇」と「個人」の二重性を“抱えもつ”ことは、ありえないといいたい。ほんとうは天皇家にあっては、「個人」という意識はタブーのはずだ。まず、名前を考えてみる。天皇家には、いわゆる姓、つまり名字がない。男子は独立すれば、別名義の皇族・宮家となる。女子は、婚姻すれば、「個人」となって戸籍を持つ。もちろん、ここで「個人」と称しているのは、そんな俗的なことではない、といわれそうだが、「天皇」と「個人」は、相容れない次元であると、わたしならいいたいのだ。それは、「天皇」と「国民」と称することへと移行することに等しいといいかえてもいい。
 神聖なる天皇から人間天皇に移行した裕仁は、「天皇」と「個人」の二重性を考えただろうか。いや、そのように考えていくと、〈迷宮〉へと彷徨うことになる。裕仁は、「神聖天皇」と「象徴天皇」の二重性を有したといえば、わかりやすい。わたしは、「象徴天皇」裕仁と、「象徴天皇」明仁の違いはあるのかと考えてみるならば、それは、同じであるといいたくなる。そもそも、天皇制度という地平から捉えてみるならば、戦前戦後が地続きであるように、神聖と象徴は、天皇制において連続したものだといえるからだ。
 例えば、先に述べたことだが、たけもと氏もまた、「安倍首相たちの『自民党憲法改正草案』は、その第一条の冒頭に、『天皇は、日本国の元首であり(云々)』とうたっています。現行憲法の『象徴』規定の前に『元首』規定を置いているのです。天皇の元首への“格上げ(=実は棚上げ)”です。天皇権力の政治利用の意図が見え隠れします」(「第三回 神聖天皇か象徴天皇か」―70P)と指弾している。しかし、わたしは、象徴性は優れた有様かと問われれば、そうだとは思わない。天皇裕仁の二重性によって、〈象徴〉性は、国民や個人といった位相とは、まったく別次元のものだと思うからだ。

  「したがって今上天皇としては、象徴天皇の『象徴』がいったい何を意味するのか、その定義もなければ、前例もないに等しい状況のなかで、その地位に就かざるをえなかったわけです。『象徴としての望ましい在り方』など皆目わからないのですから、それを『常に求めていくように努める』ことが、実は今上天皇の最大の務めだったように思えてなりません。(略)象徴天皇の務めは、君臨・統治ではなくて、象徴・統合です。/まず最初にあるのは、天皇ではなく国民です。天皇はあくまでも受身です。/国民皆の声に耳を傾け、喜びも悲しみも共にする。共感共苦する。受け容れて共にする。/神ではなくて人間であるからこそお互いの中にあることができる。共にあることができるからこそ成立する、国民と天皇の相互関係。/このようにお互いの間を信頼の気持ちでもってつなぐプロセスがあってはじめて、象徴ということが起りうるのではないかと考えます。(略)象徴天皇の務めは、日本国と日本国民の身の上を思って祈る、という、この『祈り』という行為に尽きる、とさえ言うことができるのではないでしょうか。」(「第七回 『お言葉』は今上天皇自身による『象徴天皇論』」―120〜122P)

 たけもと氏の本意は、天皇明仁の〈祈り〉の問題だといえる。「今上天皇としては、象徴天皇の『象徴』がいったい何を意味するのか、その定義もなければ、前例もないに等しい状況のなかで、その地位に就かざるをえなかったわけです」と述べているが、先代の父・天皇裕仁は、四十年以上、〈象徴性〉を維持してきたことを忘れてはならない。裕仁時代と明仁時代の三十年の〈象徴性〉は別位相といいたいのだろうか。わたしは、そうは思わない。そこには断絶はなく、絶え間なく連続性があるだけだ。もし、天皇明仁が象徴性に問題があるとするならば、父・裕仁の象徴性の表出の問題を俎上に載せるべきだが、そのことには、「お言葉」以後において触れることはない。だから、わたしが、いいたいのは強固な象徴性を希求するということが、どうしても天皇明仁の言葉のなかから、感受してしまうのだ。穿ったいい方をしてみれば、浩宮と礼宮の確執を危惧するということも推察できないわけではない。

  「陛下の『国民』は、国民という『概念』ではありません。そのことを表現するのが、『国民皆』という独特の呼称ではないか、という趣旨のことを既に書いた通りです。『皆』と呼ぶのは、国民を『人々』というレベルで知りたい、というお気持ちの表われではないでしょうか。(略)天皇と国民というと一見別々の存在のように見えるけれども、『合わせてみると』もともとは同じ一つのものだったことが分かる。象徴天皇と国民とはそういう、いわば“割賦”の関係なのだと。//天皇と国民が、お互いを合わせてみたとき“割賦”の関係であることが分かった――そういうときの天皇を象徴天皇と呼ぶのだと思うのです。」(「第八回 今上天皇による『象徴天皇』論の核心」―143〜146P)

 たけもと氏がこのように述べていくとき、わたしは、なにかやるせない心情を抑えることができない。もちろん、全国各地を巡り、その場所の「人々」と接している天皇明仁と皇后美智子の〈像〉を見る時、たけもと氏のように感受してしまうことを否定するつもりはない。だが、「人々」は、無作為に選ばれて天皇明仁たちと邂逅しているわけではないのは明らかだ。「人々」は、無為の人々ではない。少なくとも、天皇という存在に帰依していく人たちといえるはずだ。

  「存命中の天皇が後継者に皇位を引き継いでいくのが世の習いとなるのですから、ものは言いようですが、天皇は決して死なない――死ぬのは上皇になってから――ということになります。天皇制は揺るがない、ということです。」(「第十一回 生前譲位――象徴天皇の皇位継承」―186P)

 これは、明治近代天皇制以前は、当たり前に行われていたことだし、一族会社の後継者選びも同様になされていることで、特別な計らいというわけではない。明治以降の天皇制がむしろ異様な〈像〉を作り出していったということになるのだ。〈死〉から〈生〉へと継承していく王権の移動こそが、天皇制の権威と神話性を強固にしていく物語だったということになるからだ。

             ―2―

……裕仁は、確かに〈戦争〉と〈戦後〉を生き抜いた存在だったし、明仁は、〈戦争〉のさなかに誕生しているわけだから、個人としては、戦争責任から遠く離れているかもしれないが、信念として、戦争のない世界を希求していたことは分かるが、〈天皇〉という存在は、連続性があるものである以上、父の責任も継承せざるをえないのは明白だ。そこが、三十年以上の時間のなかからは、見えてこないといっておきたいな。
――恐らく、天皇の戦争責任は東条たち以上に誰よりも重いといっていい。死刑とされた戦犯たちへの裁判の結果が、裕仁の誕生日の4月29日で、死刑執行が、明仁の誕生日の12月23日だったことは、アメリカをはじめとする連合国側の究極の判断だったといっていいね。もちろん、どちらに正義あるなんていいたくないが、国家間戦争において勝利した側に戦争責任はないなんていえないということは、はっきりさせておきたいね。
……GHQが天皇制を温存させたのは、いろいろな憶測がいえると思うけれど、裕仁本人はキリスト教に帰依してもいいと考えていたのは、『実録』等で明らかになっているから、それなりの覚悟はしていたようだが、そこまでして、嘆願したかったのかと思わないではないな。
――裕仁をめぐっては、別の機会にすることにして、やはり、改元も含めて、天皇位の継承というものをもう一度考えてみるべきだと思う。元号が本当に必要なのかということもだ。
……既に西暦の方が理にかなっている以上、元号は必要ないといえるはずだ。しかし、天皇制と元号は、たけもと氏のいうところに真似ていえば、まさしく割賦の関係といっていいから、天皇制が存続し続ける限り、ありえるということになるな。
――使う使わないは、個々の自由でいいはずだから、ゆくゆくは形骸化していくと思いたいね。


※たけもとのぶひろ著『今上天皇の祈りに学ぶ』(明月堂書店刊・四六判・284頁・18.11.10発行)

大野光明 小杉亮子 松井隆志・編『社会運動史研究 1 運動史とは何か』
(「図書新聞」19.4.27号)

 「なぜ私たちは『社会運動史研究』を始めるのか」と題して、本書の巻頭に、大野光明、小杉亮子、松井隆志の三人が発起人として書いている。
 「過去をないがしろにすることは、未来を枯れさせることだ。(略)メディアの目的は、社会運動史についてのこれまでの知見の共有、さらに現在進行形の調査・研究の成果の公開とそれによる運動史のいっそうの蓄積である。単に、社会運動の過去を恣意的に修正しようとする言説に抗するだけでなく、社会運動史をめぐって研究者がネットワークをつくり討論を重ねる場となるような、プラットフォームづくりをめざす。私たちは埋もれた種を掘りかえし、この社会に改めて蒔き直すことを試みたい。」
 社会とは何か、運動とは何かといったことを、ここでは直截に問うことはしない。発起人、あるいは編者の三人が向かっていく先は、どこかということだけが、わたしには切実なこととして見えてくる。過去と未来は切り離せないものだ。そのことだけは確認しておきたいこととしてある。76年生まれ、79年生まれ、82年生まれという三人の年齢の幅が、時代情況とどう対応していくことになるのかということには、わたしの関心はない。ただただ三人の立ち位置だけは確かなことだということは理解できるつもりだ。
 松井隆志は、小熊英二の『1968』を俎上にのせていく。
 「『「あの時代」の叛乱』が、一枚岩の動機(すなわち単層の主体)で成り立っていたかのように考えること自体、現実社会の複雑さを無視している。そもそも『言葉』だけで社会運動は成立しない。多様な動機・問題意識、あるいは人間関係や偶然の契機で区切られた諸集団が、複数積み重なることで生じた現象として『1968』を見ること。小熊の同書からは、こうした歴史像は浮かび上がってこない。いわば、小熊には『運動形態』への感度が見られない。」(「私の運動史研究宣言」)
 「小熊には『運動形態』への感度が見られない」と断じる松井の視線を、わたしなら率直に評したい。〈研究〉という角度になにがあるべきなのかということを、わたしは考えたことがない。だから、〈研究〉とは、〈何か〉と問い続けていく〈感度〉であるといいかえてもいいかもしれない。
 昨年、力論『東大闘争の語り』を著した小杉亮子は述べる。
 「生活史の聞き取りは、語りが雑多かつ大量の情報を含んでいるために、また、参加者の動機や問題意識、内的論理を生々しく伝えてくれるために、そして、自分の憶測や予断を超える過去を持った『自分以外のひと』と『わたし』がこの社会のなかでともに生きているということを認識せざるをえない方法論であるために、固定的な史観の相対化を研究者に迫る。」(「『史観』の困難と生活史の可能性」)
 運動や闘争が先鋭化していくのは、イデオロギーや思想の深化があるからではない。「参加者の動機や問題意識、内的論理を生々しく伝えてくれる」断面が、色濃く潜在し続けているから、それはリアルなものとして在り続けていくのだ。だからこそ小杉が他者と関わって生ずるものが、ひとつの共同性をかたちづくっていくことを意味していくのだ。
 大野光明は、「社会運動史をつくるということは、国家と国民を中心としてきた歴史をとらえ返す実践である。社会運動史を学んでみれば現在の国家を前提とした世界イメージが『自然』なものでも、『あたりまえ』のものでもなく、可変的なものだということに気づく」と述べながら、次のように論及していく。
 「社会運動史とは生きられた時間と空間を重視することが大切だと考えている。生きられた時間とは、過去から未来へと向かう直線的な時間ではなく、人びとの経験のなかで過去が現在につながり、独自の文脈で受容・加工されていくプロセスとしての時間である。(略)社会運動史をとらえ描くことは、生きられた時間と空間を考察すること抜きには成立しないだろう。」(「運動のダイナミズムをとらえる歴史実践」)
 「生きられた時間と空間を考察すること」という当たり前の当為を汲み入れることの困難さは、あるはずだが、大野をはじめとする三人の視点は、行為の共同性のなかにあるといっていい。だから、あらたな旅立ちとなった『社会運動史研究』が、研究誌や学際的な色あいを持つ場にならず、生きた場所のなかで通交する表現体であることを願っている。
 本誌は、他に阿部小涼、安岡健一を招いて、編集委員との座談会「社会運動史をともにつくるために」、伊藤晃の「『運動史研究会』について」、谷合佳代子インタビュー「社会運動アーカイブズの現在」、山本崇記による『東大闘争の語り』の書評などを掲載。次号は、一二月刊行予定で、「特集 1968-69」。

(新曜社刊・19.2.15)

木村三浩 著『対米自立』
(「図書新聞」19.3.16号)

 著者は、新右翼とも民族派とも称される愛国団体・一水会代表である。鈴木邦男から代表を引き継いで十九年になる。わたしは、鈴木の著書はかつて何冊か読んだことがあり、彼の新右翼的な立場は、茫洋としながらも理解できないわけではなかった。本書の著者の立場は、例えば、テレビ番組の『朝生』に出演していたようだが、ここ何十年も、『朝生』を観ていないから、本書で初めて知ったことになる。率直にいえば、鈴木の所見には、何が右翼か、民族派か不分明な様態が多々あったが、著者の場合、対米自立という本書のモチーフにおいては、まったく同感であるとともに、わたしにとって未知なことも教えられた部分が多々あった。しかし、やはり、「生涯一ナショナリスト」という、その基底において、残念ながら(というしかない)、相容れないところもあったのは確かだった。だからといって著者に対して、抜き差しならない異和感を抱いたかといえば、そうではない。
 「日本の歴史の中で、一部を除くと、天皇陛下は『権力』ではなく『権威』の存在であったと考えられます。権力とはいわば世俗です。世俗の政治を超越したところの、歴史的な祭事を司る存在が天皇陛下だと私は思っています。」「天皇制度と日本国民が生存してきた共同体的国家を、私は国体と呼んでいます。/なぜなら、天皇制度だけで国家は成り立ちませんし、国民だけでも国家は成り立たないからです。」
 著者は、さらに、「『国体とはこういう意味です』と、人に押しつけるものではない」と述べて、自らの「思想や信念」を披瀝している。わたしは、「権威」もある種の「権力」となって民衆をコントロールしていくものだと捉えているし、天皇制度というものが、その起源も含めて、「歴史的な祭事を司る存在」として、果たして時間的連続性を保持し続けてきたのかという疑念を払拭できないと思っている。だからといって、わたしもまた、著者の「思想や信念」に込めようとしていることを否定する立場ではないことを明らかにしたうえで、著者による「対米自立」と、「アジアの国々との平和構築」へ向けての論述に触れていきたい。
 「砂川事件が起きた昭和三二年においても、米国は裁判の判決にまで口を出し、それを日本は聞き入れていたというわけです。(略)日本は主権回復後も自ら進んで『米国と一体=対米従属』となって戦後体制をつくってきたということがわかります。(略)自由民主党は、この『米国と一体=対米従属』で政権を守り、甘い汁を吸い続けてきたので、自民党の政治家は対米従属という構造を変えることはできません。米国にこびるという一点だけで勝ち続けてこられた。これが自民党の原動力だからです。」
 この間の第二次安倍政権は、最も顕著に、しかも露骨に「米国と一体=対米従属」を邁進してきたといえる(本書では、米国からの想像を絶する大量の兵器購入を明らかにしている)。だから様々な不祥事が生起しても政権を持続してこられたのだ。対米自立と東アジア共同体を志向した鳩山・小沢政権は、米国の影響下にある司法によって、その地位を剥奪され、脆弱な菅、野田体制となって民主党は政権から転がり落ちていくことになる。二度と反自民(つまり反米)政権が生まれないようにあらゆる分野で、米国第一へのマインドコントロールを強固に続けてきたと、著者の子細な論述によって、わたしは確信したことになる。
 辺野古移設問題で揺れる沖縄の米軍基地には、事故の危険性のあるオスプレイが二四機配備されているが、横田基地にも配備されることが決定した。しかも、横田基地の上空は広域にわたって制空権が米国(米軍)にあることや、「現在も朝鮮戦争は終結していないので、国連司令部は横田基地に置かれたまま」なのは、あまり知られていないはずだ。著者は、「日米安保条約には、『米国の朝鮮戦争対策』と『米国が日本を支配下に置く』という」、「二重構造」があるとしながら、米国と北朝鮮が和解して朝鮮戦争終結宣言を行ったとき、国連司令部は解体しなければならないはずだと問題提起している。恐らく、日米安保条約との整合性は無視して、そのまま存続させるはずだとわたしなら考える。
 三年前の安保法制の強権的な成立に対して、多くの人たちによる抗議行動が広がっていったわけだが、憲法九条を守ろうという主張はあっても、日本国憲法の上位概念にある日米安保条約と日米地位協定の廃絶を叫ぶ声がほとんど聞かれなかったことに、わたしは、驚いたものだった。
 わたし(たち)は、七〇年前後、日米安保体制打倒とともにヤルタ=ポツダム体制打倒(一水会もテーゼとしている)を謳っていた。わたしのなかには、いまだにそのことは、基本的な認識としてあり続けている。だから、対米自立ということは、わたしにとっても拘泥し続けてきた問題である。
 「対米自立路線に切り替えた場合、日本経済はどうなるのかという不安があると思」うかもしれないが、貿易相手国として中国、韓国が上位を占めていることを考えれば、「アジア諸国との関係が良好なら大きな痛手にはならないはず」だと著者は述べる。わたしも同感だが、安倍政権が対米従属のまま政治的発言を続けていく限り、先行き不透明なことといわねばならない。
 「戦後の遺物である対米従属の安保体制から脱することを前進させ、『対米自立』を実現しなければならない」という著者の強い思いを、多くの人に本書を手にとって、喚起されて欲しいと思う。

(花伝社刊・18・11・25)


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