遠矢さんの作品「さらばミラボー橋」を読んだ。文字と文字の間から、遠矢さんの〈声〉が聞こえてくるようだった。この作品は、九十年代に発表したものを、04年7月と05年1月に改稿されて、塙さんと小川さんたちの雑誌に掲載されたものだ。時系列的にいえば、わたしが、初めて遠矢作品に接した第二作品集『ぺちゃんこにプレスされた男の肖像』(04年3月刊)の後ということになる。そこに、なにか不思議な因縁を感じる。そして、十数年振りに、「風の森」に再掲載されることを、遠矢さんは、どんなふうに思っているのだろうかと聞いてみたかったのだが。
 第二作品集に収められている諸作品に比べて、「さらばミラボー橋」は、硬質さが、やや抑えられているが、沈潜する思念とでもいうべきものは、より鮮烈に描かれているといっていい。渡瀬、キーコ、おやじ、それぞれの描像が実に魅惑的なのだ。舞台は、あの五月革命が生起した68年、パリだ。

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 わたしは、遠矢さんの幅広い関係性のなかでも、最も遅くに知りあっている。通交した時間としても十二、三年ほどでしかない。しかし、いろんな意味で濃密であったと思っている。
 わたしが、作品集『ぺちゃんこにプレスされた男の肖像』を「図書新聞」紙上で書評したことが契機だった。共通の知人(わたしにとっては友人)を介して、遠矢さんの方から連絡をくれて、国分寺の喫茶店で会ったのが最初だった。三、四時間は話しただろうか。様々な話のなかで、シャンソン歌手を仲間で応援しているということを聞いて、驚いたものだった。わたしは、シャンソンは嫌いではないし、比較的、聞いている方だが、なんとなく、自分自身の思い込みで、シャンソンを聞いていると公然といいにくいものがあると考えていた。遠矢さんは、レオ・フェレ(1916〜93)という名前を挙げ、パリ五月革命に連帯したアナキストでシャンソン歌手であることを説明してくれる。アポリネールの「ミラボー橋」に曲をつけて発表したのが53年の4月のことだ。遠矢さんによると、日本でレオ・フェレを唄うシャンソン歌手はほとんどいないが、唯一、若林圭子さんだけで、その若林さんを応援しているのだという。その時、まさか、わたしも若林さんに関わっていく、狠膣屬琉貎有瓩砲覆襪箸蓮¬瓦砲盪廚錣覆ったといえる。
 07年3月、遠矢さん、Mさん、Nさん、そして、わたしの四人が主催して若林さんのライブを小さなスペースではあったが、行った。まさか、シャンソンのライブをやってしまうとは、遠矢さんと会うまでは、想像できなかったことだ。

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 清掃車の臨時雇いとして働く渡瀬は、パリで、「キーコという女との同居生活」を始める。だが、「一緒にくらしたのはわずかだったが、しばらくの間にすっかり耳になじんだ『ミラボー橋』のメロディを残して、ある日彼女は」、「わたしたちの『レオ・フェレ戦線』のために、民衆の新しい革命のために、大切な資金として拝借していきます。どうしても今必要なのです。どうか悪く思わないで下さいね」と書置きを残して姿を消した。キーコの奔放な振る舞いは、遠矢さんの筆致にかかると、愛おしさを感じさせるのだ。やがて、再会することになるのだが、キーコは歓楽街に佇んでいた。キーコは渡瀬を犁勠瓩箸靴童做さず、『自由のために闘い、愛のために死ぬ娼婦解放戦線』というパンフを彼に渡して立ち去っていく。キーコをめぐる描写は、苛烈な言葉と行動のなかにあるのだが、どこか、爐曚里椶劉瓩箸靴織ぅ瓠璽犬鬚△燭┐襦牋Δしさ瓩任△蝓↓爐曚里椶劉瓩箸いκ薫狼ぁ△燭屬鵝△海里海箸、遠矢作品独特の硬質さをいい意味でやわらげて、作品の奥深さを読み手に感受させているといいたい。

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 遠矢さんとは、高尾山のビアガーデン行が忘れられない。他にK神父、Nさんら四、五人で毎年夏に誘われて出かけたものだった。遠矢さんは、わたしのような酒飲みの酔っぱらいとは違い、ビールを淡々と飲み、つまみもそんなに食べるでもなく、しかし、話し好きだから、会話は途絶えることはなかった。いまとなっては、どんな話で盛り上がったのかは、まったく覚えていない。ほんとうは、遠矢さんは、K神父とNさんとやっている読書会というか、研究会に、わたしを誘いたかったようだ。しかたがなく一、二度顔をだしたことがある。わたしは、元来、勉強会や研究会の類は好きではなく、本を読むなら一人でするものだと思っていたから、遠矢さんには申し訳なかったなと、いま思い返している。

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 作品で描かれている68年5月、わたしは、その頃どうしていただろうか。遠矢さんは三十歳だ。もちろん、パリには行っていないはずだ。わたしは、東北の日本海側の高校を卒業して上京、予備校生という身分だった。前年の67年10月8日に新左翼諸派による羽田闘争があり、全国的な学園闘争が拡がりを見せていた頃だ。パリ五月革命は、よく覚えている。リーダー格のダニエル・コーン=バンディは、アナキストであったことを知って、強い関心を持ったからだ。彼の『左翼急進主義』は、直ぐに翻訳出版されたので、買い求めて読んだ記憶がある。調べてみたら、その後、ドイツの緑の党に関わったようで、大きく右旋回しなかっただけでも、いいほうかなと思ったりした。

 「学生達の蜂起は、社会革命の萌芽を射程にいれた全面的な民衆蜂起への深まりと成熟を夢想したまま、途絶しつつあった。」「『山猫ストだぜ。旗なんて必要かよ。CGTの汚れた赤旗なんぞ糞くらえだ』(略)『黒旗はどうかね。おやじの好きなさ』(略)『黙ってろ、お前ら。わしはな、赤でも黒でも青でもありゃせん。ただの人間だあね』不意にレオ・フェレおやじが、運転台のドアを半開きにし、顔を突き出すとユーモラスな調子で怒鳴り返しきた。」

 遠矢さんは、プライベート(家庭・家族)なこと以外は、よく自分のことを話してくれた。狎岫瓩筬狎牒瓩亡悗錣辰涜臺僂世辰燭海箸髻だから、心情的には、犢瓩坊梗个靴討い辰燭海箸覆匹鬚覆鵑粒囲△發覆年少のわたしに吐露していた。わたしは、指向性としては、犢瓩覆里もしれないが、敢えて恰好をつけさせてもらえば、このレオ・フェレおやじのように、「赤でも黒でも青でもありゃせん。ただの人間だ」ということになると思う。そんなようなことも、よく話して、遠矢さんと意気投合したことを覚えている。

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 遠矢さんが、「風の森」に参加するようになったのは、東谷貞夫(筆名、伯爵・神山宏)さんの強い慫慂による。「風の森」にもう少し書き手を揃えたいと考えていた東谷さんは、わたしに誰か推薦したい人はいないかと何度も、尋ねてきた。当時は年四回発行であったため、遠矢さんにそれとなく打診したところ、幾つかの雑誌に参加しているため、年四回、「風の森」に作品を発表することは、長い付き合いのある他の雑誌に書けなくなってしまうということで、逡巡していた。半ば、強引に、「風の森」に傾注するように進めたのが東谷さんだった。
 よく、遠矢さんは、自分の作品の感想を聞きたがって、電話を掛けてきていた。遠矢さんは、わたしのようなものの感想を真剣に聞いてくれる人だった。だから、曖昧な言葉遣いはできなかった。
 「風の森」に参加するようになってから、東谷さんが、原稿に赤を入れてくると遠矢さんから電話が掛かって来たことがある。遠矢さんは、赤入れされることを憤っているのではなく、赤入れする根拠に納得できなかったのだ。後々のことになるのだが、二人はなんだかんだいっても、同志のような関係になっていくのだが、最初は、かなりぎくしゃくしていたように思う。もともと、その表現方法はかなり違うふたりだが、しかし、潜在する資質のようなものは、かなり重なるところがあるとわたしは思っている。東谷さんは、遠矢さんの作家性に惹かれるあまり過剰に立ち入ったともいえるからだ。電話好きの遠矢さんが、頻繁に東谷さんから長電話が掛かってきて大変だと、わたしに笑いながらいっていた表情が忘れられない。
 10年12月、「風の森」忘年会をかねて、遠矢さんの作品「路上の鈴」が、「まほろば賞」特別賞・五十嵐勉賞を受賞したお祝いを狷運涌貽鵜瓩如行った。場所は、東谷さんが贔屓にしていた新宿サントリーラウンジ昴であった。と、ここまで記すと、いかにも華やかなことだと思われるかもしない。
 遠矢さんらしいエピソードとして記しておきたい。忘年会とお祝いの会すべての費用は、遠矢さんが賞金から払ったのだ。発案者は東谷さんなのだが、彼がいうには、祝いの会など必要ないから忘年会だけにしようと遠矢さんは抵抗したらしい。結局、主賓がすべて負担する宴にすることで遠矢さんも納得したというのだ。その時の集合写真から120Pに顔写真を掲載した(提供は越田さん)。

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 わたしは、創作をしないから、勝手なことをいっているだけだが、作家には、中・短篇作品をテリトリーとする人と、長篇に拘泥する人がいると思う。同人雑誌を発表の場にすると、どうしても、長篇作品はなかなか掲載しにくいというのはわからないではない。遠矢さんが参加した頃は、年四回発行であったから、長篇構想のもとで、連作で中・短篇作品を掲載していったらどうですかと、提案したことがある。たんに、一読者としてのわたしが、遠矢さんの長篇作品を読みたいからなのだが、遠矢さん自身も、当然のこと、そういうことを考えていたようだ。ただ、モチーフをどうするかというのが、一番の難題だったと思う。いろいろ思案した結果、自伝的なことを書いてみようと思うと告げられた。複雑な出自や事情めいたことは、折に触れて話してくれたから、シンドイかもしれませんが、期待していますと応答したと思う。第13号(10年8月)から「夢遊の時代」が始まる。だが、思わぬ長期の入院生活によって、三回の連載で中断したことになる。

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 今回、掲載することになった「さらばミラボー橋」は、偶然にも、遠矢さんから直接、別れを告げているような感じがしてならない。表題が、爐気蕕亅瓩箸いΔ海箸發△襪、作品の終景をいま一度、見てみれば、そう思うはずだ。

 「前方の路上で、バリケードに立てこもった学生や若い労働者達の隊列が、対峙するド・ゴールの武装部隊と正面衝突していた。勝敗はその時点で決まっていたのだ。人々は手にした石畳みの欠片や棒切れ、ガソリンの詰まったウィスキー瓶の類を握ったまま捨てようとしなかった。最後の抵抗は、苛烈さの度合いを深め、しだいに絶望の淵に沈んでいく。/『さあ、前へ出るぞ、わし等もな』おやじは笑いながら渡瀬の肩を叩き、ドアを開いた。」

 遠矢さんは、「さあ」という声とともに、「前へ」と進んでいったのだ。わたしには、そう思わせてくれる〈声〉が作品から聞こえてくる。

(『風の森 第二次第五号[通巻20号]』2016.12.20)


……前回、君と話した時、相米慎二の『東京上空いらっしゃいませ』で牧瀬里穂がジャズふうのアレンジで唄う最後のシーンを話題にしたけど、牧瀬の歌唱の吹き替えを担当したという小笠原みゆきの音源があるのが、わかったよ。君との話をアイドルおたくの年少の友人に話したら、CDアルバム『アイドル・ザ・ムービー サウンドトラックコレクション』というのを教えてくれたんだ。現物を見てないから、タイトルを聞いただけで、よくそんな企画で出せたとものだと思ったよ。まあ、君はVHSテープを持っているのだから、繰り返し再生して聞けばいいわけだけどね。
――実は、あの後、僥倖ともいえる出会いがあってね、Netに詳しくない君には説明しても理解できないと思うので省略するけれど、思い立って、amazonを検索してみたら、君のいうCDアルバム『アイドル・ザ・ムービー』というのを、僕も発見したんだ。それで、早速、購入したよ。ほんとうは、本来のジャズナンバーのものが欲しかったけど、仕方がないね。
……amazonぐらい、俺だって知ってるぜ。
――僕は、ともかく、amazonの情報に小笠原みゆきさんの名前があったので、どんな内容かは度外視して入手したということになる。現物を見て、驚いたよ。95年に出されたものだけど、確かに君がいうように、よくこういう企画で出せたなと思う。しかも、ジャケットと帯というのかな、それらを見て、よほど、マニアックなアイドル映画ファンでないと購入しないのではと思わせるデザイン(内容告知も含め)なんだな。いや、アイドルが歌を唄っているのなら、ファンは買うかもしれないけれど、基本的にサウンドトラックだから、インストルメンタルなんだよね。唯一、歌があるのが、『東京上空』ということになる。
……どんな、アイドル映画が取り上げられているのかな。
――松竹百年ということで企画されたものなので、85年から95年までの松竹作品ということになる。以下、列記してみると、『キッズ』(監督・高橋正治、音楽・ミッキー吉野、主演・早見優、85年)、『アイドルを探せ』(監督・長尾啓司、音楽・新川博、主演・菊池桃子、87年)、『Let’s豪徳寺』(監督・前田陽一、音楽・ミッキー吉野、主演・三田寛子、87年)、『この愛の物語』(監督・舛田利雄、音楽・久石譲、主演・藤谷美和子、87年)、『東京上空いらっしゃいませ』(監督・相米慎二、音楽P・安室克也、主演・牧瀬里穂、89年)、『真夏の地球』(監督・村上修、音楽P・日永田広、主演深津絵里、91年)、『満月 MR.MOONLIGHT』(監督・大森一樹、音楽・笹路正徳、主演・原田知世、91年)、『シュート!』(監督・大森一樹、音楽・土方隆行、主演・SMAP、94年)、『時の輝き』(監督・朝原雄三、音楽・西村由紀江、主演・高橋由美子、95年)となる。相米と並んで舛田利雄、前田陽一、大森一樹らの名前があり、なんとも、当時の日本映画の情況が垣間見えてくるかのようだね。85年という年は、僕にとって、もっとも共感してきた加藤泰さん(81年の『炎のごとく』が最後の作品)が亡くなった時だし、加藤さんと並んで同じように追認し続けてきた鈴木清順さんが『ツィゴイネルワイゼン』と『陽炎座』で、見事に復活したにもかかわらず、やや不満な『カポネ大いに泣く』(その後、新作は、91年の『夢二』まで待たなければならなかった)が上映された年でもあったな。85年の日本映画を僕なりに概観すれば、森田芳光の『それから』という傑作を筆頭に、相米の『ラブホテル』(『台風クラブ』や『雪の断章―情熱―』も同年の上演作品だが、『ラブホテル』の方がはるかにいい)、澤井信一郎の『早春物語』、神代辰巳の『恋文』、柳町光男の『火まつり』、井筒和幸の『二代目はクリスチャン』だね。
……おいおい、俺は、全く評価していないが、世界のクロサワの映画もその年ではなかったか。
――そのようだね。『乱』だっけ。後年、テレビかレンタルで見たのか、忘れたけれど、あまりの退屈さで、途中で止めたのを覚えているよ。黒澤作品に関していえば、共感した作品はまったくないね。僕にとっての日本映画は、70年前後の東映任侠映画と若松プロのピンク映画に凝縮されていたから、それらの幻影を求めて映画の旅を続けていたようなものだった。
……そういえば、君にとってアイドル映画といえば、山口百恵と三浦友和が共演した、いわゆる百友映画だろう。
――そうだね。70年代中頃から末にかけてということになる。最初に見たのが、『伊豆の踊子』(監督・西河克己、74年)だった。ほとんど、見ているけれど、『潮騒』(監督・西河克己、75年)、『春琴抄』(監督・西河克己、76年)、『霧の旗』(監督・西河克己、77年)、『天使を誘惑』(監督・藤田敏八、79年)といった作品は、同時期に封切られた日本映画のなかでも傑出したものになっていると断定していいと思うよ。
……そうかい、君に百恵を語らせたら、終わりそうにないし、本筋から離れそうなんで、肝心のそのCDは聞いてみてどうだったんだい。
――『東京上空』以外の映画は、見てないから、作品に関してはなにもいうことはないけれど、サントラ磐として聴く限り、しっかりしたインストメンタル・アルバムだといってもいいよ。ミッキー吉野、久石譲、西村由紀江といった作曲家たちの音楽は、さすがに聴かせるね。例えば、映像を見て、音楽を聴くというのと、音楽を聴いて映像をもう一度、想起するという行為は、共感していればするほど、さらに新たなイメージを醸し出すものだと思う。つまり、作品が良ければ音楽がいいといえるし、音楽だけを聞いていて、音楽の深さがあるからこそ、映像も際立っていくのだとあらためて思うものだ。この『東京上空』は、文夫(中井貴一)が、トロンボーンを演奏するシーンが何度か出てくるが、最後のパーティーシーン以外、それほど、印象深いというわけではなかったけれど、このCDに収められているトロンボーンは音が、実にいい。この曲があるから最後のシーンに感動するんだなと、思い返すことができた。そして、映画を見ているときは、明らかに牧瀬の歌唱ではないということがわかるので、小笠原さんの歌唱とアレンジの素晴らしさを聴くことになるわけだけれど、このCDを聴いていると、不思議なことに、一瞬、牧瀬里穂が唄っているような気がしてくるんだな。特に、ジャズ風になる前の出だしのところとか。そして、当然のことながら、やはり、パーティー会場でユウが唄い踊るシーンが、くっきりと思い出されてくる。サントラ磐を聴いていても泣けてくるね。
……ようするに、なにもかも、この映画が好きなんだよ君は。26年という長い年月を経ても。

……君は最近見た映画として、クリント・イーストウッドの『ジャージー・ボーイズ』を随分褒めていたね。ミュージカル映画のようなものを君が好きだったとは意外だったな。我々が中学、高校生の頃といえば、『ウエスト・サイド物語』、『シェルブールの雨傘』とか、『マイ・フェア・レディ』、『サウンド・オブ・ミュージック』などが、あったけど、君は全部、見ているのかな。
――『マイ・フェア・レディ』は、なぜか、リアルタイムで見ている。『ウエスト・サイド物語』、『シェルブールの雨傘』は、再上映で見たけれど、『サウンド・オブ・ミュージック』は、テレビで放映しているのを断片的に見ただけで通しで見たことはないな。僕は、別にミュージカルが好きなわけではないんだ。例えば、七〇年前後、日本映画に歌謡映画というジャンルがあって、意外に面白い作品に出会ったりしていたけれど、いわゆる任俠・やくざ映画では、牴イ蟾み瓩帽圓場面、主人公が主題歌を唄うことで、観客であるわたしたちが、主人公たちに同化し共感していく契機になっていくように作品世界がつくられていたといっていい。だから、〈歌〉というものは映画の中で重要なファクターだと思ってきたし、冒頭に主題歌、エンディングにも歌が流れるといった映画は好きだったな。『ジャージー・ボーイズ』は、ミュージカルを原作としているけれど、厳密な意味でいえば、ミュージカル映画ではないね。『ミスティック・リバー』(03年)、『ミリオンダラー・ベイビー』(04年)、『チェンジリング』(08年)、『グラン・トリノ』(08年)、『インビクタス/負けざる者たち』(09年)、『ヒア アフター』(10年)、『J・エドガー』(11年)と一貫して硬質な作品を撮って来たイースドウッドが、一転、ミュージガル劇を原作にして映画化するとどうなるのだろうかと、思いつつ見たのだが、これが実に、感動的な作品に仕上げていて、さすがイーストウッドといいたくなった。特に、ラストシーンからエンディングにかけて圧巻だったな。映画でなければ、こうはいかないよ、と率直に思ったね。
……イーストウッドの作品歴から硫黄島日米二作品を外していうところが、君らしいなあ。ところで、たしか、映画のモデルになったのは、ザ・フォー・シーズンズ(以下、“ザ”を略)だったよな。それこそ、君がリスペクトする坂本九がデヴュー時、所属していたダニー飯田とパラダイスキングが、九重佑三子をメインボーカルにしてヒットさせた「シェリー」(日本では、63年発売)の元歌は、フォー・シーズンズだったな。
――そんなに、フォー・シーズンズのことは詳しくはなかったし、原曲をしっかり聞いていたわけではないが、この「シェリー」は、頭からなかなか離れない、心地いいメロディーだったから、いまだに忘れずにいたのは確かだった。メインボーカルのフランキー・ヴァリが、いわゆるファルセット・ヴォイスのため、女性の九重佑三子が起用されたことになったことも、いまごろになって、この映画を見て再認識したことになる。
……そういえば、君は、「歌」好きではあるけれど、けっして、「唄う」のはうまくないよな。それでも、カラオケで性懲りもなく、よく唄っているのが、キヨシローとヨウスイが共作したという「帰れない二人」だけど、なんで、そんなに気に入ってるんだい。
――歌自体は、リアルタイムで知っていたわけではない。切っ掛けは、相米慎二監督作品・映画『東京上空いらっしゃいませ』(1990年)の挿入歌(物語上は、キャンペンガールである主人公が唄うCFソングという設定)として聞いて、いい歌だなと思ったことだった。作中、陽水はじめ四人の歌い手の唄が流れるんだけど、特に、憂歌団の木村充輝のバージョンが、印象深い場面とマッチしていて、実に素晴らしかった。だから、エンドクレジットに井上陽水・忌野清志郎の共作と記されていて驚いたことを覚えている。陽水には、それほど好感を持っていたわけでないが、RCサクセションの大ファンだったから、共作とはいえ、忌野清志郎の作品と知って、以後、ずっとこの歌は、僕のなかに沁み込んでしまったといっていい。井上陽水、三枚目のオリジナル・アルバム『氷の世界』(ポリドール・73年12月1日。「氷の世界」、「心もよう」、「待ちぼうけ」、「Fun」などを収録、もともと「帰れない二人」は、「心もよう」のシングル版のB面だったという)に収録されているのを知ったのは、それから直ぐだったけれども、実は、それ以前、CTにダビングしたのを持っていて、聞いていたはずなのに、陽水の唄と声では、まったく印象に残っていなかったことになる。映画を見た数年後、RCの『ザ・キング・オブ・ライブ』という二枚組CDアルバムを購入したんだけど、その最後の曲が、「指輪をはめたい」という12分52秒もする歌だった。それが、「帰れない二人」と、まったく同じメロディーだったことに、またまた驚いてしまった。そもそも、「指輪をはめたい」が、「帰れない二人」の原曲だと知ったのは、ずっと後のことだった。詞を引いてみる。「スローバラード」や「雨上がりの夜空に」などに象徴されるような清志郎独特の深いメタファーを持ったエロス的ラブソングといっていいね。

「きみとOu oh oh oh oh/はめたいのさ/きみだけと いつまでも いつまでも/はめたいのさ/ぼくを 愛して/ささやいて/きみを抱くときに/きみとOu oh oh oh oh/はめたいのさ/指輪を いつまでも いつも いつも いつも いつも/はめたいのさ/ぼくには きみが/よくわかる/よくわかる/目を閉じても きみが/見える/離れているときも/きみとOu oh oh oh oh/はめたいのさ/きみだけと/きみだけと いつまでも/いつも/はめたいのさ/もしも こんな夜に 外に/ほうり出されても 眠るところさえ/見あたらなくなっても/そばにきみがいれば/そばにきみがいれば/そばにきみがいれば/そばにきみがいれば 何も/変わりはしないさ 何も/ぼくは何も怖くない 何も/ぼくは何も怖くない 何も/ぼくは何も怖くない 何も//そうさ ぼくは寒くない 何も/そう 何も/もう/もう」(「指輪をはめたい」作詞・作曲:忌野清志郎―アルバム『OK』・83年5月発売に初収録)

 Wikipediaによれば、「RC不遇時代からステージで演奏されているナンバー。何度かレコーディングを試みたものの、『はめたい』という歌詞に過敏に反応したスタッフが発禁を恐れた挙句お蔵入りになっていたという曰くつきの曲」とある。それが、どういう経緯で、「帰れない二人」に狎犬泙貶僂錣辰騰瓩い辰燭里は、わからないが(陽水とよく楽曲を作っていた頃のエピソードを記していた清志郎の著書を、かなり以前に読んだことがあるが、「帰れない二人」について触れていたのかどうかは、覚えていない)、清志郎が亡くなった後、You Tubeに、二人が一緒に歌う映像が幾つかアップされたのを見る機会を得たのだが、やはり、この歌も、清志郎単独バージョンで出されるべきだったな思った。

「思ったよりも夜露は冷たく/二人の声もふるえていました/Ah Ah Ah Ah Ah Ah/Ah Ah Ah Ah/猖佑老を瓩噺世いけた時/街の灯りが消えました/もう星は帰ろうとしてる/帰れない二人を残して//街は静かに眠りを続けて/口ぐせの様な夢を見ている/Ah Ah Ah Ah Ah Ah/Ah Ah Ah Ah/結んだ手と手のぬくもりだけが/とてもたしかに見えたのに/もう夢は急がせている/帰れない二人を残して//Ah Ah Ah Ah Ah Ah/Ah Ah Ah Ah/もう星は帰ろうとしてる/帰れない二人を残して/Uh……」(「帰れない二人」作詞・作曲:井上陽水・忌野清志郎)

 よく考えてみると、不思議な詞だと思う。二人は、どこへ帰れないといっているのか、あるいは、二人は離れ離れになってしまうことを示唆しているのだろうかと。わたしは、映画での物語の印象が強すぎて、詞をダイレクトに物語と繋げてしまっているから、たんに混乱しているだけなのかもしれないが。シンプルに考えれば、狷珊圓瓩箸いΔ海箸砲覆襪里もしれないな。
……相米慎二(1948〜2001)という監督も、不思議な存在だったな。中大中退で、四トロ(第四インター派)の活動家だったという伝説が流れていたけど、明大中退だったという説もあり、活動家だったというのも、どうも違うのではないかという話もあったりしたけど、まあ、薬師丸ひろ子を『翔んだカップル』(80年)や『セーラー服と機関銃』(81年)によって映画女優として大成させた力は、大いに評価すべきところだね。俺は、劇中、山口百恵の「夜へ」が流れる、にっかつロマンポルノ作品『ラブホテル』(85年、脚本・石井隆)を代表作としたいね。世評高い『台風クラブ』(85年)や『お引越し』(93年)以後の作品には、あまり共感した覚えがないな。
――そうだね、僕も、相米作品では、,『東京上空〜』で、△『ラブホテル』、が『セーラー服〜』ということになるな。いわゆるアイドル映画を、秀逸な映画作品として創り上げていく映画監督として、西河克己、澤井信一郎、そして相米と三人が傑出していると思うけど、相米映画のコアなファンからは、『東京上空〜』も、『ラブホテル』もほとんど軽視というよりは、無視されているね。薬師丸ひろ子の主演作二本によって映画作家としてスタートした相米にとって、薬師丸ひろ子という存在は、たんなるアイドル女優を超えた大きな存在としてあったはずだ(旧知の石井隆さんから聞いたことだが、『ラブホテル』撮影中、薬師丸ひろ子の表敬訪問があったそうで、相米は上機嫌だったとのこと)。だから、続いて、河合美智子、工藤夕貴、斉藤由貴と撮っていき、未知の牧瀬里穂に、ほとんど期待することもなかったに違いない。『ラブホテル』の速水典子にたいして、薬師丸ひろ子の幻影を仮託しているかのような演技をさせていたことからも、わかるように、相米が自らの初源に拘泥した映画作家だった。牧瀬里穂との出会いが、どんな効果を生んだのかは、推測の域を出ないが、同年に封切られた市川準監督『つぐみ TSUGUMI』は、まったく違うキャラクターを見事に演じていたから、牧瀬里穂という存在が、相米に対して、ある意味で薬師丸ひろ子から脱構築させた契機になったかもしれないな。物語の始まりは、こうだ。キャンペンガールの神谷ユウ(牧瀬里穂)は、スポンサーの専務(笑福亭鶴瓶)に関係を強要され、一緒に乗っていた車から飛び出して逃げたところを、後ろから来た車に跳ねられて死んでしまう。天国への行き道で、案内人・コオロギ(鶴瓶の二役)と出会い、死出の旅立ちの前に、もう一度、自分になって、死ぬことを納得する猶予の時間を与えられることになる。そして、なぜか、マネージャーの雨宮文夫(中井貴一)が住んでいるマンションの部屋へ猴遒舛討る瓠9佑┐討澆譴弌荒唐無稽な物語なのだが、文夫とユウとの関係を描きながら、十七歳の女の子を通した生死の問題、愛するということの問題を、なにげなく、清冽に表出した映画だと思う。それをさらに、豊饒なものにしているのが、「帰れない二人」という〈歌〉なのだ。屋形船の屋根に座りながらユウがなにかを見ている。そこに文夫が上がってきて語りかけるところから、この映画の物語のなかで、最も深い情感を湛える場面が展開されていく。脚本上は、No.95「屋形船のささやかな甲板(夜)」と付された箇所だが、映画では、せりふの遣り取りが、まったく書き換えられている。相米は、インタビューに答えて、「あそこは、その、彼女の側の牴燭足りない瓩箸い思いで、つけ足した部分だね。だから台詞の言わせ方も、脚本ではああじゃなかった。ちょっと直接的すぎたかもしれないね。ナマナマしさが出すぎたのなら、果たしていいことだったのかどうか……」と述べている。それにたいして、聞き手が、「でも映画を観た人は、間違いなくあの場面を、観た後何度も反芻するでしょう」と応答すると、「そうかもしれない。映画を撮っていくうちに彼女が変わっていく、その育ち方に見合って直した所だからね、あそこは」と、相米にしては、珍しく率直に語っている。

「文夫『どうよ』/ユウ『向こうで花火やってる』/文夫『ああ』/ユウ『わたし、いまがいい、とってもいい、最高。いままで生きてきたうちで、いちばんいい。変だけど、よくわかんないけど、いまの自分が、いちばんいい』/(バラの花束を手に持って、ユウに近づいていく文夫に向かって)ユウ『なに、それ』/文夫『バラの花。ユウ、十七歳だろ。(花火の煙がたちこめる。やがて、煙が二人を包み込んでいく)だから、十七本ある。来年は十八本、さ来年は十九本、そして、次の年は二十本、その次の年は二十一本』/ユウ『わたしに、プレゼントしてくれるの』/文夫『ハッピバースデー、トゥー、ユウ(そして、ユウにバラの花束を手渡す)』/ユウ『(バラの花びらを一枚ずつ抜いて、投げながらいう)わたし一歳、生まれた。わたし、まだ、赤ちゃん。わたし二歳、まだ、ちっちゃな子、この時のこと、あんまり覚えてない。わたし十三歳、中学生。少し、いじめられた。わたし十五歳、初恋。振られて消えた。わたし十六歳、ともだちと笑ってばかりいた。わたし、いま十七歳、キャンペンガール。街にわたしの写真が、いっぱい。わたし、わたしじゃない。それ、みんなわたしなんかじゃない。わたし、わたし死んじゃった。』/【木村充輝が唄う「帰れない二人」が流れ出す】/ユウ『でも、わたし、いまがいい。わたしとわたしが会ったような気がする。いまみたくしていたい。ずっとここにいたい。今日、わたし誕生日なんかじゃない』/文夫『ここにいろよ』/ユウ『(遠くを見つめるようにしながら、すこしだけ微笑んで、文夫の方へ向かって)いつまでいられるかな』」(『東京上空いらっしゃいませ』、榎祐平・脚本―VHS版映像を見ながら、採録した。ちなみに、VHS、DVDともに現在は廃版になっている)

 ワンシーン・ワンカットという相米独特の長回しは、ロング・ショットから徐々に近づいていくカメラの動きも安定していて、ユウ(牧瀬里穂)の清冽な独白と木村の声が醸し出す、見事な情感溢れるシーンをわたしたちに見せてくれたことになる。まったく、シチュエーションは違うのだが、加藤泰監督『日本俠花伝』(73年)でのミネ(真木洋子)と清次郎(渡哲也)が、船の甲板で酒を飲み、グラスを手で割る、鮮鋭な場面を思い出し、それに匹敵すると、当時、直ぐに思ったものだった。
……確か、君(たち)は、加藤泰が亡くなった後、追悼集(『加藤泰の映画世界』・北冬書房、86年刊)を出すにあたって、相米と井筒和幸に原稿を依頼したんじゃなかったかな。
――加藤さんと生前最後の公的対談(「日本読書新聞」主催)をした井筒和幸さんから、対談の後の慰労会の席で、相米とも、加藤泰さんの話で、いつも盛り上がっていると、僕が直接聞いたことから、そのことの端は発しているね。巷間、まったく日本映画について語ることのない相米だったが、加藤ファンであったことを知って、なるほどなと思ったものだった。残念ながら、結局、二人からの寄稿を得られなかったけどね。
……そういえば、最近、たまたまテレビの番組で中井貴一が自分が俳優としてやっていくことの確信を得ることになったのは、相米慎二監督のおかげだったとか言っていて、『東京上空〜』の最後のシーンで牧瀬里穂を抱きかかえた時のことを挙げていたぜ。
――あゝ、そうだね。ラスト近くの場面なんだけど、屋形船の後、辿り着いた場所が、文夫が時々、トロンボーンを演奏しているジャズの店だった。そこでは、結婚祝いのパーティーが開かれていて、「帰れない二人」をジャズふうにアレンジして、文夫のトロンボーンの演奏に、ユウが唄い踊るシーンだ。牧瀬の歌唱は、当然、吹き替えなんだけど、小笠原みゆきというジャズシンガーが担当している。彼女の歌唱があまりによかったので、どういう経歴の人か知ろうとしたけど、情報がなく断念した覚えがある。確かに、だんだん、客がいなくなって、二人だけになり、ユウが文夫に寄りかかっていくシーンは、泣けたね。
……だったら、やはり、「帰れない二人」をうまく唄えるようにしないとな。
――よけいなお世話だよ(笑)。

(『風の森 第2次第3号(通巻第18号)』・14.12.30)

東谷貞夫との〈通交〉――秀行書「野垂れ死に」に誘われて

 いま、思い返してみると、不思議な機縁から始まっている。越田秀男さんから、仕事関係の人たちと出している雑誌として、『風の森』の第三号だったか、第四号を戴いた時、そこに、かつて、JCA出版から刊行された『ドストエフスキーの亡霊』の著者、伯爵・神山宏の名前を見つけ、驚きとともに、懐かしさを抱いたことが、わたしと東谷さんが知り合う、そもそもの始まりといっていい。越田さんいわく、神山さんは、知らないが、発行人の東谷さんから誘われて、『風の森』に書くことになったのだと。縁とは続くものだ、その後、ほとんど時間を置かずに、わたしが、「図書新聞」の書評の仕事で、伯爵・神山宏氏の著書『パリの酒場・リヴィエール』(07年・審美社刊)を担当することになる。三人で新宿・紀伊國屋書店本店の前で待ち合わせして会ったのは、書評が掲載されて直ぐ後だったように思う。わたしの印象では、ビジネス的世界を苛烈に泳ぐような人には見えない、どこか無垢で、関係性の垣根を無化したいと希求しているような熱情を胚胎しているよう人のように思えた。そもそも、東谷さんが、『風の森』をどんな思いで始めたのか、確認しあうことをすることなく、誘われるままに第六号から参加した。第十号が出た後、『文芸思潮』(35号)という雑誌に、東谷さんは次のような文章を寄せている。

 「文学と社会あるいは文学と人間などは迷妄の視点であって、頭の中のイメージをどのように文章化するかが問題なのです。自分に似合った文章を創り上げ、つまり言葉の職人に徹することによってはじめて個性が生まれてくるのではないでしょうか。昔の作家はひたすら原稿用紙に向かい、言葉の宇宙をさまよっていたのです。文学の社会的意義などは後付けの屁理屈にしかすぎません。マスコミは文学や絵画をひとつの文化事象として捉えていますが、そこに安住するのは敗北です。/文芸誌・風の森は精神の梁山泊であり、他者の視線に惑わされず、みずからの夢を追い、それが唯一の現実になっています。その手応えが未知のエネルギーを誘発し、道なき道を切り開き、そこには文体というものが生きています。文章による表現はすべて文体に収斂し、精神と躯体の意匠なのです。」

 わたし自身、文章的な場所に、何十年も関わってきたが、東谷さんのように、「文章による表現」について、真摯に思いを巡らしたことはなかった。わたしは、いつも、どこか急き立てられるようにして、発語してきたといっていいからだ。「文体」を「精神と躯体の意匠」であるとする東谷さんの考え方は、わたしを啓発したことは確かである。そして、わたしに対しては、長めの評論(いつかは、小説をと、希望されていたかもしれないが、それに応えることは出来なかったことが悔やまれる)を提案され、いっさい制約を気にする必要のないかたちで書かせていただいた。
 第一次『風の森』(一号〜十五号)は、あえていえば、三期に分けられると思う。東谷さんが、会社経営から離れる前までの五号までを第一期とすれば、第二期は短い期間ではあるが、六号から七号までとなり、発行所をJCA出版とし、印刷所も変え、表紙も一新した八号からが第三期となる。六号を出した後、新宿区西早稲田に『風の森』編集室を開設する。自宅のある王子駅の一つ先の栄町駅から、都電荒川線に乗って、終着駅の早稲田駅で降りると、それほど歩かずに編集室に行けるということが、いいのだと東谷さんは強調していた。また、長らく会社勤めをしていたし、自宅で伯爵・神山宏としての文章表現はできないというのが、彼の説明だったような気がするのだが、わたしにとっては、都電に乗って仕事場へ行くという、実に羨ましい生活スタイルだと思ったものだ。
 一度だけ、櫻井幸男さん、越田さんとともに、開設間もない頃、その編集室を訪れたことがある(七号の表紙裏にそのことに触れ、東谷さんは、08年9月4日と記している)。わたしは、その時、壁に立て掛けて置いてあった猝鄂發貉爐豊瓩判颪れた藤澤秀行の書に強い印象を受けた。わたしは、囲碁は嗜む程度しかやらないし、囲碁界のことも、それほど詳しいわけではないが、丁度、NHKテレビのドキュメント番組「無頼の遺言〜棋士・藤沢秀行と妻モト」の再放送を見ていたので、秀行の生き様に共感を抱いていたこともあり、“野垂れ死に”の言葉に強く惹かれてしまったということになる。七号の表紙裏にその書を背景に集合写真が掲載されている。キャプションとして、「名誉棋聖・藤澤秀行の手になる書『野垂れ死に』を前に、いずれの面々も、野垂れ死に覚悟で『風の森』に命をかける……か¡?」と書かれてある。まるで、東谷さんは、わたしたちを『風の森』という世界へ道行に誘っていこうとしているかのように、わたしには、思えた。しかし、こうしていま、その書について思い巡らしていると、東谷さんの「死」のことが、その書と重ね合わせられるかのように感じられてしまい、悲しい思いを抑えることができない。
以後、『風の森』が出る度に、新宿のサントリーバーに集まって、歓談したものだった。東谷さんに、『風の森』の書き手を紹介して欲しいといわれ、いろいろ逡巡しながらも、遠矢徹彦さんと下沼英由さんを誘い、結果、東谷さんは、ふたりと密に交流することになったようで、そのことは、よかったと安堵している。
 わたしは、自分で、文章を書くことに対して、特別の思いを抱いたことはない。日々の自分の有様のなかの行為の一つでしかないと考えている。それは、小説や詩歌、俳句といった表現ではなく、いわば、散文的な場所で書いているからだろうといわれそうだが、そうではない。わたしは、人と話す、歌を唄う、楽器をかなでる、散歩する、食事をする、猫とじゃれあう、といったそれらのことと、なにか文章を書きとめることとは、すべて等価だと思っているからだ。東谷さんは、それとは、幾分、違う角度を持って「文章による表現」に拘泥していたように思う。人と人が結びつく契機は、なにかを表現しようという思いがあって、初めて連結していくものであるはずだと考えていたのではないか。そして、そのことによって、共同性というものが、かたちづくられていくはずだと希求していたような気がする。やや大げさにいうならば、自ら興した会社も、『風の森』も、東谷さんにとって、理想の共同体というイメージを抱いていたのではないのかと、わたしには思われてならない。
 3.11以後の、暗澹たる気持ちをみんなが湛えていた時、東谷さんから、メールが来た。15号が出た後、集まっていないので、不謹慎といわれるかもしれないが、花見に行きませんかというものだった。八王子に住んでいる遠矢さんと、我孫子の越田さんにとって、中間なのかどうか、わからないまま、井の頭公園の花見行となった。茶屋でビールとつまみを食べながらの歓談。東谷さんの楽しいそうな顔は、いまでも忘れられない。尋ねたところ、何人かで行く花見というものをほとんどしたことがないといっていた。井の頭公園の桜を見つめる東谷さんの表情は、なんの曇りもない、晴れやかなものだった。

(「風の森」第二次第二号・通巻第十七号・13.12.30)

……君との放談も、久しぶりだけど、なにか情況的な話題でもあるのかな。3.11以後、内・外とともに、閉塞的な情況が続いているところで、東京オリンピック開催なんて、浮かれている場合ではないといいたい気がするけど、そうは思わないかい。
――君は、いつも、そういう話題で話したがるけど、たまには、落ち着いて来し方行く末のことでも考えてみた方がいいぜ。もう、いい歳なんだから。
……それは、君の方だって同じじゃないか。そういえば、君がかつて好きだった藤圭子(1951〜2013)が〈自死〉して、落ち込んでいるのじゃないかと心配していたよ。好きな歌手といえば、いつだったか、君が小学生から中学生の頃、坂本九(1941〜85)と植木等(1926〜2007)が好きだったというのを聞いて、意外な感じがして驚いたものだったけど、今年(2013年)は、坂本九が歌った「上を向いて歩こう」が、「SUKIYAKI」としてタイトルを変えて全米ヒットチャート誌の『ビルボード』のトップテンになって50年たったようだね。それにしても、50年というのは、歴史的な時間といっていいな。メモリアルイアーということで、様々なイベントやCD、DVDが発売されるという現象が起こっていたようだが、世田谷文学館で開かれた『上を向いて歩こう展』(13.4.20〜6.30)も、そうした企画のひとつだったけど、もしかしたら、君は行ったのかな。
――実は、行ったんだ(笑)。あらためて、その頃、自分が抱いていた関心の方位は、結局、いまの自分の有様をかたちづくっているのだなと、率直に感じられたといっていいね。なぜ、あれほど坂本九に、あるいは永六輔(1933〜)、中村八大(1931〜92)による楽曲に魅せられたのだろうかということを、振りかえってみれば、詞のもっている力、メロディーが突き動かす感性といったものを、初めて、子ども心に無意識のうちに感じられたからだと思う。たぶん、その感じ方は、いまでも、あまり変わっていないはずだ。当時(六十年代)は、流行歌に触れる、聴くということは、ほとんど演歌(歌謡曲)的世界に浸るしかない時代の中で、洋楽を聴く契機もないままに接して、感応したのが、和製ポップス系といわれるものだったように思う。記憶を辿ってみれば、ダニー飯田とパラダイスキングのリードボーカリストとして『悲しき六十才』がリリースされたのが60年8月で、『ステキなタイミング』は60年10月だ。六〇年ということは、つまり安保闘争時で、わたしは小学五年生だった。何も意味もわからずに、“アンポハンタイ、キシ、ヤメロ”のシュプレヒコールを真似て友達と遊んだ記憶は微かに、残っている。地方で暮し、しかも、ラジオでしか音楽を聴くしかなかったから、パラキン時代の坂本九に共感したのが、リアルタイムだったかどうか、定かではないけれど、ともかく、独特の歌唱は強く印象に残っていて、橋幸夫(1943〜)の歌よりは、遥かに親近感を抱いていたのは確かだった。わが家にテレビが設置されたのは、61年だったからね。ちなみに、橋のデヴュー曲『潮来笠』が60年7月(九のデヴュー曲シングルは前年に発売)と、『悲しき六十才』とほぼ同時期だったことは、いま考えてみると、面白い機縁だったと思う。『九ちゃんのズンタタッタ』(61.3)、『九ちゃん音頭』(61.10)など、いわば、コミカルな歌に魅せられたのは、少年期としては、当然のような気がするけれど、後年、植木等が好きになって、映画はもとより、そのキャラクターにかなり傾倒したことを考えてみれば、〈笑〉というものに自分が、なぜそれほどまでに嵌っていたのか、いまにして思えば、よくわからないところがあるな。
……九にしても、植木にしても、〈笑〉を表現として内包していたタレントだったとしても、その内奥は、真摯さというか、真面目さというか、そういう面があったからじゃないか。植木の歌で、バラード風に唄いはじめ、途中からコミカルなメロディーへと移行させる歌があるが、唄う技術を考えれば、かなりのものだといっていいと思うし、九の歌の本領は、『一人ぼっちの二人』(62.11)や、『見上げてごらん夜の星を』(63.5)、『サヨナラ東京』(64.7)にあるからね。そういえば、競作となった『東京五輪音頭』(作詞・宮田隆、作曲・古賀政男、64.1)という愚作より、『サヨナラ東京』は、はるかにいい歌だったな。さすが六輔、八大コンビの歌だ。要するに、君は、子ども心に、真面目そうなタレントが好きなだけだったんだよ。君自身、転校も多く、あまり友人もできないでいたから、九や植木のような存在に共感したんだな。
――おいおい、君にそんな精神分析的なことをされたくはないね。そういえば、テレビの番組も、『夢であいましょう』(NHK・61.4〜66.4)や『シャボン玉ホリデー』(日本テレビ系・61.6〜72.10、76年から第二期というものがあったようだが、未見。後年、俳句に関心を抱いて秋元不死男という俳人を知ったのだが、息子の秋元近史が『シャボン玉』のプロデューサーだった。近史は82年に自死)が好きだったなあ。
……折角なんだから、君の坂本九論を聞かせて欲しいな。
――そんな大げさなことはしたくはないけれど、年少時の坂本九遍歴めいたことは語れるかもしれない。確かに、『上を向いて歩こう』は、わたしに坂本九を決定づけた歌ではあったけれど、一番好きだったのは、『一人ぼっちの二人』だったな。坂本九、吉永小百合・主演、監督・舛田利雄、脚本・熊井啓、江崎実生の日活映画『ひとりぼっちの二人だが』(62.11公開)の主題歌としてつくられたものだ。もちろん、当時、ほぼ、リアルタイム(地方では多少、遅れて公開されているはずだ)で見ている。

 「幸せは僕のもの/僕達二人のもの/だから二人で 手をつなごう//愛されているのに 淋しい僕/愛しているのに 悲しい僕/一人ぼっちの二人//幸せな朝がきたように/悲しい夜が来る時がある/その時の為に 手をつなごう//愛されているのに 淋しい僕/愛しているのに 悲しい僕/一人ぼっちの二人//楽しげな 笑顔もいつかは/涙がキラリと光るもの/誰もがみんなで 手をつなごう//愛されているのに 淋しい僕/愛しているのに 悲しい僕/一人ぼっちの二人」(作詞・永六輔、作曲・中村八大)

 最初の三連は、普通に男女の有様を示すいい方だといってもいいけれど、次の三連が、凄い。「愛されているのに 淋しい僕」、「愛しているのに 悲しい僕」、そして、「一人ぼっちの二人」というセンシブルな詞は、まさしく、対幻想の本源を衝いているといっていいと思う。永六輔の詞には、『上を向いて歩こう』もそうだが、「ひとりぽっち」、「涙」、「悲しみ」といった言葉が、頻出する。普通に詞の言葉として並べてみれば、皮相な感じになりそうなのだが、そこに、中村八大のメロディーがのることによって、言葉に奥行きが出てくるから不思議だと思う。つまり、後に登場するシンガーソングライターたちや、演歌の作詞者に共通する、詞それ自体にメロディーのようなものが付託されているのとは違い、永六輔や、『悲しき六十才』、『九ちゃんのズンタタッタ』、『明日があるさ』の歌の作詞をした青島幸男(1932〜2006)の詞は、曲をのせることで、言葉が動態化していく面白さがあるような気がするね。『明日があるさ』(63.12)は、わたしの好きな歌のひとつであるけれども、近年、CMソングや3.11以後の応援歌(当然、替え歌で。ただ、歌のタイトルだけ戴いて、曲に陳腐な歌詞を付けるのは、楽曲に対する冒涜だと思う)になってしまい、まったく別の歌のように遠くへ行ってしまったので、ここで、わたしは、本来の場所へと奪還しようと思う。

 「いつもの駅で いつも逢う/セーラー服の お下げ髪/もうくる頃 もうくる頃/今日も 待ちぼうけ/明日がある 明日がある 明日があるさ//ぬれてるあの娘 コウモリへ/さそってあげよと 待っている/声かけよう 声かけよう/だまって見てる 僕/明日がある 明日がある 明日があるさ//今日こそはと 待ちうけて/うしろ姿を ついて行く/あの角まで あの角まで/今日はもう ヤメタ//明日がある 明日がある 明日があるさ//思いきって ダイヤルを/ふるえる指で 回したよ/ベルがなるよ ベルがなるよ/出るまで待てぬ 僕/明日がある 明日がある 明日があるさ//はじめて行った 喫茶店/たった一言 好きですと/ここまで出て ここまで出て/とうとう言えぬ 僕/明日がある 明日がある 明日があるさ//明日があるさ 明日(あす)がある/若い僕には 夢がある/いつかきっと いつかきっと/わかってくれるだろう/明日がある 明日がある 明日があるさ」(作詞・青島幸男、作曲・中村八大)

 未来に希望を持った明るい歌だと思われるとしたら、この歌の宿運のなさを思わずにはいられない。なんといっても、イノセントな恋歌だから、いいのだ。どうして、そのように、受容し続けないのだろうかと、わたしは、暗澹たる思いになる。ストーカー殺人が横行する現在、「声かけよう 声かけよう/だまって見てる 僕」や、「今日こそはと 待ちうけて/うしろ姿を ついて行く/あの角まで あの角まで/今日はもう ヤメタ」というスタンスこそ、男と女の関係性の淡さ、あるいは、男の女性に対する無垢性を凝縮したものなのだということに気づくべきだし、そのことこそ、人と人が知り合う初源のかたちだと思いたい。つまり、関係性とは淡さがあって、初めてそこにひとつの結び付きの端緒というものが発生すると思うからだ。性急に関係性を構築するということは、権力(例えば、男は女より優位であるという幻想による一方的行動)というものを行使していくことと変わらない行為だといっていい。この歌の「夢」は、大それたものではない、好きな人と一緒になることだといっているだけなのだ。苦難の場所から離脱することとか、偉くなるとか、そんな都合のいいことや陳腐なことを意味しているわけではない。ましてや、震災復興といったことを希求するようなことではなく、もっと、地べたの関係性に対する熱い思いがメタファー化されているといいたいね。
……確かに、君がいうように、この『明日があるさ』は、随分、カヴァーされているけど、『上を向いて歩こう』と違って、かなり歪曲されていると俺も思っている。だいたいにして、吉本興業の芸人たちや、ウルフルズによって軽いタッチで歌われてしまうと、「明日」という意味が、かなり違うように聞こえてしまう。俺は、トータス松本はキライじゃないけど、せめてロック魂を忘れずにカヴァーして欲しかったな。例えば、清志郎の『上を向いて歩こう』のカヴァーのように。
――そうだね。僕もそう思うよ。ウルフルズが、会社が何とかなんて、駄目だよなと思う。清志郎の、“日本の有名なロックン・ロール”といって歌う『上を向いて歩こう』は、泣けるね。坂本九への最高のリスペクトだと思うよ。ところで、わたしは、まったく知らなかったのだが、坂本九は、69年6月に『蝶々』というシングル・レコードを出したという。それが、放送禁止歌となったため、歌うのを封印したことについて、九は、次のように述べていた。

 「放送禁止、こんな言葉があることさえ忘れていました。/歌というものは自由なものである筈なのに、歌を取り上げる権力があるとは、しかも“蝶々”の場合は、替え歌の歌詞が悪く、広まっていると言う理由。メロディーに対して、すでに猥歌の歌詞がついているもので歌詞を替えて放送には出せないというA級要注意歌謡曲の指定――正直言ってショックでした。/色々の手をつくし、この警告を取り下げて貰えないだろうか、又、何故放送禁止なのかと食い下がりました。/しかし、この放送禁止を解くまではいきませんでした。/歌手が歌を取り上げられる、この苦しみはとても、筆では書き表せません。/考えて、考えて、この歌を歌うのをやめました。」(『坂本九 上を向いて歩こう』96〜97P・日本図書センター、01.9刊)

 なるせ・みよこという歌手が、先行して歌った『蝶々』の歌詞が、猥歌とされたことによる波及だったようだ。たかだか、四十数年前のことだといえばいいのだろうか、遠い昔のことといえばいいのか、しかし、いまでも、あらゆる場所で禁忌がある以上、九のこのような悲痛の発言は、重いなあと感じる。九の放送禁止問題が発生していた頃、わたしにとっては、その三ヶ月後にデヴューシングル『新宿の女』を発売した藤圭子へ思いを馳せていくことになるから、いま、不思議な感慨を抱いてしまうね。最後に、わたしが、最も好きな『サヨナラ東京』という歌に触れてみたいと思う。

 「サヨナラ東京 サヨナラ恋の夜/はじめて逢った なつかしあの日/ふりむけば 街の灯遠く/行くてには こどくな明日/サヨナラ東京 サヨナラ泣かないで/涙でにじむ サヨナラ東京//サヨナラ東京 サヨナラやさし人/別れの言葉 くちづけにがく/今一人 この街を去る/もとめあった 心と心/サヨナラ東京 サヨナラわすれじと/涙で唄う サヨナラ東京」(作詞・永六輔、作曲・中村八大)

 「サヨナラ」とカタカナであるところが、ユニークなのだが、当時、わたしは、東京オリンピックに来た外国人を意識した、カタカナの「サヨナラ」だと思っていたし、B面(いまは、カップリング曲というらしいが)の、『君が好き』は、世界各国の言葉で「君が好き」と唄っていく歌であったから、なんとなく、曲の成り立ちにも、すっきりしない感じを抱いていたものだ。今回、世田谷文学館で『坂本九 アニバーサリ―・アルバム 689コンプリート』(11.10)というCDを買い求めたのだが、そのライナーノートにオトナの歌謡曲・娯楽映画研究家という肩書の佐藤正明が、『サヨナラ東京』について、次のように書いていたので、引用してみる。

 「1964(昭和39)年は東京オリンピックに沸き立っていた。60年安保後には、外国からお客様を迎えるためとして、東京の大改造が行われ、それを『街殺し』と称する人もいた。『サヨナラ東京』は、時代の晴れがましさに背を向けるような、切なく淋しいセンチメンタルな歌である。当時、上京するということが『上昇志向の発露』であり、東京を後にするということは『挫折の象徴』でもあった。上京したけれど、志半ばで故郷に戻っていく若者も多かったのだ。」

 なかなか明晰な文章だと思う。ただし、この歌に、「上京したけれど、志半ばで故郷に戻っていく若者」を仮託するのは、やや無理があるような気がする。やはり、変わりゆく「街並」、変容に呑み込まれていく「人々」への哀感とする見方のほうが、この歌の深層に、より届くような気がするね。そして、わたしにとって、いまだに、この歌に共感し続けられているのは、この歌がある意味普遍性を持っているからだと思っている。つまり、64年時の東京オリンピックによる変貌だけでなく、わたしたちは、それ以後も絶えまなく続く、社会の膨張化に歯止めをかけられず、旧き良きものが、解体されていくことを強いられてきたといっていいからなんだ。そのことへ、僅かに抵抗する言葉として「サヨナラ」があると、思いたいな。

(「風の森」第二次第二号・通巻第十七号・13.12.30)

映画『行きずり街』(監督・阪本順治)

              ―〈1〉―

客 君が長年、愛読してやまない志水辰夫の原作が昨秋、初映画化されたね。しかし、あまり作品の評判は聞えてこなかったし、入りも良くなかったようだが。
主 確かに、そうかもしれないが、映画作品として出色の出来だったと思う。なによりも脚本の丸山昇一は、志水辰夫の物語世界を見事に映像世界へと転換させたといっていいし、撮影の仙元誠三による長廻しのカメラワークは奥行きのある場面をつくり、阪本順治の演出力も目を見張る映像を生み出したといえる。もちろん、志水作品なら、『行きずりの街』(90年)よりも、『背いて故郷』(85年)や、『飢えて狼』(81年)といった作品こそ望ましいけれど、ともかくも、初の映画化作品にしては、充分に満足できる出来栄えだったといい切れるね。
客 君には悪いが、もともと、志水辰夫という作家自体、ベストセラー小説を量産しているわけではないし、『行きずりの街』は、いまや、誰もが知っている宝島社刊の『このミステリーがすごい!』の92年版のベストワンだったが、十年以上経ってから、文庫版を改装して、帯文に、“このミス・第1位”ということを記載して、売れ出したという、“いわくつき”のものだ。俺は、君と違って、いまの日本映画の現況に失望しているから、メディア(出版、テレビ)ミックスで、映画の観客を呼ぼうとすること自体、作品評価を貶めることになると思っている。
主 残念ながら、君のいうとおりだと思う。新聞紙上の広告での惹句は、こうだ。「『このミステリーがすごい!』第1位/『日本冒険小説協会』大賞受賞作/70万部突破のブレイク作/待望の映画化」と記され、その惹句の脇に文庫版の書影が置かれ、「志水辰夫の最高傑作!」とある。宣伝は、一つのイメージを与えるから、作品に添った惹句が、「君に会いたかった。/一日も忘れたことはなかった。」では、ミステリー映画なのか、恋愛映画なのか、観ようとしている人たちに混乱を与えてしまったのではないかといえる。十二年の空白を埋めて、男女の関係性を恢復していくというモチーフとともに、都会と鄙に横たわる極めてリアルな問題も『行きずりの街』には潜在しているけれども、そこが、うまく映画作品として伝えきれなかったことは、あるかもしれない。それでも、近年の阪本順治は映画的膂力ともいえるべきものを胚胎させて、極めてオーソドックスな作品を作り上げていることに感嘆せざるをえない。実は、『行きずりの街』は、何年か前に水谷豊主演でテレビドラマ化されているけれど、原作とは別物と割り切って見たとしても、ひどい作品だったことを覚えている。今度の映画化作品で、その時の不満を払拭してくれたといえるね。
客 君は、最初の頃、それほど、阪本作品にシンパシーは寄せていなかったように思ったけれど、違うかな。
主 四作目の『トカレフ』(94年)に対して、力作であることは認めても、なにか釈然としない思いをしたことで、少し、距離を置いたことは確かだった。いま見直してみれば、また違う印象を抱くかもしれないが、『傷だらけの天使』(97年)から、『KT』(02年)までの一連の作品で、阪本順治を再評価したといえる。特に、『新・仁義なき戦い。』(2000年)は、わたしにとっての阪本作品のベストワンだ。結局、それ以降も、『亡国のイージス』(05年)以外、全部、見ているが、『座頭市 THE LAST』も含めて、作品モチーフが、阪本の作家性と確実に照応しているかといえば、わたしは、そうは思わないね。阪本自身、敢えてモチーフを固定したくないと思いがあって、様々なテーマに挑んでいるという心意気は評価していいかもしれない。ただし、この間の作品では、一見、阪本の世界と遠そうな感じがした『魂萌え!』(07年)が、一番良かった。この作品で、あらためて阪本の作家的膂力を認識したといっていい。
客 わかった。そろそろ本題に入ろうよ。

               ―〈2〉―

主 原作の基調、つまり、波多野和郎(仲村トオル)とかつて教え子であり、妻であった手塚雅子(小西真奈美)との関係性をめぐる描出は、改変されてはいないが、外縁部分はかなり違っている。ミステリー部分、ハードボイルド部分といった色合いは、そのため、やや希薄になったといっていい。そのことが、この映画作品に対する不満なところだけれど、やはり映画ならではの表現というものがあると、改めて感じたといえる。例えば、波多野と雅子が十二年ぶりに偶然再会する「彩」での場面は、この映画作品を際立たせる秀逸なシーンだといっていい。敢えて、原作を引いてみる。

 「(略)いちばん奥に『彩』の文字。AYAのルビ。由来は知らなかった。彼女の母親の代からの店名だった。/にわかにためらった。後悔しはじめている。来るべきではない、という意識の正当性が警鐘を鳴らしているのだ。それでも引き返す気になれなかった。この扉の向うになにが詰まっているのか、わかっている。わたしの過去のすべてがある。(略)/カウンターの中に入りかけていた和服の女性が振り返った。こちらを見て笑みが瞬間的に引っ込んだ。わたしの抱き続けていた範囲のイマジネーションから、彼女はいささかもはみ出していなかった。(略)/『いっらしゃいませ』雅子が言った。すこしぎこちなく、すこし声がうわずっていた。それでも素早く微笑して、彼女は前に進んできた。(略)/彼女の白い手がすっと延びてくると、オンザロックがカウンターに出てきた。つづいて水の入ったグラス。見返すと、彼女はわずかに顎でうなずいた。抑えていた感傷が見る見る胸を締めつけてきた。/『ありがとう』やっと言った。」

「彩」は、入口から、真っ直ぐにカウンターを見据えるようにある。この通路のような「彩」の店内の一部は、二人の関係性の通路となっていくことのメタファーのように映し出されていく。そして映画版は、こうなる。和服姿の雅子が、電話で話しているのを正面から捉えていく。お客が入ってきたことを知った雅子が振り向いて、「いっらしゃいませ」と言いながら、一瞬、驚きの表情を湛えるも何気ない素振りをして電話を置く。波多野が入っていく。初めて、「彩」の店内を見通せる画面のなかに、二人が立つことになる。店の奥のテーブル席に何人かの客がいて、二人をじっと見ている男(ARATA・神山文彦役)がいる。やがて、この三人をめぐる関係に変容が訪れることをこのシーンは予兆していることになる。二人で会話した後、雅子がカウンター内に入るため脇の通路を通る時のスローモーション、やがてその表情に翳りが表れる。「いまでも、ロックにお酒」と聞いて酒を注ぐ雅子の顔をスローモーションで捉える。雅子を見つめる波多野。スローモーションの多用は、時に過剰になれば、その効果は薄れるものだが、二人の空隙を埋めるかのような映像的リズムが、スローモーションによって奥行きのある場面展開を作り出している。原作の「オンザロック」が、映画では「日本酒のオンザロック」となっているところが実にいい。こうして場面場面を語りながら思うのは、原作から抱いていた、わたしの「彩」をいい意味で裏切った見事なセットとともに、この作品の最も重要な再会場面を見事に構築したということだ。
客 原作では、この再会場面と、雅子の部屋で一夜を共にする場面が、物語の骨格とでもいうべき箇所になるからね。
主 物語の三日間という時間は、そのまま十二年間という時間を恢復させていくということを内在させているから、波多野と雅子との再会と雅子の部屋での場面はなによりも、濃密に描かれなければならない。映画では、雅子の部屋で、ふたりの会話に齟齬が生まれ、波多野はいたたまれなくなって帰ろうとする。「許すなよ、こんな男をいつまでも許すな」といって玄関を開けて出ていこうとするところを、雅子は、平手で何度も波多野の頬をぶったあと、壁にもたれかかって泣き崩れていく。雅子の横顔のアップ。そして顔の奥から、左手が近付いて、顎に優しく触れる。わたしは、このシーンをもって、この映画版『行きずりの街』を全面的に支持したといっていい。

 「雅子に一歩近寄ると、彼女は唇を嚙み、激情の渦巻いた目を真っ向からさし向けてきた。それから目をしばたき、わずかに顔をゆがめた。手を差し延べるといやいやとばかりかぶりを振った。しかし身体じゅうから力が抜けてしまっており、悲しみと、押さえている切なさとが急速に唇をわななかせはじめた。引き寄せると拒むみたいに腕を抱え、頭をわたしの顎の下に押しつけた。わたしは抱きしめてその顎を起こし、唇を重ねた。」

 あえて原作を引きながら、映画を想起してみればいい。阪本順治は波多野と雅子の十二年間という空白を埋めるかのような激情シーンを実に美しく鮮烈に描出しているのだ。
客 原作と映画作品は、けっしてイコールではないし、イコールということはありえないと思う。原作に思い入れがある場合、その原作のエッセンスを損なうような作り方をされれば、どうしても不満を抑えることができないわけだから、なかなか、冷静に観るということを難しいことになる。
主 確かにそうなんだが、活字と映像を比較して検証すること自体ナンセンスだと、思いながらも、強固な原作があったからといって、映画でなければ、表現できないことは、あるといえる。そしてなによりも、俳優がひとつのキャラクターを作っていくという良さ(マイナスに作用することもある)が、映像にはある。原作では、小さな存在だが、谷村美月が演ずることによって、広瀬ゆかり(南沢奈央)の友人役の藤本江理の存在がクローズアップされたし、中込安弘役の窪塚洋介の快演も光っていた。仲村トオルと小西真奈美が、波多野と雅子役だと知ったとき、幾らか異和感をいだいたものだったが、映画版を観終わって、二人以外に適役はいなかったなと納得したといっていい。

               ―〈3〉―

客 結局、君の映画の見方は、相変わらずワンパターンだということがわかったよ。仁侠映画だろうが、文学的香りのする映画だろうと政治的モチーフをもった映画だろうと、すべからく、男―女の描き方を基軸として捉えようとしているように思うな。
主 それは、否定しないよ。恋愛映画という謳い文句でも、男―女の関係性をきっちりと描いているとは限らない。むしろ、恋愛映画と一番遠いジャンルの方が、そうである場合が多い。加藤泰の『みな殺しの霊歌』(68年)や、アンジェイ・ワイダの『灰とダイヤモンド』(58年−日本公開59年)がそうであるように。
客 なるほどね。それにしても、映画『行きずりの街』は、なんで、そんなにも注目されなかったんだろうね。
主 そうなんだ。最後にどうしても世評に対して、一言いっておきたい。別に映画賞や映画雑誌のベストテンに拘るわけではないが、『キネマ旬報』誌では、23位だったのは意外だった。もう少し高評価を受けるのかと思ったからだ(ちなみに、同じ阪本作品の『座頭市 THE LAST』が、なんと、54位という低評価)。ひどいのは『映画芸術』誌だ。ここ数年、選者が様変わりしていることもあって、かつての『映芸』誌独特のベストテンといった色合いが、失ってしまっているといっていい。それは、ワースト点を加算するベストテン形式が、恣意的なものとなりすぎて、もはやベストテンが破綻してしまっているからだ。今回もまた、じつにひどいものになっている。二位と三位の作品は、まったく未知の作品だったが、『映芸』誌スタッフの点数で上位になっているのをみて、いやな感じになってしまった。『行きずりの街』の場合、低い点数とはいえ、四人の選者が選んで、合計十点のところ、一人の選者(敢えて、名前はふせておく)がワーストワンとしたため、差引零点でなんと105位だ(ワーストの点数を引かなかなければ、40位)。しかも、この選者は、コメント欄になぜ、ワーストワンとしたのか、一言も触れていないのだ。この選者は、『おとうと』がワースト3位、『悪人』が4位としているのだ。ほんとうに、『おとうと』や『悪人』よりも、ワーストだと、この選者が思っているのだとしたら、彼の言説や詩作品の一切を是認する気にはならないね。
客 凄い剣幕だな。期待し過ぎて、失望したのかもしれないぜ。
主 それはないと思うよ。原作と映画化された作品は別物だ。原作を曲解してひどい作品に仕上がったのならまだしも、そうではないからね。結局、教え子と結婚して、別れた男が十二年ぶりに再会してまた関係性を恢復するという設定に、共感できなかったのか、もともと阪本作品や志水辰夫作品に共感を持っていなかったのかどちらかだろうね。
客 まあ、シビアなというか、深刻な位相を湛えたものは、映画にしろテレビドラマにしろ、あるいは小説でも、どうしても敬遠される傾向はあるかもしれないな。
主 いまが、深刻というか、大変な情況ではあるけれど、だからといって、そのことを凝視することは、避けられないし、引き受けざるをえないのだから、わたしたちは、いまを切実に進んでいくしかないと思うよ。
客 そうだね。そういうことだよ。

【映画『行きずり街』】―原作・志水辰夫
監督・阪本順治、制作・黒澤満、脚本・丸山昇一、撮影・仙元誠三、音楽、安川牛朗
出演・仲村トオル、小西真奈美、南沢奈央、窪塚洋介、菅田俊、佐藤江梨子、谷村美月、杉本哲太、ARATA、石橋蓮司、江波杏子
配給・東映、上映時間2時間3分、2010年11月20日公開。

 90年の初夏に見た相米慎二監督作品『東京上空いらっしゃいませ』は、わたしのなかで相米映画ベスト作品だと思っている(相米ファンの多くから異論が出ることを承知の上で、さらにもう一本『ラブホテル』を加えた二本がわたしの相米映画ベスト・ツーだ)。「死」をめぐる不思議な物語をもったこの作品は、牧瀬里穂の清冽な存在感とともに、幾つかのバリエーションで流れるテーマ曲「帰れない二人」が、実にいいのだ。この歌を、井上陽水が唄っていたことは知っていた(73年刊・アルバム『氷の世界』収録)のだが、陽水にあまり好感を抱いていなかったわたしにとって、それまでは、それほど印象深く思ったことがない楽曲でしかなかった。憂歌団の木村充揮のバージョンが特にこのなかでは秀でていた。エンド・クレジットで、「帰れない二人」の作詞作曲が陽水と清志郎の共作だったことを知って、驚いたと同時に、その少し前に読んでいた連野城太郎著『GOTTA(ガッタ)!忌野清志郎』(89年刊・角川文庫)で、二人がお互いのアパートを行き来しながら(たぶん)、共作したエピソードが綴られていたことを思い出したのである。それが、この曲だったのかと、納得したことを覚えている。

 思ったよりも 夜露は冷たく/二人の声もふるえていました/「僕は君を」と言いかけた時/街の灯が消えました/もう星は帰ろうとしてる/帰れない二人を残して//街は静かに眠り続けて/口ぐせの様な夢を見ている/結んだ手と手のぬくもりだけが/とてもたしかに見えたのに/もう夢は急がされている/帰れない二人を残して//もう星は帰ろうとしてる/帰れない二人を残して

 なんとも、イノセントなセンチメンタリズムといったものが言葉のなかに充満している詩だと思う。「『僕は君を』と言いかけた時街の灯が消えました/もう星は帰ろうとしてる/帰れない二人を残して」というフレーズは、陽水というよりも、清志郎的世界だなと思った。清志郎バージョンだけの「帰れない二人」はあるのだろうかと思い、探して見たが、分からなかった。『RC SUCCESSION  THE KING OF LIVE』(1983年)という ライブ盤がある。そのエンディング曲「Yubiwa O Hametai」(この熱唱と演奏がまた凄い、12分52秒だ。80年に発売された『RHAPSODY』のオープニング曲「YO-O-KOSO」に匹敵する)が、「帰れない二人」のアレンジ・ヴァージョンだった。「帰れない二人」よりも、もっと直接的に、さらに苛烈に、「愛」を訴えかけている歌になっている。

 きみとOh oh oh oh oh oh/はめたいのさ/きみだけと いつまでも いつまでも/はめたいのさ/ぼくを 愛して/ささやいて/きみを抱くときに/きみとOh oh oh oh oh oh/はめたいのさ/指輪を いつまでも いつも いつも いつも いつも/はめたいのさ/ぼくには きみが/よくわかる/よくわかる/目を閉じても きみが/見える/離れているときも/きみとOh oh oh oh oh oh/はめたいのさ/きみだけと/きみだけと いつまでも/いつも/はめたいのさ/もしも こんな夜に 外に/ほうり出されても 眠るところさえ/見あたらなくなっても/そばにきみがいれば/そばにきみがいれば/そばにきみがいれば/そばにきみがいれば 何も/変わりはしないさ 何も/ぼくは何も怖くない 何も/ぼくは何も怖くない 何も/ぼくは何も怖くない 何も//そうさ ぼくは寒くない 何も/もう 何も/もう/もう

 すごい詩だと思う。この詩にあの切ない〈声〉が、重なっていくのだ。「そばにきみがいれば 何も/変わりはしないさ 何も/ぼくは何も怖くない 何も」「そうさ ぼくは寒くない 何も」という言葉は、わたしに過剰な発語は、関係性を視えなくさせるだけだと伝えてくれるのだ。「何も怖くない」の次にくる「ぼくは寒くない」という直接性が、深いイメージを湛える。清志郎は、ステージで観客に向かって、なんの外連もなく「愛」という言葉を発する。観客もそれに応えていくというように、独特の関係性を醸し出しているし、それが、多くの人に清志郎が支持されている所以だと思う。だが、わたしは、結婚もし、子供もいる私人としての清志郎と、世界に対して熱い憤怒を投げ掛け、「愛」を発語していく清志郎に対して、率直性を感受すると同時に、どこかアンビバレンツな思いを払拭することができないでいることに気がついてしまうのだ。そのことを、言葉として連ねるには、もう少し時間が必要かもしれない。
 ただこれだけは、いえるはずだ。RC SUCCESSIONとしての活動が続けられなくなった後、様々なコラボレーションを清志郎は、やっている。しかし、RC SUCCESSIONこそが自分の立ち位置なのだということを誰よりも知っていたのは、清志郎自身だと思う。
 だからこそ、RC SUCCESSIONは、清志郎にとって「愛のかたち」であり、「愛」を率直に発語できるかたちなのである。
 いま、『RHAPSODY』を聴きながら、この文章を記している。生き急いだ人だったなと、思う。まだまだ、あの〈声〉を聴き続けていたかった。

 五月はいつも悲しい。高橋和巳が亡くなったのは、1971年5月3日だった。寺山修司が亡くなったのも5月で、1983年5月4日。そして、わが清志郎は、2009年5月2日午前0時51分、旅立ちの途についた。享年58。

「死ねば死にきり」―回想、村上一郎
(「猫々だより71」掲載―『吉本隆明資料集74』所収・猫々堂08.4.25刊)

 七五年三月二十九日、自刃した村上一郎の〈死〉を、衝撃を持って知った。幾らかの通交があったとはいえ、読者の一人にすぎないわたしは、通夜にも告別式に行くことも躊躇い、時を過ごした。
 同年五月に発行された『磁場臨時増刊 村上一郎追悼特集号』に告別式での吉本隆明の「哀辞」が、掲載された。
 「村上一郎さん。こう呼びかけても、貴方は呼びかけること自体信じていないだろう。死ねば死にきりである。」
 この「哀辞」を読んで、深く心に染み入ってきたことを今でも忘れない。「死ねば死にきり」という言葉が、村上一郎の自死に至る想起の有様を真っ芯で掴んでいると思えたし、同時に、誰にでもいずれ訪れる〈死〉というものの深層を言い切っていると感じたからだ。
 吉本は、この後しばしば、高村光太郎の詩からとして、「死ねば死にきり、自然は水際立っている」と引いている。「自然は水際立っている」、なんとも、鮮烈ないい方ではないか。気になって光太郎の詩を調べてみると、「夏書十題」のなかのひとつ、「死ねば」という表題が付された、亡くなった母を追慕した短詩(原詩は、二行立てで「死ねば死にきり。/自然は水際立つてゐる。」)だった。
 村上一郎との僅かな通交のなかで、わたしは、何度、吉本隆明への共感の言葉を聞いたか、分からない。その頃、『試行』と『無名鬼』の分岐の経緯について考えを巡らす余裕がなかったから、不思議な感慨を持ったように思う。
 村上一郎と初めて会ったのは、後に評論集『浪曼者の魂魄』を編集担当することになる、知り合いの編集者夫妻と連れ立って、武蔵野市吉祥寺北町の自宅を訪問した時だ。六九年の四月か五月頃だったように思う。何時間か歓談した後、四人で井の頭公園へと散策に出かけた。わたしが井の頭公園に不馴れだったのを気遣い、沿革や様々のことを懇切に話してくれた。池の中で群れる大きな鯉たちを指差して、“あそこで泳いでいるのは吉本鯉だな。こちらの大きいのは埴谷鯉に違いない”と真顔で語る村上一郎に、思わず感嘆してしまったことを鮮明に覚えている。
 わたしが、村上一郎という名を桶谷秀昭とともに、刻印したのは、たぶん、高橋和巳を評価していたからだと思う。江藤淳が、小説としての魅力の乏しさ挙げ、徹底的に批判していたのとは、対照的に、ふたりは、その物語の基層にあるモチーフを最大限掘り起こして、共感を表明していたことに強い印象を持ったのだ。共同性の問題といえばいいだろうか、いわゆる「社稷」という農本的共同体の基層を包含する概念をある種の理想的な関係性として捉えるということであり、権藤成卿という思想家へと敷衍されて、わたしを様々に喚起したといっていい。村上一郎との直接的会話の中で、よくネーションとステートは違う、肝心なのはネーションの方だと述べていた。たぶん、「社稷」をネーションに重ねあわせて考えていたものと思われる。近年のポストモダン的思考では、しばしば「ネーション=ステート」として括り、「国民国家」といういい方がなされているが、わたしには、ご都合主義的な短絡的な捉え方に思えてならない。
 権藤成卿を引例しながら、「社会的国家」と「政治的国家」というように分岐し解析してみせた吉本の「自立の思想的拠点」(65年3月)をわたしが知ったのは、単行本化(66年10月)された数年の後(村上一郎との通交前後)のことになる。
 入学した大学の学生新聞に所属したことで、村上一郎との短いながらも濃密な時間を持ったことになる。文芸欄の紙面担当だった先輩が、家業を継ぐために中退して、入学まもないわたしが担当することになった。三回連載となった「私にとって明治批評精神とは何か?」の原稿受け取りのために何度か続けて会うことになる。大学は、バリケードストライキ中であり、そのなかを、わざわざ原稿を届けてくれたこともあった。また、わたしが不在だった時、校正間違いの多さに、もの凄い怒りをもって新聞学会室へ直接電話をかけてきたことがあった。帰室して直ぐに、お詫びの電話を入れたのだが、拍子抜けするぐらいやさしい言葉で、校正の大事さを話してくれたのだ。
 村上一郎が、年来の病気(躁鬱病)に悩まされていたことは、知人の編集者に聞いて知ってはいたが、少なくとも、わたしの眼前では、屹立した佇まいのなかにあっても、不思議な気遣いと“やさしさ”を、変わらず漂わせていた。四十九歳(と記して、愕然とする。どう見ても老成した風貌であった)と十九歳の通交が、村上一郎をしてそう振る舞わせたのかもしれない。編集者とはなにか、書くということはどういうことなのかということを、真摯に若年のわたしに語りかけてくれたものだ。わたしにとっては、著作からだけでは窺い知れない、多くのものを村上一郎からその時、直接受け取ったと思っている。
 いま、わたしは、村上一郎の自死の年齢(五十四歳)を既に何歳も越えてしまった。

 「精神とは何であるか、仮にこれを思想と呼んでもよい。それは長い歩みと、曲折と、時に飛躍とをともなって成り、また成らんとする。が、人類が類として生き得る日まで成らんとして成らない。」
 「変革は、(略)ひとのあこがれ、身をこがし想うものでなくてはならぬ。それを美しかれと念じ、おのれをそこへ向って燃焼せしめるものでなければならぬ。」(「明治維新の精神過程」)

 九年前の三月に友人の奥さんが亡くなり、東京・小平霊園に眠っている。以来、毎年、春の彼岸の折りに、同じ霊園にある、“風”の一字が刻まれている村上一郎の墓へと共に訪れている。                          (文中、敬称略)


谷本賢一郎 歌/ギター・CD『青空/赤とんぼ』(「図書新聞」07.4.7号)

 〈声〉が発生する場所というものを考えてみる。もちろんこれは、聴き手の側からの視線である。〈声〉を、“声”自体としてわたしたちが聴くわけではない。聴くという行為は、〈声〉を媒介に様々なイメージが、喚起されることを意味している。ならば、喚起されるもとの場所とはなにかということを、知りたくなるのは当然のことだ。もちろん、そのような想いも起きず、なんのイメージも喚起されない“声”の方が、圧倒的に多いのはいうまでもないであろう。
 以前、ライブで、初めて谷本賢一郎の“声”を聴いたことがある。間近に彼の実像と、しかもよく通る、きれいなといってもいいその“声”に接して、正直なところ居心地の悪さを感じたものだ。それは、どこかで、自分のいる場所と彼の声が発する場所との違いに思い至ったからだ。もしかしたら、曲目の選び方もあったかもしれない。わたしが、好感をもって聴いていた上々颱風のリーダーだった紅龍と親交があって、そのライブでいくつか紅龍の曲を歌っていたことを、後で知った。
 これは、いささか逆説的ないい方になるかもしれないが、紅龍の風貌と彼が発する声がひとつの存在性を表明しているから、聴くものの心奥を撃ってくるのだとわたしは思っている。
 今度、谷本賢一郎の実質的なデビューCDをあらためて聴いて、ライブでの印象を全面的に訂正せざるを得ないことに気がついた。紅龍、作詞・作曲による「青空」(ライブでも聴いていたかもしれない)の、ピアノの旋律に合わせながら、高らかに、しかも軽やかに、ゆっくりと発せられた〈声〉は、紅龍がもっているリリカルな詩のイメージを壊すことなく、一人の歌手・谷本賢一郎のいま現在の在り様を率直に表明しているかのように聴こえてくるのだ。CDを聴きながら、ようやく、こちらの場所と、〈声〉が発生する場所との交換が成立したように思えてきたといっていい。CDを聴いて、このような感慨を覚えるのは久しくなかったことだ。谷本賢一郎の“声の魅力”といってしまえば、そうかもしれないが、むしろ“魅力”といった表層的な形容では括れない、豊饒なものが、その内部にはあるといってみたい気がする。ライブの時から、数年は経ったように思う。その数年のうちに彼の内部にどんなことが醸成されてきたのかは、分らない。しかし、確実に、一つ大きなかたちとなってそれは、表われてきているといったら、大げさすぎるだろうか。いや、そんなことはない、人は誰でも関係性のなかにいる。表現というものは、その関係性をどう繰り込んでいくかということでもあるのだ。「青い空を 抱いてる」というフレーズは、そんな関係性を意味するひとつの表象だとわたしは捉えている。カップリング曲は、谷本の故郷・兵庫県出身でもある三木露風の作詞、山田耕筰作曲の名曲「赤とんぼ」。「十五でねえやは 嫁にゆき お里のたよりも たえはてた」という詩句は、深い実相をもっている。むろん、谷本は、いま現在という場所からそれを唄えばいいのだし、なんの外連みもなく郷愁を偲ばせて唄えばいいのだ。今後、どんな歌を彼の〈声〉を通して聴かせてくれるのか、期待感が膨らんでくる。

※「『青空』作詞/作曲・紅龍、ピアノ・渡麻衣子」、「『赤とんぼ』作詞・三木露風、作曲・山田耕筰、編曲/ピアノ・うるしどひろし」頒価500円(税込)
※CDジャケットのイラストは谷本本人による。なかなかセンスある絵であることを強調しておきたい。
※【問い合わせ先】(株)トリック・スター社・TEL03‐5331‐3261、FAX03‐5331‐3262

『日本民藝夏期学校』感想(『民藝』635号−05.11)

 わたしは、七月一日から三日までの札幌会場に参加した。いわゆる「公開講座」や「総合学習会」といったものに、これまでほとんどといっていいほど参加したことがない。にもかかわらず、今回、参加したのは、極めて個人的な事由からだった。ひとつは、日本民藝館をこれまで数え切れないほど訪れていたからだ。どういうことで知って行きだしたのか、芹沢げ陲篥鑛志功の作品を見たいためだったか、いまとなっては判然としない(誤解のないように申し添えれば、河井寛次郎や濱田庄司らの陶器にまったく関心がなかったわけではない)。訪れて思うのは、いつもなにか、自分が慰藉されているような気がすることだった。作品の佇まい、建物・空間の佇まい、それらがいいようのない場所として、自分の情感世界をいつも刺激してくれていた。もうひとつは、秋田に在住する義妹から、「夏期学校・札幌会場」の校長が工藤正廣氏だから、もしよかったら、一緒に参加してみないかと誘われたからだ。わたしは工藤氏とは、旧知の間柄であったが、数えてみれば手紙や電話だけで三十年以上、直接会っていなかった。なにかこういう機会の方が、再会としてはいいかなというやや衒いをもった気持で決めたといっていい。ただ、いくらか逡巡しないわけにはいかなかった。「夏期学校・案内文」に散見される「講座」、「学習会」といった文字にいささか堅苦しさのようなものを感じたからだ。しかし、当日、久しぶりの工藤氏との邂逅に気持がやわらいだのか、思いのほか「開かれている」という感覚が湧き上がってきたのだ。実際、三日間を通して、その感覚は変わらなかった。多分、それは、札幌会場の「手仕事の美しさや大切さを考える」というテーマそのままの「手仕事」的運営にあったからだと思う。民藝協会が札幌にないため、秋田県民藝協会の三浦正宏氏が運営委員長となり、さらに地元スタッフの方々の結集力が細やかな配慮となって、わたしのような頑なな思い込みを解きほぐしてくれたからだと思う。象徴的なのは、最終日の工藤正廣氏の講演「手仕事を愛する人へ贈る言葉」であった。
 ほんとうのことをいえば、日本民藝館に足繁く通いながら、わたしは、どこかで「民藝」と括られる世界に疑念がないわけではなかった。つまり、なにかのカテゴリーに収めてしまうと、その領域は、敷居の高いものになっていったり、学際的な場所へと閉じていってしまうことを必然とするからだ。「用の美」と柳宗悦はいったわけだが、日常の暮らしのなかで使われる道具は、いつだって、それが日々、用いられるからこそ、際立つものだ。生きていくことと切断させないかたちで在ればこそ、大量生産のものであろうと、手作りのものであろうと、使う人にとってはいとおしいものとなっていくのだと、わたしなら思う。だから、工藤氏の講演のなかで、拾ってきた「鳥の巣」を掲げて、これも立派な手仕事なのだと話された時、瞠目し、そして素直に感動したといっていい。「開かれている」ということは、そんな世界を感じることだと思う。


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