どうにか、Yogaを始めてから九カ月目に入ったことになる。週一回とはいえ、定期的に何かをやるなんていうことを、これまで、いっさいしてこなかったわたしにとって、驚嘆すべきことだと自賛したいところだが、内実は、そんないい方が当てはまるような、凄いことではない。なんとなく、自分のカラダ(あるいはアタマ)のことが、気になり始め、妻に誘われるまま、一人でやるより、二人の方が通いやすいと、たんに考えて始めたに過ぎないからだ。ただ、始めて思ったのは、Yogaに対する偏見のようなものが、払拭されたことは確かだ。講師の方の考えかたや人柄によるのかもしれないが、シンプルにカラダを動かして、自分自身をラクにしていくといったことは、楽しいことだとは思っているつもりだ。
 だが、そういう気分や思いはいいとしても、肝心のカラダの方が、キツクなってきたから、思い悩んでいるのだ。きつかったらやめればいいじゃないかといわれそうだが、そういうわけにはいかないのだ。大昔(笑)のことになるが、中学に入学して、なぜか、柔道部に入ったことがある。多少、自信がないわけではなかった(一応、柔道の基本的なことは、父の仕事の関係で、習得していたつもりだった)から、まったく、“乱取り”をすることもなく、延々、体育館内を何週も“うさぎ跳び”をやらせられるのに参ってしまい、確か、三日ぐらいで退部したのだ。その時のことが、大げさにいえばトラウマとしてあって、始めた以上、カラダを動かすことにかんして、途中でやめることをしたくないのだ。ほんとうは、きつくなってきたり、嫌になったら、やめてもいいんだくらいの気楽な気持ちで続けた方がいいのだろうが、どうも、そういう器用なことができないから、こうして、ダラダラと記していることになる。
 確かに、この年齢でしかも、生来、カラダを動かすのが苦手なものにとって、Yogaのポーズのなかには、かなり、アクロバティックなものもあり、それはそれで、講師の方のポーズどおりなんて、やれっこないから、いい意味での手抜きはさせてもらっている。たぶん、呼吸の仕方が、カラダの動きと連動していないからではないかと思う。講師の方の吸う、吐くという「声がけ」に、なかなか合わせられないのだ。ほとんど、逆のことをしている場合が多いことに気がつく。
 しかし、こうなると、〈遊ぶ〉どころではない。〈真面目に〉実践しなければ、キツサが、やがてイタミとなって、なんのためのYogaか分からなくなってくるかもしれない。
 やれ、やれ、暗澹たるキモチになってきた(笑)。

 表題を「Yogaを始める」から、「Yogaに遊ぶ」に変え、不定期間隔で気楽に記していこうと思ったのだが、二カ月も間隔が空いてしまうとは、我ながら思ってなかったといっていい。しかも、今週は、三週間ぶりのYoga教室ということになってしまったのだ。先週は、もともと休講で、その一週前は用事があり休んだからだ。さらに、その一週前のYoga教室があった日には、トラブルがあり(その後、どうにか対処して問題はなくなったが)、いってみれば、この三週間は、不思議な感覚で今週のYoga教室を迎えたことになる。だから、心的にも、身体的にも、久しぶりのハードな(というと、講師の方には申し訳ないけれど)Yogaに堪えられるだろうかと思ったのだが、行ってみると、なにか懐かしい場所へ着いたような思いが湧きあがってきたから驚いたといえる。わたしたちと比較的よく会話する女性がいて、その方は、四週間ぶりだといって、隣に並びながらやったことも、良かったのかもしれない。正直にいえば、身体はきつかったが、なんとなく充足感のようなものを感じることができた。しばらく休んでいた人たちも何人か、また再開して参加したようで、二十一名という人数だったが、いつもなら、息苦しさを感じたものだったが、心地よい賑わいと受けとめられた。
 こうして、いかにもYogaに慣れ親しんできたような記述になってしまったが、肝心の身体の動きは、けっして、スムーズにいっているわけではない。まあ、講師の方が、いつもいわれるように、他の人と競うあうことなく、自分のペースでやればいいということなのかもしれない。

 八月に入った途端、参加者が大分、減ってしまった。最初の週は十数名だったと思うが、次の週は僅か八名、さらに次の週は七名だった。子どもや夫が夏休みに入ったからだろうか。わたしたち夫婦を入れて、やや年長グループ四、五人は皆勤だから、そういうことなのだろう。講師の方は、毎年のことと了解しているようで、当然のように、いつもと変わらず、アグレッシヴに指導してくれる。それが、うれしいようでもあり、やや負担に感じてしまうから、贅沢な悩みというべきかもしれない。
 ところが、八月の最終週を妻の緊急の用事のため、休むことになってしまった。わたしだけでも参加できないことはないのだが、もとより一人で参加するつもりは、まったくなく、四月から始めて、ついに、二人とも初めての不参加となった。単純に計算して、七名から二名を引けば、五名となり、講師の方に申し訳ない気持ちを抱いたことは確かだったのだが、今月の第一週に参加し、確認してみたら、二桁の参加者だったから、もっと気楽に考えてもよかったのだ。
 これは、わたしの悪い性分で、何人か参集して定期的に何がしかのことをやる時、自分の都合で休むことがなかなか出来ないことに、由来する。いったん関わったことに対し、自分の都合よりも関係性を優先してしまうということでもある。そう記してしまうと、なにやら気の弱い、長いものには巻かれてしまう資質のように思われかねないが、そうではない。わたしは、もともと、共同的に何かをやるということに対し、抵抗感を持っていったから、極力一人でやることに拘泥してきたといっていい。共同性のなかに自分が身を置くと決めた時、まずその共同性のことを先に考えていくことにしている。Yoga教室で、最後に率先してマットを運び、収納場所に置く作業をしているのは、わたしが、Yoga教室における共同性への関わり方を示しているに過ぎない。関わることが嫌になったら、教室を辞めればいただけのことなのだから。
 ところで、今週は、これまで休んでいた人たちが復活(!)して、十六、七名ぐらいに増えた。スペースの関係で、二十名近いと、やや窮屈な感じになってしまうのだが、それでも、少ないよりは、多い方が、やはり気分は高揚する感じでいい。敢えて飛躍したいい方をすれば、〈デモ〉も、少ないよりは、多い方がいいに決まっているからだ。
 しかし、こんな感じで参加しているようでは、Yogaに遊ぶといった心境になるのは、まだまだ、先のことになりそうだ。

 Yogaを始めて、今日で、丁度、三ヶ月経ち、十二回目ということになる。頓挫せず継続することを、自分自身に課してみようという思いで、「Yogaを始める」と題した文章を綴ってみたのだが、なんとか、十回続けたところで、息切れしてしまった。二週間のインターバルを置いて、上記表題で、しかも不定期で、ダラダラと記してみようと思い至ったことになる。それでも、たぶん気の利いたことは書けないと思う。とりあえず、アタマで書くのではなく、カラダで、テで、素直に書ければいいかなと思っている。“遊ぶ”としたのは、真面目に参加している人たち二十数人の“同級生”には、申し訳ないけれど、気楽にYogaをやるのもいいのではないかという気持ちを込めたつもりだ。
 そして、本日の報告。新しく、男性の参加者が来て、男性が三人になった。最後に、感謝の気持ちを込めて言う、“ナマステ”という言葉が、素直に発することが出来た。
 相変わらず、カラダが痛い。しかし、いい意味での痛さだと感じている。


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