政府は25日に非常事態を全面解除した。もちろん、それは、コロナ禍の猛威が終息したことを意味しているわけではない。早く、経済的活動を活性化したいという思惑と、この間のアベの数々の失態を、表層的な明るさで覆い隠したいという思いが奔出しているだけなのだ。それにしても、コロナウイルスの解明の道筋はどうなっているのだろうかと、いいたい。アビガンと絶叫していたアベだったが、コロナウイルスには認可されなかったことを考えれば、つくづくアベの思い付きの施策は破綻していることが露呈しているといわざるをえない。
 トランプがアメリカで開く予定のG7を強行しようとしている時に、アベだけは追認して、参加表明。しかし帰国後は隔離されることを考えれば延期を進めるのが、盟友(ほんとうは迷友だが)というものだろう。結局に秋に延期されるようだが。
 それよりも、今日から閉店中だった駅ビルの書店と電気店、文具店が再開された。Net注文で、なんとかやってきたが、数日の時間的ロスを考えれば、直ぐ見に行って買えるのがいいのは自明のことだ。
 
 あとは、いつYogaが再開されるかだけだ。

 依然、毎日、“コロナ”の言葉が飛び交っている。コロナウイルスの恐怖よりもコロナ禍をめぐる現況の騒乱に、呆然とするばかりである。コイケ某知事は、相も変わらず自粛様態の維持を続けていくことを連呼する。
 コロナ禍が生起した頃、アメリカではインフルエンザで一万人以上亡くなっているという記事が出ていた。しかし、なぜか、この国での今年のインフルエンザの現況を伝えるものがなにもないのが不思議だ。PRESIDENT OnlineというSiteにインフルエンザの死亡者数の推移が掲載されていた。2015年は、2,262人。16年は、1,463人。17年は、2,569人。18年は、3,325人。19年は、3,252人である。コロナウイルスによる死亡者数は、5月19日時点で、786人(クルーズ船も含む)であることを考えれば、インフルエンザの方が遥かに恐怖だといえる。もちろん、アメリカやヨーロッパ、南米の情況を考えれば、桁外れの数字に驚くが、いまは自分たちの住む場所をとりあえずは優先して考えていくべきであるはずだ。感染者数が桁外れに多ければ危機感を持っても構わないが、なにか明確な情報が発信されていないのではないかと、どうしても疑う気持ちを抑えられない。
 さて、この間の自分自身のことを述べよう。不要不急な外出を控えろと行政権力は絶叫する。しかし、自宅に引きこもって生活出来るわけがない。なんでも、Netで購入できる時代からといっても、食事関連のものは、いつものように近くのスーパーに行って購入している。駅ビルに入っている大きな書店が休業中なのは痛い。内容を見て買って読むかどうかを決められないし、偶然、発見して購入するといような、本と遭遇する契機を失ったことも大きい。映画館が休館というのも困る。駅ビルの食堂街(飲み屋として利用している店もある)も休業中だ。都心で友人たちと飲むという機会も無くなった(お別れ会や偲ぶ会を企画したが延期した)。定期的な集まりがあって月、三、四回ほど、電車に乗って某所へは行っている。なるほど、通勤時間帯ではないが乗客は少ない。
 微細な部分では、異和感はあるが、自分自身の日々の暮らしに変化があるわけではない。今月の初めの頃のように買い物に行っても、食品関連のものが完売ということはなくなった。それだけでも、気分的に随分違う。
 日々の暮らし方でいえば、自分のなかでは、コロナ禍以前と以後の違いはない。ひとつだけいえば、続けているYoga教室が休講になっていることだ。公共施設を使っているため、閉館となって利用できないからだ。そちらは、早く再開して欲しいと願っている。

 丁度、3.11から九年目の時に、コロナ禍が、わたしたちの眼前を覆い隠すかのように拡散していった。九年前は、フクシマの放射能の拡散に恐怖を感知し続けていたことを思えば、どちらがどうと対比していうべきことではないとしても、時の有様を考えてみれば、偶然の生起とは言えないなにかが横断しているような気がしてならない。
 ウイルスの発生がなぜ起きるのかを開示してくれないまま、専門家集団と称する専門家の実態もなにやら政治家や企業といった妖怪に掬いとられたミニ妖怪でしかないといいたくなってくる日々である。
 確かなデータは分からないけれど、インフルエンザで未だに死者が多数、出ていることを考えてみれば、コロナに特化して騒然とすることの意味がよく分からない。
 さらにいえば、いちいち反応はしたくないけれど、アベとコイケの発信に憤りを覚えてしまうのは、コロナ感染対策というよりも、引き続き現在の地位を継続させていきたいという自己保身が透けて見えるからだ。コイケにいたっては、ロックダウンと海外の為政者の言葉をそのまま援用し、ステイホームなんて、自宅にいることは当たり前のことを、ヨコ文字でなにやら言っている観を醸成するというイヤラシサ。いまの段階で、見えないウイルスに対して、感染しないように、拡散させないように注意喚起することなんて、可能なのかと疑いたくなる。
 サンミツを避けるとか、人と人の距離を開けるとか、なにやらそれらのことは、感染しないための方途ではなく、感染させないことの方途に転換させて、まるで堂々巡りの暗号のようだ。人は一人で生きているわけではない、関係性のなかで生を育んできたのだ。関係性を解体して、コロナウイルス対策とはなにかと考えても、わたしには何も分からない。別に一人でも、あるいは対なる関係性だけでも、じっと潜むように暮らし続けることに、苦になることはないとしても、強制はされたくない。
 コロナファシズムと明快に言っておきたい。この情況は異様だ。発信者が、アベとコイケであることが、そもそも、彼らの皮相な言葉に信を置く気にまったくなれないからだ。自分たちのことは、自分たちで堅守する。そいうことに尽きると言っておきたい。

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