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2009.06.06 Saturday

噺家・三遊亭生之助師匠との〈通交〉               ――寄席の世界に魅せられて・番外編

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     噺家(落語家と称してもいいが、あえて、ハナシカとする)という存在は、わたしにとって、ラジオやテレビ、CD(CT)などを通して、身近なものであっても、多くの芸人(あるいは芸能人)と同じで、実像としては遠い存在としてあった。わたしは、六代目・三遊亭圓生が好きで、一度だけライブに出かけている。真打乱造に反撥して落語協会を脱退したため、ホール落語を余儀なくされていた時で、亡くなる一年ほど前のことである。圓生が亡くなった後、カセットテープ版全集(「圓生百席」のセレクト版)のようなものを購入し、たまに聴く程度に、落語とは接していたが、熱心な落語ファンといえるほどには、関心を向けていたわけではなかった。
     一人の友人の〈死〉が、始まりであった。友人が亡くなって一年ほど経って、友人の奥さんを囲んでの歓談を何人かの仲間で催した。その時、旧知の友人の一人が、噺家さんと私的に交流していることを聞いたのだ。たまたま落語の話になって、わたしが、圓生のことを話題にしたからだったのかは、もう覚えてはいない。その旧知の友人が、親しくしていたのは、圓生一門だった三遊亭生之助師匠だった(実をいえば、その時まで、生之助師匠のことは、まったく知らなかった)。いまから、四年ほど前のことだ。そのことを契機として、旧知の友人に誘われて、初めて寄席という場所へ行くことになる。この時、初めて、遠い存在としてあった噺家たち、芸人たちの世界が、寄席という場所を通して、より身近なものになったといっていい。普段から、演劇や音楽ライブなどに出掛けることがほとんどないわたしにとって、なによりも、新鮮な体験であったし、また、未知の多くの演者たちを知って、寄席の世界、演芸の世界の奥深さを知ったといえる。やがて、友人とともに、生之助師匠と何度かお会いし歓談するという貴重な〈通交〉が、重ねられていく。
     そもそも、わたしが関わっていくことになった〈通交〉には、いまにして思えば、やや不純な動機があったのだ。圓生落語に共感していたわたしとしては、圓生の直弟子でもあった生之助師匠から、圓生のことについて、いろいろ聞いてみたいということがあり、できれば、それを活字化してまとめることはできないだろうかと考えたのだ。生之助師匠の了解を得ながら、何度か、ふたりでインタビューすることになった。とりあえず、僅かばかりの分量だったが、草稿を生之助師匠にみてもらったこともあったのだが、わたしの怠慢で、作業は、停滞したままになっている。
     とはいえ、生之助師匠の話は、わたしたちにとっては、実に刺激に満ちたものだった。師・圓生に対する敬愛に溢れた言葉の数々を聞いているだけで、感動し、満ち足りた気分になったものだ。また、同時代の名人といわれた噺家たちのエピソードも、微に入り細に渡り話してくれた。それにしても、生之助師匠の記憶力の良さには、驚くばかりであった。
     わたしたちにとってなによりも僥倖だったことは、生之助師匠が誠実な人柄であったことに尽きるように思う。噺家あるいは芸人という存在は、なにか個性が売り物で、あくの強い人が多いようなイメージがある。しかし、師・圓生がよくいっていたという“芸は、人である”ということを、矜持のようにして生之助師匠が、語っていたことに、それは象徴される。
     昨年の2月と11月に、わたしたちは、『落語独演会・三遊亭生之助を聴く会』を開くことができた。友人の熱い思いと、彼の友人・知人たちの無償の協力によって、会は盛況であったし、CD・DVD化できたことは、なによりも、生之助師匠に幾らかの“返礼”が、できたかなと思っている。五年前の病気が、昨年末に再発したのだが、生之助師匠は頑張っておられたから、かならず回復するはずだとわたしたちは、思っていたし、願ってもいた。だが、今年の5月初めに三回目の独演会を開く予定だったが、生之助師匠の要望で断念せざるをえなかった。生之助師匠が済まながっていたことに、わたしたちは、恐縮するばかりであった。今年の秋に、師・圓生のDVD全集が出る予定のようなのだが、それまでは、死ねないと笑いながら話していた生之助師匠の顔が、忘れられない。繊細な雰囲気を漂わせる生之助師匠だが、実にエネルギッシュな方であったことも、付け加えて置くべきかもしれない。
     クラシック音楽ファンでもある生之助師匠と、もう少し、音楽の話をしておきたかったなと、いまにして思っているのだが、それはもう叶わないことになってしまった。
     高座や独演会では、凛として噺される生之助師匠、わたしたちと会う時は、いつもレコード店の手提げ袋を持ちながら、飄々とした佇まいをされる生之助さん、どちらの姿とも、もう会えないのかと思えば、言葉が出てこない。

    ……………………………………………………………………………………………………
    ※三遊亭生之助氏は、09年5月22日午後9時に亡くなられた。享年73。5月28日通夜、5月29日には告別式が、代々幡斎場にて行われた。


    2009.04.01 Wednesday

    落語家とは何か                          ――柳家花緑『落語家はなぜ噺を忘れないのか』を読みながら

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       数年前から、縁あって月一回のペースで寄席(新宿末広亭)へ通っている。落語への関心は、小学生の高学年の頃、よくラジオで聴いていたことに始まる。噺の内容をしっかり理解していたとは思えないが、娯楽のひとつとして、それなりに楽しんで聴いていたように思う。このブログの「寄席の世界に魅せられて」で既に述べていることだが、しばらく、落語的世界から離れていた。
       わたしが、自覚的に落語に接してから、最も魅了された落語家は六代目・三遊亭圓生である。一度だけ、ライブに行ったことを、僥倖として抱き続けてきた。亡くなる半年ほど前、つまり、落語協会を脱退してホール落語を余儀なくされた頃である。圓生が落語界に危機感を抱いて落語協会を脱退したことは、わたしにとって理解できるものだった。いま、事の顛末を述べることはしないが、五代目柳家小さん体制の落語界(落語協会)に見切りをつけて、落語を聴くことから離れたことを、わたしは後悔していない(わたしが、“人間国宝”小さんの落語に、どうしても馴染めないのは、そのことも起因しているかもしれない)。
       志ん朝が亡くなり、談志が、身体的なこともあって、かつての勢いがなくなり、残るは、やや荒削りな小三治だけかと、やや暗澹たる気持ちを抱きながら、新宿末広亭へと出かけていったことになる。
       落語は、伝統芸・継承芸といわれている。つまり、名人と称される噺家たちがいて、その芸をさらなる高みへと表現していって、芸の継承性を齎していくと考えられている。だが、名人と称される噺家であったとしても、誰でもが心地よく魅了されていくかといえば、そうではない。例えば、わたしは、病気のせいもあってか、晩年の噺ぶりに好感を持ってなかったために、志ん生に対していいイメージを抱いていない。ほとんどの落語ファンは志ん生の芸を絶賛するのだが、体調を崩す以前の録音を聴いても、それほど感心しないから、あまりそういうことへ収斂させたくはないのだが、これは好みの問題ということになるのかもしれない。だから、滑稽譚よりは、人情噺を中心にして、独特の間合いを持った《語り》をする圓生の芸に魅せられていったのは、ある意味、必然的なことだったような気がする。
       末広亭で対面した既知、未知の現在の落語たちは、率直にいって、わたしに新鮮な情感を沸き立たせてくれるものだった。空白の間、実は可能性を秘めた落語家たちが幾人もいたことを知って、素直に感嘆した。なかでも特筆すべきは、小三治である。かつての荒さがいいかたちで、個性となって立ち表れている。志ん朝のなんとも艶のある声質に好感を持っている聴き手は、小三治の声質に異和感を抱くかもしれない。しかし、それを、独特の間合いで語ることによって、聴き手に対しリアルなイメージを喚起して、物語を深化させていく。これは師匠の五代目小さんを遥かに凌ぐ芸域に達したのだといっていいと思う(そうでなくとも、わたしの五代目小さんに対する評価は低いのだが)。
       「小三治師匠は『間(ま)』の操り方が絶妙なんですが、(略)おそらく、(略)昔から間というものを研究して、今の技術にまで到達したのでしょう。若い頃は、うちの祖父(引用者註=五代目小さん)が、『ちょいと間延びする感があるなぁ』と言っていたようですが、あえて長い間をもたせる中で、笑いのポイントを掴んでいったと思うのです。(略)間は笑いの世界だけのものではありません。実際の人の会話の中にも、間というのは存在します。だから、小三治師匠の絶妙な間によって、本物の会話らしくもなる。そうすると単なる滑稽噺じゃなく、人々の日常生活を題材にした世話物っぽくも聞こえてくる。まるで一編の映画を観ているような気分になるのです。」(105〜106P)
       柳家花緑の『落語家はなぜ噺を忘れないのか』は、「すべてを包み隠さず手の内を明か」(「おわりに」)にして、「落語家」とは何かということを率直に語っている著作だ。ここで引いた花緑の小三治に対する視線は、核心を衝いて実に的確だといっていい。「落語家」の語る噺というものは、「単なる滑稽噺」ではなく、「人々の日常生活」をリアルに(あくまで、感じ方をいっているのであって、事実や真実ということを指すわけではない)表現しながら、聴くものをまるで「映画を観ているような気分に」、つまり、イメージを喚起して、物語を深く感じさせてくれるものでなければ、共感を得ることはできないのだと、わたしは思っている。末広亭で聴いた小三治の『あくび指南』や『うどん屋』は、まさしくそのような芸であった。
       さて、花緑のこの著作は、寄席で聴く真摯さそのままの雰囲気を醸し出していて、読みながら、「落語家」というものは、噺家という枠を超えた際立った表現者であるべきだということが、伝わってきた。志ん朝から、「愛宕山」を稽古をつけてもらった時、いろいろ指摘されたことをその場でメモをとることが、なぜか憚れて、「近くの喫茶店に飛び込んで、手帳にワーッと書き出した」(39P)というエピソードや、小さん十八番の『笠碁』を自分なりのものにすべく苦闘する様といい、花緑の真摯さは、これからの「落語家・花緑」を期待したくなるものだといえる。
       「(略)落語は伝承芸です。江戸時代から受け継がれてきた噺の数々を後世にも伝えていく――これも確かに伝承芸です。しかし今、私がもっとも伝承していきたいと考えているのは、『お客さんを熱狂させる空間の再現』なのです。/江戸時代の人たちは、落語で熱狂したと思うんです。大笑いしたり、泣いたり、あるいは感化されたり。そんな感動、感心、発散という目に見えない欲を満たす熱狂を与えた場所が、寄席だったのではないでしょうか。もしも、その空間がつまらなければ、寄席が今でも残っているはずはないんです。だから我々落語家がやるべきなのは、かつて人々を熱狂させた空間を再現し続けていくことではないのかと。もっと言えば、噺の伝承なんて二の次なのかもしれません。」(162〜163P)
       CDやDVDで聴いたり観たりするのも、悪いわけではない。だが、寄席という空間で、落語家と観客のコミュニケーションの渦のなかにいることは、なによりも代えがたい貴重な体験だと、いま、わたしは思い続けている。

      柳家花緑 著『落語家はなぜ噺を忘れないのか』
      角川SSコミュニケーションズ刊・08.11.25・新書判・192P・定価[本体800円+税]


      2008.10.07 Tuesday

      寄席の世界に魅せられて・番外編

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        【御案内】
         落語独演会・第2回特選ライヴ『三遊亭生之助を聴く会』


        平成20年11月3日[月曜・祝日]
        開場 午後1:00  開演 1:30〜4:30
        会場:JACK大宮 5階研修室(048-645-4761 http://www.ucyugekijo.jp/)
        ……………………………………………………………………………………………………………………
        演目: “真田小僧” 、 “一眼国” 、 “しりもち”
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        おたのしみ:生之助師匠を囲んでの談笑会
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        参加助成金 1000円(それ以上も大歓迎)
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        [生之助師匠を囲んでの談笑会]
        高座での噺の終了後、師匠を囲んで参加した皆様からの質問や疑問、六代目三遊亭圓生師匠に就いて
        いた修業時代のことや、楽屋ばなし、そして今は亡き名人たちの思い出など、懐かしく愉快なお話を聴く
        時間をもうけます。聴いてみたい事が有りましたら、恥ずかしがらずに聞いてください。
        お楽しみに!
        ……………………………………………………………………………………………………………………
        [CD・DVDの販売]
        当日会場では、三遊亭生之助師匠の第一回のライヴを収録したCDやDVDも販売いたします。
        ……………………………………………………………………………………………………………………
        主催:「三遊亭生之助を聴く会」(中山・048−666−8472)

        2008.01.16 Wednesday

        寄席の世界に魅せられて・番外編

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           【告知】『落語独演会・三遊亭生之助を聴く会』

          2月11日(月・祝日)
          会場・JACK大宮宇宙劇場・5F研修室・TEL048-645-4761(JR大宮駅西口徒歩3分、丸井・ダイエービルの北側)http://www.ucyugekijo.jp/
          開場・午後1時、開演・午後1時半〜4時半終演

          演目:「質屋蔵」他
          「生之助さんを囲んで談笑会」
          高座での噺の終演後、生之助さんを囲んで参加した皆様からの疑問や質問、修行時代のあれこれや楽屋ばなし、そして今は亡き名人たちの思い出など、愉快な話を聞く時間をもうけます。お楽しみに!

          参加賛助金 1,000円(それ以上大歓迎)

          三遊亭生之助 (さんゆうていしょうのすけ)
          1935年8月22日生。東京都足立区出身。落語協会所属。出囃子はいやとび。
          1959年2月 6代目三遊亭圓生に入門。前座名は六生(ろくしょう)。
          1962年5月 二つ目昇進、生之助に改名。
          1973年9月 真打昇進。
          1978年5月 師匠圓生と共に落語協会脱退。
          1980年2月1日 落語協会復帰。

          【主催:「三遊亭生之助を聴く会」】


          2006.10.12 Thursday

          寄席の世界に魅せられて・8

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             先日、六代目小さん襲名披露興行を新宿・末広亭で見た。寄席通いして一年も満たないうちに、四月に真打昇進披露興行に立会い、今回は大名跡襲名の興行に立ち会うという機会を得てまったく僥倖の限りだと思う。だが、しかしといいたい。六代目になった新小さんは、前の名跡は三語楼といって先代の長男であった。これまで、何度か見ているはずだが、あまり印象に残っていない。むしろ五代目小さんの孫にあたる花緑(花緑の母が六代目の姉か妹かのどちらかだ)にはTVなどで顔が売れていることを差し引いても、やはり華があり、何度か高座を見ているが、期待感を持たさせる芸を披露している。
             この日は楽日、六代目の噺は、五代目が得意としていたという「蜘蛛駕籠」。わたしは、やや不満であった。酒の噺を得意としているというが、人物のつくりにあまり違いが見えてこないのだ。酔っ払い客と駕籠屋が絡む場面が特にそうだった。わたし(たち)のような外部は、円歌から“かゑる”いや馬風へと落語協会の会長が移って、ますます不明朗な名跡襲名や真打乱造が行われるのではないかと危惧する。先代小さん一門では、その実力からいって小三治が際立った存在だといっていい。もし、芸の質をもって名跡継承とするなら、六代目は小三治というのが衆目の一致するところだ。七代目は既に花緑へというのが、規定路線だとしても。はじめ、小三治が固持して、円満に三語楼が襲名することになったと思っていたが、どうもそうではないようだ。ほんらい、格からいったらこの一大興行に小三治も出演して華を添えるべきなのだろうが、鈴本、末広と続く、浅草、池袋の襲名披露興行にも小三治は出ないようだ。
             ともかく、“かゑる”いや馬風による横槍とも噂される六代目襲名だが、今後は本人が、その芸を、わたしたちに納得させていくことで、すべてを払拭させていくべきだろう。

            2006.06.21 Wednesday

            寄席の世界に魅せられて・7

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               紙きり芸の正楽(ただし、先代はなんどかTVで見たことはあった)が、そうだったように、この間、思いがけない未知の芸に出会っている。それは、ジャンルとしては、俗曲ということになるようだが、柳家紫文という演者の「鬼平市中見廻り日記」が、そうだ。
                落語協会のHPでは、つぎのように紹介されている。昭和63年、常磐津三味線方として歌舞伎に出演、平成7年 二代目柳家紫朝に入門、「柳家紫文」を名乗る。常磐津はもとより、小唄・端唄・長唄・新内の三味線など幅広くこなす。このような略歴を知ったからといって、彼の芸の核を理解できるというわけではないが、“小唄・端唄・長唄・新内の三味線”といわれれば、そういう芸の極みのようなものは感じることはできるかもしれない。
               紫文の芸はいわゆる、定型芸である。鬼平(なぜ、鬼平であるかの必然性はまったくない。そこが、おかし味のひとつである)が、橋の袂で見る風景を語っているだけのものだ。三度ほど見ているが、彼のなんともいえない、間の取りかたと、語り口が、次にどんなオチがくるかは、分かっていても、思わず笑ってしまうのだ。それにもうひとつ、そこで描出される人と人の通交に、なんともいえない暮らしの風景が見えてくるから、いいのだ。

              2006.06.13 Tuesday

              寄席の世界に魅せられて・6

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                 1月の興行は、やはり特別のようだ。わたしが、出かけた時(二之席―正月は上、中とはいわず、一之席、二之席という)は、昼の部のトリは、円歌(現・落語協会会長)。大トリは、小三治。他に円蔵、馬風(副会長―はっきりいって、随分、軽量な会長と副会長だと思う)、権太楼。若手では小さんの孫の花緑、漫才では、昭和のいる・こいる、などなど。
                 円歌、馬風、円蔵はまったく緩いただの笑い話。それでも、顔が売れているからだろう、居て、なにかを話すだけで客の笑をとれるのだから不思議だ。しかしこの程度の噺家たちが、重鎮では落語界の行く末も暗澹たる思いがする。だが、さすが、大トリの小三治は、長すぎるどうでもいい枕を無視すれば、まあ、相変わらず達者な話芸を聞かせてくれた。昔は、トチルくせがあって、じっくり聞かせる感じではなかったが、久しぶりに見た(もちろん、ライブは初めてだ)小三治は、確かに熟達していた。
                 初めて見た落語協会の興行で、感動したのは、噺家たちの芸ではなく紙切り芸である。林家正楽の見事な鋏使いは、その後、何度も見ることになるが、すごいの一言に尽きるといっていい。

                2006.05.30 Tuesday

                寄席の世界に魅せられて・5

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                   寄席のシステムについて、まったく無知だったことが分かった。東京都内には現在四つの演芸場があり、それぞれを落語協会と落語芸術協会が分担しながら定席(といういい方の公演)を行っている。新宿末広亭でいえば、十日ずつの定席を交替で行い、最初の十日を上席、次ぎを中席、最後の十日を下席というようにだ。
                   昨年の12月、初めての寄席体験は、たまたま都合上、落語芸術協会の定席の時だった。だが、わたしの思い込みを払拭するかのように、基本的には古典落語中心であった。昼夜入れ替えなしで、昼の部は12時から4時半まで、夜の部は5時から9時まで。わたし(たち)は、4時ごろの入席だった(以降、だいたいその時刻に入り、終演までいる)。
                   平日の、その時刻にもかかわらず客席は、結構埋まっていた。この初めての寄席体験であらためて認識したことがある。いわゆる“色物”といわれる芸になんともいえない魅惑性があったことだ。この日は、俗曲、漫談、物まね、曲芸などだったが、手品や紙切り、太神楽もある。
                   あの三代目・江戸家猫八の娘、江戸家まねき猫(母違いの長男・小猫はなぜか、落語協会の方に所属している)がでていた。テレビで何度か見ていたが、ライブはやはり、臨場感があっていいし、アドリブも効いていて、物まねは、ひとつの“芸”なのだとつくづく感じた。

                  2006.05.24 Wednesday

                  寄席の世界に魅せられて・4

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                     切っ掛けは、ほんの些細な会話からだった。昨秋、久しぶりに会った落語好きの年長の友人に、昨年前半に放映された落語をモチーフにしたTVドラマがあり、しっかりはまってしまったわたしは、そのことを振ってみた。しかし、友人はそのドラマをまったく見ておらず、そのかわり思いがけない話をわたしにしてくれたのだ。ここ数年、ちょっとした縁で、圓生の弟子だった噺家の人と親しくなり、いろいろ圓生師匠の貴重な話を聞いているというのだ。わたしは、思いがけずも出た圓生さんの話題に、彼の話を熱心に聞き、なるほど、弟子の中でも秘書のような近いかたちでいたひとでなければ知らないような面白い話だと思い、つい、聞き書きにして本にしたいですねと彼に提案してしまったのだ。彼も、自分だけが聞くのでなく、落語好きの人に残すべき話だと思っていったらしく、その噺家さんに打診してみようということになったのだ。最初は逡巡したらしいが、とりあえずは承諾してくれたのだが、間もなく、なにか手術のため入院してしまったのだ。その友人はここ一年ほど前から、その噺家(もちろん真打である)さんから毎月、新宿末広亭の招待券2枚を送って貰っていたのだ。入院した後でも送ってくるので、わたしに一緒に行かないかと誘われたのが、そもそも、寄席へ行き始めた切っ掛けであった。昨年の12月のことである。

                    2006.05.19 Friday

                    寄席の世界に魅せられて・3

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                       ところで、わたしは落語を積極的に聴くことをあるひとつのことを契機として、止めていた。それは、1978年に起きた、いわゆる圓生一門による「落語協会脱退事件」のことである。周知のように、落語界には、ふたつの組織団体があって、大雑把にいえば、古典落語を演目の中心に据える「落語協会」と、新作落語も積極的に行う「落語芸術協会」がある。圓生一門は、当然、「落語協会」に属していた。圓生自身も長らく会長の任にあって、自らを範として、一門を越えて後継を育成してきた。長く職にあることを嫌い、柳家小さんに会長職を信頼して委譲。しかし、簡単にいえば実力主義か年功序列主義かというせめぎあいのなか、小さんは、幹部会の一部反対(圓生、志ん朝)を押し切って、“真打”の大量昇進を決めてしまったのだ。落語界の将来を考え、徹底的な実力主義を提起する圓生にとっては我慢ならないことだった。俗にいう「真打乱造事件」(乱造といういい方をされるように、非は小さんたちにあるのはいうまでもない)という圓生一門が協会を脱退する事態を生起する。はじめは圓生の芸や主張に共感して、多くの噺家たち(志ん朝、円鏡、談志といった面々)が随伴する予定だった。しかし、小さんたちによる激しい切り崩しにあって、結局、圓生一門だけの脱退というかたちになってしまったのだ。なかでも、一番、可愛そうだったのは、志ん朝である。誰もが、その実力をもって圓生の真の後継者は志ん朝であるとされていたし、志ん朝本人も圓生を敬愛してやまなかった。圓生にしてみれば、自分の考えに志ん朝が賛同して随伴してくれたことが最大の決起した本意だったのだ(最近、読んだ本で知ったことだが、落語協会から離脱して新しい協会が立ち上がったら、その会長に、自分の後直ぐにでも志ん朝になってもらうことを決めていたようだ)。しかし、兄の馬生や寄席の席亭に説得されて、なくなく脱退するのを翻意する(苦渋に満ちた表情で会見した志ん朝の顔は、いまだに忘れることはできない)。数年後、志ん朝はライブで、枕として、相変わらず真打が大量に昇進してしまっていると、皮肉交じりに話している(最近、CDで確認した)。忸怩たる思い、いくばかりのものだったろうか。ついに会長職(結局、小さんの長期政権が続いていた)に就くことなく副会長のまま、ひたすら芸に精進してきた志ん朝の早すぎる死の遠因は、そのことが潜在し続けていたからだとわたしは思っている。
                       1979年9月3日、79歳の誕生日に小噺『桜鯛』を演じた直後、心筋梗塞で圓生は急死する。わたしは、唯一、圓生を亡くなる数ヶ月前、ホール落語(すべての寄席から締め出されていた)だったが、聴くことができた。しかもそれが、わたしにとって初めての落語ライブ体験であった。以降、わたしは、『圓生全集(カセットテープ版)』を購入、時々はかけて聴くというかたちの落語との通交が続くだけになった。

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