花部英雄 編『ジオパークと伝説』
(「図書新聞」18.11.17号)

 ジオパークのジオ(Geo)とは地球・大地を意味し、パーク(Park)は、文字通り公園のことである。本書の編者、花部英雄によれば「科学的に貴重で景観にもすぐれている地質資源を含む公園」を、二〇〇四年にユネスコが、「世界ジオパークネットワークによる審査を経て『世界ジオパーク』として認定し」たことで、ユネスコの文化遺産、自然遺産とともに多くの人たちに、ジオパークというものが知られるようになったことになる。本書では、貴重な景観というものは、「長い時間をかけて風化や浸食、運搬、堆積などの諸現象によってダイナミックにできあがった地形であ」り、「そこには、動植物の化石や植生、土壌、気象や水などの生態的要素が加わって構成されてい」て、そのような「自然環境のもとで生活してきた人々がかかわり作り出した歴史的、文化遺産で」あると捉えたうえで、「ジオパークを伝承的な立場からとらえ」(花部「序・ジオパークと伝説」)ていこうするものである。
 日本において、世界ジオパークとして認定されているのは九地域であり、日本ジオパークネットワークによって認定された日本ジオパークは全国に四十三地域ある。本書で取り上げているのは、一〇年一〇月に世界ジオパークに認定された山陰海岸ジオパーク(丹後半島から鳥取県まで)である。この地域から喚起される多様な伝承・伝説を各論者は丹念に辿りながら人々の暮らしの深層を掘り起こしてく。
 例えば、「京丹後市網野町掛津にある琴引浜」は、「『鳴き砂』でも有名な観光地である」が、「サザエにまつわる伝説がある」という。山陰海岸は、出雲から地続きであるから、大国主命にまつわる伝説があるのは理解できる。琴引浜の近くにある白滝神社は、「大国主命がまつられてい」て、その淵源は、大国主命が舟でこの地に移動してきた時に「舟底にあいた穴をサザエが塞いで沈没を防いでくれた」(花部「海岸地形とサザエ救難伝説」)という説話に由来するようだ。「サザエ救難伝説」とは、論者がいうように、「おおらかな話で」、海岸に住む人たちと海の生物が強い繋がりを持っていることの表れのような気がしてならない。
 大国主命といえば、誰もが、「因幡の白兎」の説話を思い起こすはずだ。鳥取市白(はく)兎(と)にある白兎海岸が伝説の場所として知られている。「白兎が大国主命と八上姫が結ばれると予言したことから、白兎海岸の近くに鎮座する白兎神社が縁結びの地とされ、今は有名な観光スポットになっている」(後藤若菜「海と山の白兎伝説」)という。鳥取県八頭町福本にも白兎神社があって、山間部に白兎伝説というのは、意外な感じを持つことになるが、後藤は次のように論述していく。
 「福本の付近には、長く連なる中山の尾根に、驚くほど巨大な岩石が存在した。また近年は減ったが、昔は兎は山に多くいて、地域の人々には身近な動物であった。(略)海の白兎地域の白兎伝説も、福本にある山の白兎伝説も、それぞれの地域性や時代性を反映して形成され、残るべくして残った『白うさぎ』のお話なのである。」(「同前」)
 他に温泉をめぐる冨樫晃「ジオパークと温泉」、春日井秀「水害と伝説」、異形伝説をめぐる山口くるみ、瀬戸口真規、清野知子らの諸論稿がある。そして、わたしが本書で最も関心が惹かれたのは、浦島伝説をめぐる二つの論稿である。浦島伝説は、全国各地に横断していて、どこが伝説の始まりの場所かを特定することは難しい。暴論を承知でいえば、白兎伝説がそうであるならば、山陰海岸が最も相応しいような気がしてならない。
 「浦島太郎は日本の二〇数ヶ所の地域で、土地のさまざまな事物と結びついた伝説として、信じられる形で伝承されている。山陰海岸ジオパーク域内の京都府京丹後市網野町の浦島もその一つである。」(山田栄克「浦島伝説の記録をよむ」)、「網野町と海と、そして大陸との関わりの深さは、今でも海辺を歩くと容易に納得できる。夏の穏やかな釣溜に至る海上の道は、夕方歩くと飛沫がかかる程度であるが、冬には荒々しい波が押し寄せてくる。秋から冬になると地域の人が『ウラニシ』と呼ぶ強い暖流に乗って。寄せ物が海岸に運ばれてくる。」(北村規子「浦島伝説と日本海」)
 こうして、浦島伝説にふれながら、学生時代の友人の故郷が網野町だったことで、二度、訪れたことを思い出す。もう何十年も前のことである。あの時の網野町の風景が、あらためて、くっきりと浮かんできたのはいうまでもない。

(三弥井書店刊・18.7.5)

小杉亮子 著『東大闘争の語り―社会運動の予示と戦略
(「図書新聞」18.7.14号)

 本書に接して、六〇年代後半、学生運動といわれていた対抗運動が、大学闘争あるいは学園闘争というように、運動から闘争という表象の変容に、わたしは、感慨をあらたにしたといっていい。あるいは、回顧的に述べてみるならば、全共闘という運動形態と運動体の有様(ノンセクト・ラディカルという概念規定も含めて)について、わたし自身、どこかで距離を置き、振り返ることを忌避し続けてきたことに対し、本書は鋭く突きつけてくれたといいかえてもいい。わたしは、六七年一〇月八日の第一次羽田闘争の時、東北の一地方都市の高校三年生であった。闘争スタイルの苛烈化と京大生が亡くなるという衝撃はあったが、それよりも大手メディア(テレビ、新聞、「赤旗」も敢えていれておく)が、そろって、「暴力学生」、「過激派学生」と大きな見出し(「赤旗」は、時代錯誤的なトロツキストというレッテルを貼ったのはいうまでもない)で佐藤首相ベトナム訪問阻止闘争を非難していたことに、直截に憤りを覚えたといっていい。ただし、わたしの知る限り、不定期ながら購読していた書評紙『日本読書新聞』と『朝日ジャーナル』(高橋和巳の『邪宗門』を読むために購読をはじめて、連載終了後も定期購読をしていた)だけは、羽田闘争を評価していた。六八年四月に上京するが、そこから一年間の“浪人生活”を経て、翌年四月に大学に入学。わたしにとって、十代後半から二十代前半までの数年間は、様々な場所において、何ものにも換えがたい関係性の形成と濃密な経験をしたと思っている。いうなれば、その時期の“貯金”を切り崩しながら、「現在」まで生きてきたといっていいかもしれない。
 本書は東大闘争を六七年から七〇年代前半まで、発生過程、展開過程、収束過程と分けながら、東大闘争に関わったノンセクト、新左翼党派、民青の活動家まで含め四四人に聞き取り、その「語り」をあたかもドキュメントのように構成して、闘争の原像を浮き上がらせている。三十代半ばの著者にとって、亡き父の世代の体験をある意味、フィールドワークのように析出していく本書は、できる限り私見を排しながらも、「予示」的なるものを提示していく。
 最首悟の「語り」を引きながら、著者が次のように述べていく箇所がある。
 「社会主義運動とも政治党派とも関わりを持たない学生運動形成への動きは、六〇年安保闘争後にブントの一部で起きた動き(引用者註=『SECT6』のグループ)とも軌を一にしていた。すなわち、前衛党の指導に基づく労働運動中心の革命運動という構図を否定する動きが出てきたのである。」
 共産党配下の民青はもちろん、新左翼諸派(特に革共同の二派や共産同赤軍派)は基本的に徹底した前衛主義であった。やがて、連赤の問題も内ゲバという暗渠も前衛主義の陥穽を表出していたとわたしなら見做す。そして、そこには外部の権力との対峙に邁進するあまり「内」に潜在する権力性を見通すことが出来なかったからだといっていいはずだ。M・フーコーを援用するならば、「権力」は「遍在」しているのであって、「至る所にある」と見做すべきなのである。
 「革命をめぐる対立は言い換えれば、(略)マクロな次元で国家権力を運動の敵手として措定するか、社会関係や社会的行為のなかに見出されるよりミクロな次元での社会内権力を問題とするか、というものである。」「社会変革の範囲を小さくとれば、身近な社会関係や日常的な社会規範の変革にたどりつく。とくに、自らが他者との関係性のなかで意図せずに行使している権力や関わっている抑圧をただそうとするとき、社会運動は自己変革や自己解放の側面を持つことになる。」
 このように述べていく著者が提示する「予示」的なるものを、あえて収斂させたいい方をするならば「ひととひととの関係や共同体のありかた」を問うていくものであると理解していいのではないかと、わたしは思う。国家の有様を変革するためには、まず国家権力の奪取ありきというのは、ロシア革命以降のロシア・マルクス主義の誤謬でしかない。マクロなものとミクロなものはコインの裏表だと思う。ミクロなものが集積してマクロなものがかたちづくられると、わたしなら捉えたいから、「予示的」なるものの提示は刺激的だ。ただし著者が本書で提示する「予示的政治」と「戦略的政治」に関して、留保したいことがある。それは、「政治」ではなく、「反政治」とすべきではないかということだ。あるいは、「行為」、「行動」といいかえてもいいかもしれない。かつて、わたしは、「行為の共同性」ということに拘泥していたから、そのようにいいたいわけではないが。
 わたしが、全共闘という諸相に距離を置き、振り返ることを忌避し続けてきたのは、無党派、ノンセクトと括ることの安易さと、結局、党派によって主導され、安保決戦なる空疎な設定で全国全共闘を結成したことへの疑義があったからだ。しかし、本書には、語り手それぞれの現在も述べられていて、そこでは、まぎれもなく、「ひととひととの関係や共同体のありかた」をいまだに問い続けていることが示されている。
著者に誘われて、わたしもまた、もう一度、全共闘の有様と行動(行為)に関して再考すべきだと喚起されたといっておきたい。

(新曜社刊・18.5.15)

内海愛子・加藤陽子 著
歴史を学び、今を考える 戦争そして戦後
(「図書新聞」18.6.9号)

 急転する東アジアの情況のなかで南北首脳会談をめぐり、金正恩に騙されるなといった皮相な言及から、北が核を手放すわけがないといった陳腐な分析、そして極めつけは拉致問題を議題にのせるべきだといった発言が安倍政権とそれにつらなる勢力から聞こえてくるたびに、過去の時間を糊塗しているとしか、わたしには思えない。そもそも朝鮮半島の南北分断は、わたしたちの国にも大いなる責任があったはずだ。百数年前、朝鮮半島を統治下において三十五年間、なにをしてきたのかということを完全に忘失しているのではないかと、わたしは愕然とせざるをえない。だからといって、わたしは金正恩独裁体制を是認しているわけではない。それ以上に安倍政権をまったく認めていないことだけはいっておきたい。
 米ロ中などが核を保持し続けているにもかかわらず、なぜ北だけ放棄しなければならないのかと思うし、拉致問題は、南北や米朝会談に委ねるのではなく、直接、日朝で会談すべき二国間問題なのだ。ただただ米政権に追従するだけの安倍のヒステリックな北への強行路線を追認する人たちは、一九三一年の満州事変から十五年間にわたりアジア太平洋戦争を遂行した帝国日本の軍隊がどのように編制されていたのかをまず知るべきである。
 「帝国の軍隊は植民地の人びとを編制要員とした軍隊だったのです。これは日本も同じです。日本は中国への出兵のあと、不足する兵員をどこから補充するのかを検討し、その供給地として植民地支配をしていた朝鮮と台湾に着目しました。まず、志願兵制度をもちこみ、その後に徴兵制を敷きます。その数は朝鮮人兵士だけで24万人とも36万人ともいわれています。(略)アジア太平洋戦争は、アジアを戦場に、植民地の人たちを巻き込んだ帝国主義国家間の戦争という性格をもった戦争でした。」(内海愛子「日本の戦後」)
 多くの戦死者や戦火のなかの犠牲者を出した十五年戦争という最悪の事態を七十年という時間が経たからといって風化させるわけにはいかない。戦時下体制から戦後体制への移行は、大きな転換などではなく、地続きであると捉えていくべきなのである。それは、現在の東アジアの情況が、七十年前における「戦後処理」の虚妄性をまさしく露呈させていると見做すことができるからだ。
 「ポツダム宣言」(一九四五年七月)を八月一四日に受諾を通告したことで敗戦となる。四六年五月に開廷された極東軍事裁判を経て、五一年九月のサンフランシスコ講和会議へ「戦後処理」の過程は続いていくわけだが、その間、「朝鮮半島が分断され二つの政権が成立し(略)、中華人民共和国が成立(略)するなど、アジアで冷戦が激化する中で、アメリカの対日講和政策が変わ」(「同前」)っていくことになる。
 「(サンフランシスコ)平和条約は、中国侵略と台湾・朝鮮支配という重要な問題を解決しなかったのです。(略)アメリカは、アメリカを中心とした安保体制の確立、日本を再軍備し、『集団安全保障』に寄与することを日本に期待したのです。そのために日本の経済的自立が求められました。」(「同前」)
 やがて、日米安保条約を締結して日本はアメリカの「核の傘」の下に入る。このことは、苛烈にいうならば、日本国の主権はアメリカの国家意思のなかにあり、植民地となにも変わらないことを示しているのだ。戦後民主主義とは、アメリカこそ究極の理想社会だとマインドコントロールしていくための武器であったといってもいい。
 本書は、一五年五月三〇日に「恵泉女学園大学平和研究所・戦後70年特別座談会」と題して同大で行われた、加藤陽子、内海愛子の講演と質疑応答を収めたものだ。その時から三年経過して七十三年になったわけだが、なにひとつ変わらない、いや、戦争が依然、「露出」しているといいたくなる情況が続いている。本書の書名、「歴史を学」ぶこと、「今を考える」こととは、加藤が述べるように「生きている者と死んでいる者をつなぐ」ことだと思う。つまり、過去と現在、さらに未来は絶えず連続した時間性にあるということを認識していくことでもあると、わたしならいいたい。
 さらに、「平和か戦争かという二分法からどう離れるかという問題は、紛争のさなかに丸腰で入っていくことの有効性や意味を考えさせる」と加藤は述べている。そのことをもう少しわたしなり敷衍していえば、平和のためと称し安保法制という戦争法案を推し進めた安倍政権のレトリックを打破するためには、「平和か戦争かという二分法」を解体すべきだと思う。
 だからこそ、本書での二人の論者の鋭利な言葉の数々を若い世代の人たちにこそ、読んで欲しいと願わずにはいられない。

(梨の木舎刊・17.6.30)

進藤榮一・木村朗 編著                      『中国・北朝鮮脅威論を超えて――東アジア不戦共同体の構築
(「図書新聞」18.5.26号)

 わたし(たち)は現在、まぎれもなく〈アジアの片隅〉で生きているのだ。アメリカやヨーロッパ的な生活形態にあるからといって、進んだ文明的な生き方をしていると勘違いしてはいけない。欧米の方だけに顔を向けていくのではなく、侵略・統治という帝国的簒奪を行ったという負の歴史があるとはいえ、近隣のアジアこそ長い時間性のなかで、文化的、人的交流をしてきたわけだから、関係性(共同性)を再構築すべきだといっていいはずだ。
実は、そのことを瞑すべきとして〈アジア〉、〈アジア性〉あるいは〈アジア的〉ということを、わたし自身、何十年にもわたって考え続けてきた。それは次のような論述に、かつて出会ったからだ。
「人類の歴史の理想形態というものを描けるとすれば、それはまさに村落共同体、つまり、古代の、あるいは〈アジア的〉な村落共同体が持っていた相互扶助形態が、高度な別の次元で成立したときに描きうるものです。それを理想の社会とおもわざるをえないところがあります。」(吉本隆明「〈アジア的〉ということ」一九七九年七月)
 アジア的な共同性というものは、負の面では専制政治(戦前期の大日本帝国のように)を支えてしまう構造があるが、本源的には、吉本が論述するような様態を潜在させているといえるのだ。二〇〇九年、民主党政権が成立すると、首相・鳩山由紀夫(現・友紀夫)が、対米追従路線から脱却して東アジア共同体構想を提起した時、わたしは、ある種の期待感を抱いたといっていい。だが、アメリカサイドとそれに連なる勢力によって鳩山・小沢政権は崩壊されられた。
 本書は十六人の論者による、中国、北朝鮮、韓国、そして沖縄という東アジア的世界から、トランプ新政権の米国第一主義に対抗していくための視線を提示するリアルな論集である。元首相・鳩山友紀夫も執筆していて、次のように述べている。
 「北朝鮮指導部の最大の関心は現在の国家体制を維持することにあります。(略)北朝鮮としては、アメリカとの交渉力を高めるために核開発を行い、ミサイル発射実験を繰り返しているのです。日本に戦争を仕掛けようという目的ではありません。その意味では北朝鮮は日本の直接的な脅威ではないのです。」「中国脅威論を声高に叫ぶのは、日米同盟を強化し、沖縄における米軍基地や自衛隊基地の必要性を正当化するための格好の道具だからなのです。」(「東アジア不戦共同体と沖縄」)
 このように論及する鳩山の考え方に、わたしはまったく同意するし、執拗に脅威論を煽るのは、アメリカサイドに追従・従属することで利を得る勢力だけであって、「“脅威論”の作成者としてのアメリカと、これに全面的に同調する日本は、その作為された犇式厦性瓩、逆に東アジアの安全保障の脅威となっていることを自覚すべきであ」(纐纈厚「南北朝鮮の和解と統一を阻むもの」)るということになるのだ。
 わが列島国家の為政者たちは、覇権国家アメリカを最も信頼できる同盟国だと確信しているかも知れないが、ほんとうは、アメリカにとって、「日本は帝国に貢ぎ物をする国である」(進藤榮一「序章 中国・北朝鮮犇式勠疣世鮓‐擇垢襦廖砲噺做していることを理解すべきなのだ。
 また、尖閣諸島の問題についていえば、無主地であったものを、日清戦争後の「明治政府が閣議決定で沖縄に編入したにすぎない」のだ。「国際法には『固有の領土』という言葉はない」(岡田充「『敵』はこうして作られる」)」というのが、大前提である。さらに、朱建榮は、「中国外交の多元的な現実を見ることもできず、日中和解の道を切り開くこともできない。眼を向けるべきはむしろ、中国外交のしたたかな多元主義外交の展開」であるとしながら、「中国指導者の脳裏において、恐らく外交(略)は、内政問題(略)に比べ、配慮する順位が低いものであるという特徴を指摘できる」(「ベトナム戦争の二一世紀への教訓」)と述べていることに注目すべきだと思う。
 明快にいえることがある。いつまでもアメリカのエゴイズム(成澤宗男)に翻弄されてはならないということだ。覚醒し、冷静な視線を持つべきなのだ。沖縄が置かれている情況を考えれば、次のような木村朗の論述に接して、なおいっそう強く思わざるをえない。
 「(略)沖縄問題とは何かを問うならば、その本質は沖縄独自の問題でも米国問題でもなく、日本問題に他ならない。また沖縄の基地問題は、安全保障の問題である以上に、人権・民主主義・地方自治・地方主権の問題であり、潜在的な民族問題でもある。そうした本質を理解しようとせず、日米安保体制を容認する立場からまさにひとごとのように『辺野古移設は仕方がない』とする本土の人々のゆがんだ『常識』こそが、あらためて問われている。」(「アジア版NATOではなく東アジア不戦共同体を目指せ」)
 今年になって急転、予測できないかたちで、米朝首脳会談、南北首脳会談が実現することになった。もちろん、まだ予断は許さないのだが。平昌オリンピックが契機になったとはいえ、皮相な北朝鮮脅威論に幾らかの楔を打ち込んだ金正恩のしたたかさを認めないわけにはいかない。だが依然、この国の為政者たちはアメリカからも東アジアからも相手にされていないのは間違いない。
 わたし(たち)はこれからも、〈アジアの片隅〉で冷静に〈情況〉と相渉っていくべきである。
[注記・〈アジアの片隅〉は、吉田拓郎の曲名から喚起されたものだ]

(耕文社刊・17.10.30)

柳美里・佐藤弘夫 共著 写真・宍戸清孝『春の消息』
(「図書新聞」18.3.31号)

 わたしが、柳美里という表現者を知ったのは、94年、雑誌「新潮」に掲載された小説家としては最初の作品「石に泳ぐ魚」(単行本化されたのは、八年後)をリアルタイムで読んだ時だった。以後、『フルハウス』、『家族シネマ』、そして『命』に連なる作品群というようにかなり濃密に随伴していったといっていい。しかし、小説を読むことがきつくなり、他の作家たちも含め柳美里作品とも離れていくことになる。とはいえ、断続的にではあるが、幾冊かの新刊書には接してきた。だから東日本大震災以後、福島を中心に東北地方へと軸足を移し、現在の生活の場所でもある南相馬市にブックカフェ「フルハウス」をオープンすることは知っている。
 率直にいえば、本書は、柳美里の〈声(言葉)〉、〈有様〉が直截に伝わり、わたしのなかの空白の時間を一気に埋めてくれて、柳美里の〈現在〉を深く感受できたといっていい。たぶん、宗教学者・佐藤弘夫と写真家・宍戸清孝との出会いによって、喚起されたものが本書全体に滲み出ているからだとも思う。
 本書成立の発端は、柳美里が、佐藤の著書『死者の花嫁――葬送と追想の列島史』を読んで、「東北の霊場巡りをしてみたい、と強く思った」ことにある。五所川原市の川倉地蔵堂、天童市の若松寺、東根市の黒鳥観音、会津若松市の八葉寺、山形市の山寺、宮城県の松島、鶴岡市の三森山、山形県庄内町の光星寺、福島県大熊町の海渡神社、宮城県丸森町の小斎城、遠野市のデンデラ野・小友西来院、湯沢市(わたしが生まれた場所でもある)の最禅寺、南相馬市の大悲山石仏・浦尻貝塚・原町別院が、それぞれ死者と生者が往還しあう場所である。
 わたしは、残念ながら、佐藤の著書『死者の花嫁――葬送と追想の列島史』は未読であるが、佐藤に誘われて柳美里が訪れる川倉地蔵堂にある人形堂は、「若くして無くなった人を弔うために奉納された花嫁人形や花婿人形」が納められていて、川倉地蔵尊は、「死者の婚礼の地でもある」と佐藤は述べている。また若松寺には、「婚礼姿を描いた絵馬を奉納して未婚の死者を供養」する風習もあるという。
 「生死の境界を超えた交流の場とそれを支える死生観が、今しだいにこの社会から姿を消しているように思えてなりません。生者の世界と死者の世界は分断され遮蔽されて、死者は闇の国の住民になりました。(略)死者にとって居心地のよい社会は、きっと生者にも優しい社会に違いありません。東北の霊場で今でもつづく生者と死者の交歓の儀式は、そのことをわたしたちに気付かせてくれるのです。」(佐藤弘夫「春来る鬼」)
 わたしは昨年、親しい友人を二人亡くしている。しかし、彼らに別れの言葉を言わないことにした。なぜなら、彼らとの豊饒なる通交の日々の記憶はいまだ鮮明に、わたしのなかに潜在し続けているからだ。「生死の境界を超えた交流の場」とは、記憶の場所のことだと思う。忘れないということは、たんに過去に拘泥することではない。過去があるから現在があるということを確信していくことなのだといいたい気がする。つまり、過去と現在、そして未知の未来は地続きものだということでもある。だからこそ、生から死、死から生は絶えず往還していくと、わたしなら想起していきたいと思っている。
 本書は霊場探訪記を中心にして、巻末には、柳と佐藤の対談「大災害に見舞われた東北で死者と共に生きる」を配し、柳美里による七本の書き下ろしエッセイを収めている。
 「雲一つない青空……/死に瀕した青空……/わたしは圧倒的な痛みの中で、圧倒的な青を眺めていた。/(略)/わたしは、目を閉じた。/青空が卵の殻みたいに砕けて、宙の闇に投げ出される自分の姿が見えた。/点々と塵のように漂っているたくさんの人の骸が見えた。/あれが、死というものに自ら近づいた初めての経験だった。」(「蜂占い」)、「無人の故郷、山、川、家、墓に、死者の魂は在るのだろうか?/『帰還困難区域』に、死者の魂が帰ることのできる場所は在るのだろうか?/『中間貯蔵施設』予定地に、死者の終の住処は在るのだろうか?」(「梨の花」)、「わたしの上の弟は春樹、下の弟は春逢――。/祖父は、春に植えた樹が大きくなったら、その樹の下でまた逢おう、と非業の死を遂げた弟との来世での再会を信じていたのではないか。/故郷から海を隔てた異国の地で、美しい里、愛する里を想い、わたしたち姉妹を美里と愛里と名付けた。/(略)/祖父が遺したのは、死者の名前という物語である。」(「春、大きな樹の下で……」)
 柳美里の〈声(言葉)〉は、わたしとって、やはり鮮烈に響いてくる。本書に接しながら、変わらない柳美里の世界があることに気づき、いつのまにか慰藉されていた。

(第三文明社刊・17.12.1)

南川隆雄 著『いまよみがえる戦後詩の先駆者たち』
(「図書新聞」18.2.24号)

 戦後生まれのわたしが、詩に強い関心を抱くようになったのは十代後半の時(六八〜六九年)だった。敗戦時から二十数年という時だったから、戦前期(近代詩というべきかもしれない)以外の詩人たちは、自ずと戦後詩人であり、戦後詩ということになる。現代詩という感覚で、同世代や幾らか先行する世代の詩人の詩作品を読むようになったのは、戦後詩の狎礼瓩鮗けた後、数年経ってからだった。そもそも、吉本隆明に誘われるようにして、「荒地」派の詩人、特に、鮎川信夫や田村隆一を知ったのが、わたしにとって戦後詩へ傾注していく大きな契機であった。そして、詩誌「荒地」は、埴谷雄高や平野兼たちの「近代文学」と拮抗する表現誌として、わたし自身のなかでは認識していくようになる。鮎川死後刊行された全集の第一巻の『全詩集』(八九年三月)は、全十章で、一九四六年から八二年までを発表順に七章まで収め、八章は「1937〜1943(戦中詩篇)」(年号表記はママ。以下同)、九章は「1937〜1981(拾遺詩篇)」、十章は「翻訳詩」という構成になっている。一章(1949〜1951)は、「耐えがたい二重」から始まる。詩誌「新詩派」(一九四六年七月)が初出である。
 やや迂遠したが、ここから、本書に分け入っていくことにする。戦後詩史という視線を持って、それぞれ個別の詩人たちの表現を辿ることも重要なことに違いないが、戦時下を通過しての戦後であることを考えれば、本書のように表現の場がどのようにかたちづくられ、どのような詩人たちが集い、切実に表現行為を再開していったのかということに照射していくことは、わたしなら当然のことのように思う。著者は次の様に述べていく。
 「戦後詩はそれが書かれた時代の作者の実生活と不可分に密着している。(略)実生活とは、占領下に与えられた民主主義と勃興する社会主義運動という環境下での衣食住の極端に欠乏した日々の暮らしである。そんななかで若い世代の詩人たちは詩に向きあった。さらに年長の先行の詩人たちは、戦前・戦時の仕事への批判と反省という重荷を背負った。戦後詩はこうした個人生活・社会生活のなかで産み出された。」
 このように、戦後詩が紡ぎ出されていく場所、つまり、戦後における詩誌の始まりと渦動を、著者は本書で丹念に辿り記述していく。そして、「戦後詩誌の嚆矢として」とりあげていくのは、北九州で発行された「鵬」(後、「FOU」)という詩誌だ。わたしにとって、まったく未知の詩誌であった。創刊号は、四五年十一月。しかし、「占領下に与えられた民主主義と勃興する社会主義運動という環境下」、やがて、編集代表者の岡田芳彦のなかで「イデオロギー重視の傾向」が、「ますます深刻」化していき、四八年九月、十七号で「唐突な終刊」を迎える。
 「鵬」の創刊後の翌年、多くの詩誌が各地で発行されたという。なかでも、同時期(四六年三月)に創刊された「新詩派」(編集代表、平林敏彦。平林は、後に伊達得夫が創刊した「ユリイカ」の編集に携わる)と「純粋詩」(編集発行、福田律郎)を著者は詳述しながら、「荒地」へと視線を射し入れていく。「新詩派」(同年六月号)には、「四二年に『寄港地』を発表して以来の長い沈黙を経て復員後の『田村隆一が戦後はじめて詩誌に発表した』」と推測できる「石」、「翳」の二作品が掲載された。そして田村との繋がりで翌七月号に、鮎川にとって戦後、初めて詩誌に発表した作品「耐えがたい二重」が掲載されることになる。「新詩派」は、四七年十一月、通巻第八集をもって終刊する。
 「純粋詩」の通巻第七号で、田村隆一の「審判」が掲載された後、四六年十二月発行の第一〇号に田村をはじめ、鮎川、木原孝一、三好豊一郎、中桐雅夫ら(後に北村太郎も参加)、「荒地」(第二次の創刊は、四七年九月)の面々が結集している。鮎川の詩作品に添って述べてみるならは、十一号に「死んだ男」、十七号に「アメリカ」と「『アメリカ覚書』」が掲載されている。この二作品は、「繋船ホテルの朝の歌」(「詩学」)や「橋上の人」(戦時下に出された三好豊一郎らの詩誌「故園」が初出だが、改稿して四八年「ルネサンス」に発表)とともに鮎川の初期における代表作群と見做された詩篇だ。
 「福田主導の『純粋詩』は二年目あたりから『荒地』グループの詩人を取り込んだ。戦後のこれらの詩人の出発に比較的安定した足場を提供した『純粋詩』の功績は大きかった。しかし『荒地』グループの撤退後、福田は左傾し、(略)『造形文学』と改題し、これには関根弘、長光太らが加わったが、一年余のちに(略)終刊となった(略)。その後福田を含む『造形文学』の同人の一部は五二年三月創刊の『列島』へと移っていく。」
 戦後詩が時代情況によって強いてくるものに対し抗えるか否かという分岐する様態を、「鵬/FOU」の岡田、「純粋詩」の福田に象徴的に表れているといっていいと思う。イデオロギー(あるいは皮相な思想)という自己表現(表出)と相反する方位へと向かう詩人たちがいたとすれば、それは、「先行の詩人たち」が背負った「戦前・戦時の仕事への批判と反省という重荷」を無化していくことになると、わたしは断言したくなる。
 「荒地」と「列島」の間にある異和を象徴する戦後詩という迷宮を、しばしば暗澹たる思いで感受してきたわたしにとって、本書に接し、多くの詩人たちの躍動する像を戦後詩の時空間として見通すことが出来たことは大きい。

(七月堂刊・18.1.20)

高田 健 著『2015年安保、総がかり行動           ――大勢の市民、学生もママたちも学者も街に出た
(「図書新聞」18.2.10号)

 安倍晋三の傲慢で強気な政権運営が続いている。わたしは、敢えて、ファシズム政権とか極右政権とはいわないことにしている。なぜなら、彼の場合、理念なき空虚な政治屋といっていいからだ。猴浩民営化瓩鉢爛▲戰離潺ス瓩鯊佝罎垢襪世韻任茲わかるように、いまでは、反原発を叫んでリベラル的なスタンスを取っている小泉純一郎と共通の因子を持っていると見做していいと思う。小泉(都知事の小池もそうだ)も、薄っぺらなスローガンを言うだけの理念なき空虚な政治屋にすぎない。
 民主党の自己崩壊によって、第二次安倍政権が成立したのが12年11月、一年後の13年12月には、「秘密保護法」を強行採決によって成立させ、15年9月には、集団的自衛権を形骸化させる戦争法案(安保法制)を強行採決、そして今年になって、共謀罪法案も強引に成立させ、この間、安倍シンパだった籠池に対する想像を絶する国有地払い下げの値引きを行った森友問題、猜⊃喚瓩陵Г経営する加計学園に獣医学部新設を優先的に容認するという加計問題など、“政治”とは、些かも関係のない行為が露わになってきている。それでも、先の衆院議員選挙で依然、案定多数の議席を獲得して、安倍は、さらなる長期政権を目論んでいるのだから、狎治瓩覆鵑討匹海砲發覆ぞ態だといっていい。
 ところで、大きな拡がりをもって反対行動を生起させた、戦争法案(安保法制)の成立から、既に二年以上、経過したことになる。著者は、その時の行動(闘争)を、敢えて、「2015年安保」、つまり、60年や70年の安保闘争を敷衍するかのように、「2015年安保闘争」と捉えていく。
 「『2015年安保』は安倍政権のいう『平和安全法制整備法』(略)に反対する運動で、たしかに日米安保体制、そのもとでの新ガイドラインの新しい段階での具体化に反対する運動ではあるが、直接に日米安保条約に反対する課題をかかげたものではない。/この『2015年安保』は日本の戦後の民衆運動史のなかで、『60年安保』『70年安保』につづく大規模な大衆運動であり、(略)一連の大規模な、全国的市民行動を総称したものと考えられる。/それだけにこの運動は多くの経験と教訓に満ちており、これを振り返っておくことは今後の市民運動の展開を検討する上で、きわめて重要だ。」
 著者がこのように述べながら、「総がかり行動」の軌跡を詳述していく。2014年12月、「約半年の準備期間を経て、『戦争をさせない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会(略)』が『戦争をさせない1000人委員会』『解釈で憲法9条を壊すな!実行委員会』『戦争する国づくりストップ!憲法を守りいかす共同センター』の3団体によって発足した」のだという。そして、これまでの「組織」よって「動員」する運動とは別に、「総がかり行動」という幅広い呼びかけによって、「インターネットや新聞行動を媒介にし」て、「個人の参加を容易にした」ことで、「従来、反戦平和運動に参加していなかった人びとや、かつては参加していたがその後、参加していない個々人に参加の機会を大量に提供した」と述べていく。
 確かに、組織型運動では、拡がりに限界はある。個々人の参加が数多く参加して、いわば、自然発生的に運動が高揚していくことは、民衆運動(著者に倣うわけではないが、敢えて、わたしは大衆運動とはいわない)の理想的なかたちを表わしているといっていい。
 ひとつだけ、どうしても述べておきたいことがある。安保法制(戦争法)反対運動を著者が敢えて安保闘争と称していることだ。改憲反対という考え方が悪いわけではない。「日米安保体制、そのもとでの新ガイドラインの新しい段階での具体化に反対する運動」であること、それ自体、むしろ、“日米安保条約”に密接に関わることだと思うからだ。つまり、“日米安保条約”やそれに付随する“日米地位協定”は、憲法違反というよりも憲法を超えた法体制であることを忘れてはいけないと思う。もっと、極端にいうならば、日米安保条約体制そのものは、九条を逸脱しているといいかえてもいい。可能ならば、もう一度、本来の反安保闘争を惹起すべく、民衆運動の可能性を探りたいと考えるのは、わたしだけではないはずだ。
 著者は、「あとがき」で、「私たちはあきらめていない」と述べている。あきらめることは、“希望”をあきらめることになる。直近で、“希望”という言葉が、政治屋のせいで手垢に塗れてしまったが、「希望を探り当て」ることこそ、これから先へ進む契機となることだと、著者は、本書で、わたしたちに伝えようとしているのだといいたいと思う。

(梨の木舎刊・17.3.19)

川村晃生 著『見え始めた終末――「文明妄信」のゆくえ
(「図書新聞」17.11.4号)

 わたしは、パソコンを活用しているが、スマホ・携帯電話の類は持っていない。メールのやり取りは、パソコンで充分だし、通話に関しては家の固定電話で足りている。携帯電話が急激に普及しだしたころ、外を歩いていると、独り言をいいながら歩いていく人たちに遭遇して、度々、驚いたものだった。それが、携帯を手に持って話しているのだと認識するまでかなりの時間を要したことを思い出すが、最近、それ以上の異様な光景を見て、愕然としたことがある。スマホ・携帯(もちろんパソコンも)は便利なツールであることは、認めるし、わたしは科学技術の進歩をすべて否定するものではない。あくまでも、使う側の主体的な意志によって、利便性を生かすべきだと思っているからだ。だが、最近出会った異様な光景とは、大型店の前でスーツ姿の男女(勤め帰りか、出先から勤め先に戻る途中なのかは分からない時間帯だった)が、大勢、横並びになって、全員が一様にスマホを見ていたのだ。最初は、大勢の人がいたので、大型店の入り口前で、なにかイベントのようなものをやっているのかと思ったが、そうではなかった。「ポケモンGO」をやっていたことを知ったのは、それから何日か経ってからだった。
 「言葉が空洞化し、完全に無力化してしまったら、それは人間の社会ではない、(略)いまこの社会は、そこまで来ているのだが、当然のことながらその認識は薄い。(略)近時、それを裏付けるような現象が起こった。二〇一六年七月に起こったポケモン現象である。(略)『ポケモンGO』は、配信と同時に、昼夜を問わず、また子供のみならずいい年をした大人までが、スマホを片手に全国各地で探索が始まった。(略)公園といい神社といい、いそうな所を求めて人々の徘徊が目につく。(略)そしてついに、車の運転中、ポケモンに熱中するあまり、人を轢き殺すという事故まで起きてしまった。(略)こうした状況に鑑みれば、IT化の罪は重い。そして人類の歩みもそろそろ終末に近づいているように感じるのだが、困ったことにそれもだんだんと確信になりつつあるのである。」
 もしかしたら、わたし自身、あの異様な光景に出会わなければ、著者のこの記述に感応しえたかどうか分からない。それにしても、一年以上も異様な現象が続いているのだとしたら、それは、戦前期の大政翼賛体制下の異様な情況に通底していくのではないかといいたくなる。
 著者は、「文明妄信」によって、環境破壊(壊れゆく景観)を生起させている現在を、文学(古典から芭蕉、漱石など)を通し、自然をめぐる時間意識へアプローチしながら、切開していく。
 「(略)私たちはいま、いのちへのまなざしを閉ざしながら加速度的にいのちへの感性を鈍らせていると言えよう。それはいのちの虚失化ということであり、また別の言い方をすればいのちの不可視化とも生命感覚の鈍化とも言っていいだろう。」
 著者は、そのことを、〈生命リアリズムの喪失〉という言葉で括りたいとする。確かに、ほんらい人間という存在と自然というものは、切り離すことのできないものなのだ。もちろん、この場合、自然とは草花や木々だけではなく、人間以外のすべての生物(命あるもの)が含まれる。だから、自然とは生命活動によって形成されているものであり、それは、まさしく〈生命のリアリズム〉を表象しているのだといってもいい。
 本書の終章で、著者が、農本的ユートピア、あるいは農本的アナキズムを江戸期に提起した安藤昌益の「自然世」や「直耕」という概念に触れて論述していくことは当然のことだと、わたしには思った。
 「天地自然と人間は一体なのだという思想が、その基本に据えられているのである。また平野、山里、海浜とそれぞれの住む地域が異なれば、当然産出されるものも穀類、薪材、魚と異なるのであるから、お互いにそれらを交換し合って、過不足のないような生活を営むことができる。」「(略)誰もが耕して子を養育し、養育された子は長ずるに及んで耕して親を養い、子を育てる、この連続こそが人間の歴史だというのである。近代は余りにも、この繰り返しの歴史を軽視しているのではあるまいか。そこでは昌益の忌避し非難する欲望や搾取があまりにも突出し、いまを生きる人々の権欲があまりにも拡大されているように思われる。」
 ここまで、過剰な利便性のなかで生きているわたしたちが、後戻りして質素な生活をすべきだといいたいわけではない。すくなくとも、〈生命のリアリズム〉ということの内実、「天地自然と人間は一体なのだ」という認識を日々の暮らしの時間のなかへ汲み入れていくべきだと本書を読み終えて、わたしが切実に思ったことである。

(三弥井書店刊・17.4.20)
 

加藤孝男、太田昌孝 共著『詩人 西脇順三―その生涯と作品
(「図書新聞」17.9.2号)

 わたしは、四十六、七年ほど前、たまたま偶然、小千谷を訪れ、西脇の生家を見ている。その頃、もちろん西脇順三郎(一八九四〜一九八二年)という名前は認知していたが、作品にはまだ接していなかった。現代詩はかなり読んでいたが、なんとなく敬遠していたというのが、正直な思いであった。後年、自分から進んでというのではなく、必要があって『ambarvalia』(一九三三年刊)を読む機会があり、その詩世界にたいし率直に共感を抱いたといっていい。その後『旅人かへらず』(一九四七年刊)を読み、戦時下を挟んでの空白期を経て、戦後、刊行された詩集の世界に親近感を持つとともに、かつて訪れたことがあった小千谷という場所を想起しながら様々なことを感受していったことになる。
 本書は、「新潟日報」紙に二〇一四年六月から一五年一〇月まで連載されたものを纏めたものだという。なによりも、ひとつの機縁を思わないではいられない。連載を始める前、二人の共著者はともに、「小千谷とロンドンという西脇の精神形成において重要な場所へ赴任することになった」(加藤孝男)のだという。本書は全4章の構成で第4章は、「西脇順三郎の詩の魅力をあじわう」と題して詩作品をめぐって論及している。第1章から第3章までを「西脇順三郎の魂にふれる旅」として、故郷・小千谷、留学先の英国、そして、帰国後、東京と最後の場所でもあった小千谷との往還にふれながら、その生涯を描出していくわけだが、著者たちは、西脇と同じ場所にいたという感慨が、「魂にふれる」といういい方に象徴化させていると理解できる。
 西脇に『超現実主義詩論』(一九二九年刊)や『シュルレアリスム文学論』(三〇年刊)の著書があることで、わたしが距離感を持ったことの所以だったように思う。ヨーロッパや日本のシュルレアリスムが、思想運動的な色彩を潜在させていくわけだが、西脇の詩表現からは、どうしてもそのことが繋がらないように感じたからだ。
「詩を作るということは、時代感覚に鋭敏になるということである。『シュルレアリスムは一つの憂鬱である』とも西脇は述べた。そもそもこの運動は、フロイトの精神分析に影響を受けて、人間の無意識や夢といったものを描くことで、社会にからめとられてしまった意識を解放するところに意義を見いだしている。/その作詩法は、時に、無作為に言葉を連ねていくというような方法によった。しかし、西脇はこうした無意識によりかかった作詩法を批判し、独自な『超現実』の考え方を導いている。西脇が繰り返し述べるのは、人間がもっている習慣化した意識を打ち破り、新たなヴィジョンを描くことであった。そのために、遠く離れたイメージを連結して、詩を作れと言った。」(加藤孝男)
 この加藤の論述によって、わたしは、自分自身の異和感を払拭するとともに、「遠く離れたイメージを連結し」た『ambarvalia』(ロンドンで知りあい結婚したマージョリ・ビッドルと離婚した翌年の刊行ということになる)という詩集を直ぐに想起することになる。
 西脇の生涯に視線を向ける時、「二度の大きなターニングポイント」があり、ロンドン時代と、小千谷へ疎開することになった「四四年から四五年にかけての九カ月」だったとして、太田昌孝は、次のように述べていく。
 「私自身、四〇回ほど当地を訪れたが、小千谷を深く知れば知るほど、その民俗、伝統、自然が蔵する豊かな魅力に心打たれた。そして、この小千谷で一八年に及ぶ、青少年時代を過ごした西脇の精神的基層には、ほぼ無自覚的にこの雪深い町が持つ諸要素が滋養のように堆積していったのではないかと考えるようになった。(略)折口によって掘り起こされた日本民俗への関心が、実は自身のなかでたしかに堆積していたことを、西脇は小千谷での疎開生活においてまさに『再発見』した。『西洋と東洋の融合』という独自の詩的アラベスクを完成させることになるのである。」
 もちろん、ここで太田が指摘しているのは、『旅人かへらず』を想起してのことである。折口を始め、柳田國男との交流があったことを、わたし自身は、それほど重要視してこなかったが、大田の論及には承服せざるをえない。わたしは、一度しか小千谷に訪れたことはないが、それでも、自分が生まれた雪国・秋田と共通する情感を喚起されたことはいうまでもない。
 戦時下に詩は書かず、当然、戦争賛美詩とは無縁なかたちで、戦後、『旅人かへらず』を著したことの意味は大きい。
「戦争であらゆるものが失われてしまった日本人にとって、想像力さえあれば、一篇の詩からでも夢を見ることができたのである。」(加藤孝男)
 こうして、本書は、わたしに、西脇詩の世界を「再発見」させてくれたといっていい。

(クロスカルチャー出版刊・17.5.31)

ケヴィン・バレット 編著、板垣雄三 監訳・解説
『シャルリ・エブド事件を読み解く
世界の自由思想家たちがフランス版9.11を問う

(「図書新聞」17.8.5号)

 シャルリ・エブド事件が、15年1月7日、パリで起きてから、二年半が経過したことになる。本書は、事件の深層を切開しながら、それが、01年9月11日のアメリカ同時多発テロから近年の「イスラム国(IS)」よるテロまでの連鎖を、イスラム過激派によるものとすることに疑義を呈していく苛烈な論考集である。
 わたし自身、シャルリ・エブド事件に関していえば、「攻撃から何時間もたたないのに、フランスの中で10万人以上の人々が集まり、その多くが『わたしはシャルリ』のプラカードを持」ち、四日後には、「約300万人がフランスで行進に加わり、うち200万人がパリで行進し」(ケヴィン・バレット)て、報道と表現の自由を叫ぶということに、ある種の異様さを感じてしまったといえる。風刺や諧謔によって特定の宗教を貶めることが、表現の自由といえるのだろうかということが、直ぐに抱いた疑念だったからだ。わたしは、無宗教者だが、どのような宗教であっても宗教を信じる人を批判したり否定したりは絶対にしない。信と不信の狭間はいつだって鏡のようなものだとわたしは考えているつもりだ。なぜ、イスラム教だけが絶えず欧米国家群から排撃されるのだろうか。
 「イスラム教の預言者に対する数々の攻撃は、この宗教と文化に対する絶滅を意図した、文化的ジェノサイドの一部ではないのか。多くのムスリムはそう考えている。」「イスラムに対する戦争が、元来、シオニストによるパレスチナのイスラム教聖地への侵略と占領の産物だったということは、ずっと議論されてきた。(略)シオニストによるイスラムの中心地の破壊が、一方に攻撃的拡張主義のユダヤ人ナショナリズムと、これに対応して生じてきた、基本的に防衛的な(ときに戦闘的な)イスラム・ナショナリズムと、の間の衝突を、必然的に引き起こすことになる。」 「イスラム教には、他の宗教を尊敬し、保護してきた長い立派な歴史がある。既存のどんな宗教であれ、宗教的人物であれ、それを冒涜することは、ムスリムにとって呪われるべきタブーである。」(ケヴィン・バレット)
 パレスチナにおけるシオニストを全面的に支援する欧米国家群にとっては、必然的にムスリムは敵となるわけだ。その論旨からいえば、バレットや本書の他の論者たちは、9.11も、シャルリ・エブド事件も、容疑者が直ぐに特定されたり、痕跡を残していることに疑義を呈しながら、事件の「でっち上げ」を主張していくことになる。
 執筆者の一人、元ホワイトハウス政策分析官のバーバラ・ホネガーは、「米国およびイスラエルのシオニストが、9.11事件を周到に計画して組織的に実行し、ムスリムの犯行としてでっち上げ、拡大中東地域のムスリムの領土を侵略・占領することを正当化して、イスラエル外交・安全保障の目的を達成しようとした」と述べながら、シャルリ・エブド事件に関しても、「『テロとの戦い』につきまとってきたパターンが繰り返されるのを見ることになる。9.11からロンドン地下鉄爆破事件、マドリード駅爆破事件、さらにはボストンマラソン爆弾事件まで、テロ事件に直接・間接に係わった者たちは、欧米の一つあるいは複数の犲0足畩霾鶺ヾ悗筏燭錣靴ご愀犬鬚發辰討い燭箸いΔ海箸澄廚斑任犬討い。スノーデンによって暴露されたアメリカのNASAによる個人情報監視システムがあれば、テロは未然に防げるはずだと思うが、それが目的ではないということは、ホネガーの論及が補強していくことになるといっていい。
 また、別の角度からの捉え方もある。周知のようにシャルリ・エブド事件は、「週刊紙オフィスを攻撃し、11人を殺し、10人に傷害、内5人は危篤の重傷を負わせ」、「別のもう一つの攻撃は、アメディ・クリバリという男が、ユダヤ教食品店で複数のユダヤ人常連客を殺した」、二つの「攻撃」で形成されている。「問題は『誰が得をするか?』である。/明らかにムスリムではない」と、レーガン政権の財務次官補だったポール・グレイグ・ロバーツは述べながら、「テロ攻撃と称されるものは、(引用者註・パレスチナ人を支持しだした)フランス政府をワシントンやイスラエルの路線に戻すのに役立った」と論じている。
 本書の原著は、事件後、直ぐの15年4月にアメリカで緊急出版されたものだ。執筆者たちは、「社会的・宗教的・民族的帰属も思想信条もいちじるしく多様で、個性的」(板垣雄三)であるにも関わらず、情況の深層をそれぞれの視線で的確に、しかも鋭く切り込んでいるといっていい。
 それに比べて、わが列島の首相が友人や応援団に利益供与をしていることに、憤りを感じる日々だが、表層の部分だけでも、その陥穽は明らかであるにもかかわらず、メディアや対抗勢力に鋭利性がないことを見透かしているかのような振る舞いを政府中枢はしている。それは、わたしたちの現在というものが、本当に逃げ場のない深刻なものだというわけではないことの証左なのかもしれないが、むしろ、そのような弛緩した情況に対して、わたしは、暗澹たる思いになる。

(第三書館刊・17.5.10)


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