上野芳久 著『風景の触手―詩の流域―』
(「図書新聞」20.8.29号)

 詩人である著者にとって、評論集は、『田中恭吉――生命の詩画』(七月堂)以来、九年ぶりになる。しかし、本書は最新の批評文を収録しているわけではない。一九七九年から八九年までに発表された論稿が二十六編で、九四年と二〇一一年に発表した二編をあわせた構成となっている。八八年に『北村透谷『蓬萊曲』考』(白地社)を上梓しているから、機↓蕎呂僚論稿は、透谷をめぐる所感を込めたものを多く収録している。珪呂禄馼勝↓絃呂蓮◆峅D兇里△蠅」といった文章が五編、収めている。
 「夕暮れの道で帰路を見失い、地図をもたないわたしの歩行も、危うく一夜をさまよう所であった。それもそのはず、山頂は夕映えでも、すそ野の里はもう闇であった。」(「風景の触手」)
 わたしにとって、「触手」という言葉は不思議な感覚を呼び起こすといっていい。それは、吉本隆明の言葉の断片集とでもいうべき『言葉からの触手』に接したときが初めてだった。「風景の」となれば、いくらか違う響きが伝わってくる。「夕暮れの道で帰路を見失」うことは、わたしにも何度かあることだが、きまってやや気持ちの動揺を抑えなければと思うことになる。著者は、そうではない。「危うく一夜をさまよう所であった」と述べながらも、どこか彷徨にむけて心性を自然に委ねているといっていいかもしれない。
 北村透谷は、桶谷秀昭に導かれるようにして知り、二十歳前後の頃によく読んでいたが、透谷の碑というものに、あまり意識を向けたことがなかった。小田原には何度も訪れ、小田原城にも行ったことはあるが、城内公園に現在三基ある碑のうちのひとつがあることを知らなかった。そして透谷の生地であるにもかかわらず、小田原に碑を建てることに難渋したらしいということは、時代的な情況が色濃く投影していると著者は述べていく。
 「透谷碑建立が難行した様子が福田美鈴「福田正夫年譜」(略)からうかがい知ることができ、貴重な記述に目がとまる。(略)具体的に当局からどのような弾圧があったのかわからないが、暗雲の垂れこめる時代的背景があり、思想統制や言論統制を一般の人々も記憶にとどめている頃であったから、当局から文学者や思想家に注意がそそがれていたことは想像に難くない。(略)透谷碑の除幕式は寂しかったようである。十人に満たない人びとの参列だったという。透谷の宿命を想いながらも、記念碑の陰りをぬぐいたい思いがする。」(「透谷碑について」)
 透谷碑を端緒にして、著者の透谷行は鮮烈な言葉を内在させながら深淵に進んでいく。
 「透谷への関心には根づよいものがある。なぜなのだろうか。そのひとつの理由に、詩と批評を合わせもって活動した稀な思想者であったことがあげられるだろうか。」(「「民衆」北村透谷号」)、「明治の絶対制による権力に対して絶対的自由が理念化されるのもまた必定であった。透谷はデモクラシーを共和制(略)として捉えたが、すでに用語、概念として「無政府主義(略)」という言葉も見られ、時代背景を考えてみれば、その先取性に驚くべきものがある。」(「超越願望における〈神性〉と〈人性〉――透谷の詩と詩論――」)
 わたしが透谷の織り成す言葉に惹かれたのは、自分たちの置かれた情況のなかで、なにかを発するとすれば言葉以前のような情念に委ねるしかないと感じたからだといっていい。同じころ、『浪曼者の魂魄』という著書を出した村上一郎と交流し慰藉されたのも、同じことだったかもしれないといま、ふりかえって本書を読みながら感じている。
 「村上一郎の世界は、人間の魂魄というものを詩心に沈めながら、それを思想として登りつめることにあった。敗戦体験というものから、拡大されてきた〈戦後民主主義〉に、〈精神〉の合理化の影を読みとり、なお反駁の魂魄を沈めようとして、戦後という時代に交接しつづけた思想者であったといっていい。」(「高堂敏治小論――『村上一郎私考』」)
 五十四歳で自刃した村上一郎は、詩性と批評に絶えず、心性を込めていた。さらにいえば村上は心的な揺れを抱えていたが、わたしにはいつも優しかった。残念ながら高堂敏治の『村上一郎私考』は未読だが、著者の次のような発語は、大きくわたしの内奥を撃つといいたいと思う。
 「高堂敏治は、〈草莽〉という観念を孕んだ魂魄の所有者として〈自立〉を求める以外にない。冥い情動につつまれるとはいえ、詩想はその持続に基づいて、暗く開かれていく他ないといえるだろう。『村上一郎私考』は、その原像のありかを、あらためて想起させ、牽引をうながす一書であった。」(「同前」)
 いささか恣意的な〈抽出〉となってしまったかもしれないが、これほどまでに衝迫を持って、わたしの内奥に響いてくるのは、本書全体に通底することであることを最後に強調しておきたいと思う。

(七月堂刊・20.5.30)

小柳 剛 著                                              『パンデミック客船「ダイヤモンド・プリンセス号」からの生還』
(「図書新聞」20.7.11号)

 いまだ、コロナ禍の最中、この列島に住むわたしたちが最初にコロナ感染という事態を衝撃を持って受け止めたのは、二月の横浜港に留め置かれたクルーズ船(ダイヤモンド・プリンセス号)だった。思い起こせば、その頃はまだ欧米ではコロナウイルスが席巻する前だった。トランプは、アメリカ人乗客を早く帰国させろと騒いでいたし、支援に入っていた神戸大の教授が、なんの防備もすることなく、スタッフが右往左往していることに警告していた画面がテレビを独占していた。やがて、彼はテレビに出ることもなく、なぜかメディアで発信することもしなくなった。安倍と小池は、東京五輪は開催できると猛進していたから、クルーズ船でコロナを封じ込めれば列島に拡散することはないだろう思っていたに違いない。
 その後、列島をコロナウイルスが席巻していくと、パンデミック客船「ダイヤモンド・プリンセス号」のことは、遠い記憶の彼方に追いやりサンミツを避けるとか、人と人の間の距離を置くとか、ステイホームなどという空無なことを実践するといった経過を経て緊急事態が解除されるということに至るわけだが、コロナウイルスの猛威を阻止したわけではない。
 あの、クルーズ船、ダイヤモンド・プリンセス号の乗客だった著者による渾身のレポートが刊行された。この時の政府(厚労省)の乗客へ向けた発信の仕方と、船内の混乱が、この後のコロナ禍の迷走を象徴しているといっていい。なんのことはない、船内で隔離すること自体、そもそも間違っていたからだ。
 著者は、夫婦二人で、「初春の東南アジア〜大航海16日間(香港、ベトナム、台湾を周遊)」コースに参加して、横浜港を出航したのが、一月二十日だった。帰路の二月三日、東京湾に入った時、船内放送が流れた。香港で下船した乗客が新型コロナウイルスに感染したため、「本船は日本の厚生労働省の検疫下に入り、横浜港・大黒埠頭沖に停泊し乗客全員の検疫をはじめる」と伝えられる。著者たちは、「無意識にでも新型コロナウイルスが迫っていることは、たしかに感じていたし、(略)たえず気にしていたはずなのだから。(略)とうとうやってきてしまったかという一瞬の落胆は、〈どこかで間違えた〉という意識でもあった」と述べていく。そして、本来の下船予定日の二月四日から二十日の下船まで、著者たちはもちろん乗客たちは、「十七日間自由を奪われていたことになる」。それでも、著者たちは、友人とのメールの遣り取りをして外との通交は保持していた。さらに友人を介してメディアの記者たちとの通交も続けていった。そのことは、孤立した状態から、様々な情報を得ることによって心身を保全できることに繋がっていったはずだ。
 著者たちにとってコロナ禍への懸念は、もちろんあるが、長年の疾患があり、多くの薬を手放さないできた。隔離期間の薬の調達が大きな問題となっていく。届いた中に、希望のものがなかったり、間違って入っていたり、全品揃うのに大変なやりとりをしなければならなかった。
 「薬問題はどうやら多くの年寄りの問題となっているようだった。/私の感覚ではウイルスの怖さより、薬が切れたときの肉体の苦痛のほうが怖かった。」「船が外洋に出るとき、房総半島の突端まで海上保安庁の船が併走していた。なんのためか、これも後々まで残る問題だった。」「三日に検疫がはじまって以降、厚生労働省の顔は私たちにはまったく見えなかった。/せめて隔離をはじめるときに、厚生労働省による現状説明と、これからの予定を知らせるべきではなかったか。」「深夜、今回の件でプリンセス・クルーズ社はクルーズ代金を全額払いもどし、無料にすると発表したらしいが、私たちはそれを知らずに寝てしまっていた。」「マスクと手袋だけをして相変わらずユニホーム姿で外を動きまわるクルー。(略)防護服をつけないクルーの最終的責任は、厚生労働省なのか、それともプリンセス・クルーズ社なのか、それはいまだにわからない。」
 十四日、船内放送で厚生労働省の橋本岳副大臣(故・橋本龍太郎次男)が、「直接話しをはじめた」という、「何か新しいことを言うのかと期待したが、まったくそのような内容ではなく、今までの実績を述べ」ただけだった。それまで、「厚生労働省は乗客にまったく語りかけてはこなかった」のだ。そして、著者は次のように断じていく。
 「今思うのだが、あの副大臣のスピーチには現在の日本の政治家の質がすべて現れている(略)。(略)奥底で自分たちの党(自由民主党)―政府―厚生労働省の実績を並べたてることを意味し、逆に乗客には語りかけていなかったことを意味する。そこには不安のなかにいる乗客を案じるよりも、自分たちの権力意識をむき出しにしていることで、乗客と離反してしまった状態が現れた。」
 まさしく、安倍や小池の発信も、「自分たちの権力意識をむき出しにして」、わたしたち大衆(民衆)と大きな懸隔をつくっている。コロナ禍は、トランプを始め、剥き出しの権力を露呈させた契機となったといえる。
 著者たちは幸いなことに、陰性のまま下船し、その後の再検査でも陰性ということになった。ダイヤモンド・プリンセス号の乗客・乗員三七一一人(外国籍含む)中、感染者数は、七二三人、死者一三人である(「朝日新聞」二〇年六月四日付)。

(KADOKAWA刊・20.5.28 )

鳥居哲男 著
『わが花田清輝 上巻(戦前篇)――
生涯を賭けて、ただ一つの歌を―。』  

(「図書新聞」20.4.25号)

 わたしが、花田清輝の名を認知したのはいつだったのか判然としないが、たぶん、吉本隆明の著作を通して知ったと思うから六八年か六九年の頃で、十代後半の時だ。いわゆる五十年代後半になされた花田・吉本論争の一端を知ったことが契機ということになる。著者は、わたしより十歳以上年長で、花田を知ったのは、『映画的思考』という著作をたまたま七二年に読んだ時だったと本書では述べている。著者、三十代半ばの頃だ。そして二年後に花田は亡くなる。わたしが通交してきた年長の知人たちに花田愛読者が結構いて、だいたい二十代前半には読んでいるのに比べ、やや意外な感じを受けることになるが、早い時期に接していたことで、やがて熱が覚めていったと思われるわたしの知人たちに比べれば、本書を八十代に入って著わすことになる著者には滾るものがあり続けてきたのではないかといいたい気がする。
 「どのみち、花田清輝という人物と著作群を俎板に乗せて論陣を張るというような大げさなことをしようなどとは思わない。出来るはずもない。私が花田清輝という人物と作品について語るということは、つまるところ、花田清輝を通して私自身を探るということに他ならないのだから。」
 わたしは、花田清輝の熱心な読者ではないが、学生時代、雑誌「映画芸術」を購読し、個人的に編集長・小川徹と親しくさせていただき、後に小川徹が刊行した『花田清輝の生涯』(本書の中で度々引かれている)は読んでいる。さらにまた、戦時下に「文化組織」や林業新聞の関係で花田と通交していた秋山清を通して親近感を抱いたのは確かだ。最初の頃のイメージから、かなり近接な感受を抱くようになって、久しぶりに花田清輝の名を冠した著作に接したことになったわけだが、著者の熱い言葉に圧倒されて一気に読み終えたことになる。
 初めて出会った花田清輝の思考から著者は、「私が得たものはこれまでの自分自身を恥ずかしいと思う感覚と一種の開き直りである」と述べていく。そして、「自分でいうのもおかしいが、洗脳されてしまったような牴崚張┘團粥璽優鶚瓩涼太犬任△襦廚箸いだ擇辰討靴泙Αわたし(たち)にとっては、エピゴーネンという時、他者に対する蔑称の意味合いを持つ、自ら宣するようなことはしない。しかし、本書の著者が、このように堂々と牴崚張┘團粥璽優鶚瓩判劼戮討いことにある種の潔さを感じるし、最近では花田清輝をめぐって論及されることが激減していることを考えれば、このエピゴーネンが深い位相を有していると捉えていい気がしてくる。
 本書では、花田が若い時、辻潤と交わした会話を引いている。花田は、「僕は一生アマチュアで生きてゆくつもりです」「人からプロフェッショナルと見られようとも、僕はアマチュアで通す」と述べていることに対して、辻潤が「僕も同じだ。同志が一人増えたな」と応じた。
 「私はこの「アマとプロ」の中の一節が好きだ。何気ない会話のように見えるが、ここに稀有な二人の清らかな魂が垣間見える。並々ならぬ決意というより、ここに人間としての高潔さがあると感じるのはわたしの思い込みにすぎないのだろうか。」
 いや、思い込みではない。わたしもそう思う。多分、後年、そのようなことを花田清輝は直截にいうことはなかったかもしれないが、基層には絶えず潜在し続けていたはずと見做していいはずだ。偉大な思想家、文学者といえども、若き日に抱いた想念は、霧散することはないといいたいからだ。
 戦時下の活動のなかで中野正剛の弟と親しかったため、正剛との関係を戦後、吉本をはじめとして批判されたのは、よく知られたことだが、著者の見方はこうだ。
 「花田は自分の本当にやりたいことをやるために、どのようなコネクションをも、猴用する瓩海箸里任る柔軟性を持っていた。無節操というわけではない。」「彼本来の悠々とした人間精神を貫いていたといえるだろう。」「誤解を恐れずに言えば、花田清輝は完全な爛▲福璽スト瓩世辰燭里任△襦」
 本書は著者が主宰している年一回刊の同人誌「裸木」に十数年間、書き続けてきた論稿が基になっているという。まだ、未完で「最後の章とエピローグが残っている」ため、全一巻で刊行することを断念して、まずは上巻の刊行となった。そして次のように巻末で述べている。
 「とうてい歯が立たないような花田清輝について、私が書いていることは、爛薀屮譽拭辞瓩砲靴すぎない。」「ラブレターなのだから、何だって許される。思いの丈を書けばいい。花田清輝の評伝の形になっていなくても、支離滅裂でいいのだ。」「本当にラブレターを書くということは、死ぬほど辛く、しかし、生きていることを実感することなのだ。」
 だから、書名が、「わが花田清輝」となるのだということは納得できる。下巻の早めの刊行を待ちたいと思う。

(開文堂出版刊・20.1.1)

浅野詠子 著『彫刻家 浅野孟府の時代 1900―1984
(「図書新聞」20.3.7号)

 彫刻家、浅野孟府(一九〇〇〜八四)といっても、詳しく知っている人はそれほど多くはないはずだ。わたしも、中学生時に白土三平の劇画作品『忍者武芸帳 影丸伝』(貸本漫画版)に感動し、その後、父親、岡本唐貴が画家であること知り、十代後半から岡本が親交をもった人物の一人として浅野孟府という名を微かに記憶の中に留めたに過ぎない。
 本書の著者は、同姓ではあるが、浅野孟府と縁戚関係はない。長く、「奈良新聞」の記者をしていた著者にとっては、金沢出身で、東京美術学校で学び、その後、東京と大阪を往還しながらも、敗戦後は大阪を拠点にして後半生を送った孟府とは、地理的には近い関係にあったということになる。
 「孟府は自作に未練をもたず、作品よりも創作行為そのものを大事がっていた。(略)戦後のあるとき、著名な実業家から胸像の依頼が来たが、造っては壊し、造っては壊しをくり返しているうちに納期が過ぎて、注文がご破算になったことがある。(略)孟府自身は、多くを語らぬ人であった。日記や自伝などは何も残していない。本業の彫刻は遅作、寡作であることに加えて、当人は寡黙。これらすべて孟府の魅力を深くしている。」
 二〇年、「孟府と唐貴は、神戸で出会った」という。二年後、上京し共同生活を始める。二人は東京美術学校に入り、北村西望に師事する。その後、彫刻と絵画を並行して続ける。やがて、大正から昭和へと時間が移行する時期は、左翼運動、プロレタリア美術運動といったことが渦巻く時であった。唐貴は一貫して左翼運動に身を投じるが、孟府は、どうか。二八年、「階級闘争を志向するプロレタリア美術運動のグループ展」に、「レーニン像」を制作し出品している。
 「村山知義の自伝によると、当時のアバンギャルドの美術家たちは、アナーキズムとコミュニズムの区別はよくわかっていない。(略)この視点は、孟府没後の追悼式において朗読された一代記の内容とも符合する。「孟府にとって左翼とは、クロポトキンの無政府主義までは理解できても、マルクスはそれほどわからず、バルザックの評価に共鳴していただけで、何か新しいもの、ファッショナブルなものとして認識されているようでした」と追悼式の台本にはある。」
 村山は、硬直したコミュニスト(共産党員)であるから、認めがたいアナキズムと混同して理解されることは許せないだけなのだ。むしろ、孟府が、「クロポトキンの無政府主義」を理解していることの方が凄いと、わたしなら率直にいいたい。
 「孟府はブタ箱に出たり入ったりする渦中、人形劇をはじめとする児童文化のジャンルに独特な造形を次々と開花させていく。」
 本書の口絵に彫刻作品とともに孟府制作の人形三体(人形アニメ『羅生門』・六三年)の写真が収められている。三〇年に、人形劇団「トンボ座」、三二年に「人形トランク座」に参加、そして、三五年、「大阪人形座」を旗揚げする。「そこに二九歳の青年」で、「戦後、東宝映画『ゴジラ』の怪獣を造形する利光貞三」が加わる。彫刻、絵画、人形制作と多岐に渡って創作活動していく戦前期のなかで、孟府は、戦意高揚映画に関わる。日米開戦一周年に合わせた『ハワイ・マレー沖海戦』(監督・山本嘉次郎、特撮・円谷英二、四二年・東宝)という作品だ。
 「映画の美術を孟府が引き受けた直接の動機は、生活のためだと、次男潜の自伝にある。(略)三六(略)年に生まれた長女に「映」という名をつけている。(略)映画は、孟府の造形世界における里程標といえるだろう。」
 左翼から転向し戦争協力映画をというのではなく、「造形世界における里程標」という著者の位置づけは納得出来るような気がしてならない。
 敗戦後の孟府は、彫刻の仕事は続けながら、新聞小説の挿絵も描いているが、けっして生活は楽ではなかった。
 「孟府が世を去ったのは、一九八四(略)年、満開のサクラがちらちらと舞う四月一六日のことであった。(略)死の八ヵ月前まで、孟府は制作していた。(略)芸術家の人生には満潮期と退潮期があるといった評論家がいるが、こと孟府の生涯においては退潮期があったことを感じさせない。過労で倒れる寸前までこの像に取りかかっていたことを思うと、生涯、造形師を貫いた。」
 著者の視線は、孟府にたいして優しく注がれていく。左翼的な渦動に身を置きながらも、たぶん、多くの思想家や文学者のような、転向などという様態とは関係なく、造形の仕事が好きだったという理由で、戦意高揚映画に関わる孟府の像は、「作品よりも創作行為そのものを」切実に考える稀有な存在を表出しているといっていいと思う。

(批評社刊・19.11.5)

前山光則 著『ていねいに生きて行くんだ《本のある生活》
(「図書新聞」20.2.29号)

 七十年代から八十年代にかけて(何号まで発行されていたかは正確にはわからない)、福岡で『暗河』(編集・石牟礼道子、松浦豊敏、渡辺京二)という雑誌が刊行されていた。わたしは、何号か購読している。本書の著者は、最初期から関わっていて、第四号に「島尾敏雄序論(1)」が掲載されたという。以後、『暗河』の「編集作業にも深く関わることとなった」と述べている。『暗河』の発売元となっていた葦書房の流れを汲む弦書房のホームページに「本のある生活」と題して二〇一〇年二月からコラムを連載してきて、現在、三五〇回以上続いている。その中から七十編を収めたものが本書である。
 書名の「ていねいに生きて行くんだ」は、淵上毛錢(一九一五〜五〇年)という熊本県水俣出身の詩人の「出発点」という詩の一節からとられている。
 「美しいものを/信じることが、//いちばんの/早道だ。//ていねいに生きて/行くんだ。」
 著者は、「さんざん飲んだくれて癌を発病した人間」だが、克服してきた。しかし、妻は一八年七月に亡くなる。享年七一。「亡妻の遺品を整理していて久しぶりに」、毛錢のこの詩を目にしたのだ。
 「妻の使っていた「3イヤーズ・ダイヤリー」との名がついた手帳の最後のページに、きちんとした大きな字で全文が記されていたのである。これを目にして、こみあげてくるものがあった。」
 奥付をみると著者が編集した『淵上毛錢詩集』(石風社・一九九九年刊、増補新装版二〇一五年刊)が記載されている。二人の間では、毛錢の詩世界は対なる関係性を表象し続けるものとして、あったに違いない。
 本書は、本と出会う生活を綴った文章群によって構成されているのだが、それは、同時に出会った本の著者たちへの追悼、思いを綴る文章群によってかたちづくっている。
 石牟礼道子、弘夫妻のことを、「妻は、自分が癌で苦しんでいながら、石牟礼さんのパーキンソン病が不治の難病であることを「かわいそう」と、いつも気にかけていた」と述べるとともに、弘氏を著者は次のように語っていくことは、同じ教師という親近性だけではない思いが滲んでいる。
 「温厚な人柄で、周囲の人たちから「石牟礼先生」と呼ばれて慕われ、道子さんの活動を陰で支えた。定年まで教師として勤め上げて以後は、地元水俣で自適の日々であった。」
 森崎和江、河野信子、石牟礼道子と列記して、鮮鋭な九州の表現者で私的なことが露わだったのは、ある意味森崎だが、石牟礼は、ほとんど知られていない。わたしは、河野さんとは、私的に通交したから、ある程度はわかる。この違いが、わたしにとって石牟礼道子に対する逡巡のような感じを抱き続けてきたのだが、本書によって氷解した。
 本書の巻頭に配置されたのは、島尾敏雄をめぐる文章だ。著者は大学卒業間近の頃、旺文社で文庫本編集などのアルバイトをしていた。担当の編集者に島尾敏雄で一冊出すことを提案、たまたま上京していた島尾に二人で会いに行って交渉し快諾してくれた。一年後に旺文社文庫版『出発は遂に訪れず・他八編』が「発売され、よく売れて、版を重ねた。島尾氏には、以後もわたしの最初の本『この指止まれ』(葦書房)の帯文を書いてくださったり、雑誌『暗河』の編集を担当していた時期には(略)座談をしてもらったりしたのであった」と述べている。一七年七月、奄美で行われた「島尾敏雄生誕一〇〇年記念祭」に参加して加計呂麻島呑之浦を再訪した時のことを綴る箇所を引いてみる。
 「特攻用の震洋艇が格納されていた幾つかの壕が、浜辺のそばの山襞にまだ残っている。その中の一つには、映画「死の棘」ロケの際に撮影用に作られた実物大の模型が置かれている。(略)さほど大きくないボートだ。しかも、ベニヤ製。これは本物もそうだというから、哀しい。(略)島尾敏雄氏は敵艦に突撃して散ることを任務とし、日々を過ごした。立派に死ぬこと以外は考えてはならなかった。(略)八月十五日になって不意に敗戦……、両人(引用者註・島尾敏雄とミホ)の当時の心の内を想像していると、胸が詰まってしかたがなかった。」
 わたしは、一八年十一月に初めて呑之浦を訪れた。入江は静かな水面を見せてくれていた。わたしも、震洋艇の模型を見て、哀しかったとともに空しかった。こんなベニヤ製で米軍のどんな船に突撃しようと考えたのかと思うと敗戦近い日本国家の指導者の虚妄さによって、多くの犠牲者が出たことに憤りを感じないわけにはいかなかった。 
 あらためて、「ていねいに生きて行く」ことを考える切実さを思わないわけにはいかない。

(弦書房刊・19.9.30)
              

上 幸雄 著『奴隷貿易の旅』
(「図書新聞」19.12.7号)

 「奴隷貿易」とは、著者のオリジナルな視線ではないが衝撃的な捉え方だといっていい。書名は「旅」とあるが、歴史的な淵源を探る紀行(調査研究といいかえるべきかもしれない)といった意味合いがその言葉には当然、含まれていく。
 「「奴隷貿易」ビジネスは、他所の土地で、勝手に人を拘束・鹵獲(ろかく)・保有し、他人に売り飛ばし、利益を得ることだが、最終的には、とうとう、他人が持つモノ、ヒト、土地(地下資源を含む)のすべてを領有する権利や実態へと発展したのであった。(略)人を本人の意思に反して拘束し、他人に売り飛ばすことへの批判を展開した人権主義やヒューマニズムの精神や行為は、奴隷貿易の持つ非人間性に対して添えもの程度にしか存在しなかっただろう。」(「はじめに」)
 著者は、ポルトガル第二の都市、ポルトを訪れ、エンリケ王子に関わる歴史的建造物や文化施設をめぐる。エンリケ王子とは何者か。一三九四年、ジョアン一世の第三王子として生まれる。時は、「キリスト教の勢力がイスラム教の勢力を押し返す勢いの真っ只中」だった頃だ。「自国領内からいち早くイスラム勢力の国外追放に成功したのが」、ポルトガルであり、「その余勢を駆って(略)イスラム勢力の橋頭堡であるセウタへの攻撃に出」て、その「先陣に立ったのが」、エンリケ王子だ。王子は、「それまで地中海沿岸地域のごく一部に留まっていたアフリカ大陸に関する知識を(略)習得し(略)、アフリカ大陸を大西洋に沿って南下する発想を得たことであった。それは、まさに大航海時代の到来を予告するもの」(「第二話 エンリケ王子の登場」)だった。
 イタリア人、コロンブスは、スペインのイザベル女王の支援を得て、アジア(インド)へ向かう航路として「大西洋を西に行った方が早道」であると考え、新大陸(アメリカ大陸)に到達したことになる。著者は、エンリケ王子の航海から、「コロンブスはすでに奴隷貿易という発想を持っていた」(「第六話 コロンブス」)と断言する。
 イギリスのリヴァプールに「国際奴隷制ミュージアム」があるという。そこを訪ねた後、著者は次のような思いを述べている。
 「博物館の展示について、日本の場合を考えてみる。太平洋戦争で「中国大陸・朝鮮半島に侵略していった過程」、「シンガポールに侵攻し、たくさんの市民を殺した過程」、「ハワイのパールハーバーを急襲した過程」、「南太平洋の島々を占領していった過程」など、日本軍による周辺諸国に対する侵略過程やその背景を子供でも分かる展示や解説をしている博物館や歴史資料館があるだろうか。」(「第十一話 エリザベス一世の時代」)
 確かに、そういうものはない。さらにもう少しつけ加えていうならば、朝鮮人連行や徴用工の問題は、大日本帝国の統治下にあった朝鮮人に対する奴隷労働以外のなにものでもないといい切ることができる。
 さて、わたしたちは、コロンブスのアメリカ大陸発見という歴史的な事象をそのまま画期的なこととして受容してきたが、そのことによってどういうことが生起したかを考えてみれば、画期的などと称揚できることではない。それは先住民(インディオ他)に対する収奪、虐殺、その後、労働力としての奴隷をアフリカから強制連行して、「アフリカ人奴隷は、アメリカという巨大消費地を得て、需要が大きく伸びると、それまでの衝動的・断片的商品から、計画的に大量に獲得して、需要を満たす商品へと大きく変貌を遂げ」(「第十七話 奴隷貿易のはじまり」)ていったのだ。
 その結果、「急速に奴隷市場が拡大していくなかで、みるみる巨大な化け物へと変身していった。(略)奴隷貿易で獲得した奴隷により、アメリカ大陸では「奴隷制」が生まれ、その奴隷制が拡大するにつれ、奴隷の需要が増し、それがまた、奴隷貿易を盛んにしていった」(「同前」)わけだが、やがて、「奴隷性」は、「黒人差別」として変容し、普遍化されていくことになる。アメリカンデモクラシーは、虚妄に過ぎないことの時間性が、それらに包含されてきたのはいうまでもない。
 著者が本書で試みていることは、明快だ。「ヨーロッパ」―「アフリカ」―「アメリカ」という大西洋三角(奴隷)貿易を俯瞰していくことだ。本書では、ポルトガル、スペイン、イングランドの西欧の王国が奴隷貿易によるアフリカへと至る一辺の道筋を描出していった。しかし、二辺目、三辺目へと辿り完結していかなければ、「アフリカ人自身が味わった旅からすれば、一瞬のまばたき程度にもあたらない」(「終幕」)し、「奴隷貿易の旅」は終わらないと、著者は述べているが、わたしは、最初の一辺が重要であり、後は、わたしたち一人ひとりが受け継いで、「アフリカ的世界」の暗渠を見通していくべきだと思う。もちろん、現在の「アフリカ」は、「内戦」が至るところで生起しているが、これは、「奴隷貿易」の消えることのできない残照であると考えていいからだ。

(歴史の旅クラブ刊・19.9.9)

浜田明範 編『国立民族学博物館論集❻ 
再分配のエスノグラフィ 経済・統治・社会的なもの

(「図書新聞」19.10.5号)

 わたし(たち)は、ともすれば、再分配といえば一見、経済政策的な用語と見なしたくなるが、経済人類学者カール・ポランニー(一八八六〜一九六四年)が提示した互酬(贈与)、再分配、交換(市場)のなかのひとつの概念である。本書は人類学の立場から、「贈与や交換、貨幣といった花形のトピックの陰に隠れがちであった再分配について(略)正面から議論したものである」と編者は「あとがき」で述べている。人類学という視点からのフィールドワークとして、「フィンランドの高齢者向け通報システム」の問題や「沖縄・離島社会を事例に」して、「介護保険法とコミュニティ」の問題、そしてインド、メラネシア、ガーナ北部、ミクロネシア・ポーンペイ島、ガーナ南部における再分配の様相を切開していく民族誌(エスノグラフィ)としての諸論稿を収載したものだ。
 わたし(たち)の世代は、ポランニー、経済人類学といえば、直ぐに栗本慎一郎を想起する。ただ、本書でのポランニーは、批判的継承という位置付けにあることを思えば、歳月の流れの早さを感受せざるをえない。
 編者の浜田明範は、「再分配とは集めて配ることである」とする「ミニマルな定義」によってアプローチしながら、「多様な現象を視野に入れながら、改めて再分配と集団の関係について人類学的に議論することは「社会的なもの」に関する研究にも貢献することになりうる。「社会的なもの」の形すら想像しづらくなっている現代日本において、世界各地からの事例を通じて具体的なイメージを提供したうえで、それを通して思考を紡いでいく人類学のできることは決して少なくない」(「序論 再分配を通じた集団の生成」)と述べていく。
 本書を構成している第1章から第7章までの論稿のすべてに言及したいが、ふたつの論稿から強く関心を惹かれた箇所を引いてみたい。
 インドの初代首相ネルー(一八八九〜一九六四年)が五〇年代に、「建設中の巨大コンクリートダムについて」発言したことをめぐって田口陽子は次のように論及していく。
 「ネルーは「今日、最も偉大な寺院、モスク、グルドワーラー[シク寺院]は、人間が人類全体の利益のため働く(略)場所である。このバークラー・ナーンガル[ダム]よりすばらしい場所がありうるだろうか」と述べた(略)。この発言は、ネルーの世俗主義の象徴として言及されることが多い。」「ダムが寺院とのアナロジーでつなげられることにより、近代の神格化(ダムの寺院化)も生じている(略)。」「インドの近代化の過程では、従来の枠組みと近代的な枠組みがアナロジカルに結びつけられることにより相互に変容していった。そのなかで、生モラル的再分配と国家的再分配も、相互に参照されながら変化している。」(「第3章 再分配のアナロジー」)
 ダムと寺院がアナロジカルに繋がっていくことによって「近代の神格化」が進行していくという視線は刺激的だ。これは、いうところの後進国(地域)だけに顕著にみられることではなく、先進国(地域)にもいえることだと思う。神格化ということに抵抗があるならば、象徴化といいかえてもいい。被爆国にもかかわらず、刻々と原子力の平和利用という象徴化によって多くの原発がつくられていったこの国の醜態を想起すればいい。
 「ミクロネシアのポーンペイ島における共同体規模の再分配」の事例に着目して河野正治は述べていく。
 「ポーンペイの「村の祭宴」における再分配は、明確な中心と確たる境界を持つ単一の共同体を再生産するのではない。むしろ、誰から何を集め、誰に何を配り直すのかという再分配の行為は、村という共同体をめぐる境界づけや意味づけを多様に出現させるのである。」「再分配を通してポーンペイの村を研究するのではなく、ポーンペイの村において再分配の効果を研究する試みであった。こうした研究の強みは、共同体のような人びとのまとまりが閉じられているように見えて異質なものに開かれているとか、非一貫的で重層的に構成されているという指摘にとどまらず、そうした現実がいかに構成されるのかを多様で入り組んだ具体的な過程として跡づける点にある。」(「第6章 再分配を通じた村人のつながりと差異化」)
 わたしの関心は、再分配というよりは、そのような行為、行動をする共同体内の様相とは何かということにある。いわば、共同体というミクロなものは、社会や国家といったマクロなものへ透徹させていくなにかを内在させているといえるからだ。
 「再分配の行為は、村という共同体をめぐる境界づけや意味づけを多様に出現させる」、「共同体のような人びとのまとまりが閉じられているように見えて異質なものに開かれている」といったことを起点として、広義の共同性から「社会的なもの」へと至る通路を見通せるエスノグラフィに期待したいというのが、さしあたっていま思うことである。と同時に、人類学や民族学、民俗学がいまだ、アクチュアルに現在を見通すことのできる方法だと、いいたい気がする。

(悠書館刊・19.4.22)

松本圭一郎、中川理、石井美保 編『文化人類学の思考法』
(「図書新聞」19.8.17号)

 文化人類学もそうだが、民俗学、あるいは民族学といった思考方法は、マルクス主義に象徴化される唯物史観や記紀神話を根拠に語られる王権の物語を相対化させる手立てとして、かつて、わたしは多くのことを感受してきた。近年、多様化する思考のなかで、幾らか、遠のいていた文化人類学というものを、本書によってあらたな可能性の方位へと導かれることになったといっていい。
 編者三人による「序論 世界を考える道具をつくろう」は刺激的なことが述べられていく。
 「私たちは、いろんなものを区切り、名づけ、その枠のなかで生活を営んでいる。でもじつは、それぞれの枠を区切る境界はそれほど強固なものではなく、いつのまにか変更されていたり、消滅していたりする。現実と現実ではないものとの区別さえ、じつは不確かなものでしかない(略)。」
 境界や区別は、強固なものではなく、不確かなものだという編者たちの言及は、示唆的だ。ともすれば、差異化、差別化して、排除していくことを真っ当なことだと思考する現在の情況(トランプ主義をはじめ、多くのことが想起される)を考えてみれば、きわめて危ういことだといってみたくなる。そして編者たちは、「人が生まれ育ち、年老いて死んでゆくという、一見すると自然で普遍的にみえる営みにも、多様な可能性があることに気づく。それは(略)、ある制度や秩序のもとでの生を相対化し、別のありうる姿を見いだすことにほかならない。そこに、人類がずっと昔から他者や動物などと関係を築きながら、そのつど生み出してきた古くて新しい共同性の手がかりがある」と論述していく。
 この、「古くて新しい共同性の手がかり」を求めていくことこそが、本書を現在における文化人類学として屹立させていく方途だといってもいい。
 そうなのだ。わたしが、レヴィ=ストロースの『親族の基本構造』や、モースの『贈与論』に喚起されながら、共同性、つまり共同体の始原性に関心を惹かれていったことを考えてみれば、「古くて新しい共同性の手がかり」となるのは、当然のことだといえる。
 そして本書では、ミシェル・フーコーの権力論が引かれ、アナキズムを射程に入れて独特の思考を展開していくデヴィッド・グレーバーを何人かの論者が取り上げていく。本書は全三部構成で、「世界のとらえ方」、「価値と秩序が生まれるとき」が、第吃堯第局瑤肪屬れ、最終、第敬瑤、「あらたな共同性へ」だ。
 「文化人類学にとって贈与がいまだに重要なのは、それが経済や政治、宗教といった別個のものと考えられている領域それぞれに深くかかわっているからだ。それをゆさぶろうとする力のあらわれでもある。」(松村圭一郎「贈り物と負債」)、「ケアの論理とコミュニズムの論理は通底しており、ケアについて考えることは、人間社会が社会的動物であるという、その社会性と共同性の根源を考えることにつながるものだということにほかならない。」(松嶋健「ケアと共同性」)
 わたしは、ケアという論理、もう少し平明に述べてみれば、ケアという行為は、無償の行為といいかえてもいいのではないかと思う。
 それは、つまり、〈贈与〉ということに近似していくはずだ。もちろん、対価なくしては、ケアを特化して従事することは、困難であり持続不可能なことはわかっている。
 しかし、その心性において、〈贈与〉ということを引き寄せない限りはありえないと思う。松嶋が、「人間社会が社会的動物であるという、その社会性と共同性の根源を考えることにつながるものだ」と述べているのは、〈贈与〉を「経済や政治、宗教といった別個のもの」と見做さざるをえないということに連関していくといっていい。松嶋はさらに、次のように述べて結語していく。
 「ケアについて考えることは、弱き存在である人類が、不確実性に満ちた世界のなかで生き延びる道をどのようにして育んできたのかを考えることである。それは人類史のなかで現在をとらえ、私たち自身の今ここでの思考と実践を変えることで、異なる明日と異なる共同性を開く道でもある。」
 こうして、人類学が、そして、わたしたちが、「あらたな共同性」へと思考していくことを、考えていくべきである。

(世界思想社刊・19.4.30)
 

山口拓夢 著『短歌で読むユング』
(「図書新聞」19.7.13号)

 わたしは、フロイト(一八五六〜一九三九)には近接しながら離れることはなかったが、ユング(一八七五〜一九六一)に対してはどうしても距離感を拭うことができないでいた。契機は、河合隼雄の著作だった。河合隼雄の仕事を通してユングは、わたしにとって、ようやく近接した存在になったといえる。しかし、本書の表題には、心理学とは遠く離れた表現に思われる「短歌で読む」ということを冠している。著者は歌人なのだろうかと思い、略歴をみれば、札幌大学女子短期大学部教授で、西洋哲学、神話学専攻とある。前著は、『短歌で読む哲学史』(田畑書店)。帯文には、「哲学歌人」(斎藤哲也)と記されている。本書に分け入ってみれば、短歌は、小見出しのように挿入されているのが分かる。
 「人類の集合的な無意識が呼びかけてくる夢や神話で」(『変容の象徴』)、「心とは自分を癒す手掛かりを探し求めてはたらいている」(『分析心理学』)、「元型と向き合う人は無意識を自我に取り入れ深化へ向かう」(『元型論』)、「道教の教えが届き赤の書の対話を止めて現実に戻る」(『赤の書』)、「永遠の潜在的な現実が共時性には働いている」(『自然現象と心の構造』)
 本書のなかには多くの短歌が配置されている。難解なユング理論を、短歌によって、少なくともイメージとして感受できるかもしれないと思わせてくれる。ユングの思考の核心は「無意識」ということになるが、さらに拡張して「集合的無意識」へと至る。「集合的な無意識が呼びかけてくる」といったことや、「無意識を自我に取り入れ深化へ向かう」ということが、ロジカルな論述ではなく、「歌」の言葉で紡ぎ出されていくと、なにか理解の通路に立っている気がする。
 もちろん、「いつもユングの書を友としていた」(「あとがき」)という著者だからこそ、深い理解の中で、「歌」の言葉を紡ぎ出せるのだといっていい。
 「フロイトとユングは五年間の親しい交際ののち、(略)ユングはフロイトの性理論に疑いを持ち、フロイトはユングが宗教にモデルを求めて無意識を解釈しすぎるのを警戒した。」(「第一章 入門的な著作」)
確かに、わたしが、どうしてもユングに共感の通路を見出せないでいたのは、牧師の家に生まれ、信仰心のようなものが底流にあったと捉えていたからだ。
 「ユングは人格の中心を意識と無意識を統合した、自己というものにおくべきだ、と結論づけます。(略)達成された自己のイメージを言い表そうとすると、神のイメージのような宗教的形象へと近づいていきます。」(「同前」)
 「ユングの父にとって牧師の仕事は不向き」だったようで、「信仰に興味を持って父を質問攻めにし」ても、「通り一遍の教義を説明するだけ」だったという。ユングが真摯に宗教を起点とする方位へ向かっていったのは、父との逆立した関係性が大きかったことが理解できる。
 「ユングが見てきた多くの患者は、心に向きあうために、悪魔か深くて青い海のどちらかを選ぶかを迫られています。(略)宗教経験のある人は、生命、意味、美の源泉を自分に与え、世の中と人類に新しい輝きを与えてくれる大きな宝を内に秘めています。このような信仰が幻想だと誰が言えるのでしょうか。心理学は、無意識が生み出す象徴を注意深く考慮に入れるのです。神経症はあまりに現実的なものなので、助けになる経験も同じぐらい現実的でなければいけません。」(「第四章 批評と宗教観」)
 この一節の始めに付された短歌は、「内的な神体験とシンボルは救いになれば神の賜物」である。確かに救いを求め、苦しみから解放されたいと希求する人の前で、「信仰が幻想だ」ということの意味はない。悪魔ではなく、「深くて青い海」があるなら、わたしも素直に見たいと思う。
 「自己というのは、言い換えれば、ユング心理学の中心的な課題、個性化の過程という人格の深まりの実現の歩みの到達点を表す最も重要なキーワードです。」「心理学的に見るならば、自己とは意識と無意識との統合です。それは、心の全体性を表します。(略)現代では意識と無意識に亀裂が生じ、人は世界観の喪失の危機に瀕しています。このような亀裂を橋渡しするために、意識と無意識の統合による心の全体性の回復、言い換えれば個性化の歩みが必要とされています。心の深化の最終段階において、人は自己という人格の全体性の回復の元型と出会い、無意識と意識の結合の過程へと降りていくのです。」(「第六章 共時性と自己」)
 そして、著者は、「ユングの心理学」を、「道に迷った現代人の心の案内役として、人生の旅に寄り添っているように」思うと結んで、本書を閉じていく。
 わたしは、著者による深いユング理解に誘われるようにして、ユングをめぐる「旅」に出たいと思っている。

(田畑書店刊・19.4.25)

窪島誠一郎 著『ぜんぶ、嘘』
(「図書新聞」19.6.29号)

 窪島誠一郎は、長野県上田市にある信濃デッサン館(一九七九年設立、二〇一八年休館)と無言館(九七年設立・開館)の館長として知られている。わたし自身は三度ほど訪れたことがある。しかし、信濃デッサン館が昨年の三月に休館したことは、うかつにも知らなかった。
 窪島は、八一年、四十歳の時に、著書としては初めての『父への手紙』(筑摩書房)刊行以後、精力的な執筆活動を続け、数多くの著作を出してきているが、詩集としては、『くちづける』(一六年)に次ぐ二冊目となる。
 昨夏、「命にかかわる病で手術入院し」た。「退院したらこの詩集を出してもらえる、というのが大きな生きる目標になった」と、「後記」に記している。信濃デッサン館の休館も、そのことが影響していたのかもしれない。
 「砂時計の砂が落ちるように/ふいにだれかが、水槽の古びた栓をぬくと/『今』が、すうっと消える/手のとどかないところに すうっと消える//この風景だけは/いつまでも 変わらない/わたしが死んでも/何も変わらない」(「何も変わらない――塩田盆地を望む――」)
 塩田盆地(塩田平)の風景、つまり、信濃デッサン館がある場所から俯瞰できる風景は、確かに素晴らしい。初めて訪れた時、もちろん無言館はまだなく、小さな美術館というイメージだった。だから、変わらないであり続ける風景と、「水槽の古びた栓をぬくと/『今』が、すうっと消える」という非対称な感覚に深い哀しみが滲んでくるかのようだ。
 「死の匂いは/わたしの『希望』の匂い」(「死の匂い」)、「『生きること』から/のがれたいのは/けっして『死にたい』ことではない」(「安楽死」)
 死は、予期している限りは死ではない。生きていることから離反して死を想起することもありえないと、わたしなら考える。「死」と「希望」の連関には、反転した鏡のように自身の心的な面を投影している。それは、「生きること」と「死にたい」ことも表裏の有様を持っていることを意味している。夭折した画家たちの作品の展示を想起した詩人にとっては、「死」と「生」は、常に表裏の感覚のなかに包まれてきたことになるはずだからだ。
 「母の足音がかなしい/駆け出した私を/遠くから追ってくる母の足音がかなしい//『母』という言葉がかなしい/『母』という文字がかなしい」(「かなしい母」)
 詩人には、二人の母がいた。母というものは、本当は一人しかいないはずなのに。ずうっと一人だけの母を母と思ってきた詩人にとって、母とはなにものであったのか。母は、詩人にとって「かなしい」有様であったことになるのだろうか。いや、母をそのように想う自分自身が、「かなしい」有様なのだと告白しているように、わたしには思われる。
 「その街が/記憶から消えたのはいつだろう/ふっと私の故郷が/地図から消えてしまった」(「街」)
 自分自身の出生を記す謄本には、生地が記されている。それは、嘘の記述であってはならないものであるはずだ。だが、生地(故郷)は、生まれた場所でも故郷でもなかった。
 「いたずらに目覚めを急かせる/まぶしい朝陽が苦手/言葉すくなく/身悶えするように沈む/夕陽のほうに惹かれると言ったのも/ぜんぶ嘘、といったら/わたしはやはり磔の刑でしょうか//ぜんぶ嘘、といったら/わたしを許してくれますか」(「ぜんぶ、嘘」)
 「嘘」という言葉に、詩人が込めているものはなにか。本当のことがあって、「嘘」があるのだろうか。そうではないと思う。詩人にとって、「嘘」は、いいようのない「声」であり、必死の思いで発する言葉にならない「声」のような気がする。
 『父への手紙』のなかに次のような一節がある。
 「私は『つくりごと』の嘘をかさね、またその嘘の訂正のために嘘をかさねた。懸命にこしらえあげた自己訂正が、もう一つの新しい嘘をうんでゆくのはつらかった。(略)おまえの出生地はどこかと人から問われても、私にはこたえられない。しばらく考えたすえ、父母から教えられた通り、(略)こたえる。ここから、すでに私の嘘ははじまっているのだった。嘘というより、自分自身でも確信のもてないアヤフヤなうけこたえがはじまっていた。」
 窪島誠一郎にとって、「嘘」は、「本当のこと」の反語ではない。「嘘」には、自分自身の有様のすべてが詰まっているのだ。「嘘」がなければ、存在自体もあり得なかったということになるからだ。そうであるならば、やはり、「嘘」は、必死の思いで発する言葉にならない「声」なのだということになる。

(七月堂刊・19.3.11)


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