杉山博久 著『直良信夫の世界 20世紀最後の博物学者
(「図書新聞」17.5.20号)

 直良信夫(一九〇二〜八五年)という名前を知らなくても、「明石原人」の“発見者”といえば、多くの人は、何らかの応答ができるはずだ。「明石原人」をめぐって、著者は本書で、次のように触れている。
 「一九三一年(略)四月、兵庫県明石市の西八木海岸の崩壊した砂質粘土層中から採集された人類腰骨は、一時、Nipponanthropus akashiensis(ニッポナントロブス・アカシエンシス)と呼ばれたこともあったが、学会の正当な検証を受けることもなく、一九四五年(略)五月の東京大空襲によって消失してしまった。この人類腰骨をめぐっては、先生(引用者註・直良信夫)への不当な誹謗・中傷ばかりが姦しかったようである。」
 わたしは、考古学的なことにいくらかでも、関心があるのは、それは、民俗学や人類学、生態学、発生学、さらに加えて歴史学といったことへの関心も含めて、それぞれを繋げたかたちで思考の有様として意味があると思っているからだ。それぞれを学的に特化(あるいは専門化)して考究していくことの危うさをいつも考えているといえる。つまり医療の世界が専門的に分化しすぎて、領域の横断ができにくくなり、必ずしも、わたしたちのためにはならないことに通じてしまうことを思えば、それは明らかであろう。
 本書の巻末に付された略年譜を見れば、岩倉鉄道学校工業化学科を卒業後の十八歳の時に農商務省臨時窒素研究所に勤め、空中窒素固定法の研究に従事、この間、貝塚の探訪など考古学的なことに関心を持っていく。研究所退職後、兵庫県へ転居、地質学や古生物学を徳永重康に師事し、学ぶ。二四年九月、日本考古学会や東京人類学会などに入会する。三八年に早稲田大学理工学部採鉱治金学図書室に勤務、以降、精力的に著作活動に入っていく。こうしてみれば、わたしの個人的な推察でしかないのだが、考古学プロパーではない直良にたいして、「明石原人」の発見は、反発や疑念が考古学会から起きるのもわからないではない。しかし、ほんらいなら、学会全体が直良に協力していくようなかたちで精査していくべきなのではないかと思うのだが、そのようなことは難しいことなのかもしれない。
 さて、本書の副題に、「20世紀最後の博物学者」と付されたのは、直良信夫の生涯にわたる仕事を考古学だけにとどまらず広範な領域にあることを示している。
 「直良先生は、その長逝の折り、“最後の博物学者”という修辞を冠して呼ばれたように、考古学ばかりでなく、古人類学や古生物学(動・植物)、現生動物の生態学や動物学的研究、地質学、先史地理学などの各分野にも通暁し、さらに古代農業の研究にも顕著な業績を遺している。また、ナチュラリストとしても一流と評される存在であった。先生の学問領域が極めて広汎であることについては、独学であったため、研究の途上で生じた疑問はすべて自身で解決しなければならなかったからと先生の話であった。」
 “ナチュラリスト”といういい方は、現在ではあまり用いられない捉え方になるかもしれない。わたしなら、生命(いのち)あるものすべてに視線を馳せる人とでもいいたい気がする。
 本書は直良の未発表原稿を織り込みながら、「峠」、「カワウソ(獺)、モズ(鵙)」、「シカ(鹿)、ゾウ(象)」、「葛生の洞窟と花泉の化石床」、「イヌ(犬)、ニホンオオカミ(日本狼)」、「古代農業」、「貝塚・銅鐸と日本旧石器文化」といった項目立てのもとに直良の研究足跡を詳述している。異色は、最終章に配置された「児童図書」をめぐってのものとなる。そのなかから、「原人」をめぐる二つの記述に絞って触れてみたい。
 戦後、直良は、栃木県安蘇郡葛生町(現佐野市)の探査を始める。そして「洞窟への踏査・研究」を続け、五〇年に「葛生原人」の人骨を発見する。だが、「現時点では、葛生出土の人骨を更新世のものとする先生の理解は完全に否定されてしまった」が、「洞窟や岩陰遺跡に包蔵されていた獣類化石などの調査報告は、学問の進展によって、補訂を必要とする部分があるとしても、いまも、基礎的な資料として、十分にその価値を主張し得るだろうと私は考えている」と述べながら、「明石原人」へも言及していく。
 「発見の背景をなす日本旧石器文化の存在を提唱した仕事こそ、先生の多くの考古学的業績のなかでも、もっとも顕著な業績であったと考えている。」
 研究対象が広汎なため、直良の調査報告がなかなか理解されにくかったのではないかと思われるし、わたしには、「独学であったため、研究の途上で生じた疑問はすべて自身で解決しなければならなかった」という直良の感慨は、単独で広汎な研究領域をひたすら遂行していった矜持のようなものに聞こえてくる。だから、ふたつの「原人」をめぐることは、自身の仕事のなかで特化されるべきことではなく、すべての業績と同等のものだと思っていたはずだ。本書は、そういう意味で、直良信夫の孤独な研究者としての《像》を、鮮鋭に照らし出しているといっていい。

(刀水書房刊・16.11.13)

峯澤典子 著『あのとき冬の子どもたち』
(「図書新聞」17.3.25号)

 この詩集は、ひとつひとつの詩語が、わたしに語りかけてくるかのように聞こえてくる。それは、しかし、静かに、なにかを強く伝えたいというのではなく、独り言のようでもあり、吐息のような呟きでもあり、遠くを見つめながら小さな声で歌っているようでもある。読み終えて、この詩集を閉じてみると、わたしは、水が流れるような物語のなかにいた。
 「マッチを擦っても/新年のみちには犬の影もない/ひと足ごとに/夜の音が消えてゆく/冷気を炎と感じられるほど/ひとを憎むことも/許すことも できなかった/……」(「流星」)
 情景は心象でもある。「ひとを憎むことも/許すことも できなかった」と語る時、詩語を紡ぎだす人は、どんな関係性のなかにいることになるのだろうか。他の詩篇に接してみれば、時間の流れのなかで変容していく関係性に逡巡し立ちすくんでいる有様を投射しているように、わたしには感じられる。
 「……/幼いころ/水さえほしがらなくなった猫や犬の/肌の日向の匂いが/ゆっくり冷えてゆくのを/いちにちじゅうでも/ひとばんじゅうでも/見守った/あのやわらかな時間の流れから/いつ/離れてしまったのだろう/……」(「一羽」)
 小さな命が消えていくかもしれないという場所にい続けているイノセントな少女期(少年期)への憧憬と、そして悔恨と評するのは簡単だ。「あのやわらかな時間の流れから/いつ/離れてしまったのだろう」という心象は、「ひとを憎むことも/許すことも できなかった」と語ることへ通底していく。時間は戻らないのだ、憧憬や悔恨は、なにも慰藉しない。ただ、受けとめること、そのこととして感受し続けることに、自分たちの、爐い洵瓩あるのだと、作者の声は、わたしに、語りかけてくる。このような感受の有様とはなんだろうかと思う。ある理不尽なことが生起したとき、ひとは、直截に憤りを胚胎していく。それは、ある意味、必然的なことだ。だが、それで、なにかが、変わるだろうか。わたしたちは、理不尽なことには敏感だが、どんなことが起きても変わらずにある、切実なものに眼を向けることを忘れがちになる。微細で繊細なといえるほどの小さな出来事に絶えず視線を向け続けていくことが、憤怒を持って理不尽なことに向かっていくよりも、なにかを変えていく動力になるのではないかと、詩人・峯澤典子が語っていると、わたしには思われるのだ。長くなるが、もっとも、わたしを喚起した詩篇の一部を引例しよう。
 「……/生まれてはじめて/たったひとりで/息がつづくかぎり/全力で走り抜けたあと/気恥ずかしいくらいに/からだの奥で揺れつづけていた/草の香りや/空の高さ/それらを生の中心と定めたとき/そよぎだしたすべての感情を/わたしは木のようだと思ったはずだ//誰かを追い抜くためではなく/ただ走ってゆける喜びに/そよぐこころを/讃えながら/木は育っていった/のびすぎた枝はいつの日か/人や じぶんを/深く傷つけてしまうことなど/知りもせずに/……」(「改札の木」)
 「のびすぎた枝」とは、なんという暗喩だろう。わたしの発語は、いつだって「のびすぎた枝」だったのではないかと、暗澹たる思いになる。誰もが、無意識に人を傷つけ、自分自身を深い暗渠へと誘っていく。
 「……/あげられるものは/もう骨しかなかった/それでも父は/あめ、ゆき、と/くちをひらきつづけた/ぎこちなく子を寝かしつけた若い日のように/……/父を呼ぶことのなかった町に/列車が入った/雪はやみ/子は/静かな包みにくるまり/ひとり 眠った」(「冬の子ども」)
 「……/兄妹のように水色の似た/川から川へ/行先を失った時間は運ばれ/水際のわたしの姿も/霧雨に溶けだす前の/別れのあいさつも/はじめから存在しない//旅人の影の/かたちをした雨雲が/横切り/消えてゆくのを/映す水だけの/永遠」(「水の旅」)
 「あめ、ゆき、と/くちをひらきつづけた」、「旅人の影の/かたちをした雨雲が/横切り/消えてゆくのを/映す水だけの/永遠」と、これらに込められた心象は、鮮烈だ。いいようのない、息苦しさのなかで、それでも、なにか小さな通路のようなものを詩人・峯澤典子は詩語によって照射している。
 第六十四回H氏賞受賞作・第二詩集『ひかりの途上』(七月堂、13年刊)から三年半、いま、峯澤典子の詩世界は、間違いなくひとつの達成へと向かっている。そして、峯澤の詩表現が、いつしか「生の中心」を捉えることを願っている。

(七月堂刊・17.2.1)

専修大学経営学部森本ゼミナール・編
『大学生、限界集落へ行く――「情報システム」による南魚沼市辻又活性化プロジェクト

(「図書新聞」17.3.11号)

 本書は、専修大学森本祥一ゼミの大学院生を含む十三名の学生たちが、新潟県南魚沼市にある世帯数15(うち高齢者世帯は4)、住民数が43人(いずれも2015年6月時点)の辻又集落において地域活性化を模索すべく活動した二年間(2014年6月から16年2月)にわたる記録集である。経営学部に参集する学生たちだけあって、マーケティングの知識をもとに「情報システム」という考え方によって活動していったことになる。本書に分け入って行く前に、わたしなりの、限界集落といういい方に対する疑念を述べてみたい。
 集落(村落)の人口が減少し、住民の高齢化が進み、やがて集落(村落)の存続が難しくなることを、〈限界〉という言葉で形容することに、行政側の思惑が潜在しているように感じられて同意できないのだ。
 なによりも村落共同体が、明治近代化過程を経て衰退していくことになったことを、まず認識すべきである。それは、敗戦期を経て、戦後復興というかたちで進められた高度経済成長下で、さらに加速されていったといえる。幾つか象徴的な事例を挙げてみる。ダム建設の推進で、ダム湖に消えた集落が、どれだけあったかを考えるべきなのだ。あの成田空港建設においても、農家の土地を簒奪し、集落(村落)を解体させていったことも、付け加えるべきかもしれない。極めつけは、平成の大合併だ。村という最小単位の自治性を解体して、町や市へ吸収させたことで、ますます集落(村落)の存立を弱体化させたことだ。もはや、過疎化した村落は、その共同性を持続させていくことは困難だといえる。歯止めも活性化も、その方途はなかなか見出すことはできないのが現在という場所なのだ。
 よく考えてみれば、大都市圏以外の地方都市も、同じような情況を強いられている。シャッター街状態の小都市は、もはや特異な事態ではなく常態化しているといえるからだ。いったい、緊密な関係性を連携すべき最小単位の共同体という有様は、やがて消失していくしかないのだろうかと暗澹たる思いになる。このような感慨のなか本書を読み進め、学生たちの思いに接し、まだまだ、狎篷将瓩垢襪里倭瓩い覆抜兇犬燭箸い辰討いぁ3萋阿両楮戮蓮∨椽颪鮗蠅砲箸辰篤匹鵑任發蕕Δ箸靴董学生たちによる住民たちとの応答を引いてみる。
 「―辻又に住んでいて良かったと思うことは?/水落『自然にしたがって生きられること。人間関係が都会と比べてややこしくないし、農業は自分のやりたい時間にできるからね。(略)』/(略)/―辻又で復活してほしい行事はありますか?/水落『昔から伝わる伝統の踊りや歌を守っていきたい。無理かもしれないが、山の資源がお金に換わる時代になってほしいね。そして村のなかで子どもたちの声をたくさん聴きたい』」(水落義太郎・81歳、聞き手・大嶋杏奈)
 「幸せだと感じるのは、自然がのどかで、自由なところかな。いまもここに住んでいる理由としては、そうだな、まあ、しょうがなくて住んでいるかな。」(佐藤眞一・65歳)
 「今は毎月1回、集落の常会があって、それが楽しいね。みんな一緒に集まって話をしたり、困りごとの相談とか、まあいろいろだなあ。良いことも悪いこともあるさ。」(佐藤重夫・85歳)
 村落的な共同性は、一見閉じられた有様に思われるかもしれない。濃密な関係性によって個の自由がないとも。それはある種の偏見であることを、辻又の人たちが述べていることで理解できるはずだ。「自然にしたがって生きられる」「人間関係が(略)ややこしくない」「幸せだと感じるのは、自然がのどかで、自由なところ」「みんな一緒に集まって話をしたり、困りごとの相談とか、まあいろいろだなあ」といった言葉のなかに、いわゆる共同体に潜在する相互扶助性というものが、辻又にはあることを示している。編者たちは、最小の「情報システム」は、「人と人との『コミュニケーション』で」(大嶋)あると述べているが、森本祥一は、さらに「私たちのような外部のものが入り込み、情報の循環を促すことが必要になります。私たちが媒介となることで集落の住民同士が話をする機会を増やしたり、集落内の情報を掘り起こして伝えたりして、集落内での情報の循環を回復させます」と言い添えている。
 辻又では「昭和の時代には祭礼興行を行ってい」て、「踊りや演劇、唄、芝居をやり、プロの浪曲師を呼ぶこともあ」ったようだし、「江戸の頃は、辻又神楽舞や辻又花火、辻又歌舞伎などの興行もさかんだった」という。「昔から伝わる伝統の踊りや歌を守っていきたい」と語る住民の声に応える方途を考えていくことも、コミュニケーションであるといえるはずだ。
 学生たちが巻末座談会で語っていたことが、印象的だった。
 「自分の中では『集落』に『昔のもの』という偏ったイメージがあって、そういう共同体が存在していることが逆に新鮮でした。」(井上智晶)
 「(引用者註・活性化は必要かどうかということにたいして)今の生活を維持できる何かしらの対策は必要だと思いますが、それ以上の活性化は逆効果な気もします。」(大嶋)
 彼ら彼女らが、辻又集落の住民たちとの交流を通して得た経験を未知の共同性の有様へと繋げて欲しいと思う。

(専修大学出版局刊・16.7.28)

樋口一葉 原作・千明初美 漫画『漫画版【文語】 たけくらべ』
(「図書新聞」17.1.21号)

 樋口一葉という作家の有様にたいして、わたしは、ただ直截に二十四歳で夭折した女性という視線で確定させてきたように思う。それは、作品自体にしっかりと接してこなかったことに由来する。擬古文に馴染めないものにとっては、『たけくらべ』や『にごりえ』という作品は、やや難渋な感覚を強いられるからだ。しかし、本書は、あえて文語体(ただし原文にない言葉を口語文にして適時に組み込んでいる)のまま、漫画作品として編集しているから、本書の「解説」で三田誠広が述べているように、「コミックのようなコマ割りに適度に配置された擬古文が心地よく、作品の中にたちまち惹き込まれるような効果を」放っているといっていい。漫画(画像)の力といえば、それまでかもしれないが、千明初美の柔らかな描線は、一葉が紡ぎだす明治中期の吉原遊郭周辺の人々の暮らしと佇まいを、鮮鋭に表出しているからだといえる。なによりも、登場人物たちの描像が、千明漫画によって、地の文との共鳴を引き出し、少女・少年期独特のイノセントな情感を醸成させているのだ。
 12Pから33Pまでの育英舎に学ぶ子供たちを一気に描いていく場面は、物語の核となる美登利、信如、正太郎、長吉、三五郎たちの関係性を浮き上がらせ、しかも、擬古文の読みづらさが、いつの間にか気にならず、読み通せたような感じにさせるのは、漫画的膂力という他はない。特に、美登利を描像する場面(23P)は、圧巻だ。画面上方、美登利の顔のアップを挟むようにして、右上に、「解かば足にもとゞくべき/毛髮を、根あがりに/堅くつめて前髮大きく/髷おもたげの――」を配置し、左上に、「色白に鼻筋とほりて、/物いふ聲の細く罎靴、/人を見る目の愛敬ふれて、/身のこなしの活々したるは/快き物なり。」を配置している。下方には、美登利の歩いている姿を町の若者が見ているカットを置き、「大邁阿糧登利 十四歳」(原文になし)を右下に、「へえ…/きれいな/子だ」(原文になし)、「今三年の/後に見たし」と、左下に、爐佞だし瓩鯑れている。長いセンテンスで続く原作と違い、改行されることで、リズム感のようなものが滲み、三田が述べているように、擬古文が心地よく感じてくる(つまり読めるような感じがする)から、やはり、視覚的なものは、大きな意味を持っているということになる。
 わたしは、共感する漫画作品を小説作品と同様の位相で読んできた。つまり、自分が評価する表現作品をカテゴライズしたことがないということだ。小説や短詩型、さらには漫画(劇画)、映画、音楽、絵画であっても、それぞれのジャンルとして見做すのではなく、例えば、つげ義春の作品と、漱石の作品を同等に見通すということである。文学的な名作を漫画にして刊行する場合は多々あるが、それ自体を否定するつもりはまったくない。ただし、本書のように、一葉の作品世界の情感と、千明初美の漫画的表現が、見事に共振、共鳴し合うことは、もしかしたら、稀有のことなのかもしれない。
 十三歳から十六歳の少女・少年たちの、それぞれの数カ月の時間を描出する物語の最終場面は、深い予兆を湛えたものになっている。
 「或る霜の朝」「寒いと思つたら/庭に霜柱が…」「白水仙の作り花…」「いつたい誰が…」「何ゆゑとなく懐かし」「誰やらに似かよふ」「淋しく罎姿…」「聞くとも/なしに/傳へ聞く、」「其明けの日は/信如が/何がしかの學林に/袖の色かへぬべき/當日なりしとぞ。」
 右頁(144P)に、美登利の哀しげに俯く顔のアップ、左頁(145P)には、信如の後ろ向きの袈裟姿。そして、右下に「水仙の作り花」の一輪挿しのカットを入れた最終面で『漫画版【文語】 たけくらべ』は、閉じていく。
いずれ、美登利は、姉と同じように「大邁亜廚陵圭となり、信如は僧侶となって、二人は会いまみえることはないのだ。少女・少年期の淡い恋情を物語っていく一葉の作家としての深い表現性は、わたしが拘泥していた夭折した女性作家などという教科書的な視線を、見事に解体してくれるものだといってもいい。
 鷗外が『舞姫』を発表したのは、五年前の明治二十三年だ。漱石が熊本の第五高等学校に赴任したのは、一葉が亡くなった明治二十九年(1896)である。漱石が、初の小説作品『吾輩は猫である』を発表したのは九年後の三十八年のことになる。
 『たけくらべ』は、雑誌「文學界」(1893〜98)に発表、断続連載されものだ。「文學界」は、いまさらここで説明するまでもないかもしれないが、上田敏、北村透谷、島崎藤村、田山花袋、松岡國男(柳田國男)らが集結していた月刊文藝雑誌であった。一葉がどんな場所で表現していたのかを想起してみるならば、漱石、鷗外とはいわないまでも、明治期文学として、もっと高い評価を得て当然だと思わないわけにはいかない。
 さらに、もう一つ付言しておきたいことがある。わたしにとって、千明初美は、まったく未知の漫画家であったが、七十年代、雑誌「りぼん」で活動していたことを本書の奥付で知ったことになる。実は、いま思いがけない機縁を得たことがわかったのだ。わたしが、デヴュー作『絶対安全剃刀』以後、全作品を愛読している漫画家・高野文子が敬愛してやまない作家だったということだ。近々、高野文子の企画・監修による千秋初美の復刻版作品集が刊行されるという。
 このようにして、本書を通し多くのことを喚起されたと、強調しておきたい。

(武蔵野大学出版会刊・16.9.20)

白石成二 著
『教養としての日本史―古代の歴史から日本の今を見る[上・下巻]

(「図書新聞」16.12.24号)

 総頁数が千頁を超える大著を前にし、圧倒されながらも、まず一瞬、考えてしまったのは、書名に冠した犇詰椶箸靴騰瓩箸いΩ斥佞世辰拭狠里箸靴騰瓩發修Δ世そのようないい方をされると、わたしは、直ぐに、犇詰椨瓩筬狠劉瓩鮨箸砲弔韻燭らといって、たいしたことはないんだといいたくなってくるからだ。しかし、ここでの犇詰椨瓩砲蓮表層的な装いから最も遠くにある、自らで考え思考していくことの意味が含まれていることを著者の次のような視線によって理解することになる。
 「本来歴史とは、歴史家に固有な問題意識と基準によって方向づけられた意欲的な選択の行為であるが、それが忘れられ、今日に至っている。現在の様々な問題についても『現代史が専門ではない』として目をそらすわけにはいかない。(略)歴史家の網野善彦氏は、歴史学の現状が個別分散化の傾向が強くなっていることを憂いながら、個別研究の前提として全体の歴史をどのように考えているかという見方が必要であるという。だから『すべての歴史家が通史を書くべきである』と指摘しているが、そこには網野氏がかつて高校の歴史教師として自らが日本の通史を教えてきた背景があると思われる。網野氏の著書が歴史研究者だけでなく、多くの一般読者にも受け入れられたのは、歴史を俯瞰する『史観』を提供していたからだと思われる。」(「序論」)
 「史観」といえば、なにやらイデオロギーの色彩があるかのように思えるが、それは違う。網野が戦後、いわゆる歴史学界のなかに身を置いたころ、マルクス主義史学が主流であった。そこでどのようにして自由に思考していくかという格闘によって、独自の網野史学を構築していったからだ。著者が網野を援用して述べる、「歴史を俯瞰する」という視線こそ、研究者たちだけの問題ではなく、わたしたち自身にも切実なこととして考えていくべきことなのだ。
 だからこそというべきか、著者によって編まれる狷本史疔椶蓮独自の世界を展開している。全七編に分け、それぞれ以下の表題を付している。「第一編 宗教・思想」、「第二編 衣食住の歴史」、「第三編 年中行事」、「第四編 古代の人物評伝」、「第五編 動物たちの歴史」、「第六編 社会生活・社会問題」、「第七編 日本人の心性と日本人論」というようにである。
 第一編では、仏教や神道における受容の時間性を辿りながら、「靖国」へと論及していく。
 「戦死者の多くは家の墓や仏壇で祭られるだけでなく、各都道府県単位の護国神社で祭られ、さらには靖国神社で祭られるという多重祭祀である。普通の死者は家の墓に入れば、それで終了となるという単一祭祀である。戦死者に対し多重祭祀が自動的に行われていることに私たちはほとんど自覚していない。(略)いとも簡単に人が神になるとする精神性は、それが個人や神祭りに限定されるのであれば別に問題ではない。(略)招魂慰霊の儀礼によって創り出される神々は、その創出も祭祀も解釈も、その時々の人間の利害関係によって平和祈願のみならず、戦意高揚や戦勝祈願や戦死美化などの意味づけが無限に拡大されていく宿命にあるのであり、その特徴をしっかり認識しておく必要があるのである。」
 「靖国」問題を、著者のように述べるならば、たぶん、多くの人は素直に理解できるのではないかと思う。わたしは、「多重祭祀」ということにこそ、重大な矛盾を孕んでいると考える。例え戦地に行ったからといって、一人ひとりの死は、個的な死であって、国家の一員であるという位置づけで国家祭祀のなかに取り込むことには、無理があるといっていい。ましてや、戦地での死者の多くは、食糧難や劣悪な環境の中に置かれたための病死であることを思えば、見殺しにした国家によって、「戦死美化」なんかにされたくはないはずだ。
 「『日本書紀』という書物は大変やっかいな歴史書である。それは史実を公正な立場でしるしたものではないから」(「第四編」)だという確かな視線の先に、歴史の深層を切開していく著者の鮮鋭さが際立っていく。
 「そもそも人の年を満年齢で数えるようになったのは、アジア・太平洋戦争後のことで、たかだか七十年余の歴史しかない。(略)数え年を廃止し満年齢とすることは、実は国家の有様に関わる大きな問題が背景にあった。(略)中国の方式を天皇制の導入と共に取り入れ、独自の元号を作り、毎年の元旦に朝賀の儀式が行われた。したがって正月の元日は単なる年の始まりではなく、天皇によって定められた暦の元日であり、(略)天皇の下にある者は皆この日に年を重ねたから、元旦は日本人全員の誕生日だったのである。(略)つまり数え年は天皇を主権者とする国家の仕組みの中に位置づけられていたのである。」(「第六編」)
 数え年が満年齢へと移行していく問題と元旦(元日)の位置づけをめぐって、天皇制を浮き彫りにさせながら展開していく著者の思考の有様に共感したい。例えば、かつてわたしに、元旦に餅を雑煮にして食することは、天皇制に関わることだと教えてくれたのは、村上一郎であった。わたしたちは、長年に渡って続いてきた正月の風習を、日々生活していることの連続性のなかに見出す限り、天皇制が作り出したものかどうかなど、関係はないといっていいかもしれない。だが、居心地のいい関係性が、なにかの契機によって、醜悪で頑強な集団性に転化してしまうことを忘れてはならないのだ。
 「歴史はナショナリズムと密接な関係がある。自国を等身大以上に美化しようとする傾向や手軽な物言いは人の心をくすぐる。それは今も変わらない。しかしそれは自分たちが『見たい歴史』に他ならない。その心地良さの裏側には排除と対立が見え隠れするが、『教養としての日本史』はその対極にある共生と融和を目指すものである。共生と融和の歴史を多くの人が『教養』として共有するならば、ささやかでも今の社会に資することができるかもしれない。」(「第七編」)
 著者が、「心地良さの裏側には排除と対立が」潜在していると指摘していることを、切実なこととして考えていくべきだと思う。そして歴史の網の目を、自分自身の眼を通して解きほぐしていくべきなのである。

(創風社出版刊・16.9.25)

奥山忠信 著『貧困と格差――ピケティとマルクスの対話
(「図書新聞」16.11.26号)

 トマ・ピケティの『21世紀の資本』の邦訳が刊行されて、二年経った。出版直後の喧騒を思うと、メディアからピケティの文字を、あまり見なくなっている現在、さてピケティ評価というものは、どういうことになるのだろうかと思っていたところ、本書に接するという幸運に遭遇した。わたしは、何人かの論者のピケティ観のようなものを表層的に眺めただけだから、本当は、本書の評者には、相応しくないかもしれないが、書名と、副題のマルクスとの“対話”であれば、ピケティの思想の一端を掴めるのではないかと、読み進めていった。
 著者は、詳細にピケティの分析を論及しながら、極めて明快に、ピケティの思考の核心を切開してくれている。
 「ピケティの『資本』は会社の資本財だけではない。」「収益を生む資産は、すべて『資本』と呼ばれる。」「資本の概念を広げることで、資本を持つ人の力と資本を持たない人の力の対立はより鮮明になる。鮮明になるだけでなく、現代の格差の持つ理不尽さも浮き上がってくる。」
 ピケティの独自性は、多彩なデータを駆使しながら、マルクスのような資本家対労働者といった生産関係にフォーカスするのではなく、所得(資本)配分に視線をあてて現在を見通すところにあるといっていい。
 かつて、わたしたちは、中間層の所得が増えて、一億総中流社会に達したなどと喧伝されて、資本主義社会が福祉国家の様態へと進んできたと錯覚したものだった。しかし、そんな幻想は、バブル崩壊期を経て見事に霧消していったといえる。ピケティが示唆しているのは、高格差社会という現状であり、「上位10%が35%の所得を取得し、将来は45%にな」ると警告していると著者は述べる。そして、ピケティが提案するのは、「所得税に対する累進課税の復活」と「富裕税としての資本税」であるという。いわゆる、富の再配分ということになる。
 「ピケティの分析によれば、多くの人が資産を持つようになったのが今日の特徴である。ただし、富裕者と貧者では資産の格差が極めて大きい。労働所得の格差の比ではない。ピケティの資本税は、格差を是正し、透明性を高めるために富裕層に課す税である。」「ピケティとマルクスは、貧困と格差の問題に関して豊富な分析ツールを提供してくれた。日本経済の現状は暗く、うまい話は何もない。(略)国家の衰退を思わせる状況である。(略)崩壊の危機はもうすぐそこまで来ている。現実は小手先で解決できるようなものではない。」
 わたしは、著者に誘われてピケティの小気味よい分析と税に関する提案に、諸手を挙げて首肯したいと思いながらも、どこかで逡巡している自分を確認せざるをえない。均等な、あるいは平等な課税システムを導入したからといって、それが、格差を縮小したり、解消されていくものなのだろうかと思わざるをえないからだ。本書では、「貨幣の謎」と題した一章を設けているように、多様な経済システムが拡大しているなかで、貨幣(ドル)を交換価値の象徴と見做すことに限界が来ているといえるのではないだろうか。国家(あるいは政府・行政機構)が、経済を統制、コントロールしていくには、もはや不可能な領域に現在、達しているとみるべきである。富裕層に高い課税を課し、貧困層を無課税にしたとしても、格差は解消されない段階に来ているといえるからだ。「日本経済の現状」を著者は「国家の衰退を思わせる」と指摘しているわけだが、政治的な意味では、まだ、国家(政府・行政機構)は、存在しえても、経済システムに関していえば、もはや、国家は無化されてしまっているといっていい。そういうアンビバレンツな状態を、わたしたちは認識していくべきだと思う。
 「マルクスは、資本主義を歴史上の1つの発展段階として見ている。その意味は、一定の時期に形成され、一定の時期に終わりを迎えるという意味である。それは、人間が商品や貨幣や資本に振り回されることなく、経済を制御することのできる社会が到来するということである。これがマルクスの社会主義社会であった。」
 いつからか、世界の先進的な資本主義国家群は、超資本主義社会というかたちに変容されてきたといえる。そういう意味でいえば、マルクスが想起していたような資本主義社会はとうに解体してしまっているといっていい。現在の超資本主義社会がどこまで、変貌ではなく変容していくのかは、誰にも、想像できないだろう。
 ただし、わたしなら、反資本主義としての、「人間が商品や貨幣や資本に振り回されること」のない社会の到来を、いまだに夢想したいと思っている。

(社会評論社刊・16.9.10)

大澤広嗣 著『戦時下の日本仏教と南方地域』
(「図書新聞」16.11.5号)

 一九三一年の満洲事変を発端とした十五年戦争という悪夢のような歴史的時間の終焉から、七十年以上経ったことになるが、いまだに、中国や韓国とは、政治的な軋轢を残存し続けている。それは、十五年戦争の後半だけを切り取って、第二次世界大戦とか太平洋戦争といった歴史教科書的な言辞によって歪曲し、アジアへの侵略ということを被膜のように覆ってきたからだといっていい。そもそも、大東亜共栄圏という理念のもと日本帝国軍隊による北は満洲から、南は東南アジア諸地域に渡る侵略・統治政策が、やがて、アメリカとの対峙を生起したということを認識しない限り、アジア諸国との軋轢は無化されることはない。
 ところで、東アジアへの視線は、現在的な事象の大きさから多様な論議をなされてきたといっていいが、東南アジア諸地域に対しての、いわゆる南進政策を分析する論述には、わたしが接してきた限りでは、なにか曖昧性を払拭できないものが多いような気がしてならなかった。もしかしたら、暴論を承知でいえば市川崑監督の『ビルマの竪琴』(原作・竹山道雄)に象徴されるように、日本(人)への親和性を過大評価し、無意識のうちに聖戦のような幻想性を瀰漫させてきたからだといえなくもない。
 本書は、これまで論及されることが少なかった日本の仏教者たちの〈戦争協力〉に焦点を当てた画期的な論考集である。しかも、対象となる場所は東南アジア諸地域である。もちろん、一概に、〈戦争協力〉というものを、わたしは、断罪したいわけではない。協力には積極的な加担から、消極的な関わりまで多様なかたちとしてあることを了解したうえで、本書が提起する問題は、多くの示唆を有しているのだ。
 「戦時下に、日本の仏教界では、政府や軍部の命令により同地(引用者註=東南アジア)に日本人僧侶や仏教学者を派遣した。彼らは、武力進攻前に情報収集などの謀略活動に関わり、進攻当初における宣撫工作に従事して、占領後には宗教行政を担当する行政職員として着任し、仏教を通した文化工作活動の実施に協力するなど、随所で関わっていた。」(「序論」)
 なぜ、「僧侶や仏教学者」たちが、政府や軍部の命令に従ったのかといえば、「仏教宗派は、『宗教団体法』に基き設立認可を受けており、政府の指導監督下にあったためであ」り、「連合組織の大日本仏教会は、『民法』に基く公益法人として設立されており、当時の社会的文脈では、戦時下における国策に貢献する『公益』目的の活動が求められた」からだ。しかも、「各宗派の管長は、天皇から任命された勅任官という待遇を受け」て、「高級官僚と同等」(「結論」)の存在としてあったからだと著者は述べている。明治近代天皇体制というものは、薩長政権という独占的な支配システムを潜在させていくために、それまでの天皇制をディスコントラクションさせて、成立させたものだといっていい。多様な神道をすべて、天皇を頂点とした国家神道に統一していったように、諸仏教を天皇の勅命のもとに、国家仏教のようなかたちに再編していったことが、本書の中で論及されていく連合組織(大日本仏教会、国際仏教協会、仏教圏協会、興亜仏教協会など)の有様から見て取ることができるのだ。
 本書の中で、わたしが、最も刺激を受けた論考(「第三部 日本仏教の対南文化進出」―「第一章 真如親王奉賛会とシンガポール」)に関して触れてみたい。
 真如親王とは、「平安前期の第五一代平城天皇(略)の第三皇子で、出家前は『高丘親王』と呼ばれた。(略)出家して、法名を「真忠」と名乗った。後に『真如』と改め、(略)空海(略)に参じ、その十大弟子の一人に列せられ」、「求法のため、唐を経て、天竺(インド)へ向かう途中、『羅越国』で虎に襲われて物故したとされる。今日では、小説家の澁澤龍彦による絶筆『高丘親王航海記』のモチーフとして知られている」と著者は記述していく。「羅越国」は、ラオスという説が有力だったが、「マレー半島南端付近とする説が主流となっ」ていき、「日本がシンガポールを占領する前後から、同地が真如親王の終焉の地とする主張が増えて」、「記念建造物を求める動きが急激に高ま」り、「関係者によって真如親王奉賛会が発足」したという。そして、大衆文化や教科書にも採り上げられ、「戦争の進展に伴って、にわかに真如親王の存在が増大していった」ことになる。敗戦によって事業は中断したとはいえ、内外において天皇制を補強していくような神話づくりを行っていくことの様態を、あらためて考えてみるならば、「大東亜共栄圏」という虚妄なる理念の陥穽が露呈していくことがわかる。西欧列強へ対峙していくために、〈アジア〉という感性を紡ぎ出すのは、間違いではない。しかし、〈アジア〉はひとつという時の、ひとつは、みな同じということではなく、神国日本が先導していって、はじめてひとつになれるのだという錯誤が、天皇制という〈宗教〉を根拠にしていることを、わたしたちは、忘れてはならないと思う。

(法蔵館刊・15.12.8)

重村智計 著『日韓友好の罪人たち―学問的試論のすすめ
(「図書新聞」16.10.29号)

 わが列島と半島の隣国は、近くて遠い関係にある。だが、約一五〇年前までは、大陸の王国とともに友好なる繋がりを長きにわたって続けてきた関係にあったのだ。アジアの片隅の列島国家は、断絶させていた欧米列強との関係を修復した途端、アジアの盟主たらんと明治近代を疾駆していった結果、戦後七〇年間、半島の隣国との了解関係は、絶えず齟齬を生起し続けている。
 毎日新聞論説委員としてテレビなどで、歯切れのいいコメントと解説をわたしたちに提示し続けてきた著者による、日韓関係の過去から現在、そして未来へと向けた論集が、本書だ。そもそも、日韓の関係は、一五〇年の間に複雑な情況的事柄を包含しながら横断してきたことで、問題の所在をなかなか切開しにくくしてきたといえる。どこか、一点、特化してフォーカスしていくとするならば、わたしは、日清戦争を挙げる。朝鮮を清国の圧政から解放させるという偽善的な旗印で開戦し、結果、韓国併合という半島の統治体制を構築し、日露戦争、満洲事変を経て日中、日米開戦へとなだれ込んでいった。こうした、わが列島国家の敗残の歴史を、いま一度、深く考えていくべきだと、わたしなら、いいたいと思う。
 「『太平洋戦争の起源は日韓併合に遡る』と私は考えている。この認識は、日本人の常識にはなっていない。真珠湾攻撃(略)から、およそ三〇年四ヶ月前に、日本は韓国を併合した。この結果、国際社会の尊敬を失い、米英と中国、ロシアに『恐怖』を与え、彼らに敵対する『脅威』と認識された。(略)日韓の千年に及ぶ長い歴史は、『日本が朝鮮半島に軍事的、政治的に深く関わること』を戒めている。(略)韓国併合では、独立から七〇年が過ぎた今もなお恨まれる。/隣の国を併合し、植民地にしてはいけなかった。」
 三〇年以上にわたった統治した側と統治された側という列島と半島の関係は、なぜ、その後、七〇年経ても、親近なるものへと転換できなかったのだろうか。著者は、エドワード・サイードが提示した「オリエンタリズム」という概念を援用して、「日本的オリエンタリズム」という視線で論断していく。
 「私がこの本で取り組むのは、『国際政治としての韓国・北朝鮮問題』である。『国内問題としての朝鮮問題』ではない。『朴槿恵はひどい』、『金正恩は普通じゃない』と言って、日本人に同意を求めて干渉させようとする。/これが、『日本的オリエンタリズム』を生む。長年に渡り、雑誌『世界』と日本の多くの学者や知識人は韓国を『南朝鮮』と表記してきた。韓国に対する差別の表現であった。これこそが、『日本的オリエンタリズム』の起源である。(略)私は『日本的オリエンタリズム』による差別を指摘し、『差別と蔑視意識の解決』を目指している。(略)朝日新聞が『慰安婦報道』で謝罪した原因は、『新聞記者が運動家になった』ためである。また、『運動を真実と勘違いした取材力の弱さ』と言うしかない。/韓国の反日には、(略)多くの社会問題と『韓国病』が存在しているが、日本人には理解できない。(略)『日本語と韓国語は、語感と感情が微妙に異なる言語だ』との留保が常に必要だ。日本では、韓国や北朝鮮について、あたかも、自分の国かと勘違いして語る風潮が強かった。日本人が韓国の指導者を口汚く非難する。この心理の背後には、日本人の差別や蔑視意識がある。私は、これを『日本的オリエンタリズム』とする学問的分析を明らかにしてきた。/一方、韓国が求める『歴史認識』や『慰安婦問題』、『独島問題』は、『韓国的オリエンタリズム』であるうえ、韓国語の表現なのだ。」
 韓国との関係のなかには、確かに、北朝鮮を長い間、評価する一部ジャーナリズムと左翼的知識人たちの言説に影響された「差別と蔑視意識」があったし、独裁政権や軍部やKCIAなどの影の権力構造によって、非民主国家という偏狭な視線で韓国を捉えていたことは、否定できない。だが、著者の鋭利な論断は、「韓国的オリエンタリズム」というものをも浮き彫りにしていくことにある。つまり、わたしたちは、著者が提示する「日本的オリエンタリズム」と「韓国的オリエンタリズム」は、パラレルなものであることに喚起されて、ひとつの通路を見出すことを可能にしているといっていい。
 「日韓の歴史対立には、『歴史観の違い』が大きい。韓国は『歴史の教訓』を強調するが、日本は『歴史の教訓よりも事実としての理解』を強調する。『日本に支配された国民』と『戦争に敗れた国民』の歴史に対する見方は異なるのだ。」
 実は、「教訓」の源は、幻影に満ちたものであることを知るべきであり、「事実」というものは、いつでも都合よく改変されるものだということを認識すべであるというのが、さしあたって、わたしの捉え方だ。だが、列島と半島のパラレルな関係は、断絶させることのできないものだということだけは、確かなことだと強調しておきたい。

風土デザイン研究所刊(16.9.15)

太田尚樹 著『尾崎秀実とゾルゲ事件――近衛文麿の影で暗躍した男
(「図書新聞」16.9.3号)

 ある時期まで、ゾルゲ事件とは、昭和期の戦時下における政治思想的な〈暗部〉として語られてきたといっていい。しかし、わたし(たち)にとって、コミンテルンの諜報活動に翻弄された、日本帝国の一知識人の悲哀を考えてみた時、事件の実相よりも、浮き上がる様々な様相のみが、〈物語〉として意味があるという捉え方になる。なぜなら、戦前から戦後も含めスターリン主義的な共産主義運動は、欺瞞に満ちたものであり、なんの共鳴も感じられないからだ。率直にいえば、そもそも、尾崎秀実ほどの類まれな情況分析家(評論家)が、コミンテルンの皮相な戦略に、自らの理念・理想をなぜ、仮託しようと思ったのかが、わたしにとって理解できないことであった。だが本書は、ゾルゲ事件とその背景となる時代情況を織り交ぜながら、精緻に事件の実相と尾崎の思想的相貌を論及し、わたしが抱いていた疑念を払拭させてくれた刺激的な論考であった。
 尾崎の個人史的な位相に視線を射し入れてみるならば、幼少期に日本統治下の植民地・台湾で過ごしたことが、後に、「革新思想に傾倒していった潜在的な必然性のひとつとみて差し支えあるまい」と著者が述べていることは、了解できる。さらに、いえば、一高卒業後、東京帝大に進学した翌年、関東大震災のさ中、無政府主義者・大杉栄(他に妻の野枝と甥の宗一)らが虐殺された出来事に、「強い衝動」を受け、「社会問題をまともに研究の対象とするに至った」と、逮捕後の「上申書」に記されていることを、本書で引いていることに、注視したい。大杉は、自身が虐殺される六年前(1917年)に生起したロシア革命を、理想社会をかたちづくる方向とは違う場所へ向かっていると、既に予見していた。尾崎が逮捕された1941年当時は大粛清を経てスターリン独裁体制下であったし、遡って朝日新聞社上海支局に転勤して、ゾルゲと知り合うことになった1927年頃は、政敵・トロツキーを追放して共産党内の権力を完全掌握しつつあったことを考えれば、ソ連・コミンテルンによる諜報活動は、そのままスターリンの権力基盤とソ連による世界支配を補強するものでしかなかったことになる。尾崎が思い描く、アジアの民衆を解放して理想社会をつくるといった構想と、コミンテルンの目指すものは、初めからまったく違うベクトルを持っていたことに、事件の悲壮な実相が含まれているといっていい。
 「スパイ活動は通常、自国や自らの帰属する組織に利するのが目的であるが、尾崎の場合は帰属性をもたないソ連と中共の勝利のために、日本の情報を提供していた。彼がスパイ行為にはしったのは、単なる価値観の共有ではなく、自国の国家体制、なかでも軍部主導の体制打倒が根底にある。/そのために尾崎個人としては、コミンテルンが掲げる世界共産主義革命を信じていくしかなかった。だが一方のゾルゲは、世界革命など夢想に過ぎないと、すでに気が付いていた。」
 朝日新聞を退社した尾崎は、請われて第一次近衛内閣(1938〜39年)の嘱託に就いた。そこで、その後、日本軍が満洲侵略をするための理念的基軸となっていった東亜新秩序声明(1938年)に関わっていったといわれている。
 蒋介石政権に対抗しうる政権を作り上げて、「東亜共同体、本当の意味での新秩序」を「纏めていく」べきだという尾崎の発言に触れながら、著者は次のように述べていく。
 「日本と蒋介石を戦わせようとした、尾崎の強硬姿勢がうかがえ、蒋介石軍を叩くことが中国共産党側に有利に働くという、尾崎の本音がみえている。(略)だがその結果は、国共合作によって中国共産党はまず蒋介石を抱き込み、その後日本が敗北すると、今度は蒋介石も台湾に追いやられ、日本と国民党政権を共倒れさせることができたことになる。/これは本音と建前が交錯して一体化した例であるが、尾崎の評価の難しさの一つである。」
 東亜新秩序声明から十ヵ月後の1939年9月にヨーロッパで第二次世界大戦が生起する。「日本の指導者たちは再び惑わされたが、新秩序建設に走った近衛内閣も官僚も陸軍強硬派の思索も、所詮はオポチュニズムでしかない」と断じながら、著者は、「日華事変を拡大させ、さらに運命の日独伊三国同盟から北部仏印進駐、南部仏印進駐まで強行してしまったのは、すべて近衛内閣のときであった。内閣の責任の一端を負う者として、アメリカを深く研究した跡が見られない尾崎も、対米関係を悪化させた責めは免れない」と論及する。
 わたしの考えは、こうである。尾崎が「平和主義・反戦主義」の思想を胚胎したある種のコミュニストであったかもしれないが、幼少期の植民地・台湾での生活のなかで、初源のアイデンティティーが形成されたと見做してみれば、イノセントなアジア主義者だったと捉えてみたいのだ。スターリンは、本来、広大なシベリアがそうであるようにアジア的様態を潜在していたロシア(ソ連)を急速な軍事・経済的な発展によって西欧化(脱アジア化)を目指していったといえる。そこに、尾崎とソ連・コミンテルンとの埋めようもない空隙があったといえるはずだ。アジア主義者・尾崎秀実の理念と理想が霧消していく必然は、ゾルゲとの出会いから既に始まっていったというべきかもしれない。

(吉川弘文館刊・16.3.1)

 送られてきた三冊の詩集に接し、不思議な感慨を抑えることができなかった。もしかしたら、一冊ずつ手にしていたら、湧いてこなかったかもしれない感覚といってもいい。わたし自身は詩(短詩型も含めた詩的表現全般)を紡ぎ出せないまま、ただ、〈読む〉ことに、感受の有様を確認してきただけだから、作者(表現者)の側にたいし、何がしかのことを照射しながら論及する立場ではない。だから、ほとんど、感想めいた言葉しか記すことしかできないかもしれないが、〈読む〉という行為を言葉にしてみようと思う。三冊の詩集のそれぞれの著者に関して、最初に申し添えておきたいのだが、黒崎立体(以下、敬称略)、高塚謙太郎の二氏は、まったくの初見である。藤井晴美は、未知ではないが、いつどこで、作品に接したのかまでは記憶に残っていない。

◎黒崎立体詩集『tempo giusto』
 詩集名の“tempo giusto”とは、本詩集の扉に記されている説明では、「正しい速度で。(一般に、心拍の速さと言われる。)」ということのようだ。また、他の二詩集とは違い、奥付に著者の来歴が配置されてあって、本詩集が第一詩集であることが、了解される。ただし、本人のブログによれば、09から16年までに発表された詩篇から23篇を選んで収録したとある。八年間という時間性を考えた時、わたしは、ある年代においては、加速化して進行していくものとしてあるのではないかと思われるのだが、著者は、敢えてひとつの詩集に、“正しい速度で”、時間性を置いたことになる。この詩集は、章立てをしていないが、章の区切りのような感じで、写真を入れてあり、三章立てのような構成となっている。巻頭の「ねじ」から「がらくた」までと、「Kのデッサン」から最後の「edge away」までの間には、表出される詩語に微妙な差異を、わたしには感じられた。時間列の構成なのかは、類推するしかないとして、著者の思いのなかには、詩のモチーフとして、「ねじ」から「がらくた」までの世界を放出しなければ、「Kのデッサン」以後の世界へと辿ることが出来なかったということが、潜在していたのではないだろうか。
 「おにいちゃん」、「わたし」、「おかあちゃん」、「おとうちゃん」、「おとうと」、「父」、「母」と発せられる詩語がかたちづくる物語のなかに流れていくのは、なぜか「死」だ。

 「おかあちゃんが病気でたおれて/子宮を取ったと聞いた時/わたしはとてもほっとした/もう、なんにもうまれてこない//おかあちゃん、あとはもう死ぬだけだね」(「ねじ」)
 「ぼたん雪が落ちていくのを/部屋の窓からながめていた/集団自殺みたいに/ぼろぼろ、/ぼろぼろ、//」「わたしの意識の鋳型を取った/(むりやりにつながれた星座を死ねますように/((死ねますように/(((死ねますように/ふるえるように」(「雪ちゃん」)
 「まだ、冬というなまえがあった日に。/ガスをひねったら楽に死ねるし死体もきれいだ、そう言って笑うあなたのなみだのことを覚えている。いっしょにしんでくれる? うん、しぬあなたに抱えきれないものとして私が存在していたのだと、気がつけるはずもないほど遠い日の、甘い会話。あなたに広がっていたいちめんの雪をいま、見ている。その中に転がる檸檬ほどの、可愛い死、」(「Yのデザイン」)

 「死」は、自分では体験できないものだ。「死」へと至るかもしれないという時間を予感できても、それは、「死」ではない。「死」は、いつも他者の「死」として、自分の内界に訪れてくるものなのだ。それはある意味、残酷なことだといっていい。「おかあちゃん、あとはもう死ぬだけだね」という視線は、自分より年齢が嵩み、しかも病気をしたのだから、母の方が先に死ぬだろうという悲しい類推をここでは語らせていることになる。しかし、ほんとうは、そんなことは誰にもいえないことなのだ。「ガスをひねったら楽に死ねるし死体もきれいだ、そう言って笑うあなた」に、いずれ「死」が訪れるのは確かなことかもしれない。だが、わたしは、「死」というものは、予感を孕みながらも、突然、訪れてくるものだと思っている。そういう意味でいえば、「檸檬ほどの、可愛い死、」という作者の視線に、わたしが無意識のうちに慰藉されていると気づくことになる。

 「光は、/屈折するからきれいだ/ささやかな場所にたっして揺らぎつづけるひと熱、」(「光について」)

 もしかしたら、「光」は、作者にとって、「檸檬ほどの、可愛い死、」を透過させて辿り着いた「死」の反照として鮮烈な詩語を潜在させようとする強い意志の表れのような気がしてならない。

◎眥邑太郎詩集『sound & dcolor』
 詩篇の最後に“うしろがき”のような短文が付されている。そこには、「言葉がもつ幾重もの意味の層が常に揺れつづけることで色がひろがり、私たちの脳である種のリズムが生まれてくることも確かで、韻律といった場合、単なる音韻上のリズムをさすわけではなさそうです」ということが記されている。

 「名まえをうかべながら/気がつくと海そのものになっていて/ゆたかなさようならのように/波おとをたてながら遠ざかっていった」(「さようならのように」)
 「ゆびのかずや/ねごとのくらさ/ゆれつづけるみみたぶのはやさ/これらいっさいがとおくながい年号となって/わたしをみつめている」(「ゆれつづける」)

 このように、ひらがなを多用した詩篇たちに出合うと、無意識のうちに音(おん)が韻律を醸し出し、そこに物語がかたちづくられていくように感受できる。「さようなら」という別離の言葉が、「豊かな」ではなく、「ゆたかな」と形容されることによって、海の波のように、向こうへ引いていったとしても、また、こちらがわにやってくるというように、「ゆたかなさようなら」には、人と人との往還性を持った関係の有様を胚胎していると見做したくなる。
 「ゆれつづけるみみたぶのはやさ」からは、なにを感じとることができるだろうか。時の流れが、時間という数的なものを昇華して、「とおくながい年号」として永遠に刻み続けるということを表象しているといっていい。

 「母語のようにしずかな朝/舟に歯をたてておとがちらばる/水をひたしはじめる海うみ/おはよう」「舟は/もうじき地平へ落ちる」「ひとつひとつが舟の照りかげりだとしたら/海はやさしい」(「さすらいおもいで」)

 わたしは、「母語のようにしずかな朝」ではじまる、この詩篇に、一番感応したといえる。最終の三行は、こうだ。

 「やさしい海のおと/ゆれているのはひだひだのわたし/うごいているのはひとつひとつのおまえ」

 あたかも、二篇の詩篇が往還するかのように紡ぎだされたのが、「さすらいおもいで」という詩篇だといっていいはずだ。こうして、恣意的かもしれないが、わたしが眥佑了軆犬鯑匹鵑生紊隆響曚箸いΔ海箸砲覆襪、もう少し、付言したいことがある。たまたま、詩集三冊が届いた後、一年に一冊手に取るかどうかという間隔で読む『現代詩手帖』を今回(八月号)、購入した。遥か年少の友人(ノミトモダチ、カラオケトモダチ)の小林坩堝の連載詩が始まったからだ。特集名が不思議だ。「2010年代の詩人たち」とは。編集長の藤井一乃は、「『2010年代の詩人』は存在しない。第一詩集を刊行したり、賞を受賞したりして『2010年代に登場した詩人』たちがいるだけである。それでも、いまこの詩人たちがどのように現在を見ているのか知りたい気持ちはつねにある」と記しているから、どうにか、その企図するところはわからないではない。だが、ここでは、「第一詩集を刊行したり、賞を受賞」することを前提にしていることが、気にかかるということだけはいっておきたい。
 眥邑太郎が特集の詩人として三篇の詩篇を寄せている。詩集の方で詩篇に触れたわけだから、ここでは、「2010年代の詩人たち」へのアンケートが収載されているので、眥佑留答を引いてみたいと思う。「現在、関心があること」にたいして、「憲法九条」と答えている。「詩を選んだきっかけ」や「いま、これからの詩をどう考えるか」という問いにたいして、それぞれ「今思えば、言葉で遊ぶのに手頃だったので詩を書いてきたのだと思います。/もちろん詩は思想そのものです」、「詩というものがあるとするなら、音やリズムに技術は収斂されていくかもしれません。/もちろん詩は思想そのものです」と答えていた。
 「憲法九条」とか、「詩は思想」(実際、『詩と思想』という詩誌があるが)だといった言葉を見ると、わたしの性(さが)のような、悪癖のような反応が立ちあがって、取り留めもない言葉が露出しそうなので、別の応答をしてみたいと思う。本詩集を読み、『現代詩手帖』八月号に収載された詩篇を読んでも、作者の言葉として、「憲法九条」とか、「詩は思想」といった言葉は、唐突感のように思えたといっていい。作者の“矜持”と、作品性はイコールのように表れるわけではないから、わたしが、唐突感に思えたのは、たんに感受性の問題かもしれない。わたしが、眥佑了輅咾髻読んだ先に、「憲法九条」とか、「詩は思想」という問題があるとすれば、“具体的に”、眥佑呂匹考えているのかを、ぜひ知りたいと思う。

◎藤井晴美詩集『グロッキー』
 短詩のようなものから物語詩まで、多彩なヴァリエーションの詩篇によって構成された、この詩集は、苛烈な物語性で貫かれている。そして、読むものを圧倒させる力があるといえばいいだろうか。いや、むしろ知らず知らずのうちに読むものを〈迷宮〉へと誘っていくような作者の〈声〉が聞こえてくるといった方がいいかもしれない。

 「君を絞め殺したくなる夜がまた来る/大きなまつ毛をつけて/一万円札のような/マントでできた/濁った空間に/ぼくは鼻血を流したいんだ」「君は絞め殺しても笑っている」(「ぼくの切実な君」)

 詩語の苛烈さにもかかわらず、陰惨な感じを受けないのは、語りのようなリズムが清冽さを醸し出しているからだといいたくなる。あるいは、作者の発語の場所から、清冽さが染みだしているように感じられるからなのかもしれない。前出の『現代詩手帖』誌で、小林坩堝が、藤井晴美詩集『夜への予告』(七月堂・15年10月刊)にたいして、「現代詩の深みに嵌りたい方に。鮮やかに錯乱したイメージの連続にたちまち中毒するはず」(「百年/百冊 これから詩に出会う人のために」)と述べていた。なるほど、本詩集においても、「鮮やかに錯乱したイメージの連続」は、健在だといえる。
 「二十歳の練習問題」と題された長編詩(物語詩といった方がいいかもしれない)は、その白眉だ。ほんとうは、作者の履歴や作品歴を意識外において作品に向き合うべきだろうが、第一詩集『おおぼく、クリスティーヌよ』に纏わる物語であるため、どうにか、作品歴(正確かどうかは分からない)を検索して、それが、私家版として1975年12月に刊行されていることがわかった。
 この詩篇は、詩書出版社と第一詩集の刊行をめぐる遣り取りとその顛末が、作品のひとつの流れとしてある。この国の詩壇というものがあるとしたら、ここでモチーフ(モデル)となっている詩書出版社と社主の有様がいまとなっては、どうしようもないものを作り上げているのだなと類推できるように表出されている。作品では、出版社名は初潮社(あまりに嵌り過ぎている)であり、社主の名は大田急郎である。誰が見てもどこの出版社か、社主かは明白だ。わたし個人のことを語るのは、詩集の感想を述べる場にはふさわしくはないかもしれないが、敢えていってみる。わたしは、この社主のモデルたる人物に、かつて二度ほど宴席で会っている。わたしが、敬愛する詩人のことを話題にした時、彼から、その詩人を貶めるようなエピソードが発せられたのだ(本人には悪意はなく、冗談めいた会話を発したに過ぎないかもしれないが)。品位などというものを、わたしは問題にしたいわけではないが、詩壇なるものは、幻のような亡霊以外なにものでもないということを、あらためて認識したことになる。

 「『ウチの名前を冠するより、こういうものはご自分で出されたほうが、自身の手づくりでやられたほうが処女詩集としてやはり迫力が違う。みなさんそうですよ』と言って大田は体よく断った。」
 「『有力な詩人の推薦でもあれば話は別ですが、そういうものがない以上、ウチも出版社ですからね、そこはわかっていただかないと』と小声でそっと耳打ちされたような気がするが、あの生臭い呼気が、もうはっきりしなかった。」

 厚顔な社主が、“メス井猿美”の“処女詩集”の発行を断ったことにたいして、「私は勝ったのだ。」と宣して、詩篇は閉じられていく。
 もちろん、ここで語られる物語詩が、フィクションか否かということは、些末な問題だが、次のようなことが喚起されていくといえる。詩人は、詩集を出すことで詩人として認知されるのだろうか。小説家は、人知れず小説を書き続けるだけでは、小説家とはいえないのだろうか。音楽家は、カラオケ店で歌を唄うだけでは、音楽家(歌手)とはいえないのだろうか。わたしは、藤井晴美の詩からイメージを勝手に増幅させて、そんなことを想いながら、迷路のような場所を彷徨うことになる。
 しかし、藤井晴美にあっては、そんなことはどうでもいいことだと思う。初潮社(思潮社)や大田急郎(小田久郎)にたいして、恨み辛みを吐きだしたいのではない。ただただ、幻のような亡霊を解体したいだけなのだと思う。

 「畳君!/黄色くなったぼくの二十年前のおちょぼ口の記憶よ、さばさばした世間話があった。河原の土手に。商店街の広告とどぎついしみったれた開店祝いの造花の花々、宝船。贋の町。」「ビー玉の暖簾は不動で不服、じゃらじゃらと濁った眼を陽に向けてへらへらしているグロッキーな光景、砂ぼこりの。下駄の音が響く。」「口よ、盲目の口よ、ああぼくの稲妻。縦と横にエレベーターの鎖が切れる大脳皮質のぼくの正義は死刑だ!」(「蠅」)

 他者への刃は、そのまま、自分自身にも突きつけられていく刃であることを、藤井は熟知している。だから、「二十歳の練習問題」という詩篇を表出できるのだ。二十年前だろうが、四十年前だろうが、「グロッキーな光景」を見据える視線があれば、その時のことが、絶えず、「現在」という場所へと還流してくるからだ。


………………………………………………………………………………………………………………
黒崎立体詩集『tempo giusto』(七月堂刊・16.7.9・四六判・88P・定価[本体1200円+税])
眥邑太郎詩集『sound & dcolor』(七月堂刊・16.7.15・A5変型判・102P・定価[本体1200円+税])
藤井晴美詩集『グロッキー』(七月堂刊・16.7.20・四六判・56P・定価[本体800円+税])


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