上 幸雄 著『奴隷貿易の旅』
(「図書新聞」19.12.7号)

 「奴隷貿易」とは、著者のオリジナルな視線ではないが衝撃的な捉え方だといっていい。書名は「旅」とあるが、歴史的な淵源を探る紀行(調査研究といいかえるべきかもしれない)といった意味合いがその言葉には当然、含まれていく。
 「「奴隷貿易」ビジネスは、他所の土地で、勝手に人を拘束・鹵獲(ろかく)・保有し、他人に売り飛ばし、利益を得ることだが、最終的には、とうとう、他人が持つモノ、ヒト、土地(地下資源を含む)のすべてを領有する権利や実態へと発展したのであった。(略)人を本人の意思に反して拘束し、他人に売り飛ばすことへの批判を展開した人権主義やヒューマニズムの精神や行為は、奴隷貿易の持つ非人間性に対して添えもの程度にしか存在しなかっただろう。」(「はじめに」)
 著者は、ポルトガル第二の都市、ポルトを訪れ、エンリケ王子に関わる歴史的建造物や文化施設をめぐる。エンリケ王子とは何者か。一三九四年、ジョアン一世の第三王子として生まれる。時は、「キリスト教の勢力がイスラム教の勢力を押し返す勢いの真っ只中」だった頃だ。「自国領内からいち早くイスラム勢力の国外追放に成功したのが」、ポルトガルであり、「その余勢を駆って(略)イスラム勢力の橋頭堡であるセウタへの攻撃に出」て、その「先陣に立ったのが」、エンリケ王子だ。王子は、「それまで地中海沿岸地域のごく一部に留まっていたアフリカ大陸に関する知識を(略)習得し(略)、アフリカ大陸を大西洋に沿って南下する発想を得たことであった。それは、まさに大航海時代の到来を予告するもの」(「第二話 エンリケ王子の登場」)だった。
 イタリア人、コロンブスは、スペインのイザベル女王の支援を得て、アジア(インド)へ向かう航路として「大西洋を西に行った方が早道」であると考え、新大陸(アメリカ大陸)に到達したことになる。著者は、エンリケ王子の航海から、「コロンブスはすでに奴隷貿易という発想を持っていた」(「第六話 コロンブス」)と断言する。
 イギリスのリヴァプールに「国際奴隷制ミュージアム」があるという。そこを訪ねた後、著者は次のような思いを述べている。
 「博物館の展示について、日本の場合を考えてみる。太平洋戦争で「中国大陸・朝鮮半島に侵略していった過程」、「シンガポールに侵攻し、たくさんの市民を殺した過程」、「ハワイのパールハーバーを急襲した過程」、「南太平洋の島々を占領していった過程」など、日本軍による周辺諸国に対する侵略過程やその背景を子供でも分かる展示や解説をしている博物館や歴史資料館があるだろうか。」(「第十一話 エリザベス一世の時代」)
 確かに、そういうものはない。さらにもう少しつけ加えていうならば、朝鮮人連行や徴用工の問題は、大日本帝国の統治下にあった朝鮮人に対する奴隷労働以外のなにものでもないといい切ることができる。
 さて、わたしたちは、コロンブスのアメリカ大陸発見という歴史的な事象をそのまま画期的なこととして受容してきたが、そのことによってどういうことが生起したかを考えてみれば、画期的などと称揚できることではない。それは先住民(インディオ他)に対する収奪、虐殺、その後、労働力としての奴隷をアフリカから強制連行して、「アフリカ人奴隷は、アメリカという巨大消費地を得て、需要が大きく伸びると、それまでの衝動的・断片的商品から、計画的に大量に獲得して、需要を満たす商品へと大きく変貌を遂げ」(「第十七話 奴隷貿易のはじまり」)ていったのだ。
 その結果、「急速に奴隷市場が拡大していくなかで、みるみる巨大な化け物へと変身していった。(略)奴隷貿易で獲得した奴隷により、アメリカ大陸では「奴隷制」が生まれ、その奴隷制が拡大するにつれ、奴隷の需要が増し、それがまた、奴隷貿易を盛んにしていった」(「同前」)わけだが、やがて、「奴隷性」は、「黒人差別」として変容し、普遍化されていくことになる。アメリカンデモクラシーは、虚妄に過ぎないことの時間性が、それらに包含されてきたのはいうまでもない。
 著者が本書で試みていることは、明快だ。「ヨーロッパ」―「アフリカ」―「アメリカ」という大西洋三角(奴隷)貿易を俯瞰していくことだ。本書では、ポルトガル、スペイン、イングランドの西欧の王国が奴隷貿易によるアフリカへと至る一辺の道筋を描出していった。しかし、二辺目、三辺目へと辿り完結していかなければ、「アフリカ人自身が味わった旅からすれば、一瞬のまばたき程度にもあたらない」(「終幕」)し、「奴隷貿易の旅」は終わらないと、著者は述べているが、わたしは、最初の一辺が重要であり、後は、わたしたち一人ひとりが受け継いで、「アフリカ的世界」の暗渠を見通していくべきだと思う。もちろん、現在の「アフリカ」は、「内戦」が至るところで生起しているが、これは、「奴隷貿易」の消えることのできない残照であると考えていいからだ。

(歴史の旅クラブ刊・19.9.9)

浜田明範 編『国立民族学博物館論集❻ 
再分配のエスノグラフィ 経済・統治・社会的なもの

(「図書新聞」19.10.5号)

 わたし(たち)は、ともすれば、再分配といえば一見、経済政策的な用語と見なしたくなるが、経済人類学者カール・ポランニー(一八八六〜一九六四年)が提示した互酬(贈与)、再分配、交換(市場)のなかのひとつの概念である。本書は人類学の立場から、「贈与や交換、貨幣といった花形のトピックの陰に隠れがちであった再分配について(略)正面から議論したものである」と編者は「あとがき」で述べている。人類学という視点からのフィールドワークとして、「フィンランドの高齢者向け通報システム」の問題や「沖縄・離島社会を事例に」して、「介護保険法とコミュニティ」の問題、そしてインド、メラネシア、ガーナ北部、ミクロネシア・ポーンペイ島、ガーナ南部における再分配の様相を切開していく民族誌(エスノグラフィ)としての諸論稿を収載したものだ。
 わたし(たち)の世代は、ポランニー、経済人類学といえば、直ぐに栗本慎一郎を想起する。ただ、本書でのポランニーは、批判的継承という位置付けにあることを思えば、歳月の流れの早さを感受せざるをえない。
 編者の浜田明範は、「再分配とは集めて配ることである」とする「ミニマルな定義」によってアプローチしながら、「多様な現象を視野に入れながら、改めて再分配と集団の関係について人類学的に議論することは「社会的なもの」に関する研究にも貢献することになりうる。「社会的なもの」の形すら想像しづらくなっている現代日本において、世界各地からの事例を通じて具体的なイメージを提供したうえで、それを通して思考を紡いでいく人類学のできることは決して少なくない」(「序論 再分配を通じた集団の生成」)と述べていく。
 本書を構成している第1章から第7章までの論稿のすべてに言及したいが、ふたつの論稿から強く関心を惹かれた箇所を引いてみたい。
 インドの初代首相ネルー(一八八九〜一九六四年)が五〇年代に、「建設中の巨大コンクリートダムについて」発言したことをめぐって田口陽子は次のように論及していく。
 「ネルーは「今日、最も偉大な寺院、モスク、グルドワーラー[シク寺院]は、人間が人類全体の利益のため働く(略)場所である。このバークラー・ナーンガル[ダム]よりすばらしい場所がありうるだろうか」と述べた(略)。この発言は、ネルーの世俗主義の象徴として言及されることが多い。」「ダムが寺院とのアナロジーでつなげられることにより、近代の神格化(ダムの寺院化)も生じている(略)。」「インドの近代化の過程では、従来の枠組みと近代的な枠組みがアナロジカルに結びつけられることにより相互に変容していった。そのなかで、生モラル的再分配と国家的再分配も、相互に参照されながら変化している。」(「第3章 再分配のアナロジー」)
 ダムと寺院がアナロジカルに繋がっていくことによって「近代の神格化」が進行していくという視線は刺激的だ。これは、いうところの後進国(地域)だけに顕著にみられることではなく、先進国(地域)にもいえることだと思う。神格化ということに抵抗があるならば、象徴化といいかえてもいい。被爆国にもかかわらず、刻々と原子力の平和利用という象徴化によって多くの原発がつくられていったこの国の醜態を想起すればいい。
 「ミクロネシアのポーンペイ島における共同体規模の再分配」の事例に着目して河野正治は述べていく。
 「ポーンペイの「村の祭宴」における再分配は、明確な中心と確たる境界を持つ単一の共同体を再生産するのではない。むしろ、誰から何を集め、誰に何を配り直すのかという再分配の行為は、村という共同体をめぐる境界づけや意味づけを多様に出現させるのである。」「再分配を通してポーンペイの村を研究するのではなく、ポーンペイの村において再分配の効果を研究する試みであった。こうした研究の強みは、共同体のような人びとのまとまりが閉じられているように見えて異質なものに開かれているとか、非一貫的で重層的に構成されているという指摘にとどまらず、そうした現実がいかに構成されるのかを多様で入り組んだ具体的な過程として跡づける点にある。」(「第6章 再分配を通じた村人のつながりと差異化」)
 わたしの関心は、再分配というよりは、そのような行為、行動をする共同体内の様相とは何かということにある。いわば、共同体というミクロなものは、社会や国家といったマクロなものへ透徹させていくなにかを内在させているといえるからだ。
 「再分配の行為は、村という共同体をめぐる境界づけや意味づけを多様に出現させる」、「共同体のような人びとのまとまりが閉じられているように見えて異質なものに開かれている」といったことを起点として、広義の共同性から「社会的なもの」へと至る通路を見通せるエスノグラフィに期待したいというのが、さしあたっていま思うことである。と同時に、人類学や民族学、民俗学がいまだ、アクチュアルに現在を見通すことのできる方法だと、いいたい気がする。

(悠書館刊・19.4.22)

松本圭一郎、中川理、石井美保 編『文化人類学の思考法』
(「図書新聞」19.8.17号)

 文化人類学もそうだが、民俗学、あるいは民族学といった思考方法は、マルクス主義に象徴化される唯物史観や記紀神話を根拠に語られる王権の物語を相対化させる手立てとして、かつて、わたしは多くのことを感受してきた。近年、多様化する思考のなかで、幾らか、遠のいていた文化人類学というものを、本書によってあらたな可能性の方位へと導かれることになったといっていい。
 編者三人による「序論 世界を考える道具をつくろう」は刺激的なことが述べられていく。
 「私たちは、いろんなものを区切り、名づけ、その枠のなかで生活を営んでいる。でもじつは、それぞれの枠を区切る境界はそれほど強固なものではなく、いつのまにか変更されていたり、消滅していたりする。現実と現実ではないものとの区別さえ、じつは不確かなものでしかない(略)。」
 境界や区別は、強固なものではなく、不確かなものだという編者たちの言及は、示唆的だ。ともすれば、差異化、差別化して、排除していくことを真っ当なことだと思考する現在の情況(トランプ主義をはじめ、多くのことが想起される)を考えてみれば、きわめて危ういことだといってみたくなる。そして編者たちは、「人が生まれ育ち、年老いて死んでゆくという、一見すると自然で普遍的にみえる営みにも、多様な可能性があることに気づく。それは(略)、ある制度や秩序のもとでの生を相対化し、別のありうる姿を見いだすことにほかならない。そこに、人類がずっと昔から他者や動物などと関係を築きながら、そのつど生み出してきた古くて新しい共同性の手がかりがある」と論述していく。
 この、「古くて新しい共同性の手がかり」を求めていくことこそが、本書を現在における文化人類学として屹立させていく方途だといってもいい。
 そうなのだ。わたしが、レヴィ=ストロースの『親族の基本構造』や、モースの『贈与論』に喚起されながら、共同性、つまり共同体の始原性に関心を惹かれていったことを考えてみれば、「古くて新しい共同性の手がかり」となるのは、当然のことだといえる。
 そして本書では、ミシェル・フーコーの権力論が引かれ、アナキズムを射程に入れて独特の思考を展開していくデヴィッド・グレーバーを何人かの論者が取り上げていく。本書は全三部構成で、「世界のとらえ方」、「価値と秩序が生まれるとき」が、第吃堯第局瑤肪屬れ、最終、第敬瑤、「あらたな共同性へ」だ。
 「文化人類学にとって贈与がいまだに重要なのは、それが経済や政治、宗教といった別個のものと考えられている領域それぞれに深くかかわっているからだ。それをゆさぶろうとする力のあらわれでもある。」(松村圭一郎「贈り物と負債」)、「ケアの論理とコミュニズムの論理は通底しており、ケアについて考えることは、人間社会が社会的動物であるという、その社会性と共同性の根源を考えることにつながるものだということにほかならない。」(松嶋健「ケアと共同性」)
 わたしは、ケアという論理、もう少し平明に述べてみれば、ケアという行為は、無償の行為といいかえてもいいのではないかと思う。
 それは、つまり、〈贈与〉ということに近似していくはずだ。もちろん、対価なくしては、ケアを特化して従事することは、困難であり持続不可能なことはわかっている。
 しかし、その心性において、〈贈与〉ということを引き寄せない限りはありえないと思う。松嶋が、「人間社会が社会的動物であるという、その社会性と共同性の根源を考えることにつながるものだ」と述べているのは、〈贈与〉を「経済や政治、宗教といった別個のもの」と見做さざるをえないということに連関していくといっていい。松嶋はさらに、次のように述べて結語していく。
 「ケアについて考えることは、弱き存在である人類が、不確実性に満ちた世界のなかで生き延びる道をどのようにして育んできたのかを考えることである。それは人類史のなかで現在をとらえ、私たち自身の今ここでの思考と実践を変えることで、異なる明日と異なる共同性を開く道でもある。」
 こうして、人類学が、そして、わたしたちが、「あらたな共同性」へと思考していくことを、考えていくべきである。

(世界思想社刊・19.4.30)
 

山口拓夢 著『短歌で読むユング』
(「図書新聞」19.7.13号)

 わたしは、フロイト(一八五六〜一九三九)には近接しながら離れることはなかったが、ユング(一八七五〜一九六一)に対してはどうしても距離感を拭うことができないでいた。契機は、河合隼雄の著作だった。河合隼雄の仕事を通してユングは、わたしにとって、ようやく近接した存在になったといえる。しかし、本書の表題には、心理学とは遠く離れた表現に思われる「短歌で読む」ということを冠している。著者は歌人なのだろうかと思い、略歴をみれば、札幌大学女子短期大学部教授で、西洋哲学、神話学専攻とある。前著は、『短歌で読む哲学史』(田畑書店)。帯文には、「哲学歌人」(斎藤哲也)と記されている。本書に分け入ってみれば、短歌は、小見出しのように挿入されているのが分かる。
 「人類の集合的な無意識が呼びかけてくる夢や神話で」(『変容の象徴』)、「心とは自分を癒す手掛かりを探し求めてはたらいている」(『分析心理学』)、「元型と向き合う人は無意識を自我に取り入れ深化へ向かう」(『元型論』)、「道教の教えが届き赤の書の対話を止めて現実に戻る」(『赤の書』)、「永遠の潜在的な現実が共時性には働いている」(『自然現象と心の構造』)
 本書のなかには多くの短歌が配置されている。難解なユング理論を、短歌によって、少なくともイメージとして感受できるかもしれないと思わせてくれる。ユングの思考の核心は「無意識」ということになるが、さらに拡張して「集合的無意識」へと至る。「集合的な無意識が呼びかけてくる」といったことや、「無意識を自我に取り入れ深化へ向かう」ということが、ロジカルな論述ではなく、「歌」の言葉で紡ぎ出されていくと、なにか理解の通路に立っている気がする。
 もちろん、「いつもユングの書を友としていた」(「あとがき」)という著者だからこそ、深い理解の中で、「歌」の言葉を紡ぎ出せるのだといっていい。
 「フロイトとユングは五年間の親しい交際ののち、(略)ユングはフロイトの性理論に疑いを持ち、フロイトはユングが宗教にモデルを求めて無意識を解釈しすぎるのを警戒した。」(「第一章 入門的な著作」)
確かに、わたしが、どうしてもユングに共感の通路を見出せないでいたのは、牧師の家に生まれ、信仰心のようなものが底流にあったと捉えていたからだ。
 「ユングは人格の中心を意識と無意識を統合した、自己というものにおくべきだ、と結論づけます。(略)達成された自己のイメージを言い表そうとすると、神のイメージのような宗教的形象へと近づいていきます。」(「同前」)
 「ユングの父にとって牧師の仕事は不向き」だったようで、「信仰に興味を持って父を質問攻めにし」ても、「通り一遍の教義を説明するだけ」だったという。ユングが真摯に宗教を起点とする方位へ向かっていったのは、父との逆立した関係性が大きかったことが理解できる。
 「ユングが見てきた多くの患者は、心に向きあうために、悪魔か深くて青い海のどちらかを選ぶかを迫られています。(略)宗教経験のある人は、生命、意味、美の源泉を自分に与え、世の中と人類に新しい輝きを与えてくれる大きな宝を内に秘めています。このような信仰が幻想だと誰が言えるのでしょうか。心理学は、無意識が生み出す象徴を注意深く考慮に入れるのです。神経症はあまりに現実的なものなので、助けになる経験も同じぐらい現実的でなければいけません。」(「第四章 批評と宗教観」)
 この一節の始めに付された短歌は、「内的な神体験とシンボルは救いになれば神の賜物」である。確かに救いを求め、苦しみから解放されたいと希求する人の前で、「信仰が幻想だ」ということの意味はない。悪魔ではなく、「深くて青い海」があるなら、わたしも素直に見たいと思う。
 「自己というのは、言い換えれば、ユング心理学の中心的な課題、個性化の過程という人格の深まりの実現の歩みの到達点を表す最も重要なキーワードです。」「心理学的に見るならば、自己とは意識と無意識との統合です。それは、心の全体性を表します。(略)現代では意識と無意識に亀裂が生じ、人は世界観の喪失の危機に瀕しています。このような亀裂を橋渡しするために、意識と無意識の統合による心の全体性の回復、言い換えれば個性化の歩みが必要とされています。心の深化の最終段階において、人は自己という人格の全体性の回復の元型と出会い、無意識と意識の結合の過程へと降りていくのです。」(「第六章 共時性と自己」)
 そして、著者は、「ユングの心理学」を、「道に迷った現代人の心の案内役として、人生の旅に寄り添っているように」思うと結んで、本書を閉じていく。
 わたしは、著者による深いユング理解に誘われるようにして、ユングをめぐる「旅」に出たいと思っている。

(田畑書店刊・19.4.25)

窪島誠一郎 著『ぜんぶ、嘘』
(「図書新聞」19.6.29号)

 窪島誠一郎は、長野県上田市にある信濃デッサン館(一九七九年設立、二〇一八年休館)と無言館(九七年設立・開館)の館長として知られている。わたし自身は三度ほど訪れたことがある。しかし、信濃デッサン館が昨年の三月に休館したことは、うかつにも知らなかった。
 窪島は、八一年、四十歳の時に、著書としては初めての『父への手紙』(筑摩書房)刊行以後、精力的な執筆活動を続け、数多くの著作を出してきているが、詩集としては、『くちづける』(一六年)に次ぐ二冊目となる。
 昨夏、「命にかかわる病で手術入院し」た。「退院したらこの詩集を出してもらえる、というのが大きな生きる目標になった」と、「後記」に記している。信濃デッサン館の休館も、そのことが影響していたのかもしれない。
 「砂時計の砂が落ちるように/ふいにだれかが、水槽の古びた栓をぬくと/『今』が、すうっと消える/手のとどかないところに すうっと消える//この風景だけは/いつまでも 変わらない/わたしが死んでも/何も変わらない」(「何も変わらない――塩田盆地を望む――」)
 塩田盆地(塩田平)の風景、つまり、信濃デッサン館がある場所から俯瞰できる風景は、確かに素晴らしい。初めて訪れた時、もちろん無言館はまだなく、小さな美術館というイメージだった。だから、変わらないであり続ける風景と、「水槽の古びた栓をぬくと/『今』が、すうっと消える」という非対称な感覚に深い哀しみが滲んでくるかのようだ。
 「死の匂いは/わたしの『希望』の匂い」(「死の匂い」)、「『生きること』から/のがれたいのは/けっして『死にたい』ことではない」(「安楽死」)
 死は、予期している限りは死ではない。生きていることから離反して死を想起することもありえないと、わたしなら考える。「死」と「希望」の連関には、反転した鏡のように自身の心的な面を投影している。それは、「生きること」と「死にたい」ことも表裏の有様を持っていることを意味している。夭折した画家たちの作品の展示を想起した詩人にとっては、「死」と「生」は、常に表裏の感覚のなかに包まれてきたことになるはずだからだ。
 「母の足音がかなしい/駆け出した私を/遠くから追ってくる母の足音がかなしい//『母』という言葉がかなしい/『母』という文字がかなしい」(「かなしい母」)
 詩人には、二人の母がいた。母というものは、本当は一人しかいないはずなのに。ずうっと一人だけの母を母と思ってきた詩人にとって、母とはなにものであったのか。母は、詩人にとって「かなしい」有様であったことになるのだろうか。いや、母をそのように想う自分自身が、「かなしい」有様なのだと告白しているように、わたしには思われる。
 「その街が/記憶から消えたのはいつだろう/ふっと私の故郷が/地図から消えてしまった」(「街」)
 自分自身の出生を記す謄本には、生地が記されている。それは、嘘の記述であってはならないものであるはずだ。だが、生地(故郷)は、生まれた場所でも故郷でもなかった。
 「いたずらに目覚めを急かせる/まぶしい朝陽が苦手/言葉すくなく/身悶えするように沈む/夕陽のほうに惹かれると言ったのも/ぜんぶ嘘、といったら/わたしはやはり磔の刑でしょうか//ぜんぶ嘘、といったら/わたしを許してくれますか」(「ぜんぶ、嘘」)
 「嘘」という言葉に、詩人が込めているものはなにか。本当のことがあって、「嘘」があるのだろうか。そうではないと思う。詩人にとって、「嘘」は、いいようのない「声」であり、必死の思いで発する言葉にならない「声」のような気がする。
 『父への手紙』のなかに次のような一節がある。
 「私は『つくりごと』の嘘をかさね、またその嘘の訂正のために嘘をかさねた。懸命にこしらえあげた自己訂正が、もう一つの新しい嘘をうんでゆくのはつらかった。(略)おまえの出生地はどこかと人から問われても、私にはこたえられない。しばらく考えたすえ、父母から教えられた通り、(略)こたえる。ここから、すでに私の嘘ははじまっているのだった。嘘というより、自分自身でも確信のもてないアヤフヤなうけこたえがはじまっていた。」
 窪島誠一郎にとって、「嘘」は、「本当のこと」の反語ではない。「嘘」には、自分自身の有様のすべてが詰まっているのだ。「嘘」がなければ、存在自体もあり得なかったということになるからだ。そうであるならば、やはり、「嘘」は、必死の思いで発する言葉にならない「声」なのだということになる。

(七月堂刊・19.3.11)

大野光明 小杉亮子 松井隆志・編『社会運動史研究 1 運動史とは何か』
(「図書新聞」19.4.27号)

 「なぜ私たちは『社会運動史研究』を始めるのか」と題して、本書の巻頭に、大野光明、小杉亮子、松井隆志の三人が発起人として書いている。
 「過去をないがしろにすることは、未来を枯れさせることだ。(略)メディアの目的は、社会運動史についてのこれまでの知見の共有、さらに現在進行形の調査・研究の成果の公開とそれによる運動史のいっそうの蓄積である。単に、社会運動の過去を恣意的に修正しようとする言説に抗するだけでなく、社会運動史をめぐって研究者がネットワークをつくり討論を重ねる場となるような、プラットフォームづくりをめざす。私たちは埋もれた種を掘りかえし、この社会に改めて蒔き直すことを試みたい。」
 社会とは何か、運動とは何かといったことを、ここでは直截に問うことはしない。発起人、あるいは編者の三人が向かっていく先は、どこかということだけが、わたしには切実なこととして見えてくる。過去と未来は切り離せないものだ。そのことだけは確認しておきたいこととしてある。76年生まれ、79年生まれ、82年生まれという三人の年齢の幅が、時代情況とどう対応していくことになるのかということには、わたしの関心はない。ただただ三人の立ち位置だけは確かなことだということは理解できるつもりだ。
 松井隆志は、小熊英二の『1968』を俎上にのせていく。
 「『「あの時代」の叛乱』が、一枚岩の動機(すなわち単層の主体)で成り立っていたかのように考えること自体、現実社会の複雑さを無視している。そもそも『言葉』だけで社会運動は成立しない。多様な動機・問題意識、あるいは人間関係や偶然の契機で区切られた諸集団が、複数積み重なることで生じた現象として『1968』を見ること。小熊の同書からは、こうした歴史像は浮かび上がってこない。いわば、小熊には『運動形態』への感度が見られない。」(「私の運動史研究宣言」)
 「小熊には『運動形態』への感度が見られない」と断じる松井の視線を、わたしなら率直に評したい。〈研究〉という角度になにがあるべきなのかということを、わたしは考えたことがない。だから、〈研究〉とは、〈何か〉と問い続けていく〈感度〉であるといいかえてもいいかもしれない。
 昨年、力論『東大闘争の語り』を著した小杉亮子は述べる。
 「生活史の聞き取りは、語りが雑多かつ大量の情報を含んでいるために、また、参加者の動機や問題意識、内的論理を生々しく伝えてくれるために、そして、自分の憶測や予断を超える過去を持った『自分以外のひと』と『わたし』がこの社会のなかでともに生きているということを認識せざるをえない方法論であるために、固定的な史観の相対化を研究者に迫る。」(「『史観』の困難と生活史の可能性」)
 運動や闘争が先鋭化していくのは、イデオロギーや思想の深化があるからではない。「参加者の動機や問題意識、内的論理を生々しく伝えてくれる」断面が、色濃く潜在し続けているから、それはリアルなものとして在り続けていくのだ。だからこそ小杉が他者と関わって生ずるものが、ひとつの共同性をかたちづくっていくことを意味していくのだ。
 大野光明は、「社会運動史をつくるということは、国家と国民を中心としてきた歴史をとらえ返す実践である。社会運動史を学んでみれば現在の国家を前提とした世界イメージが『自然』なものでも、『あたりまえ』のものでもなく、可変的なものだということに気づく」と述べながら、次のように論及していく。
 「社会運動史とは生きられた時間と空間を重視することが大切だと考えている。生きられた時間とは、過去から未来へと向かう直線的な時間ではなく、人びとの経験のなかで過去が現在につながり、独自の文脈で受容・加工されていくプロセスとしての時間である。(略)社会運動史をとらえ描くことは、生きられた時間と空間を考察すること抜きには成立しないだろう。」(「運動のダイナミズムをとらえる歴史実践」)
 「生きられた時間と空間を考察すること」という当たり前の当為を汲み入れることの困難さは、あるはずだが、大野をはじめとする三人の視点は、行為の共同性のなかにあるといっていい。だから、あらたな旅立ちとなった『社会運動史研究』が、研究誌や学際的な色あいを持つ場にならず、生きた場所のなかで通交する表現体であることを願っている。
 本誌は、他に阿部小涼、安岡健一を招いて、編集委員との座談会「社会運動史をともにつくるために」、伊藤晃の「『運動史研究会』について」、谷合佳代子インタビュー「社会運動アーカイブズの現在」、山本崇記による『東大闘争の語り』の書評などを掲載。次号は、一二月刊行予定で、「特集 1968-69」。

(新曜社刊・19.2.15)

木村三浩 著『対米自立』
(「図書新聞」19.3.16号)

 著者は、新右翼とも民族派とも称される愛国団体・一水会代表である。鈴木邦男から代表を引き継いで十九年になる。わたしは、鈴木の著書はかつて何冊か読んだことがあり、彼の新右翼的な立場は、茫洋としながらも理解できないわけではなかった。本書の著者の立場は、例えば、テレビ番組の『朝生』に出演していたようだが、ここ何十年も、『朝生』を観ていないから、本書で初めて知ったことになる。率直にいえば、鈴木の所見には、何が右翼か、民族派か不分明な様態が多々あったが、著者の場合、対米自立という本書のモチーフにおいては、まったく同感であるとともに、わたしにとって未知なことも教えられた部分が多々あった。しかし、やはり、「生涯一ナショナリスト」という、その基底において、残念ながら(というしかない)、相容れないところもあったのは確かだった。だからといって著者に対して、抜き差しならない異和感を抱いたかといえば、そうではない。
 「日本の歴史の中で、一部を除くと、天皇陛下は『権力』ではなく『権威』の存在であったと考えられます。権力とはいわば世俗です。世俗の政治を超越したところの、歴史的な祭事を司る存在が天皇陛下だと私は思っています。」「天皇制度と日本国民が生存してきた共同体的国家を、私は国体と呼んでいます。/なぜなら、天皇制度だけで国家は成り立ちませんし、国民だけでも国家は成り立たないからです。」
 著者は、さらに、「『国体とはこういう意味です』と、人に押しつけるものではない」と述べて、自らの「思想や信念」を披瀝している。わたしは、「権威」もある種の「権力」となって民衆をコントロールしていくものだと捉えているし、天皇制度というものが、その起源も含めて、「歴史的な祭事を司る存在」として、果たして時間的連続性を保持し続けてきたのかという疑念を払拭できないと思っている。だからといって、わたしもまた、著者の「思想や信念」に込めようとしていることを否定する立場ではないことを明らかにしたうえで、著者による「対米自立」と、「アジアの国々との平和構築」へ向けての論述に触れていきたい。
 「砂川事件が起きた昭和三二年においても、米国は裁判の判決にまで口を出し、それを日本は聞き入れていたというわけです。(略)日本は主権回復後も自ら進んで『米国と一体=対米従属』となって戦後体制をつくってきたということがわかります。(略)自由民主党は、この『米国と一体=対米従属』で政権を守り、甘い汁を吸い続けてきたので、自民党の政治家は対米従属という構造を変えることはできません。米国にこびるという一点だけで勝ち続けてこられた。これが自民党の原動力だからです。」
 この間の第二次安倍政権は、最も顕著に、しかも露骨に「米国と一体=対米従属」を邁進してきたといえる(本書では、米国からの想像を絶する大量の兵器購入を明らかにしている)。だから様々な不祥事が生起しても政権を持続してこられたのだ。対米自立と東アジア共同体を志向した鳩山・小沢政権は、米国の影響下にある司法によって、その地位を剥奪され、脆弱な菅、野田体制となって民主党は政権から転がり落ちていくことになる。二度と反自民(つまり反米)政権が生まれないようにあらゆる分野で、米国第一へのマインドコントロールを強固に続けてきたと、著者の子細な論述によって、わたしは確信したことになる。
 辺野古移設問題で揺れる沖縄の米軍基地には、事故の危険性のあるオスプレイが二四機配備されているが、横田基地にも配備されることが決定した。しかも、横田基地の上空は広域にわたって制空権が米国(米軍)にあることや、「現在も朝鮮戦争は終結していないので、国連司令部は横田基地に置かれたまま」なのは、あまり知られていないはずだ。著者は、「日米安保条約には、『米国の朝鮮戦争対策』と『米国が日本を支配下に置く』という」、「二重構造」があるとしながら、米国と北朝鮮が和解して朝鮮戦争終結宣言を行ったとき、国連司令部は解体しなければならないはずだと問題提起している。恐らく、日米安保条約との整合性は無視して、そのまま存続させるはずだとわたしなら考える。
 三年前の安保法制の強権的な成立に対して、多くの人たちによる抗議行動が広がっていったわけだが、憲法九条を守ろうという主張はあっても、日本国憲法の上位概念にある日米安保条約と日米地位協定の廃絶を叫ぶ声がほとんど聞かれなかったことに、わたしは、驚いたものだった。
 わたし(たち)は、七〇年前後、日米安保体制打倒とともにヤルタ=ポツダム体制打倒(一水会もテーゼとしている)を謳っていた。わたしのなかには、いまだにそのことは、基本的な認識としてあり続けている。だから、対米自立ということは、わたしにとっても拘泥し続けてきた問題である。
 「対米自立路線に切り替えた場合、日本経済はどうなるのかという不安があると思」うかもしれないが、貿易相手国として中国、韓国が上位を占めていることを考えれば、「アジア諸国との関係が良好なら大きな痛手にはならないはず」だと著者は述べる。わたしも同感だが、安倍政権が対米従属のまま政治的発言を続けていく限り、先行き不透明なことといわねばならない。
 「戦後の遺物である対米従属の安保体制から脱することを前進させ、『対米自立』を実現しなければならない」という著者の強い思いを、多くの人に本書を手にとって、喚起されて欲しいと思う。

(花伝社刊・18・11・25)

前田 保 著『「日本哲学成立下の真実」第鬼
西田幾多郎と瀧澤克己―交流の真実
(「図書新聞」19.1.12号)

 わたしは、西田幾多郎や三木清、田辺元といったいわゆる京都学派の哲学者たちの仕事を共感して受容してきたわけではない。むしろ、ある距離感をもって望見してきたといっていい。特に西田に関しては、最も遠い距離のなかにある。それは、本書では、あまり触れられていないが、戦時下の姿勢や立ち位置に少なからず疑念があるからだ。滝沢克己(書名では、狢轜靴箸靴討い襪、本文では、狢貘瓩班週しているので、以下、それに倣っていく)に関しては、神学者であるにもかかわらず、いや、神学者であるからこそといえるのかもしれないが、六〇年代後半のいわゆる全共闘運動に共感を示していたことを知って、当時、幾つかの文章を読んだだけに過ぎない。今回、あらためて、滝沢の夏目漱石に関する論稿を入手し、読み、わたしの滝沢への距離は、より近接なものとなったと述べておきたい。
 そのうえで、本書に向きあったとき、著者の壮大なる思考の場所にただただ圧倒されたといっていい。巻末に付された著者紹介には、滝沢克己協会事務局長、滝沢克己協会の年会誌『思想のひろば』(現在休刊中)の編集にあたっていたことが、記されているから、本来なら、書名は、『瀧澤克己と西田幾多郎』となるべきところ、西田を冠するのは、「滝沢への関心が西田との関係へひろがって」いったことを意味しているようだが、もとより、「ベクトルは滝沢からのものを保持している」(「あとがき」)と述べている。そのうえで、本書の構想は、「近代日本における独創的な思想、つまりまさに『日本哲学』の成立のその始原」を照射するという試みを「シリーズ全四巻」での完結を目指しているのだという。「著者の壮大なる思考」と述べたのは、それらのことに所以するからだ。
 そもそも、滝沢の初めての著作が、『西田哲学の根本問題』(刀江書院・一九三六年刊)であったことをわたしは、本書によって知ったことになる。西田と滝沢の「交流」とは、その著作を挟むようにして、三三(昭和八)年から、西田が亡くなる直前の四五(昭和二〇)年五月までの「滝沢宛て西田の書簡」全六十二通というかたちでの交流の実相を切開していくことを起点にして、滝沢による西田哲学の擁護と批判、もうすこし別様にいえば、滝沢による西田哲学の世界を脱構築していく軌跡を論及していくものだと、本書(シリーズ第一巻)を捉えていいはずだ。
 わたしの関心はまず、戦時下における滝沢の立ち位置ということになる。「滝沢は帝国憲法に規定された臣民として、外来のリベラリズムにもマルキシズムにも共感せず日本という立場を採ったが、さりとて帝国主義も国粋主義も敬遠して『世界の中での日本』のあり方を探ったといえよう。滝沢の論文には侵略を正当化したり、アジアを蔑視したりという要素がない」と著者は述べている。一方、西田はどうか。「戦局打開のため開かれる予定となった大東亜会議に向け、陸軍からその理念を諮問され」て執筆した「世界新秩序の原理」(昭和十八年)が、「東条内閣には取り入れら」れなかったとしているが、わたしなら、滝沢に比して、「大東亜戦争は、東亜諸民族がかかる世界的使命を遂行せんとする聖戦である」「米英帝国主義の桎梏を脱し、東亜を東亜諸国民の手に回復する途は、東亜諸民族自らが、共通の敵米英帝国の撃滅、根絶を期して結束する以外にない」とする西田の「世界新秩序の原理」のなかの一文に胚胎する激烈さを問題視したいという思いになる。これは、「滝沢は戦前、西田存命中にすでに、西田哲学の根本的な欠陥に気づき、これを指摘するだけでなく、これを是正する世界把握の方式を提出していた、ということになる」と著者が指摘する二人の間にある空隙を、戦時下の立ち位置にも敷衍することができるはずだといえるのではないか。だから、次のように著者が論述していく交流の真実は、わたしに深い感慨を与えてくれることになる。
 「西田は最晩年の宗教論で滝沢の批判に応えた。しかし、戦後の滝沢はこれに満足せず、最終的には西田哲学を一個の形而上学と論断するにいたった。」「二人は師弟関係を保ったが、その関係は一方的ではなく、双方的というべきであり、両者はお互い一個の独立の研究者として認め合いながら、その主張においては厳しく対峙し合った、といえるであろう。」「西田哲学は結局は知的自己の立場だった、というべきなのだろうか。突き詰めたところではそういわざるを得ないであろう。しかし、(略)西田哲学は行為的自己の立場の哲学だったが、そこに一点の曇りがあったということになるのではないだろうか。」
 こうして、著者は「知的自己」、「行為的自己」を往還する西田哲学の隘路に対して、次のように述べていく。
 「滝沢は哲学の閉域に現実を回収してしまうことはできないことを自覚し、哲学はそのような閉域構築であってはならないということを、日本に真の哲学が誕生したといわれるまさにその瞬間に突きつけた、といえるのではないであろうか。(略)現代思想としての滝沢がここにあると思われる。」
 わたしの一方的解読は、著者の本意から離れることになるかもしれないが、「知的自己」にしても「行為的自己」であっても、それは閉域構築に過ぎないといっていい。そういう意味でいうならば、著者が指摘するように、わたしもまた、滝沢克己は、現代思想に屹立した存在だといいたいと思う。

(七月堂刊・18.9.9)

花部英雄 編『ジオパークと伝説』
(「図書新聞」18.11.17号)

 ジオパークのジオ(Geo)とは地球・大地を意味し、パーク(Park)は、文字通り公園のことである。本書の編者、花部英雄によれば「科学的に貴重で景観にもすぐれている地質資源を含む公園」を、二〇〇四年にユネスコが、「世界ジオパークネットワークによる審査を経て『世界ジオパーク』として認定し」たことで、ユネスコの文化遺産、自然遺産とともに多くの人たちに、ジオパークというものが知られるようになったことになる。本書では、貴重な景観というものは、「長い時間をかけて風化や浸食、運搬、堆積などの諸現象によってダイナミックにできあがった地形であ」り、「そこには、動植物の化石や植生、土壌、気象や水などの生態的要素が加わって構成されてい」て、そのような「自然環境のもとで生活してきた人々がかかわり作り出した歴史的、文化遺産で」あると捉えたうえで、「ジオパークを伝承的な立場からとらえ」(花部「序・ジオパークと伝説」)ていこうするものである。
 日本において、世界ジオパークとして認定されているのは九地域であり、日本ジオパークネットワークによって認定された日本ジオパークは全国に四十三地域ある。本書で取り上げているのは、一〇年一〇月に世界ジオパークに認定された山陰海岸ジオパーク(丹後半島から鳥取県まで)である。この地域から喚起される多様な伝承・伝説を各論者は丹念に辿りながら人々の暮らしの深層を掘り起こしてく。
 例えば、「京丹後市網野町掛津にある琴引浜」は、「『鳴き砂』でも有名な観光地である」が、「サザエにまつわる伝説がある」という。山陰海岸は、出雲から地続きであるから、大国主命にまつわる伝説があるのは理解できる。琴引浜の近くにある白滝神社は、「大国主命がまつられてい」て、その淵源は、大国主命が舟でこの地に移動してきた時に「舟底にあいた穴をサザエが塞いで沈没を防いでくれた」(花部「海岸地形とサザエ救難伝説」)という説話に由来するようだ。「サザエ救難伝説」とは、論者がいうように、「おおらかな話で」、海岸に住む人たちと海の生物が強い繋がりを持っていることの表れのような気がしてならない。
 大国主命といえば、誰もが、「因幡の白兎」の説話を思い起こすはずだ。鳥取市白(はく)兎(と)にある白兎海岸が伝説の場所として知られている。「白兎が大国主命と八上姫が結ばれると予言したことから、白兎海岸の近くに鎮座する白兎神社が縁結びの地とされ、今は有名な観光スポットになっている」(後藤若菜「海と山の白兎伝説」)という。鳥取県八頭町福本にも白兎神社があって、山間部に白兎伝説というのは、意外な感じを持つことになるが、後藤は次のように論述していく。
 「福本の付近には、長く連なる中山の尾根に、驚くほど巨大な岩石が存在した。また近年は減ったが、昔は兎は山に多くいて、地域の人々には身近な動物であった。(略)海の白兎地域の白兎伝説も、福本にある山の白兎伝説も、それぞれの地域性や時代性を反映して形成され、残るべくして残った『白うさぎ』のお話なのである。」(「同前」)
 他に温泉をめぐる冨樫晃「ジオパークと温泉」、春日井秀「水害と伝説」、異形伝説をめぐる山口くるみ、瀬戸口真規、清野知子らの諸論稿がある。そして、わたしが本書で最も関心が惹かれたのは、浦島伝説をめぐる二つの論稿である。浦島伝説は、全国各地に横断していて、どこが伝説の始まりの場所かを特定することは難しい。暴論を承知でいえば、白兎伝説がそうであるならば、山陰海岸が最も相応しいような気がしてならない。
 「浦島太郎は日本の二〇数ヶ所の地域で、土地のさまざまな事物と結びついた伝説として、信じられる形で伝承されている。山陰海岸ジオパーク域内の京都府京丹後市網野町の浦島もその一つである。」(山田栄克「浦島伝説の記録をよむ」)、「網野町と海と、そして大陸との関わりの深さは、今でも海辺を歩くと容易に納得できる。夏の穏やかな釣溜に至る海上の道は、夕方歩くと飛沫がかかる程度であるが、冬には荒々しい波が押し寄せてくる。秋から冬になると地域の人が『ウラニシ』と呼ぶ強い暖流に乗って。寄せ物が海岸に運ばれてくる。」(北村規子「浦島伝説と日本海」)
 こうして、浦島伝説にふれながら、学生時代の友人の故郷が網野町だったことで、二度、訪れたことを思い出す。もう何十年も前のことである。あの時の網野町の風景が、あらためて、くっきりと浮かんできたのはいうまでもない。

(三弥井書店刊・18.7.5)

小杉亮子 著『東大闘争の語り―社会運動の予示と戦略
(「図書新聞」18.7.14号)

 本書に接して、六〇年代後半、学生運動といわれていた対抗運動が、大学闘争あるいは学園闘争というように、運動から闘争という表象の変容に、わたしは、感慨をあらたにしたといっていい。あるいは、回顧的に述べてみるならば、全共闘という運動形態と運動体の有様(ノンセクト・ラディカルという概念規定も含めて)について、わたし自身、どこかで距離を置き、振り返ることを忌避し続けてきたことに対し、本書は鋭く突きつけてくれたといいかえてもいい。わたしは、六七年一〇月八日の第一次羽田闘争の時、東北の一地方都市の高校三年生であった。闘争スタイルの苛烈化と京大生が亡くなるという衝撃はあったが、それよりも大手メディア(テレビ、新聞、「赤旗」も敢えていれておく)が、そろって、「暴力学生」、「過激派学生」と大きな見出し(「赤旗」は、時代錯誤的なトロツキストというレッテルを貼ったのはいうまでもない)で佐藤首相ベトナム訪問阻止闘争を非難していたことに、直截に憤りを覚えたといっていい。ただし、わたしの知る限り、不定期ながら購読していた書評紙『日本読書新聞』と『朝日ジャーナル』(高橋和巳の『邪宗門』を読むために購読をはじめて、連載終了後も定期購読をしていた)だけは、羽田闘争を評価していた。六八年四月に上京するが、そこから一年間の“浪人生活”を経て、翌年四月に大学に入学。わたしにとって、十代後半から二十代前半までの数年間は、様々な場所において、何ものにも換えがたい関係性の形成と濃密な経験をしたと思っている。いうなれば、その時期の“貯金”を切り崩しながら、「現在」まで生きてきたといっていいかもしれない。
 本書は東大闘争を六七年から七〇年代前半まで、発生過程、展開過程、収束過程と分けながら、東大闘争に関わったノンセクト、新左翼党派、民青の活動家まで含め四四人に聞き取り、その「語り」をあたかもドキュメントのように構成して、闘争の原像を浮き上がらせている。三十代半ばの著者にとって、亡き父の世代の体験をある意味、フィールドワークのように析出していく本書は、できる限り私見を排しながらも、「予示」的なるものを提示していく。
 最首悟の「語り」を引きながら、著者が次のように述べていく箇所がある。
 「社会主義運動とも政治党派とも関わりを持たない学生運動形成への動きは、六〇年安保闘争後にブントの一部で起きた動き(引用者註=『SECT6』のグループ)とも軌を一にしていた。すなわち、前衛党の指導に基づく労働運動中心の革命運動という構図を否定する動きが出てきたのである。」
 共産党配下の民青はもちろん、新左翼諸派(特に革共同の二派や共産同赤軍派)は基本的に徹底した前衛主義であった。やがて、連赤の問題も内ゲバという暗渠も前衛主義の陥穽を表出していたとわたしなら見做す。そして、そこには外部の権力との対峙に邁進するあまり「内」に潜在する権力性を見通すことが出来なかったからだといっていいはずだ。M・フーコーを援用するならば、「権力」は「遍在」しているのであって、「至る所にある」と見做すべきなのである。
 「革命をめぐる対立は言い換えれば、(略)マクロな次元で国家権力を運動の敵手として措定するか、社会関係や社会的行為のなかに見出されるよりミクロな次元での社会内権力を問題とするか、というものである。」「社会変革の範囲を小さくとれば、身近な社会関係や日常的な社会規範の変革にたどりつく。とくに、自らが他者との関係性のなかで意図せずに行使している権力や関わっている抑圧をただそうとするとき、社会運動は自己変革や自己解放の側面を持つことになる。」
 このように述べていく著者が提示する「予示」的なるものを、あえて収斂させたいい方をするならば「ひととひととの関係や共同体のありかた」を問うていくものであると理解していいのではないかと、わたしは思う。国家の有様を変革するためには、まず国家権力の奪取ありきというのは、ロシア革命以降のロシア・マルクス主義の誤謬でしかない。マクロなものとミクロなものはコインの裏表だと思う。ミクロなものが集積してマクロなものがかたちづくられると、わたしなら捉えたいから、「予示的」なるものの提示は刺激的だ。ただし著者が本書で提示する「予示的政治」と「戦略的政治」に関して、留保したいことがある。それは、「政治」ではなく、「反政治」とすべきではないかということだ。あるいは、「行為」、「行動」といいかえてもいいかもしれない。かつて、わたしは、「行為の共同性」ということに拘泥していたから、そのようにいいたいわけではないが。
 わたしが、全共闘という諸相に距離を置き、振り返ることを忌避し続けてきたのは、無党派、ノンセクトと括ることの安易さと、結局、党派によって主導され、安保決戦なる空疎な設定で全国全共闘を結成したことへの疑義があったからだ。しかし、本書には、語り手それぞれの現在も述べられていて、そこでは、まぎれもなく、「ひととひととの関係や共同体のありかた」をいまだに問い続けていることが示されている。
著者に誘われて、わたしもまた、もう一度、全共闘の有様と行動(行為)に関して再考すべきだと喚起されたといっておきたい。

(新曜社刊・18.5.15)


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