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2017.08.26 Saturday

西脇詩の世界を「再発見」                           ―――――西脇の生涯における「二度の大きなターニングポイント」

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    加藤孝男、太田昌孝 共著『詩人 西脇順三―その生涯と作品
    (「図書新聞」17.9.2号)

     わたしは、四十六、七年ほど前、たまたま偶然、小千谷を訪れ、西脇の生家を見ている。その頃、もちろん西脇順三郎(一八九四〜一九八二年)という名前は認知していたが、作品にはまだ接していなかった。現代詩はかなり読んでいたが、なんとなく敬遠していたというのが、正直な思いであった。後年、自分から進んでというのではなく、必要があって『ambarvalia』(一九三三年刊)を読む機会があり、その詩世界にたいし率直に共感を抱いたといっていい。その後『旅人かへらず』(一九四七年刊)を読み、戦時下を挟んでの空白期を経て、戦後、刊行された詩集の世界に親近感を持つとともに、かつて訪れたことがあった小千谷という場所を想起しながら様々なことを感受していったことになる。
     本書は、「新潟日報」紙に二〇一四年六月から一五年一〇月まで連載されたものを纏めたものだという。なによりも、ひとつの機縁を思わないではいられない。連載を始める前、二人の共著者はともに、「小千谷とロンドンという西脇の精神形成において重要な場所へ赴任することになった」(加藤孝男)のだという。本書は全4章の構成で第4章は、「西脇順三郎の詩の魅力をあじわう」と題して詩作品をめぐって論及している。第1章から第3章までを「西脇順三郎の魂にふれる旅」として、故郷・小千谷、留学先の英国、そして、帰国後、東京と最後の場所でもあった小千谷との往還にふれながら、その生涯を描出していくわけだが、著者たちは、西脇と同じ場所にいたという感慨が、「魂にふれる」といういい方に象徴化させていると理解できる。
     西脇に『超現実主義詩論』(一九二九年刊)や『シュルレアリスム文学論』(三〇年刊)の著書があることで、わたしが距離感を持ったことの所以だったように思う。ヨーロッパや日本のシュルレアリスムが、思想運動的な色彩を潜在させていくわけだが、西脇の詩表現からは、どうしてもそのことが繋がらないように感じたからだ。
    「詩を作るということは、時代感覚に鋭敏になるということである。『シュルレアリスムは一つの憂鬱である』とも西脇は述べた。そもそもこの運動は、フロイトの精神分析に影響を受けて、人間の無意識や夢といったものを描くことで、社会にからめとられてしまった意識を解放するところに意義を見いだしている。/その作詩法は、時に、無作為に言葉を連ねていくというような方法によった。しかし、西脇はこうした無意識によりかかった作詩法を批判し、独自な『超現実』の考え方を導いている。西脇が繰り返し述べるのは、人間がもっている習慣化した意識を打ち破り、新たなヴィジョンを描くことであった。そのために、遠く離れたイメージを連結して、詩を作れと言った。」(加藤孝男)
     この加藤の論述によって、わたしは、自分自身の異和感を払拭するとともに、「遠く離れたイメージを連結し」た『ambarvalia』(ロンドンで知りあい結婚したマージョリ・ビッドルと離婚した翌年の刊行ということになる)という詩集を直ぐに想起することになる。
     西脇の生涯に視線を向ける時、「二度の大きなターニングポイント」があり、ロンドン時代と、小千谷へ疎開することになった「四四年から四五年にかけての九カ月」だったとして、太田昌孝は、次のように述べていく。
     「私自身、四〇回ほど当地を訪れたが、小千谷を深く知れば知るほど、その民俗、伝統、自然が蔵する豊かな魅力に心打たれた。そして、この小千谷で一八年に及ぶ、青少年時代を過ごした西脇の精神的基層には、ほぼ無自覚的にこの雪深い町が持つ諸要素が滋養のように堆積していったのではないかと考えるようになった。(略)折口によって掘り起こされた日本民俗への関心が、実は自身のなかでたしかに堆積していたことを、西脇は小千谷での疎開生活においてまさに『再発見』した。『西洋と東洋の融合』という独自の詩的アラベスクを完成させることになるのである。」
     もちろん、ここで太田が指摘しているのは、『旅人かへらず』を想起してのことである。折口を始め、柳田國男との交流があったことを、わたし自身は、それほど重要視してこなかったが、大田の論及には承服せざるをえない。わたしは、一度しか小千谷に訪れたことはないが、それでも、自分が生まれた雪国・秋田と共通する情感を喚起されたことはいうまでもない。
     戦時下に詩は書かず、当然、戦争賛美詩とは無縁なかたちで、戦後、『旅人かへらず』を著したことの意味は大きい。
    「戦争であらゆるものが失われてしまった日本人にとって、想像力さえあれば、一篇の詩からでも夢を見ることができたのである。」(加藤孝男)
     こうして、本書は、わたしに、西脇詩の世界を「再発見」させてくれたといっていい。

    (クロスカルチャー出版刊・17.5.31)

    2017.07.29 Saturday

    なぜ、イスラム教だけが、絶えず排撃されるのだろうか         ――信と不信の狭間はいつだって鏡のようなものだ

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      ケヴィン・バレット 編著、板垣雄三 監訳・解説
      『シャルリ・エブド事件を読み解く
      世界の自由思想家たちがフランス版9.11を問う

      (「図書新聞」17.8.5号)

       シャルリ・エブド事件が、15年1月7日、パリで起きてから、二年半が経過したことになる。本書は、事件の深層を切開しながら、それが、01年9月11日のアメリカ同時多発テロから近年の「イスラム国(IS)」よるテロまでの連鎖を、イスラム過激派によるものとすることに疑義を呈していく苛烈な論考集である。
       わたし自身、シャルリ・エブド事件に関していえば、「攻撃から何時間もたたないのに、フランスの中で10万人以上の人々が集まり、その多くが『わたしはシャルリ』のプラカードを持」ち、四日後には、「約300万人がフランスで行進に加わり、うち200万人がパリで行進し」(ケヴィン・バレット)て、報道と表現の自由を叫ぶということに、ある種の異様さを感じてしまったといえる。風刺や諧謔によって特定の宗教を貶めることが、表現の自由といえるのだろうかということが、直ぐに抱いた疑念だったからだ。わたしは、無宗教者だが、どのような宗教であっても宗教を信じる人を批判したり否定したりは絶対にしない。信と不信の狭間はいつだって鏡のようなものだとわたしは考えているつもりだ。なぜ、イスラム教だけが絶えず欧米国家群から排撃されるのだろうか。
       「イスラム教の預言者に対する数々の攻撃は、この宗教と文化に対する絶滅を意図した、文化的ジェノサイドの一部ではないのか。多くのムスリムはそう考えている。」「イスラムに対する戦争が、元来、シオニストによるパレスチナのイスラム教聖地への侵略と占領の産物だったということは、ずっと議論されてきた。(略)シオニストによるイスラムの中心地の破壊が、一方に攻撃的拡張主義のユダヤ人ナショナリズムと、これに対応して生じてきた、基本的に防衛的な(ときに戦闘的な)イスラム・ナショナリズムと、の間の衝突を、必然的に引き起こすことになる。」 「イスラム教には、他の宗教を尊敬し、保護してきた長い立派な歴史がある。既存のどんな宗教であれ、宗教的人物であれ、それを冒涜することは、ムスリムにとって呪われるべきタブーである。」(ケヴィン・バレット)
       パレスチナにおけるシオニストを全面的に支援する欧米国家群にとっては、必然的にムスリムは敵となるわけだ。その論旨からいえば、バレットや本書の他の論者たちは、9.11も、シャルリ・エブド事件も、容疑者が直ぐに特定されたり、痕跡を残していることに疑義を呈しながら、事件の「でっち上げ」を主張していくことになる。
       執筆者の一人、元ホワイトハウス政策分析官のバーバラ・ホネガーは、「米国およびイスラエルのシオニストが、9.11事件を周到に計画して組織的に実行し、ムスリムの犯行としてでっち上げ、拡大中東地域のムスリムの領土を侵略・占領することを正当化して、イスラエル外交・安全保障の目的を達成しようとした」と述べながら、シャルリ・エブド事件に関しても、「『テロとの戦い』につきまとってきたパターンが繰り返されるのを見ることになる。9.11からロンドン地下鉄爆破事件、マドリード駅爆破事件、さらにはボストンマラソン爆弾事件まで、テロ事件に直接・間接に係わった者たちは、欧米の一つあるいは複数の犲0足畩霾鶺ヾ悗筏燭錣靴ご愀犬鬚發辰討い燭箸いΔ海箸澄廚斑任犬討い。スノーデンによって暴露されたアメリカのNASAによる個人情報監視システムがあれば、テロは未然に防げるはずだと思うが、それが目的ではないということは、ホネガーの論及が補強していくことになるといっていい。
       また、別の角度からの捉え方もある。周知のようにシャルリ・エブド事件は、「週刊紙オフィスを攻撃し、11人を殺し、10人に傷害、内5人は危篤の重傷を負わせ」、「別のもう一つの攻撃は、アメディ・クリバリという男が、ユダヤ教食品店で複数のユダヤ人常連客を殺した」、二つの「攻撃」で形成されている。「問題は『誰が得をするか?』である。/明らかにムスリムではない」と、レーガン政権の財務次官補だったポール・グレイグ・ロバーツは述べながら、「テロ攻撃と称されるものは、(引用者註・パレスチナ人を支持しだした)フランス政府をワシントンやイスラエルの路線に戻すのに役立った」と論じている。
       本書の原著は、事件後、直ぐの15年4月にアメリカで緊急出版されたものだ。執筆者たちは、「社会的・宗教的・民族的帰属も思想信条もいちじるしく多様で、個性的」(板垣雄三)であるにも関わらず、情況の深層をそれぞれの視線で的確に、しかも鋭く切り込んでいるといっていい。
       それに比べて、わが列島の首相が友人や応援団に利益供与をしていることに、憤りを感じる日々だが、表層の部分だけでも、その陥穽は明らかであるにもかかわらず、メディアや対抗勢力に鋭利性がないことを見透かしているかのような振る舞いを政府中枢はしている。それは、わたしたちの現在というものが、本当に逃げ場のない深刻なものだというわけではないことの証左なのかもしれないが、むしろ、そのような弛緩した情況に対して、わたしは、暗澹たる思いになる。

      (第三書館刊・17.5.10)

      2017.06.17 Saturday

      「感性」と「文化」を連結させて、どのような像が紡ぎだせるのか  ――「一九六八年」前後の文化の変化について描き出す

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        渡辺 裕 著
        『感性文化論 〈終わり〉と〈はじまり〉の戦後昭和史

        (「図書新聞」17.6.24号)

         「感性文化」とは、不思議な捉え方のように思われる。そもそも、「感性」や「文化」という概念には、極めて多様なイメージが胚胎しているから、その二つを連結させて、どのような像が紡ぎだせるのだろうかと、わたしは、本書を前にして、真っ先に感じたからだ。
         著者の言葉を援用してみるならば、次のようになる。
         「一九六八年という一年だけにピンポイントで特定できるかどうかはともかくとして、この一九六〇年代末から七〇年代前半にかけてのこの時期に、文化のあり方や感性のあり方に大きな変化があったということは、もちろんこれまでにもいろいろな形で論じられてきた。」「『一九六八年』前後の感性の変化も、単に『戦後』の中での話としてだけみているのでは不十分である(略)。」「戦前から、場合によっては明治以前から続いてきた古い文化のあり方を視野におさめ、そこからの連続や断絶のありようを見極めながらその歴史的位置をはかるような見方が必要である。」
         そして、「戦後文化論」とでもいうべき視線から、「『一九六八年』前後の文化の変化について、『感性文化』をキーワードに描き出すことが本書の目的」であると述べながら、一九六四年東京オリンピックにおけるメディアをめぐる様々な事象と、六九年に入ってから生起した新宿西口広場における「フォークゲリラ」の諸位相という二つのテクストを中心に、本書は論じられていく。また、その周縁の位相として、「ディスカバー・ジャパン」に象徴される環境保全の動態と高速道路をめぐる都市景観ということも対象化していく。
         著者が、一九六八年という時間性に拘泥するのは、過剰気味に、しかも皮相に表出されてきた「一九六八年論」に与したいからではなく、「一九六八年といえば、『明治百年』の年」であるとしながら、「戦後」という時空間を、「明治以前」からの「連続や断絶のありようを見極めながらその歴史的位置をはかるような見方が必要」であるという捉え方をしているからだ。
         本書の前半部では、市川崑監督による映画『東京オリンピック』(六五年公開)をめぐる「記録か芸術か」論争に焦点を当てている。高校生時、リアルタイムで観た印象でいえば、アベベが淡々と走る表情をスローモーションで捉えた場面しか思い出せないのだが、そもそも、記録映画か芸術映画かといった視線が、入り込む余地のないものだったといいたい気がする。著者は、論争が、リーフェンシュタールの『民族の祭典』『美の祭典』(三八年)と比較されながら行なわれたことを紹介しているのだが、それらの作品は、「記録か芸術か」という以前に、政治的プロパガンダ的色彩が被膜のように覆われてしまったという悲運性があることを思えば、市川作品と対称化させて作品評価するのは無理があったのだ。
         「市川の《東京オリンピック》は、古い時代の記録映画のあり方を問い直し、新たな局面を切り開く先兵的な役割を果たした一方で、多くの部分で『テレビ以前』の古い感性に支えられて成り立っていたともいえるだろう。」
         もちろん、芸術映画というカテゴリー自体、わたしも含めた普通の観客にとってはなんの意味もないし、記録映画というジャンルが確立していた時代ではないし、ドキュメンタリー映像といった考え方も希薄であったわけだから、著者の捉え方には、同意できる。
         わたしは、当時(六八〜六九年)、「フォークゲリラ」にほとんど共感を持っていなかった。友人に無理やり連れて行かれて一度だけ現場を見たことはあったが、ベ平連の活動も含めて、「友よ」という歌を象徴として、親近性を抱くことはなく、過ごしていた。ただし、本書によって、『朝日ソノラマ』(五九年創刊、七三年休刊)が、「フォークゲリラ」や「学生運動」を取り上げていたことは知っていたが、吉田拓郎を七〇年七月号から三ヶ月続けて特集していたことは、まったく知らなかった。つまり、わたしは、吉田拓郎をその頃、認知していなかったわけで、『朝日ソノラマ』は、「吉田が全国に名声を広げてゆくのを推し進めていった」ともいえることになる。
         「吉田拓郎の活動などをみると、フォークゲリラや関西フォークの人々の活動とは遠く隔たっている印象を受けることは事実で、そのことを指して、フォークソングの変質が語られ、学生運動などの反体制運動の挫折やそれに由来する、『シラケ』ムードの支配、政治的無関心世代の台頭といったことが語られることも少なくない。たしかに大きな流れとしてそのような側面があったことは否定できないが、この時期のフォークゲリラやフォークソングの流れには、そのような『政治主導』の説明では捉えきれない、文化の様々な領域で起こっている構造変化が絡んでいるように思える。」
         わたしが、吉田拓郎の最初のアルバム『青春の詩』(七〇年一〇月)を初めて聞いたのは、七一年の春頃だったような気がする。その中に収められていた「イメージの詩」にある「古い船を今動かせるのは古い水夫じゃないだろう」という歌詞に共感したものだった。著者ふうに述べてみれば、その時の感性を、「友よ」より遥かに投射していたと思えたからだ。そもそも、挫折やシラケなどといったいい方は、後付的なものであって、ましてや、「政治」よりも、もっと切実なものがあることを、誰もが知っていたはずなのだ。そういう意味で、いまでも、音楽や映画が感性を刺激してくれるものとしてあり続けているのは変わらないはずだ。だから、十年ほど前から、若者たちによる街頭での抵抗と対抗の運動がサウンド・デモのかたちを採っているのは、「フォークゲリラ」とどこかで水脈のように繋がっているといっていいかも知れない。

        (春秋社刊・17.4.20)

        2017.06.10 Saturday

        「日活ロマンポルノ」時代を俯瞰する貴重な映画誌                    ――日本映画史のなかでも多くの傑作・名作を生みだしたことは断言していい

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          ワイズ出版編集部 編『日活 1971-1988 撮影所が育んだ才能たち
          (「図書新聞」17.6.17号)

           わたしにとって日活映画とは、少年期は小林旭(石原裕次郎には、それほど共感を抱くことはなかった)の渡り鳥シリーズであり、二十歳前後の頃は、折からの対抗と抵抗の渦動のなか、鈴木清順監督の旧作品がまとめて上映されたのを観て清順世界に魅了されていったことを、取りあえずは意味している。その時期、鈴木清順は日活を解雇されていたため作品を撮ることはできなかったが、澤田幸広の『反逆のメロディー』(70年)、と『関東幹部会』(71年)を観て、衝撃を受ける。そして、藤田敏八の『八月の濡れた砂』を71年8月、立ち見で観た記憶がある。それが、旧体制での最後の日活作品だったのを、後で知ったのか、その時すでに認知していたのかは、もう覚えてはいない。
           本書は、71年11月、新体制での日活作品、いわゆる日活ロマンポルノ(後に、「にっかつロマンポルノ」)としてスタートした、二作品(西村昭五郎監督・白川和子主演『団地妻 昼下がりの情事』と林功監督・小川節子主演『色暦 大奥秘話』)から、88年11月の「ロッポニカ」最後の二作品(藤田敏八『リボルバー』、金澤克次『首都高速トライアングル』)までの詳細なフィルモグラフィーを付し、作品に関わったプロデューサー、監督、脚本家、俳優など、総勢一〇八名のインタビュー、エッセイなどを収録した、「日活ロマンポルノ」時代を俯瞰する貴重な映画誌である。
           フィルモグラフィーを眺めながら、いくつかのことを思い起こしたといえる。わたしにとって、共感した作品の多くは、藤田敏八と澤田幸広を別として、ロマンポルノ作品によって初めて知った監督たちだった。神代辰巳(68年、『かぶりつき人生』がデヴュー作品)、加藤彰、曽根中生、田中登、山口清一郎、村川透、根岸吉太郎など、思いつくままに挙げていけば、神代以外は、ロマンポルノ作品がデヴュー作ということになる。当時しばしばいわれたことだが、ロマンポルノ作品になったことで、多くの優れた監督や脚本家がデヴューできたということは、確かだった。
           白川和子とともに、ロマンポルノ作品の最初の主演女優となった小川節子は、「デビューする事にな」った時、「本心は、嫌でたまりませんでした」と述懐しながらも、「『日活ロマンポルノ』というのは、大きな、ひとつの時代を作ったのかも、と思います」と本書のなかで述べているように、間違いなく、日本映画史のなかでも、多くの傑作・名作を生みだしたことは、断言していい。わたし自身が観たなかで、いま、それらの作品名を書き記すと、それだけで字数を費やすので、本書からの発言を例示することで、わたしの日活ロマンポルノ作品に対する思いに代えさせたい。
           「何より魅力的だったのは、ロマンポルノに登場する女優さん達であった。(略)初期の白川和子、片桐夕子を始め田中真理、山科ゆり、宮下順子、芹明香など独特の存在感を持った彼女たちを間近で見られるのが楽しかった。」(鵜飼邦彦)、「一九八五年夏、入社二年目の僕は宣伝部に移動していた。(略)最初の担当作品として相米慎二監督の『ラブホテル』(略)を与えられた。(略)ヒロイン名美が不倫の上司から一方的に切られた受話器に向けて、それでも話し続ける長い長い独白。バックには山口百恵の『夜へ』が切々と流れる。(略)自分が心打たれたこの映画を世の中に伝えたい。僕はこの作品を担当できる自分の幸せに感謝した。(略)本社地下の定員四十ほどの試写室には吉本隆明さんまでが現われ、連日『ラブホテル』の試写で埋まった。」(東康彦)、「当時、僕らプロデューサーや企画部がもっとも苦労したのは、脚本作りだった。それまで日活映画を書いてくれたライターはもういない。」(伊藤亮爾)、「企画会議をプロデューサーと企画部の社員と一緒に行った中(略)で、『十分に一回、エロティックなシーンがあれば何をやってもいい。ジャンルは問わない』ということを確かに言いました。(略)日活ロマン・ポルノはプロデューサーシステムというのではないけれどプロデューサーが中心になって作品を作っていきました。」(黒澤満)、「体制に順応して幸せな生活を送っている奴はいいロマン・ポルノを作れなかったんじゃないのかな。なんだかんだで、みんなはちゃめちゃだった。/僕はロマン・ポルノの本質は反体制だと思っているんだ。」(佐々木志郎)
           わたしは、「日活ロマンポルノ」が作られる数年前、東映任俠映画に熱狂し、共感していた。どんな犲匆馭姫撚茘瓩茲蠅癲対抗と抵抗の情念を漂わせていたからだ。ある種のアナーキーな心性といえばいいだろうか。一群の「日活ロマンポルノ」作品にも、そのことは、地続きのように繋がっていたから共感していたのだと、いま振り返っても、そういい切ることができる。そして、そのことは、いまだに、わたしの心奥に、深く刻まれているのだ。

          (ワイズ出版刊・17.4.25)

          2017.05.13 Saturday

          生命あるものすべてに視線を馳せる人                                     ―直良信夫の孤独な研究者としての《像》を鮮鋭に照らし出している

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            杉山博久 著『直良信夫の世界 20世紀最後の博物学者
            (「図書新聞」17.5.20号)

             直良信夫(一九〇二〜八五年)という名前を知らなくても、「明石原人」の“発見者”といえば、多くの人は、何らかの応答ができるはずだ。「明石原人」をめぐって、著者は本書で、次のように触れている。
             「一九三一年(略)四月、兵庫県明石市の西八木海岸の崩壊した砂質粘土層中から採集された人類腰骨は、一時、Nipponanthropus akashiensis(ニッポナントロブス・アカシエンシス)と呼ばれたこともあったが、学会の正当な検証を受けることもなく、一九四五年(略)五月の東京大空襲によって消失してしまった。この人類腰骨をめぐっては、先生(引用者註・直良信夫)への不当な誹謗・中傷ばかりが姦しかったようである。」
             わたしは、考古学的なことにいくらかでも、関心があるのは、それは、民俗学や人類学、生態学、発生学、さらに加えて歴史学といったことへの関心も含めて、それぞれを繋げたかたちで思考の有様として意味があると思っているからだ。それぞれを学的に特化(あるいは専門化)して考究していくことの危うさをいつも考えているといえる。つまり医療の世界が専門的に分化しすぎて、領域の横断ができにくくなり、必ずしも、わたしたちのためにはならないことに通じてしまうことを思えば、それは明らかであろう。
             本書の巻末に付された略年譜を見れば、岩倉鉄道学校工業化学科を卒業後の十八歳の時に農商務省臨時窒素研究所に勤め、空中窒素固定法の研究に従事、この間、貝塚の探訪など考古学的なことに関心を持っていく。研究所退職後、兵庫県へ転居、地質学や古生物学を徳永重康に師事し、学ぶ。二四年九月、日本考古学会や東京人類学会などに入会する。三八年に早稲田大学理工学部採鉱治金学図書室に勤務、以降、精力的に著作活動に入っていく。こうしてみれば、わたしの個人的な推察でしかないのだが、考古学プロパーではない直良にたいして、「明石原人」の発見は、反発や疑念が考古学会から起きるのもわからないではない。しかし、ほんらいなら、学会全体が直良に協力していくようなかたちで精査していくべきなのではないかと思うのだが、そのようなことは難しいことなのかもしれない。
             さて、本書の副題に、「20世紀最後の博物学者」と付されたのは、直良信夫の生涯にわたる仕事を考古学だけにとどまらず広範な領域にあることを示している。
             「直良先生は、その長逝の折り、“最後の博物学者”という修辞を冠して呼ばれたように、考古学ばかりでなく、古人類学や古生物学(動・植物)、現生動物の生態学や動物学的研究、地質学、先史地理学などの各分野にも通暁し、さらに古代農業の研究にも顕著な業績を遺している。また、ナチュラリストとしても一流と評される存在であった。先生の学問領域が極めて広汎であることについては、独学であったため、研究の途上で生じた疑問はすべて自身で解決しなければならなかったからと先生の話であった。」
             “ナチュラリスト”といういい方は、現在ではあまり用いられない捉え方になるかもしれない。わたしなら、生命(いのち)あるものすべてに視線を馳せる人とでもいいたい気がする。
             本書は直良の未発表原稿を織り込みながら、「峠」、「カワウソ(獺)、モズ(鵙)」、「シカ(鹿)、ゾウ(象)」、「葛生の洞窟と花泉の化石床」、「イヌ(犬)、ニホンオオカミ(日本狼)」、「古代農業」、「貝塚・銅鐸と日本旧石器文化」といった項目立てのもとに直良の研究足跡を詳述している。異色は、最終章に配置された「児童図書」をめぐってのものとなる。そのなかから、「原人」をめぐる二つの記述に絞って触れてみたい。
             戦後、直良は、栃木県安蘇郡葛生町(現佐野市)の探査を始める。そして「洞窟への踏査・研究」を続け、五〇年に「葛生原人」の人骨を発見する。だが、「現時点では、葛生出土の人骨を更新世のものとする先生の理解は完全に否定されてしまった」が、「洞窟や岩陰遺跡に包蔵されていた獣類化石などの調査報告は、学問の進展によって、補訂を必要とする部分があるとしても、いまも、基礎的な資料として、十分にその価値を主張し得るだろうと私は考えている」と述べながら、「明石原人」へも言及していく。
             「発見の背景をなす日本旧石器文化の存在を提唱した仕事こそ、先生の多くの考古学的業績のなかでも、もっとも顕著な業績であったと考えている。」
             研究対象が広汎なため、直良の調査報告がなかなか理解されにくかったのではないかと思われるし、わたしには、「独学であったため、研究の途上で生じた疑問はすべて自身で解決しなければならなかった」という直良の感慨は、単独で広汎な研究領域をひたすら遂行していった矜持のようなものに聞こえてくる。だから、ふたつの「原人」をめぐることは、自身の仕事のなかで特化されるべきことではなく、すべての業績と同等のものだと思っていたはずだ。本書は、そういう意味で、直良信夫の孤独な研究者としての《像》を、鮮鋭に照らし出しているといっていい。

            (刀水書房刊・16.11.13)

            2017.03.18 Saturday

            小さな出来事に絶えず視線を向け続ける                           ――峯澤典子の詩世界は、ひとつの達成へと向かっている

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              峯澤典子 著『あのとき冬の子どもたち』
              (「図書新聞」17.3.25号)

               この詩集は、ひとつひとつの詩語が、わたしに語りかけてくるかのように聞こえてくる。それは、しかし、静かに、なにかを強く伝えたいというのではなく、独り言のようでもあり、吐息のような呟きでもあり、遠くを見つめながら小さな声で歌っているようでもある。読み終えて、この詩集を閉じてみると、わたしは、水が流れるような物語のなかにいた。
               「マッチを擦っても/新年のみちには犬の影もない/ひと足ごとに/夜の音が消えてゆく/冷気を炎と感じられるほど/ひとを憎むことも/許すことも できなかった/……」(「流星」)
               情景は心象でもある。「ひとを憎むことも/許すことも できなかった」と語る時、詩語を紡ぎだす人は、どんな関係性のなかにいることになるのだろうか。他の詩篇に接してみれば、時間の流れのなかで変容していく関係性に逡巡し立ちすくんでいる有様を投射しているように、わたしには感じられる。
               「……/幼いころ/水さえほしがらなくなった猫や犬の/肌の日向の匂いが/ゆっくり冷えてゆくのを/いちにちじゅうでも/ひとばんじゅうでも/見守った/あのやわらかな時間の流れから/いつ/離れてしまったのだろう/……」(「一羽」)
               小さな命が消えていくかもしれないという場所にい続けているイノセントな少女期(少年期)への憧憬と、そして悔恨と評するのは簡単だ。「あのやわらかな時間の流れから/いつ/離れてしまったのだろう」という心象は、「ひとを憎むことも/許すことも できなかった」と語ることへ通底していく。時間は戻らないのだ、憧憬や悔恨は、なにも慰藉しない。ただ、受けとめること、そのこととして感受し続けることに、自分たちの、爐い洵瓩あるのだと、作者の声は、わたしに、語りかけてくる。このような感受の有様とはなんだろうかと思う。ある理不尽なことが生起したとき、ひとは、直截に憤りを胚胎していく。それは、ある意味、必然的なことだ。だが、それで、なにかが、変わるだろうか。わたしたちは、理不尽なことには敏感だが、どんなことが起きても変わらずにある、切実なものに眼を向けることを忘れがちになる。微細で繊細なといえるほどの小さな出来事に絶えず視線を向け続けていくことが、憤怒を持って理不尽なことに向かっていくよりも、なにかを変えていく動力になるのではないかと、詩人・峯澤典子が語っていると、わたしには思われるのだ。長くなるが、もっとも、わたしを喚起した詩篇の一部を引例しよう。
               「……/生まれてはじめて/たったひとりで/息がつづくかぎり/全力で走り抜けたあと/気恥ずかしいくらいに/からだの奥で揺れつづけていた/草の香りや/空の高さ/それらを生の中心と定めたとき/そよぎだしたすべての感情を/わたしは木のようだと思ったはずだ//誰かを追い抜くためではなく/ただ走ってゆける喜びに/そよぐこころを/讃えながら/木は育っていった/のびすぎた枝はいつの日か/人や じぶんを/深く傷つけてしまうことなど/知りもせずに/……」(「改札の木」)
               「のびすぎた枝」とは、なんという暗喩だろう。わたしの発語は、いつだって「のびすぎた枝」だったのではないかと、暗澹たる思いになる。誰もが、無意識に人を傷つけ、自分自身を深い暗渠へと誘っていく。
               「……/あげられるものは/もう骨しかなかった/それでも父は/あめ、ゆき、と/くちをひらきつづけた/ぎこちなく子を寝かしつけた若い日のように/……/父を呼ぶことのなかった町に/列車が入った/雪はやみ/子は/静かな包みにくるまり/ひとり 眠った」(「冬の子ども」)
               「……/兄妹のように水色の似た/川から川へ/行先を失った時間は運ばれ/水際のわたしの姿も/霧雨に溶けだす前の/別れのあいさつも/はじめから存在しない//旅人の影の/かたちをした雨雲が/横切り/消えてゆくのを/映す水だけの/永遠」(「水の旅」)
               「あめ、ゆき、と/くちをひらきつづけた」、「旅人の影の/かたちをした雨雲が/横切り/消えてゆくのを/映す水だけの/永遠」と、これらに込められた心象は、鮮烈だ。いいようのない、息苦しさのなかで、それでも、なにか小さな通路のようなものを詩人・峯澤典子は詩語によって照射している。
               第六十四回H氏賞受賞作・第二詩集『ひかりの途上』(七月堂、13年刊)から三年半、いま、峯澤典子の詩世界は、間違いなくひとつの達成へと向かっている。そして、峯澤の詩表現が、いつしか「生の中心」を捉えることを願っている。

              (七月堂刊・17.2.1)

              2017.03.04 Saturday

              まだまだ“絶望”するのは早い――学生たちが辻又集落の住民たちとの交流を通して得た経験を未知の共同体の有様へと繋げて欲しい

              0
                専修大学経営学部森本ゼミナール・編
                『大学生、限界集落へ行く――「情報システム」による南魚沼市辻又活性化プロジェクト

                (「図書新聞」17.3.11号)

                 本書は、専修大学森本祥一ゼミの大学院生を含む十三名の学生たちが、新潟県南魚沼市にある世帯数15(うち高齢者世帯は4)、住民数が43人(いずれも2015年6月時点)の辻又集落において地域活性化を模索すべく活動した二年間(2014年6月から16年2月)にわたる記録集である。経営学部に参集する学生たちだけあって、マーケティングの知識をもとに「情報システム」という考え方によって活動していったことになる。本書に分け入って行く前に、わたしなりの、限界集落といういい方に対する疑念を述べてみたい。
                 集落(村落)の人口が減少し、住民の高齢化が進み、やがて集落(村落)の存続が難しくなることを、〈限界〉という言葉で形容することに、行政側の思惑が潜在しているように感じられて同意できないのだ。
                 なによりも村落共同体が、明治近代化過程を経て衰退していくことになったことを、まず認識すべきである。それは、敗戦期を経て、戦後復興というかたちで進められた高度経済成長下で、さらに加速されていったといえる。幾つか象徴的な事例を挙げてみる。ダム建設の推進で、ダム湖に消えた集落が、どれだけあったかを考えるべきなのだ。あの成田空港建設においても、農家の土地を簒奪し、集落(村落)を解体させていったことも、付け加えるべきかもしれない。極めつけは、平成の大合併だ。村という最小単位の自治性を解体して、町や市へ吸収させたことで、ますます集落(村落)の存立を弱体化させたことだ。もはや、過疎化した村落は、その共同性を持続させていくことは困難だといえる。歯止めも活性化も、その方途はなかなか見出すことはできないのが現在という場所なのだ。
                 よく考えてみれば、大都市圏以外の地方都市も、同じような情況を強いられている。シャッター街状態の小都市は、もはや特異な事態ではなく常態化しているといえるからだ。いったい、緊密な関係性を連携すべき最小単位の共同体という有様は、やがて消失していくしかないのだろうかと暗澹たる思いになる。このような感慨のなか本書を読み進め、学生たちの思いに接し、まだまだ、狎篷将瓩垢襪里倭瓩い覆抜兇犬燭箸い辰討いぁ3萋阿両楮戮蓮∨椽颪鮗蠅砲箸辰篤匹鵑任發蕕Δ箸靴董学生たちによる住民たちとの応答を引いてみる。
                 「―辻又に住んでいて良かったと思うことは?/水落『自然にしたがって生きられること。人間関係が都会と比べてややこしくないし、農業は自分のやりたい時間にできるからね。(略)』/(略)/―辻又で復活してほしい行事はありますか?/水落『昔から伝わる伝統の踊りや歌を守っていきたい。無理かもしれないが、山の資源がお金に換わる時代になってほしいね。そして村のなかで子どもたちの声をたくさん聴きたい』」(水落義太郎・81歳、聞き手・大嶋杏奈)
                 「幸せだと感じるのは、自然がのどかで、自由なところかな。いまもここに住んでいる理由としては、そうだな、まあ、しょうがなくて住んでいるかな。」(佐藤眞一・65歳)
                 「今は毎月1回、集落の常会があって、それが楽しいね。みんな一緒に集まって話をしたり、困りごとの相談とか、まあいろいろだなあ。良いことも悪いこともあるさ。」(佐藤重夫・85歳)
                 村落的な共同性は、一見閉じられた有様に思われるかもしれない。濃密な関係性によって個の自由がないとも。それはある種の偏見であることを、辻又の人たちが述べていることで理解できるはずだ。「自然にしたがって生きられる」「人間関係が(略)ややこしくない」「幸せだと感じるのは、自然がのどかで、自由なところ」「みんな一緒に集まって話をしたり、困りごとの相談とか、まあいろいろだなあ」といった言葉のなかに、いわゆる共同体に潜在する相互扶助性というものが、辻又にはあることを示している。編者たちは、最小の「情報システム」は、「人と人との『コミュニケーション』で」(大嶋)あると述べているが、森本祥一は、さらに「私たちのような外部のものが入り込み、情報の循環を促すことが必要になります。私たちが媒介となることで集落の住民同士が話をする機会を増やしたり、集落内の情報を掘り起こして伝えたりして、集落内での情報の循環を回復させます」と言い添えている。
                 辻又では「昭和の時代には祭礼興行を行ってい」て、「踊りや演劇、唄、芝居をやり、プロの浪曲師を呼ぶこともあ」ったようだし、「江戸の頃は、辻又神楽舞や辻又花火、辻又歌舞伎などの興行もさかんだった」という。「昔から伝わる伝統の踊りや歌を守っていきたい」と語る住民の声に応える方途を考えていくことも、コミュニケーションであるといえるはずだ。
                 学生たちが巻末座談会で語っていたことが、印象的だった。
                 「自分の中では『集落』に『昔のもの』という偏ったイメージがあって、そういう共同体が存在していることが逆に新鮮でした。」(井上智晶)
                 「(引用者註・活性化は必要かどうかということにたいして)今の生活を維持できる何かしらの対策は必要だと思いますが、それ以上の活性化は逆効果な気もします。」(大嶋)
                 彼ら彼女らが、辻又集落の住民たちとの交流を通して得た経験を未知の共同性の有様へと繋げて欲しいと思う。

                (専修大学出版局刊・16.7.28)

                2017.01.14 Saturday

                一葉が紡ぎだす明治中期の吉原遊郭周辺の人々の暮らしと佇まいを描出                      ―一葉の作品世界の情感と、千明初美の漫画的表現が、見事に共振、共鳴し合う

                0
                  樋口一葉 原作・千明初美 漫画『漫画版【文語】 たけくらべ』
                  (「図書新聞」17.1.21号)

                   樋口一葉という作家の有様にたいして、わたしは、ただ直截に二十四歳で夭折した女性という視線で確定させてきたように思う。それは、作品自体にしっかりと接してこなかったことに由来する。擬古文に馴染めないものにとっては、『たけくらべ』や『にごりえ』という作品は、やや難渋な感覚を強いられるからだ。しかし、本書は、あえて文語体(ただし原文にない言葉を口語文にして適時に組み込んでいる)のまま、漫画作品として編集しているから、本書の「解説」で三田誠広が述べているように、「コミックのようなコマ割りに適度に配置された擬古文が心地よく、作品の中にたちまち惹き込まれるような効果を」放っているといっていい。漫画(画像)の力といえば、それまでかもしれないが、千明初美の柔らかな描線は、一葉が紡ぎだす明治中期の吉原遊郭周辺の人々の暮らしと佇まいを、鮮鋭に表出しているからだといえる。なによりも、登場人物たちの描像が、千明漫画によって、地の文との共鳴を引き出し、少女・少年期独特のイノセントな情感を醸成させているのだ。
                   12Pから33Pまでの育英舎に学ぶ子供たちを一気に描いていく場面は、物語の核となる美登利、信如、正太郎、長吉、三五郎たちの関係性を浮き上がらせ、しかも、擬古文の読みづらさが、いつの間にか気にならず、読み通せたような感じにさせるのは、漫画的膂力という他はない。特に、美登利を描像する場面(23P)は、圧巻だ。画面上方、美登利の顔のアップを挟むようにして、右上に、「解かば足にもとゞくべき/毛髮を、根あがりに/堅くつめて前髮大きく/髷おもたげの――」を配置し、左上に、「色白に鼻筋とほりて、/物いふ聲の細く罎靴、/人を見る目の愛敬ふれて、/身のこなしの活々したるは/快き物なり。」を配置している。下方には、美登利の歩いている姿を町の若者が見ているカットを置き、「大邁阿糧登利 十四歳」(原文になし)を右下に、「へえ…/きれいな/子だ」(原文になし)、「今三年の/後に見たし」と、左下に、爐佞だし瓩鯑れている。長いセンテンスで続く原作と違い、改行されることで、リズム感のようなものが滲み、三田が述べているように、擬古文が心地よく感じてくる(つまり読めるような感じがする)から、やはり、視覚的なものは、大きな意味を持っているということになる。
                   わたしは、共感する漫画作品を小説作品と同様の位相で読んできた。つまり、自分が評価する表現作品をカテゴライズしたことがないということだ。小説や短詩型、さらには漫画(劇画)、映画、音楽、絵画であっても、それぞれのジャンルとして見做すのではなく、例えば、つげ義春の作品と、漱石の作品を同等に見通すということである。文学的な名作を漫画にして刊行する場合は多々あるが、それ自体を否定するつもりはまったくない。ただし、本書のように、一葉の作品世界の情感と、千明初美の漫画的表現が、見事に共振、共鳴し合うことは、もしかしたら、稀有のことなのかもしれない。
                   十三歳から十六歳の少女・少年たちの、それぞれの数カ月の時間を描出する物語の最終場面は、深い予兆を湛えたものになっている。
                   「或る霜の朝」「寒いと思つたら/庭に霜柱が…」「白水仙の作り花…」「いつたい誰が…」「何ゆゑとなく懐かし」「誰やらに似かよふ」「淋しく罎姿…」「聞くとも/なしに/傳へ聞く、」「其明けの日は/信如が/何がしかの學林に/袖の色かへぬべき/當日なりしとぞ。」
                   右頁(144P)に、美登利の哀しげに俯く顔のアップ、左頁(145P)には、信如の後ろ向きの袈裟姿。そして、右下に「水仙の作り花」の一輪挿しのカットを入れた最終面で『漫画版【文語】 たけくらべ』は、閉じていく。
                  いずれ、美登利は、姉と同じように「大邁亜廚陵圭となり、信如は僧侶となって、二人は会いまみえることはないのだ。少女・少年期の淡い恋情を物語っていく一葉の作家としての深い表現性は、わたしが拘泥していた夭折した女性作家などという教科書的な視線を、見事に解体してくれるものだといってもいい。
                   鷗外が『舞姫』を発表したのは、五年前の明治二十三年だ。漱石が熊本の第五高等学校に赴任したのは、一葉が亡くなった明治二十九年(1896)である。漱石が、初の小説作品『吾輩は猫である』を発表したのは九年後の三十八年のことになる。
                   『たけくらべ』は、雑誌「文學界」(1893〜98)に発表、断続連載されものだ。「文學界」は、いまさらここで説明するまでもないかもしれないが、上田敏、北村透谷、島崎藤村、田山花袋、松岡國男(柳田國男)らが集結していた月刊文藝雑誌であった。一葉がどんな場所で表現していたのかを想起してみるならば、漱石、鷗外とはいわないまでも、明治期文学として、もっと高い評価を得て当然だと思わないわけにはいかない。
                   さらに、もう一つ付言しておきたいことがある。わたしにとって、千明初美は、まったく未知の漫画家であったが、七十年代、雑誌「りぼん」で活動していたことを本書の奥付で知ったことになる。実は、いま思いがけない機縁を得たことがわかったのだ。わたしが、デヴュー作『絶対安全剃刀』以後、全作品を愛読している漫画家・高野文子が敬愛してやまない作家だったということだ。近々、高野文子の企画・監修による千秋初美の復刻版作品集が刊行されるという。
                   このようにして、本書を通し多くのことを喚起されたと、強調しておきたい。

                  (武蔵野大学出版会刊・16.9.20)

                  2016.12.17 Saturday

                  歴史の深層を切開していく著者の鮮鋭さが際立つ                       ――「歴史を俯瞰する」視線の切実さ

                  0
                    白石成二 著
                    『教養としての日本史―古代の歴史から日本の今を見る[上・下巻]

                    (「図書新聞」16.12.24号)

                     総頁数が千頁を超える大著を前にし、圧倒されながらも、まず一瞬、考えてしまったのは、書名に冠した犇詰椶箸靴騰瓩箸いΩ斥佞世辰拭狠里箸靴騰瓩發修Δ世そのようないい方をされると、わたしは、直ぐに、犇詰椨瓩筬狠劉瓩鮨箸砲弔韻燭らといって、たいしたことはないんだといいたくなってくるからだ。しかし、ここでの犇詰椨瓩砲蓮表層的な装いから最も遠くにある、自らで考え思考していくことの意味が含まれていることを著者の次のような視線によって理解することになる。
                     「本来歴史とは、歴史家に固有な問題意識と基準によって方向づけられた意欲的な選択の行為であるが、それが忘れられ、今日に至っている。現在の様々な問題についても『現代史が専門ではない』として目をそらすわけにはいかない。(略)歴史家の網野善彦氏は、歴史学の現状が個別分散化の傾向が強くなっていることを憂いながら、個別研究の前提として全体の歴史をどのように考えているかという見方が必要であるという。だから『すべての歴史家が通史を書くべきである』と指摘しているが、そこには網野氏がかつて高校の歴史教師として自らが日本の通史を教えてきた背景があると思われる。網野氏の著書が歴史研究者だけでなく、多くの一般読者にも受け入れられたのは、歴史を俯瞰する『史観』を提供していたからだと思われる。」(「序論」)
                     「史観」といえば、なにやらイデオロギーの色彩があるかのように思えるが、それは違う。網野が戦後、いわゆる歴史学界のなかに身を置いたころ、マルクス主義史学が主流であった。そこでどのようにして自由に思考していくかという格闘によって、独自の網野史学を構築していったからだ。著者が網野を援用して述べる、「歴史を俯瞰する」という視線こそ、研究者たちだけの問題ではなく、わたしたち自身にも切実なこととして考えていくべきことなのだ。
                     だからこそというべきか、著者によって編まれる狷本史疔椶蓮独自の世界を展開している。全七編に分け、それぞれ以下の表題を付している。「第一編 宗教・思想」、「第二編 衣食住の歴史」、「第三編 年中行事」、「第四編 古代の人物評伝」、「第五編 動物たちの歴史」、「第六編 社会生活・社会問題」、「第七編 日本人の心性と日本人論」というようにである。
                     第一編では、仏教や神道における受容の時間性を辿りながら、「靖国」へと論及していく。
                     「戦死者の多くは家の墓や仏壇で祭られるだけでなく、各都道府県単位の護国神社で祭られ、さらには靖国神社で祭られるという多重祭祀である。普通の死者は家の墓に入れば、それで終了となるという単一祭祀である。戦死者に対し多重祭祀が自動的に行われていることに私たちはほとんど自覚していない。(略)いとも簡単に人が神になるとする精神性は、それが個人や神祭りに限定されるのであれば別に問題ではない。(略)招魂慰霊の儀礼によって創り出される神々は、その創出も祭祀も解釈も、その時々の人間の利害関係によって平和祈願のみならず、戦意高揚や戦勝祈願や戦死美化などの意味づけが無限に拡大されていく宿命にあるのであり、その特徴をしっかり認識しておく必要があるのである。」
                     「靖国」問題を、著者のように述べるならば、たぶん、多くの人は素直に理解できるのではないかと思う。わたしは、「多重祭祀」ということにこそ、重大な矛盾を孕んでいると考える。例え戦地に行ったからといって、一人ひとりの死は、個的な死であって、国家の一員であるという位置づけで国家祭祀のなかに取り込むことには、無理があるといっていい。ましてや、戦地での死者の多くは、食糧難や劣悪な環境の中に置かれたための病死であることを思えば、見殺しにした国家によって、「戦死美化」なんかにされたくはないはずだ。
                     「『日本書紀』という書物は大変やっかいな歴史書である。それは史実を公正な立場でしるしたものではないから」(「第四編」)だという確かな視線の先に、歴史の深層を切開していく著者の鮮鋭さが際立っていく。
                     「そもそも人の年を満年齢で数えるようになったのは、アジア・太平洋戦争後のことで、たかだか七十年余の歴史しかない。(略)数え年を廃止し満年齢とすることは、実は国家の有様に関わる大きな問題が背景にあった。(略)中国の方式を天皇制の導入と共に取り入れ、独自の元号を作り、毎年の元旦に朝賀の儀式が行われた。したがって正月の元日は単なる年の始まりではなく、天皇によって定められた暦の元日であり、(略)天皇の下にある者は皆この日に年を重ねたから、元旦は日本人全員の誕生日だったのである。(略)つまり数え年は天皇を主権者とする国家の仕組みの中に位置づけられていたのである。」(「第六編」)
                     数え年が満年齢へと移行していく問題と元旦(元日)の位置づけをめぐって、天皇制を浮き彫りにさせながら展開していく著者の思考の有様に共感したい。例えば、かつてわたしに、元旦に餅を雑煮にして食することは、天皇制に関わることだと教えてくれたのは、村上一郎であった。わたしたちは、長年に渡って続いてきた正月の風習を、日々生活していることの連続性のなかに見出す限り、天皇制が作り出したものかどうかなど、関係はないといっていいかもしれない。だが、居心地のいい関係性が、なにかの契機によって、醜悪で頑強な集団性に転化してしまうことを忘れてはならないのだ。
                     「歴史はナショナリズムと密接な関係がある。自国を等身大以上に美化しようとする傾向や手軽な物言いは人の心をくすぐる。それは今も変わらない。しかしそれは自分たちが『見たい歴史』に他ならない。その心地良さの裏側には排除と対立が見え隠れするが、『教養としての日本史』はその対極にある共生と融和を目指すものである。共生と融和の歴史を多くの人が『教養』として共有するならば、ささやかでも今の社会に資することができるかもしれない。」(「第七編」)
                     著者が、「心地良さの裏側には排除と対立が」潜在していると指摘していることを、切実なこととして考えていくべきだと思う。そして歴史の網の目を、自分自身の眼を通して解きほぐしていくべきなのである。

                    (創風社出版刊・16.9.25)

                    2016.11.19 Saturday

                    ピケティの思考の核心を切開                               ――現在の超資本手記者会はどこまで変容していくのか

                    0
                      奥山忠信 著『貧困と格差――ピケティとマルクスの対話
                      (「図書新聞」16.11.26号)

                       トマ・ピケティの『21世紀の資本』の邦訳が刊行されて、二年経った。出版直後の喧騒を思うと、メディアからピケティの文字を、あまり見なくなっている現在、さてピケティ評価というものは、どういうことになるのだろうかと思っていたところ、本書に接するという幸運に遭遇した。わたしは、何人かの論者のピケティ観のようなものを表層的に眺めただけだから、本当は、本書の評者には、相応しくないかもしれないが、書名と、副題のマルクスとの“対話”であれば、ピケティの思想の一端を掴めるのではないかと、読み進めていった。
                       著者は、詳細にピケティの分析を論及しながら、極めて明快に、ピケティの思考の核心を切開してくれている。
                       「ピケティの『資本』は会社の資本財だけではない。」「収益を生む資産は、すべて『資本』と呼ばれる。」「資本の概念を広げることで、資本を持つ人の力と資本を持たない人の力の対立はより鮮明になる。鮮明になるだけでなく、現代の格差の持つ理不尽さも浮き上がってくる。」
                       ピケティの独自性は、多彩なデータを駆使しながら、マルクスのような資本家対労働者といった生産関係にフォーカスするのではなく、所得(資本)配分に視線をあてて現在を見通すところにあるといっていい。
                       かつて、わたしたちは、中間層の所得が増えて、一億総中流社会に達したなどと喧伝されて、資本主義社会が福祉国家の様態へと進んできたと錯覚したものだった。しかし、そんな幻想は、バブル崩壊期を経て見事に霧消していったといえる。ピケティが示唆しているのは、高格差社会という現状であり、「上位10%が35%の所得を取得し、将来は45%にな」ると警告していると著者は述べる。そして、ピケティが提案するのは、「所得税に対する累進課税の復活」と「富裕税としての資本税」であるという。いわゆる、富の再配分ということになる。
                       「ピケティの分析によれば、多くの人が資産を持つようになったのが今日の特徴である。ただし、富裕者と貧者では資産の格差が極めて大きい。労働所得の格差の比ではない。ピケティの資本税は、格差を是正し、透明性を高めるために富裕層に課す税である。」「ピケティとマルクスは、貧困と格差の問題に関して豊富な分析ツールを提供してくれた。日本経済の現状は暗く、うまい話は何もない。(略)国家の衰退を思わせる状況である。(略)崩壊の危機はもうすぐそこまで来ている。現実は小手先で解決できるようなものではない。」
                       わたしは、著者に誘われてピケティの小気味よい分析と税に関する提案に、諸手を挙げて首肯したいと思いながらも、どこかで逡巡している自分を確認せざるをえない。均等な、あるいは平等な課税システムを導入したからといって、それが、格差を縮小したり、解消されていくものなのだろうかと思わざるをえないからだ。本書では、「貨幣の謎」と題した一章を設けているように、多様な経済システムが拡大しているなかで、貨幣(ドル)を交換価値の象徴と見做すことに限界が来ているといえるのではないだろうか。国家(あるいは政府・行政機構)が、経済を統制、コントロールしていくには、もはや不可能な領域に現在、達しているとみるべきである。富裕層に高い課税を課し、貧困層を無課税にしたとしても、格差は解消されない段階に来ているといえるからだ。「日本経済の現状」を著者は「国家の衰退を思わせる」と指摘しているわけだが、政治的な意味では、まだ、国家(政府・行政機構)は、存在しえても、経済システムに関していえば、もはや、国家は無化されてしまっているといっていい。そういうアンビバレンツな状態を、わたしたちは認識していくべきだと思う。
                       「マルクスは、資本主義を歴史上の1つの発展段階として見ている。その意味は、一定の時期に形成され、一定の時期に終わりを迎えるという意味である。それは、人間が商品や貨幣や資本に振り回されることなく、経済を制御することのできる社会が到来するということである。これがマルクスの社会主義社会であった。」
                       いつからか、世界の先進的な資本主義国家群は、超資本主義社会というかたちに変容されてきたといえる。そういう意味でいえば、マルクスが想起していたような資本主義社会はとうに解体してしまっているといっていい。現在の超資本主義社会がどこまで、変貌ではなく変容していくのかは、誰にも、想像できないだろう。
                       ただし、わたしなら、反資本主義としての、「人間が商品や貨幣や資本に振り回されること」のない社会の到来を、いまだに夢想したいと思っている。

                      (社会評論社刊・16.9.10)


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