木村三浩 著『対米自立』
(「図書新聞」19.3.16号)

 著者は、新右翼とも民族派とも称される愛国団体・一水会代表である。鈴木邦男から代表を引き継いで十九年になる。わたしは、鈴木の著書はかつて何冊か読んだことがあり、彼の新右翼的な立場は、茫洋としながらも理解できないわけではなかった。本書の著者の立場は、例えば、テレビ番組の『朝生』に出演していたようだが、ここ何十年も、『朝生』を観ていないから、本書で初めて知ったことになる。率直にいえば、鈴木の所見には、何が右翼か、民族派か不分明な様態が多々あったが、著者の場合、対米自立という本書のモチーフにおいては、まったく同感であるとともに、わたしにとって未知なことも教えられた部分が多々あった。しかし、やはり、「生涯一ナショナリスト」という、その基底において、残念ながら(というしかない)、相容れないところもあったのは確かだった。だからといって著者に対して、抜き差しならない異和感を抱いたかといえば、そうではない。
 「日本の歴史の中で、一部を除くと、天皇陛下は『権力』ではなく『権威』の存在であったと考えられます。権力とはいわば世俗です。世俗の政治を超越したところの、歴史的な祭事を司る存在が天皇陛下だと私は思っています。」「天皇制度と日本国民が生存してきた共同体的国家を、私は国体と呼んでいます。/なぜなら、天皇制度だけで国家は成り立ちませんし、国民だけでも国家は成り立たないからです。」
 著者は、さらに、「『国体とはこういう意味です』と、人に押しつけるものではない」と述べて、自らの「思想や信念」を披瀝している。わたしは、「権威」もある種の「権力」となって民衆をコントロールしていくものだと捉えているし、天皇制度というものが、その起源も含めて、「歴史的な祭事を司る存在」として、果たして時間的連続性を保持し続けてきたのかという疑念を払拭できないと思っている。だからといって、わたしもまた、著者の「思想や信念」に込めようとしていることを否定する立場ではないことを明らかにしたうえで、著者による「対米自立」と、「アジアの国々との平和構築」へ向けての論述に触れていきたい。
 「砂川事件が起きた昭和三二年においても、米国は裁判の判決にまで口を出し、それを日本は聞き入れていたというわけです。(略)日本は主権回復後も自ら進んで『米国と一体=対米従属』となって戦後体制をつくってきたということがわかります。(略)自由民主党は、この『米国と一体=対米従属』で政権を守り、甘い汁を吸い続けてきたので、自民党の政治家は対米従属という構造を変えることはできません。米国にこびるという一点だけで勝ち続けてこられた。これが自民党の原動力だからです。」
 この間の第二次安倍政権は、最も顕著に、しかも露骨に「米国と一体=対米従属」を邁進してきたといえる(本書では、米国からの想像を絶する大量の兵器購入を明らかにしている)。だから様々な不祥事が生起しても政権を持続してこられたのだ。対米自立と東アジア共同体を志向した鳩山・小沢政権は、米国の影響下にある司法によって、その地位を剥奪され、脆弱な菅、野田体制となって民主党は政権から転がり落ちていくことになる。二度と反自民(つまり反米)政権が生まれないようにあらゆる分野で、米国第一へのマインドコントロールを強固に続けてきたと、著者の子細な論述によって、わたしは確信したことになる。
 辺野古移設問題で揺れる沖縄の米軍基地には、事故の危険性のあるオスプレイが二四機配備されているが、横田基地にも配備されることが決定した。しかも、横田基地の上空は広域にわたって制空権が米国(米軍)にあることや、「現在も朝鮮戦争は終結していないので、国連司令部は横田基地に置かれたまま」なのは、あまり知られていないはずだ。著者は、「日米安保条約には、『米国の朝鮮戦争対策』と『米国が日本を支配下に置く』という」、「二重構造」があるとしながら、米国と北朝鮮が和解して朝鮮戦争終結宣言を行ったとき、国連司令部は解体しなければならないはずだと問題提起している。恐らく、日米安保条約との整合性は無視して、そのまま存続させるはずだとわたしなら考える。
 三年前の安保法制の強権的な成立に対して、多くの人たちによる抗議行動が広がっていったわけだが、憲法九条を守ろうという主張はあっても、日本国憲法の上位概念にある日米安保条約と日米地位協定の廃絶を叫ぶ声がほとんど聞かれなかったことに、わたしは、驚いたものだった。
 わたし(たち)は、七〇年前後、日米安保体制打倒とともにヤルタ=ポツダム体制打倒(一水会もテーゼとしている)を謳っていた。わたしのなかには、いまだにそのことは、基本的な認識としてあり続けている。だから、対米自立ということは、わたしにとっても拘泥し続けてきた問題である。
 「対米自立路線に切り替えた場合、日本経済はどうなるのかという不安があると思」うかもしれないが、貿易相手国として中国、韓国が上位を占めていることを考えれば、「アジア諸国との関係が良好なら大きな痛手にはならないはず」だと著者は述べる。わたしも同感だが、安倍政権が対米従属のまま政治的発言を続けていく限り、先行き不透明なことといわねばならない。
 「戦後の遺物である対米従属の安保体制から脱することを前進させ、『対米自立』を実現しなければならない」という著者の強い思いを、多くの人に本書を手にとって、喚起されて欲しいと思う。

(花伝社刊・18・11・25)

前田 保 著『「日本哲学成立下の真実」第鬼
西田幾多郎と瀧澤克己―交流の真実
(「図書新聞」19.1.12号)

 わたしは、西田幾多郎や三木清、田辺元といったいわゆる京都学派の哲学者たちの仕事を共感して受容してきたわけではない。むしろ、ある距離感をもって望見してきたといっていい。特に西田に関しては、最も遠い距離のなかにある。それは、本書では、あまり触れられていないが、戦時下の姿勢や立ち位置に少なからず疑念があるからだ。滝沢克己(書名では、狢轜靴箸靴討い襪、本文では、狢貘瓩班週しているので、以下、それに倣っていく)に関しては、神学者であるにもかかわらず、いや、神学者であるからこそといえるのかもしれないが、六〇年代後半のいわゆる全共闘運動に共感を示していたことを知って、当時、幾つかの文章を読んだだけに過ぎない。今回、あらためて、滝沢の夏目漱石に関する論稿を入手し、読み、わたしの滝沢への距離は、より近接なものとなったと述べておきたい。
 そのうえで、本書に向きあったとき、著者の壮大なる思考の場所にただただ圧倒されたといっていい。巻末に付された著者紹介には、滝沢克己協会事務局長、滝沢克己協会の年会誌『思想のひろば』(現在休刊中)の編集にあたっていたことが、記されているから、本来なら、書名は、『瀧澤克己と西田幾多郎』となるべきところ、西田を冠するのは、「滝沢への関心が西田との関係へひろがって」いったことを意味しているようだが、もとより、「ベクトルは滝沢からのものを保持している」(「あとがき」)と述べている。そのうえで、本書の構想は、「近代日本における独創的な思想、つまりまさに『日本哲学』の成立のその始原」を照射するという試みを「シリーズ全四巻」での完結を目指しているのだという。「著者の壮大なる思考」と述べたのは、それらのことに所以するからだ。
 そもそも、滝沢の初めての著作が、『西田哲学の根本問題』(刀江書院・一九三六年刊)であったことをわたしは、本書によって知ったことになる。西田と滝沢の「交流」とは、その著作を挟むようにして、三三(昭和八)年から、西田が亡くなる直前の四五(昭和二〇)年五月までの「滝沢宛て西田の書簡」全六十二通というかたちでの交流の実相を切開していくことを起点にして、滝沢による西田哲学の擁護と批判、もうすこし別様にいえば、滝沢による西田哲学の世界を脱構築していく軌跡を論及していくものだと、本書(シリーズ第一巻)を捉えていいはずだ。
 わたしの関心はまず、戦時下における滝沢の立ち位置ということになる。「滝沢は帝国憲法に規定された臣民として、外来のリベラリズムにもマルキシズムにも共感せず日本という立場を採ったが、さりとて帝国主義も国粋主義も敬遠して『世界の中での日本』のあり方を探ったといえよう。滝沢の論文には侵略を正当化したり、アジアを蔑視したりという要素がない」と著者は述べている。一方、西田はどうか。「戦局打開のため開かれる予定となった大東亜会議に向け、陸軍からその理念を諮問され」て執筆した「世界新秩序の原理」(昭和十八年)が、「東条内閣には取り入れら」れなかったとしているが、わたしなら、滝沢に比して、「大東亜戦争は、東亜諸民族がかかる世界的使命を遂行せんとする聖戦である」「米英帝国主義の桎梏を脱し、東亜を東亜諸国民の手に回復する途は、東亜諸民族自らが、共通の敵米英帝国の撃滅、根絶を期して結束する以外にない」とする西田の「世界新秩序の原理」のなかの一文に胚胎する激烈さを問題視したいという思いになる。これは、「滝沢は戦前、西田存命中にすでに、西田哲学の根本的な欠陥に気づき、これを指摘するだけでなく、これを是正する世界把握の方式を提出していた、ということになる」と著者が指摘する二人の間にある空隙を、戦時下の立ち位置にも敷衍することができるはずだといえるのではないか。だから、次のように著者が論述していく交流の真実は、わたしに深い感慨を与えてくれることになる。
 「西田は最晩年の宗教論で滝沢の批判に応えた。しかし、戦後の滝沢はこれに満足せず、最終的には西田哲学を一個の形而上学と論断するにいたった。」「二人は師弟関係を保ったが、その関係は一方的ではなく、双方的というべきであり、両者はお互い一個の独立の研究者として認め合いながら、その主張においては厳しく対峙し合った、といえるであろう。」「西田哲学は結局は知的自己の立場だった、というべきなのだろうか。突き詰めたところではそういわざるを得ないであろう。しかし、(略)西田哲学は行為的自己の立場の哲学だったが、そこに一点の曇りがあったということになるのではないだろうか。」
 こうして、著者は「知的自己」、「行為的自己」を往還する西田哲学の隘路に対して、次のように述べていく。
 「滝沢は哲学の閉域に現実を回収してしまうことはできないことを自覚し、哲学はそのような閉域構築であってはならないということを、日本に真の哲学が誕生したといわれるまさにその瞬間に突きつけた、といえるのではないであろうか。(略)現代思想としての滝沢がここにあると思われる。」
 わたしの一方的解読は、著者の本意から離れることになるかもしれないが、「知的自己」にしても「行為的自己」であっても、それは閉域構築に過ぎないといっていい。そういう意味でいうならば、著者が指摘するように、わたしもまた、滝沢克己は、現代思想に屹立した存在だといいたいと思う。

(七月堂刊・18.9.9)

……年齢を重ねてくると、記憶力というものが、急激に減衰してくるとは思わなかったというのが、正直なところだ。この一年、いったい何が起きて、何が問題だったのかということを、直ぐに思い出せなくなったといっていいが、君はどうだい。
――わたしも同じだ。『風の森』誌は、一年に一回の刊行だけど、気がついてみると、締切が直ぐにやってくるという感じだからね。
……それにしても、押し寄せてくる情況的事象にどう対峙するかということに追われ、しっかりした情況認識をすることの難しさを感じるこの頃だよ。
――今日の君は、いつもと違って随分、殊勝な物言いに聞こえるけど、どうしたんだい。
……麻原はじめ、オウム事件の受刑者を一斉に処刑(死刑執行)したことは、天皇退位、つまり改元の前にという思惑によってなされたことだと俺は思うが、それは許し難い暴挙だといいたい。それにしても、安倍政権の九条改悪や原発存続に反対という渦のなかから、死刑制度に反対という動きが、俺には見えてこないが、どうだろう。
――世論調査でも、死刑制度反対は圧倒的に少数派だからね。どんな理由づけをしようとも、個別の殺人は許されることではないが、例え法的に認定したからといって、処刑(死刑執行)は、国家による殺人であると認識すべきだと思う。いままでも、現在でも、どこかの国で、権力闘争のために政敵を抹殺するということを、その国の制度に則ってやっていることを考えれば、処刑(死刑執行)制度は、同じ位相にあるといいたいね。金正恩が自分にとって政敵の可能性があるということで、義理の叔父や兄を殺したことに対し恐怖政治だと批判するなら、死刑は処刑とどう違うのだといいたいな。そして、もっと敷衍していえば、戦争や内戦の殺戮は、いかなる大義名分があるとしても、殺人以外の何ものでもないからね。以前、吉本さんに死刑制度のことを訊ねたことがあるけれど、次のように述べてくれて、まったく同感だった。

「刑罰というのは、つまりその社会の現状といいますか、進展度といいますか、そうしたものよりも少し先に法律規定というのは走りすぎているか、それでなければ緩すぎているか、どちらかであって、その時代の現実情況にぴったり即応した法律というのは、(略)ほとんど不可能に近いほど難しいと思います。(略)死刑の問題についていえば、いまの現実の社会情況の進展度と、文明文化の進歩度というものを日本の現状で考えてみたら、これは人工的すぎるのではないか、法律の死刑制度というのは、少し先を行きすぎているのではないかな、という感じです。(略)ぼくの方は、はじめから死刑制度には全然納得していないのです。(略)凶悪犯罪をやってしまったことが凶悪であるということと、その人間が凶悪だということはまるで違うことだと思います。(略)その場で凶悪になってしまうということは、誰しもあり得るわけですから、やったとたんに後悔しているということも、もちろんあり得るわけです。/その問題を人間的には解決していないのに、しゃにむに絞首刑にしなければいけないという感じがします。」(吉本隆明『第二の敗戦期』)

 結局、刑罰に関する法的な規制というのは、善悪の問題を二元論的な視線で捉えることにあると思う。善も悪も、グレーゾーンがあり、それぞれが重層化し多様化することもありうるということが抜け落ちている、つまり、やや大げさにいえば、人間の存在性、有様というものに思考が入り込めていないということだ。「凶悪犯罪をやってしまったことが凶悪であるということと、その人間が凶悪だということはまるで違うことだ」と当然のことだと思うし、法的に裁くということであるなら、なぜそのような凶悪犯罪をしたのかということの実相を明らかにしなければ、たんに刑罰を科すということでは意味をなさないと思う。被害者家族は、なぜ、自分の家族が犠牲にならなければいけなかったのかという本当の理由を知りたいはずだ。ただ、死刑にすれば自分たちの悲哀を払拭できるなんて考えていないと思いたいね。もう少し、補強して考えてみるなら、次のような論述を紹介したい。

「(略)死刑は《合法的な殺人》であり、《法》や《国家》が永遠の先験的な善、至上物ではないということだ。そして、この殺人は、誰がやったのか顔が見えず、すべては《法》に従い、命令に従っておこなわれるもので、地上における人間による殺人よりもっと悪質なのだ。純然たる《公的な殺人》などありえない。どこかで《私的な殺人》を《公的な殺人》にすりかえている側面がかならずある。/この《合法的な殺人》と同型なのが《戦争》だ。殺人をすること(殺人を命令すること)はすべて《法》を根拠としており、人間が殺人をおこなうことは罪にならずに《法》に疎外される。凡庸で陳腐な殺人の根拠は《法(共同観念)》そのものにある。」(菅原則生「オウム真理教の死刑について」―『続・最後の場所 No・6』18年10月刊)

 ここで述べているように、「公的な殺人」と「私的な殺人」、「合法的な殺人」といったカテゴライズの深層を、明快に切開していくべきだと思う。人間の生命を恣意的に絶つということに、段階や優越があってはならない。それに、わたし自身は、連合赤軍事件、東アジア反日武装戦線の爆弾闘争を、明快に距離感をもって裁断することをできないでいる。オウムならできるのかといえば、やはりどこか逡巡するものがあるのは確かだといっていい。
……そういえば、『朝日新聞』の「論題時評」を終えた後、断続的に、「歩きながら、考える」と題した文章を発表している高橋源一郎は、さすがに視線の鮮鋭さを持った考え方を展開しているね。オウム事件の死刑囚が刑を執行された時、幸徳秋水や管野スガたち無政府主義者たちの「『大逆事件』死刑囚12人の執行」を想起したというから、オウムとは思想的乖離があるとはいえ、鋭い。さらに「オウムの死刑囚たちが一斉に拘置所を移送され、処刑の可能性が高まっ」てから、「旧上九一色村を歩いた」そうだ。そして次のように述べている。

「もうそこにはオウムを思い起こすものは何もなかった。そして麻原のいる東京拘置所の周りも歩いた。どちらも、歩きながら様々な思いが浮かびあがったが、それを正確に書き記すことは難しいような気がする。」「わたしには、連合赤軍事件を、即座に否定することができなかった。」「オウム事件はどうだろうか。(略)戦前は、天皇に忠誠を誓うのが『正しい』ことだった。戦後はそれが否定され、高度経済成長期には、豊かになることが『正しい』とされた。(略)『正しい』ことは時代によって異なるが、弱々しい『自分の考え』より、みんなが支持する『正しい』考えが優先される社会のあり方は変わらない。だとするなら、麻原を処刑しても社会は、自分とそっくりな、自分が絶対正しいと主張する別の麻原を生み続けるような気がするのである。」(『朝日新聞』18年7月14日付朝刊)

 正しい、正しくない、君がいうところの善悪の問題は、社会やその時々の法規範という「統治」の問題に関わっていく気がするね。そしてその「統治」というものが、上から下方へ、つまり大きな国家や社会という共同性から、小さな共同性にまで降り立って規制していく。小中学校のイジメなんか、そのことの象徴のような気がするよ。ところで、源ちゃんの時と比べてみたら、いまの小熊なにがしの「論壇時評」は酷いね。スカスカの文体と見解を垂れ流しているだけの〈空虚〉な言葉だといっておきたい。
――確かにそうだ。同感だ。いまの『朝日新聞』の「論題時評」(毎月末、最終週の木曜日掲載)が、高橋源一郎から、歴史社会学者と称する小熊英二になってからは、ほとんど読むこともなくなったが、ふと気になって、次のような文章を目にした時、大げさにいうつもりはないが、驚愕してしまったね。「日本はなぜ核武装しないのか。それは、そうしなくてもよい国際関係があるからだ。また核武装したら、その国際関係が破綻するからだ」と述べながら、次のような持論を展開している。

「現在の安保条約や日米関係が理想的なのかは議論もある。しかしその日米関係が、日本が核武装をやめた背景にあったことも事実だ。もしあそこで核武装していれば、国際関係が歪み、依存から抜け出せなくなっていただろう。/いちど核依存になった国は、圧力だけかけても効果は薄い。北朝鮮も同様だ。全面戦争で双方に大量の犠牲者を出したいのでなければ、関係を再構築していくほかない。その具体策を考える際には、日本自身が、安全保障上の不安をやわらげる国際関係なしには核武装をあきらめなかったことを念頭におくべきだ。」(『朝日新聞』18年6月28日付朝刊)

 小熊は、62年生まれだから五十代半ばだが、歴史社会学者にして慶應義塾大学総合政策学部教授らしいが、わたしたちにとっては、『1968 上・下』(新曜社 ・09年刊)というトンデモ本を出した男として認知している。本当に歴史社会のことを分かっているのかといいたいね。
……確かに絶句だな。まず、「現在の安保条約や日米関係が理想的なのかは議論もある」という前提はなんだい。国と国の関係は五分と五分に決まっているだろう。理想的かどうかなんていう議論はどうでもいいことだ。そんなこともわからない歴史社会学者とは、どんなことを研究しているかと聞きたいね。
――なによりも、日米地位協定のことに触れずに、日米関係や、それに付随する安保条約があったから、「日本が核武装をやめた」という〈事実〉っていったい何だといいたい。戦後の日本をコントロールしたいから、核を持たせない、本格的な軍隊も持たせないとし、アメリカの核を配備した原潜を自由に入港させ、迎撃ミサイルを配備した米軍基地を、沖縄を中心として列島に配置したことを小熊は、まったく無視していることになる。どんな思考回路からそんな発想が出てくるんだと言葉がないよ。この時の論旨は、北朝鮮(という名称を使いたくはないのだが)の核保有のことを念頭に置いているのだが、本末転倒という言葉を、小熊のそうした考え方に与えたいね。核保有大国が、核保有小国や日本国のような潜在保有国に対して、核放棄を恫喝して主張するのではなく、保有国、非保有国に関わらず核を全面廃棄することが、最終的な到達点でなければいけないはずであって、小熊は、そんなことすら念頭にないとみえる。
……「核武装していれば、国際関係が歪み、依存から抜け出せなくなっていた」なんて、核が麻薬やアルコール依存のようなものと主張する、幼稚園レベルの発想だよ。核依存ではなく、現実はアメリカが有する核に対しての依存なんだから、アメリカ依存とどうしていえないのか、そんなことも理解できないなら、国際関係のことなんかに論及するなといいたいね。核を保有する意味は、核依存といったレベルではなく、幻想の巨大軍事力として敵対国に対して圧力を与えるためのもの以外のなにものでもないのは、誰でも知っていることだ。
――まあ、小熊の論旨は万事が、そんなレベルだから、これ以上、俎上に乗せるのもウンザリするけれど、最後に、どうしてもいいたいことがある。吉田裕の著書『日本軍兵士』(17年刊)と鴻上尚史の著書『不死身の特攻隊』(18年刊)に対して、次のように論述している。

「これらの著作が描いているものは、日本軍の人権軽視、無内容な精神主義、上官による『いじめ』などだ。(略)このことは、日本に今も定着し続けている戦争観の特徴を示している。その特徴とは、『上層部』に対する不信だ。/日本では、アジアに与えた加害を重視する戦争観は定着しなかった。しかし一方で、日本軍を英雄視する歴史観も定着しなかった。定着した最大公約数的な戦争観は、『政府や軍は愚かで、非合理な戦争だったが、民衆は被害者だった』というものだった。」(『朝日新聞』18年8月30日付朝刊)

 どうだい、突っ込み満載だと思わないかい。この後、もっと空虚な論述が続いていくけれども、そのまま引くのは嫌になるので、ピックアップしてみる。「本来なら敗戦直後の時点で、日本の民衆と一般兵士に多大な被害を与えた為政者の責任を日本自身の手で裁き、少額でも民衆への保障を行う」べきだったとし、そうしていれば、「他国の被害者への保障も進みやすかっただろう」と述べ、「自国の被害者が放置されているのに、他国の被害者を優先して保障す」れば、「単なる外交配慮としか映らない」と、幼稚な考えを披歴しているが、そもそも、加害者―被害者という位相で〈戦争〉について論述していること自体、空疎で、中身のないものでしかないね。
……それにしても、酷いな。こんな言説を垂れ流す小熊が、それなりに社会学会や論壇のなかで大きな影響力を持っていると、実は漏れ聞いて愕然としているところだった。以前、あのSEALDsに共感を示して、猯票鵜瓩鯢縮世靴燭弔發蠅もしれないが、そんなことはなんでもないことだと俺は、まずいいたいね。俺は、吉田の著書は、読んでないが、鴻上の著書には感心したよ。鴻上の本は、「日本軍の人権軽視、無内容な精神主義、上官による『いじめ』」といった皮相なレベルのことを描いているわけではない。そもそも、「日本軍の人権軽視」という観点は、なにをもっていえるのかと呆れる。軍隊に人権を求めること自体、〈軍〉という有様をなにも捉えていないことを示しているといっていい。問題は、なぜ、精神主義やいじめが瀰漫していったかであって、現象論だけで表層を見るものではないと断じたいよ。さらに、その後のくだりがまた、亞然とするね。「日本では、アジアに与えた加害を重視する戦争観は定着しなかった」と、なにを根拠に述べているのかといいたいし、「定着した最大公約数的な戦争観は、『政府や軍は愚かで、非合理な戦争だったが、民衆は被害者だった』というものだった」なんて、捏造以外のなにものでもないな。天下の『朝日新聞』が、こんな暴言をそのまま掲載するとは、恥ずかしくないのかと思うよ。すくなくとも、学会や論壇のなかでのことは知らんが、俺たちが知る限りでの様々な考え方を抱いている人たちで、しかも年齢層を幅広く、見てみるならば、「政府や軍は愚かで、非合理な戦争だったが、民衆は被害者だった」と戦争観を述べる人は皆無だ。つまり、こういうことなる。ここの文章には、三つの見方が混在している。「政府や軍は愚か」だった、「非合理な戦争だった」、「民衆は被害者だった」と。それぞれの見方自体があるのは、認めてもいい。しかし、この三つの観点は、ひとつに纏まった考え方として成立しえないということだ。「政府や軍は愚か」だといういい方には、もう少し理知的に遂行していたら戦争は負けなかったかもしれないと浅薄な意味が含意している。「非合理な戦争だった」というが、では、犢舁的な戦争瓩箸いΔ發里、果たして本当にあるのかということの説明がなければ、猗鷙舁瓩覆發里鷲發上がって来ない。そして、「民衆は被害者だった」という考え方が、「最大公約数的」だとは、とても思えない。付言するなら、それは、敗戦宣言間際、二つの犖暁投下瓩あったからであって、戦時下において「民衆は被害者だった」と、戦後、多くの人たちが想起することは、ありえないといいたい。
――要するに小熊のなかでは、戦争というものは、加害者―被害者という位相を生起させるものだという、極めて図式的な捉え方しかないのかもしれない。オウム事件の受刑者の死刑執行に何らかの発言をしたのかは、わからないが、たぶん、死刑が戦争で人を殺すということと同じ位相を持つという視線は、持てないと思う。たぶん、わたしの思い込みかもしれないが、小熊の父親は、シベリア抑留体験者だったようだ。だから召集されて戦地で捕虜になった民衆(父親)は、被害者だったという意識が強いのかもしれないが、それにしても、戦後補償の問題に関するアプローチは、浅薄過ぎるな。「本来なら敗戦直後の時点で、日本の民衆と一般兵士に多大な被害を与えた為政者の責任を日本自身の手で裁き、少額でも民衆への保障を行う」べきだというが、「本来」という形容は、「敗戦直後の時点」では意味をなさないものだ。敗戦によって戦勝国家群の統治下に入った以上、「為政者の責任」も「民衆への保障」も存在しないわけだから、そもそも、この論旨はなにも意味を持たないのは明らかだ。「他国の被害者を優先して保障す」ることは、当然ありえない。しかし、ここでも、他国の被害者への保障が、「単なる外交配慮」だと見做すところは、先の、日米安保条約に対する見地と同じものだといえる。これが、猯鮖房匆餝忰瓩箸いΤ慳笋世箸いΔ覆蕁△いさま新興宗教団体の教理のレベルだといいたいね。あの連合国主導に強いられたポツダム宣言の受諾というものによって、大日本帝国による東アジアへの侵略が生起した悲惨で膨大な被害に対する免罪を得たことになるのは、普通に、歴史通史として明らかになっていることだ。いまからでも、東アジア(もちろん、金正恩政権の国家も含む)と沖縄の住民に対する戦後補償は最優先にすべきことなのだ。それが、解決しない限り、自国民云々はないといいたい。
……その通りだと思うよ。しかし、くだらない小熊の妄言に付き合っていたら、紙数が尽きたな。本当は、元号改元批判をしたかったが、まあ、そのうちにやろうよ。

(『風の森 第二次第七号[通巻22号]』2018.12.20)

 市民スポーツセンターから、別の場所でYogaを再開してから五カ月経った。講師の方はこれまでと同じ先生である。ただし、いままでは、60分という時間だったが、今度は90分コースだ。この30分の違いが大きい。さすが、いろいろな用事と重なり、毎週というわけにはいかず、月二回をノルマと考えているが、行けなかった月もあったから、八回しか行っていない。それでも、Yogaから、本当に遠く離れてもいいかなと思いつつも、身体を動かすことの切実さは素直に感じている。
 日々、パソコンに向かって文章の類を入力しているのだが、自然に背中が丸みを帯びているのがわかり、なにやら圧迫感のようなものを覚え、息苦しくなることがある。そういう時は、背筋を伸ばし、大きく息を吸って吐くことがいいのはわかっているつもりなりだが、ついつい、そのまま、やり過ごしてしまうことが多い。Yogaをする度に、背筋を伸ばすポーズがあって、もちろん心地いいわけで、そのときは、ふだんでもやればいいと思いつつ、また、やり過ごしてしまうのだ。要するに、怠惰なだけなのだが、いつかは、日常の場とYogaの場での往還ができればと願っている。来年こそは。

花部英雄 編『ジオパークと伝説』
(「図書新聞」18.11.17号)

 ジオパークのジオ(Geo)とは地球・大地を意味し、パーク(Park)は、文字通り公園のことである。本書の編者、花部英雄によれば「科学的に貴重で景観にもすぐれている地質資源を含む公園」を、二〇〇四年にユネスコが、「世界ジオパークネットワークによる審査を経て『世界ジオパーク』として認定し」たことで、ユネスコの文化遺産、自然遺産とともに多くの人たちに、ジオパークというものが知られるようになったことになる。本書では、貴重な景観というものは、「長い時間をかけて風化や浸食、運搬、堆積などの諸現象によってダイナミックにできあがった地形であ」り、「そこには、動植物の化石や植生、土壌、気象や水などの生態的要素が加わって構成されてい」て、そのような「自然環境のもとで生活してきた人々がかかわり作り出した歴史的、文化遺産で」あると捉えたうえで、「ジオパークを伝承的な立場からとらえ」(花部「序・ジオパークと伝説」)ていこうするものである。
 日本において、世界ジオパークとして認定されているのは九地域であり、日本ジオパークネットワークによって認定された日本ジオパークは全国に四十三地域ある。本書で取り上げているのは、一〇年一〇月に世界ジオパークに認定された山陰海岸ジオパーク(丹後半島から鳥取県まで)である。この地域から喚起される多様な伝承・伝説を各論者は丹念に辿りながら人々の暮らしの深層を掘り起こしてく。
 例えば、「京丹後市網野町掛津にある琴引浜」は、「『鳴き砂』でも有名な観光地である」が、「サザエにまつわる伝説がある」という。山陰海岸は、出雲から地続きであるから、大国主命にまつわる伝説があるのは理解できる。琴引浜の近くにある白滝神社は、「大国主命がまつられてい」て、その淵源は、大国主命が舟でこの地に移動してきた時に「舟底にあいた穴をサザエが塞いで沈没を防いでくれた」(花部「海岸地形とサザエ救難伝説」)という説話に由来するようだ。「サザエ救難伝説」とは、論者がいうように、「おおらかな話で」、海岸に住む人たちと海の生物が強い繋がりを持っていることの表れのような気がしてならない。
 大国主命といえば、誰もが、「因幡の白兎」の説話を思い起こすはずだ。鳥取市白(はく)兎(と)にある白兎海岸が伝説の場所として知られている。「白兎が大国主命と八上姫が結ばれると予言したことから、白兎海岸の近くに鎮座する白兎神社が縁結びの地とされ、今は有名な観光スポットになっている」(後藤若菜「海と山の白兎伝説」)という。鳥取県八頭町福本にも白兎神社があって、山間部に白兎伝説というのは、意外な感じを持つことになるが、後藤は次のように論述していく。
 「福本の付近には、長く連なる中山の尾根に、驚くほど巨大な岩石が存在した。また近年は減ったが、昔は兎は山に多くいて、地域の人々には身近な動物であった。(略)海の白兎地域の白兎伝説も、福本にある山の白兎伝説も、それぞれの地域性や時代性を反映して形成され、残るべくして残った『白うさぎ』のお話なのである。」(「同前」)
 他に温泉をめぐる冨樫晃「ジオパークと温泉」、春日井秀「水害と伝説」、異形伝説をめぐる山口くるみ、瀬戸口真規、清野知子らの諸論稿がある。そして、わたしが本書で最も関心が惹かれたのは、浦島伝説をめぐる二つの論稿である。浦島伝説は、全国各地に横断していて、どこが伝説の始まりの場所かを特定することは難しい。暴論を承知でいえば、白兎伝説がそうであるならば、山陰海岸が最も相応しいような気がしてならない。
 「浦島太郎は日本の二〇数ヶ所の地域で、土地のさまざまな事物と結びついた伝説として、信じられる形で伝承されている。山陰海岸ジオパーク域内の京都府京丹後市網野町の浦島もその一つである。」(山田栄克「浦島伝説の記録をよむ」)、「網野町と海と、そして大陸との関わりの深さは、今でも海辺を歩くと容易に納得できる。夏の穏やかな釣溜に至る海上の道は、夕方歩くと飛沫がかかる程度であるが、冬には荒々しい波が押し寄せてくる。秋から冬になると地域の人が『ウラニシ』と呼ぶ強い暖流に乗って。寄せ物が海岸に運ばれてくる。」(北村規子「浦島伝説と日本海」)
 こうして、浦島伝説にふれながら、学生時代の友人の故郷が網野町だったことで、二度、訪れたことを思い出す。もう何十年も前のことである。あの時の網野町の風景が、あらためて、くっきりと浮かんできたのはいうまでもない。

(三弥井書店刊・18.7.5)

小杉亮子 著『東大闘争の語り―社会運動の予示と戦略
(「図書新聞」18.7.14号)

 本書に接して、六〇年代後半、学生運動といわれていた対抗運動が、大学闘争あるいは学園闘争というように、運動から闘争という表象の変容に、わたしは、感慨をあらたにしたといっていい。あるいは、回顧的に述べてみるならば、全共闘という運動形態と運動体の有様(ノンセクト・ラディカルという概念規定も含めて)について、わたし自身、どこかで距離を置き、振り返ることを忌避し続けてきたことに対し、本書は鋭く突きつけてくれたといいかえてもいい。わたしは、六七年一〇月八日の第一次羽田闘争の時、東北の一地方都市の高校三年生であった。闘争スタイルの苛烈化と京大生が亡くなるという衝撃はあったが、それよりも大手メディア(テレビ、新聞、「赤旗」も敢えていれておく)が、そろって、「暴力学生」、「過激派学生」と大きな見出し(「赤旗」は、時代錯誤的なトロツキストというレッテルを貼ったのはいうまでもない)で佐藤首相ベトナム訪問阻止闘争を非難していたことに、直截に憤りを覚えたといっていい。ただし、わたしの知る限り、不定期ながら購読していた書評紙『日本読書新聞』と『朝日ジャーナル』(高橋和巳の『邪宗門』を読むために購読をはじめて、連載終了後も定期購読をしていた)だけは、羽田闘争を評価していた。六八年四月に上京するが、そこから一年間の“浪人生活”を経て、翌年四月に大学に入学。わたしにとって、十代後半から二十代前半までの数年間は、様々な場所において、何ものにも換えがたい関係性の形成と濃密な経験をしたと思っている。いうなれば、その時期の“貯金”を切り崩しながら、「現在」まで生きてきたといっていいかもしれない。
 本書は東大闘争を六七年から七〇年代前半まで、発生過程、展開過程、収束過程と分けながら、東大闘争に関わったノンセクト、新左翼党派、民青の活動家まで含め四四人に聞き取り、その「語り」をあたかもドキュメントのように構成して、闘争の原像を浮き上がらせている。三十代半ばの著者にとって、亡き父の世代の体験をある意味、フィールドワークのように析出していく本書は、できる限り私見を排しながらも、「予示」的なるものを提示していく。
 最首悟の「語り」を引きながら、著者が次のように述べていく箇所がある。
 「社会主義運動とも政治党派とも関わりを持たない学生運動形成への動きは、六〇年安保闘争後にブントの一部で起きた動き(引用者註=『SECT6』のグループ)とも軌を一にしていた。すなわち、前衛党の指導に基づく労働運動中心の革命運動という構図を否定する動きが出てきたのである。」
 共産党配下の民青はもちろん、新左翼諸派(特に革共同の二派や共産同赤軍派)は基本的に徹底した前衛主義であった。やがて、連赤の問題も内ゲバという暗渠も前衛主義の陥穽を表出していたとわたしなら見做す。そして、そこには外部の権力との対峙に邁進するあまり「内」に潜在する権力性を見通すことが出来なかったからだといっていいはずだ。M・フーコーを援用するならば、「権力」は「遍在」しているのであって、「至る所にある」と見做すべきなのである。
 「革命をめぐる対立は言い換えれば、(略)マクロな次元で国家権力を運動の敵手として措定するか、社会関係や社会的行為のなかに見出されるよりミクロな次元での社会内権力を問題とするか、というものである。」「社会変革の範囲を小さくとれば、身近な社会関係や日常的な社会規範の変革にたどりつく。とくに、自らが他者との関係性のなかで意図せずに行使している権力や関わっている抑圧をただそうとするとき、社会運動は自己変革や自己解放の側面を持つことになる。」
 このように述べていく著者が提示する「予示」的なるものを、あえて収斂させたいい方をするならば「ひととひととの関係や共同体のありかた」を問うていくものであると理解していいのではないかと、わたしは思う。国家の有様を変革するためには、まず国家権力の奪取ありきというのは、ロシア革命以降のロシア・マルクス主義の誤謬でしかない。マクロなものとミクロなものはコインの裏表だと思う。ミクロなものが集積してマクロなものがかたちづくられると、わたしなら捉えたいから、「予示的」なるものの提示は刺激的だ。ただし著者が本書で提示する「予示的政治」と「戦略的政治」に関して、留保したいことがある。それは、「政治」ではなく、「反政治」とすべきではないかということだ。あるいは、「行為」、「行動」といいかえてもいいかもしれない。かつて、わたしは、「行為の共同性」ということに拘泥していたから、そのようにいいたいわけではないが。
 わたしが、全共闘という諸相に距離を置き、振り返ることを忌避し続けてきたのは、無党派、ノンセクトと括ることの安易さと、結局、党派によって主導され、安保決戦なる空疎な設定で全国全共闘を結成したことへの疑義があったからだ。しかし、本書には、語り手それぞれの現在も述べられていて、そこでは、まぎれもなく、「ひととひととの関係や共同体のありかた」をいまだに問い続けていることが示されている。
著者に誘われて、わたしもまた、もう一度、全共闘の有様と行動(行為)に関して再考すべきだと喚起されたといっておきたい。

(新曜社刊・18.5.15)

 Yoga教室の場所である市民スポーツセンターが、来月から10月中旬までバリアフリー化改修工事にはいるため、休講になる。これまでの講師の方は、先週で最後、再開後は引き続き講師は引き受けず、自分のスタジオと外の施設の方に専念することになった。先週、有志で送別会のようなものを行った。15年4月からYogaを始めて、先日(26日)も含めて、これまで代行の講師の方は二人来たことになるが、それぞれ三者三様で、代行の二人の方の教え方には、やや共通のものがあるが、常勤の講師の方は、かなり違う様相を持っていると感じる。まあ、劣等生のわたしが、生意気に講師の方たちの教え方になにがしかのことをいうのは、おこがましいのはわかっているが、いろんな意味で、偏見も含めて、わたしのYogaへの見方を壊してくれたということでは、常勤の講師の方と出会って、良かったと思っている。これも、ひとつの出会いであり、二十人ほどの生徒がいるが、誰とも話さず、来て帰るだけという人たちもいるわけだから、何人かの人たちと親しくなったのは、教室が、つまり講師の方が醸し出す雰囲気のおかげだと思っている。
 来月からは、Yogaから遠く離れてみながら、そして自分なりにYogaへと近接していくつもりでいる。

内海愛子・加藤陽子 著
歴史を学び、今を考える 戦争そして戦後
(「図書新聞」18.6.9号)

 急転する東アジアの情況のなかで南北首脳会談をめぐり、金正恩に騙されるなといった皮相な言及から、北が核を手放すわけがないといった陳腐な分析、そして極めつけは拉致問題を議題にのせるべきだといった発言が安倍政権とそれにつらなる勢力から聞こえてくるたびに、過去の時間を糊塗しているとしか、わたしには思えない。そもそも朝鮮半島の南北分断は、わたしたちの国にも大いなる責任があったはずだ。百数年前、朝鮮半島を統治下において三十五年間、なにをしてきたのかということを完全に忘失しているのではないかと、わたしは愕然とせざるをえない。だからといって、わたしは金正恩独裁体制を是認しているわけではない。それ以上に安倍政権をまったく認めていないことだけはいっておきたい。
 米ロ中などが核を保持し続けているにもかかわらず、なぜ北だけ放棄しなければならないのかと思うし、拉致問題は、南北や米朝会談に委ねるのではなく、直接、日朝で会談すべき二国間問題なのだ。ただただ米政権に追従するだけの安倍のヒステリックな北への強行路線を追認する人たちは、一九三一年の満州事変から十五年間にわたりアジア太平洋戦争を遂行した帝国日本の軍隊がどのように編制されていたのかをまず知るべきである。
 「帝国の軍隊は植民地の人びとを編制要員とした軍隊だったのです。これは日本も同じです。日本は中国への出兵のあと、不足する兵員をどこから補充するのかを検討し、その供給地として植民地支配をしていた朝鮮と台湾に着目しました。まず、志願兵制度をもちこみ、その後に徴兵制を敷きます。その数は朝鮮人兵士だけで24万人とも36万人ともいわれています。(略)アジア太平洋戦争は、アジアを戦場に、植民地の人たちを巻き込んだ帝国主義国家間の戦争という性格をもった戦争でした。」(内海愛子「日本の戦後」)
 多くの戦死者や戦火のなかの犠牲者を出した十五年戦争という最悪の事態を七十年という時間が経たからといって風化させるわけにはいかない。戦時下体制から戦後体制への移行は、大きな転換などではなく、地続きであると捉えていくべきなのである。それは、現在の東アジアの情況が、七十年前における「戦後処理」の虚妄性をまさしく露呈させていると見做すことができるからだ。
 「ポツダム宣言」(一九四五年七月)を八月一四日に受諾を通告したことで敗戦となる。四六年五月に開廷された極東軍事裁判を経て、五一年九月のサンフランシスコ講和会議へ「戦後処理」の過程は続いていくわけだが、その間、「朝鮮半島が分断され二つの政権が成立し(略)、中華人民共和国が成立(略)するなど、アジアで冷戦が激化する中で、アメリカの対日講和政策が変わ」(「同前」)っていくことになる。
 「(サンフランシスコ)平和条約は、中国侵略と台湾・朝鮮支配という重要な問題を解決しなかったのです。(略)アメリカは、アメリカを中心とした安保体制の確立、日本を再軍備し、『集団安全保障』に寄与することを日本に期待したのです。そのために日本の経済的自立が求められました。」(「同前」)
 やがて、日米安保条約を締結して日本はアメリカの「核の傘」の下に入る。このことは、苛烈にいうならば、日本国の主権はアメリカの国家意思のなかにあり、植民地となにも変わらないことを示しているのだ。戦後民主主義とは、アメリカこそ究極の理想社会だとマインドコントロールしていくための武器であったといってもいい。
 本書は、一五年五月三〇日に「恵泉女学園大学平和研究所・戦後70年特別座談会」と題して同大で行われた、加藤陽子、内海愛子の講演と質疑応答を収めたものだ。その時から三年経過して七十三年になったわけだが、なにひとつ変わらない、いや、戦争が依然、「露出」しているといいたくなる情況が続いている。本書の書名、「歴史を学」ぶこと、「今を考える」こととは、加藤が述べるように「生きている者と死んでいる者をつなぐ」ことだと思う。つまり、過去と現在、さらに未来は絶えず連続した時間性にあるということを認識していくことでもあると、わたしならいいたい。
 さらに、「平和か戦争かという二分法からどう離れるかという問題は、紛争のさなかに丸腰で入っていくことの有効性や意味を考えさせる」と加藤は述べている。そのことをもう少しわたしなり敷衍していえば、平和のためと称し安保法制という戦争法案を推し進めた安倍政権のレトリックを打破するためには、「平和か戦争かという二分法」を解体すべきだと思う。
 だからこそ、本書での二人の論者の鋭利な言葉の数々を若い世代の人たちにこそ、読んで欲しいと願わずにはいられない。

(梨の木舎刊・17.6.30)

進藤榮一・木村朗 編著                      『中国・北朝鮮脅威論を超えて――東アジア不戦共同体の構築
(「図書新聞」18.5.26号)

 わたし(たち)は現在、まぎれもなく〈アジアの片隅〉で生きているのだ。アメリカやヨーロッパ的な生活形態にあるからといって、進んだ文明的な生き方をしていると勘違いしてはいけない。欧米の方だけに顔を向けていくのではなく、侵略・統治という帝国的簒奪を行ったという負の歴史があるとはいえ、近隣のアジアこそ長い時間性のなかで、文化的、人的交流をしてきたわけだから、関係性(共同性)を再構築すべきだといっていいはずだ。
実は、そのことを瞑すべきとして〈アジア〉、〈アジア性〉あるいは〈アジア的〉ということを、わたし自身、何十年にもわたって考え続けてきた。それは次のような論述に、かつて出会ったからだ。
「人類の歴史の理想形態というものを描けるとすれば、それはまさに村落共同体、つまり、古代の、あるいは〈アジア的〉な村落共同体が持っていた相互扶助形態が、高度な別の次元で成立したときに描きうるものです。それを理想の社会とおもわざるをえないところがあります。」(吉本隆明「〈アジア的〉ということ」一九七九年七月)
 アジア的な共同性というものは、負の面では専制政治(戦前期の大日本帝国のように)を支えてしまう構造があるが、本源的には、吉本が論述するような様態を潜在させているといえるのだ。二〇〇九年、民主党政権が成立すると、首相・鳩山由紀夫(現・友紀夫)が、対米追従路線から脱却して東アジア共同体構想を提起した時、わたしは、ある種の期待感を抱いたといっていい。だが、アメリカサイドとそれに連なる勢力によって鳩山・小沢政権は崩壊されられた。
 本書は十六人の論者による、中国、北朝鮮、韓国、そして沖縄という東アジア的世界から、トランプ新政権の米国第一主義に対抗していくための視線を提示するリアルな論集である。元首相・鳩山友紀夫も執筆していて、次のように述べている。
 「北朝鮮指導部の最大の関心は現在の国家体制を維持することにあります。(略)北朝鮮としては、アメリカとの交渉力を高めるために核開発を行い、ミサイル発射実験を繰り返しているのです。日本に戦争を仕掛けようという目的ではありません。その意味では北朝鮮は日本の直接的な脅威ではないのです。」「中国脅威論を声高に叫ぶのは、日米同盟を強化し、沖縄における米軍基地や自衛隊基地の必要性を正当化するための格好の道具だからなのです。」(「東アジア不戦共同体と沖縄」)
 このように論及する鳩山の考え方に、わたしはまったく同意するし、執拗に脅威論を煽るのは、アメリカサイドに追従・従属することで利を得る勢力だけであって、「“脅威論”の作成者としてのアメリカと、これに全面的に同調する日本は、その作為された犇式厦性瓩、逆に東アジアの安全保障の脅威となっていることを自覚すべきであ」(纐纈厚「南北朝鮮の和解と統一を阻むもの」)るということになるのだ。
 わが列島国家の為政者たちは、覇権国家アメリカを最も信頼できる同盟国だと確信しているかも知れないが、ほんとうは、アメリカにとって、「日本は帝国に貢ぎ物をする国である」(進藤榮一「序章 中国・北朝鮮犇式勠疣世鮓‐擇垢襦廖砲噺做していることを理解すべきなのだ。
 また、尖閣諸島の問題についていえば、無主地であったものを、日清戦争後の「明治政府が閣議決定で沖縄に編入したにすぎない」のだ。「国際法には『固有の領土』という言葉はない」(岡田充「『敵』はこうして作られる」)」というのが、大前提である。さらに、朱建榮は、「中国外交の多元的な現実を見ることもできず、日中和解の道を切り開くこともできない。眼を向けるべきはむしろ、中国外交のしたたかな多元主義外交の展開」であるとしながら、「中国指導者の脳裏において、恐らく外交(略)は、内政問題(略)に比べ、配慮する順位が低いものであるという特徴を指摘できる」(「ベトナム戦争の二一世紀への教訓」)と述べていることに注目すべきだと思う。
 明快にいえることがある。いつまでもアメリカのエゴイズム(成澤宗男)に翻弄されてはならないということだ。覚醒し、冷静な視線を持つべきなのだ。沖縄が置かれている情況を考えれば、次のような木村朗の論述に接して、なおいっそう強く思わざるをえない。
 「(略)沖縄問題とは何かを問うならば、その本質は沖縄独自の問題でも米国問題でもなく、日本問題に他ならない。また沖縄の基地問題は、安全保障の問題である以上に、人権・民主主義・地方自治・地方主権の問題であり、潜在的な民族問題でもある。そうした本質を理解しようとせず、日米安保体制を容認する立場からまさにひとごとのように『辺野古移設は仕方がない』とする本土の人々のゆがんだ『常識』こそが、あらためて問われている。」(「アジア版NATOではなく東アジア不戦共同体を目指せ」)
 今年になって急転、予測できないかたちで、米朝首脳会談、南北首脳会談が実現することになった。もちろん、まだ予断は許さないのだが。平昌オリンピックが契機になったとはいえ、皮相な北朝鮮脅威論に幾らかの楔を打ち込んだ金正恩のしたたかさを認めないわけにはいかない。だが依然、この国の為政者たちはアメリカからも東アジアからも相手にされていないのは間違いない。
 わたし(たち)はこれからも、〈アジアの片隅〉で冷静に〈情況〉と相渉っていくべきである。
[注記・〈アジアの片隅〉は、吉田拓郎の曲名から喚起されたものだ]

(耕文社刊・17.10.30)

柳美里・佐藤弘夫 共著 写真・宍戸清孝『春の消息』
(「図書新聞」18.3.31号)

 わたしが、柳美里という表現者を知ったのは、94年、雑誌「新潮」に掲載された小説家としては最初の作品「石に泳ぐ魚」(単行本化されたのは、八年後)をリアルタイムで読んだ時だった。以後、『フルハウス』、『家族シネマ』、そして『命』に連なる作品群というようにかなり濃密に随伴していったといっていい。しかし、小説を読むことがきつくなり、他の作家たちも含め柳美里作品とも離れていくことになる。とはいえ、断続的にではあるが、幾冊かの新刊書には接してきた。だから東日本大震災以後、福島を中心に東北地方へと軸足を移し、現在の生活の場所でもある南相馬市にブックカフェ「フルハウス」をオープンすることは知っている。
 率直にいえば、本書は、柳美里の〈声(言葉)〉、〈有様〉が直截に伝わり、わたしのなかの空白の時間を一気に埋めてくれて、柳美里の〈現在〉を深く感受できたといっていい。たぶん、宗教学者・佐藤弘夫と写真家・宍戸清孝との出会いによって、喚起されたものが本書全体に滲み出ているからだとも思う。
 本書成立の発端は、柳美里が、佐藤の著書『死者の花嫁――葬送と追想の列島史』を読んで、「東北の霊場巡りをしてみたい、と強く思った」ことにある。五所川原市の川倉地蔵堂、天童市の若松寺、東根市の黒鳥観音、会津若松市の八葉寺、山形市の山寺、宮城県の松島、鶴岡市の三森山、山形県庄内町の光星寺、福島県大熊町の海渡神社、宮城県丸森町の小斎城、遠野市のデンデラ野・小友西来院、湯沢市(わたしが生まれた場所でもある)の最禅寺、南相馬市の大悲山石仏・浦尻貝塚・原町別院が、それぞれ死者と生者が往還しあう場所である。
 わたしは、残念ながら、佐藤の著書『死者の花嫁――葬送と追想の列島史』は未読であるが、佐藤に誘われて柳美里が訪れる川倉地蔵堂にある人形堂は、「若くして無くなった人を弔うために奉納された花嫁人形や花婿人形」が納められていて、川倉地蔵尊は、「死者の婚礼の地でもある」と佐藤は述べている。また若松寺には、「婚礼姿を描いた絵馬を奉納して未婚の死者を供養」する風習もあるという。
 「生死の境界を超えた交流の場とそれを支える死生観が、今しだいにこの社会から姿を消しているように思えてなりません。生者の世界と死者の世界は分断され遮蔽されて、死者は闇の国の住民になりました。(略)死者にとって居心地のよい社会は、きっと生者にも優しい社会に違いありません。東北の霊場で今でもつづく生者と死者の交歓の儀式は、そのことをわたしたちに気付かせてくれるのです。」(佐藤弘夫「春来る鬼」)
 わたしは昨年、親しい友人を二人亡くしている。しかし、彼らに別れの言葉を言わないことにした。なぜなら、彼らとの豊饒なる通交の日々の記憶はいまだ鮮明に、わたしのなかに潜在し続けているからだ。「生死の境界を超えた交流の場」とは、記憶の場所のことだと思う。忘れないということは、たんに過去に拘泥することではない。過去があるから現在があるということを確信していくことなのだといいたい気がする。つまり、過去と現在、そして未知の未来は地続きものだということでもある。だからこそ、生から死、死から生は絶えず往還していくと、わたしなら想起していきたいと思っている。
 本書は霊場探訪記を中心にして、巻末には、柳と佐藤の対談「大災害に見舞われた東北で死者と共に生きる」を配し、柳美里による七本の書き下ろしエッセイを収めている。
 「雲一つない青空……/死に瀕した青空……/わたしは圧倒的な痛みの中で、圧倒的な青を眺めていた。/(略)/わたしは、目を閉じた。/青空が卵の殻みたいに砕けて、宙の闇に投げ出される自分の姿が見えた。/点々と塵のように漂っているたくさんの人の骸が見えた。/あれが、死というものに自ら近づいた初めての経験だった。」(「蜂占い」)、「無人の故郷、山、川、家、墓に、死者の魂は在るのだろうか?/『帰還困難区域』に、死者の魂が帰ることのできる場所は在るのだろうか?/『中間貯蔵施設』予定地に、死者の終の住処は在るのだろうか?」(「梨の花」)、「わたしの上の弟は春樹、下の弟は春逢――。/祖父は、春に植えた樹が大きくなったら、その樹の下でまた逢おう、と非業の死を遂げた弟との来世での再会を信じていたのではないか。/故郷から海を隔てた異国の地で、美しい里、愛する里を想い、わたしたち姉妹を美里と愛里と名付けた。/(略)/祖父が遺したのは、死者の名前という物語である。」(「春、大きな樹の下で……」)
 柳美里の〈声(言葉)〉は、わたしとって、やはり鮮烈に響いてくる。本書に接しながら、変わらない柳美里の世界があることに気づき、いつのまにか慰藉されていた。

(第三文明社刊・17.12.1)


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