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2008.04.06 Sunday

「死ねば死にきり」―回想、村上一郎

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    「死ねば死にきり」―回想、村上一郎
    (「猫々だより71」掲載―『吉本隆明資料集74』所収・猫々堂08.4.25刊)

     七五年三月二十九日、自刃した村上一郎の〈死〉を、衝撃を持って知った。幾らかの通交があったとはいえ、読者の一人にすぎないわたしは、通夜にも告別式に行くことも躊躇い、時を過ごした。
     同年五月に発行された『磁場臨時増刊 村上一郎追悼特集号』に告別式での吉本隆明の「哀辞」が、掲載された。
     「村上一郎さん。こう呼びかけても、貴方は呼びかけること自体信じていないだろう。死ねば死にきりである。」
     この「哀辞」を読んで、深く心に染み入ってきたことを今でも忘れない。「死ねば死にきり」という言葉が、村上一郎の自死に至る想起の有様を真っ芯で掴んでいると思えたし、同時に、誰にでもいずれ訪れる〈死〉というものの深層を言い切っていると感じたからだ。
     吉本は、この後しばしば、高村光太郎の詩からとして、「死ねば死にきり、自然は水際立っている」と引いている。「自然は水際立っている」、なんとも、鮮烈ないい方ではないか。気になって光太郎の詩を調べてみると、「夏書十題」のなかのひとつ、「死ねば」という表題が付された、亡くなった母を追慕した短詩(原詩は、二行立てで「死ねば死にきり。/自然は水際立つてゐる。」)だった。
     村上一郎との僅かな通交のなかで、わたしは、何度、吉本隆明への共感の言葉を聞いたか、分からない。その頃、『試行』と『無名鬼』の分岐の経緯について考えを巡らす余裕がなかったから、不思議な感慨を持ったように思う。
     村上一郎と初めて会ったのは、後に評論集『浪曼者の魂魄』を編集担当することになる、知り合いの編集者夫妻と連れ立って、武蔵野市吉祥寺北町の自宅を訪問した時だ。六九年の四月か五月頃だったように思う。何時間か歓談した後、四人で井の頭公園へと散策に出かけた。わたしが井の頭公園に不馴れだったのを気遣い、沿革や様々のことを懇切に話してくれた。池の中で群れる大きな鯉たちを指差して、“あそこで泳いでいるのは吉本鯉だな。こちらの大きいのは埴谷鯉に違いない”と真顔で語る村上一郎に、思わず感嘆してしまったことを鮮明に覚えている。
     わたしが、村上一郎という名を桶谷秀昭とともに、刻印したのは、たぶん、高橋和巳を評価していたからだと思う。江藤淳が、小説としての魅力の乏しさ挙げ、徹底的に批判していたのとは、対照的に、ふたりは、その物語の基層にあるモチーフを最大限掘り起こして、共感を表明していたことに強い印象を持ったのだ。共同性の問題といえばいいだろうか、いわゆる「社稷」という農本的共同体の基層を包含する概念をある種の理想的な関係性として捉えるということであり、権藤成卿という思想家へと敷衍されて、わたしを様々に喚起したといっていい。村上一郎との直接的会話の中で、よくネーションとステートは違う、肝心なのはネーションの方だと述べていた。たぶん、「社稷」をネーションに重ねあわせて考えていたものと思われる。近年のポストモダン的思考では、しばしば「ネーション=ステート」として括り、「国民国家」といういい方がなされているが、わたしには、ご都合主義的な短絡的な捉え方に思えてならない。
     権藤成卿を引例しながら、「社会的国家」と「政治的国家」というように分岐し解析してみせた吉本の「自立の思想的拠点」(65年3月)をわたしが知ったのは、単行本化(66年10月)された数年の後(村上一郎との通交前後)のことになる。
     入学した大学の学生新聞に所属したことで、村上一郎との短いながらも濃密な時間を持ったことになる。文芸欄の紙面担当だった先輩が、家業を継ぐために中退して、入学まもないわたしが担当することになった。三回連載となった「私にとって明治批評精神とは何か?」の原稿受け取りのために何度か続けて会うことになる。大学は、バリケードストライキ中であり、そのなかを、わざわざ原稿を届けてくれたこともあった。また、わたしが不在だった時、校正間違いの多さに、もの凄い怒りをもって新聞学会室へ直接電話をかけてきたことがあった。帰室して直ぐに、お詫びの電話を入れたのだが、拍子抜けするぐらいやさしい言葉で、校正の大事さを話してくれたのだ。
     村上一郎が、年来の病気(躁鬱病)に悩まされていたことは、知人の編集者に聞いて知ってはいたが、少なくとも、わたしの眼前では、屹立した佇まいのなかにあっても、不思議な気遣いと“やさしさ”を、変わらず漂わせていた。四十九歳(と記して、愕然とする。どう見ても老成した風貌であった)と十九歳の通交が、村上一郎をしてそう振る舞わせたのかもしれない。編集者とはなにか、書くということはどういうことなのかということを、真摯に若年のわたしに語りかけてくれたものだ。わたしにとっては、著作からだけでは窺い知れない、多くのものを村上一郎からその時、直接受け取ったと思っている。
     いま、わたしは、村上一郎の自死の年齢(五十四歳)を既に何歳も越えてしまった。

     「精神とは何であるか、仮にこれを思想と呼んでもよい。それは長い歩みと、曲折と、時に飛躍とをともなって成り、また成らんとする。が、人類が類として生き得る日まで成らんとして成らない。」
     「変革は、(略)ひとのあこがれ、身をこがし想うものでなくてはならぬ。それを美しかれと念じ、おのれをそこへ向って燃焼せしめるものでなければならぬ。」(「明治維新の精神過程」)

     九年前の三月に友人の奥さんが亡くなり、東京・小平霊園に眠っている。以来、毎年、春の彼岸の折りに、同じ霊園にある、“風”の一字が刻まれている村上一郎の墓へと共に訪れている。                          (文中、敬称略)



    2017.08.26 Saturday

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