一定期間更新がないため広告を表示しています

  • -
  • -
  • -
  • by スポンサードリンク

 数年前から、縁あって月一回のペースで寄席(新宿末広亭)へ通っている。落語への関心は、小学生の高学年の頃、よくラジオで聴いていたことに始まる。噺の内容をしっかり理解していたとは思えないが、娯楽のひとつとして、それなりに楽しんで聴いていたように思う。このブログの「寄席の世界に魅せられて」で既に述べていることだが、しばらく、落語的世界から離れていた。
 わたしが、自覚的に落語に接してから、最も魅了された落語家は六代目・三遊亭圓生である。一度だけ、ライブに行ったことを、僥倖として抱き続けてきた。亡くなる半年ほど前、つまり、落語協会を脱退してホール落語を余儀なくされた頃である。圓生が落語界に危機感を抱いて落語協会を脱退したことは、わたしにとって理解できるものだった。いま、事の顛末を述べることはしないが、五代目柳家小さん体制の落語界(落語協会)に見切りをつけて、落語を聴くことから離れたことを、わたしは後悔していない(わたしが、“人間国宝”小さんの落語に、どうしても馴染めないのは、そのことも起因しているかもしれない)。
 志ん朝が亡くなり、談志が、身体的なこともあって、かつての勢いがなくなり、残るは、やや荒削りな小三治だけかと、やや暗澹たる気持ちを抱きながら、新宿末広亭へと出かけていったことになる。
 落語は、伝統芸・継承芸といわれている。つまり、名人と称される噺家たちがいて、その芸をさらなる高みへと表現していって、芸の継承性を齎していくと考えられている。だが、名人と称される噺家であったとしても、誰でもが心地よく魅了されていくかといえば、そうではない。例えば、わたしは、病気のせいもあってか、晩年の噺ぶりに好感を持ってなかったために、志ん生に対していいイメージを抱いていない。ほとんどの落語ファンは志ん生の芸を絶賛するのだが、体調を崩す以前の録音を聴いても、それほど感心しないから、あまりそういうことへ収斂させたくはないのだが、これは好みの問題ということになるのかもしれない。だから、滑稽譚よりは、人情噺を中心にして、独特の間合いを持った《語り》をする圓生の芸に魅せられていったのは、ある意味、必然的なことだったような気がする。
 末広亭で対面した既知、未知の現在の落語たちは、率直にいって、わたしに新鮮な情感を沸き立たせてくれるものだった。空白の間、実は可能性を秘めた落語家たちが幾人もいたことを知って、素直に感嘆した。なかでも特筆すべきは、小三治である。かつての荒さがいいかたちで、個性となって立ち表れている。志ん朝のなんとも艶のある声質に好感を持っている聴き手は、小三治の声質に異和感を抱くかもしれない。しかし、それを、独特の間合いで語ることによって、聴き手に対しリアルなイメージを喚起して、物語を深化させていく。これは師匠の五代目小さんを遥かに凌ぐ芸域に達したのだといっていいと思う(そうでなくとも、わたしの五代目小さんに対する評価は低いのだが)。
 「小三治師匠は『間(ま)』の操り方が絶妙なんですが、(略)おそらく、(略)昔から間というものを研究して、今の技術にまで到達したのでしょう。若い頃は、うちの祖父(引用者註=五代目小さん)が、『ちょいと間延びする感があるなぁ』と言っていたようですが、あえて長い間をもたせる中で、笑いのポイントを掴んでいったと思うのです。(略)間は笑いの世界だけのものではありません。実際の人の会話の中にも、間というのは存在します。だから、小三治師匠の絶妙な間によって、本物の会話らしくもなる。そうすると単なる滑稽噺じゃなく、人々の日常生活を題材にした世話物っぽくも聞こえてくる。まるで一編の映画を観ているような気分になるのです。」(105〜106P)
 柳家花緑の『落語家はなぜ噺を忘れないのか』は、「すべてを包み隠さず手の内を明か」(「おわりに」)にして、「落語家」とは何かということを率直に語っている著作だ。ここで引いた花緑の小三治に対する視線は、核心を衝いて実に的確だといっていい。「落語家」の語る噺というものは、「単なる滑稽噺」ではなく、「人々の日常生活」をリアルに(あくまで、感じ方をいっているのであって、事実や真実ということを指すわけではない)表現しながら、聴くものをまるで「映画を観ているような気分に」、つまり、イメージを喚起して、物語を深く感じさせてくれるものでなければ、共感を得ることはできないのだと、わたしは思っている。末広亭で聴いた小三治の『あくび指南』や『うどん屋』は、まさしくそのような芸であった。
 さて、花緑のこの著作は、寄席で聴く真摯さそのままの雰囲気を醸し出していて、読みながら、「落語家」というものは、噺家という枠を超えた際立った表現者であるべきだということが、伝わってきた。志ん朝から、「愛宕山」を稽古をつけてもらった時、いろいろ指摘されたことをその場でメモをとることが、なぜか憚れて、「近くの喫茶店に飛び込んで、手帳にワーッと書き出した」(39P)というエピソードや、小さん十八番の『笠碁』を自分なりのものにすべく苦闘する様といい、花緑の真摯さは、これからの「落語家・花緑」を期待したくなるものだといえる。
 「(略)落語は伝承芸です。江戸時代から受け継がれてきた噺の数々を後世にも伝えていく――これも確かに伝承芸です。しかし今、私がもっとも伝承していきたいと考えているのは、『お客さんを熱狂させる空間の再現』なのです。/江戸時代の人たちは、落語で熱狂したと思うんです。大笑いしたり、泣いたり、あるいは感化されたり。そんな感動、感心、発散という目に見えない欲を満たす熱狂を与えた場所が、寄席だったのではないでしょうか。もしも、その空間がつまらなければ、寄席が今でも残っているはずはないんです。だから我々落語家がやるべきなのは、かつて人々を熱狂させた空間を再現し続けていくことではないのかと。もっと言えば、噺の伝承なんて二の次なのかもしれません。」(162〜163P)
 CDやDVDで聴いたり観たりするのも、悪いわけではない。だが、寄席という空間で、落語家と観客のコミュニケーションの渦のなかにいることは、なによりも代えがたい貴重な体験だと、いま、わたしは思い続けている。

柳家花緑 著『落語家はなぜ噺を忘れないのか』
角川SSコミュニケーションズ刊・08.11.25・新書判・192P・定価[本体800円+税]

  • -
  • 21:22
  • -
  • -
  • by スポンサードリンク

Comment





   

PR

Calendar

S M T W T F S
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31      
<< March 2024 >>

Archive

Recommend

Mobile

qrcode

Selected Entry

Comment

  • 「内」からの視線で震災以後を問う                              ――「復興」より「再生」の方が、被災地の人たちの明日への言葉として相応しいのではないか。
    佐藤竜一
  • 追悼・忌野清志郎
    魔笛
  • 映画芸術は今こそ回帰の時代を迎えつつある
    西井雅彦
  • 詩集『悪い神』を読む
    築山登美夫
  • 夏石番矢 世界俳句協会編『世界俳句2008 第4号』・評
    Ban'ya
  • 自らの在りように真摯に在り続けることの暗喩を
    竹ノ内
  • 自らの在りように真摯に在り続けることの暗喩を
    minagawa
  • 自らの在りように真摯に在り続けることの暗喩を
    Takenouchi
  • 寄席の世界に魅せられて・3
    神尾
  • 「理想」の可能性

Link

Profile

Search

Other

Powered

無料ブログ作成サービス JUGEM