遠山 淳・中村生雄・佐藤弘夫 編『日本文化論キーワード』
(「図書新聞」09.5.30号)

 「日本文化」といういい方は、よくなされているのだが、果たして、その意味するところを的確に捉え提示しうるかといえば、これが、甚だしく難渋なことだといっていい。そもそも、「日本」もしくは、「日本人」とは何かと問うことですら、その応答は、極めて曖昧なものとなっていかざるをえない。要するに、「日本」という総称自体、網野善彦にならっていえば、七世紀末から、八世紀初頭にかけて、「ヤマトの支配層」たちが、「王の称号を『大王』から『天皇』に変えた」ことに淵源するのだから、「日本」人という「民族」名称は、パラドキシカルに満ちているといわざるをえないのだ。
 「行動モデルを文化と呼ぶならば、文化は人間集団の無意識のレベルまでをも支配していると考えなければならない。ここで言う文化とは、上層文化とか伝統文化とかと呼ばれる知的洗練度の高い文化に対して、基層文化と呼ばれることが多い、日常の行動様式や価値観を指す文化である。伝統文化と区別して、遍在文化と呼ぶこともできよう。文化・社会のどの極面をも支配している文化であり、ユビキタスな(どこにでも存在する)関係を言う。」(「はじめに」)
 このように、「文化」という概念を規定する編者たちの視線は、「日本文化の通時的特性を『両立型への志向性』」と捉えていく。このことによって、通常に見られる「キーワード」事典とは、一線を画したものとなっている。
 全5章・125項目を概覧しただけでも、そのことは明白だ。第1章「日本文化のキーワード」では、「両立型コミュニケーション――『アレもコレも』」、「腹と腰――心の中心と身体の中心」、「日本語のリズム(2)――5音と7音をめぐって」、「天皇と幕府・政府――権威と権力」、「憲法第9条――『自衛』すべきものは何か?」、「第2の開国――グローバリゼーションと日本人」などの項目に惹きつけられる。
 そして、「『はい』と『いいえ』――『肯定と否定』のグラデーション」の項目では、「西洋語に比べて、日本語には否定表現が少ない」し、「日本人は、否定に比べて、同意・肯定表現はかなり大袈裟に表現する」と指摘する。また、「『太平洋』戦争――『終戦』と『敗戦』」という項目では、「日本では『さきの戦争』は、同様に漠然とした『あの戦争』として語られることが多い。いつからいつまでを指し、誰を相手の、どんな戦争であったか、どう呼ぶのか合意が得られていないのである」と述べられていく。確かにそうだ。わたし自身は、満州事変を起点として中国侵略戦争、日米開戦をトータルに示す「十五年戦争」を援用することが、多い。教科書的には、「太平洋戦争」として教えられてきたし、「さきの戦争」といえば、対アメリカとの戦争としての意味あいが強くなり、中国への侵略ということが、希薄になっていく。だから最近では、「アジア太平洋戦争」という名称が、一般的になったといっていいかもしれない。しかし、一方、依然として、最近の自衛隊幕僚長の「多くのアジア諸国が大東亜戦争を肯定的に評価している」から、侵略戦争ではないという妄言まで含めて、「誰を相手の、どんな戦争であったか、どう呼ぶのか合意が得られ」ないまま、まさしく、ここでもまた「両立型への志向性」というものを象徴することになる。
 第2章「古典を通して『日本』を読む」は、『古事記』、『万葉集』、『源氏物語』と並んで、『立正安国論』、『自然真営道』、『東海道四谷怪談』などが採り上げられている。
 わたしが、本書のなかで最も着目したのは、第3章「日本文化はどう論じられてきたか」であった。ここでは明治期以降の諸著作、雑誌を通して詳述する。和辻哲郎『風土』、柳田國男『海上の道』、江上波夫『騎馬民族国家』、丸山眞男『日本の思想』などとともに、雑誌『思想の科学』、吉本隆明『共同幻想論』、網野善彦『「日本」とは何か』が、採り上げられていることに、編者たちの多角的な問い掛けを見る思いだ。
 第4章は「日本文化論はイデオロギーか」、第5章が「外から見た『日本』」という章題として、さらに、外延的な論及を例示している。西川長夫『国境の越え方』を採り上げた項目(「第4章」)では、「『文化』という単位を『国境』によって区切ることはできない」という「視点は、歴史研究であっても現代思想の分野であっても、『文化』を扱う領域において、いわば自明の前提となった」と解説する。
 「現在、どの国にも国旗があり国歌があるのが当たり前というのと同じ感覚で、どの国にもその国独自の文化があるはずだと考えられるようになったと言える。しかし、『日の丸』『君が代』を国旗・国歌とする決定に納得しない人がいるように、特定の現象を選別してそれが『日本文化』だと言われても、それに承服できない人が出てきても当然だろう。日本の場合、旧植民地出身の『在日』の人々、明治になって日本の版図に組み込まれたアイヌの人々の場合を考えれば、なおさらのことだ。」
 「文化」をイデオロギー全般に矮小化するつもりはないが、国旗・国歌を信奉するという感性と「国民文化」としての表象へ傾斜していくことは、やはりリンクしているのだ。オリンピックや、サッカー・ワールドカップ、野球のWCに熱狂する様態も、「文化」のひとつの事象としてみるならば、そういうことがいえる。「文化」というものは、例えどんなに小さな、狭いものであっても、そこにひとつの共同性(関係性)が形成されることによって、発生しうるものだという考えをわたしは、抱いている。
 だから、本書があまたのキーワード本より際立たせている特色は、「日本文化論」としながらも、いつのまにか「日本」というものの幻像を剥ぎ取ってしまっているからだと、わたしはいいたい気がする。
(有斐閣刊・09.3.30)

  • -
  • 23:26
  • -
  • -
  • by スポンサードリンク

Comment





   

PR

Calendar

S M T W T F S
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031
<< August 2019 >>

Archive

Recommend

Mobile

qrcode

Selected Entry

Comment

  • 「内」からの視線で震災以後を問う                              ――「復興」より「再生」の方が、被災地の人たちの明日への言葉として相応しいのではないか。
    佐藤竜一
  • 追悼・忌野清志郎
    魔笛
  • 映画芸術は今こそ回帰の時代を迎えつつある
    西井雅彦
  • 詩集『悪い神』を読む
    築山登美夫
  • 夏石番矢 世界俳句協会編『世界俳句2008 第4号』・評
    Ban'ya
  • 自らの在りように真摯に在り続けることの暗喩を
    竹ノ内
  • 自らの在りように真摯に在り続けることの暗喩を
    minagawa
  • 自らの在りように真摯に在り続けることの暗喩を
    Takenouchi
  • 寄席の世界に魅せられて・3
    神尾
  • 「理想」の可能性

Link

Profile

Search

Other

Powered

無料ブログ作成サービス JUGEM