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2009.12.01 Tuesday

『つばくろ越え』を読む―志水辰夫の小説を読んで・6

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     志水辰夫にとって三冊目の時代小説集は、「飛脚」人が物語の中心だ。わたしは、時代小説というジャンルにそれほど慣れ親しんできたわけではない。時代劇(あるいは股旅物)ということであれば、映画なら、子供の時から観ていて馴染みのある世界ではあったが、こと小説に関しては、無縁に過ごしてきたといっていい。とはいえ、「飛脚」人を、物語の中心に据えるということは、正直なところ考えてもみなかったという思いだ。しかし、志水辰夫にあっては、当然のモチーフということになるのかもしれない。これまでの作品がそうであるように、前二作品も、その時代を先導していくような層に属する人物を物語の中心に置いていないからである。むしろ、本作品こそ、これまでの志水作品のような雰囲気をより醸し出しているといえそうな気がする。「飛脚」人たちは、もちろん武士階層にある人たちではないし、商人層とも違う。どことなくアウトロー的な人物たちが登場するからといって博徒や侠客ではない。職人に近いといえばそうともいえるし、まったく違うといってもいい。なにかマージナルな人たちといった捉え方のほうがおさまりがいいかも知れない。
     飛脚問屋蓬莱屋の総元締めだった勝五郎は、その任を忠三郎に譲り、引退後も裏の仕事として飛脚の仕事を請け負っていた。裏の仕事といっても、「後暗いことに手をだしているわけではな」く、大金を安全にしかも、安い費用で請け負うということで、ひとりで運ぶという「通し飛脚」のかたちでやっているのだ。仙造、宇三郎らがその中心となっていた。
     「つばくろ越え」は、仙造の兄貴分にあたる弥平が金品を運んでいる途中で殺され、襲われた時、金品を谷に投げ捨てたため、そのまま不明となっていて、その金品の行方と襲った者たちを探ろうとしていく物語だ。何度もつばくろ越えをして弥平の襲われた場所を確かめる途中で、仙造は一人の少年、巳之吉と出会う。仙造は、弥平が金品を捨てた場所に見当をつけていた。身の軽い巳之吉を使って崖の下を探させるが、見つからなかった。仙造は行きがかり上、巳之吉を江戸へ連れて行き、蓬莱屋の小僧として預けた。それから時を経て、ある日、突然、巳之吉が蓬莱屋から出奔する。仙造は勝五郎とともに、弥平の襲われた場所へと向かう。そして、やがて思わぬ展開へと進んでいくことになる。この「つばくろ越え」において、巳之吉という一人の少年の“したたかさ”が、描出されていく。少年巳之吉〈像〉は、かつての少年勝五郎〈像〉であり、少年仙造〈像〉であろうと類推できるのではないか思われる。誰も頼ることができない孤塁のなかにいる少年巳之吉の“したたかさ”とは、“必死に生きていこうとすること”の反照であるといえるからだ。
     「出直し街道」は、故郷の陣屋で手代元締加判をしていた男が、在職中代官の不正に絡んでの処分を避けるため逃走して八年間、江戸で蟄居しながら蓄えた十両の金を持って蓬莱屋を訪ねて来て、手間賃を五両として、故郷の妻子へ五両渡して欲しいと頼まれ、宇三郎が行くことになり、彼の地でともかくも探しあてて、物語は意外なかたちで閉じていくというものだ。故郷を出奔した男の妻・すみは、男のかつての部下のもとで囲われていて、なに不自由なく暮らしていた。宇三郎が持っていた五両と手紙を見て、悩み、逡巡する。すみは、ともかくも、江戸へ行き、夫と会ってみようと決心するが、途中でまた逡巡してしまう。この掌編の最後は、同行する宇三郎とこんなやりとりする場面だ。

    「歩けなくなりました」/すみが言った。下に見えている川を見つめていた。
    「引き返したいということですか」(略)
    「いいえ。行くことも、退くこともできなくなったということです」
    「だからといって、このうえはどっちか選ばなきゃなりません」(略)
    「すぐ切り替えられると思ったのです。いらなくなったものは捨てて、いつまでも忘れられると」
    「そりゃ捨てるべきでしょう」
    「捨てられないものだってあります」
    「それまで捨ててしまうんです(略)簡単なことじゃありませんか。生きている人間には、いつだってこれから先のことしかないんです。いらないもの、邪魔になるものは捨てて、忘れてしまえばいいんです。思い出すことも、懐かしむこともいらない。正直に話すことなんかありませんよ。入用とあればいくらでも嘘をつきなさい。大事なのはいつだってこれからなんです(略)あっしは卑しい、ただの下世話な人間でござんすよ。毎日なんとか生きてるだけ。生きているから、きのうのことは忘れて、毎日やり直ししてるんでさ」

     すみは、結局、宇三郎に押されるようにして、江戸へ向かっていくことになる。宇三郎のいう“捨てる”、“忘れる”という生きていくための心意を表象する言葉は、わたしに、映画『関の彌太っぺ』(1963年、東映・山下耕作監督)で彌太郎(中村錦之助)がつぶやく「この娑婆には辛い事、悲しい事がたくさんある。忘れるこった。忘れて明日になれば・・・」という台詞を思いださせてくれる。宇三郎も彌太郎も、越えるべきマージナルな世界を見据えているのだ。
     「ながい道草」は、ふたたび、仙造の登場となる。新潟へ金品を届けた後、越後の小柳村というところにいる医者へ薬を届けたのだが、この道安という医者とその妻・りくは、「人目を避けて田舎を転々とする身」であった。追っ手から二人を逃がすことに関わっていく仙造。追っ手との駆け引き、戦いはスリリングに描出されていく。やがて、終景。りくが追われることになった経緯が明らかになるとともに、その終息は、悲痛さと救済感が同居するものだ。
     「彼岸の旅」は、勝五郎とは「古女房同然の」ような長い間付き合いであった半助が、突然、故郷へと死出の旅へ立ったのを勝五郎たちが追いかけて、やがて謎めいていた半助の出自が明らかにしていくというものだ。半助という男にまつわる物語は、悲しみを持った宿運とでもいうべきものを内在している。そして、故郷で死ぬことによって、その宿運を断ち切ることになるのだ。
     こうして、どの作品にも、いうなれば、避けようもない宿運とでもいうべきものが、描かれていく。富や名誉によってだけで、人が豊穣になるわけではない。あるいは、現在様々に喧伝される貧困ということもまた、富に対する反照としての貧困ということであれば、それは空無なことでしかないと思われる。いったいなにが、生きていくことへの確かな思いを抱くことができるのかと、問うとすれば、やはり、人と人との往還にこそ、それはあるのではないかといいたくなる。飛脚とは、まさしく人と人とが往還していくことの象徴としてあるのだといっていいたい気がする。

    ※拙稿「志水辰夫論―鮮烈なる抒情」を、季刊誌『風の森』9号(09年7月1日刊、定価500円)に発表した。『風の森』に関する問い合わせ先は、発売元のJCA出版(03-3291-8191)へ。

    志水辰夫 著『つばくろ越え』
    新潮刊・09.8.20・46判変型・342P・定価[本体1700円+税]

    2017.11.09 Thursday

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