阿賀猥の詩集『転生炸裂馬鹿地獄、割れて砕けても裂けて散るかも』は、既成の詩集というフォルムを逸脱させている。あるいは、既成のフォルムを初めから解体することを意識しているというべきかもしれない。わたしは、この詩人の名を、この詩集によって初めて知った。これまで、いくつか詩集を上梓しているようだが、阿賀猥という詩人が、本詩集のようなスタイル(詩表現)を一貫して採り続けてきたのかは、わからない。だから、あくまでも、本詩集を通した阿賀猥の世界を見通すことだけが、差しあたって、わたしが、ここで記していくことの観点になると思う。
 逸脱させた既成のフォルムということから、視線を差し入れるならば、谷敏行による多彩なイラストレーションを挟み込み、いわば絵と絵の間隙に阿賀猥の詩篇たちが現出するというかたちをこの詩集は示している。均一に文字列のみで構成された、通例、わたしたちが手に取ることのできる詩集とは、大きな異和性を持っていることになる。そしてこの異和性こそが、この詩集を際立たせていることの核心だといっていい。また、“0”から“10”までの数字を冠して章分けしているが、章を示す頁、あるいは、章タイトルの前頁に、詩篇ではない“地”の文章(あえて名称すれば解説文のようなもの)を入れている。このような構成が、一見して混在感を漂わせるように思わせるのは、人間も含めた犬や猫といった生き物たちを〈換喩〉として詩世界を構築しているからだといっていい。つまり、ヒト(あるいは他の生き物)の在り様をヒト社会へと戯画化するという手法は、この詩集にあっては、モチーフにおける必然的な帰結といえそうな気がする。
 ならば、どのようなヒト社会を戯画化しようとしているのだろうかと、考えてみる。

 「失恋の悩みを打ち明けたら/『いったい牛が恋するだろうか? 馬が恋するだろうか? 馬鹿言うんじゃない、/甘ったれるんじゃない』/と叱責を受けた。/なぜ、牛だの馬だのがこの際、問題となるのか/私はかなり以前からレッキとしたヒトであり女である。」(「牛女」)

 この短い詩篇に含意されるものは、視線を立たせている場所の交換というべきことだ。わたしたちは、均等な関係性を希求しながらも、現実的には、そうではないし、未来的にもそうなるという保障はどこにもない。ヒトとヒトとの関係は齟齬に満ちている。ならば、ヒトを動物たちの立ち位置と交換して捉えてみるならばどうだろうか。牛に置換された女は、やがて、“娑婆”を恨む犬としてこの世界を相対化しようとしていくことになる。

 「私は、鈍感だったので、何も見えず、何も聞こえなかった。何も感じなかった。だから何も言わずに塞いでいた。いつもだ。ずーっとだ。こういうわけで目下、全ては絶望的な状況にある、というのが私の持論だ。/これに疑いをさし挟むことさえ、気づかないまでに鈍感だったので、この絶望は確信のようなものとなり… 世界は、こうして、ここに私の回りに徹底的に固定したのだ。」(「娑婆恨みのマーサ 2」)

 ヒトではない生き物たち(ヒラメ、カレイ、ダンゴ虫、アリ、蛇、牛、馬、犬、猫、ズビニコウ虫、アメリカコウ虫、サナダムシ、ネズミ、豚、鳥、蝿、山羊)が群居し往還する世界、そこは、どんな異形たちが闊歩していようとも、ヒト社会よりは、まっとうに見えるというように戯画化される。
 そして、いま、わたしは、同時に『響音遊戯・詩人の声 1 阿賀猥 猫又猫七そして猫姫 転生炸裂 動物編』なるCDを聴いている。活字で読む阿賀猥の世界と岡島俊治の巧みな音響を背景に阿賀猥自身が発する“声”の世界が見事に交錯して、生き物たちの存在する“悲しみ”が伝わってくる。
 この詩集もCD版も、最後は、「山羊のノリオ」と題された詩篇であることが、鮮烈だ。
 わたしは、山羊を詩篇に織り込んだ詩人をひとりだけ知っている。

 「僕は毎朝山羊の乳を搾る その時山羊は僕の肩へ首をのせている/(略)身動きもせず搾乳されているけれど/僕の肩へ首をよせた時 コイツはどんな親しみを僕へ感じているだろうか/その澄んだ灰色の眼は何を見ているだろう/何を考えているだろう」(秋山清「山羊詩篇」―1935年、発表)

 「(略)山羊という種族は、もともと食われる為に生きてきたのだ。頭を犬に食われることなんぞ、当り前のことなのだ。その定めは定めとして、真っ直ぐに目下の快楽に没頭する、瞬時も快楽を逃がさない。賛嘆しないでいられようか。//ノリオは、私の病臥中にひょんなことで急死、今は私の寝室の脇、コブシやボケの花々の下に眠っている。」(「山羊のノリオ」)

 秋山清も阿賀猥も同じ優しさで、山羊に象徴されていく“生きていくことの悲しみ”を見通している。ヒトと生き物たちとの交換する場所とはあるのだろうか、と考えてみる。それは、同時にヒトがヒト社会のなかで生きていく場所はあるのかという辛辣な問いへと通底していくことになるのだ。
 阿賀猥の詩世界は、一見、苛烈で、破天荒な快活さを装いながらも、その基層は、悲哀に満ちている。そしてその悲哀を引き受けていくことこそ、もしかしたら、ひとつの膂力をかたちづくることに繋がるかもしれないと、密やかに語りかけているような気がしてならない。


『転生炸裂馬鹿地獄、割れて砕けても裂けて散るかも』
七月堂刊・09.8.25発行・B6判・86P・定価[本体1200円+税]
『響音遊戯・詩人の声 1 阿賀猥 猫又猫七そして猫姫 転生炸裂 動物編』
七月堂刊・09.10発行・CD版・定価1050円[本体1000円]

  • -
  • 10:00
  • -
  • -
  • by スポンサードリンク

Comment





   

PR

Calendar

S M T W T F S
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031 
<< March 2017 >>

Archive

Recommend

Mobile

qrcode

Selected Entry

Comment

  • 「内」からの視線で震災以後を問う                              ――「復興」より「再生」の方が、被災地の人たちの明日への言葉として相応しいのではないか。
    佐藤竜一
  • 追悼・忌野清志郎
    魔笛
  • 映画芸術は今こそ回帰の時代を迎えつつある
    西井雅彦
  • 詩集『悪い神』を読む
    築山登美夫
  • 夏石番矢 世界俳句協会編『世界俳句2008 第4号』・評
    Ban'ya
  • 自らの在りように真摯に在り続けることの暗喩を
    竹ノ内
  • 自らの在りように真摯に在り続けることの暗喩を
    minagawa
  • 自らの在りように真摯に在り続けることの暗喩を
    Takenouchi
  • 寄席の世界に魅せられて・3
    神尾
  • 「理想」の可能性

Link

Profile

Search

Other

Powered

無料ブログ作成サービス JUGEM