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2011.06.15 Wednesday

映画『行きずりの街』をめぐって、あるいは阪本順治論として

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    映画『行きずり街』(監督・阪本順治)

                  ―〈1〉―

    客 君が長年、愛読してやまない志水辰夫の原作が昨秋、初映画化されたね。しかし、あまり作品の評判は聞えてこなかったし、入りも良くなかったようだが。
    主 確かに、そうかもしれないが、映画作品として出色の出来だったと思う。なによりも脚本の丸山昇一は、志水辰夫の物語世界を見事に映像世界へと転換させたといっていいし、撮影の仙元誠三による長廻しのカメラワークは奥行きのある場面をつくり、阪本順治の演出力も目を見張る映像を生み出したといえる。もちろん、志水作品なら、『行きずりの街』(90年)よりも、『背いて故郷』(85年)や、『飢えて狼』(81年)といった作品こそ望ましいけれど、ともかくも、初の映画化作品にしては、充分に満足できる出来栄えだったといい切れるね。
    客 君には悪いが、もともと、志水辰夫という作家自体、ベストセラー小説を量産しているわけではないし、『行きずりの街』は、いまや、誰もが知っている宝島社刊の『このミステリーがすごい!』の92年版のベストワンだったが、十年以上経ってから、文庫版を改装して、帯文に、“このミス・第1位”ということを記載して、売れ出したという、“いわくつき”のものだ。俺は、君と違って、いまの日本映画の現況に失望しているから、メディア(出版、テレビ)ミックスで、映画の観客を呼ぼうとすること自体、作品評価を貶めることになると思っている。
    主 残念ながら、君のいうとおりだと思う。新聞紙上の広告での惹句は、こうだ。「『このミステリーがすごい!』第1位/『日本冒険小説協会』大賞受賞作/70万部突破のブレイク作/待望の映画化」と記され、その惹句の脇に文庫版の書影が置かれ、「志水辰夫の最高傑作!」とある。宣伝は、一つのイメージを与えるから、作品に添った惹句が、「君に会いたかった。/一日も忘れたことはなかった。」では、ミステリー映画なのか、恋愛映画なのか、観ようとしている人たちに混乱を与えてしまったのではないかといえる。十二年の空白を埋めて、男女の関係性を恢復していくというモチーフとともに、都会と鄙に横たわる極めてリアルな問題も『行きずりの街』には潜在しているけれども、そこが、うまく映画作品として伝えきれなかったことは、あるかもしれない。それでも、近年の阪本順治は映画的膂力ともいえるべきものを胚胎させて、極めてオーソドックスな作品を作り上げていることに感嘆せざるをえない。実は、『行きずりの街』は、何年か前に水谷豊主演でテレビドラマ化されているけれど、原作とは別物と割り切って見たとしても、ひどい作品だったことを覚えている。今度の映画化作品で、その時の不満を払拭してくれたといえるね。
    客 君は、最初の頃、それほど、阪本作品にシンパシーは寄せていなかったように思ったけれど、違うかな。
    主 四作目の『トカレフ』(94年)に対して、力作であることは認めても、なにか釈然としない思いをしたことで、少し、距離を置いたことは確かだった。いま見直してみれば、また違う印象を抱くかもしれないが、『傷だらけの天使』(97年)から、『KT』(02年)までの一連の作品で、阪本順治を再評価したといえる。特に、『新・仁義なき戦い。』(2000年)は、わたしにとっての阪本作品のベストワンだ。結局、それ以降も、『亡国のイージス』(05年)以外、全部、見ているが、『座頭市 THE LAST』も含めて、作品モチーフが、阪本の作家性と確実に照応しているかといえば、わたしは、そうは思わないね。阪本自身、敢えてモチーフを固定したくないと思いがあって、様々なテーマに挑んでいるという心意気は評価していいかもしれない。ただし、この間の作品では、一見、阪本の世界と遠そうな感じがした『魂萌え!』(07年)が、一番良かった。この作品で、あらためて阪本の作家的膂力を認識したといっていい。
    客 わかった。そろそろ本題に入ろうよ。

                   ―〈2〉―

    主 原作の基調、つまり、波多野和郎(仲村トオル)とかつて教え子であり、妻であった手塚雅子(小西真奈美)との関係性をめぐる描出は、改変されてはいないが、外縁部分はかなり違っている。ミステリー部分、ハードボイルド部分といった色合いは、そのため、やや希薄になったといっていい。そのことが、この映画作品に対する不満なところだけれど、やはり映画ならではの表現というものがあると、改めて感じたといえる。例えば、波多野と雅子が十二年ぶりに偶然再会する「彩」での場面は、この映画作品を際立たせる秀逸なシーンだといっていい。敢えて、原作を引いてみる。

     「(略)いちばん奥に『彩』の文字。AYAのルビ。由来は知らなかった。彼女の母親の代からの店名だった。/にわかにためらった。後悔しはじめている。来るべきではない、という意識の正当性が警鐘を鳴らしているのだ。それでも引き返す気になれなかった。この扉の向うになにが詰まっているのか、わかっている。わたしの過去のすべてがある。(略)/カウンターの中に入りかけていた和服の女性が振り返った。こちらを見て笑みが瞬間的に引っ込んだ。わたしの抱き続けていた範囲のイマジネーションから、彼女はいささかもはみ出していなかった。(略)/『いっらしゃいませ』雅子が言った。すこしぎこちなく、すこし声がうわずっていた。それでも素早く微笑して、彼女は前に進んできた。(略)/彼女の白い手がすっと延びてくると、オンザロックがカウンターに出てきた。つづいて水の入ったグラス。見返すと、彼女はわずかに顎でうなずいた。抑えていた感傷が見る見る胸を締めつけてきた。/『ありがとう』やっと言った。」

    「彩」は、入口から、真っ直ぐにカウンターを見据えるようにある。この通路のような「彩」の店内の一部は、二人の関係性の通路となっていくことのメタファーのように映し出されていく。そして映画版は、こうなる。和服姿の雅子が、電話で話しているのを正面から捉えていく。お客が入ってきたことを知った雅子が振り向いて、「いっらしゃいませ」と言いながら、一瞬、驚きの表情を湛えるも何気ない素振りをして電話を置く。波多野が入っていく。初めて、「彩」の店内を見通せる画面のなかに、二人が立つことになる。店の奥のテーブル席に何人かの客がいて、二人をじっと見ている男(ARATA・神山文彦役)がいる。やがて、この三人をめぐる関係に変容が訪れることをこのシーンは予兆していることになる。二人で会話した後、雅子がカウンター内に入るため脇の通路を通る時のスローモーション、やがてその表情に翳りが表れる。「いまでも、ロックにお酒」と聞いて酒を注ぐ雅子の顔をスローモーションで捉える。雅子を見つめる波多野。スローモーションの多用は、時に過剰になれば、その効果は薄れるものだが、二人の空隙を埋めるかのような映像的リズムが、スローモーションによって奥行きのある場面展開を作り出している。原作の「オンザロック」が、映画では「日本酒のオンザロック」となっているところが実にいい。こうして場面場面を語りながら思うのは、原作から抱いていた、わたしの「彩」をいい意味で裏切った見事なセットとともに、この作品の最も重要な再会場面を見事に構築したということだ。
    客 原作では、この再会場面と、雅子の部屋で一夜を共にする場面が、物語の骨格とでもいうべき箇所になるからね。
    主 物語の三日間という時間は、そのまま十二年間という時間を恢復させていくということを内在させているから、波多野と雅子との再会と雅子の部屋での場面はなによりも、濃密に描かれなければならない。映画では、雅子の部屋で、ふたりの会話に齟齬が生まれ、波多野はいたたまれなくなって帰ろうとする。「許すなよ、こんな男をいつまでも許すな」といって玄関を開けて出ていこうとするところを、雅子は、平手で何度も波多野の頬をぶったあと、壁にもたれかかって泣き崩れていく。雅子の横顔のアップ。そして顔の奥から、左手が近付いて、顎に優しく触れる。わたしは、このシーンをもって、この映画版『行きずりの街』を全面的に支持したといっていい。

     「雅子に一歩近寄ると、彼女は唇を嚙み、激情の渦巻いた目を真っ向からさし向けてきた。それから目をしばたき、わずかに顔をゆがめた。手を差し延べるといやいやとばかりかぶりを振った。しかし身体じゅうから力が抜けてしまっており、悲しみと、押さえている切なさとが急速に唇をわななかせはじめた。引き寄せると拒むみたいに腕を抱え、頭をわたしの顎の下に押しつけた。わたしは抱きしめてその顎を起こし、唇を重ねた。」

     あえて原作を引きながら、映画を想起してみればいい。阪本順治は波多野と雅子の十二年間という空白を埋めるかのような激情シーンを実に美しく鮮烈に描出しているのだ。
    客 原作と映画作品は、けっしてイコールではないし、イコールということはありえないと思う。原作に思い入れがある場合、その原作のエッセンスを損なうような作り方をされれば、どうしても不満を抑えることができないわけだから、なかなか、冷静に観るということを難しいことになる。
    主 確かにそうなんだが、活字と映像を比較して検証すること自体ナンセンスだと、思いながらも、強固な原作があったからといって、映画でなければ、表現できないことは、あるといえる。そしてなによりも、俳優がひとつのキャラクターを作っていくという良さ(マイナスに作用することもある)が、映像にはある。原作では、小さな存在だが、谷村美月が演ずることによって、広瀬ゆかり(南沢奈央)の友人役の藤本江理の存在がクローズアップされたし、中込安弘役の窪塚洋介の快演も光っていた。仲村トオルと小西真奈美が、波多野と雅子役だと知ったとき、幾らか異和感をいだいたものだったが、映画版を観終わって、二人以外に適役はいなかったなと納得したといっていい。

                   ―〈3〉―

    客 結局、君の映画の見方は、相変わらずワンパターンだということがわかったよ。仁侠映画だろうが、文学的香りのする映画だろうと政治的モチーフをもった映画だろうと、すべからく、男―女の描き方を基軸として捉えようとしているように思うな。
    主 それは、否定しないよ。恋愛映画という謳い文句でも、男―女の関係性をきっちりと描いているとは限らない。むしろ、恋愛映画と一番遠いジャンルの方が、そうである場合が多い。加藤泰の『みな殺しの霊歌』(68年)や、アンジェイ・ワイダの『灰とダイヤモンド』(58年−日本公開59年)がそうであるように。
    客 なるほどね。それにしても、映画『行きずりの街』は、なんで、そんなにも注目されなかったんだろうね。
    主 そうなんだ。最後にどうしても世評に対して、一言いっておきたい。別に映画賞や映画雑誌のベストテンに拘るわけではないが、『キネマ旬報』誌では、23位だったのは意外だった。もう少し高評価を受けるのかと思ったからだ(ちなみに、同じ阪本作品の『座頭市 THE LAST』が、なんと、54位という低評価)。ひどいのは『映画芸術』誌だ。ここ数年、選者が様変わりしていることもあって、かつての『映芸』誌独特のベストテンといった色合いが、失ってしまっているといっていい。それは、ワースト点を加算するベストテン形式が、恣意的なものとなりすぎて、もはやベストテンが破綻してしまっているからだ。今回もまた、じつにひどいものになっている。二位と三位の作品は、まったく未知の作品だったが、『映芸』誌スタッフの点数で上位になっているのをみて、いやな感じになってしまった。『行きずりの街』の場合、低い点数とはいえ、四人の選者が選んで、合計十点のところ、一人の選者(敢えて、名前はふせておく)がワーストワンとしたため、差引零点でなんと105位だ(ワーストの点数を引かなかなければ、40位)。しかも、この選者は、コメント欄になぜ、ワーストワンとしたのか、一言も触れていないのだ。この選者は、『おとうと』がワースト3位、『悪人』が4位としているのだ。ほんとうに、『おとうと』や『悪人』よりも、ワーストだと、この選者が思っているのだとしたら、彼の言説や詩作品の一切を是認する気にはならないね。
    客 凄い剣幕だな。期待し過ぎて、失望したのかもしれないぜ。
    主 それはないと思うよ。原作と映画化された作品は別物だ。原作を曲解してひどい作品に仕上がったのならまだしも、そうではないからね。結局、教え子と結婚して、別れた男が十二年ぶりに再会してまた関係性を恢復するという設定に、共感できなかったのか、もともと阪本作品や志水辰夫作品に共感を持っていなかったのかどちらかだろうね。
    客 まあ、シビアなというか、深刻な位相を湛えたものは、映画にしろテレビドラマにしろ、あるいは小説でも、どうしても敬遠される傾向はあるかもしれないな。
    主 いまが、深刻というか、大変な情況ではあるけれど、だからといって、そのことを凝視することは、避けられないし、引き受けざるをえないのだから、わたしたちは、いまを切実に進んでいくしかないと思うよ。
    客 そうだね。そういうことだよ。

    【映画『行きずり街』】―原作・志水辰夫
    監督・阪本順治、制作・黒澤満、脚本・丸山昇一、撮影・仙元誠三、音楽、安川牛朗
    出演・仲村トオル、小西真奈美、南沢奈央、窪塚洋介、菅田俊、佐藤江梨子、谷村美月、杉本哲太、ARATA、石橋蓮司、江波杏子
    配給・東映、上映時間2時間3分、2010年11月20日公開。

    2017.11.09 Thursday

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