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2015.09.05 Saturday

下位文化の発達は都市のネットワークにおける新たな力動性を生成するのか

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    田村公人 著『都市の舞台俳優たち
     アーバニズムの下位文化理論の検証に向かって
    (「図書新聞」15.9.12号)

     本書は、〈舞台俳優〉たちの実相をあたかもフィールドワーク(エスノグラフィックな調査と著者はいう。直訳すれば、民族誌的な調査をさすが、民俗学的なるものと民族誌的なるものは、明快に違うという観点に立てば、フィールドワークという捉え方は、著者にとって疑義を挟みたいところかもしれない)するかのように解析し、十五年に及ぶ調査研究成果をテクストにしたうえで、都市における社会的・共同体的構造を切開していくためのシステム理論(ここでは、シカゴ学派都市社会学のクロード・S・フィッシャーによる下位文化理論ということになる)を再検証していく意欲的試みである。
     アーバンが都市的、都会的な意味としてあるならば、アーバニズムとは、都市や都会を指向するといった意味に考えていいはずだ。そして、都市に内在する問題というものを、様々なアプローチから解析しうることは、理解できるとしても、〈舞台俳優〉をモチーフにしたことの意外性をまずここでは、強調しておく必要があるかもしれない。これは、〈舞台俳優〉という有様を、著者が下位文化の象徴として見做していることを意味している。下位文化とは聞きなれない概念だが、サブ・カルチャーと同義として捉えるならば、わかりやすいと思う。小劇場公演を年数回行う演劇集団に所属する俳優たちが、本書における調査研究対象ということになる。
     フィッシャーが説く下位文化理論というものを著者は、次のように述べていく。
     「フィッシャーは、都市が村落と比較して複雑に『構造的に分化』しているという事実は、既に都市において多様な下位文化が生まれている事実の証明だと主張する。(略)多様かつ独自の下位文化の数が増えれば、その分だけ一般的な規範から逸脱した行動の数が増える。(略)村落では孤独を余儀なくされる『逸脱者』が自らと類似した『仲間』を見つけ、独自の下位文化を発達させることが可能となる。(略)以上が、下位文化理論の基本命題(略)の説明内容の簡単な要約である。」
     これに対して、著者は、小劇団の俳優たちの現状(劇団を維持するための、あるいは公演の赤字を最小限に抑えるためのチケット販売というノルマや、舞台俳優を続けていくためのアルバイト活動、親許での生活を余儀なくされることなど)を細やかに分析し、下位文化の発達が都市のネットワークにおける新たな力動性を生成することになるということへの、疑義の視線を拡張している。
     「少なくとも、三十歳を超えて現役を続けてきた上記の俳優たちの顛末は、冒頭で言及した『三十歳限界説』という通説を大きく覆らせるまでの結果を示していない。誤差の範囲内に止まるとした方が、この場合には正確とさえ言えるのかもしれない。この種の事実は、都市が『非通念性』を生み出すと主張するアーバニズムの理論的効果の盲点を的確に突いている。」
     そして、「『下位文化』の『強化』が他の世界との『衝突』を通して達成されるという『理論』の提唱者の仮説」に対して「修正の余地を残す点を否定」できないと論断していく。
     そもそも、「下位文化」という概念が、わたしには、どうしても率直に了解できないものがある。かりに、サブ・カルチャーと拡張して捉えてみたとしても、フィッシャーの言説を了とできるわけではない。これは、北米やヨーロッパの都市の形成過程と日本やアジアにおける成り立ちを考えてみれば、大きな差異があるからだといっていい。日本の場合、必ずしも、都市的なものと村落的なものが差異化できるほど共同性の基層が明確化されているわけではないからだ。著者は、フィッシャー理論の中で、「人口量が多い場所(=都市)ほど」、「何らかの文化的選好を持つ個人が利害や関心を共有し、互に支持を与え合う『仲間』を見つけ出す上で」、「有利になると論じる」と述べていて、一定の評価を与えている。確かに、そういう側面もあると思うが、孤立してしまうことと関係をうまく結んでいくこととは、パラレルなものが絶えずあるような気がする。ノルマ達成のためのチケット販売の例示の中で、東京出身者と地方出身者では、繋がっている関係性の多寡に違いが出てきて、結局、自己負担する場合があることを示されている。
     日本でもかつては高度資本主義社会とか高度消費社会といわれた時期があった。サブ・カルチャーが、大量消費されて、わが世の春を謳歌していた頃だといい換えてもいい。しかし、それは、幻想の資本制社会の最後の姿だったといえなくもない。わたしの現在の感慨は、都市というものは孤独者たちの共同体であるといいたい気がする。

    (ハーベスト社・15.5.28刊)

    2017.12.06 Wednesday

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