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2016.08.27 Saturday

日本帝国の一知識人の悲哀――ゾルゲ事件とその背景となる時代情況を織り交ぜながら、精緻に事件の実相と尾崎の思想的相貌を論及

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    太田尚樹 著『尾崎秀実とゾルゲ事件――近衛文麿の影で暗躍した男
    (「図書新聞」16.9.3号)

     ある時期まで、ゾルゲ事件とは、昭和期の戦時下における政治思想的な〈暗部〉として語られてきたといっていい。しかし、わたし(たち)にとって、コミンテルンの諜報活動に翻弄された、日本帝国の一知識人の悲哀を考えてみた時、事件の実相よりも、浮き上がる様々な様相のみが、〈物語〉として意味があるという捉え方になる。なぜなら、戦前から戦後も含めスターリン主義的な共産主義運動は、欺瞞に満ちたものであり、なんの共鳴も感じられないからだ。率直にいえば、そもそも、尾崎秀実ほどの類まれな情況分析家(評論家)が、コミンテルンの皮相な戦略に、自らの理念・理想をなぜ、仮託しようと思ったのかが、わたしにとって理解できないことであった。だが本書は、ゾルゲ事件とその背景となる時代情況を織り交ぜながら、精緻に事件の実相と尾崎の思想的相貌を論及し、わたしが抱いていた疑念を払拭させてくれた刺激的な論考であった。
     尾崎の個人史的な位相に視線を射し入れてみるならば、幼少期に日本統治下の植民地・台湾で過ごしたことが、後に、「革新思想に傾倒していった潜在的な必然性のひとつとみて差し支えあるまい」と著者が述べていることは、了解できる。さらに、いえば、一高卒業後、東京帝大に進学した翌年、関東大震災のさ中、無政府主義者・大杉栄(他に妻の野枝と甥の宗一)らが虐殺された出来事に、「強い衝動」を受け、「社会問題をまともに研究の対象とするに至った」と、逮捕後の「上申書」に記されていることを、本書で引いていることに、注視したい。大杉は、自身が虐殺される六年前(1917年)に生起したロシア革命を、理想社会をかたちづくる方向とは違う場所へ向かっていると、既に予見していた。尾崎が逮捕された1941年当時は大粛清を経てスターリン独裁体制下であったし、遡って朝日新聞社上海支局に転勤して、ゾルゲと知り合うことになった1927年頃は、政敵・トロツキーを追放して共産党内の権力を完全掌握しつつあったことを考えれば、ソ連・コミンテルンによる諜報活動は、そのままスターリンの権力基盤とソ連による世界支配を補強するものでしかなかったことになる。尾崎が思い描く、アジアの民衆を解放して理想社会をつくるといった構想と、コミンテルンの目指すものは、初めからまったく違うベクトルを持っていたことに、事件の悲壮な実相が含まれているといっていい。
     「スパイ活動は通常、自国や自らの帰属する組織に利するのが目的であるが、尾崎の場合は帰属性をもたないソ連と中共の勝利のために、日本の情報を提供していた。彼がスパイ行為にはしったのは、単なる価値観の共有ではなく、自国の国家体制、なかでも軍部主導の体制打倒が根底にある。/そのために尾崎個人としては、コミンテルンが掲げる世界共産主義革命を信じていくしかなかった。だが一方のゾルゲは、世界革命など夢想に過ぎないと、すでに気が付いていた。」
     朝日新聞を退社した尾崎は、請われて第一次近衛内閣(1938〜39年)の嘱託に就いた。そこで、その後、日本軍が満洲侵略をするための理念的基軸となっていった東亜新秩序声明(1938年)に関わっていったといわれている。
     蒋介石政権に対抗しうる政権を作り上げて、「東亜共同体、本当の意味での新秩序」を「纏めていく」べきだという尾崎の発言に触れながら、著者は次のように述べていく。
     「日本と蒋介石を戦わせようとした、尾崎の強硬姿勢がうかがえ、蒋介石軍を叩くことが中国共産党側に有利に働くという、尾崎の本音がみえている。(略)だがその結果は、国共合作によって中国共産党はまず蒋介石を抱き込み、その後日本が敗北すると、今度は蒋介石も台湾に追いやられ、日本と国民党政権を共倒れさせることができたことになる。/これは本音と建前が交錯して一体化した例であるが、尾崎の評価の難しさの一つである。」
     東亜新秩序声明から十ヵ月後の1939年9月にヨーロッパで第二次世界大戦が生起する。「日本の指導者たちは再び惑わされたが、新秩序建設に走った近衛内閣も官僚も陸軍強硬派の思索も、所詮はオポチュニズムでしかない」と断じながら、著者は、「日華事変を拡大させ、さらに運命の日独伊三国同盟から北部仏印進駐、南部仏印進駐まで強行してしまったのは、すべて近衛内閣のときであった。内閣の責任の一端を負う者として、アメリカを深く研究した跡が見られない尾崎も、対米関係を悪化させた責めは免れない」と論及する。
     わたしの考えは、こうである。尾崎が「平和主義・反戦主義」の思想を胚胎したある種のコミュニストであったかもしれないが、幼少期の植民地・台湾での生活のなかで、初源のアイデンティティーが形成されたと見做してみれば、イノセントなアジア主義者だったと捉えてみたいのだ。スターリンは、本来、広大なシベリアがそうであるようにアジア的様態を潜在していたロシア(ソ連)を急速な軍事・経済的な発展によって西欧化(脱アジア化)を目指していったといえる。そこに、尾崎とソ連・コミンテルンとの埋めようもない空隙があったといえるはずだ。アジア主義者・尾崎秀実の理念と理想が霧消していく必然は、ゾルゲとの出会いから既に始まっていったというべきかもしれない。

    (吉川弘文館刊・16.3.1)

    2017.07.15 Saturday

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