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2016.07.23 Saturday

「自己死意識」という視線                                      ――ラスコーリニコフという存在を社会的、歴史的背景から読み解く

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    坂根 武 著『わが魂の「罪と罰」読書ノート』
    (「図書新聞」16.7.30号)

     本書を全篇読み通して、真っ先に気づいたことがある。「作者」といういい方は書かれていても、ドストエフスキーという作家名が、まったく表記されていないことだった(テクストの出典、並びに訳者の表記がないのも、同じ考え方かもしれない)。そして、『罪と罰』の主人公名のラスコーリニコフは、当然、頻出することになるのだが、さらにいえば、ラスコーリニコフを「彼」と表記しながら、その「彼」に寄り添うようにして、『罪と罰』を読み解いている。これは、著者とラスコーリニコフが、魂の共振をしているのだと見做してもいいかもしれない。書名に、「わが魂の」と冠したのは、まさしく、そのような共振を象徴しているからだといえる。
     「このエッセイは、一読書人の、『罪と罰』という小説の純個人的な読書感想文である。それ以外何もない。ほかの批評家の意見への言及もなければ、時代背景への考察もない。そもそもの初め、人は白紙の状態で読書の喜びを知り、後になっては他者の意見に耳を傾けつつも、結局は己独自の感動を以って読書を終えるものとすれば、私のこのエッセイは、読書の原初の姿そのままといっていいだろう。こんな『罪と罰』論もあっていいのではないか。」(「あとがき」)
     「エッセイ」といういい方といい、「純個人的な読書感想文」といういい方にしても、自分が書いたものへ自註的ないい方としては、ある意味、潔いといえるが、ほんとうは、どのように読んだかということを自分のなかで反芻していくことと、そのことを他者に直截に伝えることの間には、大きな懸隔があるといえるはずだ。それは、読後感を自分以外は読むことのない、日記のようなかたちで記すことと、読書ノートとして公開することの違いは大きいはずだとわたしなら思う。
     にもかかわらず、本書に接して、読む(感受する)ことと書く(表現する)ことの間隙に、どのような位相が潜在することになるのだろうかと思いながら、わたしなりの『罪と罰』考と本書との往還を想起しながら述べてみることが、本書に対する、わたしの「ノート」ということになるはずだ。
     「(略)ラスコーリニコフが手を下したのは、老婆の身代わりにした己の命だった。そのあまりにも生々しくも恐ろしい記憶は、一瞬彼の意識から抜け落ちたのだ。この自己死意識が、警察署での恐怖の体験の底に流れている。(略)呼び出しの理由は事件とは無関係な些細な事だった。それを知った時の動物的な歓喜とはじけるような解放感。彼は職員相手にペラペラと身の上話を始めたがそれも束の間だった。心の中には、己の死体が横たわって死臭を放っている。」
     ラスコーリニコフは、なぜ、二人の女性を殺したのかという問い掛けは、『罪と罰』という作品の最も核心的な視線であるといっていい。だから、ラスコーリニコフという存在を社会的、歴史的背景から読み解くことが、ある意味、オーソドックスなかたちではあるが、著者は、ここで、「自己死意識」という考え方を提示していく。そして、「心の中には、己の死体が横たわって死臭を放っている」と徹底して読みきっていくのだ。しばしば、夢幻なる世界の彷徨が描出されたり、どこまで深く自らの心奥の中で贖罪感が胚胎しているのか不分明なかたちで描かれていたり、ラスコーリニコフ像へフォーカスしていくことの困難さが、『罪と罰』にはあるが、著者は、「自己死意識」という視線を通して、ラスコーリニコフに寄り添っていく。
    作品中、もうひとつの核心的な場所は、ラスコーリニコフと、自らの行為を告白する相手、ソーニャとの関係性ということになるが、著者は、次のように捉えていく。
     「もしラスコーリニコフがソーニャに出会っていなければ、彼は自殺で以って人生に終止符を打っていただろう。彼は秘密を打ち明ける相手もなく、巨大な虚無は彼を飲み込んでしまったに違いない。」「ソーニャが彼の顔を見たのは、殺人犯でありながら己のオノの犠牲者でもある死の表情であったとわかるだろう。そしてそれを見て、ソーニャに取り憑いた恐怖がラスコーリニコフに感染したのもうなずけるだろう。このようにして、二人が共に同じ恐怖の中で一体になった不思議な瞬間が理解できるだろう。」(傍線ママ)
     宗教(神)の問題が、さらに大きな問題として作品中には横断しているといっていい。わたしは正直なところ、これまでドストエフスキーと宗教の関係を留保にしながら読んできた。ラスコーリニコフとソーニャを「恐怖の共同性」の中に措定するということは、そのまま、著者が、「ラスコーリニコフは神に反逆する思想を実践した」と見做していくことに繋がっていくわけだが、どこかで、そのことに首肯したくなる自分が、いることに気づかされることになるといっていい。

    (編集工房ノア刊・15.12.20)



    2017.07.15 Saturday

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