送られてきた三冊の詩集に接し、不思議な感慨を抑えることができなかった。もしかしたら、一冊ずつ手にしていたら、湧いてこなかったかもしれない感覚といってもいい。わたし自身は詩(短詩型も含めた詩的表現全般)を紡ぎ出せないまま、ただ、〈読む〉ことに、感受の有様を確認してきただけだから、作者(表現者)の側にたいし、何がしかのことを照射しながら論及する立場ではない。だから、ほとんど、感想めいた言葉しか記すことしかできないかもしれないが、〈読む〉という行為を言葉にしてみようと思う。三冊の詩集のそれぞれの著者に関して、最初に申し添えておきたいのだが、黒崎立体(以下、敬称略)、高塚謙太郎の二氏は、まったくの初見である。藤井晴美は、未知ではないが、いつどこで、作品に接したのかまでは記憶に残っていない。

◎黒崎立体詩集『tempo giusto』
 詩集名の“tempo giusto”とは、本詩集の扉に記されている説明では、「正しい速度で。(一般に、心拍の速さと言われる。)」ということのようだ。また、他の二詩集とは違い、奥付に著者の来歴が配置されてあって、本詩集が第一詩集であることが、了解される。ただし、本人のブログによれば、09から16年までに発表された詩篇から23篇を選んで収録したとある。八年間という時間性を考えた時、わたしは、ある年代においては、加速化して進行していくものとしてあるのではないかと思われるのだが、著者は、敢えてひとつの詩集に、“正しい速度で”、時間性を置いたことになる。この詩集は、章立てをしていないが、章の区切りのような感じで、写真を入れてあり、三章立てのような構成となっている。巻頭の「ねじ」から「がらくた」までと、「Kのデッサン」から最後の「edge away」までの間には、表出される詩語に微妙な差異を、わたしには感じられた。時間列の構成なのかは、類推するしかないとして、著者の思いのなかには、詩のモチーフとして、「ねじ」から「がらくた」までの世界を放出しなければ、「Kのデッサン」以後の世界へと辿ることが出来なかったということが、潜在していたのではないだろうか。
 「おにいちゃん」、「わたし」、「おかあちゃん」、「おとうちゃん」、「おとうと」、「父」、「母」と発せられる詩語がかたちづくる物語のなかに流れていくのは、なぜか「死」だ。

 「おかあちゃんが病気でたおれて/子宮を取ったと聞いた時/わたしはとてもほっとした/もう、なんにもうまれてこない//おかあちゃん、あとはもう死ぬだけだね」(「ねじ」)
 「ぼたん雪が落ちていくのを/部屋の窓からながめていた/集団自殺みたいに/ぼろぼろ、/ぼろぼろ、//」「わたしの意識の鋳型を取った/(むりやりにつながれた星座を死ねますように/((死ねますように/(((死ねますように/ふるえるように」(「雪ちゃん」)
 「まだ、冬というなまえがあった日に。/ガスをひねったら楽に死ねるし死体もきれいだ、そう言って笑うあなたのなみだのことを覚えている。いっしょにしんでくれる? うん、しぬあなたに抱えきれないものとして私が存在していたのだと、気がつけるはずもないほど遠い日の、甘い会話。あなたに広がっていたいちめんの雪をいま、見ている。その中に転がる檸檬ほどの、可愛い死、」(「Yのデザイン」)

 「死」は、自分では体験できないものだ。「死」へと至るかもしれないという時間を予感できても、それは、「死」ではない。「死」は、いつも他者の「死」として、自分の内界に訪れてくるものなのだ。それはある意味、残酷なことだといっていい。「おかあちゃん、あとはもう死ぬだけだね」という視線は、自分より年齢が嵩み、しかも病気をしたのだから、母の方が先に死ぬだろうという悲しい類推をここでは語らせていることになる。しかし、ほんとうは、そんなことは誰にもいえないことなのだ。「ガスをひねったら楽に死ねるし死体もきれいだ、そう言って笑うあなた」に、いずれ「死」が訪れるのは確かなことかもしれない。だが、わたしは、「死」というものは、予感を孕みながらも、突然、訪れてくるものだと思っている。そういう意味でいえば、「檸檬ほどの、可愛い死、」という作者の視線に、わたしが無意識のうちに慰藉されていると気づくことになる。

 「光は、/屈折するからきれいだ/ささやかな場所にたっして揺らぎつづけるひと熱、」(「光について」)

 もしかしたら、「光」は、作者にとって、「檸檬ほどの、可愛い死、」を透過させて辿り着いた「死」の反照として鮮烈な詩語を潜在させようとする強い意志の表れのような気がしてならない。

◎眥邑太郎詩集『sound & dcolor』
 詩篇の最後に“うしろがき”のような短文が付されている。そこには、「言葉がもつ幾重もの意味の層が常に揺れつづけることで色がひろがり、私たちの脳である種のリズムが生まれてくることも確かで、韻律といった場合、単なる音韻上のリズムをさすわけではなさそうです」ということが記されている。

 「名まえをうかべながら/気がつくと海そのものになっていて/ゆたかなさようならのように/波おとをたてながら遠ざかっていった」(「さようならのように」)
 「ゆびのかずや/ねごとのくらさ/ゆれつづけるみみたぶのはやさ/これらいっさいがとおくながい年号となって/わたしをみつめている」(「ゆれつづける」)

 このように、ひらがなを多用した詩篇たちに出合うと、無意識のうちに音(おん)が韻律を醸し出し、そこに物語がかたちづくられていくように感受できる。「さようなら」という別離の言葉が、「豊かな」ではなく、「ゆたかな」と形容されることによって、海の波のように、向こうへ引いていったとしても、また、こちらがわにやってくるというように、「ゆたかなさようなら」には、人と人との往還性を持った関係の有様を胚胎していると見做したくなる。
 「ゆれつづけるみみたぶのはやさ」からは、なにを感じとることができるだろうか。時の流れが、時間という数的なものを昇華して、「とおくながい年号」として永遠に刻み続けるということを表象しているといっていい。

 「母語のようにしずかな朝/舟に歯をたてておとがちらばる/水をひたしはじめる海うみ/おはよう」「舟は/もうじき地平へ落ちる」「ひとつひとつが舟の照りかげりだとしたら/海はやさしい」(「さすらいおもいで」)

 わたしは、「母語のようにしずかな朝」ではじまる、この詩篇に、一番感応したといえる。最終の三行は、こうだ。

 「やさしい海のおと/ゆれているのはひだひだのわたし/うごいているのはひとつひとつのおまえ」

 あたかも、二篇の詩篇が往還するかのように紡ぎだされたのが、「さすらいおもいで」という詩篇だといっていいはずだ。こうして、恣意的かもしれないが、わたしが眥佑了軆犬鯑匹鵑生紊隆響曚箸いΔ海箸砲覆襪、もう少し、付言したいことがある。たまたま、詩集三冊が届いた後、一年に一冊手に取るかどうかという間隔で読む『現代詩手帖』を今回(八月号)、購入した。遥か年少の友人(ノミトモダチ、カラオケトモダチ)の小林坩堝の連載詩が始まったからだ。特集名が不思議だ。「2010年代の詩人たち」とは。編集長の藤井一乃は、「『2010年代の詩人』は存在しない。第一詩集を刊行したり、賞を受賞したりして『2010年代に登場した詩人』たちがいるだけである。それでも、いまこの詩人たちがどのように現在を見ているのか知りたい気持ちはつねにある」と記しているから、どうにか、その企図するところはわからないではない。だが、ここでは、「第一詩集を刊行したり、賞を受賞」することを前提にしていることが、気にかかるということだけはいっておきたい。
 眥邑太郎が特集の詩人として三篇の詩篇を寄せている。詩集の方で詩篇に触れたわけだから、ここでは、「2010年代の詩人たち」へのアンケートが収載されているので、眥佑留答を引いてみたいと思う。「現在、関心があること」にたいして、「憲法九条」と答えている。「詩を選んだきっかけ」や「いま、これからの詩をどう考えるか」という問いにたいして、それぞれ「今思えば、言葉で遊ぶのに手頃だったので詩を書いてきたのだと思います。/もちろん詩は思想そのものです」、「詩というものがあるとするなら、音やリズムに技術は収斂されていくかもしれません。/もちろん詩は思想そのものです」と答えていた。
 「憲法九条」とか、「詩は思想」(実際、『詩と思想』という詩誌があるが)だといった言葉を見ると、わたしの性(さが)のような、悪癖のような反応が立ちあがって、取り留めもない言葉が露出しそうなので、別の応答をしてみたいと思う。本詩集を読み、『現代詩手帖』八月号に収載された詩篇を読んでも、作者の言葉として、「憲法九条」とか、「詩は思想」といった言葉は、唐突感のように思えたといっていい。作者の“矜持”と、作品性はイコールのように表れるわけではないから、わたしが、唐突感に思えたのは、たんに感受性の問題かもしれない。わたしが、眥佑了輅咾髻読んだ先に、「憲法九条」とか、「詩は思想」という問題があるとすれば、“具体的に”、眥佑呂匹考えているのかを、ぜひ知りたいと思う。

◎藤井晴美詩集『グロッキー』
 短詩のようなものから物語詩まで、多彩なヴァリエーションの詩篇によって構成された、この詩集は、苛烈な物語性で貫かれている。そして、読むものを圧倒させる力があるといえばいいだろうか。いや、むしろ知らず知らずのうちに読むものを〈迷宮〉へと誘っていくような作者の〈声〉が聞こえてくるといった方がいいかもしれない。

 「君を絞め殺したくなる夜がまた来る/大きなまつ毛をつけて/一万円札のような/マントでできた/濁った空間に/ぼくは鼻血を流したいんだ」「君は絞め殺しても笑っている」(「ぼくの切実な君」)

 詩語の苛烈さにもかかわらず、陰惨な感じを受けないのは、語りのようなリズムが清冽さを醸し出しているからだといいたくなる。あるいは、作者の発語の場所から、清冽さが染みだしているように感じられるからなのかもしれない。前出の『現代詩手帖』誌で、小林坩堝が、藤井晴美詩集『夜への予告』(七月堂・15年10月刊)にたいして、「現代詩の深みに嵌りたい方に。鮮やかに錯乱したイメージの連続にたちまち中毒するはず」(「百年/百冊 これから詩に出会う人のために」)と述べていた。なるほど、本詩集においても、「鮮やかに錯乱したイメージの連続」は、健在だといえる。
 「二十歳の練習問題」と題された長編詩(物語詩といった方がいいかもしれない)は、その白眉だ。ほんとうは、作者の履歴や作品歴を意識外において作品に向き合うべきだろうが、第一詩集『おおぼく、クリスティーヌよ』に纏わる物語であるため、どうにか、作品歴(正確かどうかは分からない)を検索して、それが、私家版として1975年12月に刊行されていることがわかった。
 この詩篇は、詩書出版社と第一詩集の刊行をめぐる遣り取りとその顛末が、作品のひとつの流れとしてある。この国の詩壇というものがあるとしたら、ここでモチーフ(モデル)となっている詩書出版社と社主の有様がいまとなっては、どうしようもないものを作り上げているのだなと類推できるように表出されている。作品では、出版社名は初潮社(あまりに嵌り過ぎている)であり、社主の名は大田急郎である。誰が見てもどこの出版社か、社主かは明白だ。わたし個人のことを語るのは、詩集の感想を述べる場にはふさわしくはないかもしれないが、敢えていってみる。わたしは、この社主のモデルたる人物に、かつて二度ほど宴席で会っている。わたしが、敬愛する詩人のことを話題にした時、彼から、その詩人を貶めるようなエピソードが発せられたのだ(本人には悪意はなく、冗談めいた会話を発したに過ぎないかもしれないが)。品位などというものを、わたしは問題にしたいわけではないが、詩壇なるものは、幻のような亡霊以外なにものでもないということを、あらためて認識したことになる。

 「『ウチの名前を冠するより、こういうものはご自分で出されたほうが、自身の手づくりでやられたほうが処女詩集としてやはり迫力が違う。みなさんそうですよ』と言って大田は体よく断った。」
 「『有力な詩人の推薦でもあれば話は別ですが、そういうものがない以上、ウチも出版社ですからね、そこはわかっていただかないと』と小声でそっと耳打ちされたような気がするが、あの生臭い呼気が、もうはっきりしなかった。」

 厚顔な社主が、“メス井猿美”の“処女詩集”の発行を断ったことにたいして、「私は勝ったのだ。」と宣して、詩篇は閉じられていく。
 もちろん、ここで語られる物語詩が、フィクションか否かということは、些末な問題だが、次のようなことが喚起されていくといえる。詩人は、詩集を出すことで詩人として認知されるのだろうか。小説家は、人知れず小説を書き続けるだけでは、小説家とはいえないのだろうか。音楽家は、カラオケ店で歌を唄うだけでは、音楽家(歌手)とはいえないのだろうか。わたしは、藤井晴美の詩からイメージを勝手に増幅させて、そんなことを想いながら、迷路のような場所を彷徨うことになる。
 しかし、藤井晴美にあっては、そんなことはどうでもいいことだと思う。初潮社(思潮社)や大田急郎(小田久郎)にたいして、恨み辛みを吐きだしたいのではない。ただただ、幻のような亡霊を解体したいだけなのだと思う。

 「畳君!/黄色くなったぼくの二十年前のおちょぼ口の記憶よ、さばさばした世間話があった。河原の土手に。商店街の広告とどぎついしみったれた開店祝いの造花の花々、宝船。贋の町。」「ビー玉の暖簾は不動で不服、じゃらじゃらと濁った眼を陽に向けてへらへらしているグロッキーな光景、砂ぼこりの。下駄の音が響く。」「口よ、盲目の口よ、ああぼくの稲妻。縦と横にエレベーターの鎖が切れる大脳皮質のぼくの正義は死刑だ!」(「蠅」)

 他者への刃は、そのまま、自分自身にも突きつけられていく刃であることを、藤井は熟知している。だから、「二十歳の練習問題」という詩篇を表出できるのだ。二十年前だろうが、四十年前だろうが、「グロッキーな光景」を見据える視線があれば、その時のことが、絶えず、「現在」という場所へと還流してくるからだ。


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黒崎立体詩集『tempo giusto』(七月堂刊・16.7.9・四六判・88P・定価[本体1200円+税])
眥邑太郎詩集『sound & dcolor』(七月堂刊・16.7.15・A5変型判・102P・定価[本体1200円+税])
藤井晴美詩集『グロッキー』(七月堂刊・16.7.20・四六判・56P・定価[本体800円+税])

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