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2016.12.10 Saturday

【追悼・遠矢徹彦】                                   〈声〉が聞こえてくる――遠矢作品に沈潜する思念のほうへ

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     遠矢さんの作品「さらばミラボー橋」を読んだ。文字と文字の間から、遠矢さんの〈声〉が聞こえてくるようだった。この作品は、九十年代に発表したものを、04年7月と05年1月に改稿されて、塙さんと小川さんたちの雑誌に掲載されたものだ。時系列的にいえば、わたしが、初めて遠矢作品に接した第二作品集『ぺちゃんこにプレスされた男の肖像』(04年3月刊)の後ということになる。そこに、なにか不思議な因縁を感じる。そして、十数年振りに、「風の森」に再掲載されることを、遠矢さんは、どんなふうに思っているのだろうかと聞いてみたかったのだが。
     第二作品集に収められている諸作品に比べて、「さらばミラボー橋」は、硬質さが、やや抑えられているが、沈潜する思念とでもいうべきものは、より鮮烈に描かれているといっていい。渡瀬、キーコ、おやじ、それぞれの描像が実に魅惑的なのだ。舞台は、あの五月革命が生起した68年、パリだ。

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     わたしは、遠矢さんの幅広い関係性のなかでも、最も遅くに知りあっている。通交した時間としても十二、三年ほどでしかない。しかし、いろんな意味で濃密であったと思っている。
     わたしが、作品集『ぺちゃんこにプレスされた男の肖像』を「図書新聞」紙上で書評したことが契機だった。共通の知人(わたしにとっては友人)を介して、遠矢さんの方から連絡をくれて、国分寺の喫茶店で会ったのが最初だった。三、四時間は話しただろうか。様々な話のなかで、シャンソン歌手を仲間で応援しているということを聞いて、驚いたものだった。わたしは、シャンソンは嫌いではないし、比較的、聞いている方だが、なんとなく、自分自身の思い込みで、シャンソンを聞いていると公然といいにくいものがあると考えていた。遠矢さんは、レオ・フェレ(1916〜93)という名前を挙げ、パリ五月革命に連帯したアナキストでシャンソン歌手であることを説明してくれる。アポリネールの「ミラボー橋」に曲をつけて発表したのが53年の4月のことだ。遠矢さんによると、日本でレオ・フェレを唄うシャンソン歌手はほとんどいないが、唯一、若林圭子さんだけで、その若林さんを応援しているのだという。その時、まさか、わたしも若林さんに関わっていく、狠膣屬琉貎有瓩砲覆襪箸蓮¬瓦砲盪廚錣覆ったといえる。
     07年3月、遠矢さん、Mさん、Nさん、そして、わたしの四人が主催して若林さんのライブを小さなスペースではあったが、行った。まさか、シャンソンのライブをやってしまうとは、遠矢さんと会うまでは、想像できなかったことだ。

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     清掃車の臨時雇いとして働く渡瀬は、パリで、「キーコという女との同居生活」を始める。だが、「一緒にくらしたのはわずかだったが、しばらくの間にすっかり耳になじんだ『ミラボー橋』のメロディを残して、ある日彼女は」、「わたしたちの『レオ・フェレ戦線』のために、民衆の新しい革命のために、大切な資金として拝借していきます。どうしても今必要なのです。どうか悪く思わないで下さいね」と書置きを残して姿を消した。キーコの奔放な振る舞いは、遠矢さんの筆致にかかると、愛おしさを感じさせるのだ。やがて、再会することになるのだが、キーコは歓楽街に佇んでいた。キーコは渡瀬を犁勠瓩箸靴童做さず、『自由のために闘い、愛のために死ぬ娼婦解放戦線』というパンフを彼に渡して立ち去っていく。キーコをめぐる描写は、苛烈な言葉と行動のなかにあるのだが、どこか、爐曚里椶劉瓩箸靴織ぅ瓠璽犬鬚△燭┐襦牋Δしさ瓩任△蝓↓爐曚里椶劉瓩箸いκ薫狼ぁ△燭屬鵝△海里海箸、遠矢作品独特の硬質さをいい意味でやわらげて、作品の奥深さを読み手に感受させているといいたい。

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     遠矢さんとは、高尾山のビアガーデン行が忘れられない。他にK神父、Nさんら四、五人で毎年夏に誘われて出かけたものだった。遠矢さんは、わたしのような酒飲みの酔っぱらいとは違い、ビールを淡々と飲み、つまみもそんなに食べるでもなく、しかし、話し好きだから、会話は途絶えることはなかった。いまとなっては、どんな話で盛り上がったのかは、まったく覚えていない。ほんとうは、遠矢さんは、K神父とNさんとやっている読書会というか、研究会に、わたしを誘いたかったようだ。しかたがなく一、二度顔をだしたことがある。わたしは、元来、勉強会や研究会の類は好きではなく、本を読むなら一人でするものだと思っていたから、遠矢さんには申し訳なかったなと、いま思い返している。

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     作品で描かれている68年5月、わたしは、その頃どうしていただろうか。遠矢さんは三十歳だ。もちろん、パリには行っていないはずだ。わたしは、東北の日本海側の高校を卒業して上京、予備校生という身分だった。前年の67年10月8日に新左翼諸派による羽田闘争があり、全国的な学園闘争が拡がりを見せていた頃だ。パリ五月革命は、よく覚えている。リーダー格のダニエル・コーン=バンディは、アナキストであったことを知って、強い関心を持ったからだ。彼の『左翼急進主義』は、直ぐに翻訳出版されたので、買い求めて読んだ記憶がある。調べてみたら、その後、ドイツの緑の党に関わったようで、大きく右旋回しなかっただけでも、いいほうかなと思ったりした。

     「学生達の蜂起は、社会革命の萌芽を射程にいれた全面的な民衆蜂起への深まりと成熟を夢想したまま、途絶しつつあった。」「『山猫ストだぜ。旗なんて必要かよ。CGTの汚れた赤旗なんぞ糞くらえだ』(略)『黒旗はどうかね。おやじの好きなさ』(略)『黙ってろ、お前ら。わしはな、赤でも黒でも青でもありゃせん。ただの人間だあね』不意にレオ・フェレおやじが、運転台のドアを半開きにし、顔を突き出すとユーモラスな調子で怒鳴り返しきた。」

     遠矢さんは、プライベート(家庭・家族)なこと以外は、よく自分のことを話してくれた。狎岫瓩筬狎牒瓩亡悗錣辰涜臺僂世辰燭海箸髻だから、心情的には、犢瓩坊梗个靴討い辰燭海箸覆匹鬚覆鵑粒囲△發覆年少のわたしに吐露していた。わたしは、指向性としては、犢瓩覆里もしれないが、敢えて恰好をつけさせてもらえば、このレオ・フェレおやじのように、「赤でも黒でも青でもありゃせん。ただの人間だ」ということになると思う。そんなようなことも、よく話して、遠矢さんと意気投合したことを覚えている。

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     遠矢さんが、「風の森」に参加するようになったのは、東谷貞夫(筆名、伯爵・神山宏)さんの強い慫慂による。「風の森」にもう少し書き手を揃えたいと考えていた東谷さんは、わたしに誰か推薦したい人はいないかと何度も、尋ねてきた。当時は年四回発行であったため、遠矢さんにそれとなく打診したところ、幾つかの雑誌に参加しているため、年四回、「風の森」に作品を発表することは、長い付き合いのある他の雑誌に書けなくなってしまうということで、逡巡していた。半ば、強引に、「風の森」に傾注するように進めたのが東谷さんだった。
     よく、遠矢さんは、自分の作品の感想を聞きたがって、電話を掛けてきていた。遠矢さんは、わたしのようなものの感想を真剣に聞いてくれる人だった。だから、曖昧な言葉遣いはできなかった。
     「風の森」に参加するようになってから、東谷さんが、原稿に赤を入れてくると遠矢さんから電話が掛かって来たことがある。遠矢さんは、赤入れされることを憤っているのではなく、赤入れする根拠に納得できなかったのだ。後々のことになるのだが、二人はなんだかんだいっても、同志のような関係になっていくのだが、最初は、かなりぎくしゃくしていたように思う。もともと、その表現方法はかなり違うふたりだが、しかし、潜在する資質のようなものは、かなり重なるところがあるとわたしは思っている。東谷さんは、遠矢さんの作家性に惹かれるあまり過剰に立ち入ったともいえるからだ。電話好きの遠矢さんが、頻繁に東谷さんから長電話が掛かってきて大変だと、わたしに笑いながらいっていた表情が忘れられない。
     10年12月、「風の森」忘年会をかねて、遠矢さんの作品「路上の鈴」が、「まほろば賞」特別賞・五十嵐勉賞を受賞したお祝いを狷運涌貽鵜瓩如行った。場所は、東谷さんが贔屓にしていた新宿サントリーラウンジ昴であった。と、ここまで記すと、いかにも華やかなことだと思われるかもしない。
     遠矢さんらしいエピソードとして記しておきたい。忘年会とお祝いの会すべての費用は、遠矢さんが賞金から払ったのだ。発案者は東谷さんなのだが、彼がいうには、祝いの会など必要ないから忘年会だけにしようと遠矢さんは抵抗したらしい。結局、主賓がすべて負担する宴にすることで遠矢さんも納得したというのだ。その時の集合写真から120Pに顔写真を掲載した(提供は越田さん)。

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     わたしは、創作をしないから、勝手なことをいっているだけだが、作家には、中・短篇作品をテリトリーとする人と、長篇に拘泥する人がいると思う。同人雑誌を発表の場にすると、どうしても、長篇作品はなかなか掲載しにくいというのはわからないではない。遠矢さんが参加した頃は、年四回発行であったから、長篇構想のもとで、連作で中・短篇作品を掲載していったらどうですかと、提案したことがある。たんに、一読者としてのわたしが、遠矢さんの長篇作品を読みたいからなのだが、遠矢さん自身も、当然のこと、そういうことを考えていたようだ。ただ、モチーフをどうするかというのが、一番の難題だったと思う。いろいろ思案した結果、自伝的なことを書いてみようと思うと告げられた。複雑な出自や事情めいたことは、折に触れて話してくれたから、シンドイかもしれませんが、期待していますと応答したと思う。第13号(10年8月)から「夢遊の時代」が始まる。だが、思わぬ長期の入院生活によって、三回の連載で中断したことになる。

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     今回、掲載することになった「さらばミラボー橋」は、偶然にも、遠矢さんから直接、別れを告げているような感じがしてならない。表題が、爐気蕕亅瓩箸いΔ海箸發△襪、作品の終景をいま一度、見てみれば、そう思うはずだ。

     「前方の路上で、バリケードに立てこもった学生や若い労働者達の隊列が、対峙するド・ゴールの武装部隊と正面衝突していた。勝敗はその時点で決まっていたのだ。人々は手にした石畳みの欠片や棒切れ、ガソリンの詰まったウィスキー瓶の類を握ったまま捨てようとしなかった。最後の抵抗は、苛烈さの度合いを深め、しだいに絶望の淵に沈んでいく。/『さあ、前へ出るぞ、わし等もな』おやじは笑いながら渡瀬の肩を叩き、ドアを開いた。」

     遠矢さんは、「さあ」という声とともに、「前へ」と進んでいったのだ。わたしには、そう思わせてくれる〈声〉が作品から聞こえてくる。

    (『風の森 第二次第五号[通巻20号]』2016.12.20)



    2017.06.15 Thursday

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