小杉亮子 著『東大闘争の語り―社会運動の予示と戦略
(「図書新聞」18.7.14号)

 本書に接して、六〇年代後半、学生運動といわれていた対抗運動が、大学闘争あるいは学園闘争というように、運動から闘争という表象の変容に、わたしは、感慨をあらたにしたといっていい。あるいは、回顧的に述べてみるならば、全共闘という運動形態と運動体の有様(ノンセクト・ラディカルという概念規定も含めて)について、わたし自身、どこかで距離を置き、振り返ることを忌避し続けてきたことに対し、本書は鋭く突きつけてくれたといいかえてもいい。わたしは、六七年一〇月八日の第一次羽田闘争の時、東北の一地方都市の高校三年生であった。闘争スタイルの苛烈化と京大生が亡くなるという衝撃はあったが、それよりも大手メディア(テレビ、新聞、「赤旗」も敢えていれておく)が、そろって、「暴力学生」、「過激派学生」と大きな見出し(「赤旗」は、時代錯誤的なトロツキストというレッテルを貼ったのはいうまでもない)で佐藤首相ベトナム訪問阻止闘争を非難していたことに、直截に憤りを覚えたといっていい。ただし、わたしの知る限り、不定期ながら購読していた書評紙『日本読書新聞』と『朝日ジャーナル』(高橋和巳の『邪宗門』を読むために購読をはじめて、連載終了後も定期購読をしていた)だけは、羽田闘争を評価していた。六八年四月に上京するが、そこから一年間の“浪人生活”を経て、翌年四月に大学に入学。わたしにとって、十代後半から二十代前半までの数年間は、様々な場所において、何ものにも換えがたい関係性の形成と濃密な経験をしたと思っている。いうなれば、その時期の“貯金”を切り崩しながら、「現在」まで生きてきたといっていいかもしれない。
 本書は東大闘争を六七年から七〇年代前半まで、発生過程、展開過程、収束過程と分けながら、東大闘争に関わったノンセクト、新左翼党派、民青の活動家まで含め四四人に聞き取り、その「語り」をあたかもドキュメントのように構成して、闘争の原像を浮き上がらせている。三十代半ばの著者にとって、亡き父の世代の体験をある意味、フィールドワークのように析出していく本書は、できる限り私見を排しながらも、「予示」的なるものを提示していく。
 最首悟の「語り」を引きながら、著者が次のように述べていく箇所がある。
 「社会主義運動とも政治党派とも関わりを持たない学生運動形成への動きは、六〇年安保闘争後にブントの一部で起きた動き(引用者註=『SECT6』のグループ)とも軌を一にしていた。すなわち、前衛党の指導に基づく労働運動中心の革命運動という構図を否定する動きが出てきたのである。」
 共産党配下の民青はもちろん、新左翼諸派(特に革共同の二派や共産同赤軍派)は基本的に徹底した前衛主義であった。やがて、連赤の問題も内ゲバという暗渠も前衛主義の陥穽を表出していたとわたしなら見做す。そして、そこには外部の権力との対峙に邁進するあまり「内」に潜在する権力性を見通すことが出来なかったからだといっていいはずだ。M・フーコーを援用するならば、「権力」は「遍在」しているのであって、「至る所にある」と見做すべきなのである。
 「革命をめぐる対立は言い換えれば、(略)マクロな次元で国家権力を運動の敵手として措定するか、社会関係や社会的行為のなかに見出されるよりミクロな次元での社会内権力を問題とするか、というものである。」「社会変革の範囲を小さくとれば、身近な社会関係や日常的な社会規範の変革にたどりつく。とくに、自らが他者との関係性のなかで意図せずに行使している権力や関わっている抑圧をただそうとするとき、社会運動は自己変革や自己解放の側面を持つことになる。」
 このように述べていく著者が提示する「予示」的なるものを、あえて収斂させたいい方をするならば「ひととひととの関係や共同体のありかた」を問うていくものであると理解していいのではないかと、わたしは思う。国家の有様を変革するためには、まず国家権力の奪取ありきというのは、ロシア革命以降のロシア・マルクス主義の誤謬でしかない。マクロなものとミクロなものはコインの裏表だと思う。ミクロなものが集積してマクロなものがかたちづくられると、わたしなら捉えたいから、「予示的」なるものの提示は刺激的だ。ただし著者が本書で提示する「予示的政治」と「戦略的政治」に関して、留保したいことがある。それは、「政治」ではなく、「反政治」とすべきではないかということだ。あるいは、「行為」、「行動」といいかえてもいいかもしれない。かつて、わたしは、「行為の共同性」ということに拘泥していたから、そのようにいいたいわけではないが。
 わたしが、全共闘という諸相に距離を置き、振り返ることを忌避し続けてきたのは、無党派、ノンセクトと括ることの安易さと、結局、党派によって主導され、安保決戦なる空疎な設定で全国全共闘を結成したことへの疑義があったからだ。しかし、本書には、語り手それぞれの現在も述べられていて、そこでは、まぎれもなく、「ひととひととの関係や共同体のありかた」をいまだに問い続けていることが示されている。
著者に誘われて、わたしもまた、もう一度、全共闘の有様と行動(行為)に関して再考すべきだと喚起されたといっておきたい。

(新曜社刊・18.5.15)

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