……年齢を重ねてくると、記憶力というものが、急激に減衰してくるとは思わなかったというのが、正直なところだ。この一年、いったい何が起きて、何が問題だったのかということを、直ぐに思い出せなくなったといっていいが、君はどうだい。
――わたしも同じだ。『風の森』誌は、一年に一回の刊行だけど、気がついてみると、締切が直ぐにやってくるという感じだからね。
……それにしても、押し寄せてくる情況的事象にどう対峙するかということに追われ、しっかりした情況認識をすることの難しさを感じるこの頃だよ。
――今日の君は、いつもと違って随分、殊勝な物言いに聞こえるけど、どうしたんだい。
……麻原はじめ、オウム事件の受刑者を一斉に処刑(死刑執行)したことは、天皇退位、つまり改元の前にという思惑によってなされたことだと俺は思うが、それは許し難い暴挙だといいたい。それにしても、安倍政権の九条改悪や原発存続に反対という渦のなかから、死刑制度に反対という動きが、俺には見えてこないが、どうだろう。
――世論調査でも、死刑制度反対は圧倒的に少数派だからね。どんな理由づけをしようとも、個別の殺人は許されることではないが、例え法的に認定したからといって、処刑(死刑執行)は、国家による殺人であると認識すべきだと思う。いままでも、現在でも、どこかの国で、権力闘争のために政敵を抹殺するということを、その国の制度に則ってやっていることを考えれば、処刑(死刑執行)制度は、同じ位相にあるといいたいね。金正恩が自分にとって政敵の可能性があるということで、義理の叔父や兄を殺したことに対し恐怖政治だと批判するなら、死刑は処刑とどう違うのだといいたいな。そして、もっと敷衍していえば、戦争や内戦の殺戮は、いかなる大義名分があるとしても、殺人以外の何ものでもないからね。以前、吉本さんに死刑制度のことを訊ねたことがあるけれど、次のように述べてくれて、まったく同感だった。

「刑罰というのは、つまりその社会の現状といいますか、進展度といいますか、そうしたものよりも少し先に法律規定というのは走りすぎているか、それでなければ緩すぎているか、どちらかであって、その時代の現実情況にぴったり即応した法律というのは、(略)ほとんど不可能に近いほど難しいと思います。(略)死刑の問題についていえば、いまの現実の社会情況の進展度と、文明文化の進歩度というものを日本の現状で考えてみたら、これは人工的すぎるのではないか、法律の死刑制度というのは、少し先を行きすぎているのではないかな、という感じです。(略)ぼくの方は、はじめから死刑制度には全然納得していないのです。(略)凶悪犯罪をやってしまったことが凶悪であるということと、その人間が凶悪だということはまるで違うことだと思います。(略)その場で凶悪になってしまうということは、誰しもあり得るわけですから、やったとたんに後悔しているということも、もちろんあり得るわけです。/その問題を人間的には解決していないのに、しゃにむに絞首刑にしなければいけないという感じがします。」(吉本隆明『第二の敗戦期』)

 結局、刑罰に関する法的な規制というのは、善悪の問題を二元論的な視線で捉えることにあると思う。善も悪も、グレーゾーンがあり、それぞれが重層化し多様化することもありうるということが抜け落ちている、つまり、やや大げさにいえば、人間の存在性、有様というものに思考が入り込めていないということだ。「凶悪犯罪をやってしまったことが凶悪であるということと、その人間が凶悪だということはまるで違うことだ」と当然のことだと思うし、法的に裁くということであるなら、なぜそのような凶悪犯罪をしたのかということの実相を明らかにしなければ、たんに刑罰を科すということでは意味をなさないと思う。被害者家族は、なぜ、自分の家族が犠牲にならなければいけなかったのかという本当の理由を知りたいはずだ。ただ、死刑にすれば自分たちの悲哀を払拭できるなんて考えていないと思いたいね。もう少し、補強して考えてみるなら、次のような論述を紹介したい。

「(略)死刑は《合法的な殺人》であり、《法》や《国家》が永遠の先験的な善、至上物ではないということだ。そして、この殺人は、誰がやったのか顔が見えず、すべては《法》に従い、命令に従っておこなわれるもので、地上における人間による殺人よりもっと悪質なのだ。純然たる《公的な殺人》などありえない。どこかで《私的な殺人》を《公的な殺人》にすりかえている側面がかならずある。/この《合法的な殺人》と同型なのが《戦争》だ。殺人をすること(殺人を命令すること)はすべて《法》を根拠としており、人間が殺人をおこなうことは罪にならずに《法》に疎外される。凡庸で陳腐な殺人の根拠は《法(共同観念)》そのものにある。」(菅原則生「オウム真理教の死刑について」―『続・最後の場所 No・6』18年10月刊)

 ここで述べているように、「公的な殺人」と「私的な殺人」、「合法的な殺人」といったカテゴライズの深層を、明快に切開していくべきだと思う。人間の生命を恣意的に絶つということに、段階や優越があってはならない。それに、わたし自身は、連合赤軍事件、東アジア反日武装戦線の爆弾闘争を、明快に距離感をもって裁断することをできないでいる。オウムならできるのかといえば、やはりどこか逡巡するものがあるのは確かだといっていい。
……そういえば、『朝日新聞』の「論題時評」を終えた後、断続的に、「歩きながら、考える」と題した文章を発表している高橋源一郎は、さすがに視線の鮮鋭さを持った考え方を展開しているね。オウム事件の死刑囚が刑を執行された時、幸徳秋水や管野スガたち無政府主義者たちの「『大逆事件』死刑囚12人の執行」を想起したというから、オウムとは思想的乖離があるとはいえ、鋭い。さらに「オウムの死刑囚たちが一斉に拘置所を移送され、処刑の可能性が高まっ」てから、「旧上九一色村を歩いた」そうだ。そして次のように述べている。

「もうそこにはオウムを思い起こすものは何もなかった。そして麻原のいる東京拘置所の周りも歩いた。どちらも、歩きながら様々な思いが浮かびあがったが、それを正確に書き記すことは難しいような気がする。」「わたしには、連合赤軍事件を、即座に否定することができなかった。」「オウム事件はどうだろうか。(略)戦前は、天皇に忠誠を誓うのが『正しい』ことだった。戦後はそれが否定され、高度経済成長期には、豊かになることが『正しい』とされた。(略)『正しい』ことは時代によって異なるが、弱々しい『自分の考え』より、みんなが支持する『正しい』考えが優先される社会のあり方は変わらない。だとするなら、麻原を処刑しても社会は、自分とそっくりな、自分が絶対正しいと主張する別の麻原を生み続けるような気がするのである。」(『朝日新聞』18年7月14日付朝刊)

 正しい、正しくない、君がいうところの善悪の問題は、社会やその時々の法規範という「統治」の問題に関わっていく気がするね。そしてその「統治」というものが、上から下方へ、つまり大きな国家や社会という共同性から、小さな共同性にまで降り立って規制していく。小中学校のイジメなんか、そのことの象徴のような気がするよ。ところで、源ちゃんの時と比べてみたら、いまの小熊なにがしの「論壇時評」は酷いね。スカスカの文体と見解を垂れ流しているだけの〈空虚〉な言葉だといっておきたい。
――確かにそうだ。同感だ。いまの『朝日新聞』の「論題時評」(毎月末、最終週の木曜日掲載)が、高橋源一郎から、歴史社会学者と称する小熊英二になってからは、ほとんど読むこともなくなったが、ふと気になって、次のような文章を目にした時、大げさにいうつもりはないが、驚愕してしまったね。「日本はなぜ核武装しないのか。それは、そうしなくてもよい国際関係があるからだ。また核武装したら、その国際関係が破綻するからだ」と述べながら、次のような持論を展開している。

「現在の安保条約や日米関係が理想的なのかは議論もある。しかしその日米関係が、日本が核武装をやめた背景にあったことも事実だ。もしあそこで核武装していれば、国際関係が歪み、依存から抜け出せなくなっていただろう。/いちど核依存になった国は、圧力だけかけても効果は薄い。北朝鮮も同様だ。全面戦争で双方に大量の犠牲者を出したいのでなければ、関係を再構築していくほかない。その具体策を考える際には、日本自身が、安全保障上の不安をやわらげる国際関係なしには核武装をあきらめなかったことを念頭におくべきだ。」(『朝日新聞』18年6月28日付朝刊)

 小熊は、62年生まれだから五十代半ばだが、歴史社会学者にして慶應義塾大学総合政策学部教授らしいが、わたしたちにとっては、『1968 上・下』(新曜社 ・09年刊)というトンデモ本を出した男として認知している。本当に歴史社会のことを分かっているのかといいたいね。
……確かに絶句だな。まず、「現在の安保条約や日米関係が理想的なのかは議論もある」という前提はなんだい。国と国の関係は五分と五分に決まっているだろう。理想的かどうかなんていう議論はどうでもいいことだ。そんなこともわからない歴史社会学者とは、どんなことを研究しているかと聞きたいね。
――なによりも、日米地位協定のことに触れずに、日米関係や、それに付随する安保条約があったから、「日本が核武装をやめた」という〈事実〉っていったい何だといいたい。戦後の日本をコントロールしたいから、核を持たせない、本格的な軍隊も持たせないとし、アメリカの核を配備した原潜を自由に入港させ、迎撃ミサイルを配備した米軍基地を、沖縄を中心として列島に配置したことを小熊は、まったく無視していることになる。どんな思考回路からそんな発想が出てくるんだと言葉がないよ。この時の論旨は、北朝鮮(という名称を使いたくはないのだが)の核保有のことを念頭に置いているのだが、本末転倒という言葉を、小熊のそうした考え方に与えたいね。核保有大国が、核保有小国や日本国のような潜在保有国に対して、核放棄を恫喝して主張するのではなく、保有国、非保有国に関わらず核を全面廃棄することが、最終的な到達点でなければいけないはずであって、小熊は、そんなことすら念頭にないとみえる。
……「核武装していれば、国際関係が歪み、依存から抜け出せなくなっていた」なんて、核が麻薬やアルコール依存のようなものと主張する、幼稚園レベルの発想だよ。核依存ではなく、現実はアメリカが有する核に対しての依存なんだから、アメリカ依存とどうしていえないのか、そんなことも理解できないなら、国際関係のことなんかに論及するなといいたいね。核を保有する意味は、核依存といったレベルではなく、幻想の巨大軍事力として敵対国に対して圧力を与えるためのもの以外のなにものでもないのは、誰でも知っていることだ。
――まあ、小熊の論旨は万事が、そんなレベルだから、これ以上、俎上に乗せるのもウンザリするけれど、最後に、どうしてもいいたいことがある。吉田裕の著書『日本軍兵士』(17年刊)と鴻上尚史の著書『不死身の特攻隊』(18年刊)に対して、次のように論述している。

「これらの著作が描いているものは、日本軍の人権軽視、無内容な精神主義、上官による『いじめ』などだ。(略)このことは、日本に今も定着し続けている戦争観の特徴を示している。その特徴とは、『上層部』に対する不信だ。/日本では、アジアに与えた加害を重視する戦争観は定着しなかった。しかし一方で、日本軍を英雄視する歴史観も定着しなかった。定着した最大公約数的な戦争観は、『政府や軍は愚かで、非合理な戦争だったが、民衆は被害者だった』というものだった。」(『朝日新聞』18年8月30日付朝刊)

 どうだい、突っ込み満載だと思わないかい。この後、もっと空虚な論述が続いていくけれども、そのまま引くのは嫌になるので、ピックアップしてみる。「本来なら敗戦直後の時点で、日本の民衆と一般兵士に多大な被害を与えた為政者の責任を日本自身の手で裁き、少額でも民衆への保障を行う」べきだったとし、そうしていれば、「他国の被害者への保障も進みやすかっただろう」と述べ、「自国の被害者が放置されているのに、他国の被害者を優先して保障す」れば、「単なる外交配慮としか映らない」と、幼稚な考えを披歴しているが、そもそも、加害者―被害者という位相で〈戦争〉について論述していること自体、空疎で、中身のないものでしかないね。
……それにしても、酷いな。こんな言説を垂れ流す小熊が、それなりに社会学会や論壇のなかで大きな影響力を持っていると、実は漏れ聞いて愕然としているところだった。以前、あのSEALDsに共感を示して、猯票鵜瓩鯢縮世靴燭弔發蠅もしれないが、そんなことはなんでもないことだと俺は、まずいいたいね。俺は、吉田の著書は、読んでないが、鴻上の著書には感心したよ。鴻上の本は、「日本軍の人権軽視、無内容な精神主義、上官による『いじめ』」といった皮相なレベルのことを描いているわけではない。そもそも、「日本軍の人権軽視」という観点は、なにをもっていえるのかと呆れる。軍隊に人権を求めること自体、〈軍〉という有様をなにも捉えていないことを示しているといっていい。問題は、なぜ、精神主義やいじめが瀰漫していったかであって、現象論だけで表層を見るものではないと断じたいよ。さらに、その後のくだりがまた、亞然とするね。「日本では、アジアに与えた加害を重視する戦争観は定着しなかった」と、なにを根拠に述べているのかといいたいし、「定着した最大公約数的な戦争観は、『政府や軍は愚かで、非合理な戦争だったが、民衆は被害者だった』というものだった」なんて、捏造以外のなにものでもないな。天下の『朝日新聞』が、こんな暴言をそのまま掲載するとは、恥ずかしくないのかと思うよ。すくなくとも、学会や論壇のなかでのことは知らんが、俺たちが知る限りでの様々な考え方を抱いている人たちで、しかも年齢層を幅広く、見てみるならば、「政府や軍は愚かで、非合理な戦争だったが、民衆は被害者だった」と戦争観を述べる人は皆無だ。つまり、こういうことなる。ここの文章には、三つの見方が混在している。「政府や軍は愚か」だった、「非合理な戦争だった」、「民衆は被害者だった」と。それぞれの見方自体があるのは、認めてもいい。しかし、この三つの観点は、ひとつに纏まった考え方として成立しえないということだ。「政府や軍は愚か」だといういい方には、もう少し理知的に遂行していたら戦争は負けなかったかもしれないと浅薄な意味が含意している。「非合理な戦争だった」というが、では、犢舁的な戦争瓩箸いΔ發里、果たして本当にあるのかということの説明がなければ、猗鷙舁瓩覆發里鷲發上がって来ない。そして、「民衆は被害者だった」という考え方が、「最大公約数的」だとは、とても思えない。付言するなら、それは、敗戦宣言間際、二つの犖暁投下瓩あったからであって、戦時下において「民衆は被害者だった」と、戦後、多くの人たちが想起することは、ありえないといいたい。
――要するに小熊のなかでは、戦争というものは、加害者―被害者という位相を生起させるものだという、極めて図式的な捉え方しかないのかもしれない。オウム事件の受刑者の死刑執行に何らかの発言をしたのかは、わからないが、たぶん、死刑が戦争で人を殺すということと同じ位相を持つという視線は、持てないと思う。たぶん、わたしの思い込みかもしれないが、小熊の父親は、シベリア抑留体験者だったようだ。だから召集されて戦地で捕虜になった民衆(父親)は、被害者だったという意識が強いのかもしれないが、それにしても、戦後補償の問題に関するアプローチは、浅薄過ぎるな。「本来なら敗戦直後の時点で、日本の民衆と一般兵士に多大な被害を与えた為政者の責任を日本自身の手で裁き、少額でも民衆への保障を行う」べきだというが、「本来」という形容は、「敗戦直後の時点」では意味をなさないものだ。敗戦によって戦勝国家群の統治下に入った以上、「為政者の責任」も「民衆への保障」も存在しないわけだから、そもそも、この論旨はなにも意味を持たないのは明らかだ。「他国の被害者を優先して保障す」ることは、当然ありえない。しかし、ここでも、他国の被害者への保障が、「単なる外交配慮」だと見做すところは、先の、日米安保条約に対する見地と同じものだといえる。これが、猯鮖房匆餝忰瓩箸いΤ慳笋世箸いΔ覆蕁△いさま新興宗教団体の教理のレベルだといいたいね。あの連合国主導に強いられたポツダム宣言の受諾というものによって、大日本帝国による東アジアへの侵略が生起した悲惨で膨大な被害に対する免罪を得たことになるのは、普通に、歴史通史として明らかになっていることだ。いまからでも、東アジア(もちろん、金正恩政権の国家も含む)と沖縄の住民に対する戦後補償は最優先にすべきことなのだ。それが、解決しない限り、自国民云々はないといいたい。
……その通りだと思うよ。しかし、くだらない小熊の妄言に付き合っていたら、紙数が尽きたな。本当は、元号改元批判をしたかったが、まあ、そのうちにやろうよ。

(『風の森 第二次第七号[通巻22号]』2018.12.20)

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