―1―

……前回(「情況的言語の空虚さについて」―『風の森 第二次第七号』18.12.20刊)、君との談論で、くだらない小熊の妄言に付き合っていたら、紙数が尽きてしまい、「本当は、元号改元批判をしたかったが、まあ、そのうちにやろうよ」と言って、終わってしまったから、今回は、その続きをやろうよ。
――そうだね。じつは、長年の友人のN君から、たけもとのぶひろ著『今上天皇の祈りに学ぶ』を送ってもらったので、まず、その本に触れながら、僕なりの象徴天皇制の問題点を切開していきたいと思うけど、いいかな。
……たけもとのぶひろ(竹本信弘)といえば、あの滝田修のことだね。彼が、“今上天皇の祈り”へ傾注していたとはね。意外だな。
――ところで、新元号決定という茶番劇を見せられて一カ月、明日から新元号初日というところで、この談論が放たれるというのも、なにか因縁めいているが、まず、たけもと氏への接近を試みてみるよ。
……そんなに力を込めないで、気楽にやっていこうぜ。
――たけもと氏は、いまの、いや今日までの天皇明仁を今上天皇と呼んでいるが、わたしは、とりあえず天皇明仁と称するので、了解して欲しい。三年前のビデオメッセージ「象徴としてのお努めについての天皇陛下のお言葉」を契機として、たけもと氏は語りはじめているわけだが、まず、生前退位(譲位)に関して次のように述べていく。

 「(略)報道はすべて一斉に『退位』で統一されています。その地位から『退く』ことは許されるが、地位を『譲る』という言い方は許されません。なぜか。(略)今上天皇として存在する天皇は、天皇制の安定と皇室の継承に資するのが務めです。なによりもまず『日本社会という共同体を構成する人々』にとっての天皇でなければなりません。フツーの日本人がジョーシキ的にイメージする天皇の姿がこれです。共同体社会日本の『人々』が『天皇』との間にくり広げる世界です。(略)天皇というのは、皇室祭祀を主宰する祭司(巫祝・神官)でもあるということ、そういう存在だということです。(略)しかし、もともと天皇が国民の為に祈る祭祀であったものについて、国家権力――時の政府が、天皇家の『私的行事』としてのみ『許す=黙認する』という、この構図は、いったい何を意味しているのでしょうか。(略)祭祀でもあるし・そうあらねばならない天皇に対する軽視あるいは無視、天皇の祭祀(祈り)からの、国民排除の本質は、〈祈り〉で表される『国民統合の象徴』としての、天皇の実践よりも、実は象徴天皇制を飾りに貶めることによって、国家権力による国民『統治』の方をより重視するという事だと思います。」(「まえがき」―37〜41P)

 わたしは、たけもと氏のように、天皇になんら思い入れはないし、「日本国憲法」第一条の「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」という表現はあまりにレトリックに満ちていて、共感も抱いてはいない。それでも、天皇明仁が退位、生前譲位を企図したことの真意は、安倍一強体制への危機感から来るものであることは間違いないといえそうだ。新元号も、安倍が無理やり「令和」を候補に入れて、結局、そのまま決定したということが、まことしやかに言われ出しているからだ。
 安倍やその周辺が、「『国民統合の象徴』としての、天皇の実践よりも、実は象徴天皇制を飾りに貶めることによって、国家権力による国民『統治』の方をより重視するという事」を画策しているのは、確かだとしても、帝国憲法とは違う、統帥権のない「元首」に据えた方が、不分明な象徴という有様より、政治利用しやすいと考えるのは、自民党保守派(日本会議派)の思惑といっていいと思う。しかし、だからというべきか、天皇明仁の生前退位そして譲位が、象徴天皇制の強化へと繋がってしまうと、わたしなら推断せざるをえない。後にも触れることになるが、そもそも、「天皇が国民の為に祈る祭祀」とはなにかと問いたい。言葉を表層的に捉えるなら、天皇教の信者である国民の為に、教祖・天皇が祈る祭祀ということになるといわざるをえない。江戸期の天皇家の宗教がどういうかたちであったのかは、わからないが、神道を全面に出して天皇像をかたちづくろうとしたのは、薩長政権の明治政府以降のはずだ。大嘗祭もかたちを変えることなく継続されてきたのかどうかもわからない。そもそも、血統が不断に続いてきたものではない以上、天皇家という存在性自体、疑ってかかるべきだといわざるをえない。

 「陛下の衷心より発する『被災地お見舞い』という行為は、被災者国民の心を動かしました。そして、彼らが体験したその感動は、ブーメランのように、両陛下の胸に帰ってくるのでした。(略)彼らの感動を受けとめる陛下ご自身の心の中に、『天皇』という地位によっては尽くすことのできない、『個人』という在り方が生まれる――そういうことではないかと思うのです。『明仁』という名の『個人』が、天皇という地位を務めながらも、その地位から引き剥がすことができない、その『個人としての存在』を主張する。/今上天皇は、自らのうちに、そういう二重性を抱えもつ『天皇』を務めてこられたのではないか、と思うのです。」(「第二回 『個人』としての問いかけ」―61P)

 たけもと氏が、「『天皇』という地位によっては尽くすことのできない、『個人』という在り方が生まれる」と捉えるのは、あまりにも鮮鋭すぎる。天皇明仁が、「明仁」という「天皇」と「個人」の二重性を“抱えもつ”ことは、ありえないといいたい。ほんとうは天皇家にあっては、「個人」という意識はタブーのはずだ。まず、名前を考えてみる。天皇家には、いわゆる姓、つまり名字がない。男子は独立すれば、別名義の皇族・宮家となる。女子は、婚姻すれば、「個人」となって戸籍を持つ。もちろん、ここで「個人」と称しているのは、そんな俗的なことではない、といわれそうだが、「天皇」と「個人」は、相容れない次元であると、わたしならいいたいのだ。それは、「天皇」と「国民」と称することへと移行することに等しいといいかえてもいい。
 神聖なる天皇から人間天皇に移行した裕仁は、「天皇」と「個人」の二重性を考えただろうか。いや、そのように考えていくと、〈迷宮〉へと彷徨うことになる。裕仁は、「神聖天皇」と「象徴天皇」の二重性を有したといえば、わかりやすい。わたしは、「象徴天皇」裕仁と、「象徴天皇」明仁の違いはあるのかと考えてみるならば、それは、同じであるといいたくなる。そもそも、天皇制度という地平から捉えてみるならば、戦前戦後が地続きであるように、神聖と象徴は、天皇制において連続したものだといえるからだ。
 例えば、先に述べたことだが、たけもと氏もまた、「安倍首相たちの『自民党憲法改正草案』は、その第一条の冒頭に、『天皇は、日本国の元首であり(云々)』とうたっています。現行憲法の『象徴』規定の前に『元首』規定を置いているのです。天皇の元首への“格上げ(=実は棚上げ)”です。天皇権力の政治利用の意図が見え隠れします」(「第三回 神聖天皇か象徴天皇か」―70P)と指弾している。しかし、わたしは、象徴性は優れた有様かと問われれば、そうだとは思わない。天皇裕仁の二重性によって、〈象徴〉性は、国民や個人といった位相とは、まったく別次元のものだと思うからだ。

  「したがって今上天皇としては、象徴天皇の『象徴』がいったい何を意味するのか、その定義もなければ、前例もないに等しい状況のなかで、その地位に就かざるをえなかったわけです。『象徴としての望ましい在り方』など皆目わからないのですから、それを『常に求めていくように努める』ことが、実は今上天皇の最大の務めだったように思えてなりません。(略)象徴天皇の務めは、君臨・統治ではなくて、象徴・統合です。/まず最初にあるのは、天皇ではなく国民です。天皇はあくまでも受身です。/国民皆の声に耳を傾け、喜びも悲しみも共にする。共感共苦する。受け容れて共にする。/神ではなくて人間であるからこそお互いの中にあることができる。共にあることができるからこそ成立する、国民と天皇の相互関係。/このようにお互いの間を信頼の気持ちでもってつなぐプロセスがあってはじめて、象徴ということが起りうるのではないかと考えます。(略)象徴天皇の務めは、日本国と日本国民の身の上を思って祈る、という、この『祈り』という行為に尽きる、とさえ言うことができるのではないでしょうか。」(「第七回 『お言葉』は今上天皇自身による『象徴天皇論』」―120〜122P)

 たけもと氏の本意は、天皇明仁の〈祈り〉の問題だといえる。「今上天皇としては、象徴天皇の『象徴』がいったい何を意味するのか、その定義もなければ、前例もないに等しい状況のなかで、その地位に就かざるをえなかったわけです」と述べているが、先代の父・天皇裕仁は、四十年以上、〈象徴性〉を維持してきたことを忘れてはならない。裕仁時代と明仁時代の三十年の〈象徴性〉は別位相といいたいのだろうか。わたしは、そうは思わない。そこには断絶はなく、絶え間なく連続性があるだけだ。もし、天皇明仁が象徴性に問題があるとするならば、父・裕仁の象徴性の表出の問題を俎上に載せるべきだが、そのことには、「お言葉」以後において触れることはない。だから、わたしが、いいたいのは強固な象徴性を希求するということが、どうしても天皇明仁の言葉のなかから、感受してしまうのだ。穿ったいい方をしてみれば、浩宮と礼宮の確執を危惧するということも推察できないわけではない。

  「陛下の『国民』は、国民という『概念』ではありません。そのことを表現するのが、『国民皆』という独特の呼称ではないか、という趣旨のことを既に書いた通りです。『皆』と呼ぶのは、国民を『人々』というレベルで知りたい、というお気持ちの表われではないでしょうか。(略)天皇と国民というと一見別々の存在のように見えるけれども、『合わせてみると』もともとは同じ一つのものだったことが分かる。象徴天皇と国民とはそういう、いわば“割賦”の関係なのだと。//天皇と国民が、お互いを合わせてみたとき“割賦”の関係であることが分かった――そういうときの天皇を象徴天皇と呼ぶのだと思うのです。」(「第八回 今上天皇による『象徴天皇』論の核心」―143〜146P)

 たけもと氏がこのように述べていくとき、わたしは、なにかやるせない心情を抑えることができない。もちろん、全国各地を巡り、その場所の「人々」と接している天皇明仁と皇后美智子の〈像〉を見る時、たけもと氏のように感受してしまうことを否定するつもりはない。だが、「人々」は、無作為に選ばれて天皇明仁たちと邂逅しているわけではないのは明らかだ。「人々」は、無為の人々ではない。少なくとも、天皇という存在に帰依していく人たちといえるはずだ。

  「存命中の天皇が後継者に皇位を引き継いでいくのが世の習いとなるのですから、ものは言いようですが、天皇は決して死なない――死ぬのは上皇になってから――ということになります。天皇制は揺るがない、ということです。」(「第十一回 生前譲位――象徴天皇の皇位継承」―186P)

 これは、明治近代天皇制以前は、当たり前に行われていたことだし、一族会社の後継者選びも同様になされていることで、特別な計らいというわけではない。明治以降の天皇制がむしろ異様な〈像〉を作り出していったということになるのだ。〈死〉から〈生〉へと継承していく王権の移動こそが、天皇制の権威と神話性を強固にしていく物語だったということになるからだ。

             ―2―

……裕仁は、確かに〈戦争〉と〈戦後〉を生き抜いた存在だったし、明仁は、〈戦争〉のさなかに誕生しているわけだから、個人としては、戦争責任から遠く離れているかもしれないが、信念として、戦争のない世界を希求していたことは分かるが、〈天皇〉という存在は、連続性があるものである以上、父の責任も継承せざるをえないのは明白だ。そこが、三十年以上の時間のなかからは、見えてこないといっておきたいな。
――恐らく、天皇の戦争責任は東条たち以上に誰よりも重いといっていい。死刑とされた戦犯たちへの裁判の結果が、裕仁の誕生日の4月29日で、死刑執行が、明仁の誕生日の12月23日だったことは、アメリカをはじめとする連合国側の究極の判断だったといっていいね。もちろん、どちらに正義あるなんていいたくないが、国家間戦争において勝利した側に戦争責任はないなんていえないということは、はっきりさせておきたいね。
……GHQが天皇制を温存させたのは、いろいろな憶測がいえると思うけれど、裕仁本人はキリスト教に帰依してもいいと考えていたのは、『実録』等で明らかになっているから、それなりの覚悟はしていたようだが、そこまでして、嘆願したかったのかと思わないではないな。
――裕仁をめぐっては、別の機会にすることにして、やはり、改元も含めて、天皇位の継承というものをもう一度考えてみるべきだと思う。元号が本当に必要なのかということもだ。
……既に西暦の方が理にかなっている以上、元号は必要ないといえるはずだ。しかし、天皇制と元号は、たけもと氏のいうところに真似ていえば、まさしく割賦の関係といっていいから、天皇制が存続し続ける限り、ありえるということになるな。
――使う使わないは、個々の自由でいいはずだから、ゆくゆくは形骸化していくと思いたいね。


※たけもとのぶひろ著『今上天皇の祈りに学ぶ』(明月堂書店刊・四六判・284頁・18.11.10発行)

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