『日本民藝夏期学校』感想(『民藝』635号−05.11)

 わたしは、七月一日から三日までの札幌会場に参加した。いわゆる「公開講座」や「総合学習会」といったものに、これまでほとんどといっていいほど参加したことがない。にもかかわらず、今回、参加したのは、極めて個人的な事由からだった。ひとつは、日本民藝館をこれまで数え切れないほど訪れていたからだ。どういうことで知って行きだしたのか、芹沢げ陲篥鑛志功の作品を見たいためだったか、いまとなっては判然としない(誤解のないように申し添えれば、河井寛次郎や濱田庄司らの陶器にまったく関心がなかったわけではない)。訪れて思うのは、いつもなにか、自分が慰藉されているような気がすることだった。作品の佇まい、建物・空間の佇まい、それらがいいようのない場所として、自分の情感世界をいつも刺激してくれていた。もうひとつは、秋田に在住する義妹から、「夏期学校・札幌会場」の校長が工藤正廣氏だから、もしよかったら、一緒に参加してみないかと誘われたからだ。わたしは工藤氏とは、旧知の間柄であったが、数えてみれば手紙や電話だけで三十年以上、直接会っていなかった。なにかこういう機会の方が、再会としてはいいかなというやや衒いをもった気持で決めたといっていい。ただ、いくらか逡巡しないわけにはいかなかった。「夏期学校・案内文」に散見される「講座」、「学習会」といった文字にいささか堅苦しさのようなものを感じたからだ。しかし、当日、久しぶりの工藤氏との邂逅に気持がやわらいだのか、思いのほか「開かれている」という感覚が湧き上がってきたのだ。実際、三日間を通して、その感覚は変わらなかった。多分、それは、札幌会場の「手仕事の美しさや大切さを考える」というテーマそのままの「手仕事」的運営にあったからだと思う。民藝協会が札幌にないため、秋田県民藝協会の三浦正宏氏が運営委員長となり、さらに地元スタッフの方々の結集力が細やかな配慮となって、わたしのような頑なな思い込みを解きほぐしてくれたからだと思う。象徴的なのは、最終日の工藤正廣氏の講演「手仕事を愛する人へ贈る言葉」であった。
 ほんとうのことをいえば、日本民藝館に足繁く通いながら、わたしは、どこかで「民藝」と括られる世界に疑念がないわけではなかった。つまり、なにかのカテゴリーに収めてしまうと、その領域は、敷居の高いものになっていったり、学際的な場所へと閉じていってしまうことを必然とするからだ。「用の美」と柳宗悦はいったわけだが、日常の暮らしのなかで使われる道具は、いつだって、それが日々、用いられるからこそ、際立つものだ。生きていくことと切断させないかたちで在ればこそ、大量生産のものであろうと、手作りのものであろうと、使う人にとってはいとおしいものとなっていくのだと、わたしなら思う。だから、工藤氏の講演のなかで、拾ってきた「鳥の巣」を掲げて、これも立派な手仕事なのだと話された時、瞠目し、そして素直に感動したといっていい。「開かれている」ということは、そんな世界を感じることだと思う。

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