志水辰夫の二年ぶりの新作は、“時代小説”だ。わたしは、これまでほとんど、時代小説というものを読んだことがない。自慢ではないが、司馬遼太郎や、山本周五郎はもとより、『宮本武蔵』や『徳川家康』といった類いの小説作品ですら一冊も読んではいないし、『大菩薩峠』は、第一巻の途中で挫折している。唯一、読もうとしたのは藤沢周平ぐらいで、それも『蝉しぐれ』を飛ばし読みした程度だ。では『青に候(あをにさうろう)』は、どうだったか。既に、いくつかの批評のなかにもあるように、時代小説というジャンルではなく、まぎれもなく志水辰夫的小説世界が、見事に展開しているということになる。時代設定が、幕末ということもあるのだろうが、主人公が、武士階層の家柄ではなく、下級武士というのがいいし、武士を捨てて絵師としての道を志すというのもいい。そしてなによりも、これまでもそうだったが、志水辰夫の小説世界を最も豊饒にする女性描写が、こんどの作品でもすばらしく際立っている。主人公・神山佐平の幼馴染で殿の側室となった園子(ここは、『蝉しぐれ』と似た設定ではあるが)、友人・小宮六郎太の母・七重と妹・たえ、永井縫之助の女・お栄と、四人それぞれが、魅惑的に描かれていて、物語に光彩を放っている。
 終景を引いてみる。わたしには、たえが、『背いて故郷』の早紀子と、二重写しのように思えてくる。
  
 「たえ殿」
 「たえと言ってください」
 「たえ殿。それはいけない。聞いてください。わたしは侍になれなかった人間なんで す。かといって百姓にもなれなかった。一人前の顔をして、えらそうなことをしゃべっ たり振る舞ったりしてきましたが、自分では一文の金すら稼いだことがない人間なので す。ひたいに汗して働いたことが ない。手や腕がかさかさになったり、あかぎれだら けになったりするほど働いたことは 一度としてない人間なんです。今日限り侍をやめ ました。(略)これまでの自分を捨て て、生まれ変わってしまいたいんです。生まれ 変わって、それからあなたの前に出てきたいんです。」
 たえがかぶりを振った。その笑みがはっきり見えた。
 佐平はわななきながらそこへうずくまった。たえの手がほほを包み込んできた。
 佐平はその夜から生まれ変わるための努力をはじめた。

 瑞々しい情景といえば、作者に対して失礼ないい方になるかもしれない。主人公が23歳という設定とはいえ、そこには、イノセントな熱情といったものが漲っているように描出されているからだ。“時代小説”というフィクションのかたちが、志水辰夫にあらたな物語の世界を展開させることになったことだけは、確かだ。

  • -
  • 11:35
  • -
  • -
  • by スポンサードリンク

Comment





   

PR

Calendar

S M T W T F S
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30      
<< June 2019 >>

Archive

Recommend

Mobile

qrcode

Selected Entry

Comment

  • 「内」からの視線で震災以後を問う                              ――「復興」より「再生」の方が、被災地の人たちの明日への言葉として相応しいのではないか。
    佐藤竜一
  • 追悼・忌野清志郎
    魔笛
  • 映画芸術は今こそ回帰の時代を迎えつつある
    西井雅彦
  • 詩集『悪い神』を読む
    築山登美夫
  • 夏石番矢 世界俳句協会編『世界俳句2008 第4号』・評
    Ban'ya
  • 自らの在りように真摯に在り続けることの暗喩を
    竹ノ内
  • 自らの在りように真摯に在り続けることの暗喩を
    minagawa
  • 自らの在りように真摯に在り続けることの暗喩を
    Takenouchi
  • 寄席の世界に魅せられて・3
    神尾
  • 「理想」の可能性

Link

Profile

Search

Other

Powered

無料ブログ作成サービス JUGEM