CALENDER

S M T W T F S
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
<< September 2017 >>

CATEGORIES

archives

2006.07.22 Saturday

「手仕事」への近接がもたらす豊穣さ

0
    『日本民藝夏期学校』報告(『図書新聞』05.8.6号)

     「民藝」というと、なにか敷居の高さを感じさせる言葉かもしれない。もともとは「工藝」ということから、発展したものだ。たしかに、工藝の方が、手作り感、職人的なイメージがして親近感を覚えやすいかもしれない。もちろん、周知のように「民藝」という言葉を普及させたのは柳宗悦であった。「民衆的工藝」こそ美の本質であるとして、日用雑器に「民藝的美」を求めていったのである。わたしたちが総じて、「民藝」的なるものを認知していくのは、柳に賛同していった作家たちに、富本憲吉、バーナード・リーチ、河井寛次郎、濱田庄司といった陶芸家、染色作家・芹沢げ陝△修靴独撚莢函ε鑛志功らがいたからだといっていい。彼らの作品群を常設する東京駒場の日本民藝館は、わが国の美術館・博物館のなかでも出色なものだ。建物としても、なぜか、慰藉されるような構造になっている。わたしは、これまで何度、訪れたか、数え切れないほどだ。
     さて、わたしは今夏、日本民藝協会が主催する『日本民藝夏期学校』に参加した。昭和48年に創設された夏期学校は、「柳宗悦の民藝論を学び、暮らしの道具を手がかりとして、手仕事の美しさや大切さを考える工藝文化の総合学習会」(夏期学校・案内文)である。今年は、六月に那覇、七月に札幌、八月に日田の三会場で行われた。わたしが、参加した札幌会場(七月一日から三日まで)は第120回目にあたる。
     以下、札幌会場での鮮烈な体験を報告する。まず、「総合学習会」と銘うっていたが、こちらが身構えた感じをいい意味で裏切るものだった。真っ先にいえることは、運営の仕方が、そもそも、“手仕事”的であったということにある。本来は協会の支部が主体的に運営するものであるようだ。だが北海道には、以前はあったようだが、現在は支部がないため、秋田支部の三浦正宏氏が運営委員長になり、地元の人たちがスタッフとして参加し運営するというかたちをとっていた。特に、課外見学コースは、スタッフの方々のきめ細かい気配りに、ただただ、感嘆したといっていい。多くの参加者がありながらも、課外見学はもちろんのこと、懇親会や夕食会もなごやかに行われたことを特記しておく。
     日程は、七月一日(金)が、公開講座として水尾比呂志(日本民藝協会会長・武蔵野美術大学名誉教授)氏の「民藝と地方文化」、杉山亨司(日本民藝館学芸員)氏の「日本民藝館の仕事」が行われ、二日(土)は、講義として中川潤(北海学園大学講師)氏の「北海道の手仕事」で、その後、参加者はそれぞれ希望の課外見学(開拓記念館コース・北大コース・美術館コース・文学館コース)をした。三日(日)最終日は、札幌会場校長・工藤正廣(・北海道大学教授)氏の講演「手仕事を愛する人へ贈る言葉」で締めくくった。
     水尾氏の講義は、柳宗悦の「民藝」への考え方を、懇切に紹介したものだ。印象深いことを記述してみれば、「藝」は“作る技”という意味があり、「芸」には“発生する”といった意味を含むから、「民藝」の「藝」は「芸」ではなく、やはり「藝」がふさわしいということであった。わたしたちはなにげなく、どちらでもいいような漢字の使い方をする場合があるが、あらためてそのことを熟考すべきかもしれない。課外見学は、文学館コースに参加したのだが、工藤正廣氏の薦めもあり、会場の近くで行われていた円空展を見ることができた(文学館コースに組み込まれていなかったのだが、参加者全員の希望もあり、スタッフの開かれた判断によって実現できたことを、強調しておきたい)。円空の木彫りの小仏たちは、実にすばらしい手仕事の達成だといっていい。なんでもない古木や朽ち果てた木に彫られた顔たちは、穏やかな“笑み”を湛えている。高踏な宗教性や信の構造とは、ある意味、逸脱したものを感じるのだが、むしろそうしたことの方が、シンプルに、〈信〉というものを考えさせるものだった。
     最終日の工藤講演は、胎内に染み入るような話だった。パステルナークやロープシンの訳者でもあり、津軽の方言詩や小説も著わしているロシア文学者であればこその視線を提示してくれた。演題の「手仕事を愛する人へ贈る言葉」そのままの、津軽の豆本をこつこつと一人でつくっている蘭繁之氏の仕事への視線、亡くなったお姉さんが作った手毬やアイヌの人たちが作ったコケシのようなものへの視線、そして、手仕事の初源として持ってきた鳥の巣へ向ける視線、わたしはどれも鮮烈な感動をもって聞いていた。最後に、北海道を舞台にして、手仕事をモチーフにした唯一の小説として紹介したのが、武田泰淳の『森と湖のまつり』であった。「おど」と呼ばれる男が、ひたすら網を編んで、それを売って暮していくエピソードは、手仕事における痛苦や充足感をなんの衒いもなく示してくれる物語だといえる。
     こうして、「手仕事」への近接は、わたしに多くのものを感受させてくれた豊穣な三日間だった。         

    2006.06.15 Thursday

    足枷になつた運命を

    0
      「足枷になつた運命を」(「猫々だより 35」掲載―『吉本隆明資料集 38』所収・猫々堂刊04.6.30)

       吉本さんの著作との出会いの始まりがいつだったか、記憶は薄らいでしまっている。高校時代、講談社から出ていた『われらの文学』シリーズの一巻、『江藤淳・吉本隆明集』が、最初に手にした著書ということになるが、これは江藤淳を読むために購入したものだった。たぶん、この時、吉本さんの文章をほとんど読んでいなかったはずだ。高校を卒業して上京すると、知り合う人たちのほとんどから、吉本さんの名前が出て、話題になることが多かった。一九六八年のことだ。畏敬と共感、そんな言葉でくくれるほど率直な思いが伝わってきた(断わっておくが、政治的党派の場からではない)。わたしもまた、ごく自然に吉本さんの著作に触れていったはずだ。知り合いに誘われ、吉本さんの〈肉声〉に初めて接することになる。確か、早稲田大学の大学祭での北村透谷についての講演会だ。もう誰もがいっていることだが、あの独特な発声とリズムは、波のようにわたし自身の心奥をうつものだった。その後、何度となく講演会に足を運んだものだが、そのときの印象は変わることはなかった。その年の『全著作集』(第三回配本の『定本詩集』)と、『共同幻想論』の刊行は、わたしにとって、決定的な吉本体験となった。
       『共同幻想論』を読み終えたときの衝撃は、今でも鮮明に覚えている。最近、三五年以上経ったこの著作に対して、わたしとほぼ同世代の竹田青嗣や橋爪大三郎から、現在的には有効性を逸してきているという発言がなされている。わたしにいわせれば、彼らの傲慢な錯誤(橋爪のスタンスは、もともとそうだった)は、国家の有用性の方へシフトしてきたからだといっていい。もちろん、わたしは、『共同幻想論』を国家論や権力論の視線のみで捉えたいわけではない。ただ、そのときのリアルな衝撃を自分自身の立ち位置として確認できたことを、三五年以上経っても、わたしは修正する必要がないと考えているからだ。そして吉本さんの仕事を見れば、一連の「南島論」をはじめ、『母型論』、『アフリカ的段階について』に至るまで、『共同幻想論』からの地続きなものだとわたしなら捉える。かれらの発言は結局、『母型論』(新版の瀬尾育生の解説は、『言語美』との関連は述べているが、『共同幻想論』には関連づけていない)や『アフリカ的段階について』にたいして真っ当な批評がない(あるいは、できない)ということにも繋がっていくことだといっていいかもしれない。
       もう少し、わたしの当時の思いを述べれば、『定本詩集』と『共同幻想論』はまるごとひとつの吉本世界だったのだ。わたしは、これまで詩人としての吉本さんとか、思想家としての吉本さんというように区別して考えたことがない。皮相な批評家(例えば、三浦雅士)たちのように、訳知り顔に、吉本さんの仕事を分断して捉えることは、無意味だと思っている。だから、たぶん、『定本詩集』のなかで、わたしが真っ先に感応した詩は、けっして多くの人が支持しているものではなかった。

       理由もなくかなしかつたとききみは愛することを知る
       のだ
       夕ぐれにきて夕ぐれに帰つてゆく人のために
       きみは足枷になつた運命をにくむのだ

       こういう書き出しで始まる、「恋唄」という詩篇は、内へ内へと閉じていく当時のわたしの感性を慰藉してくれるものだった。そして「足枷になつた運命」を「共同幻想」とほとんど同義のように、わたしは捉えたのだ。そのように、この詩篇に感応した当時のわたしの感性を、時間の奥へと追いやろうとは思わない。
       そして七二年、横浜で行った、講演「連合赤軍事件をめぐって」を聞いたことは、わたしにとっていろんな意味で吉本体験の転換点だったように思う。この講演での吉本さんの〈肉声〉は、かけがえのない暖かさと強靭さをわたしのなかに、滲みこませてくれた。高校の同期の知人を死者のひとりとして持つこの〈事件〉は、心情的なこと以上に、わたしにとって思想的な意味を問うてくるものだった。〈個〉と〈共同性〉の問題は、六十年代末から、この七〇代初頭にかけて、切実な問題としてあり続けてきたのだ。吉本さんの言葉の一つ一つを、わたしは、今でも忘れることができない。いささか、仰々しくいえば、このときを契機として、わたしは例えどんな変転が訪れようとも、吉本さんの仕事と表現に徹底的に向き合い続けていくことを、自分自身に課したといってもいい。
       八三年、わたしは、月村敏行さん、芹沢俊介さん他の書き下ろしの『吉本隆明論集』を発行した後、新刊書店を始めた。そして、この春(註・04.3)、二十年の営業に幕を下ろした。

      2006.06.10 Saturday

      燈書房の閉店に際し思うこと

      0
        「新刊書店、二〇年という時間」(『図書新聞』04.5.8号)
                  
         この三月末(註・二〇〇四年)で、ほぼ二〇年にわたる新刊書店の営業を休止した。一〇坪にも満たない小さな書店が、わが国の出版・流通業界を俯瞰しうる位置にいたなどという傲慢さはないつもりだが、それでも二〇年という時間をもったということは、いくばくかの感想を述べることができるはずだという思いはある。
         いまはもうない、『日本読書新聞』の一九八三年一〇月三日号の「BOOKランダム」というコラムに、燈書房は次のように紹介された。
         「大型書店の郊外への進出、コンビニエンス・ストアの乱立など、小・零細書店をとりまく状況は厳しい。そんな中で、中央線三鷹駅から六、七分の町中に、八月一九日ちょっと変わった“普通”の書店・燈書房が開店した。開店日には鈴木清順、林静一両氏によるサイン会も催されたが、一〇坪、バス通りに面したマンションの一階にある同店、見たところ普通の小書店と何の違いもない。しかし、入ってすぐ右側の棚をのぞくと吉本隆明や寺山修司の本などが賑々しく並べられている。(以下略)」
         確かに、開店した当時は、CVSが消費流通の象徴であり、遅い時間までの営業の中、雑誌やコミック本がよく売れていて、小書店は、厳しい状況を強いられていたし、本が読まれなくなった、活字離れが著しいといった声が、業界の内外から聞こえてきていた時期だった。写真誌の売り上げ上昇を、活字離れの象徴と見なす識者もいたような気がする。わたしは、別にだいそれた考えで書店営業を始めたわけではない。“普通の書店”でいいと思っていたし、少しだけこだわりの品揃えをして、それがお客さんの目に止まって手に取ってもらえればいいと思っていた。開店してまもなく、確かに活字離れを象徴する事態が大きな動きとしてやってきた。まず、テレビゲームから、本格的なパソコンゲームへの市場拡大だ。それにともなって関連の書籍(いわゆる攻略本)、雑誌が売れ出した。また、ビデオ再生機器の普及によってビデオ・ソフトが書店店頭の売り上げ上昇の一役を担っていった。いわゆるバブル期とそれは平行していった。さらに、小書店にとってビデオも含めてアダルト系商品が営業的な命綱であったため、規制が緩やかになったぶん、写真集やコミック本がよく売れ出した。
         バブル崩壊後の景気低迷は、やや遅れて出版・流通業界にも訪れてきたといわれるが、そもそも、純粋に出版物が売れてきたわけではない。本来の出版のかたちでの隆盛は、やはり、わたしが参画する以前に終わっていたとみるべきだ。ゲーム関連が低調になり、アダルト系も、いまやインターネット・サイトで隆盛を極め、紙媒体やビデオ・DVDは見向きもされなくなったといっていい。
         文庫は、長い時間で読み継がれていくものは、絶版になっていき、まるで雑誌感覚で大量に出版されていく。コミック本は、より廉価に読み捨て感覚でコンビニだけで流通するものを各社出し始め、書店は蚊帳の外だ。一方、新古書店で格安の定価で比較的早く入手できることを知った読者は新刊書に関心を失っていく。さて、こうして出版・流通業界の未来はと考えれば、確かに、明るい光が見えにくくなっているかもしれない。だが、わたしは、今にして思う。やはり、書店という場所は特別の空間であり、無くなっていってはだめなのだ。閉店を決めた後、多くのお客さんから感謝の言葉を、あるいは、閉店を惜しむ言葉をいただくたびに、本を通して、読者というお客さんと、〈通交〉できたことが、本当にすばらしいことだったという思いを強くした。
         書店という場を通して本との出会いを大事にする人たちが、確実にいる限り、出版・流通業界の未来は、ゼロでもマイナスでもないと、わたしは断言したい。

        << | 2/2PAGES |