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2006.06.27 Tuesday

無償の感性が流れる多様な物語

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    小成丈夫 著『庶 古 譚』(『図書新聞』03.11.22号)

     「庶古」という言葉は、著者の造語だろうか、わたしは不思議なイメージをもった。
     帯文にしたがえば、“往古”の“庶民”のことといっていいのかもしれないが、もっと重層的な感じがした。本書は、この書名にもなっている「庶古譚」を巻頭に配置して、「航路」、「石斑魚」、「夢のすみか」と四篇の小説を収めた作品集だ。著者は「あとがき」で「小説を書くとは、本来は、無償の行為ではなかったか。」と述べている。もちろんここでは、生活のために書くということの反語として「無償の行為」といっているのだが、わたしにはその言葉が、著者の表現姿勢を見る思いがした。そして、それはそのまま、作品のなかにもたち現れてくるといってもいい。
     「庶古譚」は、部族共同体群が割拠する時代の物語だ。オオフベ王を首長とする主人公ヒロイメが住む国は、西の強国の支配下に置かれ司令官ハヤカチが君臨していた。里長の娘はある年代に達すると首長に仕える慣わしがあった。ヒロイメが父に伴われ入館する。ヒロイメは、ヒノカゲの従者となる。ヒノカゲの夫ノヨリはハヤカチの部下だった。ノヨリはオオフベの国に加担するようになったことから、ハヤカチによって処刑されたのだ。そして、ハヤカチの寵愛のもと生きながらえていた。この物語の縦軸は主人公ヒロイメとヒロイメを慕うウロコの関係性であるとすれば、横軸はヒノカゲの存在の有り様だといえる。ヒノカゲが夫を回想する場面がそのことを象徴している。
     「(ハヤカチから)解放されたヒノカゲが部屋を出ていく。葉がかさなり繁る大木の下を行くと、ところどころで光がもれて斜めに降ってきた。梢の上、はるかな高みから夫が見おろしていた。緑にさえぎられて翳り、ほそいすじになって、たどりつこうとしていた。
     …どうにもならないもの…ここは生まれた国でも家でもないもの…自分をまもるのは自分だけだもの…理想郷をめざしたおまえはもういないもの…」(30P)
     ウロコがヒロイメを館から連れ出したことから、ハヤカチはオオフベを殺し、里を襲撃する。物語の終景は、ハヤカチ達の追撃を逃れるため新しい理想郷をめざして、ヒロイメ、ウロコ、ヒノカゲ、そして知守(占領地の警戒を仕事としている)の四人で、海へ向かう。「権者(いばりや)」も「役人(くすねや)」もこないところへいくんだといって、島へ思いを馳せるところで物語は閉じている。
     「庶古譚」に込めた著者の思いは、なんだろうかと考える。最初の原稿(一九六四年)は八五〇枚だったという(「あとがき」)、改稿四〇回を経て、十分の一に減ったようだ。そして「愛着の果ての荒怠の風景かも知れず」と述べる。四人が理想郷をめざしながら、辿り着けないむなしさのようなものを、作者の心情として託したのだろうか。この作品はそんなふうにも読めるかもしれない。しかし、わたしは、好感をもった。ハヤカチ達を撃退して、平穏な日々が国にやってきたなどという終息のさせかただったら、ヒロイメやヒノカゲたちの像形が霧散してしまうからだ。けっして、「荒怠の風景」ではないことを、強調しておきたい。
     「航路」は、海へ理想郷を求めた「庶古譚」の四人のように、松波と偶然知り合ったアユミは、長時間にわたる船旅に慰謝されることを求める。
     「石斑魚」は、デザイン会社のアルバイトで「いつまでも気にくわない版下を描いていたくない。独立したい」と思っているロクは、フリーのデザイナー木間にあこがれている。そういうロクの心情を淡々と描出している。
     「夢のすみか」は、一転、家のまわりに棲みつく霊の話だ。
     「無償の行為」と著者がいう小説集は、一見、多様な物語で構成されているかのようだが、そこには感性の素地といったことが共通に流れている。まさしくそれは、無償の感性といっていいかもしれない。(審美社刊・03.9.24)

    2006.06.27 Tuesday

    「万世一系」という幻想を解体しようとする

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      柿花 仄 著『帋灯 猿丸と道鏡』(『図書新聞』03.12.6号)

       歴史的叙述というものは、「事実」をどのように確定させ、どのように認識するかということが前提であるといっていいと思う。だが、その「事実」ということを確定させるためのテクストというものは、中世、古代といった遡及した時間性にかんしては、判別しにくさというものが、いつもつきまとってくる。
       そして、もっとも大きな足枷は、万世一系とする「天皇家の歴史」だといっていい。記紀神話をテクストとした歴史認識が、「天皇家の歴史」は「日本(人)の歴史」の骨格であるという幻想体系を作りあげてきたのだ。
       網野善彦は、日本の歴史というものを「日本人」の歴史という考えから脱して、「日本列島、さらに遡ってアジア大陸の東に大きな湖を抱いて海に接する長大な陸橋に生活しはじめて以来の人類の社会の歩みを、アジア大陸全体、あるいは日本列島となって以後も海の道で密接に結びついていたアジアの諸地域との切り離しがたい関係のなかで考えてみたい」(『日本社会の歴史』)と述べている。
       網野のあたかも俯瞰視線のような歴史への視座は、天皇制の時間性を相対化するものだ。
       もちろん、わたしはここで網野史観と本書の著者の歴史観を無理やり結び付けたいわけではない。本書は、あくまでも歴史的物語を著者なりの推論で展開しているのであって、歴史的テクストを提示しているわけではない。にもかかわらず、わたしの関心を惹いてしまうのは、著者もまた「万世一系」という幻想を解体しようとしているからである。
       本書は中院家に古今伝授として伝わる、遺文『大日本哥道極秘伝書』(一七一六年)をテクストとして、歴史的推論を展開させている。これは、前著『帋灯 柿本人麻呂』に引きつづきとった方法だ。「大胆かつ過激な内容」や「驚天動地の古代史の極秘情報」が記載されていると著者は「はじめに」で述べているこの古今伝授の遺文は、はたして歴史的テクストとして、「事実」を確定させるだけの事由をもっているのだろうか。わたしは、この遺文なるものの真偽を明確にしたいわけではない。ただ、著者は前著に比して、本書ではいくぶんこのテクストに寄りかかりすぎていると思ったからだ。「人麻呂と持統天皇の密通」、「人麻呂の父は文武天皇」といった「万世一系」のなかの暗渠を、この遺文から前著では析出した。そして著者の精緻な推論によって壮大なフィクションをリアルな物語として提示したのが、前著『帋灯 柿本人麻呂』だったとわたしは思っている。だが本書では、いくらか著者の推論に荒さ(あるいは強引さ)があるように思えたのだ。
       三十六歌仙の一人、猿丸太夫の謎の出自に迫るのが本書の骨子だ。
       「文武天皇は、倭国に亡命した新羅文武王」であり、持統と不比等の二重権力による文武朝支配が、表の軽皇子と裏の新羅文武王というかたちをとったと著者は見なす。さらに、猿丸は軽皇子の子であり、実は道鏡であったとする。わたしは、猿丸=道鏡説や、道鏡と孝謙天皇との密通といったことに、疑義を呈したいわけではない。
       「(略)情報操作は言うに及ばす、緘口令も容易に敷けた時代に、〈二人の文武〉が宮廷にいたとしても否定できない気がする。」(153P)
       本書に荒さや強引さを感じたというのは、こういう叙述があるからだ。もちろん、武力で、半島の豪族が天皇家へ侵食していくというのは、ありえる話だ。だが、ここでは、亡命であり、しかも傀儡的に王権を継がせるのに亡命(これ自体もいくらか疑念に思わないわけではない)した半島の王にする必然は、ないように思える。持統が人麻呂との関係性を続けるために、人麻呂の父を抜擢するという論理はいいとしても、その父が半島からの亡命者だというのは、フィクションが過剰だ。
       「所詮、歴史は人間が作り出すものであり、大義名分より当事者間の感情で動く場合が多い。それに気付くと、歴史そのものが身近で、人間味に溢れたものに見えてきて、俄然、面白く、興味が湧いてくるものである。」(209P)
       確かに、「所詮、歴史は人間が作り出すもの」といえば、そうかもしれない。柿花史観は「当事者間の感情」というものをリアルなこととして、展開させているのだといえば、過剰なフィクションもいつか払拭されていくのかもしれない。(東京経済刊・03.9.6)

      2006.06.24 Saturday

      戦後、行方不明になった天皇のこと

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        喜安 朗 著『天皇の影をめぐるある少年の物語』
        (『図書新聞』03.9.13号)

         〈天皇(制)〉は、“終戦”から五八年経った今、わたしたちの感性のどんな部分に意味としてもち続けているのだろうか。芸能人スキャンダルと一緒に女性週刊誌で取り上げられる皇室たちという像を思い浮かべる人たちもいれば、“先の戦争”で近隣諸国を悲惨な状態にした戦争責任者だと考える人たちもいるはずだ。戦後の〈天皇(制)〉は、ある意味不可解なプロセスを経てきて、〈象徴〉という曖昧な存在として位置づけられてきたことは確かだ。
         しかし、戦前生まれの世代にとっては、“終戦”時の年齢によって多少の差異はあっても、戦前から戦後という時間性のなかで、様々な負荷をもっていたのだ。昭和六年(一九三一年)生まれで終戦時、旧制中学二年生という少年期だった著者は、「戦時下の小学校=国民学校で軍国少年へと“錬成”され、天皇のために一身を捧げるという信仰を身におびながら、緊張のうちに日々を過ごし」(11P)、戦後二、三年経って「気がついたときには、天皇は行方不明になっていた」(247P)と述べている。著者は、本書で少年期の記憶を語るという自伝的試みをしつつ、いわば天皇信仰の消失といった、戦後象徴天皇制の形成過程の暗渠に視線を向けている。書名に「天皇の影」と付したことや、副題に「戦中戦後私史」としたのは、そのためだといっていいと思う。戦後の「天皇の行方不明」ということを著者はすべての教育現場に配置されていた「御真影」の問題で探っている。「二章 『御真影』はどのようにして消えたか」は、本書の中でも著者が最も力点を置いた章だといえる。著者が受けた国民学校の教育は、「イデオロギー教育ですらなく、(略)心身の規律訓練」(21P)であった。そしてこの「規律訓練」を根拠付け、収斂させていくものとして、「天皇のまなざし」ともいえる「御真影」があったと著者は言う。それほどまでの「御真影」はどのようにして消えたのだろうか。
         終戦の前年、戦災を避けるため都内三十五区の国民学校、中学校の「御真影」が西多摩郡の四つの国民学校へ移されたという。そして、それらの「御真影」と「教育勅語謄本」のすべては、戦後すぐに宮内省に返還された。だが、それがもう一度教育現場に戻ることはなかったのである。だから、実際「御真影」は、「相当早い時期に姿を消してい」(44P)たことになる。戦後のマッカーサー司令部による占領政策で、徹底した議論を経ることなく教育勅語をあいまいなかたちで除外した教育基本法が制定される。そして「御真影」とともに「教育勅語」も戦後空間のなかへ沈潜していったのだ。
         「大多数の一般庶民は明治以来の精神生活の支柱であった『御真影』や『教育勅語』、この天皇崇拝の象徴ともいえるものについて、その価値観や心情の転換を迫られる場面も、それらをつきつめて考えざるを得なくさせるような機会を持つこともなく、『時勢は移る』という結果になった。」(62〜63P)
         このあいまいなまま、「時勢は移る」という状態は、戦後のわが国のありようを見事に捉えているいいかただ。
         戦後の象徴天皇制という空間は、「天皇の非在を非在として表象したり決定したりせず、(略)あいまいさの中に一時的に隠された天皇への共感が、心のうちに深く根づいていることを物語っている」(47P)ことでもある。
         昭和二十年(一九四五年)八月十五日、あの“玉音放送”でアナウンサーがいう「国体は護持されました」という声で、「冷静に敗戦を受けとめ」(173P)ることができたと、著者は述べる。あとになって気づいたこととして、それ以前に、終戦を予知した新聞が、「国体護持」という言葉を見出しに掲げ、情報操作していたからだと著者は考える。
         戦後の曖昧なままの天皇制は、この「国体護持」という確信(もうひとつの信仰)に支えられたものだったと、わたしは本書を読んであらためて思った。
         「天皇の影」、あるいは「行方不明になった天皇」、どちらもわが国における戦後のアイデンティティの深層だ。著者は最後にこう結ぶ。
         「(略)天皇の影の消失の背後にあることども(略)は敗戦をあたかも自然現象の変化のように、『時勢の移り変わり』ととらえる精神のありようである。(略)天皇は象徴ということだけれど、この象徴という表現には、戦後をめぐって行方不明となった天皇のあいまいさがまといついている。」(250P)
         著者が語る、「天皇の影」をめぐる物語はまだまだ続くことになる。(刀水書房刊・03.3.30)

        2006.06.22 Thursday

        近代国家体制の暗渠を析出

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          千田智子 著『森と建築の空間史』(『図書新聞』03.8.16号)

           書名にとられている〈空間史〉とは、表層的には国家の近代化にともなって変容していった神域的な空間の時間性を意味している。深層的に言えば、人間が自然と雑(まじわ)る場所の変容を指しているし、そのことが本書の主題だといってもいい。ただし、著者の視線が極めて独自性をもっているのは、建築という空間を措定したことだ。建築(建物)は、空間がもっている抽象性と具象性を架橋するものだからである。
           鎮守の杜(森)といういいかたがある。神社の社(やしろ)は、この杜(もり)に由来するものだという考え方がある。カタチあるもの(建物)がなくても杜(森)だけで、神域は成立する。
           森と建築という空間のダブルネーミングは、ある意味、非対称性といってもいい。わが国の近代化は、そういう非対称性を統一し、一元化することであった。
           「明治に入ってからの一連の宗教政策は、(略)神社は制度化されてゆき、それと平行して『神』という概念もまた制度化されてゆく。つまり天皇という絶対的存在との関連をもとに、『神』という概念は一元的に編成されてゆくのである。」(6P)
           著者は、こうした明治政府の宗教政策によって、多様な神社の統廃合による合祀化をして、「廃絶」と「保存」という二重のプロセスをへて「共有可能な『記憶』による空間のシンボル化ひいては一元化」(253P)を可能にしていったとみる。こういう近代神社システムの形成過程から、「逸脱」する二人の知性を著者は検証しながら、近代国家体制の暗渠を析出しようとしているといってもいい。
           ひとりは、近代神社建築に関わった初代神社局営繕技師、伊東忠太と、神社合祀反対を果敢に実践した南方熊楠である。
           平安神宮や明治神宮の創建、伊勢神宮式年造替に関わった伊東は、まさしく国家的プロジェクトの「中心に位置」(128P)していた。
          著者は「様式の混在と融和」ということが伊東の志向する建築理念だったとみる。そしてそれは、伊東のなかでひとつの矛盾をあらわにする。
           「伊東は、日本建築の『進化』、すなわち『外部』に対する『吸収力』が異質性の混交から新たな建築の可能性を生むものか、あるいは異質性を取り込みながら一元化にいたるものなのかについて、最後まで決定的な解答を得ないままであったと私は考える。」(144P)
           そうした「伊東の両義的な態度」に、日本における建築をめぐる問題が内在していると著者はみる。
           一方、南方の神社合祀反対という実践運動は、表層的に見れば「即物的で単純、かつエゴイスティックである」と著者は言う。しかし、「とてつもなく深いところで、南方の思想と実践は蠢いている」(250P)と捉える。
           わたしが、本書のなかで最も着目したいのは、自然との雑(まじわ)りということだ。南方は「事」という概念を提示する。著者は、「事」を「空間の意味と精神をつなぐ概念」(238P)と捉え、次のように述べていく。
           「また『事』が多層的概念である以上、その説明の鍵となる『雑り』もまた、多層的に考える必要が生じる。南方が『雑り』という言葉を用いたのは、あの『心界が物界と雑(まじわ)りて初めて生ずるはたらきなり』、これ一回きりである。しかしこの『雑』と書いて『まじわり』と読むこの言葉は、南方の思想の極めて重要な部分を指し示していると私は考える。」(240P)
           “南方曼荼羅”に象徴されるように、「雑(まじわ)り」という考え方は、深層を捉えている言葉だ。著者は、「自然に対して、ここまで複雑で、しかし純粋な思想」を「『南方環境思想』としかいいようのない人間と環境に対する思想の深淵さ」をもったものだ言い切って、本書を締めくくっている(250P)。
           本書の主題はこうして、独自の〈空間史〉を提示して、わたしたちに〈森(杜)〉という場所を憧憬させる契機をもたらしてくれたといってもいいだろう。(東信堂刊・02.12.30)


          2006.06.19 Monday

          「アイエフエム」から始まるアクティブな辞典

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            浮田典良 編『最新地理学用語辞典』(『図書新聞』03.6.21号)

             地理学を学際的位相から、わたし(たち)が捉えるとしたら、どういうイメージになるだろうか。地理という言葉から、地勢的(もっと直截的にいえば地図的というべきか)なことをまず、思い浮かべるに違いない。地質的なことも関連させて考えてみてもいいし、社会学的な観点から見ることができるかもしれない。いま、中学校の社会科の教科科目がどうなっているのか分からないが、かつて「地理」という教科があったことを思い起こせば、いくらかでもイメージが具体的になるような気がする。
             ところで本書の編者は、地理学を次のように説明している。
             「地理学は古代ギリシャ以来の古い伝統をもつ学問で、19世紀以降、近代科学として発展し、多くの研究成果が蓄積されている。一方、現実の地域社会で生起し、日々変化を遂げる事象を直接扱う学問なので、日常生活のグローバル化や関連諸科学の発展に呼応して、近年その研究の視点や方法は、めまぐるしい発展を遂げてきている。すなわち地理学は、きわめて古く、そして新しい学問であると言える。」(「はしがき」)
             わたし(たち)が、思い描く地理学のイメージを、編者の言は修正を強いてくるかのようだ。確かに、本書を、瞥見してみればすぐわかる。例えば、巻頭の「ア」の項目は、「アイエムエフ」という用語から始まる。国際通貨基金という用語が、編者がいうように「日常生活のグローバル化」と「関連諸科学の発展」に呼応したかたちで、当然のごとく取り上げられているとみることができる。だから同じ「ア」の項目に「アイティー」があっても何の違和感もない。
             本書の原形は、七一年に刊行された『最新地理学辞典』だ。改訂版を要請され、旧版を活かしつつ、「地理学のさまざまの分野で、新たな視点に立った研究が活発に展開してきている」ため、「新しい用語をできるだけ多数収録した」と編者は述べる。そして、「地理学独自の用語と考えられてきたものばかりでなく、近年、学際的に大きな注目を浴びてきているさまざまのキーワードや、地理学情報システム(GIS)に関連する基本的用語などを、広く取り入れようと努力した」ために、「旧版とは大いに異なった性格をもつ新しい辞典が生まれることとなった」ことが、この最新版の特色なのだ。「アイエムエフ」、「アイティー」、「グローバリゼーション」といった用語は、編集意図を反映したものだし、「生態学(ecology)」、「生態系(ecosystem)」や「環境」、「環境アセスメント」といった環境問題に関連した用語も、現在ということを考えた場合、多数収録されて当然のことだ。
             ところで、わたしが思いがけずも目を引いてしまった用語がいくつか収録されていた。つまり、「構造主義」、「文化人類学」、「パラダイム」、「ポストモダニズム」、「民俗学」といった哲学用語集と見間違うような用語が取りあげられているのだ。たとえば、「構造主義」の説明は次のようになされている。
             「言語学や人類学、さらには心理学やマルクス主義的な社会思想にまで影響を与えたフランスの思潮。人間的行為や出来事といった経験的事象の『深層』、すなわち人間の意識や企図を超えたところで作動する独自の原理をもった無意識的な規則性を『構造』とし、これを重視するものである。」(84P)
             もしかしたら、地理学という学際的立場から見れば、逸脱した用語集のように思われるかもしれない。しかし、学的ものを現在という問題を視野に入れて考えていけば、ある程度の境界線の越境は当然のこととなるはずだ。そもそも、人文科学系、自然科学系といった分割のしかたで思考する方法は、とうに破綻しているといってもよい。
             この用語集を手にとって、わたしはある感慨を浮かべながらも、学的領域もいよいよ、アクティブになってきたなという思いを強くした。
             「新保守主義」を取りあげ、「1970年代以降先進資本主義国において大きな影響力をもつようになった社会思想で、その影響する範囲は政治・経済・文化等各方面にわたる。(略)」(145P)といったやや好意的解説が気になるところだが、こういった用語を配置した編者たちの意欲性は評価していいと思う。(大明堂刊・03.2.23)

            2006.06.18 Sunday

            吉本隆明の営為にたいする深い理解

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              『吉本隆明資料集 初出・補遺篇』刊行開始(『図書新聞』05.2.12号)

               高知在住の評論家・詩人の松岡祥男が、独力で吉本隆明の単行本未収録・鼎談座談集を、『吉本隆明資料集』として80頁ほどの冊子で出しはじめたのは、2000年3月だった。鼎談座談篇は2002年末、27集でひとまず完結した。その後、この『資料集』はかつて吉本が主宰し、発行していた雑誌『試行』の足跡を追うことになる。2003年に入って、2月に28集として、『試行 全目次・後記(吉本隆明)』を、4月には待望の『試行 第16号(復刻版)』が29集として刊行された。以降、41集として『試行 第28号(復刻版)』を2004年11月に刊行し、『試行』復刻の第一期を終了した。そして、42集からは、「初出・補遺篇」の刊行を開始した。
               「初出・補遺篇」の発行意図を、松岡は簡潔明瞭に「吉本さんが発表された、著作から談話記事までの全てを読みたいからです。吉本さんの著作活動の妨げにならない範囲で、年代を追って発行してゆきたいと考えています。」(「猫々だより37」2004・9)と述べている。
               42集は、『文学者の戦争責任』(淡路書房・一九五六年九月二〇日発行)の初出復元である。この著作は、周知のように武井昭夫との共著であるとともに、吉本にとって最初の評論集である。収録された五論稿は、その後、分散されて単行本や著作集に収録されて、単独の著書として復刊されることはなかった(もちろん、共著だったことが実現不可能にしたと思われる)。今回は、武井論稿を除いたかたちでの貴重な復元になったといっていい。
               43集は、飯塚書店版『高村光太郎』(一九五七年刊)の復元である。吉本の初期批評活動のなかでも最重要に位置づけられる『高村光太郎』(『文学者の戦争責任』収載の諸論稿を継続したかたちの壮大な作家論だともいえる)は、その後、「文脈もスタイルも改められ増補されて、五月書房版、春秋社版となってしまい、現在流布されている『高村光太郎』の彼方に忘れ去られようとしているが、復讐の文学とも、不退転の決意ともよばれるべき、問題意識の直接性と、緊密な、硬質な文体とをもって形成され、いま読んでも印象的な作品である。」(川上春雄・『吉本隆明全著作集 第8巻』「解題」)というように、復刊が待たれていた著作であった。
               以降、「初出・補遺篇」は、「情況的な記述が割愛されてい」た部分を復元する「日本近代詩の源流」や、秀逸な秋山清論である「抵抗詩」の初出復元と未収録座談会「国鉄王国をやぶれ」などを収載していく。
               松岡は、刊行意図を「著作から談話記事までの全てを読みたいから」だと、ある意味、謙虚に述べているが、このようなかたちの資料集を出し続け(宿沢あぐり、藤井東といった方たちの協力者もいることを明記しておきたい)ていくことは、なによりも吉本隆明の営為にたいする深い理解があるからだといっていいはずだ。松岡の「不退転の決意」とでもいえる思惟とその持続は、誰でもが、できることではないことを明示している。わたし(たち)は、そのことを支持していくだけでも、松岡から深遠な膂力を感受することになる。
               読者の多くの支持を期待したい。          

              ※『吉本隆明資料集42 文学者の戦争責任(復元版)』A5判88頁・04.12.25.刊・頒価1200円(送料共)、『43 高村光太郎(飯塚書店版)』 A5判172頁・05.2.20刊・頒価1800円(同)、 『44 日本現代詩論争史(日本近代詩の源流)』 A5判88頁・3.20刊・頒価1200円(同)、『45 抵抗詩・国鉄王国をやぶれ』 A5判88頁・5.10刊・頒価1200円(同)、『46 丸山真男論(一橋新聞初出)』A5判108頁・6.15刊・頒価1300円(同)、『47 6・15事件 思想的弁護論』A5判96頁・7.20刊・頒価1250円(同)、『48 共同幻想論」(『文藝』初出)』A5判96頁・9.1刊・頒価1250円(同)、『49 情況【上】(『文藝』初出)』 A5判100頁・10.15刊・頒価1250円(同)、『50 情況【下】(『文藝』初出)』 A5判100頁・11.25刊・頒価1250円(同)、『51 書物の解体学【上】(『海』初出)』 A5判112頁・12.30刊・頒価1250円(同)、『52 書物の解体学【中】(『海』初出)』 A5判110頁・06.1.30刊・頒価1250円(同)、『53 書物の解体学【下】(『海』初出)』 A5判124頁・3.15刊・頒価1300円(同)、『54 聞書・親鸞(『春秋』初出)』 A5判152頁・4.25刊・頒価1500円(同)、『55 〈戦後〉経済の思想的批判・初期歌謡』 A5判88頁・5.30刊・頒価1200円(同)、『56 心的現象論 眼の知覚論・身体論』 A5判168頁・7.10刊・頒価1800円(同)
              発行所・猫々堂(〒780-0921高知市井口町45松岡祥男方・振替01680-1-58207)

              2006.06.18 Sunday

              『試行・復刻版』刊行開始

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                『試行・復刻版』刊行開始(『図書新聞』03.5.3号)

                 『意識としてのアジア』、『アジアの終焉』などの著作で知られる評論家・詩人の松岡祥男が、独力で吉本隆明の鼎談・座談集を出しはじめたのは、三年前だった。『吉本隆明資料集』と題した八十頁ほどの冊子は、単行本未収録に限った吉本が参加したほぼすべての鼎談、座談会を収録して昨年末、二十七集でひとまず完結した。その後、この『資料集』はかつて吉本が主宰し、発行していた雑誌『試行』の足跡を追うことになる。今年に入って、二月に第二十八集として、『試行 全目次・後記(吉本隆明)』を、四月には待望の『試行 第十六号』の復刻版が第二十九集として刊行された。
                 六〇年安保闘争後の一九六一年九月に、「いかなる既成の思想、文化運動からも自立したところで創刊」(創刊号・後記)した雑誌『試行』は、「表現と雑誌の形態の両面において六〇年安保以後の文学、思想の動向に計り知れない大きな影響をおよぼした。また数多くの表現者が『試行』から誕生した。」(芹沢俊介)というように、わが国の、戦後の思想・文化(運動)を語るうえで、最重要な雑誌だといってもいい。芹沢も述べているように、『試行』の最大の特色は、その雑誌形態にある。直接寄稿者と直接購読者だけで、支えていくというかたちを一貫してとり続けた。掲載する広告は、寄稿者と購読者が関係したものだけを無料で載せ、対外的に、『試行』の広告を掲載することはなかった。わたしたちは、このような形態の雑誌を〈自立誌〉と呼び、特に七〇年前後に、出された同人誌、サークル誌、機関誌などの多くの雑誌に影響を与え た。『試行』は、一〇号まで谷川雁、村上一郎との同人制で出していたが、六十四年六月の十一号から吉本の単独編集で発行され続け、九十七年十二月発行の第七十四号で終刊した。
                 松岡は、資料集28『試行 全目次・後記』の編集ノートで、次のように述べている。
                 「『試行』は、(略)三十七年間にわたって発行され、思想と表現の自立を目指して、何にも寄らず、寄稿と直接購読を支柱に、自力で刊行されたのです。執筆者は一〇八名にのぼっています。その間、吉本隆明氏は一回も休むことなく、ライフワークとも言うべき『言語にとって美とはなにか』『心的現象論』を発表し続けるとともに、『情況への発言』を巻頭におき、時代と格闘し続けてきたと言っていいと思います。巻末には毎号欠かさず『後記』を書いています。(略)吉本隆明氏の思想的な活動のなかで、『試行』は重要なものであると考えます。わたしは一読者(第三十七号からの)にすぎません。もとより、『試行』の意義や成果などについて言うことはできません。でも、『試行』から受けた恩恵は、じぶんの生涯の方向を決定づけるもののひとつだったと思っています。私なりの『試行』への感謝の表現になればと思い作りました。」
                 『試行』復刻版は第一期として第二十五号まで隔月で発行予定だ(以前、創刊号から第十五号までを試行出版部から復刻刊行されている)。多くの未知の読者が出会うことを期待したいと思う。          

                ※『試行 全目次・後記 吉本隆明資料集28』A5判208頁・03.2.10刊・頒価2000円、『試行第十六号復刻版 吉本隆明資料集29』A5判96頁・4.15刊・頒価1200円     (発行所・猫々堂)

                2006.06.14 Wednesday

                宗教者だからこそのアクチュアリティ

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                  高橋卓志 著『現代いのちの用語辞典』(『図書新聞』03.6.14号)

                   著者は松本市にある神宮寺の住職である。住職の著作であれば、抹香臭いものと思われがちだが、本書はそうではない。著者の活動を知れば、よくわかる。
                   チェルノブイリ原発事故の発生時に、医療者を中心としたNGO「日本チェルノブイリ連帯基金」の立ち上げに参加し、緊急医療支援活動を行なう。さらに、寺の本堂を使って学び場「尋常浅間学校」(永六輔校長・無着成恭教頭)を開校している。「遊びを基本にしたうえで、授業に出るのも欠席も自由、管理することは絶対しない、といった生徒自身の意志に任せた形態をとって」、「授業内容は、コンサートあり、お芝居あり、対談、鼎談、講演会といった具合で、なんでもありの学校」(133P)である。また、丸木美術館評議員として、地元で、定期的に「原爆の図」の展覧会を主宰している。そして、なんといってもラストステージの患者のケアにも積極的に取り組んでいる。本書は、宗教者という枠を越えて、いやむしろ宗教者だからこそというべきかもしれない、このようにアクチュアルな活動を続けている著者ならではの「いのちに向き合う」ための方途をめぐる発言集だ。
                   全体を六章に分け、それぞれにいくつかのキーワードを設け、そのことを中心に著者の考えを述べている。だから、確かに用語解説の意味合いもあるから、『用語辞典』という書名を取っていると思われるが、それぞれのキーワードは、むしろテーマといった趣をもっているといっていい。
                   序章につづく第一章は、「いのちへのアプローチ」として、「リビング・ウイル」、「ターミナル・ケア」、「告知」、「ホスピス・PCU」、「インフォームド・コンセント」などの終末医療における〈いのちの現場〉をめぐって語られる。第二章は、「いのちの行方」として、「脳死・臓器移植」、「BIO(バイオ)」、「高齢社会」、「原発」、「脱ダム」といったわたしたちを取り囲む社会を、第三章では、「いのちのネットワーク」として、「NPO」、「コミュニティ・ケア」といった〈いのちの現場〉の拡がりについて、それぞれ述べている。第四章は、「いのちと寺」、終章は先年亡くなった山尾三省への追悼で締めくくっている。
                   それぞれについて述べる著者の考えは、卓見で、しかも真摯で説得力にあふれるものだ。
                   著者は、タイやラオスの「上座部(じょうざぶ)仏教」の「開発(かいほつ)僧」と名づけられた仏教者の活動に啓発されたことが、自分の活動の指針になったと率直に述べている。
                   「彼らが実践していることは『いのちへの直接的な介在』なのである。そしてそこで苦しむ人たちとともに考え、歩くことを基本としている。しかもきわめて寡黙に……。これは日本の坊さんたちとの決定的な差といえる。だからこそ上座部仏教においては破戒ともいえる『開発僧』が出現しても、その行為を見守る大衆は、仏教の根底にある『いのち』へのアプローチとして許容し、同意し、信頼を寄せる。」(22P)
                   ここで語られていることは、「寺というフィールドで死の周辺にかかわる仕事としてリビング・ウィル(生者の意思)の表明を提案してきたつもりだ」(264P)と述べる姿勢と通底している。そしてそのことこそが、〈生〉とともに同時に〈死〉をも抱えもつ位相を切り開いていこうとする本書の骨子を表わしているといっていいと思う。(水書房刊・03.2.11)

                  2006.06.12 Monday

                  循環型社会・持続可能な社会を目ざし

                  0
                    資源協会 編『千年持続社会』(『図書新聞』03.5.31号)

                     わたしは、かつて環境問題を語ったり、論じたりするのを、なにやら胡散臭く感じたり、狂気さをともなった宗教的な運動のように思っていたりした。バブル絶頂期は、生活の向上と高度化、科学的技術の進歩は絶対的神話性をもっていた。だから、科学的進歩を否とする環境問題への提言はイデオロギー的な一部少数派の見解でしかないとみていたところがあった。しかし、イデオロギー的と思われていた予見が、本当に危機として、現実的なものとなって、わたしたちの日常生活に、現在おとずれてきたのだ(長引く景気低迷という情況にも起因しているが)。つまり、環境問題はイデオロギーの領域をとうに超えた段階に達してしまったのだ。政府主導で様々な環境アセスメントを行なうようになってきたし、地方行政レベルでいえば、ゴミの分別収集の細分化は、もう当たり前のことになった。
                     思えば、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』が邦訳出版されたのは、一九六四年のことだった。当然、その頃は、自然破壊ということへの警鐘は、多くの人にとって切実なことではなかった。初期マルクスは、人間は自然の一部だといったが、人間は自然をコントロールできるようになったと錯誤した時は、もう後戻りできない事態にわたしたちは置かれていたというべきだろう。実は、こうしてあれこれ述べているのは、わたし自身の内省から来ている。今でこそ、循環型社会とか持続可能な社会といった言い方が、切実さをもって当たり前のように語られているが、数年前までは、リサイクル社会という言い方が普通だった。わたしは、このリサイクルという言葉が醸し出すイメージが、何ともいやでならなかった。わたし(たち)の世代は、敗戦後の疲弊から、高度成長といわれた時代と、期をいつにしている。貧しかった戦後の状況から、徐々に豊かさを手に入れていく時間性のなかにあった。例えば、兄弟同士や縁戚同士で衣類の着まわしをすることは(いわゆる、お下がりのことだ)、当たり前のことだった。まさしく、始まりとしてのリサイクルといってよい。そんなイメージがリサイクルという言葉には、つきまとっていたのだ。
                     わたし(たち)は、段階を踏んで、生活の向上と豊かさを自分たちのものにしてきたぶんだけ、プロセスを反芻することを避けてきたのかもしれない。もちろん、誰でもがみな、際限の無い欲望を、追求してきたとはいえない。それでも、どこかで、消費の過剰さを自省すべきだったと、今にしてわたしですら感じていることだ。
                     かつて、わたしは、三木成夫の『胎児の世界』を読んで衝撃を受けた。そこでは、人間の生命の誕生は、生命体発生史をすべてなぞっていることが明らかにされるだけではなく、そのことが宇宙史の発生から地球の誕生そして生命の発生までがリンクしていると語られている。こう、わたしが書けば、いささか荒唐無稽に思われるかもしれない。だが、三木成夫の静謐な詩的文章で語られるそれらのことは、わたしにもうひとつの新しい環境思想といったことを教えてくれたといってもいい。
                     さて、本書は「平成十三年度文部科学省委託調査『資源の総合利用に関する調査―千年持続社会の構築に向けた科学技術のあり方に関する調査―』報告書」をもとにしている。書名は、報告書の副題からとられているが、循環型社会・持続可能な社会と同義的な意味に使われている。
                     「いわゆる持続的発展ではなく、持続可能な社会の構築のために、科学技術や社会人文科学の智恵を選りすぐり、長期展望を掲げてそれを実現するべく行動に移すのが千年持続学の精神である。」(12P)
                     「千年持続する社会とは、突き詰めるとすべての『生命(いのち)』を循環させ、それをつないでゆく社会である。」(23P)
                     第2章にあたる「警告学―地球の物理的キャパシティ」では、具体的なデータに基づいて、地球温暖化の問題、水資源やエネルギー問題が述べられていく。なかでも、アイヌの人々の伝統的な住居であったチセの温熱構造にふれ、「わずかなエネルギー消費で厳冬を乗り越える伝統の智恵」を紹介し、明治政府の「差別的な植民地政策のもとで近代化を強いられ」、伝統的な住居を否定することによって、アイヌの人々の健康が損なわれる結果となったという。そして、次のように述べている。
                     「20世紀の後半の50年間、今度は日本全体が家づくりに限らず、米国の中流階層の暮らしをモデルとし、日本の気候風土にあった伝統的な暮らしぶりを『遅れた』ものとしてほぼ全面的に否定してきた。これはその前の50年間にアイヌの人々が味わった苦難の経験に学ぶことなく、その轍を日本人全体でたどっていることになるのではないだろうか。」(69P)
                     本書は第3章以降、あらゆる資源への科学技術の開発報告と、様々な提言がなされていて、重要な問題を析出している。しかし、わたしには、この箇所が特に印象深く考えさせられたと言っておきたい。(日本地域社会研究所刊・03.1.22)

                    2006.06.10 Saturday

                    バロウズのイメージを解体して精緻に、深遠に描出

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                      山形浩生 著『たかがバロウズ本。』(『図書新聞』03.5.24号)
                                  
                       ウィリアムズ・S・バロウズ、この名は、ある確定したイメージを喚起する。麻薬中毒者で、同性愛者、そして妻殺しで、あの『裸のランチ』の作者であるというように。もちろん、“あの”というのは、表層性をもった指示でしかない。ほんとうは、どう捉えていいのか分からないという、困惑した様を象徴しているに過ぎない。実はこのことは、わたし自身の印象でもあった。
                       わたしが、バロウズを認知したのは、たぶん多くの人がそうだったようにクローネンバーグが『裸のランチ』を映画化した時だ。そして、映画の公開にあわせて新たに改訂版が刊行されたが、訳者名を見て大きな驚きを覚えたことを忘れることができない。そこに鮎川信夫の名があった(改訂訳として本書の著者が併記されている)のだ。鮎川の仕事を全面的に支持し、影響も受けてきて、ほとんどの著作に目をとおしてきたつもりだった。クイーン、クリスティー、ドイルといったミステリー作家の翻訳は知っていたが、バロウズという作家名は記憶していなかった。
                       「日本でバロウズをいちばん最初にとりあげて紹介したのは、おそらく鮎川信夫だろう。(略)実は映画公開にあわせてぼくがかなり手を入れている(略)。ただし、手を入れたのは別に鮎川訳のできが悪いからじゃない。かれの訳はまともだ。というか、異様なくらいにできがいい。(略)かれが『裸のランチ』と『ジャンキー』を訳してくれたのは、まったく実にありがたいことだった。」(359〜360P)
                       著者は、他の翻訳者たちへは、かなり辛らつな評言を呈している。鮎川へこのように語る著者に奇妙な親近感を抱いたといってもいい。ところで、わたしは本書を「補遺」から読み始めた。もちろん目次を見て、「日本での受容」の章のなかに「鮎川信夫」の項目があったからだが、この「補遺」の文章群が、実に鮮明に著者の立場を表明していると思えた。本論でも一貫して述べていることだが、〈批評〉という位相を、著者はいったん解体し、その先に、どう言葉を紡ぎ出せるかという試行をしているといえる。もっと別様にいってもいい、〈批評〉のための言葉を表出することを否定した先に、対象への〈内的言語〉といったものを提示しようとしている。つまり、テクスト解釈といったポスト・モダン的批評や、いわゆる文芸批評的な枠組みを、超えた場所に、著者は〈バロウズ論〉を措定しようとしているのだ。
                       読後、感じたことだが、著者は多くのバロウズの著作を翻訳しているし、著者自身も自負しているように誰よりも多くのバロウズの著作を読んでいるにもかかわらず、そこには近接感や密着性を極力拝した文章がつづられている。文体や言葉が快活に展開されているにもかかわらず、抑制された感性といったものを、わたしには感じられたといってもいい。
                       そのことは著者が、方法論として意識的にとったことだと思える。ある種、批評や解読の“悲しみ”といったようなことを自覚していたというべきか。それは、たぶん、バロウズを“悲しみ”ともいえる像として捉えているからだと思う。カットアップというバロウズ独特の手法が、妻殺しという記憶から逃れるためのものだったと見做しつつ、次のように述べていく。
                       「カットアップによって現実を書き換え、記憶を書き換えるはずだったバロウズなのに、現実も記憶も、それを通じてますます切なく迫ってくるようになるばかりだった。(略)もともとバロウズは、表現すべき深い思索や、どうしても描きたいテーマを持った作家じゃあない。というか、かれは人に何かを伝えるために作家になったわけじゃない。(略)そのバロウズが、最後の最後になって、あんなに深い後悔と、絶望を通り越したような諦めをもって、回想に終始するような作品しか書かなくなっていたことに、ぼくたちはある意味で失望させられるし、ある意味では『やっぱり』という感じを受けざるを得ない。」(43P〜51P)
                       バロウズにおける、「自由」と「不自由」という問題をこのようにして著者は、述べていく。なにか、過剰なイメージが付加された作家として、わたしたちは、バロウズを見てきたように思う。著者は、そんなイメージを解体して、精緻に、しかも深遠に、バロウズの解説書、入門書としての意味を充分に本書で果たしながらも、「最後のバロウズ」の像を描出している。そこは、『裸のランチ』ならぬ、「裸のバロウズ」という場所だったというこになるのだろうか。(大村書店刊・03.2.25)

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