CALENDER

S M T W T F S
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031     
<< July 2017 >>

CATEGORIES

archives

2015.09.19 Saturday

〈戦争〉という蛮行がいかに人間の心奥までも引き裂いてしまうのか            ――ポーランドを舞台にした鮮烈で深い印象を刻みつける物語

0
    稲垣晴彦 著『夜霧のポロネーズ』
    (「図書新聞」15.9.26号)

     現在、〈戦争〉という文字が、至るところで露出している。七〇年という年月が、節目やメモリアルなこととして発信され、〈敗戦〉ではなく、〈終戦〉記念日という言葉で粉飾して〈戦争〉という事実を希薄化していく。極めつけは首相談話だ。どんな内容になるのか、そんなにも重要なことなのかと思わずにはいられない。談話の中味より、敗戦後七〇年間、アジアの諸国に対して、国家や政府はもちろんのこと、わたしたちはどう向き合ってきたのかが、本来、問われるべきことなのではないか。
     日本国政府に比べて、ドイツ政府(旧西ドイツというべきかもしれない)は近隣のヨーロッパ諸国に対し、真摯に戦争後の諸課題に向き合ってきたといわれるが、アウシュヴィッツという場所が、ポーランドにあることを知っている人はどれだけいるだろうか。アウシュヴィッツとはドイツ語読みであり、ポーランド語読みではオシフィエンチムである。ポーランドは、ナチス政権の支配下地域だったから、強制収容所が出来たことになるのだ。
     わたしはかつて、アンジェ・ワイダ監督作品の『灰とダイヤモンド』(58年)や『地下水道』(57年)によって、ポーランドという国が抱えた悲痛な時間性を知り、国家やイデオロギーによって生起していく〈戦争〉による犯罪に憤怒したといっていい。
     物語は、1965年という時代のポーランドを舞台にして、日本人男性・二人(多田慎一、斎藤栄三)と二〇代のポーランド人女性(クリスチーナ・ルドニナ)を交錯させていきながら、オシフィエンチムが抱えてきた暗部を浮き彫りにしていく。
     多田は、「日々新聞」ワルシャワ特派員で二四歳。赴任して一年目であった。本社の編集局長から、友人の男をポーランド滞在予定の一週間の便宜を図るように頼まれる。その斎藤栄三という名の友人は、東西文化交流会常任理事の肩書を持つ五十代後半の男であった。多田には、ワルシャワ大学日本語学科・二年生のクリスチーナという恋人がいた。彼女は夏季休暇を利用して、オシフィエンチムで収容所のガイドの仕事をしている。
     多田と斎藤が会った最初の日の夕食時、レストランのステージから、「現代風にアレンジしたポロネーズの前奏」が流れて、歌手が、「優しい微笑をたたえて歌い始め」る。「歌はビブラートに乗って、人々の波間に漂」い、「単純な甘いメロディー」であった。
     「それまで客席を覆っていたざわめきの波はいつしか消え、淡いグリーンに照明されたレストランは深海の底のようにシーンと静まりかえってゆく。ピアノによるポロネーズの独奏が響いてから再び歌へと受け継がれ、一転して寂しいメロディーになった。(略)人々は暗示にかけられたように手を休め、ある者はナプキンで目頭を押さえ、また、ある者はじいっと瞑想している。そんな中、斎藤だけは別であった。」
     やがて、斎藤は、曲名を聞く。多田は、「夜霧のポロネーズ」と答え、「悲しい歌です。この春の『ワルシャワ大学祭』の音楽コンテスト」で最優秀賞に選ばれたが「作者は匿名」だったと述べる。この「夜霧のポロネーズ」をめぐって、ミステリアスな展開をしながら、三人を暗渠のような「1942年8月25日」という場所へと誘いこんでいく。
     物語が悲しい終局をむかえる前、オシフィエンチムの博物館での、二人のやり取りは、〈戦争〉という支配と統治のための蛮行がいかに人間の心奥までも引き裂いてしまうのかを暗喩していく。見学に来ている小学生達を見て、「あんな小さな子供に、大人でも気持ち悪くなるものを見せて、いいのかな」と多田は、クリスチーナに向けて疑問を口にする。それに対して、「小さい頃から、ナチス・ドイツの恐ろしさを教え込むのよ」といい、それは、「ドイツ人への憎しみを忘れないため」であり、「国の安全、いえ、私達個人の身の安全のため」だと激しく彼女は応答していく。多田は、「小さい子供の頃から、ドイツ人への憎しみ教育を繰り返してゆくと、憎しみはますますひどくなって、永久にこの国を包みこんでしまう。それでは、隣人のドイツ人と永遠にいがみ合うことしかできないじゃないか」と優しく述べていくが、その溝は簡単には、埋まらないほど、クリスチーナには、憎悪の発火点となるべき悲痛な出自の由来があったのだ。
     「夜霧のポロネーズ」の謎が解明された時、多田にとって悲しい現実が突き付けられた後だった(本書を手にとる人たちのために詳細は敢えて触れないでおく)。ナチスの暴挙に苦悩の時間を抱えてきたポーランドで日本人男性が絡む恋愛劇として描かれる本書は、74年に私家版として出されたものの新版であるが、色褪せることなく、鮮烈で深い印象を刻みつける物語である。

    (文芸社刊・15.9.15)

    2015.09.05 Saturday

    下位文化の発達は都市のネットワークにおける新たな力動性を生成するのか

    0
      田村公人 著『都市の舞台俳優たち
       アーバニズムの下位文化理論の検証に向かって
      (「図書新聞」15.9.12号)

       本書は、〈舞台俳優〉たちの実相をあたかもフィールドワーク(エスノグラフィックな調査と著者はいう。直訳すれば、民族誌的な調査をさすが、民俗学的なるものと民族誌的なるものは、明快に違うという観点に立てば、フィールドワークという捉え方は、著者にとって疑義を挟みたいところかもしれない)するかのように解析し、十五年に及ぶ調査研究成果をテクストにしたうえで、都市における社会的・共同体的構造を切開していくためのシステム理論(ここでは、シカゴ学派都市社会学のクロード・S・フィッシャーによる下位文化理論ということになる)を再検証していく意欲的試みである。
       アーバンが都市的、都会的な意味としてあるならば、アーバニズムとは、都市や都会を指向するといった意味に考えていいはずだ。そして、都市に内在する問題というものを、様々なアプローチから解析しうることは、理解できるとしても、〈舞台俳優〉をモチーフにしたことの意外性をまずここでは、強調しておく必要があるかもしれない。これは、〈舞台俳優〉という有様を、著者が下位文化の象徴として見做していることを意味している。下位文化とは聞きなれない概念だが、サブ・カルチャーと同義として捉えるならば、わかりやすいと思う。小劇場公演を年数回行う演劇集団に所属する俳優たちが、本書における調査研究対象ということになる。
       フィッシャーが説く下位文化理論というものを著者は、次のように述べていく。
       「フィッシャーは、都市が村落と比較して複雑に『構造的に分化』しているという事実は、既に都市において多様な下位文化が生まれている事実の証明だと主張する。(略)多様かつ独自の下位文化の数が増えれば、その分だけ一般的な規範から逸脱した行動の数が増える。(略)村落では孤独を余儀なくされる『逸脱者』が自らと類似した『仲間』を見つけ、独自の下位文化を発達させることが可能となる。(略)以上が、下位文化理論の基本命題(略)の説明内容の簡単な要約である。」
       これに対して、著者は、小劇団の俳優たちの現状(劇団を維持するための、あるいは公演の赤字を最小限に抑えるためのチケット販売というノルマや、舞台俳優を続けていくためのアルバイト活動、親許での生活を余儀なくされることなど)を細やかに分析し、下位文化の発達が都市のネットワークにおける新たな力動性を生成することになるということへの、疑義の視線を拡張している。
       「少なくとも、三十歳を超えて現役を続けてきた上記の俳優たちの顛末は、冒頭で言及した『三十歳限界説』という通説を大きく覆らせるまでの結果を示していない。誤差の範囲内に止まるとした方が、この場合には正確とさえ言えるのかもしれない。この種の事実は、都市が『非通念性』を生み出すと主張するアーバニズムの理論的効果の盲点を的確に突いている。」
       そして、「『下位文化』の『強化』が他の世界との『衝突』を通して達成されるという『理論』の提唱者の仮説」に対して「修正の余地を残す点を否定」できないと論断していく。
       そもそも、「下位文化」という概念が、わたしには、どうしても率直に了解できないものがある。かりに、サブ・カルチャーと拡張して捉えてみたとしても、フィッシャーの言説を了とできるわけではない。これは、北米やヨーロッパの都市の形成過程と日本やアジアにおける成り立ちを考えてみれば、大きな差異があるからだといっていい。日本の場合、必ずしも、都市的なものと村落的なものが差異化できるほど共同性の基層が明確化されているわけではないからだ。著者は、フィッシャー理論の中で、「人口量が多い場所(=都市)ほど」、「何らかの文化的選好を持つ個人が利害や関心を共有し、互に支持を与え合う『仲間』を見つけ出す上で」、「有利になると論じる」と述べていて、一定の評価を与えている。確かに、そういう側面もあると思うが、孤立してしまうことと関係をうまく結んでいくこととは、パラレルなものが絶えずあるような気がする。ノルマ達成のためのチケット販売の例示の中で、東京出身者と地方出身者では、繋がっている関係性の多寡に違いが出てきて、結局、自己負担する場合があることを示されている。
       日本でもかつては高度資本主義社会とか高度消費社会といわれた時期があった。サブ・カルチャーが、大量消費されて、わが世の春を謳歌していた頃だといい換えてもいい。しかし、それは、幻想の資本制社会の最後の姿だったといえなくもない。わたしの現在の感慨は、都市というものは孤独者たちの共同体であるといいたい気がする。

      (ハーベスト社・15.5.28刊)

      2015.06.19 Friday

      自然なる声で発せられる言葉が、名伏しがたい感動を喚起する

      0
        川口祐二 著『明平さんの首――出会いの風景
        (「図書新聞」15.6.27号)

         著者は、巻末に付された履歴によれば、「70年代初め、いち早く、漁村から合成洗剤をなくすことを提唱。そのさきがけとなって実践運動を展開」し、「日本の漁村を歩き、特に女性の戦前、戦中の暮らしを記録する仕事を続けて」きたという。『島へ、岸辺へ』、『漁村異聞』、『光る海、渚の暮らし』、『潮風の道』、『女たちの海』(いずれもドメス出版刊)といった著書を並べてみただけで、著者の仕事の大きさを窺い知ることができるような気がする。
         本書の「あとがき」には、次のように記されている。
         「八〇歳を過ぎて、死に急ぐわけではないが、身辺整理をしなければという気持ちになった。今回のエッセイ集は、そんなことから編んだもの。今まであちこちに書いた小文の中で、これだけは残しておきたいと思うものを選んで一冊とした。」
         そして、作家・杉浦明平(1913〜2001)との交流について書かれた文章、三篇をその中心に据え、漁村をめぐる文章群が包みこむようなかたちで本書は構成されている。書名の「明平さんの首」とは、杉浦明平のために、生前、彫刻家・岩田実が作ったブロンズ像のことを指している。それにしてもと思う。そのブロンズ像の写真を表紙カバーに配置された本書を見て、わたしは、懐かしい名前に直ぐに惹きつけられてしまったといっていい。けっして、熱心な読者ではなかったが、わたしがかつて渉猟してきた書物の周辺、特に高橋和巳をめぐって、度々、その名前が現出してくる存在だったからだ。
         書名と同じ表題の「明平さんの首」という文章は、95年6月9日、「渥美半島の漁港、福江の町の古くからある旅館」で行われた杉浦明平の誕生会のことが活写される。前月に六〇年かけて完成させた大著『ミケランジェロの手紙』(翻訳版)の出版記念会も兼ねることになる。「集まる者は三〇人あまりで、中には名古屋から駆けつけた人も何人かいる。西からは私が一人、大半は地元の人たち」で、「明平さんの人柄に引きつけられて集まってくる」のだという。この会の時に「座敷の床の間に」飾られている「明平さんのブロンズ像」を著者たちは初めて見ることになる。
         「すばらしい首である。右横向きの顔に品格がただよっている。眼が鋭いと思った。」
         やがて、会の翌日、この「首」を著者たちが、明平さんの自宅へ運ぶことになる。旅館の二階から重い「首」を運び出す様子は、ブロンズ像であるにもかかわらず敬慕の念が滲み出ているように描出されていく。
         漁村にまつわる文章群は、どれも、著者の「海」への愛惜感が溢れていて沁みてくる。幾つかの言葉たちを引いてみたい。
         「海は漁業者の場とだけしか考えがちだが、決してそうではなく、『里海』としての視点が必要な時代になってきている。」「『海は人間の多様な営みを映す』といわれる。人間の暮らしを映す鏡である。海という鏡を照らすも曇らすも人間次第。『里海』として、すべての人びとが関わっていく、そのようなグローバルな視点が、今求められている。」「マダイはおいしいといわれますが、何はともあれ、母なる海が汚れていてはいけない、ということに尽きます。刺身として食べるということからも、海の水がきれいというのが基本です。漁場の安全が消費者の安心につながるのです。環境が資源だ、ということです。」「いずれにしてもおいしいスジアオノリが育つためには、清冽な流れが基本です。清冽な川の流れというのは、なんの抵抗もなく素足で入れる川、といえばよいでしょう。そのような川はそこに住む人が力を合わせて守っていく、環境づくりのための住民意識が、今求められています。」
         これらの言葉を放つ著者の視線は、普通に生きて暮らす地平からのものだ。声高になにかを主張するのではなく、自然なる声で発しているから、わたしには、名伏しがたい感動を喚起するのだ。「里海」といわれ、そうだ、そういう捉え方があっていいのだと思うし、「母なる海」といういい方もそうだ。そして、「刺身として食べる」というのは、「海の水がきれい」でなければならないという当たり前のことに思い至る。「なんの抵抗もなく素足で入れる」、「清冽な川」といういい方には、わたしたちの生きて在ることの根源を指し示していくかのようだ。3.11以後の現在にあって、その当たり前、普通であるべきことが、揺らいでいることに、わたしたちは、もう一度、考えていくべきだと思う。本書を読み終えて、あらためて考えたことだ。

        (ドメス出版・発売 15.1.24)

        2015.05.23 Saturday

        「好きなことを好きなように」、独学がよかった                           ――映画評論家・佐藤忠男の自伝的読書遍歴

        0
          佐藤忠男 著『独学でよかった――読書と私の人生』
          (「図書新聞」15.5.30号)

           本書は、映画評論家・佐藤忠男(1930〜)が自伝的に読書遍歴を綴ったものだ。
          わたしは、七〇年前後、日本映画に関していえば、東映任俠映画(遡って幾つかの股旅映画作品も含む)を中心にして、かなりの本数を観ていた。監督でいえば、加藤泰、鈴木清順(日活)ということになる。自分が共感を持って観ている監督とその作品がどのように評価されているのかということを必然的に知りたくなり、映画雑誌を手に取り、そのなかで佐藤忠男を知ったことになる。例えば、1970年度の『映画評論』誌、日本映画ベストテンで佐藤は、一位を『エロス+虐殺』(吉田喜重)、以下、『戦争と人間』(山本薩夫)、『無常』(実相寺昭雄)、そして四位に加藤泰の『緋牡丹博徒 お竜参上』を挙げている。ちなみに五位は『日本解放戦線・三里塚』(小川紳介)である。わたしなら忌避したい山本作品に高い評価を与えながらも、『お竜参上』や『三里塚』へも評価の視線を向ける佐藤の映画観にわたしは、不思議な感慨を抱いたものだったが、後に、幅をもって横断させていくのが佐藤忠男の映画的視線であることを理解していったといっていい。八〇年代、わたしは、台湾映画を中心にアジア映画と括られる作品群を熱心に観ていたが、これは佐藤忠男に誘われたからだと付言しておきたい。
           ところで、本書の表題の「独学」には、あるイメージがいやおうなく付いている。つまり、著者が述べるように、「独学と苦学はほぼ同じ意味で使われていた言葉だった」からだ。
           「私は苦しんで勉強したことは一度もありません、電気工や電話機修理工として働きながら本を読んだり論文を書いたりしていただけで、アルバイトもしていないし、徹夜で受験勉強をするというような苦しい勉強の経験もありません。」
           つまり、「好きなことを好きなように」、読書や研究をしていたということになる。それは、自分の興味や関心があることにたいし、確信しながら進んでいっただけなのだといいかえてもいいかもしれない。著者が少年期の頃は、戦前時だったから読むものがけっして豊饒にあったわけではない。それにもかかわらず、貸本屋から借りて「少年倶楽部」系の小説を熱心に読んでいたという。やがて敗戦後の青年期を迎えると多くの本とともに、戯曲集、そして映画の面白さに惹かれていく。
           「映画を深く考えるためには、映画に描かれた社会や人間を理解する必要があると思うようになり、社会学や心理学や歴史の本も読むようになり、また、映画の芸術としての側面を考えようと思って、芸術学や美学、記号論、などの本を読んだ。」
           二十歳前後のことである。関心というものは、様々に繋がり広がっていくことで、それぞれのことが、さらに深く理解できるようになるものなのだ。まさしく独学的読書遍歴のそれが核心であると思う。無意識の中で醸成されていく「知の広がり」は、意識的に上昇志向のようなかたちで受容していくよりは、はるかに血肉なっていくものなのだといいたい気がする。
           やがて、「キネマ旬報」や「映画評論」といった映画誌に投稿していくなかで、「思想の科学」という雑誌を知る。そして、「四十枚余りの『任俠について』という論文を書いて送」り、採用される。それは、鶴見俊輔との出会いという大きな契機であったとともに、「文章で身を立て」ることへの始まりとなっていく。
           著者の仕事は、いうまでもなく映画以外の幅広い領域に渡っているが、やはり映画に関しての著者の視線は、わたしを啓発してくれるものだ。
           「はじめて見たときから私はこの映画に大きな違和感も持っていた。侍たち七人が、それぞれ程度の差はあっても、すごい大人物、驚くべき勇士、立派な男、少なくともいい男として個性的に描き分けられているのに、百人ほどもいる百姓のほうはもう、長老がちょっと風格と分別のある知恵者であり、若者のひとりに妻を野伏せりたちに拉致されていることから血気にはやりがちな男がいる以外は、おしなべてみんな、なにをしていいか分からなくて右往左往している。」「侍たちの指導が良くて百姓たちはよく組織されて集団で戦えるようになるのだが、しかしそんなはずはないのではないか。侍がそんなに立派で百姓はみんな武器の扱いひとつ知らないというのはおかしいのではないか。(略)日本の時代劇の歩みのほぼ全体に一貫してきた偏見が生み出した歪みではないか。そう思ったのである。」
           「この映画」とは、黒澤明の『七人の侍』のことである。オールタイム日本映画ベストテンなどで、必ず一位に選ばれる作品だが、わたしも、著者と同じくこの作品を評価しない。ラストの場面で志村喬に「勝ったのはあの百姓たちだ」と語らせることに、空々しさしか感じられなかった。だからこそ、佐藤忠男の映画的視線を、この『七人の侍』へ向けた評言で、充分象徴できるはずだ。

          (三交社・発売 中日映画社・発行 14.11.29)


          2015.05.02 Saturday

          山本作兵衛の「肯定」のまなざし                  ――炭鉱をめぐる多彩な表現が収載されている二冊

          0
            有馬 学、マイケル・ピアソン、福本 寛、田中直樹、
            菊畑茂久馬 著『山本作兵衛と日本の近代』
            コロナ・ブックス編集部 編『山本作兵衛と炭鉱の記録』
            (「図書新聞」15.5.9号)

             山本作兵衛(1892〜1984)は、福岡県で生まれる。父が炭坑夫であったため、「入坑する父母を手伝い、家族ともどもヤマを転々と」し、「高等小学校への進学をあきらめ」炭坑夫となり、以後、筑豊の炭鉱で炭坑夫や鍛冶工で働き続けた。55年、閉山で解雇された後、資材警備員や宿直員をしながら、「子孫に炭鉱の姿を描き残すため」絵筆を取るようになり、「亡くなるまでに残した記録画は一〇〇〇点を超えると言われ」ている。そして、筑豊の炭鉱の歴史を絵筆によって伝える貴重な記録として「田川市と福岡県立大学が所蔵する記録画五八九点、日記や雑記帳など計六九七点が、二〇一一」年に、国内では初の「ユネスコ世界記憶遺産に登録され」(『山本作兵衛と炭鉱の記録』、以下、『炭鉱の記録』と記し、『山本作兵衛と日本の近代』は、『日本の近代』とする)る。
             石炭産業は、一八世紀、イギリスの産業革命の勃興とともに大きな役割を担うことになる。しかし、その後、石油エネルギーによって、その位置は大きく後退していく。59〜60年にかけての三池争議に象徴されるように、石炭産業の経営悪化が人員整理などの合理化を進めていくなかで、炭鉱の閉山が加速されていった。その結果、炭鉱によって支えられてきた市町村が、閉山によって、行政体として立ちいかなくなるという事態を招来していった。日本の炭鉱は地層構造的に過酷な工事を強いられるため、その労働条件は、極めて劣悪であった。軍事大国として欧米諸国と対峙していく基盤形成のためにも石炭産業は大きな意義を持っていたわけだが、同時に、そこで働く多くの人々に経済的保障を与えていたことは、確かなことでもある。だからこそ、作兵衛の記録画というのは、働く人々の姿が直截に写し出されているとともに、炭鉱が位置付けられてきた歴史をも投影されていると見做されてきたといっていい。
             「山本作兵衛さんの絵画が非常に幅広い対象を描き、それが炭坑夫の共同体の世界を描いている点に私は非常に感銘を受けています。外部の人間がよそ者の目で見たのではなく、炭坑夫という、その直接の体験をした人間が描いているところがすばらしいわけですが、決して過去を美化するような描き方ではありません。いいことも悪いことも全部含めて描いています。そして私の目から見ても、筑豊の現在の共同体の人々が持っている率直な気質、足が地に着いた生き方や非常に我慢強い性格、そういったものも含めて描かれていると思います。現在も筑豊の人たちが誇りに思っているようなものを表しているのが山本作兵衛さんの絵であり、その物的な証拠になっているのではないかと思います。」(マイケル・ピアソン「山本作兵衛―世界記憶遺産と世界遺産をつなぐもの」―『日本の近代』)
             『炭鉱の記録』には、作兵衛の「絵」を中心に、炭鉱労働経験者による「内」からの作品と画家が描いた「外」から作品、そして、「写真」や「ポスター」など、炭鉱をめぐる多彩な表現が収載されている。原田大鳳の「絵巻」は、過酷な労働という雰囲気は感じられず、どこか郷愁感のようなものが横断している。山近剛太郎の「絵」は、鋭い筆致と暗い色彩が、ある種のリアリズムを醸し出しているが、モチーフと描き手との距離感を見ないわけにはいかない。作兵衛の「絵」は、けっして巧さを感じさせるわけではないが、ナイーブな描線と描かれた人々の表情の画一性に記録するという強い意志が漂っていて、それが、深い感銘を与えることになる。ピアソンが指摘するように、共同体への共鳴が作兵衛の中に絵を描くときに湧き上がってくるからではないかと思えてくる。
             「かつて、負の遺産でしかなかった(略)エネルギー革命による石炭産業の崩壊以後、あるいはそれ以前についてでも、暴力的な支配、あるいは極端な労働者への抑圧、そういったものを中心に筑豊を語る語り方というのがあったと思います。そういうかつて負の遺産でしかなかった石炭や炭鉱に対して、新たな視線、まなざしというものが、近年現われてきているような気がします。」「私はそこに作兵衛さんの絵の特徴としての『肯定』ということを見たいんですね。作兵衛さんの絵は菊畑(引用者註=上野英信とともに一早く評価し、山本作兵衛の一番弟子を自称する美術家・菊畑茂久馬)さんが早くに指摘されたように、(略)筑豊がもう根底から解体されていく真っ只中で、その現場で描かれた。つまり作兵衛さんにとっては、まさに負の遺産を目の前に置かれたような状況で描かれたんですね。作兵衛さんの絵にはそうした事情に対する怒りや告発、あるいは悲しみやあきらめといった感覚とは違うところがあるように思えてなりません。それを私は、負の遺産に向けた、すべてを了解したうえで包み込む『肯定』のまなざし、というふうに考えてみたいわけです。」(有馬学「結びにかえて――〈方法〉としての山本作兵衛」―『日本の近代』)
             ここでいう、「肯定」のまなざしは、自分が生きてきたことへの「肯定」ということに他ならないと思う。作兵衛の「絵」は、親たちや自分、仲間たちが炭坑夫として筑豊という共同体の中で生きてきたことへの「肯定」のまなざしがあるから、「記録」を越えた表現として、わたしたちの感性を突き動かすのだといっていいはずだ。

            『山本作兵衛と日本の近代』(弦書房・14.8.8刊)
            『山本作兵衛と炭鉱の記録』(平凡社・14.12.19刊)


            2015.02.21 Saturday

            いまだ動態的な山口昌男の仕事                       ――多くの視点を通し、山口昌男という〈像〉が鮮やかに描かれる

            0
              真島一郎・川村伸秀 編『山口昌男 人類学的思考の沃野』
              (「図書新聞」15.2.28号)

               山口昌男(1931〜2013)の仕事を望見してみると、実に多様多彩に満ちているといっていいだろう。つまり、山口を文化人類学者と見做した途端、そこからはみ出した仕事の方が遥かに多いことに気づくからだ。本書の編者・真島一郎は、「一九八〇年代の記事のタイトルに示された」、「文化人類学者の仕事とは遊びであり、大学の外にこそ知の愉しみがある」という「表現ほど、フィールドにのぞむさいの山口の姿を彷彿とさせるものはない」と記している。確かに、「遊び」という視線を拡張させるならば、既成のアカデミズムという秩序を逸脱する山口の像が、連結されていくわけだが、実は、その「遊び」という概念は、わたしたちにとっては、一筋縄でいかない茫漠したものだといいたい気がする。本書で、妻である山口ふさ子へのインタビューがあって、次のような箇所に出会うと、「遊び」というのは、あくまでも山口昌男の独自の思考のかたち(ふさ子は「主義」と捉えている)なのではないかと思ってしまう。
               「主人とくだらない話はずいぶんたくさんしましたが、結局、自分の関心以外は興味を示さない人でした。ひとつ、主義としてあったのは、遊ぶことが好きということです。自分がどんなにつらい思いをして働いていても、あるいは調査をしていても『遊び』と思っていたようです。私が『掃除ばかりして嫌だ』というような愚痴をこぼすと、『お前、嫌だと思うことはやらなくていいんだよ。楽しいと思うことだけやれ、どうしてもしなくちゃいけないことを楽しいと思え』と言われたことがありました。結婚してすぐのころです。」
               自分も手伝うよといわず、「嫌だと思うことはやらなくていい」といいきるところが、山口らしい矜持なのだろう。
               わたしは、68年末に出された吉本隆明の『共同幻想論』にリアルタイムで接し衝撃を受け、深く共感性を漂わせていたのだが、翌年の一月から三月にかけて連載書評として『共同幻想論』批判を展開していたのが、わたしにとって、まったく未知の山口昌男との出会いだった(二冊の翻訳書以外、まだ山口の著書は刊行されていなかった)。当時、ためにする批判は吉本に対してよくあるかたちだったが、山口の場合は、異色で、首肯できるできないという感性を払拭させて、なにか不思議な魅力を感じさせ、もう少し、批判の位相を広げるかたちで考えを聞いてみたいと思わずにはいられなかったと、いま記憶を辿れば、そのようないい方になる。
               わたしは、山口昌男に関心を持ち、断続的にではあるが関心を抱き続けてきたのは、やはり王権論にある。手法は大きく異なるかもしれないが、天皇制(あるいは権力)の暗渠を切開するというモチーフにおいては、山口と吉本には、幾つも重なる層を見出すことができると思ってきたからだ。
               「(略)権力というのは中心とともに周縁をつくりだす装置でしょう。(略)中心としての権力に向かう権力志向もあるし、それと反対の極に向かう権力志向もあると思うんです。そういうように権力というものは非常に把みどころのないものである。だから権力は人をとらえて離さないんじゃないか。(略)実証的な話ではありませんが、権力をどのようなものとして読み取るかということについて非常に面白かったのは、白土三平の『カムイ伝』ですね。(略)権力が権力の外にあるものと潜在的に繋がっているということに触れたという点でも『カムイ伝』はすごい。」(「権力のコスモロジー」)
               山口ならではのフィールドの拡張が、ここには象徴化されていると思う。『カムイ伝』に対する見方も、まったく同感だ。
               さて、本書は、二〇一三年六月に開かれた「山口昌男追悼AA研シンポジウム 人類学的思考の沃野」を契機として編まれた論集である。追悼シンポジウムの発言(青木保、渡辺公三、今福龍太他)を収録するとともに、あらたに、山口昌男論(中沢新一、前田耕作、東ゆみこ、宇波彰他)、山口のスケッチや風景画、写真も掲載し、さらに再録作品三篇、書評を通した山口昌男入門、学術研究の記録、河村伸秀による詳細な「年譜・著作目録」などで構成されている。多くの視点を通して、山口昌男という〈像〉が、鮮やかに描かれていく。
               「山口昌男という人が、現実的にも非常に旺盛な活力あるフィールドワーカーであったことは間違いないと思います。しかし、山口昌男とフィールドを語ろうとすると、『フィールド』という言葉を、ある意味で比喩的な言葉、あるいは少なくとも人類学におけるフィールドワークの『フィールド』という表面的な言葉を越えた概念として捉え直さないと、山口昌男のフィールドという問題の本質は見えてきません。」(今福龍太)、「『道化の民俗学』への正当な評価の欠如は、山口昌男の学問全体への誤解や理解の不充分さを示していると私には思われる。(略)『道化の民俗学』を単なる道化論のアンソロジーと受け取ってはならない。山口があらゆる事象を探究する上での基軸とし、パースペクティヴの転換の問題に対する実践的な試みを行った、山口の学問のおいては、『文化と両義性』と双璧をなす重要な書物なのである。」(東ゆみこ)
               ここには、いまだ、山口昌男の仕事が、動態的であることを示している。山口昌男が、かつて知的流行の先端にいたかのように見做されていた幻像から、いまだからこそ、あらたに、鮮鋭さを胚胎している像へと再生させていくことを本論集は宣している。

              (東京外国語大学出版会・14.10.31刊)

              2015.02.14 Saturday

              河内王朝の解析へと向かう意欲的な論考                                 ――天皇制における共同性を射程に入れることの切実さ

              0
                畠山 篤 著『河内王朝の山海の政―枯野琴と国栖奏
                (「図書新聞」15.2.21号)

                 本書は、記紀神話のなかの、応神天皇の条で伝えられている「国栖伝承」と、『古事記』のなかの仁徳天皇の条並びに、『日本書紀』の応神天皇の条で伝えられている「枯野伝承」をテクストにして、河内王朝の解析へと向かう意欲的な論考である。
                 もとより、日本の王権制の時間性は、けっして連続的な系譜を連ねているわけではなく、ましてや記紀神話で語られるものが歴史的真実ではない以上、天皇権力の成立という問題は、それ自体絶えず暗渠のなかにあるといっていい。しかし、著者は、記紀における古代歌謡の精緻な解読を通して、暗渠のなかを鮮鋭に切り開こうとしている。
                 「枯野伝承」をめぐっては、次のように論及していく。
                 「(略)枯野船は河内王朝の官船で、その出自は伊豆国軽野である。この官船が淡路の海人の手に渡り、彼ら河内王朝の天皇たちのために淡路島の清水(御食)を紀淡海峡を渡海して運んだ。(略)しかし淡路の海人はいつしか、枯野船は河内国の兔寸河の西に生える巨木から造られたという伝説を作り上げた。(略)海人族の伝えた枯野伝承は、巨木が船・塩・琴へと転生しながら王朝に奉仕し、服属していることを主題にしている。そしてその琴を弾きながら〈枯野琴の歌〉を歌って天皇に服属を誓う者は、淡路の海人族の族長(司祭者)だった。(略)枯野琴と〈枯野琴の歌〉が一組になって服属芸能として宮廷に奉納されると、枯野伝承は王家のものになる。」
                 そして、「枯野伝承」は、「河内王家の統治儀礼とその由来伝承」として記紀へと「歴史化」されたと見做していく。
                 「国栖伝承」においては、「国栖族の生業の基盤である照葉樹の橿の森が冬に衰弱すると、森の新生を図って春を招く祭りがおこなわれ」、族長が、「国栖族伝来の神剣・太刀を腰に吊り佩いてその末を振る」と一同が歌うのが、〈太刀の歌〉の原形であるとして、海人族と同じように、やがて、「服属芸能として宮廷に奉献」され天皇に「祭祀権」が委譲されていったと捉えていく。こうして、河内王朝は、「海上交通の整備のために山人と海人を統括する『山海の政』」を確立していくことになると推論していく。
                 わたしたちは、しばしば、天皇祭儀(特に王権継承祭儀)に関して、農耕儀礼的なるものからの踏襲であることを中心の見立てとするが、著者は河内王朝の地理的な意味を包含させながら、王権継承の位相をダイナミックに拡張している。
                 「そもそも応神記における応神天皇の構想は、国内統治を『山海の政』(山人や海人の支配)と『食国の政』(農耕民の支配)に二分にしてその実務を大山守命と大雀命が担当し、その奏上を天皇が『聞こし看す』(お治めになる)ことであり、次期天皇には宇遅能和紀郎子が即位することだった。(略)『食国の政』の実態が髪長媛伝承で示され、そこでは大雀命が皇位に踏み込む形で天皇の職務を代行している。(略)山海の政の実態が国栖伝承で示され、そこでも大雀命が〈太刀の歌〉で河内王朝の天皇の称号を用いて『品陀の日の御子大雀』を僭称し、御酒を献上させている。このように大雀命は実務担当者の大山守命を差し置いて天皇を僭称し、皇位に向けて大きく前進している。すなわち国栖伝承は、単に国栖族の服属を語るのみならず、山人や海人の服属をも代表して語り、同時に皇位継承争いを語っている。」
                 このように大雀命すなわち後の仁徳天皇の王権継承が、「山海の政」を介して確立していく過程を、本書では明らかにしていくとともに、河内王朝を古代からの連続した継承のなかから分断させて、明確に示したことにもなる。もう少し、わたしなりの視線を向けてみるならば、農耕的なるものに拘泥するあまり、連続性を断絶しようとする試みが、じつは暗渠のなかに陥ってしまうことになるといっていい。だからこそ、そのことを忌避すべき論拠として、著者のように山人と海人という族的共同体との関連で、天皇制における共同性を射程に入れることが、切実であることを、本書から強く感受したと、最後に言い添えておきたい。

                (白地社刊・14.9.15)

                2015.01.18 Sunday

                「あの時代」の大きなうねりが現在を照らし出す

                0
                  陶山幾朗 著『「現代思潮社」という閃光』
                  (「図書新聞」15.1.24号)

                   著者の名前を初めて知ったのは、『シベリアの思想家―内村剛介とソルジェニーツィン』(94年)という著書(当時、わたしは、小さな新刊書店を営んでいて、取次を通さない版元とは、直販のかたちで置いていた)だった。内村剛介に関した単著は、後にも先にもこの一書だけだから、特に、印象深く刻みつけられたといっていい。その後は、内村へのロングインタビュー集や著作集の編者としての著者ということになるが、その間、『SECT6』のメンバーだったことを新装版(09年刊)によって知り、驚いたものだった。そして、本書である。65年から71年まで、現代思潮社に勤務していたことに、再び驚くことになる。
                   わたしは、当然といえばそうなのだが、青春期(六十年代末から七十年代初めにかけて)、現代思潮社からの刊行書を数多く求め、啓発され喚起されていた。当時、大学新聞に関わっていて、掲載していた現代思潮社の広告代は、なぜか、現物支給(本書を読んで、けっして余裕のある経営状態でなかったことを知る)という約束で、何度か、掲載紙を届けがてら、刊行書籍を受け取りに出向いたものだった。いまふり返ってみれば、『コミンテルン・ドキュメント』という高価な本を自分のものにできたことと、本書でも触れられているが、文献堂(早稲田にあった古書店)の主人がバイクで仕入れに来たのと一緒になったことなどを思い出すことができる。
                   著者が、現代思潮社に入社した切っ掛けは、いまはない、「日本読書新聞」の求人広告だったという。当時、松田政男(それ以前は、未来社の編集者だった)が編集部にいたからだが、著者は入社した年にいきなり犹件瓩亡き込まれることになる。それは、社長の石井恭二、松田、山口健二、岩淵五郎(春秋社の編集者)、川仁宏(後、編集長)、笹本雅敬(本書では触れられていないが、66年秋、田無の軍需工場襲撃事件を生起させたベトナム反戦直接行動委員会のリーダー格で、その後、現代思潮社の営業部に勤務している)らが参加していた東京行動戦線による「牋貶皹曚┰个伸畊堝阿、日韓条約反対デモで火焔瓶ならぬ『アンモニア瓶』を機動隊に投げつける程度で終った」事件のことで、「目敏い国家権力」によって家宅捜査を受け、社内は当然のように混乱し、業務に支障をきたしたことを意味する。この事件に象徴されるように、まさしく、書名のごとく現代思潮社は、情況へ絶えず「閃光」を放ち続けていたといっていい。
                   「絢爛とも無骨ともいえるこれらの書目群(註=65年から68年までの出版物の一部)を眺めていると、この頃の現代思潮社が何をしようとしていたのか、何を仕出かそうと企んでいたかが浮かび上がってくるように思う。ここに現出せる観念の宇宙とは、もちろん石井社長が希求し、そして粟津則雄、栗田勇、澁澤龍彦、白井健三郎、出口裕弘、森本和夫といった当時のブレーンらの協力を得て紡ぎだされた空間に違いなかったが、ともかく文学から政治、芸術から歴史にいたる分野において物議を醸すべく一石を投じたいという意欲が先行し、充満している。(略)これをイデオロギー的色彩として見れば、いわゆるロシア十月革命の牘標瓩魑燭Δ箸海蹐卜ち返り、原マルクス主義、反スターリニズム、トロツキズム、アナーキズム、ブランキズムといった思想を貪欲に採り入れるとともに、同時に先端的なフランス思想に逸早く目配りしていく方向性を打ち出していたと言える。」
                   吉本隆明と岩淵五郎について、寺田透との「終わりなき校正」のやりとりをめぐって、共訳をめぐる様々な障壁について、ロープシンの『蒼ざめた馬』、『漆黒の馬』(現代思潮社版は『黒馬を見たり』)の翻訳出版が、晶文社と“バッティング”したことについてなどが、述べられていく。特に、ロープシン本に関していえば、晶文社版の訳者(工藤正廣)とは、当時、個人的に親しくしていたので、製本所が同じだったため、「同時に流通のメカニズムに乗って取次へ」流れていった経緯など、著者でなければ伝えられないことを知って、興味尽きなかった。
                   さらに、内村剛介との通交、谷川雁のこと、川仁宏が受けた三島割腹事件の衝撃と憔悴感を抱いていたこと、著者が退社する切っ掛けとなった現代思潮社闘争についてなど、わたしは、あのころの情況を思い浮かべながら、本書をいっきに、駆け抜けるような気持ちで読みきった。
                   「“正史”を目指すものではなく、わが脳裏に残る断片を断片として書き付けた」、いうなれば「記憶を辿る旅」だと著者は本書の最後を締め括っている。だが、本書で語られる断片の数々は、けっしてたんなる断片ではない。その断片の積み重ねが、わたしに、あの時代の大きなうねりのようなものを思い出させ、それが間違いなく、現在というものを照らし出す契機になっているといいたいと思う。

                  (現代思潮新社刊・14.5.26)

                  2014.09.19 Friday

                  神を一つの「アブラハムの物語」として包括                                 ――アメリカとイギリスというアングロ−サクソン勢力が、なぜかくも長く、いまだに世界の中心でいられるのか、今後も居続けられるのか

                  0
                    ウォルター・ラッセル・ミード 著、寺下滝郎 訳
                    『神と黄金 GOD AND GOLD
                    ――イギリス、アメリカはなぜ近現代世界を支配できたのか(上・下巻)

                    (「図書新聞」14.9.27号)

                     本書は、「歴史にかんする本ではあるが、歴史書ではない」としながら、「世界の歴史にとって大国アメリカが存在する意味について考察している」と著者は述べている。いささかレトリックに満ちた言明に思われるのだが、それは、「われわれは大国アメリカの根源、基盤、影響、永続性について深く考えたことがなく、われわれの特別な世界的地位にともなう主要な責務、リスク、限界、特権、コストにたいする感覚が社会全体として乏しい」という考えが著者にはあるからだ。本書に付された著者の履歴によれば、バード大学(アメリカで最もリベラルな校風を有していると評されていて、ハンナ・アーレントらナチス・ドイツから亡命してきた難民の避難場所を提供したことでも知られている)の外交・人文科学教授である。また、以前、外交問題評議会(CFR)にも所属していた。それをもって、保守本流の考え方が窺えると評している記事を目にしたが、本書を読む限り、見当はずれな捉え方であることがわかる。
                     「神が自由主義者であるということは、イングランド宗教改革以来、英語圏勢力が抱いてきた偉大な確信であったが、もしも歴史が神意を映す鏡であるならば、彼らは正しかった。十六世紀以降すべての世紀においてアングロ‐アメリカ勢力は手ごわい反自由主義の敵対勢力と対決してきたが、世紀が終わるごとにアングロ‐アメリカ勢力とその世界秩序はその世紀の初めより揺るぎないものとなっていた。アングロ‐アメリカ勢力は自由民主主義的資本主義にますます依存するグローバル貿易体制の構築をめざしてきた。彼らの敵はアングロ‐サクソン人の慣行と考えに抵抗し、それらの破壊的影響から自分たちの社会を防護するための壁を築こうとした。だがその壁は必ず崩れる。アングロ‐サクソン人はこのパターンについて、神が、少なくとも自然の力が、そう望んだとおりの道筋を世界が辿ったまでのことだと信じている。」
                     著者が想起する「歴史」は、当然、記述された歴史のことではない。「歴史が神意を映す鏡である」というような、ある意味、歴史的必然といったことに収斂されていくといっていい。それは、神(宗教)をキリスト教や、ユダヤ教、イスラム教と分岐させていくのではなく、ひとつの「アブラハムの物語」として包括させて見通すことを意味する。「アブラハムの物語を確固たるものとしたのが資本主義の物語である」としながら、著者は、次のように述べていく。
                     「多くの伝統的な前資本主義的社会では、歴史はどこか抽象的な観念であった。人びとが自らの生活のなかに変化らしい変化をほとんど感じないとき、アブラハムの大局的な歴史観は自分たちとは縁も所縁もないものであるように思われた。(略)資本主義の登場がそれを変えたのである。歴史はひとの人生にかかわる実体を持つ存在となった。(略)資本主義によって可能となったアブラハム思想の勝利は、歴史上これに匹敵するものが見当たらない。かくも広範囲にわたって、かくも強烈に世界を変えた運動は他に一つもない。」
                     もちろん、このような見立てをわたしたちが肯定するかどうかは、いまここでは問題にはしないつもりだ。少なくとも、著者は社会科学的分析を叙述しようとしているわけではない。既に、著者の中には資本主義という概念は、自由で民主的で開かれた社会という位相が確定しているからだ。それゆえ、政府統治機構(いわば、民衆との権力関係)については、まったくコミットしていないとはいえ、資本主義といわれるシステムが、なぜ多くの国々の社会構造の範となっていったのかを指し示す、ひとつの刺激的な論及であることは間違いない。
                     ところで、本書の大きな眼目は、アメリカとイギリスというアングロ‐サクソン勢力が、なぜかくも長く、いまだに世界の中心で居続けられていたかということであり、今後も、居続けられるのかということである。著者による歴史的視線は、アングロ‐サクソン勢力の源泉を「海洋国家秩序」、「海洋国家システム」という概念で捉えている。例えば、「海洋国家秩序を攻撃から守るうえでの力学と危険性についてもっと深く理解しておけば、ブッシュ政権は九・一一後におかした手痛い過ちのいくつかを避けられたであろう」という。大西洋によって繋がるイギリスとアメリカという強固なアングロ‐サクソン国家体制を海洋国家と称していると見做していいと思うが、ここでもまた暗喩化された概念として捉えるべきである。「一極体制はアングロ‐アメリカ勢力が海洋国家システムの歴史を通じて採用してきた最も理想的な形態でも最も典型的な形態でもないということである。過去を顧みれば、一極世界から新たな世界秩序――多くの国に発言権を認める海洋国家システムと両立しうる世界秩序――への移行は、アングロ‐アメリカ勢力の衰退の現れではなく、むしろ外交の成功と国際情勢の幸福な流れを示している」と述べながら、アジア(主としてインドと中国)との均衡維持と、アラブ世界との親近性の必要を解いていく。
                     「人間の本性に適合した社会は落ち着きのある場所ではなく、永遠に騒々しい社会なのかもしれない。その意味において、資本主義社会の永続革命は、発展と成長を指向する人間の本能的衝動を完全に満たす唯一の人間社会の形態であると言える。」
                     逆説的にいえば、本書は、帝国アメリカに対して〈内〉からの立場で理想のイメージを析出しようとしたものだといっていいかもしれない。だが、わたしたちから見える現実の帝国アメリカの執政者たちの政治的軍事的並びに経済的戦略は、著者の考えとは遠く離れた稚拙で横暴で独善的なものになっているのだ。著者が海洋国家秩序や多極的国際秩序、自由資本主義秩序というように、幻想の秩序へと仮託すればするほど、反秩序を象徴する現実の帝国アメリカの像が、いやおうなく、わたしには想起せざるを得なくなるといっていい。

                    (青灯社刊・上巻14.4.30、下巻5.30)

                    2014.09.06 Saturday

                    単なる大衆娯楽ではなく、時代の真の姿を伝える記録としてのハリウッド映画

                    0
                      曽根田憲三 著『ハリウッド映画でアメリカが読める』
                      (「図書新聞」14.9.13号)

                       アメリカの社会や文化を象徴するものとして、わたしなら、映画とベースボール(考えてみればベースボールをモチーフにした映画作品も数多く作られている)を挙げてみたくなる。今年はサッカーのワールドカップ開催年ということもあり、大いに盛り上がっているようだが、わたしは、ニューヨーク・ヤンキースやテキサス・レンジャーズの試合を中心に、ひたすら、メジャーリーグ中継を見ている。そういえば、アメリカを「帝国」と見做すように、ヤンキースも「悪の帝国」と揶揄されるほど強い時期があった。わたしは、アメリカという国に好感を抱いてきたわけではないが、ハリウッド映画(わたしのベストワン監督は、ロバート・アルトマンである)はそれなりに見てきた。だが、映画を一番多く見ていた20歳前後の頃は、どちらかといえば、ヨーロッパ映画の方が好きだったし、見る作品としては、日本映画(その後はアジア映画にも魅せられていった)が圧倒的に多かったといえる。
                       本書は、「黒人」、「女性」、「犯罪」、「西部劇」、「SF」、「怪奇」、「ミュージカル」といったキーワードによって、ハリウッド映画を、「単なる大衆のための娯楽ではなく、その時代の真の姿を笑いや涙とともに映像で伝える極めて重要な文学であり、現実の偽らざる記録である」と捉えて、その分析を通し、アメリカという国家、社会の実相を浮き彫りにしている。最初にテクストとなる、「黒人」や「女性」をめぐる映画作品は、ある意味、アメリカという国家の暗渠を示唆していくものとなっている。トーマス・ジェファーソンが起草したという、“全ての人間は平等”であることを高らかに謳った1776年のアメリカの独立宣言をもって、世界に先駆けた民主主義国家が誕生したとされているが、それは、明らかな虚妄だといっていい。参政権だけを取り出してみれば、一部の特権階級だけに認められていたものを、とりあえず男性全般に容認されたのは、それから百年後の1870年だった。女性に対しては、五十年後の1920年、黒人に関しては、1965年で、まだ五十年も経っていないのだ。
                       「一九六〇年代の人種問題に関する特徴の一つは、それに対する大衆の態度の変化の速度である。映画業界は六〇年代半ばまではそのリズムと歩調を合わせていたが、ジョンソン政権(1963-69)の時代になるとスピード感覚を失って、大衆の心を掴み損なってしまったかのように見える。(略)一九六〇年代が終わり、七〇年代に突入すると、大学キャンパスの占拠や反戦デモ、黒人たちの公民権運動、フェニミズムの台頭などで騒然としていた社会は次第に落ち着きを取り戻し、数年のうちに社会全体のムードがドラマチックに変わっていくのである。」
                       その後、現在に至って、思いつくままに黒人監督、俳優たちを挙げれば、スパイク・リー、デンゼル・ワシントン、サミュエル・ジャクソン、ハル・ベリーとなり、いまやハリウッドを席巻しているといってもいい。
                       レディー・ファーストなどという習慣は、男性優位の裏返しだと思うが、映画における「女性」に対する視線も、そのことを象徴していたといえよう。著者は、フィルム・ノワール(探偵映画や犯罪映画を総称していわれているが、もっと、広義に捉えてもいいと思う。わたしなら、アンチ・ハッピー映画といいたい)の台頭によって、女優が演ずる「男性の主人公に従順で魅力的な恋人、良き妻あるいは母親」像が壊れっていったと評価し、次のように述べていく。
                       「ハリウッドのクラシック映画におけるロマンスの公式を破壊することにより、フィルム・ノワールは我々のイマジネーションを掻き立てる結婚神話を崩壊させ、伝統的な制度に疑問を投げかけた。」
                       戦後のハリウッドの中心にあったのは、ミュージカル映画だったと思うが、それに代わってSF映画が台頭していったことは、アメリカの現在を象徴していると、わたしは思う。著者は、五〇年代の作品は、「偏執病的と表現されるように、(略)描かれた世界は恐怖に縁どられた、陰うつな雰囲気が漂う息苦しいものだった」という。これは、「四〇年代後半からアメリカ全土に吹き荒れた共産主義者への脅威と憎しみが象徴しているように、冷戦構造の中でアメリカと対峙していた共産主義社会のリーダーたるソ連」に対する「猜疑心や警戒心から生まれた度重なる核実験への大衆の不安や恐怖」に満ち溢れていたからだということになる。やがて、冷戦構造が終焉し、アメリカ的グローバリズムが席巻していくとスターウォーズシリーズ(最初に公開された三部作は評価するが、それ以降のものは、まるでアメリカ帝国主義史のようで共感できない)のようなものが、中心になっている。『ブレードランナー』や『カプリコン・1』、『猿の惑星』(続編やリメイク版に関心はない)のような作品は作られることは、もうないのだろうかと、懸念をいだくのは、わたしだけではないと思う。

                      (開文社出版刊・14.3.10)


                           

                      << | 3/17PAGES | >>