佐藤忠男 著『独学でよかった――読書と私の人生』
(「図書新聞」15.5.30号)

 本書は、映画評論家・佐藤忠男(1930〜)が自伝的に読書遍歴を綴ったものだ。
わたしは、七〇年前後、日本映画に関していえば、東映任俠映画(遡って幾つかの股旅映画作品も含む)を中心にして、かなりの本数を観ていた。監督でいえば、加藤泰、鈴木清順(日活)ということになる。自分が共感を持って観ている監督とその作品がどのように評価されているのかということを必然的に知りたくなり、映画雑誌を手に取り、そのなかで佐藤忠男を知ったことになる。例えば、1970年度の『映画評論』誌、日本映画ベストテンで佐藤は、一位を『エロス+虐殺』(吉田喜重)、以下、『戦争と人間』(山本薩夫)、『無常』(実相寺昭雄)、そして四位に加藤泰の『緋牡丹博徒 お竜参上』を挙げている。ちなみに五位は『日本解放戦線・三里塚』(小川紳介)である。わたしなら忌避したい山本作品に高い評価を与えながらも、『お竜参上』や『三里塚』へも評価の視線を向ける佐藤の映画観にわたしは、不思議な感慨を抱いたものだったが、後に、幅をもって横断させていくのが佐藤忠男の映画的視線であることを理解していったといっていい。八〇年代、わたしは、台湾映画を中心にアジア映画と括られる作品群を熱心に観ていたが、これは佐藤忠男に誘われたからだと付言しておきたい。
 ところで、本書の表題の「独学」には、あるイメージがいやおうなく付いている。つまり、著者が述べるように、「独学と苦学はほぼ同じ意味で使われていた言葉だった」からだ。
 「私は苦しんで勉強したことは一度もありません、電気工や電話機修理工として働きながら本を読んだり論文を書いたりしていただけで、アルバイトもしていないし、徹夜で受験勉強をするというような苦しい勉強の経験もありません。」
 つまり、「好きなことを好きなように」、読書や研究をしていたということになる。それは、自分の興味や関心があることにたいし、確信しながら進んでいっただけなのだといいかえてもいいかもしれない。著者が少年期の頃は、戦前時だったから読むものがけっして豊饒にあったわけではない。それにもかかわらず、貸本屋から借りて「少年倶楽部」系の小説を熱心に読んでいたという。やがて敗戦後の青年期を迎えると多くの本とともに、戯曲集、そして映画の面白さに惹かれていく。
 「映画を深く考えるためには、映画に描かれた社会や人間を理解する必要があると思うようになり、社会学や心理学や歴史の本も読むようになり、また、映画の芸術としての側面を考えようと思って、芸術学や美学、記号論、などの本を読んだ。」
 二十歳前後のことである。関心というものは、様々に繋がり広がっていくことで、それぞれのことが、さらに深く理解できるようになるものなのだ。まさしく独学的読書遍歴のそれが核心であると思う。無意識の中で醸成されていく「知の広がり」は、意識的に上昇志向のようなかたちで受容していくよりは、はるかに血肉なっていくものなのだといいたい気がする。
 やがて、「キネマ旬報」や「映画評論」といった映画誌に投稿していくなかで、「思想の科学」という雑誌を知る。そして、「四十枚余りの『任俠について』という論文を書いて送」り、採用される。それは、鶴見俊輔との出会いという大きな契機であったとともに、「文章で身を立て」ることへの始まりとなっていく。
 著者の仕事は、いうまでもなく映画以外の幅広い領域に渡っているが、やはり映画に関しての著者の視線は、わたしを啓発してくれるものだ。
 「はじめて見たときから私はこの映画に大きな違和感も持っていた。侍たち七人が、それぞれ程度の差はあっても、すごい大人物、驚くべき勇士、立派な男、少なくともいい男として個性的に描き分けられているのに、百人ほどもいる百姓のほうはもう、長老がちょっと風格と分別のある知恵者であり、若者のひとりに妻を野伏せりたちに拉致されていることから血気にはやりがちな男がいる以外は、おしなべてみんな、なにをしていいか分からなくて右往左往している。」「侍たちの指導が良くて百姓たちはよく組織されて集団で戦えるようになるのだが、しかしそんなはずはないのではないか。侍がそんなに立派で百姓はみんな武器の扱いひとつ知らないというのはおかしいのではないか。(略)日本の時代劇の歩みのほぼ全体に一貫してきた偏見が生み出した歪みではないか。そう思ったのである。」
 「この映画」とは、黒澤明の『七人の侍』のことである。オールタイム日本映画ベストテンなどで、必ず一位に選ばれる作品だが、わたしも、著者と同じくこの作品を評価しない。ラストの場面で志村喬に「勝ったのはあの百姓たちだ」と語らせることに、空々しさしか感じられなかった。だからこそ、佐藤忠男の映画的視線を、この『七人の侍』へ向けた評言で、充分象徴できるはずだ。

(三交社・発売 中日映画社・発行 14.11.29)

有馬 学、マイケル・ピアソン、福本 寛、田中直樹、
菊畑茂久馬 著『山本作兵衛と日本の近代』
コロナ・ブックス編集部 編『山本作兵衛と炭鉱の記録』
(「図書新聞」15.5.9号)

 山本作兵衛(1892〜1984)は、福岡県で生まれる。父が炭坑夫であったため、「入坑する父母を手伝い、家族ともどもヤマを転々と」し、「高等小学校への進学をあきらめ」炭坑夫となり、以後、筑豊の炭鉱で炭坑夫や鍛冶工で働き続けた。55年、閉山で解雇された後、資材警備員や宿直員をしながら、「子孫に炭鉱の姿を描き残すため」絵筆を取るようになり、「亡くなるまでに残した記録画は一〇〇〇点を超えると言われ」ている。そして、筑豊の炭鉱の歴史を絵筆によって伝える貴重な記録として「田川市と福岡県立大学が所蔵する記録画五八九点、日記や雑記帳など計六九七点が、二〇一一」年に、国内では初の「ユネスコ世界記憶遺産に登録され」(『山本作兵衛と炭鉱の記録』、以下、『炭鉱の記録』と記し、『山本作兵衛と日本の近代』は、『日本の近代』とする)る。
 石炭産業は、一八世紀、イギリスの産業革命の勃興とともに大きな役割を担うことになる。しかし、その後、石油エネルギーによって、その位置は大きく後退していく。59〜60年にかけての三池争議に象徴されるように、石炭産業の経営悪化が人員整理などの合理化を進めていくなかで、炭鉱の閉山が加速されていった。その結果、炭鉱によって支えられてきた市町村が、閉山によって、行政体として立ちいかなくなるという事態を招来していった。日本の炭鉱は地層構造的に過酷な工事を強いられるため、その労働条件は、極めて劣悪であった。軍事大国として欧米諸国と対峙していく基盤形成のためにも石炭産業は大きな意義を持っていたわけだが、同時に、そこで働く多くの人々に経済的保障を与えていたことは、確かなことでもある。だからこそ、作兵衛の記録画というのは、働く人々の姿が直截に写し出されているとともに、炭鉱が位置付けられてきた歴史をも投影されていると見做されてきたといっていい。
 「山本作兵衛さんの絵画が非常に幅広い対象を描き、それが炭坑夫の共同体の世界を描いている点に私は非常に感銘を受けています。外部の人間がよそ者の目で見たのではなく、炭坑夫という、その直接の体験をした人間が描いているところがすばらしいわけですが、決して過去を美化するような描き方ではありません。いいことも悪いことも全部含めて描いています。そして私の目から見ても、筑豊の現在の共同体の人々が持っている率直な気質、足が地に着いた生き方や非常に我慢強い性格、そういったものも含めて描かれていると思います。現在も筑豊の人たちが誇りに思っているようなものを表しているのが山本作兵衛さんの絵であり、その物的な証拠になっているのではないかと思います。」(マイケル・ピアソン「山本作兵衛―世界記憶遺産と世界遺産をつなぐもの」―『日本の近代』)
 『炭鉱の記録』には、作兵衛の「絵」を中心に、炭鉱労働経験者による「内」からの作品と画家が描いた「外」から作品、そして、「写真」や「ポスター」など、炭鉱をめぐる多彩な表現が収載されている。原田大鳳の「絵巻」は、過酷な労働という雰囲気は感じられず、どこか郷愁感のようなものが横断している。山近剛太郎の「絵」は、鋭い筆致と暗い色彩が、ある種のリアリズムを醸し出しているが、モチーフと描き手との距離感を見ないわけにはいかない。作兵衛の「絵」は、けっして巧さを感じさせるわけではないが、ナイーブな描線と描かれた人々の表情の画一性に記録するという強い意志が漂っていて、それが、深い感銘を与えることになる。ピアソンが指摘するように、共同体への共鳴が作兵衛の中に絵を描くときに湧き上がってくるからではないかと思えてくる。
 「かつて、負の遺産でしかなかった(略)エネルギー革命による石炭産業の崩壊以後、あるいはそれ以前についてでも、暴力的な支配、あるいは極端な労働者への抑圧、そういったものを中心に筑豊を語る語り方というのがあったと思います。そういうかつて負の遺産でしかなかった石炭や炭鉱に対して、新たな視線、まなざしというものが、近年現われてきているような気がします。」「私はそこに作兵衛さんの絵の特徴としての『肯定』ということを見たいんですね。作兵衛さんの絵は菊畑(引用者註=上野英信とともに一早く評価し、山本作兵衛の一番弟子を自称する美術家・菊畑茂久馬)さんが早くに指摘されたように、(略)筑豊がもう根底から解体されていく真っ只中で、その現場で描かれた。つまり作兵衛さんにとっては、まさに負の遺産を目の前に置かれたような状況で描かれたんですね。作兵衛さんの絵にはそうした事情に対する怒りや告発、あるいは悲しみやあきらめといった感覚とは違うところがあるように思えてなりません。それを私は、負の遺産に向けた、すべてを了解したうえで包み込む『肯定』のまなざし、というふうに考えてみたいわけです。」(有馬学「結びにかえて――〈方法〉としての山本作兵衛」―『日本の近代』)
 ここでいう、「肯定」のまなざしは、自分が生きてきたことへの「肯定」ということに他ならないと思う。作兵衛の「絵」は、親たちや自分、仲間たちが炭坑夫として筑豊という共同体の中で生きてきたことへの「肯定」のまなざしがあるから、「記録」を越えた表現として、わたしたちの感性を突き動かすのだといっていいはずだ。

『山本作兵衛と日本の近代』(弦書房・14.8.8刊)
『山本作兵衛と炭鉱の記録』(平凡社・14.12.19刊)

真島一郎・川村伸秀 編『山口昌男 人類学的思考の沃野』
(「図書新聞」15.2.28号)

 山口昌男(1931〜2013)の仕事を望見してみると、実に多様多彩に満ちているといっていいだろう。つまり、山口を文化人類学者と見做した途端、そこからはみ出した仕事の方が遥かに多いことに気づくからだ。本書の編者・真島一郎は、「一九八〇年代の記事のタイトルに示された」、「文化人類学者の仕事とは遊びであり、大学の外にこそ知の愉しみがある」という「表現ほど、フィールドにのぞむさいの山口の姿を彷彿とさせるものはない」と記している。確かに、「遊び」という視線を拡張させるならば、既成のアカデミズムという秩序を逸脱する山口の像が、連結されていくわけだが、実は、その「遊び」という概念は、わたしたちにとっては、一筋縄でいかない茫漠したものだといいたい気がする。本書で、妻である山口ふさ子へのインタビューがあって、次のような箇所に出会うと、「遊び」というのは、あくまでも山口昌男の独自の思考のかたち(ふさ子は「主義」と捉えている)なのではないかと思ってしまう。
 「主人とくだらない話はずいぶんたくさんしましたが、結局、自分の関心以外は興味を示さない人でした。ひとつ、主義としてあったのは、遊ぶことが好きということです。自分がどんなにつらい思いをして働いていても、あるいは調査をしていても『遊び』と思っていたようです。私が『掃除ばかりして嫌だ』というような愚痴をこぼすと、『お前、嫌だと思うことはやらなくていいんだよ。楽しいと思うことだけやれ、どうしてもしなくちゃいけないことを楽しいと思え』と言われたことがありました。結婚してすぐのころです。」
 自分も手伝うよといわず、「嫌だと思うことはやらなくていい」といいきるところが、山口らしい矜持なのだろう。
 わたしは、68年末に出された吉本隆明の『共同幻想論』にリアルタイムで接し衝撃を受け、深く共感性を漂わせていたのだが、翌年の一月から三月にかけて連載書評として『共同幻想論』批判を展開していたのが、わたしにとって、まったく未知の山口昌男との出会いだった(二冊の翻訳書以外、まだ山口の著書は刊行されていなかった)。当時、ためにする批判は吉本に対してよくあるかたちだったが、山口の場合は、異色で、首肯できるできないという感性を払拭させて、なにか不思議な魅力を感じさせ、もう少し、批判の位相を広げるかたちで考えを聞いてみたいと思わずにはいられなかったと、いま記憶を辿れば、そのようないい方になる。
 わたしは、山口昌男に関心を持ち、断続的にではあるが関心を抱き続けてきたのは、やはり王権論にある。手法は大きく異なるかもしれないが、天皇制(あるいは権力)の暗渠を切開するというモチーフにおいては、山口と吉本には、幾つも重なる層を見出すことができると思ってきたからだ。
 「(略)権力というのは中心とともに周縁をつくりだす装置でしょう。(略)中心としての権力に向かう権力志向もあるし、それと反対の極に向かう権力志向もあると思うんです。そういうように権力というものは非常に把みどころのないものである。だから権力は人をとらえて離さないんじゃないか。(略)実証的な話ではありませんが、権力をどのようなものとして読み取るかということについて非常に面白かったのは、白土三平の『カムイ伝』ですね。(略)権力が権力の外にあるものと潜在的に繋がっているということに触れたという点でも『カムイ伝』はすごい。」(「権力のコスモロジー」)
 山口ならではのフィールドの拡張が、ここには象徴化されていると思う。『カムイ伝』に対する見方も、まったく同感だ。
 さて、本書は、二〇一三年六月に開かれた「山口昌男追悼AA研シンポジウム 人類学的思考の沃野」を契機として編まれた論集である。追悼シンポジウムの発言(青木保、渡辺公三、今福龍太他)を収録するとともに、あらたに、山口昌男論(中沢新一、前田耕作、東ゆみこ、宇波彰他)、山口のスケッチや風景画、写真も掲載し、さらに再録作品三篇、書評を通した山口昌男入門、学術研究の記録、河村伸秀による詳細な「年譜・著作目録」などで構成されている。多くの視点を通して、山口昌男という〈像〉が、鮮やかに描かれていく。
 「山口昌男という人が、現実的にも非常に旺盛な活力あるフィールドワーカーであったことは間違いないと思います。しかし、山口昌男とフィールドを語ろうとすると、『フィールド』という言葉を、ある意味で比喩的な言葉、あるいは少なくとも人類学におけるフィールドワークの『フィールド』という表面的な言葉を越えた概念として捉え直さないと、山口昌男のフィールドという問題の本質は見えてきません。」(今福龍太)、「『道化の民俗学』への正当な評価の欠如は、山口昌男の学問全体への誤解や理解の不充分さを示していると私には思われる。(略)『道化の民俗学』を単なる道化論のアンソロジーと受け取ってはならない。山口があらゆる事象を探究する上での基軸とし、パースペクティヴの転換の問題に対する実践的な試みを行った、山口の学問のおいては、『文化と両義性』と双璧をなす重要な書物なのである。」(東ゆみこ)
 ここには、いまだ、山口昌男の仕事が、動態的であることを示している。山口昌男が、かつて知的流行の先端にいたかのように見做されていた幻像から、いまだからこそ、あらたに、鮮鋭さを胚胎している像へと再生させていくことを本論集は宣している。

(東京外国語大学出版会・14.10.31刊)

畠山 篤 著『河内王朝の山海の政―枯野琴と国栖奏
(「図書新聞」15.2.21号)

 本書は、記紀神話のなかの、応神天皇の条で伝えられている「国栖伝承」と、『古事記』のなかの仁徳天皇の条並びに、『日本書紀』の応神天皇の条で伝えられている「枯野伝承」をテクストにして、河内王朝の解析へと向かう意欲的な論考である。
 もとより、日本の王権制の時間性は、けっして連続的な系譜を連ねているわけではなく、ましてや記紀神話で語られるものが歴史的真実ではない以上、天皇権力の成立という問題は、それ自体絶えず暗渠のなかにあるといっていい。しかし、著者は、記紀における古代歌謡の精緻な解読を通して、暗渠のなかを鮮鋭に切り開こうとしている。
 「枯野伝承」をめぐっては、次のように論及していく。
 「(略)枯野船は河内王朝の官船で、その出自は伊豆国軽野である。この官船が淡路の海人の手に渡り、彼ら河内王朝の天皇たちのために淡路島の清水(御食)を紀淡海峡を渡海して運んだ。(略)しかし淡路の海人はいつしか、枯野船は河内国の兔寸河の西に生える巨木から造られたという伝説を作り上げた。(略)海人族の伝えた枯野伝承は、巨木が船・塩・琴へと転生しながら王朝に奉仕し、服属していることを主題にしている。そしてその琴を弾きながら〈枯野琴の歌〉を歌って天皇に服属を誓う者は、淡路の海人族の族長(司祭者)だった。(略)枯野琴と〈枯野琴の歌〉が一組になって服属芸能として宮廷に奉納されると、枯野伝承は王家のものになる。」
 そして、「枯野伝承」は、「河内王家の統治儀礼とその由来伝承」として記紀へと「歴史化」されたと見做していく。
 「国栖伝承」においては、「国栖族の生業の基盤である照葉樹の橿の森が冬に衰弱すると、森の新生を図って春を招く祭りがおこなわれ」、族長が、「国栖族伝来の神剣・太刀を腰に吊り佩いてその末を振る」と一同が歌うのが、〈太刀の歌〉の原形であるとして、海人族と同じように、やがて、「服属芸能として宮廷に奉献」され天皇に「祭祀権」が委譲されていったと捉えていく。こうして、河内王朝は、「海上交通の整備のために山人と海人を統括する『山海の政』」を確立していくことになると推論していく。
 わたしたちは、しばしば、天皇祭儀(特に王権継承祭儀)に関して、農耕儀礼的なるものからの踏襲であることを中心の見立てとするが、著者は河内王朝の地理的な意味を包含させながら、王権継承の位相をダイナミックに拡張している。
 「そもそも応神記における応神天皇の構想は、国内統治を『山海の政』(山人や海人の支配)と『食国の政』(農耕民の支配)に二分にしてその実務を大山守命と大雀命が担当し、その奏上を天皇が『聞こし看す』(お治めになる)ことであり、次期天皇には宇遅能和紀郎子が即位することだった。(略)『食国の政』の実態が髪長媛伝承で示され、そこでは大雀命が皇位に踏み込む形で天皇の職務を代行している。(略)山海の政の実態が国栖伝承で示され、そこでも大雀命が〈太刀の歌〉で河内王朝の天皇の称号を用いて『品陀の日の御子大雀』を僭称し、御酒を献上させている。このように大雀命は実務担当者の大山守命を差し置いて天皇を僭称し、皇位に向けて大きく前進している。すなわち国栖伝承は、単に国栖族の服属を語るのみならず、山人や海人の服属をも代表して語り、同時に皇位継承争いを語っている。」
 このように大雀命すなわち後の仁徳天皇の王権継承が、「山海の政」を介して確立していく過程を、本書では明らかにしていくとともに、河内王朝を古代からの連続した継承のなかから分断させて、明確に示したことにもなる。もう少し、わたしなりの視線を向けてみるならば、農耕的なるものに拘泥するあまり、連続性を断絶しようとする試みが、じつは暗渠のなかに陥ってしまうことになるといっていい。だからこそ、そのことを忌避すべき論拠として、著者のように山人と海人という族的共同体との関連で、天皇制における共同性を射程に入れることが、切実であることを、本書から強く感受したと、最後に言い添えておきたい。

(白地社刊・14.9.15)

陶山幾朗 著『「現代思潮社」という閃光』
(「図書新聞」15.1.24号)

 著者の名前を初めて知ったのは、『シベリアの思想家―内村剛介とソルジェニーツィン』(94年)という著書(当時、わたしは、小さな新刊書店を営んでいて、取次を通さない版元とは、直販のかたちで置いていた)だった。内村剛介に関した単著は、後にも先にもこの一書だけだから、特に、印象深く刻みつけられたといっていい。その後は、内村へのロングインタビュー集や著作集の編者としての著者ということになるが、その間、『SECT6』のメンバーだったことを新装版(09年刊)によって知り、驚いたものだった。そして、本書である。65年から71年まで、現代思潮社に勤務していたことに、再び驚くことになる。
 わたしは、当然といえばそうなのだが、青春期(六十年代末から七十年代初めにかけて)、現代思潮社からの刊行書を数多く求め、啓発され喚起されていた。当時、大学新聞に関わっていて、掲載していた現代思潮社の広告代は、なぜか、現物支給(本書を読んで、けっして余裕のある経営状態でなかったことを知る)という約束で、何度か、掲載紙を届けがてら、刊行書籍を受け取りに出向いたものだった。いまふり返ってみれば、『コミンテルン・ドキュメント』という高価な本を自分のものにできたことと、本書でも触れられているが、文献堂(早稲田にあった古書店)の主人がバイクで仕入れに来たのと一緒になったことなどを思い出すことができる。
 著者が、現代思潮社に入社した切っ掛けは、いまはない、「日本読書新聞」の求人広告だったという。当時、松田政男(それ以前は、未来社の編集者だった)が編集部にいたからだが、著者は入社した年にいきなり犹件瓩亡き込まれることになる。それは、社長の石井恭二、松田、山口健二、岩淵五郎(春秋社の編集者)、川仁宏(後、編集長)、笹本雅敬(本書では触れられていないが、66年秋、田無の軍需工場襲撃事件を生起させたベトナム反戦直接行動委員会のリーダー格で、その後、現代思潮社の営業部に勤務している)らが参加していた東京行動戦線による「牋貶皹曚┰个伸畊堝阿、日韓条約反対デモで火焔瓶ならぬ『アンモニア瓶』を機動隊に投げつける程度で終った」事件のことで、「目敏い国家権力」によって家宅捜査を受け、社内は当然のように混乱し、業務に支障をきたしたことを意味する。この事件に象徴されるように、まさしく、書名のごとく現代思潮社は、情況へ絶えず「閃光」を放ち続けていたといっていい。
 「絢爛とも無骨ともいえるこれらの書目群(註=65年から68年までの出版物の一部)を眺めていると、この頃の現代思潮社が何をしようとしていたのか、何を仕出かそうと企んでいたかが浮かび上がってくるように思う。ここに現出せる観念の宇宙とは、もちろん石井社長が希求し、そして粟津則雄、栗田勇、澁澤龍彦、白井健三郎、出口裕弘、森本和夫といった当時のブレーンらの協力を得て紡ぎだされた空間に違いなかったが、ともかく文学から政治、芸術から歴史にいたる分野において物議を醸すべく一石を投じたいという意欲が先行し、充満している。(略)これをイデオロギー的色彩として見れば、いわゆるロシア十月革命の牘標瓩魑燭Δ箸海蹐卜ち返り、原マルクス主義、反スターリニズム、トロツキズム、アナーキズム、ブランキズムといった思想を貪欲に採り入れるとともに、同時に先端的なフランス思想に逸早く目配りしていく方向性を打ち出していたと言える。」
 吉本隆明と岩淵五郎について、寺田透との「終わりなき校正」のやりとりをめぐって、共訳をめぐる様々な障壁について、ロープシンの『蒼ざめた馬』、『漆黒の馬』(現代思潮社版は『黒馬を見たり』)の翻訳出版が、晶文社と“バッティング”したことについてなどが、述べられていく。特に、ロープシン本に関していえば、晶文社版の訳者(工藤正廣)とは、当時、個人的に親しくしていたので、製本所が同じだったため、「同時に流通のメカニズムに乗って取次へ」流れていった経緯など、著者でなければ伝えられないことを知って、興味尽きなかった。
 さらに、内村剛介との通交、谷川雁のこと、川仁宏が受けた三島割腹事件の衝撃と憔悴感を抱いていたこと、著者が退社する切っ掛けとなった現代思潮社闘争についてなど、わたしは、あのころの情況を思い浮かべながら、本書をいっきに、駆け抜けるような気持ちで読みきった。
 「“正史”を目指すものではなく、わが脳裏に残る断片を断片として書き付けた」、いうなれば「記憶を辿る旅」だと著者は本書の最後を締め括っている。だが、本書で語られる断片の数々は、けっしてたんなる断片ではない。その断片の積み重ねが、わたしに、あの時代の大きなうねりのようなものを思い出させ、それが間違いなく、現在というものを照らし出す契機になっているといいたいと思う。

(現代思潮新社刊・14.5.26)

ウォルター・ラッセル・ミード 著、寺下滝郎 訳
『神と黄金 GOD AND GOLD
――イギリス、アメリカはなぜ近現代世界を支配できたのか(上・下巻)

(「図書新聞」14.9.27号)

 本書は、「歴史にかんする本ではあるが、歴史書ではない」としながら、「世界の歴史にとって大国アメリカが存在する意味について考察している」と著者は述べている。いささかレトリックに満ちた言明に思われるのだが、それは、「われわれは大国アメリカの根源、基盤、影響、永続性について深く考えたことがなく、われわれの特別な世界的地位にともなう主要な責務、リスク、限界、特権、コストにたいする感覚が社会全体として乏しい」という考えが著者にはあるからだ。本書に付された著者の履歴によれば、バード大学(アメリカで最もリベラルな校風を有していると評されていて、ハンナ・アーレントらナチス・ドイツから亡命してきた難民の避難場所を提供したことでも知られている)の外交・人文科学教授である。また、以前、外交問題評議会(CFR)にも所属していた。それをもって、保守本流の考え方が窺えると評している記事を目にしたが、本書を読む限り、見当はずれな捉え方であることがわかる。
 「神が自由主義者であるということは、イングランド宗教改革以来、英語圏勢力が抱いてきた偉大な確信であったが、もしも歴史が神意を映す鏡であるならば、彼らは正しかった。十六世紀以降すべての世紀においてアングロ‐アメリカ勢力は手ごわい反自由主義の敵対勢力と対決してきたが、世紀が終わるごとにアングロ‐アメリカ勢力とその世界秩序はその世紀の初めより揺るぎないものとなっていた。アングロ‐アメリカ勢力は自由民主主義的資本主義にますます依存するグローバル貿易体制の構築をめざしてきた。彼らの敵はアングロ‐サクソン人の慣行と考えに抵抗し、それらの破壊的影響から自分たちの社会を防護するための壁を築こうとした。だがその壁は必ず崩れる。アングロ‐サクソン人はこのパターンについて、神が、少なくとも自然の力が、そう望んだとおりの道筋を世界が辿ったまでのことだと信じている。」
 著者が想起する「歴史」は、当然、記述された歴史のことではない。「歴史が神意を映す鏡である」というような、ある意味、歴史的必然といったことに収斂されていくといっていい。それは、神(宗教)をキリスト教や、ユダヤ教、イスラム教と分岐させていくのではなく、ひとつの「アブラハムの物語」として包括させて見通すことを意味する。「アブラハムの物語を確固たるものとしたのが資本主義の物語である」としながら、著者は、次のように述べていく。
 「多くの伝統的な前資本主義的社会では、歴史はどこか抽象的な観念であった。人びとが自らの生活のなかに変化らしい変化をほとんど感じないとき、アブラハムの大局的な歴史観は自分たちとは縁も所縁もないものであるように思われた。(略)資本主義の登場がそれを変えたのである。歴史はひとの人生にかかわる実体を持つ存在となった。(略)資本主義によって可能となったアブラハム思想の勝利は、歴史上これに匹敵するものが見当たらない。かくも広範囲にわたって、かくも強烈に世界を変えた運動は他に一つもない。」
 もちろん、このような見立てをわたしたちが肯定するかどうかは、いまここでは問題にはしないつもりだ。少なくとも、著者は社会科学的分析を叙述しようとしているわけではない。既に、著者の中には資本主義という概念は、自由で民主的で開かれた社会という位相が確定しているからだ。それゆえ、政府統治機構(いわば、民衆との権力関係)については、まったくコミットしていないとはいえ、資本主義といわれるシステムが、なぜ多くの国々の社会構造の範となっていったのかを指し示す、ひとつの刺激的な論及であることは間違いない。
 ところで、本書の大きな眼目は、アメリカとイギリスというアングロ‐サクソン勢力が、なぜかくも長く、いまだに世界の中心で居続けられていたかということであり、今後も、居続けられるのかということである。著者による歴史的視線は、アングロ‐サクソン勢力の源泉を「海洋国家秩序」、「海洋国家システム」という概念で捉えている。例えば、「海洋国家秩序を攻撃から守るうえでの力学と危険性についてもっと深く理解しておけば、ブッシュ政権は九・一一後におかした手痛い過ちのいくつかを避けられたであろう」という。大西洋によって繋がるイギリスとアメリカという強固なアングロ‐サクソン国家体制を海洋国家と称していると見做していいと思うが、ここでもまた暗喩化された概念として捉えるべきである。「一極体制はアングロ‐アメリカ勢力が海洋国家システムの歴史を通じて採用してきた最も理想的な形態でも最も典型的な形態でもないということである。過去を顧みれば、一極世界から新たな世界秩序――多くの国に発言権を認める海洋国家システムと両立しうる世界秩序――への移行は、アングロ‐アメリカ勢力の衰退の現れではなく、むしろ外交の成功と国際情勢の幸福な流れを示している」と述べながら、アジア(主としてインドと中国)との均衡維持と、アラブ世界との親近性の必要を解いていく。
 「人間の本性に適合した社会は落ち着きのある場所ではなく、永遠に騒々しい社会なのかもしれない。その意味において、資本主義社会の永続革命は、発展と成長を指向する人間の本能的衝動を完全に満たす唯一の人間社会の形態であると言える。」
 逆説的にいえば、本書は、帝国アメリカに対して〈内〉からの立場で理想のイメージを析出しようとしたものだといっていいかもしれない。だが、わたしたちから見える現実の帝国アメリカの執政者たちの政治的軍事的並びに経済的戦略は、著者の考えとは遠く離れた稚拙で横暴で独善的なものになっているのだ。著者が海洋国家秩序や多極的国際秩序、自由資本主義秩序というように、幻想の秩序へと仮託すればするほど、反秩序を象徴する現実の帝国アメリカの像が、いやおうなく、わたしには想起せざるを得なくなるといっていい。

(青灯社刊・上巻14.4.30、下巻5.30)

曽根田憲三 著『ハリウッド映画でアメリカが読める』
(「図書新聞」14.9.13号)

 アメリカの社会や文化を象徴するものとして、わたしなら、映画とベースボール(考えてみればベースボールをモチーフにした映画作品も数多く作られている)を挙げてみたくなる。今年はサッカーのワールドカップ開催年ということもあり、大いに盛り上がっているようだが、わたしは、ニューヨーク・ヤンキースやテキサス・レンジャーズの試合を中心に、ひたすら、メジャーリーグ中継を見ている。そういえば、アメリカを「帝国」と見做すように、ヤンキースも「悪の帝国」と揶揄されるほど強い時期があった。わたしは、アメリカという国に好感を抱いてきたわけではないが、ハリウッド映画(わたしのベストワン監督は、ロバート・アルトマンである)はそれなりに見てきた。だが、映画を一番多く見ていた20歳前後の頃は、どちらかといえば、ヨーロッパ映画の方が好きだったし、見る作品としては、日本映画(その後はアジア映画にも魅せられていった)が圧倒的に多かったといえる。
 本書は、「黒人」、「女性」、「犯罪」、「西部劇」、「SF」、「怪奇」、「ミュージカル」といったキーワードによって、ハリウッド映画を、「単なる大衆のための娯楽ではなく、その時代の真の姿を笑いや涙とともに映像で伝える極めて重要な文学であり、現実の偽らざる記録である」と捉えて、その分析を通し、アメリカという国家、社会の実相を浮き彫りにしている。最初にテクストとなる、「黒人」や「女性」をめぐる映画作品は、ある意味、アメリカという国家の暗渠を示唆していくものとなっている。トーマス・ジェファーソンが起草したという、“全ての人間は平等”であることを高らかに謳った1776年のアメリカの独立宣言をもって、世界に先駆けた民主主義国家が誕生したとされているが、それは、明らかな虚妄だといっていい。参政権だけを取り出してみれば、一部の特権階級だけに認められていたものを、とりあえず男性全般に容認されたのは、それから百年後の1870年だった。女性に対しては、五十年後の1920年、黒人に関しては、1965年で、まだ五十年も経っていないのだ。
 「一九六〇年代の人種問題に関する特徴の一つは、それに対する大衆の態度の変化の速度である。映画業界は六〇年代半ばまではそのリズムと歩調を合わせていたが、ジョンソン政権(1963-69)の時代になるとスピード感覚を失って、大衆の心を掴み損なってしまったかのように見える。(略)一九六〇年代が終わり、七〇年代に突入すると、大学キャンパスの占拠や反戦デモ、黒人たちの公民権運動、フェニミズムの台頭などで騒然としていた社会は次第に落ち着きを取り戻し、数年のうちに社会全体のムードがドラマチックに変わっていくのである。」
 その後、現在に至って、思いつくままに黒人監督、俳優たちを挙げれば、スパイク・リー、デンゼル・ワシントン、サミュエル・ジャクソン、ハル・ベリーとなり、いまやハリウッドを席巻しているといってもいい。
 レディー・ファーストなどという習慣は、男性優位の裏返しだと思うが、映画における「女性」に対する視線も、そのことを象徴していたといえよう。著者は、フィルム・ノワール(探偵映画や犯罪映画を総称していわれているが、もっと、広義に捉えてもいいと思う。わたしなら、アンチ・ハッピー映画といいたい)の台頭によって、女優が演ずる「男性の主人公に従順で魅力的な恋人、良き妻あるいは母親」像が壊れっていったと評価し、次のように述べていく。
 「ハリウッドのクラシック映画におけるロマンスの公式を破壊することにより、フィルム・ノワールは我々のイマジネーションを掻き立てる結婚神話を崩壊させ、伝統的な制度に疑問を投げかけた。」
 戦後のハリウッドの中心にあったのは、ミュージカル映画だったと思うが、それに代わってSF映画が台頭していったことは、アメリカの現在を象徴していると、わたしは思う。著者は、五〇年代の作品は、「偏執病的と表現されるように、(略)描かれた世界は恐怖に縁どられた、陰うつな雰囲気が漂う息苦しいものだった」という。これは、「四〇年代後半からアメリカ全土に吹き荒れた共産主義者への脅威と憎しみが象徴しているように、冷戦構造の中でアメリカと対峙していた共産主義社会のリーダーたるソ連」に対する「猜疑心や警戒心から生まれた度重なる核実験への大衆の不安や恐怖」に満ち溢れていたからだということになる。やがて、冷戦構造が終焉し、アメリカ的グローバリズムが席巻していくとスターウォーズシリーズ(最初に公開された三部作は評価するが、それ以降のものは、まるでアメリカ帝国主義史のようで共感できない)のようなものが、中心になっている。『ブレードランナー』や『カプリコン・1』、『猿の惑星』(続編やリメイク版に関心はない)のような作品は作られることは、もうないのだろうかと、懸念をいだくのは、わたしだけではないと思う。

(開文社出版刊・14.3.10)


     

ハルノ宵子 著『それでも猫は出かけていく』
(「図書新聞」14.6.21号)

 数多く刊行されている猫関連の本のなかでも、本書は、傑出していると断言していい。なぜなら、著者のように、家猫、外猫に関わらず、多くの猫に対し、徹底した無償の愛情を注ぎながらも、その注いでいく場所は、同時に、わたしたちが生きている時間と空間へ、なんの外連味もなく重ねあわされているからだ。
 本書は、隔月刊誌『猫びより』に、05年9月号から13年11月号まで、八年間にわたって、「ハルノ宵子のシロミ介護日誌」と題し、連載された文章とイラストをまとめたものだ。著者が住む家にお寺が隣接していて、そこは、野良猫の溜まり場であるとともに、猫が捨てられていく場所でもあった。連載開始の一年前に、「東京駒込の名刹に、生後3ヶ月の真っ白な仔猫」が捨てられていたという。この仔猫は、「脊髄の末端『馬尾神経』を損傷し、排便排尿困難」の状態であったのをシロミと名付け著者のもとで“生活”していくことになる。
 「これまでの我家の猫歴ですが、血統書付きを購入したり、ピカピカの健康体で貰われてきたりした猫は1匹もいません。ほとんどが、弱って動けなくなったノラや捨て猫を保護し、家に入れることになったというパターンです。/そのため歴代の猫たちは最初からハイリスクで、お決まりの慢性鼻気管炎や腎不全、肝不全に始まり、エイズ、伝染性白血病、胃ガンに脳腫瘍まで、ありとあらゆる病気の見本市のようでした。(略)『(略)看病の労苦と、看取る側のツラさを味わいつくしたな。もうコワイモン無しだぜ。何でも来い!』と思っていたら、やって来ました!この『シロミ』です。」
 こうして、悪戦苦闘、試行錯誤の日々が始まっていくなどと、簡単に記すことが、憚れるほど、著者の奮迅は凄い。獣医師との遣り取りや、その距離感の取り方は、猫たちの命をなによりも切実なこととして思い続けている著者だからこそ出来ることだ。優柔不断なわたしなら、獣医へ行かずにいるか、行ったとしても獣医のいうままに対処するかのどちらかになってしまうだろうなと、思ってしまうからだ。
 本書では、シロミをはじめ、多くの猫たちが登場する。漫画家である著者だからこそ、猫たちのイラストは、実にいい。イラストの猫たちを見ているだけで、なぜか癒されてくるから不思議だ。いや、著者の画力と表現力を考えれば、当然のことだというべきかもしれない。シロミ以外の猫で、取り上げるべきは、やはり、著者の父(吉本隆明)が愛しんだフランシス子であろう。
 「我家の長老、『フランシス子♀』が急逝しました。(略)17才になって間もなくのことでした。猫カゼをこじらせて慢性の鼻炎となり、数日間ほとんど食べることができませんでした。(略)慌てて病院に連れて行くと、急激な肝不全から腎不全も起こし、ひどい脱水と黄疸、既に危篤状態でした。(略)そのまま病院に預けましたが、翌日の午後、死亡の知らせを受けました。/家に戻ったフランシス子は、まだ温かくお腹はプヨプヨしていました。翌日の夕方、葬儀社が来てくれることになったので『玄関に置いておくよ』と言うと、父は『いや……、オレんとこの風習では、死んだ人とは1晩一緒に添い寝するんだよ』と言うので、父の枕元にフランシス子の箱を置きました。悲しみを表現できない不器用な父ですが、喪失感の深さを感じました。」
 著者は、そういう父とフランシス子は、「相思相愛な二人」だったという。そして、「フランシス子の死から、9ヶ月と1週間目」の12年3月に、著者の父が亡くなる。その間、著者は乳がんの手術をしている。さらに続けて、10月には母も亡くすという事態に著者は遭う。
 著者は、重病のシロミを抱えながらも、同居する両親の介護にもあたっていた。猫たちの介護に際して、著者は、次のような「明確な基準」を述べている。
 「●食べたい!(食べようとしている)/●この世界の何かに興味を持って見ている。/このどちらか一方でも残っている場合は、できる限り、その生きようとする力の手助けをすることにしています。猫で言えば、食欲が無くなり、口から物を食べられなくなっても、おもちゃに興味を示して手を出そうとしたり、動けなくなっても飼い主の姿をうれしそうに目で追ったりしている内は、決して放置や安楽死は考えないと決めているのです。」
見事な基準だなと思う。例えば、わたしなら、すぐに、「飼い主」を「家族」や「親しい人」と置き換え、病気や老いによって、「死」の予感を漂わせている人への視線としても、とても大事なことではないかと思う。諦めたり断念したりせず、最後の最後まで、辛くても寄り添うべきではないのかと、猫たちへの向かい方を通して、著者は、わたしたちに問うている気がしてならない。
 最後に、著者の父の不在に対してシロミがとった行動を描写した箇所を引いておきたい。
 「父が亡くなってから10日後、NHKの『ETV特集』で父の講演の再放送をやっていたので、観るともなしに流しながらキッチンで洗い物をしていました。(略)すると奥の客間で寝ていたシロミが、すっ飛んできました。テレビの画面をじっと見つめながら、耳をピンと立てて左右に動かし始めました。(略)それから父の姿を捜して書斎を覗き、もしかして奥の客間でお客さんと話しているのかもと、再び客間に走って行きました。その姿を見たら、“おめでた”すぎて、疲れすぎて、これまで泣くこともできなかったのに、初めてボロボロと涙がこぼれました。」
 シロミは、著者・ハルノ宵子(吉本多子)さんの思いを、無意識のうちに汲み込んでいるのだ。それは、もはや、飼い主と飼い猫という境界が無化されていることを意味しているのだと、わたしは思う。

(幻冬舎刊・14.5.10)

小川雅魚 著『潮の騒ぐを聴け』
(「図書新聞」14.6.7号)

 書名がいい。直感でものいいすることは、本意ではないが、「潮」が「騒ぐ」といういい方だけで、なぜか、懐かしい海の匂いが漂ってくるような気がする。もちろん、わたしは、海の見えるところで生まれ育ったから、懐かしいというのではない。日本という場所は、海に囲まれた列島・群島であることを思えば、海は、ある意味、開かれた母型の象徴でもあるのだ。母なる海といえば、やや大げさかもしれないが、いうなれば、そのようなイメージまで喚起するほどに、「潮」が「騒ぐ」といういい方をわたしは鮮烈に受け取ったといえる。
 そして開巻、愛知県渥美半島の地図が付されていて、直ぐに「伊良湖岬」の文字が目に入り、喚起されたイメージが見当外れではないことが、わかったのだ。柳田國男民俗学の集大成といわれる『海上の道』の構想の端緒になったのが、「伊良湖岬」であったことは、周知のことである。著者も本書で、次のように触れている。
 「明治三十一年(一八九八)夏、松岡(のちの柳田)國男は『まだ大学の二年生の休みに』、(略)二歳ほど年長の挿絵画家宮川春灯の故郷、渥美半島の畠村(いまの福江)をおとずれた。(略)地元の漁師たちと交わり、潮騒をきながら浜を褥にすることもあったという。(略)晴れた日には岬の突端、小山(古山とも)を一周して恋路ヶ浜まで散策するのを日課とした。ひと月あまりの滞在中、浜の寄物(漂流物)のなかに椰子の実を三度もみつけ、屈託はいつしかゆるんで、はるか彼方の南の島へと想いをはせる。」(「椰子の実と砲弾」)
 この椰子の実が、『海上の道』へと結実していくまでに、六十三年の歳月を要するが、その前に、柳田の詩作仲間だった島崎藤村の作詞によって「椰子の実」(1936年)の歌になったのは、これもまた周知のことである(また、伊良湖岬の南西に位置する神島は、三島の『潮騒』の舞台となっている)。この文章の後に、著者が伊良湖ビューホテルに宿泊した際、ホテルから見た水平線の絶景から、ゴダールの『気狂ピエロ』(67年日本初公開、わたしは、69年に初めて見ている)のラストシーンで語られるランボーの「永遠」という詩を思い出したと記していく。わたしもまた、そのシーンは鮮烈に覚えていて、ランボーの「永遠」を字幕から暗誦しようとして何回も見ている。著者の文章に接し、伊良湖岬からの水平線の絶景を、ぜひ見たいものだと素直に思ってしまった。
 本書の成り立ちは、『食と健康通信』という雑誌に年四回、07年秋から11年春まで連載した十五編を中心に、書き下ろしを加えたものだ。読みながら、著者は福江の出身であること、魚類がとにかく美味しいということ、特に鰻は絶品であることなどが、わかってくる。なによりも、著者は学生時代、久我山にある叔父の鰻屋で働き、鰻を捌き、蒲焼を焼いていたというから、凄い。食の話もそこまでくれば、感嘆しながら読むしかない。
 師や敬愛する人たち、友人たちとの交流を、自在に織り込みながら綴るエッセイ群は、海のように開かれた感性というものが伝わってくる。だが、それは自らのこだわりにたいして、揺るぎない確信のようなものがあるからだと、わたしは思う。
 「(ミルクイは=引用者付記)あまり大きくないほうが旨くて、ひばりでいえば、『柔』や『悲しい酒』の中期の姉御時代でも、『愛燦々』や『乱れ髪』の晩年の大御所時代でもなく、『お祭りマンボ』の十五歳からジャズを初めて歌った十八歳の頃、手のひらにすっぽり収まるくらいの大きさがいい。若さと成熟、可憐と豊饒、繊細と大胆、あらゆる対立要素が拮抗して絶妙なバランスのうえにある。」(「ミルクイは美空ひばりのジャズである」)
 「二度辞去して立ち上がったが、そういえば、と座りなおして、やっと三度目に、『いつでも電話してくれ』の声を聞きながら、玄関を出た。(略)ベランダ風の庭の手摺りに奥さんとふたり、肘をかけてにこやかに見守ってくれている。車の体勢がととのって最後にもう一度見上げたら、やはりおなじ姿勢、おなじ笑顔。北風に勝った太陽みたいな笑顔だった。(略)あの事件については、私はハナから聴く必要を感じたことはない。私もかつて海に出て、櫓を漕いで遊んだドウゲン坊主。以来、青の陰影に魅せられてきた。喧騒のあわいに、気がつくと、私の耳は潮の騒ぐを聴いている。/池永正明、いまも私のヒーローである。」(「青の陰影―池永正明に会いにいく」)
 わたしもまた、ひばりにたいしては、デビュー時から、二十代前半期までの歌が好きだ。わたしたちの青春期を思えば、「若さと成熟、可憐と豊饒、繊細と大胆」とは、なるほど確かにそうだ。
 小学生時代から憧れたヒーローに、念願かなって会い、濃密な時間を共有しえたのは、著者の揺るぎない思いが、池永に伝わったからだと思う。潮の騒ぐのを聴くということは、開かれた海のように自分が関わっていく人の声を聴くということでもある。それによって、関係性はかたちづくられていくものだよと、潮はいっているのだとわたしには思われる。

(風媒社刊・14.1.25)

半藤末利子 著
『老後に乾杯!  
ズッコケ夫婦の奮闘努力(文庫オリジナル版)
(「図書新聞」14.5.24号)

 わたしが、著者の文章に初めて接したのは、夏目鏡子述・松岡譲筆録『漱石の思い出』の文春文庫版(94年7月刊)の解説だった。そこで、書かれていた「漱石に関しての悪口を、祖母の口から私は一度たりと聞いたことがない。祖母はお世辞を言ったり、自分を良く見せるために言葉を弄したり陰で人の悪口を言うこともなかった。あれほど悪妻呼ばわりされても、自己弁護したり折りをみて反論を試みようなどとはしない人であった。堂々と自分の人生を生きた人である。(略)『いろんな男の人をみてきたけど、あたしゃお父様が一番いいねぇ』と遠くを見るように目を細めて、ふと漏らしたことがある。また別の折には、もし船が沈没して漱石が英国から戻ってこなかったら、『あたしも身投げでもして死んじまうつもりでいたんだよ』と言ったことがある。何気ない口調だったが、これらの言葉は思い出すたびに私の胸を打つ。筆子が恐い恐いとしか思い出せなかった漱石を、鏡子は心の底から愛していたのであろう」という、著者の視線に、ただただ驚き、感嘆したといっていい。そしてすぐさま、『道草』を読んで、鏡子悪妻説に加担していた、わたし自身の浅はかさを恥じたものだった(それは、同時に、『道草』への読解力のなさを露呈したことにもなる)。本書は、文庫オリジナル編集版であり、著者にとって五冊目の著書である。初めて、書名に「『漱石』とか『夏目』を使わなかった」ことになる。本書を読み終えて、祖母・鏡子に向けた視線そのままに、著者の文章から受ける疾走感に酔いしれた。著者の解説に誘われて知った、鏡子にある潔さよさのようなものは、そのまま、孫娘にも受け継がれていることに、わたしは、本書の文章群から理解することになる。
 「『夏目家の糠みそ』の周辺」、「『漱石山房』への夢」と章題にした文章群を巻頭と終章に配置しながら、「愛すべき人々」のことや食べ物のことなどとともに、野良猫から飼い猫になった、チャリンとポコとの通交、そして、その死、さらには、夫(半藤一利)との“平穏ならざる日々”を活写していく。「夫は書くことと飲むことしか能のないケチな物書きである」と記しながらも、帰りが遅い夫を心配して、「轢き逃げされたらどうするのだろう。なんて恐い想像を巡らしながら待っていると、胸がドキドキして気が狂いそうになる」としながら、「こんな苦労を積まされてきたから私の顔の皺は同年輩の女性達より多いのである」と述べていく。しかし、鏡子が漱石を「心の底から愛していた」ように、著者もまた、夫に対して、「胸がドキドキして気が狂いそうになる」ぐらい心配しているのだから、怪我や様々な病気が襲来しても、それを跳ね除けていけるだけの膂力を持った、熱い関係性がふたりの間にはあることが、伝わってくる。
 最後に、付しておきたいことがある。漱石終焉の地に、生誕百五十年を記念して、漱石山房記念館(仮称)の建設が計画されているという(基金を募っていて、問い合わせ先は、新宿区地域文化部文化観光課文化資源係)。それは、著者の父・松岡譲の夢でもあった。いま、半藤夫妻が、尽力している。「権力や権威とはほど遠い人」であった漱石は、長女・筆子の娘が関わっているのであれば、照れながらも、喜んでいるに違いない。

(PHP研究所刊・14.2.19)


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