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2006.05.19 Friday

寄席の世界に魅せられて・3

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     ところで、わたしは落語を積極的に聴くことをあるひとつのことを契機として、止めていた。それは、1978年に起きた、いわゆる圓生一門による「落語協会脱退事件」のことである。周知のように、落語界には、ふたつの組織団体があって、大雑把にいえば、古典落語を演目の中心に据える「落語協会」と、新作落語も積極的に行う「落語芸術協会」がある。圓生一門は、当然、「落語協会」に属していた。圓生自身も長らく会長の任にあって、自らを範として、一門を越えて後継を育成してきた。長く職にあることを嫌い、柳家小さんに会長職を信頼して委譲。しかし、簡単にいえば実力主義か年功序列主義かというせめぎあいのなか、小さんは、幹部会の一部反対(圓生、志ん朝)を押し切って、“真打”の大量昇進を決めてしまったのだ。落語界の将来を考え、徹底的な実力主義を提起する圓生にとっては我慢ならないことだった。俗にいう「真打乱造事件」(乱造といういい方をされるように、非は小さんたちにあるのはいうまでもない)という圓生一門が協会を脱退する事態を生起する。はじめは圓生の芸や主張に共感して、多くの噺家たち(志ん朝、円鏡、談志といった面々)が随伴する予定だった。しかし、小さんたちによる激しい切り崩しにあって、結局、圓生一門だけの脱退というかたちになってしまったのだ。なかでも、一番、可愛そうだったのは、志ん朝である。誰もが、その実力をもって圓生の真の後継者は志ん朝であるとされていたし、志ん朝本人も圓生を敬愛してやまなかった。圓生にしてみれば、自分の考えに志ん朝が賛同して随伴してくれたことが最大の決起した本意だったのだ(最近、読んだ本で知ったことだが、落語協会から離脱して新しい協会が立ち上がったら、その会長に、自分の後直ぐにでも志ん朝になってもらうことを決めていたようだ)。しかし、兄の馬生や寄席の席亭に説得されて、なくなく脱退するのを翻意する(苦渋に満ちた表情で会見した志ん朝の顔は、いまだに忘れることはできない)。数年後、志ん朝はライブで、枕として、相変わらず真打が大量に昇進してしまっていると、皮肉交じりに話している(最近、CDで確認した)。忸怩たる思い、いくばかりのものだったろうか。ついに会長職(結局、小さんの長期政権が続いていた)に就くことなく副会長のまま、ひたすら芸に精進してきた志ん朝の早すぎる死の遠因は、そのことが潜在し続けていたからだとわたしは思っている。
     1979年9月3日、79歳の誕生日に小噺『桜鯛』を演じた直後、心筋梗塞で圓生は急死する。わたしは、唯一、圓生を亡くなる数ヶ月前、ホール落語(すべての寄席から締め出されていた)だったが、聴くことができた。しかもそれが、わたしにとって初めての落語ライブ体験であった。以降、わたしは、『圓生全集(カセットテープ版)』を購入、時々はかけて聴くというかたちの落語との通交が続くだけになった。

    2006.05.17 Wednesday

    志水辰夫の小説を読んで・3

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       一昨年のことだった。『志水辰夫めもらんだむ』というサイトの掲示板に以下のようなことをわたしは書き込んだ。

       【新潮文庫版『裂けて海峡』について】
       志水さんの著作は、単行本を所持していても文庫化、再文庫化に関わらず、すべて購入してきました。確か以前、誰かが文庫化の時、志水さんはかなりの改変を行っていると書いていたと記憶していましたが、作家としてそれは当然だと思うし、わたしはいままで、検証(おおげさな言い方ですが)はしてきませんでしたが、今回、ふと思い立って、なにげなく講談社文庫版と較べて見ました。
       最終行です。
       「南溟。八月。わたしの死。」(講談社文庫版)
       「南溟。八月。わたしは死んだ。」(新潮文庫版)
       そんなのどっちっだて、同じじゃないか、という声が聞こえてきそうですが。わたしは、わずかな言葉の改変でこんなにも違うイメージを与えるのかという思いです。 ― 2004.8.31

       わたしの、書き込みを切っ掛けに、ちょっとした論争がこの掲示板で沸き起こり、ついには、志水辰夫が『ラストの改変について』という文章をサイト上に発表した。わたしは、なにもここで自慢話をいいたいのではない。いずれこの作品について具体的に触れるつもりでいるが、かつて読了した時、名詞止の最終行が、物語の終景とともに強い印象を与えていつまでも脳裏から離れなかったから、「死んだ。」という書き方に一瞬、戸惑っただけにすぎない。いまここで、志水の文章を詳述はしないが、志水自身、名詞止にしたことをずっと逡巡していたことが、分かった。もともと、「死んだ。」としたかったのを「死。」としてしまったことをだ。志水にしてみれば、改変ではなく、もとに戻したという気持だった述べている。

      2006.05.13 Saturday

      寄席の世界に魅せられて・2

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         70年代に入ってからTVによって演芸の世界は、より身近なものになっていったように思う。誤解のないようにいえば、「笑点」などというスカスカの内容をもった番組(台本どおりとしか思えない大喜利のコーナーがなければ、とりあえずは当たり前の演芸番組として容認できるのだが)のことではない。いささか、脱線ついでにいえば、70年代初め頃、関西のバラエティ番組が東京で放映されていて、当時の関西若手漫才師・落語たちが総出演していて実に勢いがあって面白かったことを覚えている(さんまがデビューする以前)。話を戻そう。TBSテレビの深夜帯で落語百選だったか、題名が不確かだが、そういう番組をやっていて、欠かさず見ていた。10年以上の時間を経て、こんどは演者のパフォーマンスつきで落語の世界を堪能できたのである。志ん朝、小三治の若手から重鎮までほぼ主だった落語家は大体出演していたように思う。そのなかで、やはり圧倒的な力量を発揮していたのが六代目・三遊亭圓生だった。「猫忠」とかは、圧巻だった。落語は聴くだけのものではなく、見なくてはいけないのだと思ったのは圓生の見事な身振り手振りに感動したからだ。

        2006.05.12 Friday

        寄席の世界に魅せられて・1

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           思えば初めて落語や漫才・漫談に接したのは、記憶としては小学生高学年の頃、TVがそれほど普及していなかった時代のラジオ放送によってだった。落語・漫才番組は歌謡番組とともに、最高の娯楽だった。もちろん、その頃は、たいして内容を理解していたわけではなかったし、ライブ放送独特の観客の笑い声とともに和やかな雰囲気に満たされていたに過ぎない(覚えているのは、志ん生をその頃聞いていて、なにを喋っているのかもごもごした感じが嫌だった。その時の刷り込みが後々まであって、いまだに、CDなどで志ん生を聴く気にならないのだ。その後分かったことだが、長らく病気がちだったようで、元気な頃はほんとうにすばらしい話芸だったようだ)。その後、NHKTVの大河ドラマが開始され、主演級はなぜか歌舞伎出身者で占められていくのと対照的に、バラエティ番組やドラマは、なぜか、落語家が活躍していた。例えば、『若い季節』の志ん朝、『ポンポン大将』の小金治、『お笑い三人組』の小金馬と、それだけで落語の世界を熟知していなくても、なにか親近感のようなもの抱く切っ掛けにはなっていったと思う。もちろん、当時(1960年代前半から、東京オリンピック前あたりまで)は、いわゆる、TV専門のタレントが育っているわけではなく、映画俳優は、まだ映画の世界にからくも留まっていたわけだから、落語家や漫才師たち(講談師たちも含めていい)が、メディアを席巻していくのは、当然のことだったといってもいい。だから、談志や円楽がTVをうまく活用して、脚光を浴び、落語の世界がいっきにメジャーなものになっていったのは、必然的なことといえるかもしれない。それから幾時間かを経て、わたしは、ひとりの噺家を知り、本来の話芸の醍醐味を知ることになる。

          2006.05.08 Monday

          志水辰夫の小説を読んで・2

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             比較的、新しい作品から渉猟していってみたい。まずは、短編集『男坂』(03.12刊)から。
             わたしにとって、いつものことながら、志水作品は読後、言いようのない余韻が残り、しばらくその状態を感受しつづけることを良しとしてきた。ほんとうは、このように、あれこれ言葉を連ねるのは、本意ではないが、このような場所があると、なにかを伝えたいという気持ちになってしまうこともまた確かなことだ。
             わたし自身、短篇という形態に親近感をもって接するといった読者ではない。ましてや、志水辰夫の読者としては、長い物語を読みたいと思っている。確かに、『いまひとたびの』で、志水辰夫の短篇世界の豊穣さに触れて、その後、志水作品の短篇世界に魅了されてはきたが、それでもやはり、『背いて故郷』や『飢えて狼』のような物語を求めてやまない。とはいえ、短篇だからといって、けっして断片のようなかたちで構成されているわけではない。そこでは、登場人物や背景を違えながらも、全体を通してみれば、連作短篇のように凝縮された物語をつくりあげているのだ。
             さて『男坂』は、これまでの作品集(そのことは、いずれ触れていくつもりだ)とは、いくらか雰囲気の違う要素がつめられているといっていい。「扇風機」の弘武、「再会」の高野聖、「あかねの客」の藤岡、いずれも本来なら忌み嫌われる像形(他の作者の作品であればということだ)であるにもかかわらず、志水の筆致にかかるとあまりにも〈哀しみ〉に満ちてくる。わたしの志水作品の読み方は、書かれていない多くのことを長い物語として、行間から読みとることだ。とすれば、本集に収められている「岬」は、志水辰夫の出自や亡くなった母(父は先の十五年戦争下での戦死者だ)のことを投影した作品として読みこむことができる。そして、なんといってもわたしは、その作品の終景にただ感動したということだけを、ほんとうは率直にいいたかっただけだ。




            2006.05.03 Wednesday

            〈声〉としてのジャズ

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               ジャズを聴くようになったのはいつからだったろうかと考えると、なにかいいようのない想いが湧き上がってくる。誰にでもある青春期の残像のようなものを記憶として紡ぎださなければならないからだ。アドレッセンスとしてのジャズといえば、ありきたりないいかたでしかないかもしれないが、わたしの場合、確かにそうとしかいいようのない体験しかもっていないのだ。三十八年前、上京。住いは、国分寺。「野人舎」と、住人たちが勝手に名づけた古い長屋のようなアパートで暮らしはじめた。そこは、不思議な場所だった。まだ十八歳だったわたしが最年少で、最年長がたぶん二六、七歳で、一人を除き全員学生だった(ただし、予備校生はわたしだけだった)。アパートの住人たちとの交流は、いろんな意味で、わたしに大きな影響を与えてくれるものだったし、悲痛な感覚でいる自分を慰藉してくれる関係性だったといってもいい。しかし、実際は日々怠惰、日々惰眠という生活だった。そんなかで、なぜか、ジャズと、クラシック音楽をかかさず聞くようになっていた。やがて、近くに出来たジャズ喫茶店にほとんど毎日通うようになる。
               『M』という名のジャズ喫茶店は、普通の喫茶店がジャズを音楽として流し続けているといった感じの店だった。通いつめた目的はふたつ。モーニングサービスがあったことと、スポーツ新聞を見て、週末の競馬の馬券検討をするためだ。いつしか、店のマスターと親しくなり、わたしは、わたしの友人とともに一緒に飲みに連れて行ってもらったり、麻雀をしたり、競馬場へ行くようになった。そして、そんな関係から友人は、マスターの信頼を得て、『M』でバイトをするようになる。わたしは、依然、客としてふるまい続けていた。そんな中で、聴き続けていたジャズは、わたしにとって、日常的なものとなっていく。
               実はジャズに関してそれほど知識があったわけではなかった。それでも、知人をかいし、ふたりのジャズ・ミュージシャンを知ったことが最も大きな契機になったといってもいい。そのことで、ジャズがより身近なものになったのだ。それは、ジョン・コルトレーンとマル・ウォルドロンだ。故郷に帰った「野人舎」の仲間だった人が、雑誌「ジャズ批評」にコルトレーンに関しての文章を寄稿していた。その時点でわたしは、コルトレーンのことを知らなかった。シュティルナーの翻訳者、片岡啓治氏から、ウォルドロンを教えてもらった。コルトレーンのテナー・サックスからは、まるで、切ない歌〈声〉が聞こえてくるようだった。ウォルドロンのピアノの音は、まさしくビリー・ホリディの歌〈声〉を再現しているかのように思った。数年前、綾戸智絵のライブを聴いた。彼女の〈声〉は楽器を奏でているかのようだった。わたしにとって、ジャズとは、〈声〉だった。切なかったり、苦しげだったり、柔らかさだったり、様々な〈声〉だった。〈声〉はひとつの表明であり、意志であり、生き方だと思う。〈声〉は聞こえてくるものではなく、聴こうとするものであり、あるいは聴かせようとするものである。わたしは、そういう〈声〉たちの場所を求める。

              2006.05.01 Monday

              プロ野球の行方・2

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                 プロ野球の低迷(ということを前提にしているが、異論がある人はいないものと思われる。たぶん)の一番の要因は、MLB(メジャーリーグ・ベースボール)が、身近なものになったことだ。わたし自身も、野茂の渡米を契機として、頻繁に放映されるようになったTV中継によってMLBの面白さを知った。なにが、面白いのか問われれば、〈アメリカ〉という場所の“寛容さ”ということに尽きると思う。選手たちも、観客たちにもそれはいえる。米国にとって、ベースボールというものは、例えていえば、日本における大相撲(あるいは柔道)のようものだといっていい。だが、日本の相撲ファンや興業の担い手たちは、一定程度の外国人力士の活躍は容認できても、立て続けての横綱、大関の誕生、幕内優勝の独占を、快く思っていないはすだ。かつて、小錦は、あからさまな外国人差別によって横綱になれなかったことを告発していたものだ。ただ、大相撲の場合は、構造的な八百長相撲が、無くならない限り、かつてのような人気を回復することは出来ないだろうが。そして、もちろん、わが国のプロ野球にしても、外国人選手たちに対して、けっして寛容性をもって接しているとは思えない。いまでこそ、王は、国民的英雄とされているが、民族的差別のなかにいたことは、事実だった。その王の年間ホームラン記録を外国人のバースが破ろうとした時、明らかな妨害工作をしたという汚点があったことを忘れてはならない。さて、“寛容さ”について述べようと思いながら、いささか脱線してしまったが、歴然とした格差社会・差別社会である〈アメリカ〉という場所が、ことベースボールに関しては、極めて、“寛容さ”を発揮していると捉えることができる。もちろん、不変の自信のようなものが、そのなかには潜在しているといえないでもないが、それでも、東アジアの片隅に位置する列島の出身者たちが、ボールパークで活躍することに対して率直に賞賛する場面を、TV画像を通して、見るにつけて、“寛容さ”を思わざるをえない。

                2006.04.28 Friday

                志水辰夫の小説を読んで・1

                0
                   志水辰夫の小説作品を、はじめて読んだのは、いつのことだったかはっきりと覚えてはいないが、『行きずりの街』が、刊行された後であることは間違いない(90年)。記憶を無理やり手繰り寄せれば、徳間文庫で『狼でもなく』(92年)が最初だったように思う。その後さらに、『飢えて狼』、『背いて故郷』を文庫本で読み、一気に志水辰夫の小説世界に魅せられていき、刊行されているすべての小説作品を読み通したはずだ。いまでは、わたしにとって、刊行された小説作品を必ず読了するただひとりの作家としてある(もちろん、寡作であることが可能にしているとしても、村上春樹、高橋源一郎、高村薫など、途中で読み飛ばしてしまう作家は沢山いる)。
                   はじめは、いわゆるミステリー・推理小説というジャンルの中で、知って、そのつもりで読み始めたのだが、後に、ハード・ボイルド小説というジャンルに区分けされていることが、分かったのだが、わたしには、それはどうでもいいことだった。高村薫は、“わたしが書く小説は推理小説ではない”と、改めて宣明したように、作家にとって、ジャンルという枠は決していいものではないようだ。読者にしてみれば、入り口としてはいいのかもしれないが、わたしは小説作品に関しては、ジャンル分けは好まない。あくまでも、作家主義ということになると思う。なぜかくも、志水辰夫の小説世界に魅せられつづけて来たのかということを語っていくことで、志水辰夫の紡ぎ出す物語を紹介していければと思っている。

                  2006.04.27 Thursday

                  プロ野球の行方・1

                  0
                     プロ化され、TV中継(プロ化以前は、せいぜい天皇杯が正月に中継され盛り上がった程度だった)によってより広く伝播され、日韓共催WC開催によって、野球に変ってサッカーは完全に子供たち(むろん大人たちも)にとって一番の人気スポーツになった。大衆酒場で、相撲中継や野球中継を見ながら、にわか評論家になって盛り上がるといったことは、遠い昔の出来事になってしまったようだ(少なくとも、サッカー中継で評論家的視線で楽しく見ることは難しい)。確かに、野球に比べたら、サッカーの世界的な普及率は高い。しかし、どうもわたしは、サッカー・ゲームに感情を移入することができない。なぜだろう。個別的に選手個人の魅力というものを考える時、サッカー選手は、なにか画一的な感じがしてならないのだ。それは、試合の戦術化にあると思う。フォーメーションといって、三つの役割分担の選手配置を1−2−3−4とか、2−4−4とかをあらかじめ決めて行うことに釈然としないからだ。野球の打順や守備位置と似て非なるものなのだ。いや、いまここでいいたいのは、サッカーに対する疑念ではない。なぜ、かくも野球人気が低迷しているかということなのだが。サッカー人気が高まるにつれて、野球人気が下降気味である以上、やはり、サッカーについてなにがしかのことをいわずにいられないのだが、ここでは、これぐらいにして、このあと本論に入っていこうと思う。

                    2006.04.25 Tuesday

                    「理想」の可能性

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                       「理想」という言葉は、なにやら青臭いイメージが付き纏っているかもしれない。しかし、なんの衒いもなく率直にその言葉を発することができるとしたら、それは確かにすばらしいことに違いない。

                        いまの僕は、人を評価する時「人間力」で判断します。人間力とは、理想の可能性を考える力があるかないかということです。ある職業に就いて10年、20年経てば専門家になれます。才能なんて意味がない。たとえば、学者を10年やったからといって偉いということはない。人間の理想とはなんだろう、あるいは、理想の可能性はどこにあるんだろうと考え、そういう道筋をつけながら自分の専門の職業に関わっている人の「人間力」を、評価したいと思います。(吉本隆明「『理想』の可能性」)

                       八十歳を過ぎて、なおもこのように述べることができることに、わたしは深い感慨を覚える。「理想の可能性」といういい方、「人間力」という捉え方、そして、「職業」というイノセントなたて方、どれも、言葉が際立つということは、こういうことをいうのだ。
                       そして、わたし自身はというと、まだまだ入り口で立ち往生しているに過ぎない。

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