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2006.06.13 Tuesday

寄席の世界に魅せられて・6

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     1月の興行は、やはり特別のようだ。わたしが、出かけた時(二之席―正月は上、中とはいわず、一之席、二之席という)は、昼の部のトリは、円歌(現・落語協会会長)。大トリは、小三治。他に円蔵、馬風(副会長―はっきりいって、随分、軽量な会長と副会長だと思う)、権太楼。若手では小さんの孫の花緑、漫才では、昭和のいる・こいる、などなど。
     円歌、馬風、円蔵はまったく緩いただの笑い話。それでも、顔が売れているからだろう、居て、なにかを話すだけで客の笑をとれるのだから不思議だ。しかしこの程度の噺家たちが、重鎮では落語界の行く末も暗澹たる思いがする。だが、さすが、大トリの小三治は、長すぎるどうでもいい枕を無視すれば、まあ、相変わらず達者な話芸を聞かせてくれた。昔は、トチルくせがあって、じっくり聞かせる感じではなかったが、久しぶりに見た(もちろん、ライブは初めてだ)小三治は、確かに熟達していた。
     初めて見た落語協会の興行で、感動したのは、噺家たちの芸ではなく紙切り芸である。林家正楽の見事な鋏使いは、その後、何度も見ることになるが、すごいの一言に尽きるといっていい。

    2006.06.12 Monday

    循環型社会・持続可能な社会を目ざし

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      資源協会 編『千年持続社会』(『図書新聞』03.5.31号)

       わたしは、かつて環境問題を語ったり、論じたりするのを、なにやら胡散臭く感じたり、狂気さをともなった宗教的な運動のように思っていたりした。バブル絶頂期は、生活の向上と高度化、科学的技術の進歩は絶対的神話性をもっていた。だから、科学的進歩を否とする環境問題への提言はイデオロギー的な一部少数派の見解でしかないとみていたところがあった。しかし、イデオロギー的と思われていた予見が、本当に危機として、現実的なものとなって、わたしたちの日常生活に、現在おとずれてきたのだ(長引く景気低迷という情況にも起因しているが)。つまり、環境問題はイデオロギーの領域をとうに超えた段階に達してしまったのだ。政府主導で様々な環境アセスメントを行なうようになってきたし、地方行政レベルでいえば、ゴミの分別収集の細分化は、もう当たり前のことになった。
       思えば、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』が邦訳出版されたのは、一九六四年のことだった。当然、その頃は、自然破壊ということへの警鐘は、多くの人にとって切実なことではなかった。初期マルクスは、人間は自然の一部だといったが、人間は自然をコントロールできるようになったと錯誤した時は、もう後戻りできない事態にわたしたちは置かれていたというべきだろう。実は、こうしてあれこれ述べているのは、わたし自身の内省から来ている。今でこそ、循環型社会とか持続可能な社会といった言い方が、切実さをもって当たり前のように語られているが、数年前までは、リサイクル社会という言い方が普通だった。わたしは、このリサイクルという言葉が醸し出すイメージが、何ともいやでならなかった。わたし(たち)の世代は、敗戦後の疲弊から、高度成長といわれた時代と、期をいつにしている。貧しかった戦後の状況から、徐々に豊かさを手に入れていく時間性のなかにあった。例えば、兄弟同士や縁戚同士で衣類の着まわしをすることは(いわゆる、お下がりのことだ)、当たり前のことだった。まさしく、始まりとしてのリサイクルといってよい。そんなイメージがリサイクルという言葉には、つきまとっていたのだ。
       わたし(たち)は、段階を踏んで、生活の向上と豊かさを自分たちのものにしてきたぶんだけ、プロセスを反芻することを避けてきたのかもしれない。もちろん、誰でもがみな、際限の無い欲望を、追求してきたとはいえない。それでも、どこかで、消費の過剰さを自省すべきだったと、今にしてわたしですら感じていることだ。
       かつて、わたしは、三木成夫の『胎児の世界』を読んで衝撃を受けた。そこでは、人間の生命の誕生は、生命体発生史をすべてなぞっていることが明らかにされるだけではなく、そのことが宇宙史の発生から地球の誕生そして生命の発生までがリンクしていると語られている。こう、わたしが書けば、いささか荒唐無稽に思われるかもしれない。だが、三木成夫の静謐な詩的文章で語られるそれらのことは、わたしにもうひとつの新しい環境思想といったことを教えてくれたといってもいい。
       さて、本書は「平成十三年度文部科学省委託調査『資源の総合利用に関する調査―千年持続社会の構築に向けた科学技術のあり方に関する調査―』報告書」をもとにしている。書名は、報告書の副題からとられているが、循環型社会・持続可能な社会と同義的な意味に使われている。
       「いわゆる持続的発展ではなく、持続可能な社会の構築のために、科学技術や社会人文科学の智恵を選りすぐり、長期展望を掲げてそれを実現するべく行動に移すのが千年持続学の精神である。」(12P)
       「千年持続する社会とは、突き詰めるとすべての『生命(いのち)』を循環させ、それをつないでゆく社会である。」(23P)
       第2章にあたる「警告学―地球の物理的キャパシティ」では、具体的なデータに基づいて、地球温暖化の問題、水資源やエネルギー問題が述べられていく。なかでも、アイヌの人々の伝統的な住居であったチセの温熱構造にふれ、「わずかなエネルギー消費で厳冬を乗り越える伝統の智恵」を紹介し、明治政府の「差別的な植民地政策のもとで近代化を強いられ」、伝統的な住居を否定することによって、アイヌの人々の健康が損なわれる結果となったという。そして、次のように述べている。
       「20世紀の後半の50年間、今度は日本全体が家づくりに限らず、米国の中流階層の暮らしをモデルとし、日本の気候風土にあった伝統的な暮らしぶりを『遅れた』ものとしてほぼ全面的に否定してきた。これはその前の50年間にアイヌの人々が味わった苦難の経験に学ぶことなく、その轍を日本人全体でたどっていることになるのではないだろうか。」(69P)
       本書は第3章以降、あらゆる資源への科学技術の開発報告と、様々な提言がなされていて、重要な問題を析出している。しかし、わたしには、この箇所が特に印象深く考えさせられたと言っておきたい。(日本地域社会研究所刊・03.1.22)

      2006.06.10 Saturday

      バロウズのイメージを解体して精緻に、深遠に描出

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        山形浩生 著『たかがバロウズ本。』(『図書新聞』03.5.24号)
                    
         ウィリアムズ・S・バロウズ、この名は、ある確定したイメージを喚起する。麻薬中毒者で、同性愛者、そして妻殺しで、あの『裸のランチ』の作者であるというように。もちろん、“あの”というのは、表層性をもった指示でしかない。ほんとうは、どう捉えていいのか分からないという、困惑した様を象徴しているに過ぎない。実はこのことは、わたし自身の印象でもあった。
         わたしが、バロウズを認知したのは、たぶん多くの人がそうだったようにクローネンバーグが『裸のランチ』を映画化した時だ。そして、映画の公開にあわせて新たに改訂版が刊行されたが、訳者名を見て大きな驚きを覚えたことを忘れることができない。そこに鮎川信夫の名があった(改訂訳として本書の著者が併記されている)のだ。鮎川の仕事を全面的に支持し、影響も受けてきて、ほとんどの著作に目をとおしてきたつもりだった。クイーン、クリスティー、ドイルといったミステリー作家の翻訳は知っていたが、バロウズという作家名は記憶していなかった。
         「日本でバロウズをいちばん最初にとりあげて紹介したのは、おそらく鮎川信夫だろう。(略)実は映画公開にあわせてぼくがかなり手を入れている(略)。ただし、手を入れたのは別に鮎川訳のできが悪いからじゃない。かれの訳はまともだ。というか、異様なくらいにできがいい。(略)かれが『裸のランチ』と『ジャンキー』を訳してくれたのは、まったく実にありがたいことだった。」(359〜360P)
         著者は、他の翻訳者たちへは、かなり辛らつな評言を呈している。鮎川へこのように語る著者に奇妙な親近感を抱いたといってもいい。ところで、わたしは本書を「補遺」から読み始めた。もちろん目次を見て、「日本での受容」の章のなかに「鮎川信夫」の項目があったからだが、この「補遺」の文章群が、実に鮮明に著者の立場を表明していると思えた。本論でも一貫して述べていることだが、〈批評〉という位相を、著者はいったん解体し、その先に、どう言葉を紡ぎ出せるかという試行をしているといえる。もっと別様にいってもいい、〈批評〉のための言葉を表出することを否定した先に、対象への〈内的言語〉といったものを提示しようとしている。つまり、テクスト解釈といったポスト・モダン的批評や、いわゆる文芸批評的な枠組みを、超えた場所に、著者は〈バロウズ論〉を措定しようとしているのだ。
         読後、感じたことだが、著者は多くのバロウズの著作を翻訳しているし、著者自身も自負しているように誰よりも多くのバロウズの著作を読んでいるにもかかわらず、そこには近接感や密着性を極力拝した文章がつづられている。文体や言葉が快活に展開されているにもかかわらず、抑制された感性といったものを、わたしには感じられたといってもいい。
         そのことは著者が、方法論として意識的にとったことだと思える。ある種、批評や解読の“悲しみ”といったようなことを自覚していたというべきか。それは、たぶん、バロウズを“悲しみ”ともいえる像として捉えているからだと思う。カットアップというバロウズ独特の手法が、妻殺しという記憶から逃れるためのものだったと見做しつつ、次のように述べていく。
         「カットアップによって現実を書き換え、記憶を書き換えるはずだったバロウズなのに、現実も記憶も、それを通じてますます切なく迫ってくるようになるばかりだった。(略)もともとバロウズは、表現すべき深い思索や、どうしても描きたいテーマを持った作家じゃあない。というか、かれは人に何かを伝えるために作家になったわけじゃない。(略)そのバロウズが、最後の最後になって、あんなに深い後悔と、絶望を通り越したような諦めをもって、回想に終始するような作品しか書かなくなっていたことに、ぼくたちはある意味で失望させられるし、ある意味では『やっぱり』という感じを受けざるを得ない。」(43P〜51P)
         バロウズにおける、「自由」と「不自由」という問題をこのようにして著者は、述べていく。なにか、過剰なイメージが付加された作家として、わたしたちは、バロウズを見てきたように思う。著者は、そんなイメージを解体して、精緻に、しかも深遠に、バロウズの解説書、入門書としての意味を充分に本書で果たしながらも、「最後のバロウズ」の像を描出している。そこは、『裸のランチ』ならぬ、「裸のバロウズ」という場所だったというこになるのだろうか。(大村書店刊・03.2.25)

        2006.06.10 Saturday

        燈書房の閉店に際し思うこと

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          「新刊書店、二〇年という時間」(『図書新聞』04.5.8号)
                    
           この三月末(註・二〇〇四年)で、ほぼ二〇年にわたる新刊書店の営業を休止した。一〇坪にも満たない小さな書店が、わが国の出版・流通業界を俯瞰しうる位置にいたなどという傲慢さはないつもりだが、それでも二〇年という時間をもったということは、いくばくかの感想を述べることができるはずだという思いはある。
           いまはもうない、『日本読書新聞』の一九八三年一〇月三日号の「BOOKランダム」というコラムに、燈書房は次のように紹介された。
           「大型書店の郊外への進出、コンビニエンス・ストアの乱立など、小・零細書店をとりまく状況は厳しい。そんな中で、中央線三鷹駅から六、七分の町中に、八月一九日ちょっと変わった“普通”の書店・燈書房が開店した。開店日には鈴木清順、林静一両氏によるサイン会も催されたが、一〇坪、バス通りに面したマンションの一階にある同店、見たところ普通の小書店と何の違いもない。しかし、入ってすぐ右側の棚をのぞくと吉本隆明や寺山修司の本などが賑々しく並べられている。(以下略)」
           確かに、開店した当時は、CVSが消費流通の象徴であり、遅い時間までの営業の中、雑誌やコミック本がよく売れていて、小書店は、厳しい状況を強いられていたし、本が読まれなくなった、活字離れが著しいといった声が、業界の内外から聞こえてきていた時期だった。写真誌の売り上げ上昇を、活字離れの象徴と見なす識者もいたような気がする。わたしは、別にだいそれた考えで書店営業を始めたわけではない。“普通の書店”でいいと思っていたし、少しだけこだわりの品揃えをして、それがお客さんの目に止まって手に取ってもらえればいいと思っていた。開店してまもなく、確かに活字離れを象徴する事態が大きな動きとしてやってきた。まず、テレビゲームから、本格的なパソコンゲームへの市場拡大だ。それにともなって関連の書籍(いわゆる攻略本)、雑誌が売れ出した。また、ビデオ再生機器の普及によってビデオ・ソフトが書店店頭の売り上げ上昇の一役を担っていった。いわゆるバブル期とそれは平行していった。さらに、小書店にとってビデオも含めてアダルト系商品が営業的な命綱であったため、規制が緩やかになったぶん、写真集やコミック本がよく売れ出した。
           バブル崩壊後の景気低迷は、やや遅れて出版・流通業界にも訪れてきたといわれるが、そもそも、純粋に出版物が売れてきたわけではない。本来の出版のかたちでの隆盛は、やはり、わたしが参画する以前に終わっていたとみるべきだ。ゲーム関連が低調になり、アダルト系も、いまやインターネット・サイトで隆盛を極め、紙媒体やビデオ・DVDは見向きもされなくなったといっていい。
           文庫は、長い時間で読み継がれていくものは、絶版になっていき、まるで雑誌感覚で大量に出版されていく。コミック本は、より廉価に読み捨て感覚でコンビニだけで流通するものを各社出し始め、書店は蚊帳の外だ。一方、新古書店で格安の定価で比較的早く入手できることを知った読者は新刊書に関心を失っていく。さて、こうして出版・流通業界の未来はと考えれば、確かに、明るい光が見えにくくなっているかもしれない。だが、わたしは、今にして思う。やはり、書店という場所は特別の空間であり、無くなっていってはだめなのだ。閉店を決めた後、多くのお客さんから感謝の言葉を、あるいは、閉店を惜しむ言葉をいただくたびに、本を通して、読者というお客さんと、〈通交〉できたことが、本当にすばらしいことだったという思いを強くした。
           書店という場を通して本との出会いを大事にする人たちが、確実にいる限り、出版・流通業界の未来は、ゼロでもマイナスでもないと、わたしは断言したい。

          2006.06.07 Wednesday

          最近の〈事件〉に思うこと

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             いろいろなことが、生起していて、そのことに対して様々なことを思う。どのことから触れるべきだろうかと考え、逡巡してしまう自分がいる。饒舌であることは危ういよと、囁く声が聞こえる。だからといって、沈黙や無関心は、わたしにとって納得できないものだ。とりあえずは、“故郷”で起きた事件に、なにかをいうべきかもしれない。
             水死した少女の母親が、逮捕された。TV、新聞、週刊誌といったメディアの相変わらずのファシズム的報道に、辟易している。事件を喚起しているだろう人物をひとつの鋳型に押し込め、やはり、自分たちとは違う異常な人格だったと安心させる(あるいは、安心する)。娘に対して愛情が稀薄だったと喧伝されるこの女性の、日常的な振る舞いと、わたしが電車に乗って出会う若い母親や、街中で見かける若い母親の振る舞いとそんなに違いがない印象を与えるのだ。年長のものにとっては、親が子に対する定型的な接し方はとうに解体しているのだと思うべきだといっていい。なにをもって、逮捕された母親だけが、殺人を犯したであろうと推察させる特別な性格や資質を持っていたというのだろうか。
             誰にでも起きうることだし、誰にでもふりかかることだと、わたしは、〈事件〉というものが生起するたびに、いつも思っている。

            2006.05.30 Tuesday

            寄席の世界に魅せられて・5

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               寄席のシステムについて、まったく無知だったことが分かった。東京都内には現在四つの演芸場があり、それぞれを落語協会と落語芸術協会が分担しながら定席(といういい方の公演)を行っている。新宿末広亭でいえば、十日ずつの定席を交替で行い、最初の十日を上席、次ぎを中席、最後の十日を下席というようにだ。
               昨年の12月、初めての寄席体験は、たまたま都合上、落語芸術協会の定席の時だった。だが、わたしの思い込みを払拭するかのように、基本的には古典落語中心であった。昼夜入れ替えなしで、昼の部は12時から4時半まで、夜の部は5時から9時まで。わたし(たち)は、4時ごろの入席だった(以降、だいたいその時刻に入り、終演までいる)。
               平日の、その時刻にもかかわらず客席は、結構埋まっていた。この初めての寄席体験であらためて認識したことがある。いわゆる“色物”といわれる芸になんともいえない魅惑性があったことだ。この日は、俗曲、漫談、物まね、曲芸などだったが、手品や紙切り、太神楽もある。
               あの三代目・江戸家猫八の娘、江戸家まねき猫(母違いの長男・小猫はなぜか、落語協会の方に所属している)がでていた。テレビで何度か見ていたが、ライブはやはり、臨場感があっていいし、アドリブも効いていて、物まねは、ひとつの“芸”なのだとつくづく感じた。

              2006.05.24 Wednesday

              寄席の世界に魅せられて・4

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                 切っ掛けは、ほんの些細な会話からだった。昨秋、久しぶりに会った落語好きの年長の友人に、昨年前半に放映された落語をモチーフにしたTVドラマがあり、しっかりはまってしまったわたしは、そのことを振ってみた。しかし、友人はそのドラマをまったく見ておらず、そのかわり思いがけない話をわたしにしてくれたのだ。ここ数年、ちょっとした縁で、圓生の弟子だった噺家の人と親しくなり、いろいろ圓生師匠の貴重な話を聞いているというのだ。わたしは、思いがけずも出た圓生さんの話題に、彼の話を熱心に聞き、なるほど、弟子の中でも秘書のような近いかたちでいたひとでなければ知らないような面白い話だと思い、つい、聞き書きにして本にしたいですねと彼に提案してしまったのだ。彼も、自分だけが聞くのでなく、落語好きの人に残すべき話だと思っていったらしく、その噺家さんに打診してみようということになったのだ。最初は逡巡したらしいが、とりあえずは承諾してくれたのだが、間もなく、なにか手術のため入院してしまったのだ。その友人はここ一年ほど前から、その噺家(もちろん真打である)さんから毎月、新宿末広亭の招待券2枚を送って貰っていたのだ。入院した後でも送ってくるので、わたしに一緒に行かないかと誘われたのが、そもそも、寄席へ行き始めた切っ掛けであった。昨年の12月のことである。

                2006.05.22 Monday

                志水辰夫を読んで・4

                0
                   志水辰夫の最新短編集『うしろ姿』にはめずらしく、「あとがき」が付されている。しかも帯の惹句に、“著者最後の短編集”とある。なにか感慨深いものを感じた。
                   「あとがき」には、こんなふうに書かれている。
                  「小説というスタイルそのものが、現代をとらえるにはもう適切でなくなっているのではないかという思いを捨てきれないのだ。(略)わたしの小説、とくにこの本に収めた作品などすでに過去のものである。過去のスタイルであり、過去の価値観という畑でつくりだした作物にすぎない。」
                   かつて、内村剛介というロシア文学者が、ロシアの詩人の言葉を援用して「過去こそ未来」ということを述べていた。わたしは、その言葉をある障壁の前に立った時、自分が拘ってきたことへの迷いを振り払う膂力の根拠としてきたように思う。過去を見つめていくことで、はじめて、未来への通路が開かれていくことになるはずだと。あるいは、過去をただ思い出のごとく回想するのではない、凝視して、“いま在ること”を思うことによって、はじめて、明日か明後日ぐらいまで(数日先であっても、わたしたちにとっては未来なのだ)のことは考えていくことができるのだと。
                   誰もが、自分が生れた時代を無意識のうちに背負って生きているし、とくに青春期のことが、その後、生起する様々な出来事に対峙する膂力の源泉になっていると思う。わたしは、いわゆる戦後生まれの世代だ。しかし、“十五年戦争時”のこと以上に、“十五戦争の後”ということを、親たちから、あるいは先行する世代が書き記したもの(もちろん、志水辰夫の多くの小説世界もそうだ)から、多くのことを教えられてきた。そして、わたしもまた微力ながらも、後の世代に、なにがしかのことを伝えてきたつもりだ。過去とは現在へ繋がるアクチュアルなものだという考えを、最近、しきりに思うようになった。確かに、時代の動きは拙速だ。しかし、変容は、表層の部分だけだとわたしは思う。その深層部は、見えにくくなっているだけで、そんなには違っていないと確信している。つまり、まるで網目のような〈戦争が露出した〉といういい方が、当て嵌まるように。〈戦後復興〉などというまやかしの言葉が、遠い西方の国に投げ掛けられている。だが、傷痕は深くて、すぐに消えるものではない。何十年かかっても、〈精神の復興〉はありえないといいたい。
                   「トマト」の啓吉、「ひょーぅ!」の真幸と俊子、「雪景色」の康治、かれらの“戦争の後”の苦悩を、わたしはリアルなものとして読んだ。小説というものが、「現代をとらえるにはもう適切でなくなっている」かもしれない。。しかし、例えば、戦後の混乱期の模様をドキュメンタリー映像やニュース映像で、見せられたとしても、どれだけの若い人たちが感応するだろうか。ただ映像だけの力では、出来事の深奥を伝えきれるものではないと思う。そこにはやはり確かな物語がなければ伝わらないといっていい。だからこそ、小説による物語の力を、わたしは支持したいと思っている。瞬時に流れる映像よりは、言葉による伝達をという意味で。あれほど、携帯のメールに夢中になって言葉を紡いでいる若い人たちが、過去から得る言葉の物語を理解できないわけはないと思いたい。
                   「あとがき」の最後を「この手の作品はこれが最後になります」と締めくくっている。読者としてはこういういい方をしてほしくないのだ。“この手”だろうが、“あの手”だろうが、志水辰夫が、紡ぎ出す物語は、どんなものでも、まるごと志水辰夫の物語なのだから。
                   (本文は、05.12.28の「志水辰夫メールプラザ」に、掲載したものをもとに改稿した) 


                  2006.05.19 Friday

                  寄席の世界に魅せられて・3

                  0
                     ところで、わたしは落語を積極的に聴くことをあるひとつのことを契機として、止めていた。それは、1978年に起きた、いわゆる圓生一門による「落語協会脱退事件」のことである。周知のように、落語界には、ふたつの組織団体があって、大雑把にいえば、古典落語を演目の中心に据える「落語協会」と、新作落語も積極的に行う「落語芸術協会」がある。圓生一門は、当然、「落語協会」に属していた。圓生自身も長らく会長の任にあって、自らを範として、一門を越えて後継を育成してきた。長く職にあることを嫌い、柳家小さんに会長職を信頼して委譲。しかし、簡単にいえば実力主義か年功序列主義かというせめぎあいのなか、小さんは、幹部会の一部反対(圓生、志ん朝)を押し切って、“真打”の大量昇進を決めてしまったのだ。落語界の将来を考え、徹底的な実力主義を提起する圓生にとっては我慢ならないことだった。俗にいう「真打乱造事件」(乱造といういい方をされるように、非は小さんたちにあるのはいうまでもない)という圓生一門が協会を脱退する事態を生起する。はじめは圓生の芸や主張に共感して、多くの噺家たち(志ん朝、円鏡、談志といった面々)が随伴する予定だった。しかし、小さんたちによる激しい切り崩しにあって、結局、圓生一門だけの脱退というかたちになってしまったのだ。なかでも、一番、可愛そうだったのは、志ん朝である。誰もが、その実力をもって圓生の真の後継者は志ん朝であるとされていたし、志ん朝本人も圓生を敬愛してやまなかった。圓生にしてみれば、自分の考えに志ん朝が賛同して随伴してくれたことが最大の決起した本意だったのだ(最近、読んだ本で知ったことだが、落語協会から離脱して新しい協会が立ち上がったら、その会長に、自分の後直ぐにでも志ん朝になってもらうことを決めていたようだ)。しかし、兄の馬生や寄席の席亭に説得されて、なくなく脱退するのを翻意する(苦渋に満ちた表情で会見した志ん朝の顔は、いまだに忘れることはできない)。数年後、志ん朝はライブで、枕として、相変わらず真打が大量に昇進してしまっていると、皮肉交じりに話している(最近、CDで確認した)。忸怩たる思い、いくばかりのものだったろうか。ついに会長職(結局、小さんの長期政権が続いていた)に就くことなく副会長のまま、ひたすら芸に精進してきた志ん朝の早すぎる死の遠因は、そのことが潜在し続けていたからだとわたしは思っている。
                     1979年9月3日、79歳の誕生日に小噺『桜鯛』を演じた直後、心筋梗塞で圓生は急死する。わたしは、唯一、圓生を亡くなる数ヶ月前、ホール落語(すべての寄席から締め出されていた)だったが、聴くことができた。しかもそれが、わたしにとって初めての落語ライブ体験であった。以降、わたしは、『圓生全集(カセットテープ版)』を購入、時々はかけて聴くというかたちの落語との通交が続くだけになった。

                    2006.05.17 Wednesday

                    志水辰夫の小説を読んで・3

                    0
                       一昨年のことだった。『志水辰夫めもらんだむ』というサイトの掲示板に以下のようなことをわたしは書き込んだ。

                       【新潮文庫版『裂けて海峡』について】
                       志水さんの著作は、単行本を所持していても文庫化、再文庫化に関わらず、すべて購入してきました。確か以前、誰かが文庫化の時、志水さんはかなりの改変を行っていると書いていたと記憶していましたが、作家としてそれは当然だと思うし、わたしはいままで、検証(おおげさな言い方ですが)はしてきませんでしたが、今回、ふと思い立って、なにげなく講談社文庫版と較べて見ました。
                       最終行です。
                       「南溟。八月。わたしの死。」(講談社文庫版)
                       「南溟。八月。わたしは死んだ。」(新潮文庫版)
                       そんなのどっちっだて、同じじゃないか、という声が聞こえてきそうですが。わたしは、わずかな言葉の改変でこんなにも違うイメージを与えるのかという思いです。 ― 2004.8.31

                       わたしの、書き込みを切っ掛けに、ちょっとした論争がこの掲示板で沸き起こり、ついには、志水辰夫が『ラストの改変について』という文章をサイト上に発表した。わたしは、なにもここで自慢話をいいたいのではない。いずれこの作品について具体的に触れるつもりでいるが、かつて読了した時、名詞止の最終行が、物語の終景とともに強い印象を与えていつまでも脳裏から離れなかったから、「死んだ。」という書き方に一瞬、戸惑っただけにすぎない。いまここで、志水の文章を詳述はしないが、志水自身、名詞止にしたことをずっと逡巡していたことが、分かった。もともと、「死んだ。」としたかったのを「死。」としてしまったことをだ。志水にしてみれば、改変ではなく、もとに戻したという気持だった述べている。

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