プロ化され、TV中継(プロ化以前は、せいぜい天皇杯が正月に中継され盛り上がった程度だった)によってより広く伝播され、日韓共催WC開催によって、野球に変ってサッカーは完全に子供たち(むろん大人たちも)にとって一番の人気スポーツになった。大衆酒場で、相撲中継や野球中継を見ながら、にわか評論家になって盛り上がるといったことは、遠い昔の出来事になってしまったようだ(少なくとも、サッカー中継で評論家的視線で楽しく見ることは難しい)。確かに、野球に比べたら、サッカーの世界的な普及率は高い。しかし、どうもわたしは、サッカー・ゲームに感情を移入することができない。なぜだろう。個別的に選手個人の魅力というものを考える時、サッカー選手は、なにか画一的な感じがしてならないのだ。それは、試合の戦術化にあると思う。フォーメーションといって、三つの役割分担の選手配置を1−2−3−4とか、2−4−4とかをあらかじめ決めて行うことに釈然としないからだ。野球の打順や守備位置と似て非なるものなのだ。いや、いまここでいいたいのは、サッカーに対する疑念ではない。なぜ、かくも野球人気が低迷しているかということなのだが。サッカー人気が高まるにつれて、野球人気が下降気味である以上、やはり、サッカーについてなにがしかのことをいわずにいられないのだが、ここでは、これぐらいにして、このあと本論に入っていこうと思う。

 「理想」という言葉は、なにやら青臭いイメージが付き纏っているかもしれない。しかし、なんの衒いもなく率直にその言葉を発することができるとしたら、それは確かにすばらしいことに違いない。

  いまの僕は、人を評価する時「人間力」で判断します。人間力とは、理想の可能性を考える力があるかないかということです。ある職業に就いて10年、20年経てば専門家になれます。才能なんて意味がない。たとえば、学者を10年やったからといって偉いということはない。人間の理想とはなんだろう、あるいは、理想の可能性はどこにあるんだろうと考え、そういう道筋をつけながら自分の専門の職業に関わっている人の「人間力」を、評価したいと思います。(吉本隆明「『理想』の可能性」)

 八十歳を過ぎて、なおもこのように述べることができることに、わたしは深い感慨を覚える。「理想の可能性」といういい方、「人間力」という捉え方、そして、「職業」というイノセントなたて方、どれも、言葉が際立つということは、こういうことをいうのだ。
 そして、わたし自身はというと、まだまだ入り口で立ち往生しているに過ぎない。

同じく、文面2。

 『貸本マンガRETURNS』(ポプラ社刊)という本が出た。「貸本マンガ史研究会」の六人のメンバーが書き下ろしで執筆したものだ。
 わが国の高度成長期前、つまり、〈戦後〉という意識が依然、潜在していた時期の、十年にも満たない「貸本マンガ」隆盛期に焦点を当てて論じた本書は、戦後史を視角にした尖鋭な文化論だといっていい。わたし自身のことでいえば、ほぼリアルタイムで、白土三平の大著『忍者武芸帖 影丸伝』を貸本屋から借りて読了した。そして、当時、中学一年生だったわたしにとって、どんな文学作品や映画作品よりも大きな影響を与えてくれた物語作品だった。その後、白土作品を読むために『ガロ』を購読し、つげ義春、つげ忠男、林静一といった漫画家を知ることになり、わたしのアドレッセンス前期は、いわゆる『ガロ』系漫画に耽溺した時期だった。
 ところで、この本を契機として、ネット上である論争が生起している。NHKBSで放映されていた、漫画作品をテーマにした討論番組でたびたびコメンテーターとして登場している夏目房之介が、自身のブログ上でこの本の、〈戦後〉をタームにした捉え方に疑義を呈したのだ。わたしは、ややこじつけがましい夏目の視線は無視していい低レベルのものだと思ったのだが、当事者たちは、そうはいかないようだった。執筆者たちと夏目との激しい応酬が交わされていくことになった。夏目に数多くの漫画に関した著作があることは知っていたが、わたしは一冊も目を通したがことがない。BSの番組での夏目のコメントのあまりのつまらなさ(どうでもいいコマ割りに対するコメントが象徴していた―もちろん、コマ割りは漫画論の重要な視点ではあるが、夏目の論点は、自身の分析にただ悦に入っているといった空疎なものであった)に、辟易したからだ。
 ようするに、この論争、漫画に対するイノセントなスタンスの違いだといえる。「貸本マンガ史研究会」のメンバーは、ほんとうに漫画(貸本マンガ)というもの対して愛惜溢れる思いを抱いているのだ。夏目には、それがない。漫画評論・研究をただ生業にしているだけの視線しかもっていないのだと、わたしはみている。(06.4.23記)

ブログをこうして開始する前に、実は、トレーニング的な公開日記をやった。以下はその文面・1。

日々のことを記すのは、やはり逡巡する。メモ程度に出来事だけを記述するということを、これまでやってきたとはいえ、いざ、身辺についてなにかを記述するというのは、気が重い。……仕事で、2000字ほどの文章を書き終えたこともあって、どうも気の効いた言葉が出てこない。要するに、こんな(失礼!)、公開を前提とした日記(ブログの類い)が、伝播し、支持されていることに戸惑いつつ、自分までもそれに乗ってしまったことに驚いている。
とはいえ、とりあえず、着手した以上、何かを記さねばと思い、考えついたのは、TV画像に映った、小泉と小沢についての所感を述べてみることだった。つまり、例の千葉の参院補選のことだ。ワン・フレーズのコイズミは、いつになくボルテージがあがっている。まもなく首相・総裁(本当かな―続投も何パーセントかはありそうだが)の座を辞す予定の人物とも思えない沸騰の仕方だ。憎き田中派の最後の象徴と認識しているからだろう、なりふり構わない、小沢個人攻撃だ。それは、彼の皮相さを表わしているといってもいい。一方、小沢は、わたし変わりましたスタンスだ。しかし、よく見ると、なにも変えていないことが、よく分かる。そこが、彼らしいところだといっておこう。
いったい、なにをいいたいのかといえば、結局、デモクラシーというものは、選挙によって民意が反映されるものだと、思うことが、既に崩壊したテーゼであることを、了解すべきだといいたいのだ。みんなに(特に千葉の選挙区の人たちに)、棄権を呼びかけたい。そして、投票率、50%を切った選挙はすべて無効にして、その選挙区の議員をゼロのままにしておくということだ。それが、最も民意を反映したことになる。政治家なんて、一人もいなくても、わたしたちは生きていけるのだから。(06.4.21記)


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