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2014.09.19 Friday

神を一つの「アブラハムの物語」として包括                                 ――アメリカとイギリスというアングロ−サクソン勢力が、なぜかくも長く、いまだに世界の中心でいられるのか、今後も居続けられるのか

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    ウォルター・ラッセル・ミード 著、寺下滝郎 訳
    『神と黄金 GOD AND GOLD
    ――イギリス、アメリカはなぜ近現代世界を支配できたのか(上・下巻)

    (「図書新聞」14.9.27号)

     本書は、「歴史にかんする本ではあるが、歴史書ではない」としながら、「世界の歴史にとって大国アメリカが存在する意味について考察している」と著者は述べている。いささかレトリックに満ちた言明に思われるのだが、それは、「われわれは大国アメリカの根源、基盤、影響、永続性について深く考えたことがなく、われわれの特別な世界的地位にともなう主要な責務、リスク、限界、特権、コストにたいする感覚が社会全体として乏しい」という考えが著者にはあるからだ。本書に付された著者の履歴によれば、バード大学(アメリカで最もリベラルな校風を有していると評されていて、ハンナ・アーレントらナチス・ドイツから亡命してきた難民の避難場所を提供したことでも知られている)の外交・人文科学教授である。また、以前、外交問題評議会(CFR)にも所属していた。それをもって、保守本流の考え方が窺えると評している記事を目にしたが、本書を読む限り、見当はずれな捉え方であることがわかる。
     「神が自由主義者であるということは、イングランド宗教改革以来、英語圏勢力が抱いてきた偉大な確信であったが、もしも歴史が神意を映す鏡であるならば、彼らは正しかった。十六世紀以降すべての世紀においてアングロ‐アメリカ勢力は手ごわい反自由主義の敵対勢力と対決してきたが、世紀が終わるごとにアングロ‐アメリカ勢力とその世界秩序はその世紀の初めより揺るぎないものとなっていた。アングロ‐アメリカ勢力は自由民主主義的資本主義にますます依存するグローバル貿易体制の構築をめざしてきた。彼らの敵はアングロ‐サクソン人の慣行と考えに抵抗し、それらの破壊的影響から自分たちの社会を防護するための壁を築こうとした。だがその壁は必ず崩れる。アングロ‐サクソン人はこのパターンについて、神が、少なくとも自然の力が、そう望んだとおりの道筋を世界が辿ったまでのことだと信じている。」
     著者が想起する「歴史」は、当然、記述された歴史のことではない。「歴史が神意を映す鏡である」というような、ある意味、歴史的必然といったことに収斂されていくといっていい。それは、神(宗教)をキリスト教や、ユダヤ教、イスラム教と分岐させていくのではなく、ひとつの「アブラハムの物語」として包括させて見通すことを意味する。「アブラハムの物語を確固たるものとしたのが資本主義の物語である」としながら、著者は、次のように述べていく。
     「多くの伝統的な前資本主義的社会では、歴史はどこか抽象的な観念であった。人びとが自らの生活のなかに変化らしい変化をほとんど感じないとき、アブラハムの大局的な歴史観は自分たちとは縁も所縁もないものであるように思われた。(略)資本主義の登場がそれを変えたのである。歴史はひとの人生にかかわる実体を持つ存在となった。(略)資本主義によって可能となったアブラハム思想の勝利は、歴史上これに匹敵するものが見当たらない。かくも広範囲にわたって、かくも強烈に世界を変えた運動は他に一つもない。」
     もちろん、このような見立てをわたしたちが肯定するかどうかは、いまここでは問題にはしないつもりだ。少なくとも、著者は社会科学的分析を叙述しようとしているわけではない。既に、著者の中には資本主義という概念は、自由で民主的で開かれた社会という位相が確定しているからだ。それゆえ、政府統治機構(いわば、民衆との権力関係)については、まったくコミットしていないとはいえ、資本主義といわれるシステムが、なぜ多くの国々の社会構造の範となっていったのかを指し示す、ひとつの刺激的な論及であることは間違いない。
     ところで、本書の大きな眼目は、アメリカとイギリスというアングロ‐サクソン勢力が、なぜかくも長く、いまだに世界の中心で居続けられていたかということであり、今後も、居続けられるのかということである。著者による歴史的視線は、アングロ‐サクソン勢力の源泉を「海洋国家秩序」、「海洋国家システム」という概念で捉えている。例えば、「海洋国家秩序を攻撃から守るうえでの力学と危険性についてもっと深く理解しておけば、ブッシュ政権は九・一一後におかした手痛い過ちのいくつかを避けられたであろう」という。大西洋によって繋がるイギリスとアメリカという強固なアングロ‐サクソン国家体制を海洋国家と称していると見做していいと思うが、ここでもまた暗喩化された概念として捉えるべきである。「一極体制はアングロ‐アメリカ勢力が海洋国家システムの歴史を通じて採用してきた最も理想的な形態でも最も典型的な形態でもないということである。過去を顧みれば、一極世界から新たな世界秩序――多くの国に発言権を認める海洋国家システムと両立しうる世界秩序――への移行は、アングロ‐アメリカ勢力の衰退の現れではなく、むしろ外交の成功と国際情勢の幸福な流れを示している」と述べながら、アジア(主としてインドと中国)との均衡維持と、アラブ世界との親近性の必要を解いていく。
     「人間の本性に適合した社会は落ち着きのある場所ではなく、永遠に騒々しい社会なのかもしれない。その意味において、資本主義社会の永続革命は、発展と成長を指向する人間の本能的衝動を完全に満たす唯一の人間社会の形態であると言える。」
     逆説的にいえば、本書は、帝国アメリカに対して〈内〉からの立場で理想のイメージを析出しようとしたものだといっていいかもしれない。だが、わたしたちから見える現実の帝国アメリカの執政者たちの政治的軍事的並びに経済的戦略は、著者の考えとは遠く離れた稚拙で横暴で独善的なものになっているのだ。著者が海洋国家秩序や多極的国際秩序、自由資本主義秩序というように、幻想の秩序へと仮託すればするほど、反秩序を象徴する現実の帝国アメリカの像が、いやおうなく、わたしには想起せざるを得なくなるといっていい。

    (青灯社刊・上巻14.4.30、下巻5.30)

    2014.09.06 Saturday

    単なる大衆娯楽ではなく、時代の真の姿を伝える記録としてのハリウッド映画

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      曽根田憲三 著『ハリウッド映画でアメリカが読める』
      (「図書新聞」14.9.13号)

       アメリカの社会や文化を象徴するものとして、わたしなら、映画とベースボール(考えてみればベースボールをモチーフにした映画作品も数多く作られている)を挙げてみたくなる。今年はサッカーのワールドカップ開催年ということもあり、大いに盛り上がっているようだが、わたしは、ニューヨーク・ヤンキースやテキサス・レンジャーズの試合を中心に、ひたすら、メジャーリーグ中継を見ている。そういえば、アメリカを「帝国」と見做すように、ヤンキースも「悪の帝国」と揶揄されるほど強い時期があった。わたしは、アメリカという国に好感を抱いてきたわけではないが、ハリウッド映画(わたしのベストワン監督は、ロバート・アルトマンである)はそれなりに見てきた。だが、映画を一番多く見ていた20歳前後の頃は、どちらかといえば、ヨーロッパ映画の方が好きだったし、見る作品としては、日本映画(その後はアジア映画にも魅せられていった)が圧倒的に多かったといえる。
       本書は、「黒人」、「女性」、「犯罪」、「西部劇」、「SF」、「怪奇」、「ミュージカル」といったキーワードによって、ハリウッド映画を、「単なる大衆のための娯楽ではなく、その時代の真の姿を笑いや涙とともに映像で伝える極めて重要な文学であり、現実の偽らざる記録である」と捉えて、その分析を通し、アメリカという国家、社会の実相を浮き彫りにしている。最初にテクストとなる、「黒人」や「女性」をめぐる映画作品は、ある意味、アメリカという国家の暗渠を示唆していくものとなっている。トーマス・ジェファーソンが起草したという、“全ての人間は平等”であることを高らかに謳った1776年のアメリカの独立宣言をもって、世界に先駆けた民主主義国家が誕生したとされているが、それは、明らかな虚妄だといっていい。参政権だけを取り出してみれば、一部の特権階級だけに認められていたものを、とりあえず男性全般に容認されたのは、それから百年後の1870年だった。女性に対しては、五十年後の1920年、黒人に関しては、1965年で、まだ五十年も経っていないのだ。
       「一九六〇年代の人種問題に関する特徴の一つは、それに対する大衆の態度の変化の速度である。映画業界は六〇年代半ばまではそのリズムと歩調を合わせていたが、ジョンソン政権(1963-69)の時代になるとスピード感覚を失って、大衆の心を掴み損なってしまったかのように見える。(略)一九六〇年代が終わり、七〇年代に突入すると、大学キャンパスの占拠や反戦デモ、黒人たちの公民権運動、フェニミズムの台頭などで騒然としていた社会は次第に落ち着きを取り戻し、数年のうちに社会全体のムードがドラマチックに変わっていくのである。」
       その後、現在に至って、思いつくままに黒人監督、俳優たちを挙げれば、スパイク・リー、デンゼル・ワシントン、サミュエル・ジャクソン、ハル・ベリーとなり、いまやハリウッドを席巻しているといってもいい。
       レディー・ファーストなどという習慣は、男性優位の裏返しだと思うが、映画における「女性」に対する視線も、そのことを象徴していたといえよう。著者は、フィルム・ノワール(探偵映画や犯罪映画を総称していわれているが、もっと、広義に捉えてもいいと思う。わたしなら、アンチ・ハッピー映画といいたい)の台頭によって、女優が演ずる「男性の主人公に従順で魅力的な恋人、良き妻あるいは母親」像が壊れっていったと評価し、次のように述べていく。
       「ハリウッドのクラシック映画におけるロマンスの公式を破壊することにより、フィルム・ノワールは我々のイマジネーションを掻き立てる結婚神話を崩壊させ、伝統的な制度に疑問を投げかけた。」
       戦後のハリウッドの中心にあったのは、ミュージカル映画だったと思うが、それに代わってSF映画が台頭していったことは、アメリカの現在を象徴していると、わたしは思う。著者は、五〇年代の作品は、「偏執病的と表現されるように、(略)描かれた世界は恐怖に縁どられた、陰うつな雰囲気が漂う息苦しいものだった」という。これは、「四〇年代後半からアメリカ全土に吹き荒れた共産主義者への脅威と憎しみが象徴しているように、冷戦構造の中でアメリカと対峙していた共産主義社会のリーダーたるソ連」に対する「猜疑心や警戒心から生まれた度重なる核実験への大衆の不安や恐怖」に満ち溢れていたからだということになる。やがて、冷戦構造が終焉し、アメリカ的グローバリズムが席巻していくとスターウォーズシリーズ(最初に公開された三部作は評価するが、それ以降のものは、まるでアメリカ帝国主義史のようで共感できない)のようなものが、中心になっている。『ブレードランナー』や『カプリコン・1』、『猿の惑星』(続編やリメイク版に関心はない)のような作品は作られることは、もうないのだろうかと、懸念をいだくのは、わたしだけではないと思う。

      (開文社出版刊・14.3.10)


           

      2014.06.14 Saturday

      猫たちへの向かい方は、人間への向かい方にも通じる            ――諦めたり断念したりせず、最後まで辛くても寄り添うこと

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        ハルノ宵子 著『それでも猫は出かけていく』
        (「図書新聞」14.6.21号)

         数多く刊行されている猫関連の本のなかでも、本書は、傑出していると断言していい。なぜなら、著者のように、家猫、外猫に関わらず、多くの猫に対し、徹底した無償の愛情を注ぎながらも、その注いでいく場所は、同時に、わたしたちが生きている時間と空間へ、なんの外連味もなく重ねあわされているからだ。
         本書は、隔月刊誌『猫びより』に、05年9月号から13年11月号まで、八年間にわたって、「ハルノ宵子のシロミ介護日誌」と題し、連載された文章とイラストをまとめたものだ。著者が住む家にお寺が隣接していて、そこは、野良猫の溜まり場であるとともに、猫が捨てられていく場所でもあった。連載開始の一年前に、「東京駒込の名刹に、生後3ヶ月の真っ白な仔猫」が捨てられていたという。この仔猫は、「脊髄の末端『馬尾神経』を損傷し、排便排尿困難」の状態であったのをシロミと名付け著者のもとで“生活”していくことになる。
         「これまでの我家の猫歴ですが、血統書付きを購入したり、ピカピカの健康体で貰われてきたりした猫は1匹もいません。ほとんどが、弱って動けなくなったノラや捨て猫を保護し、家に入れることになったというパターンです。/そのため歴代の猫たちは最初からハイリスクで、お決まりの慢性鼻気管炎や腎不全、肝不全に始まり、エイズ、伝染性白血病、胃ガンに脳腫瘍まで、ありとあらゆる病気の見本市のようでした。(略)『(略)看病の労苦と、看取る側のツラさを味わいつくしたな。もうコワイモン無しだぜ。何でも来い!』と思っていたら、やって来ました!この『シロミ』です。」
         こうして、悪戦苦闘、試行錯誤の日々が始まっていくなどと、簡単に記すことが、憚れるほど、著者の奮迅は凄い。獣医師との遣り取りや、その距離感の取り方は、猫たちの命をなによりも切実なこととして思い続けている著者だからこそ出来ることだ。優柔不断なわたしなら、獣医へ行かずにいるか、行ったとしても獣医のいうままに対処するかのどちらかになってしまうだろうなと、思ってしまうからだ。
         本書では、シロミをはじめ、多くの猫たちが登場する。漫画家である著者だからこそ、猫たちのイラストは、実にいい。イラストの猫たちを見ているだけで、なぜか癒されてくるから不思議だ。いや、著者の画力と表現力を考えれば、当然のことだというべきかもしれない。シロミ以外の猫で、取り上げるべきは、やはり、著者の父(吉本隆明)が愛しんだフランシス子であろう。
         「我家の長老、『フランシス子♀』が急逝しました。(略)17才になって間もなくのことでした。猫カゼをこじらせて慢性の鼻炎となり、数日間ほとんど食べることができませんでした。(略)慌てて病院に連れて行くと、急激な肝不全から腎不全も起こし、ひどい脱水と黄疸、既に危篤状態でした。(略)そのまま病院に預けましたが、翌日の午後、死亡の知らせを受けました。/家に戻ったフランシス子は、まだ温かくお腹はプヨプヨしていました。翌日の夕方、葬儀社が来てくれることになったので『玄関に置いておくよ』と言うと、父は『いや……、オレんとこの風習では、死んだ人とは1晩一緒に添い寝するんだよ』と言うので、父の枕元にフランシス子の箱を置きました。悲しみを表現できない不器用な父ですが、喪失感の深さを感じました。」
         著者は、そういう父とフランシス子は、「相思相愛な二人」だったという。そして、「フランシス子の死から、9ヶ月と1週間目」の12年3月に、著者の父が亡くなる。その間、著者は乳がんの手術をしている。さらに続けて、10月には母も亡くすという事態に著者は遭う。
         著者は、重病のシロミを抱えながらも、同居する両親の介護にもあたっていた。猫たちの介護に際して、著者は、次のような「明確な基準」を述べている。
         「●食べたい!(食べようとしている)/●この世界の何かに興味を持って見ている。/このどちらか一方でも残っている場合は、できる限り、その生きようとする力の手助けをすることにしています。猫で言えば、食欲が無くなり、口から物を食べられなくなっても、おもちゃに興味を示して手を出そうとしたり、動けなくなっても飼い主の姿をうれしそうに目で追ったりしている内は、決して放置や安楽死は考えないと決めているのです。」
        見事な基準だなと思う。例えば、わたしなら、すぐに、「飼い主」を「家族」や「親しい人」と置き換え、病気や老いによって、「死」の予感を漂わせている人への視線としても、とても大事なことではないかと思う。諦めたり断念したりせず、最後の最後まで、辛くても寄り添うべきではないのかと、猫たちへの向かい方を通して、著者は、わたしたちに問うている気がしてならない。
         最後に、著者の父の不在に対してシロミがとった行動を描写した箇所を引いておきたい。
         「父が亡くなってから10日後、NHKの『ETV特集』で父の講演の再放送をやっていたので、観るともなしに流しながらキッチンで洗い物をしていました。(略)すると奥の客間で寝ていたシロミが、すっ飛んできました。テレビの画面をじっと見つめながら、耳をピンと立てて左右に動かし始めました。(略)それから父の姿を捜して書斎を覗き、もしかして奥の客間でお客さんと話しているのかもと、再び客間に走って行きました。その姿を見たら、“おめでた”すぎて、疲れすぎて、これまで泣くこともできなかったのに、初めてボロボロと涙がこぼれました。」
         シロミは、著者・ハルノ宵子(吉本多子)さんの思いを、無意識のうちに汲み込んでいるのだ。それは、もはや、飼い主と飼い猫という境界が無化されていることを意味しているのだと、わたしは思う。

        (幻冬舎刊・14.5.10)

        2014.05.31 Saturday

        海のように開かれた感性が伝わる―――師や敬愛する人たち、友人たちとの交流を自在に織り込みながら綴るエッセイ群

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          小川雅魚 著『潮の騒ぐを聴け』
          (「図書新聞」14.6.7号)

           書名がいい。直感でものいいすることは、本意ではないが、「潮」が「騒ぐ」といういい方だけで、なぜか、懐かしい海の匂いが漂ってくるような気がする。もちろん、わたしは、海の見えるところで生まれ育ったから、懐かしいというのではない。日本という場所は、海に囲まれた列島・群島であることを思えば、海は、ある意味、開かれた母型の象徴でもあるのだ。母なる海といえば、やや大げさかもしれないが、いうなれば、そのようなイメージまで喚起するほどに、「潮」が「騒ぐ」といういい方をわたしは鮮烈に受け取ったといえる。
           そして開巻、愛知県渥美半島の地図が付されていて、直ぐに「伊良湖岬」の文字が目に入り、喚起されたイメージが見当外れではないことが、わかったのだ。柳田國男民俗学の集大成といわれる『海上の道』の構想の端緒になったのが、「伊良湖岬」であったことは、周知のことである。著者も本書で、次のように触れている。
           「明治三十一年(一八九八)夏、松岡(のちの柳田)國男は『まだ大学の二年生の休みに』、(略)二歳ほど年長の挿絵画家宮川春灯の故郷、渥美半島の畠村(いまの福江)をおとずれた。(略)地元の漁師たちと交わり、潮騒をきながら浜を褥にすることもあったという。(略)晴れた日には岬の突端、小山(古山とも)を一周して恋路ヶ浜まで散策するのを日課とした。ひと月あまりの滞在中、浜の寄物(漂流物)のなかに椰子の実を三度もみつけ、屈託はいつしかゆるんで、はるか彼方の南の島へと想いをはせる。」(「椰子の実と砲弾」)
           この椰子の実が、『海上の道』へと結実していくまでに、六十三年の歳月を要するが、その前に、柳田の詩作仲間だった島崎藤村の作詞によって「椰子の実」(1936年)の歌になったのは、これもまた周知のことである(また、伊良湖岬の南西に位置する神島は、三島の『潮騒』の舞台となっている)。この文章の後に、著者が伊良湖ビューホテルに宿泊した際、ホテルから見た水平線の絶景から、ゴダールの『気狂ピエロ』(67年日本初公開、わたしは、69年に初めて見ている)のラストシーンで語られるランボーの「永遠」という詩を思い出したと記していく。わたしもまた、そのシーンは鮮烈に覚えていて、ランボーの「永遠」を字幕から暗誦しようとして何回も見ている。著者の文章に接し、伊良湖岬からの水平線の絶景を、ぜひ見たいものだと素直に思ってしまった。
           本書の成り立ちは、『食と健康通信』という雑誌に年四回、07年秋から11年春まで連載した十五編を中心に、書き下ろしを加えたものだ。読みながら、著者は福江の出身であること、魚類がとにかく美味しいということ、特に鰻は絶品であることなどが、わかってくる。なによりも、著者は学生時代、久我山にある叔父の鰻屋で働き、鰻を捌き、蒲焼を焼いていたというから、凄い。食の話もそこまでくれば、感嘆しながら読むしかない。
           師や敬愛する人たち、友人たちとの交流を、自在に織り込みながら綴るエッセイ群は、海のように開かれた感性というものが伝わってくる。だが、それは自らのこだわりにたいして、揺るぎない確信のようなものがあるからだと、わたしは思う。
           「(ミルクイは=引用者付記)あまり大きくないほうが旨くて、ひばりでいえば、『柔』や『悲しい酒』の中期の姉御時代でも、『愛燦々』や『乱れ髪』の晩年の大御所時代でもなく、『お祭りマンボ』の十五歳からジャズを初めて歌った十八歳の頃、手のひらにすっぽり収まるくらいの大きさがいい。若さと成熟、可憐と豊饒、繊細と大胆、あらゆる対立要素が拮抗して絶妙なバランスのうえにある。」(「ミルクイは美空ひばりのジャズである」)
           「二度辞去して立ち上がったが、そういえば、と座りなおして、やっと三度目に、『いつでも電話してくれ』の声を聞きながら、玄関を出た。(略)ベランダ風の庭の手摺りに奥さんとふたり、肘をかけてにこやかに見守ってくれている。車の体勢がととのって最後にもう一度見上げたら、やはりおなじ姿勢、おなじ笑顔。北風に勝った太陽みたいな笑顔だった。(略)あの事件については、私はハナから聴く必要を感じたことはない。私もかつて海に出て、櫓を漕いで遊んだドウゲン坊主。以来、青の陰影に魅せられてきた。喧騒のあわいに、気がつくと、私の耳は潮の騒ぐを聴いている。/池永正明、いまも私のヒーローである。」(「青の陰影―池永正明に会いにいく」)
           わたしもまた、ひばりにたいしては、デビュー時から、二十代前半期までの歌が好きだ。わたしたちの青春期を思えば、「若さと成熟、可憐と豊饒、繊細と大胆」とは、なるほど確かにそうだ。
           小学生時代から憧れたヒーローに、念願かなって会い、濃密な時間を共有しえたのは、著者の揺るぎない思いが、池永に伝わったからだと思う。潮の騒ぐのを聴くということは、開かれた海のように自分が関わっていく人の声を聴くということでもある。それによって、関係性はかたちづくられていくものだよと、潮はいっているのだとわたしには思われる。

          (風媒社刊・14.1.25)

          2014.05.16 Friday

          “平凡ならざる日々”を活写――夏目鏡子の潔さのようなものは、そのまま孫娘にも受け継がれている

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            半藤末利子 著
            『老後に乾杯!  
            ズッコケ夫婦の奮闘努力(文庫オリジナル版)
            (「図書新聞」14.5.24号)

             わたしが、著者の文章に初めて接したのは、夏目鏡子述・松岡譲筆録『漱石の思い出』の文春文庫版(94年7月刊)の解説だった。そこで、書かれていた「漱石に関しての悪口を、祖母の口から私は一度たりと聞いたことがない。祖母はお世辞を言ったり、自分を良く見せるために言葉を弄したり陰で人の悪口を言うこともなかった。あれほど悪妻呼ばわりされても、自己弁護したり折りをみて反論を試みようなどとはしない人であった。堂々と自分の人生を生きた人である。(略)『いろんな男の人をみてきたけど、あたしゃお父様が一番いいねぇ』と遠くを見るように目を細めて、ふと漏らしたことがある。また別の折には、もし船が沈没して漱石が英国から戻ってこなかったら、『あたしも身投げでもして死んじまうつもりでいたんだよ』と言ったことがある。何気ない口調だったが、これらの言葉は思い出すたびに私の胸を打つ。筆子が恐い恐いとしか思い出せなかった漱石を、鏡子は心の底から愛していたのであろう」という、著者の視線に、ただただ驚き、感嘆したといっていい。そしてすぐさま、『道草』を読んで、鏡子悪妻説に加担していた、わたし自身の浅はかさを恥じたものだった(それは、同時に、『道草』への読解力のなさを露呈したことにもなる)。本書は、文庫オリジナル編集版であり、著者にとって五冊目の著書である。初めて、書名に「『漱石』とか『夏目』を使わなかった」ことになる。本書を読み終えて、祖母・鏡子に向けた視線そのままに、著者の文章から受ける疾走感に酔いしれた。著者の解説に誘われて知った、鏡子にある潔さよさのようなものは、そのまま、孫娘にも受け継がれていることに、わたしは、本書の文章群から理解することになる。
             「『夏目家の糠みそ』の周辺」、「『漱石山房』への夢」と章題にした文章群を巻頭と終章に配置しながら、「愛すべき人々」のことや食べ物のことなどとともに、野良猫から飼い猫になった、チャリンとポコとの通交、そして、その死、さらには、夫(半藤一利)との“平穏ならざる日々”を活写していく。「夫は書くことと飲むことしか能のないケチな物書きである」と記しながらも、帰りが遅い夫を心配して、「轢き逃げされたらどうするのだろう。なんて恐い想像を巡らしながら待っていると、胸がドキドキして気が狂いそうになる」としながら、「こんな苦労を積まされてきたから私の顔の皺は同年輩の女性達より多いのである」と述べていく。しかし、鏡子が漱石を「心の底から愛していた」ように、著者もまた、夫に対して、「胸がドキドキして気が狂いそうになる」ぐらい心配しているのだから、怪我や様々な病気が襲来しても、それを跳ね除けていけるだけの膂力を持った、熱い関係性がふたりの間にはあることが、伝わってくる。
             最後に、付しておきたいことがある。漱石終焉の地に、生誕百五十年を記念して、漱石山房記念館(仮称)の建設が計画されているという(基金を募っていて、問い合わせ先は、新宿区地域文化部文化観光課文化資源係)。それは、著者の父・松岡譲の夢でもあった。いま、半藤夫妻が、尽力している。「権力や権威とはほど遠い人」であった漱石は、長女・筆子の娘が関わっているのであれば、照れながらも、喜んでいるに違いない。

            (PHP研究所刊・14.2.19)

            2014.03.22 Saturday

            ジャンルを超えて多彩な表現をした、空前絶後の歌手としての美空ひばり―――――出演した映画作品を仔細に解析し、描き出されるひばり像

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              斎藤 完 著
              『映画で知る美空ひばりとその時代
                       ――銀幕の女王が伝える昭和の音楽文化

              (「図書新聞」14.3.29号)

               わたしにとって美空ひばりは、天才少女歌手でも、銀幕の女王でも、演歌の女王でもない。もう少し別様のいい方をしてみるならば、熱烈に支持していたわけでも、嫌いだったわけでもない。にもかかわらず、わたしのなかに、美空ひばりという存在は、絶えず、皮膜のように記憶の断片のなかで刻み続けられてきたといっていい。本書のなかへ入る前に、わたしの記憶の断片の一つを記してみる。中学一年の時だった。東北の小さな町の映画館で、公開されて一年ほど経って、ようやく見ることができた映画『モスラ』は、配給会社が違うのだが、『ひばりの佐渡情話』(監督・渡辺邦男)と併映だった。『モスラ』を見に行こうとした動機の一つに、ザ・ピーナッツが主題歌を歌うシーンを見たかったことにある。しかし、映画館を出た後、強い印象を植え付けられたのは、美空ひばりが歌う主題歌の方だった。映画の内容は、まったく忘れてしまったが、その時の記憶は、後年まではっきりと残っていった(ちなみに、わたしが好きなひばりの歌は、「哀愁波止場」と「ひばりの佐渡情話」である)。
               わたしは、東映時代劇映画を見て、育ったといっても過言ではない。それは、新諸国物語シリーズに始まって、中村錦之助(後年、萬屋錦之助)に共感を抱き続けていった時間性ともいえる。だから、必然的に錦之助とひばりが共演した作品は、何本か見ている。当時、二人の機縁は知らなかったが、小学生だったにもかかわらず、わたしは、二人が共演している場面には、なにか胸が締め付けられるような思いがしたものだった。映画監督・沢島忠によれば、ひばりが亡くなった時、錦之助は、夫人の運転する車で病院に駆けつけ、ひばりの遺体を抱きかかえ、車でひばりの自宅に連れて帰ったという。沢島は、「一番好きだった錦兄に抱かれて、帰宅したひばりちゃん、どんなにうれしかった事か」(『沢島忠全仕事』)と記している。
               映画の世界というものは、見る側にとってはもちろんのこと、演じる、製作する側にとっても、拡張されていく関係性を生起させていくものだ。影響力としては、いまは、テレビ、インターネットに後塵を拝しているとはいえ、映画には、物語力においてまだまだ、わたしたちに与えるものは、依然大きいとわたしは思っている。そして、なによりも、美空ひばりが、天才少女歌手として全国的に認知されたのは、天才子役として映画に出演したからだ。
               「美空ひばりという少女を全国に広めたのは映画です。(略)当時においてもレコードやラジオや雑誌がありました。しかし、やはり映画なのです。」「美空ひばりはそのキャリアにわたって、心ないバッシングをはじめとしたネガティヴな報道に晒され続けたのですが、その初期においては、このように非難されるべき流行歌をよりによって子どもが歌っていたということにありました。/忘れてならないのは、多くの人々の支持を勝ち得たのも、『子どもが流行歌を歌うこと』によってであったということです。そしてそれを目の当たりにできたのが映画なのです。」「銀幕に映し出された美空ひばりは、当時の知識人・文化人の常識の枠をはるかに超えていました。それに対して大衆は、子どもと音楽をめぐる従来的な価値観を覆すひばりを歓迎しました。もしかしたら、あるべき子ども像すら根底から覆すような、新時代の兆しとしてひばりを捉えていたのかもしれません。」
               ひばりは、一七〇本の映画に出演している。本書に引かれた資料によれば、49年から63年までの十四年間で一六〇本となっていて、64年以降71年までは十本にすぎない。しかも、49年から63年までの時間というのは、観客数が58年をピークに上昇から下降していくカーブ曲線を描いているのだ。71年の観客数は、58年の二割にも満たない。かつて、『日本映画戦後黄金時代(全30巻)』(日本ブックライブラリー刊)という本があった。それによると、46年から64年までが、黄金時代である。ひばりが出演した映画が評論家による映画ベストテンの対象になる作品ではなかったとしても(55年の『たけくらべ』が「キネ旬」誌の第11位にランクインしていて、主演作ではないが『殿さま弥次喜多』は39位、『祇園祭』は14位、それ以外の作品は、一票も入っていない)、まさしく、戦後の日本映画黄金期を疾走した女優だったといっていい。著者は、晩年、「演歌の女王」として見做されていった美空ひばり像ではなく、出演した映画作品を仔細に解析しながら、演歌というカテゴリーには収まらない、ジャンルを超えて多彩な表現をした空前絶後の歌手としてのひばり像を本書では解き明かしていく。そして、「歴史とはエリートたちが主導した政治的・経済的事象を因果づけることによってその時代を説明しようとするもの」で、「『日常』とか『生活』といった言葉が喚起されるような私たちにより身近な出来事」は切り捨てられているとしながら、だからこそ、「美空ひばりの映画は『歴史』が伝えることがない、当時を生きた人々の息遣いを感じさせてくれるすぐれた媒体だと言っても過言ではない」と述べていく。
               美空ひばりという存在が、わたしたちの記憶のなかに在り続けているのは、女王や天才だったからではない。わたしたちの生きてきた時間と、まさしく重層しながら、その歌声を発してきたからだといいたい気がする。

              (スタイルノート刊・13.7.31)

              2014.03.08 Saturday

              防衛体制そのものの無化を――九条理念は、明らかに国家の死滅を内包している

              0
                上山春平 著
                『憲法第九条――大東亜戦争の遺産

                            元特攻隊員が託した戦後日本への願い

                (「図書新聞」14.3.15号)

                 わたしは、上山春平(1921〜2012)の熱心な読者というわけではなかったが、それでも、梅原猛らとの仕事のいくつかには、接していた。だが、人間魚雷回天の特攻隊員(二度、「出撃も攻撃の機会を得ず、生還」)だったことや、本書の原型ともなった『大東亜戦争の意味』(64年刊、後72年『大東亜戦争の遺産』として改訂版刊)という著書を持っていたことは、まったく知らなかった。一方で、林房雄の『大東亜戦争肯定論』(64〜65年刊)は、その刺激的な書名が気になり、七十年代に読んでいる。林をはじめとして、いわゆる自虐史観からの脱却を図ろうとする多く人たちは、「大東亜戦争」という呼称を声高に宣しようとしているわけだが、あえて負性を持ってしまった呼称を書名に付した上山の場合、その意図は、大きく異なるし、原著を刊行した時期が、戦後二十年近い年月を経ていることとも、無関係ではないのだ。
                 「占領軍が、『大東亜戦争』の呼称を禁止して、そのかわりに『太平洋戦争』という呼称を強要したという事情は、すでに忘れ去られようとしているが、あの戦争を『太平洋戦争』と呼ぶようになって以来、いつのまにか、あの戦争における日本軍のふるまいをあちら側から裁く立場に自らを置く風潮が言論界を覆うに至った。ところが、そうした立場は、六〇年安保の燃え上がりのなかで、破産の宣告を受けた。つまり、あの戦争を裁いた側が、同じ裁きの論理によって裁かれねばならぬ状況に置かれていることが明らかになったのだ。」
                 確かに、そうなのだ。第九条が足枷になっているから、解釈改憲によって戦前回帰へと進みたがったのは、わが国の保守勢力というよりも、その後景に在るアメリカという帝国権力の意志ということになるからだ。上山は、あえて、「太平洋戦争」という偽装の呼称へのアンチテーゼとして「大東亜戦争」という呼称を掘り返したかったのだ。しかし、わたしなら、戦争の呼称なんて、意味がないと思っている。そもそも、正義の戦争や正当化される戦争などというものは、ないのだ。つまり、「国と国との国際的な戦争というものには、侵略戦争と正義の戦争があるというような毛沢東流の考え方は取らないし、そういう考えはまちがいだと思っています。(略)はっきりそれは違う、戦争自体を悪だといいたいと思います」(吉本隆明『第二の敗戦期』)ということであって、「太平洋戦争」が正義の戦争で、「大東亜戦争」は侵略戦争の呼称だなどということ自体、なんの意味もなさないことなのだ。では、戦争と国軍の放棄を謳った第九条とはどんな意味を持つのか。上山は、次のように述べていく。
                 「私は、憲法九条を、変革のためのテコとして、フルに活用すべきではないかと考えている。(略)旧来の『閉じられた』主権国家を前提とする防衛体制を、将来の『開かれた』国際国家を前提とする防衛体制に切りかえていくための、貴重な武器となるであろう。」「私は、国家にかんして、これを不要とする無政府主義の立場はとらず、しかも、国家の現状にかんしては、(略)今日のあらゆる形態の国家が前提としている主権国家の理念にたいして批判的であり、国家の現状を改造する方向に強く傾いている。そのばあい、民主主義の徹底ということが基本目標となっている」
                 九条理念は、明らかに、レーニンの『国家と革命』構想を超えた、国家の死滅を内包しているとわたしは捉えている。国軍を否定するということは、国家という存立性を否定することでもあるからだ。そこには、どんな装飾を施した国家であっても、国家があるかぎり、戦争を無化することができないという主意が付与されていると見做せるのだ。わたしは、「国家『間』でいえば国境を開き、国内でいえば民衆に国家を開き、少しずつ解体に向か」(『大情況論』)わせるべきだという吉本に倣って、上山の言説を「『閉じられた』国家から『開かれた』国家」へと移行させることで、国家とともに防衛体制そのものを無化すべきだといい変えたい思いを抑えることができない。国家という幻想がなくても、わたしたちは、ありうべき共同性(上山のいう徹底した民主主義を包含した共同体のイメージでも構わない)をかたちづくって生きていくことができるはずなのだ。
                 最後に、本書刊行に関わり、長大な解題を付した、たけもとのぶひろ(竹本信弘=滝田修)についても触れておきたい。率直にいえば、やや意外な結び付きのような気がする。だが、網野善彦ではないが、東と西というように考えてみれば、上山とたけもとは西という共同性のなかで、ある共感を持ったように思える。「第九条をめぐるこんにちの論争のなかで読むと、半世紀におよぶ歳月を経過しているにもかかわらず、じつに新鮮かつ啓発的で、教えられ」ると、たけもとは述べていく。たけもとの解題でも「日本国憲法へいたる諸国際協定の系譜」として強調されているが、上山にとって、「大西洋憲章→連合国宣言→国連憲章→ポツダム宣言→連合国対日管理政策という一連の国際的協定を前提とし」た「国際的文書」が日本国憲法であったということになる。それをなし崩しに無力化させようとしたのが朝鮮戦争を契機として51年に締結された日米安保条約だった。上山が、六〇年安保改定反対闘争後に本書を著わしたことの意味をいま一度、考えてみれば、ふたりの通交は、一つの必然といっていいかもしれない。

                (明月堂書店刊・13.12.8)

                2014.01.10 Friday

                それでもつねに希望はある――深いポエジーを湛えた「短章集」

                0
                  渡辺京二 著『万象の訪れ わが思索』
                  (「図書新聞」14.1.18号)

                   「自分の書いて来たもののうちから短文ばかり抜いて『短章集』といったものを編みたいと、かなり以前から思っていた」と著者は、述べている。『短章集』とは、うまいいい方だなあと思う。『新明解国語辞典』には、「短章」の意味を、「短い(短めの)詩文」と記している。たんに短い文章というのではなく、「詩文」という意味合いが、含まれるとするならば、それは、深いポエジーを湛えていなければならず、渡辺京二が紡ぎ出す文章なら確かにそのようにいえると思った。収録されている短章は、書評なども含め百二篇(既刊書収録済からの再録は二十八篇)ほどで、しかも、発表掲載時が、58年から03年までと、五十五年の幅を持っている。そして、こまやかな章分けがなされている。「交感」、「回想」、「師友」、「書物その他」、「わが主題」、「地方」、「世間」、「仕事」、「書評」とそれぞれ表題が付され、「交感」の章の巻頭に配置し、書名にもなっている「万象の訪れ」と題された文章は、次のように書き出されていく。
                   「三浦哲郎の短篇に『わくらば』というのがある。仕事場にしている山荘のまわりを散歩しているときに、背中に何か冷たいものがはいった。妻に取り出してもらったら、黄ばんだ一枚の葉っぱであった。白樺の病葉である。」
                   渡辺京二が、三浦哲郎の短篇を引いただけで、わたしは、意外性を抱く。それは、たんにわたしの思い込みに過ぎないのだが、イメージとして三浦哲郎の小説世界とは違う場所に渡辺京二は立っていると考えていたからだ。ここで、わたしの思い込みは、次々と払拭されていくことになる。この『わくらば』という作品は、「黄ばんだ一枚の葉っぱ」から、「父の背中のしみの模様」へと重なり、「父の一生に及」んでいくのだという。そして、著者は、「父の一生は額縁であって、画面に描かれているのは葉脈とも血脈とも見える一箇の図柄」だと見做す。そこから、著者の「万象」への思いが語られていく。
                   「われわれの生は、数えきれぬ図象との出逢いで成り立っていて、ある図象が何の根拠もなく他の図象を想起させることが、われわれは途方もない豊饒のうちに生きている証拠なのだ。生命のいとなみが絶えずある図象となって露呈し、何の意味があるのか知らないが、その露呈との出逢いが心に刻印したものが、遠く木魂しあいながら私のうちに眠っている。(略)そのようなことは、いわゆる人生という物語とは何の関わりもないことである。(略)何ら『物語』をなすことのない形象たち、ものたちの形や影や動きが、私たちの生には溢れかえっているのだ。それはある日、雲の重なる空のはたてに塗られた一刷毛の藍でもよいし、ビルの谷間にさしこんだ一条の斜光でもよい。それは束の間に消え、しかも永遠である。私たちはこういう万象の訪れの中に生きている。」
                   「図象」や「形象」という抽象的な言葉が、ここでは、詩性に満ちた言葉として、わたしには迫ってくる。「数えきれぬ図象との出逢い」、「何ら『物語』をなすことのない形象たち」が、「私たちの生には溢れかえっている」と考える時、人というのは、人やいわゆる自然とだけではなく、様々な景物や事象の共同性のなかで生きているのだということに気づかざるをえない。そして、著者の万象への視線は、たとえば、「世間」に収められた、「かよわき葦」という文章に、強い発信として表れてくる。3.11以後をめぐって、わたしも確かにそうだったが、自然との共生、科学技術の肥大化といったことなどに、再考を促す契機として見做してしまうが、著者の角度は、そういう捉え方を根底から崩していくものとなっている。
                   「人間が安全・便利・快適な生活を求めるのは当然である。物質的幸福を求めずに精神的幸福を求めよなどとは、生活の何たるかを知らぬ者の言うことである。(略)私たちに必要なのは、安全で心地よい生活など、自然の災害や人間自身が作り出す災禍によって、いつ失われてもこれもまた当然という常識なのだ。(略)人工の災禍という点でも、人間の知恵でそれから完全に免れるという訳にはいかぬと私は思っている。人間はそれほどかしこい生きものではない。それでもつねに希望はあるのだと思っている。」
                   著者・渡辺京二は、本書に収められた短章群に、満州(大連)から十六歳で引き揚げ、青春期、結核療養所にて四年半過ごし、大学を卒業したのが、三十一歳だったと、述べている。そして、八十三歳の現在にいたるまで、精力的に、表現・著作活動を続けてきた。だからこそ、鋭利に見つめる視線を切実なものとしながらも、「人間はそれほどかしこい生きものではない。それでもつねに希望はある」と著者は語れるのだ。
                  その言葉によって、わたしたちもまた、未知へと行ける思いを抱くことになる。

                  (弦書房刊・13.11.1)


                  2014.01.05 Sunday

                  素直にひとを感動させていく繊細で抒情的な詩語

                  0
                    澤村秀治 編著、よこてけいこ 絵
                    『八木重吉のことば  こころよ、では行っておいで

                    (「図書新聞」14.1.11号) 

                     八木重吉という詩人は、わたしにとって、関心を抱きながらも、作品世界の奥深くまで分け入っていくことのできなかった存在であった。例えば、江藤淳が、「彼(註・重吉のこと)がキリストのなかになにを見たかは、宗教的な体験に属している。私は八木の詩が、護教論の宣伝に用いられることにあまり満足していない。文学的にいえば、それらはむしろ実存的体験の所産であり、平仮名の多い八木の文体は、日本の近代詩がさぐりあてたもうひとつの内面的現存の表現として、希有な価値を達成している」と述べているような意味で、わたしもまた、信仰という位相において、八木重吉の詩作品に対し、逡巡しながら瞥見してきたからだ。
                     本書の後半に配置された編著者による評伝「ひとつきりのみち 八木重吉の生涯」は、わたしの逡巡を払拭するに充分な言葉を見せてくれている。
                     「ものを見る目を素直にし、心を満たすいいようのない『かなしみ』を、そのまま引き受けて生きて行くために、重吉は、信ずる対象を必要としていたのでしょう。(略)その一方で、詩人としての重吉は、ついに、信仰それじたいにすらこだわらず、『素直になる』ことでうまれることばだけを信じよう、という境地にすすみます。/重吉の詩は、信仰のあるなし、信仰への理解のあるなしに関わらず、ひとを感動させるところがあります。それは詩を生み出すときに、重吉は重吉であって、信仰のひとそのものではなかったからでしょう。詩人・八木重吉が広く受け入れられるのは、この点があるからだと思います。」
                     考えてみれば、当然のことなのだが、「八木の詩が、護教論の宣伝に用いられること」になるのは、重吉の詩それ自体に孕んでいる問題ではなく、後代の人たちの恣意性によるものだということになる。「重吉の詩は、信仰のあるなし、信仰への理解のあるなしに関わらず、ひとを感動させるところがあり」、「詩を生み出すときに、重吉は重吉であって、信仰のひとそのものではなかったから」だというのは、その詩世界に立ち入れば、直ぐに理解できることだったのだ。
                     本書は、「重吉の書いた詩や文章のなかから、重吉ならではの特色のあることばを集め」たもので、編著者は、中・高校生を対象に編んだと「はじめに」で述べている。しかし、評伝を含め、本書は、わたしのように、重吉に関心がありながら、いま少し逡巡している人たちには、ぜひとも手にとってもらいたいと思うし、重吉の長年の読者には、編著者の評伝をじっくり味わってほしいと思う。ところで、生前自選し、没後出版された第二詩集『貧しき信徒』から、本書のために編著者が選んだ詩篇がある。そのなかから、わたしが感応した幾つかをあげてみたい。
                     「秋になると/果物はなにもかも忘れてしまって/うとりと実のってゆくらしい」(「果物」)、「雨が すきか/わたしはすきだ/うたを うたおう」(「雨の日」)、「虫が鳴いている/いま ないておかなければ/もう駄目だというふうに鳴いている/しぜんと/涙をさそわれる」(「虫」)、「桐の木がすきか/わたしはすきだ/桐の木んとこへいこうか」(「桐の木」)、「この明るさへ/ひとつの素朴な琴をおけば/秋の美しさに耐えかね/琴はしずかに鳴りいだすだろう」(「素朴な琴」)、「木に眼が生(な)って人を見ている」(「冬」)、「花がふってくると思う/花がふってくるとおもう/この てのひらにうけとろうとおもう」(「花がふってくると思う」)、「原へねころがり/なんにもない空を見ていた」(「春」)
                     雨や虫、木、花、空といった自然の景物に対して、重吉の「素直」な視線の射し入れが、詩語の一つ一つによって豊饒な世界をかたちづくっていく。しかし、ほんとうは、「素直」な視線さえあれば、このような短詩が生み出されるかといえば、そうではないと思う。果物が、「なにもかも忘れて」、「うとりと実のってゆく」と捉える重吉は、果物を自分自身の「生」と「死」を暗喩化していると、わたしなら見做したい。第二詩集を自選している頃は、既に病によって自らの「生」と「死」の間を往還していたわけだから、「信徒」であり、「詩人」でもある自分の有様を、「忘れ」る、「実の」ることに仮託しているといっていいはずだ。「雨」と「うた」、「虫」と「涙」、自然と重吉の感性との往還、これもまた、わたしたちにとって、普遍性を帯びる「生」と「死」ということを潜在させている。だから、誰かがいっていたように思うが、重吉の宗教的感性は、西欧的なものというよりは、アジア的宗教性に近いといえるような気がする。
                     代表作といわれる「素朴な琴」は、華美と思われる琴を「素朴」とすることで、重吉の生への強い意志を、わたしなら感じてしまう。さらにいえば、重吉が紡ぎ出す繊細で抒情的な詩語は、「花がふってくると思う」という詩篇に象徴されるように、「かなしみ」を超えていこうとする思いが、滲み出ているからこそ、「素直」に、「ひとを感動させ」ていくのだと、わたしは、本書によって確信できるようになったといっておきたい。

                    (理論社刊・13.8)

                    2013.10.28 Monday

                    【書評】『大杉栄と仲間たち――「近代思想」創刊100年』

                    0
                      「大杉栄と仲間たち」編集委員会・編
                      『大杉栄と仲間たち――「近代思想」創刊100年

                      (「アナキズム」第17号・13.11.16)

                       月刊雑誌『近代思想』が、大杉栄と荒畑寒村によって創刊されたのは、大正元(1912)年十月のことだった。その一年半ほど前の一月に幸徳秋水たちが処刑され、いわゆる無政府主義、社会主義運動にとって冬の時代といわれた時期にあたる。
                       いかにも、文芸的色彩を持たせた誌名によって、第一次二十三冊(〜1914.9)は、発禁処分になることなく順調に発行された。その後、月刊『平民新聞』(全六冊、四号以外すべて発売頒布禁止、1914.10〜15.3)をはさみ、第二次『近代思想』が、15年10月に再刊、復刊されるが、二号から四号(16年1月)までが発禁となり、その号で廃刊となる。
                       例えば、第二次二号の巻頭言(復活号は大杉、三号は寒村、いずれも穏当な文章である)は、大杉が担当しているのだが、「動かし難く見える、大日本帝国の秩序の、如何に紊乱され易き事よ。(略)僅かに十行の無政府主義の説明を以て、吾々は此の大日本帝国の秩序を紊乱するに足る以上、吾々は最早、此の大日本帝国の其礎の如何に薄弱なるかを疑わざるをえない。/希くば大日本帝国よ、吾々が敵として戦うべくもう少し張合いのあるまでに、汝の其礎をして堅牢ならしめよ」(註=新かな漢字表記に書き換え、以下、同じ)と、明らかに国家(権力)へ挑発的な発言を記している。一号の穏当な文章から、なぜ、このような苛烈な文章になっていったのか、わたしには、その変容が興味深い。大杉による四号の巻頭言は、こうだ。
                       
                       「本誌は復活号を無事に出したのみで、十一月号も十二月(ママ)も、共に秩序壊乱の故を以て発売頒布を禁ぜられた。/僕は、先の平民新聞時代と、今回の此の引続いての発売禁止によって、数人の同志から、出せるようなものを出したら何うだ、と云う忠告を受けた。そして僕は、此の恐らくは厚意の忠告に対して、甚だしき不快の感を抱いた。そんな事を云って来る奴等は、同志でも友人でもない、とすら思う程に激兇靴拭よし僕の編輯した平民新聞なり近代思想なりが、どれ程没常識な無茶なものであった所で、僕の本当の同志や友人は、それ程無茶なものを造り上げた僕の心事を理解してくれるに違いない。(略)僕には、従来の僕の編輯した雑誌がそんな無茶なものだとは決して思えない。随分我を折った、僕としては殆んど恥じ入るばかりの、妥協に満ちたものであった。それでいて発売を禁止されるのは、される僕が悪いのか、する政府が悪いのか。(略)僕等は何故に此の雑誌を出しているのか。又政府は何故に此の雑誌を禁止するのか。僕等の本当の同志や友人は、僕等をして飽くまでも此の雑誌の発行を続けて行く事の出来るように、又政府をして此の雑誌の発行を禁止する事の出来なくなるように、出来るだけ僕等に協力してくれなければならぬ筈だ。/僕等は今、多少の、此の本当の同志や友人を持っている、しかしよし其の一人も無くなった所で、僕等は僕等の仕事を続けて行く。」

                       言論の自由といったことが、とりあえずは前提となっている現在に立ってみれば、想像がつかないことに思えるかもしれないが、大逆事件以後数年は、言論弾圧は政府権力にとって当為のことであった。「数人の同志から、出せるようなものを出したら何うだ、と云う忠告を受けた」ことに対して、大杉は、「甚だしき不快の感を抱」き、そのような忠告をする「奴等は、同志でも友人でもない、とすら思う程に激兇靴拭廚販直に記しているが、もとより、そういうことは、自明のことのはずだ。「僕としては」、「随分我を折った」、「殆んど恥じ入るばかりの、妥協に満ちたもの」だったと述べているが、第一次と第二次とでは、第二次復活号の巻頭言と第二次第二号の巻頭言との変容と同じような差異を見ることができる。大杉のなかには、文芸・芸術的なるものを軽んじるつもりはなくても、やはり、運動誌を作って行きたかったはずだ。まだまだアナキズムの理念が、わが国においては未成熟の段階であることは、誰よりも大杉が一番痛苦に感じていたはずだからだ。発禁によって、その活動を委縮されるようでは、なんのために自らの思念をかけてまで、表現に拘るのかということだ。
                       わたしは、今回、久しぶりに『近代思想』全二十七冊の復刻版(60年12月から62年3月にかけて五分冊で出された地六社刊の復刻版を、黒色戦線社が82年1月に復刊)を前にして思ったことは、雑誌である以上、広告によって、その経済的基盤を支えていこうとするのは、『近代思想』であっても同じことだなということだった。創刊号には、「明治天皇御伝」が、第二号には、「乃木大将論」が、第三号と第四号には、「乃木将軍と日本新聞」が広告として掲載されている。これだけでも、発禁にはならないだろうと断定できる。
                       これらの広告とは違う意味で、わたしが、関心を持ったのは、
                      第十号から突然、表四で「ライオン歯磨・ライオン石鹸」(現・ライオン株式会社)の広告が登場する。それは、第二次廃刊号まで続いていくことになるのだが、このライオンの創業者小林富次郎は熱心なキリスト者として知られていて、大杉との接点は、順天中学生時、海老名弾正の本郷教会で出会ったことは、確かなようだが、わたしは、それ以上の詳しい事情や関係はわからない(本書でも誰ひとりとして触れていないのは不思議に思う)。第二次の場合、他には復活号と廃刊号の表二に「三越呉服店」(現・三越)の広告はあるが、出広量は激減していて、出版関係があるだけだ(幸徳秋水遺著『基督抹殺論』の広告もある)。
                       こうしてみると、第二次を出す前に『近代思想』に関して、大杉は、その役割は終わったと考えていたように思えてくる。そして、伊藤野枝との随伴がはじまり(堀保子は、『近代思想』の事務方として支えていた)、『文明批評』を出した後、『労働運動』を創刊するのは、大正8(1919)年10月のことだった。大杉は、宣明どおり、「僕等は僕等の仕事を続けて行」ったことになる。
                       昨年(2112年)の10月に、雑誌『近代思想』が創刊して一〇〇年ということで、記念集会が行われた。本書は、その「集会を契機にして生まれた論集」(「あとがき」)である。二四名(そのうち、冨板敦は、渾身の資料編を提示したことを付記しておきたい)の論者によって、「大杉栄」、「『近代思想』」、「仲間たち」といった項目立てにそった諸論稿を掲載している。
                       いくらか恣意的に、幾篇かにしぼって触れてみたい。
                       梅森直之は、「雑誌『近代思想』に、大杉栄が発表した多くの論説のうち、どれかひとつを選び語れといわれたなら、私は『鎖工場』を選ぶ」として、次のように述べていく。

                       「国家の暴力が偏在していた時代にあって、国家以外のなにものかに支配の根元を見定めること。労働の神聖が声高に叫ばれていた時代のなかで、労働こそ鉄鎖の生産にほかならないと叫ぶこと。『鎖工場』は、日本の左翼思想史において、徹底的に反時代的かつ予兆的なテクストとして存在している。」(「『鎖工場』を超えて」)

                       梅森は、さらに「社会主義の闘争の主要なアリーナを『国家』から『主体』へと移行させることであった」と付けくわえていく。わたしは、もし、大杉栄(の思想表現)が今日的な意味があるとすれば、日本のアナキズム運動史という枠組みで大杉を捉えるのではなく、梅森のように、アクチュアルに読まれる場合だと思っていたから、率直に共感できたといっておきたい。
                       田中ひかるは、「『近代思想』を通読すると」、大杉の「『生』を強調するような文章とならんで、親しい人物の『死』や『喪失』にまつわる体験が反映された文章が多く掲載されていることに気づく」(「『近代思想』をおもしろく読む三つの方法」)として、大杉の代表的な論稿「生の拡充」に触れている。確かに、アグレッシブとも感じられるほどの大杉の「生」をめぐる思考のなかに、「親しい人物の『死』や『喪失』にまつわる体験が反映され」ていることを、わたしたちは、見失いがちだ。「生」と「死」は、断絶してあるのではなく、絶えず反照しあうものなのだ。
                       小松隆二は、「『近代思想』とその時代は、大杉の生涯と運動においては重要な位置にある」として、『近代思想』に高い評価を与えている(前出地六社版復刻に小松が関わっている)。

                       「『近代思想』は、第一次と第二次では性格も組織も大きく変わる。第二次は『平民新聞』の苦い経験から一歩退くものの、それでも復刊号を除いて、後は発禁の連続、資金も講演会活動等も思うにまかせず、といった実情の連続であった。(略)しかし、『平民新聞』と第二次『近代思想』の受けた弾圧は、大杉らに、むしろ運動の方向性・姿勢を固めさせた。弾圧を受けたとはいえ、一旦踏み出した方向を全く元に戻す姿勢は取らなかったからである。(略)たしかに、大杉らにとって『近代思想』の活動は、次のステージに進む準備の一面があった。と同時に、大杉らにもすでに思想、芸術、文化面でも他と対等に交わったり、先導したりする力が備えられており、大杉らの多様な活動・運動の一つが『近代思想』であったという理解・評価も可能である。社会主義者やアナキストの運動でも、明治期の『平民新聞』、また大正期の『労働運動』のような思想・運動専門の機関誌が唯一の、あるいは高い活動ではない。同時に文芸、文化、芸術、経済など多様な活動がなされてよい。『近代思想』は、そのような領域の時代的ニーズにはかなり応えていたのである。」(「『近代思想』にみられる大杉栄と堺利彦の距離」)

                       わたしは、これまで『労働運動』と比較して、『近代思想』を幾らか低く見做していたように思う。わたし自身にとって、本書を読むにあたって、全二十七冊の復刻版をあらためて取り出し見たことは、大きな意味があったと思っている。なによりも、目の前に置くことによって、彼らの切実なる活動がひとつの描像をもって浮き上がってきて、いまと少しでも繋がることができたと感じられたからだ。

                      ※「大杉栄と仲間たち」編集委員会・編
                      『大杉栄と仲間たち―「近代思想」創刊100年』
                      ぱる出版・13.6.27刊 四六判 340頁 本体2400円

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