斎藤 完 著
『映画で知る美空ひばりとその時代
         ――銀幕の女王が伝える昭和の音楽文化

(「図書新聞」14.3.29号)

 わたしにとって美空ひばりは、天才少女歌手でも、銀幕の女王でも、演歌の女王でもない。もう少し別様のいい方をしてみるならば、熱烈に支持していたわけでも、嫌いだったわけでもない。にもかかわらず、わたしのなかに、美空ひばりという存在は、絶えず、皮膜のように記憶の断片のなかで刻み続けられてきたといっていい。本書のなかへ入る前に、わたしの記憶の断片の一つを記してみる。中学一年の時だった。東北の小さな町の映画館で、公開されて一年ほど経って、ようやく見ることができた映画『モスラ』は、配給会社が違うのだが、『ひばりの佐渡情話』(監督・渡辺邦男)と併映だった。『モスラ』を見に行こうとした動機の一つに、ザ・ピーナッツが主題歌を歌うシーンを見たかったことにある。しかし、映画館を出た後、強い印象を植え付けられたのは、美空ひばりが歌う主題歌の方だった。映画の内容は、まったく忘れてしまったが、その時の記憶は、後年まではっきりと残っていった(ちなみに、わたしが好きなひばりの歌は、「哀愁波止場」と「ひばりの佐渡情話」である)。
 わたしは、東映時代劇映画を見て、育ったといっても過言ではない。それは、新諸国物語シリーズに始まって、中村錦之助(後年、萬屋錦之助)に共感を抱き続けていった時間性ともいえる。だから、必然的に錦之助とひばりが共演した作品は、何本か見ている。当時、二人の機縁は知らなかったが、小学生だったにもかかわらず、わたしは、二人が共演している場面には、なにか胸が締め付けられるような思いがしたものだった。映画監督・沢島忠によれば、ひばりが亡くなった時、錦之助は、夫人の運転する車で病院に駆けつけ、ひばりの遺体を抱きかかえ、車でひばりの自宅に連れて帰ったという。沢島は、「一番好きだった錦兄に抱かれて、帰宅したひばりちゃん、どんなにうれしかった事か」(『沢島忠全仕事』)と記している。
 映画の世界というものは、見る側にとってはもちろんのこと、演じる、製作する側にとっても、拡張されていく関係性を生起させていくものだ。影響力としては、いまは、テレビ、インターネットに後塵を拝しているとはいえ、映画には、物語力においてまだまだ、わたしたちに与えるものは、依然大きいとわたしは思っている。そして、なによりも、美空ひばりが、天才少女歌手として全国的に認知されたのは、天才子役として映画に出演したからだ。
 「美空ひばりという少女を全国に広めたのは映画です。(略)当時においてもレコードやラジオや雑誌がありました。しかし、やはり映画なのです。」「美空ひばりはそのキャリアにわたって、心ないバッシングをはじめとしたネガティヴな報道に晒され続けたのですが、その初期においては、このように非難されるべき流行歌をよりによって子どもが歌っていたということにありました。/忘れてならないのは、多くの人々の支持を勝ち得たのも、『子どもが流行歌を歌うこと』によってであったということです。そしてそれを目の当たりにできたのが映画なのです。」「銀幕に映し出された美空ひばりは、当時の知識人・文化人の常識の枠をはるかに超えていました。それに対して大衆は、子どもと音楽をめぐる従来的な価値観を覆すひばりを歓迎しました。もしかしたら、あるべき子ども像すら根底から覆すような、新時代の兆しとしてひばりを捉えていたのかもしれません。」
 ひばりは、一七〇本の映画に出演している。本書に引かれた資料によれば、49年から63年までの十四年間で一六〇本となっていて、64年以降71年までは十本にすぎない。しかも、49年から63年までの時間というのは、観客数が58年をピークに上昇から下降していくカーブ曲線を描いているのだ。71年の観客数は、58年の二割にも満たない。かつて、『日本映画戦後黄金時代(全30巻)』(日本ブックライブラリー刊)という本があった。それによると、46年から64年までが、黄金時代である。ひばりが出演した映画が評論家による映画ベストテンの対象になる作品ではなかったとしても(55年の『たけくらべ』が「キネ旬」誌の第11位にランクインしていて、主演作ではないが『殿さま弥次喜多』は39位、『祇園祭』は14位、それ以外の作品は、一票も入っていない)、まさしく、戦後の日本映画黄金期を疾走した女優だったといっていい。著者は、晩年、「演歌の女王」として見做されていった美空ひばり像ではなく、出演した映画作品を仔細に解析しながら、演歌というカテゴリーには収まらない、ジャンルを超えて多彩な表現をした空前絶後の歌手としてのひばり像を本書では解き明かしていく。そして、「歴史とはエリートたちが主導した政治的・経済的事象を因果づけることによってその時代を説明しようとするもの」で、「『日常』とか『生活』といった言葉が喚起されるような私たちにより身近な出来事」は切り捨てられているとしながら、だからこそ、「美空ひばりの映画は『歴史』が伝えることがない、当時を生きた人々の息遣いを感じさせてくれるすぐれた媒体だと言っても過言ではない」と述べていく。
 美空ひばりという存在が、わたしたちの記憶のなかに在り続けているのは、女王や天才だったからではない。わたしたちの生きてきた時間と、まさしく重層しながら、その歌声を発してきたからだといいたい気がする。

(スタイルノート刊・13.7.31)

上山春平 著
『憲法第九条――大東亜戦争の遺産

            元特攻隊員が託した戦後日本への願い

(「図書新聞」14.3.15号)

 わたしは、上山春平(1921〜2012)の熱心な読者というわけではなかったが、それでも、梅原猛らとの仕事のいくつかには、接していた。だが、人間魚雷回天の特攻隊員(二度、「出撃も攻撃の機会を得ず、生還」)だったことや、本書の原型ともなった『大東亜戦争の意味』(64年刊、後72年『大東亜戦争の遺産』として改訂版刊)という著書を持っていたことは、まったく知らなかった。一方で、林房雄の『大東亜戦争肯定論』(64〜65年刊)は、その刺激的な書名が気になり、七十年代に読んでいる。林をはじめとして、いわゆる自虐史観からの脱却を図ろうとする多く人たちは、「大東亜戦争」という呼称を声高に宣しようとしているわけだが、あえて負性を持ってしまった呼称を書名に付した上山の場合、その意図は、大きく異なるし、原著を刊行した時期が、戦後二十年近い年月を経ていることとも、無関係ではないのだ。
 「占領軍が、『大東亜戦争』の呼称を禁止して、そのかわりに『太平洋戦争』という呼称を強要したという事情は、すでに忘れ去られようとしているが、あの戦争を『太平洋戦争』と呼ぶようになって以来、いつのまにか、あの戦争における日本軍のふるまいをあちら側から裁く立場に自らを置く風潮が言論界を覆うに至った。ところが、そうした立場は、六〇年安保の燃え上がりのなかで、破産の宣告を受けた。つまり、あの戦争を裁いた側が、同じ裁きの論理によって裁かれねばならぬ状況に置かれていることが明らかになったのだ。」
 確かに、そうなのだ。第九条が足枷になっているから、解釈改憲によって戦前回帰へと進みたがったのは、わが国の保守勢力というよりも、その後景に在るアメリカという帝国権力の意志ということになるからだ。上山は、あえて、「太平洋戦争」という偽装の呼称へのアンチテーゼとして「大東亜戦争」という呼称を掘り返したかったのだ。しかし、わたしなら、戦争の呼称なんて、意味がないと思っている。そもそも、正義の戦争や正当化される戦争などというものは、ないのだ。つまり、「国と国との国際的な戦争というものには、侵略戦争と正義の戦争があるというような毛沢東流の考え方は取らないし、そういう考えはまちがいだと思っています。(略)はっきりそれは違う、戦争自体を悪だといいたいと思います」(吉本隆明『第二の敗戦期』)ということであって、「太平洋戦争」が正義の戦争で、「大東亜戦争」は侵略戦争の呼称だなどということ自体、なんの意味もなさないことなのだ。では、戦争と国軍の放棄を謳った第九条とはどんな意味を持つのか。上山は、次のように述べていく。
 「私は、憲法九条を、変革のためのテコとして、フルに活用すべきではないかと考えている。(略)旧来の『閉じられた』主権国家を前提とする防衛体制を、将来の『開かれた』国際国家を前提とする防衛体制に切りかえていくための、貴重な武器となるであろう。」「私は、国家にかんして、これを不要とする無政府主義の立場はとらず、しかも、国家の現状にかんしては、(略)今日のあらゆる形態の国家が前提としている主権国家の理念にたいして批判的であり、国家の現状を改造する方向に強く傾いている。そのばあい、民主主義の徹底ということが基本目標となっている」
 九条理念は、明らかに、レーニンの『国家と革命』構想を超えた、国家の死滅を内包しているとわたしは捉えている。国軍を否定するということは、国家という存立性を否定することでもあるからだ。そこには、どんな装飾を施した国家であっても、国家があるかぎり、戦争を無化することができないという主意が付与されていると見做せるのだ。わたしは、「国家『間』でいえば国境を開き、国内でいえば民衆に国家を開き、少しずつ解体に向か」(『大情況論』)わせるべきだという吉本に倣って、上山の言説を「『閉じられた』国家から『開かれた』国家」へと移行させることで、国家とともに防衛体制そのものを無化すべきだといい変えたい思いを抑えることができない。国家という幻想がなくても、わたしたちは、ありうべき共同性(上山のいう徹底した民主主義を包含した共同体のイメージでも構わない)をかたちづくって生きていくことができるはずなのだ。
 最後に、本書刊行に関わり、長大な解題を付した、たけもとのぶひろ(竹本信弘=滝田修)についても触れておきたい。率直にいえば、やや意外な結び付きのような気がする。だが、網野善彦ではないが、東と西というように考えてみれば、上山とたけもとは西という共同性のなかで、ある共感を持ったように思える。「第九条をめぐるこんにちの論争のなかで読むと、半世紀におよぶ歳月を経過しているにもかかわらず、じつに新鮮かつ啓発的で、教えられ」ると、たけもとは述べていく。たけもとの解題でも「日本国憲法へいたる諸国際協定の系譜」として強調されているが、上山にとって、「大西洋憲章→連合国宣言→国連憲章→ポツダム宣言→連合国対日管理政策という一連の国際的協定を前提とし」た「国際的文書」が日本国憲法であったということになる。それをなし崩しに無力化させようとしたのが朝鮮戦争を契機として51年に締結された日米安保条約だった。上山が、六〇年安保改定反対闘争後に本書を著わしたことの意味をいま一度、考えてみれば、ふたりの通交は、一つの必然といっていいかもしれない。

(明月堂書店刊・13.12.8)

渡辺京二 著『万象の訪れ わが思索』
(「図書新聞」14.1.18号)

 「自分の書いて来たもののうちから短文ばかり抜いて『短章集』といったものを編みたいと、かなり以前から思っていた」と著者は、述べている。『短章集』とは、うまいいい方だなあと思う。『新明解国語辞典』には、「短章」の意味を、「短い(短めの)詩文」と記している。たんに短い文章というのではなく、「詩文」という意味合いが、含まれるとするならば、それは、深いポエジーを湛えていなければならず、渡辺京二が紡ぎ出す文章なら確かにそのようにいえると思った。収録されている短章は、書評なども含め百二篇(既刊書収録済からの再録は二十八篇)ほどで、しかも、発表掲載時が、58年から03年までと、五十五年の幅を持っている。そして、こまやかな章分けがなされている。「交感」、「回想」、「師友」、「書物その他」、「わが主題」、「地方」、「世間」、「仕事」、「書評」とそれぞれ表題が付され、「交感」の章の巻頭に配置し、書名にもなっている「万象の訪れ」と題された文章は、次のように書き出されていく。
 「三浦哲郎の短篇に『わくらば』というのがある。仕事場にしている山荘のまわりを散歩しているときに、背中に何か冷たいものがはいった。妻に取り出してもらったら、黄ばんだ一枚の葉っぱであった。白樺の病葉である。」
 渡辺京二が、三浦哲郎の短篇を引いただけで、わたしは、意外性を抱く。それは、たんにわたしの思い込みに過ぎないのだが、イメージとして三浦哲郎の小説世界とは違う場所に渡辺京二は立っていると考えていたからだ。ここで、わたしの思い込みは、次々と払拭されていくことになる。この『わくらば』という作品は、「黄ばんだ一枚の葉っぱ」から、「父の背中のしみの模様」へと重なり、「父の一生に及」んでいくのだという。そして、著者は、「父の一生は額縁であって、画面に描かれているのは葉脈とも血脈とも見える一箇の図柄」だと見做す。そこから、著者の「万象」への思いが語られていく。
 「われわれの生は、数えきれぬ図象との出逢いで成り立っていて、ある図象が何の根拠もなく他の図象を想起させることが、われわれは途方もない豊饒のうちに生きている証拠なのだ。生命のいとなみが絶えずある図象となって露呈し、何の意味があるのか知らないが、その露呈との出逢いが心に刻印したものが、遠く木魂しあいながら私のうちに眠っている。(略)そのようなことは、いわゆる人生という物語とは何の関わりもないことである。(略)何ら『物語』をなすことのない形象たち、ものたちの形や影や動きが、私たちの生には溢れかえっているのだ。それはある日、雲の重なる空のはたてに塗られた一刷毛の藍でもよいし、ビルの谷間にさしこんだ一条の斜光でもよい。それは束の間に消え、しかも永遠である。私たちはこういう万象の訪れの中に生きている。」
 「図象」や「形象」という抽象的な言葉が、ここでは、詩性に満ちた言葉として、わたしには迫ってくる。「数えきれぬ図象との出逢い」、「何ら『物語』をなすことのない形象たち」が、「私たちの生には溢れかえっている」と考える時、人というのは、人やいわゆる自然とだけではなく、様々な景物や事象の共同性のなかで生きているのだということに気づかざるをえない。そして、著者の万象への視線は、たとえば、「世間」に収められた、「かよわき葦」という文章に、強い発信として表れてくる。3.11以後をめぐって、わたしも確かにそうだったが、自然との共生、科学技術の肥大化といったことなどに、再考を促す契機として見做してしまうが、著者の角度は、そういう捉え方を根底から崩していくものとなっている。
 「人間が安全・便利・快適な生活を求めるのは当然である。物質的幸福を求めずに精神的幸福を求めよなどとは、生活の何たるかを知らぬ者の言うことである。(略)私たちに必要なのは、安全で心地よい生活など、自然の災害や人間自身が作り出す災禍によって、いつ失われてもこれもまた当然という常識なのだ。(略)人工の災禍という点でも、人間の知恵でそれから完全に免れるという訳にはいかぬと私は思っている。人間はそれほどかしこい生きものではない。それでもつねに希望はあるのだと思っている。」
 著者・渡辺京二は、本書に収められた短章群に、満州(大連)から十六歳で引き揚げ、青春期、結核療養所にて四年半過ごし、大学を卒業したのが、三十一歳だったと、述べている。そして、八十三歳の現在にいたるまで、精力的に、表現・著作活動を続けてきた。だからこそ、鋭利に見つめる視線を切実なものとしながらも、「人間はそれほどかしこい生きものではない。それでもつねに希望はある」と著者は語れるのだ。
その言葉によって、わたしたちもまた、未知へと行ける思いを抱くことになる。

(弦書房刊・13.11.1)

澤村秀治 編著、よこてけいこ 絵
『八木重吉のことば  こころよ、では行っておいで

(「図書新聞」14.1.11号) 

 八木重吉という詩人は、わたしにとって、関心を抱きながらも、作品世界の奥深くまで分け入っていくことのできなかった存在であった。例えば、江藤淳が、「彼(註・重吉のこと)がキリストのなかになにを見たかは、宗教的な体験に属している。私は八木の詩が、護教論の宣伝に用いられることにあまり満足していない。文学的にいえば、それらはむしろ実存的体験の所産であり、平仮名の多い八木の文体は、日本の近代詩がさぐりあてたもうひとつの内面的現存の表現として、希有な価値を達成している」と述べているような意味で、わたしもまた、信仰という位相において、八木重吉の詩作品に対し、逡巡しながら瞥見してきたからだ。
 本書の後半に配置された編著者による評伝「ひとつきりのみち 八木重吉の生涯」は、わたしの逡巡を払拭するに充分な言葉を見せてくれている。
 「ものを見る目を素直にし、心を満たすいいようのない『かなしみ』を、そのまま引き受けて生きて行くために、重吉は、信ずる対象を必要としていたのでしょう。(略)その一方で、詩人としての重吉は、ついに、信仰それじたいにすらこだわらず、『素直になる』ことでうまれることばだけを信じよう、という境地にすすみます。/重吉の詩は、信仰のあるなし、信仰への理解のあるなしに関わらず、ひとを感動させるところがあります。それは詩を生み出すときに、重吉は重吉であって、信仰のひとそのものではなかったからでしょう。詩人・八木重吉が広く受け入れられるのは、この点があるからだと思います。」
 考えてみれば、当然のことなのだが、「八木の詩が、護教論の宣伝に用いられること」になるのは、重吉の詩それ自体に孕んでいる問題ではなく、後代の人たちの恣意性によるものだということになる。「重吉の詩は、信仰のあるなし、信仰への理解のあるなしに関わらず、ひとを感動させるところがあり」、「詩を生み出すときに、重吉は重吉であって、信仰のひとそのものではなかったから」だというのは、その詩世界に立ち入れば、直ぐに理解できることだったのだ。
 本書は、「重吉の書いた詩や文章のなかから、重吉ならではの特色のあることばを集め」たもので、編著者は、中・高校生を対象に編んだと「はじめに」で述べている。しかし、評伝を含め、本書は、わたしのように、重吉に関心がありながら、いま少し逡巡している人たちには、ぜひとも手にとってもらいたいと思うし、重吉の長年の読者には、編著者の評伝をじっくり味わってほしいと思う。ところで、生前自選し、没後出版された第二詩集『貧しき信徒』から、本書のために編著者が選んだ詩篇がある。そのなかから、わたしが感応した幾つかをあげてみたい。
 「秋になると/果物はなにもかも忘れてしまって/うとりと実のってゆくらしい」(「果物」)、「雨が すきか/わたしはすきだ/うたを うたおう」(「雨の日」)、「虫が鳴いている/いま ないておかなければ/もう駄目だというふうに鳴いている/しぜんと/涙をさそわれる」(「虫」)、「桐の木がすきか/わたしはすきだ/桐の木んとこへいこうか」(「桐の木」)、「この明るさへ/ひとつの素朴な琴をおけば/秋の美しさに耐えかね/琴はしずかに鳴りいだすだろう」(「素朴な琴」)、「木に眼が生(な)って人を見ている」(「冬」)、「花がふってくると思う/花がふってくるとおもう/この てのひらにうけとろうとおもう」(「花がふってくると思う」)、「原へねころがり/なんにもない空を見ていた」(「春」)
 雨や虫、木、花、空といった自然の景物に対して、重吉の「素直」な視線の射し入れが、詩語の一つ一つによって豊饒な世界をかたちづくっていく。しかし、ほんとうは、「素直」な視線さえあれば、このような短詩が生み出されるかといえば、そうではないと思う。果物が、「なにもかも忘れて」、「うとりと実のってゆく」と捉える重吉は、果物を自分自身の「生」と「死」を暗喩化していると、わたしなら見做したい。第二詩集を自選している頃は、既に病によって自らの「生」と「死」の間を往還していたわけだから、「信徒」であり、「詩人」でもある自分の有様を、「忘れ」る、「実の」ることに仮託しているといっていいはずだ。「雨」と「うた」、「虫」と「涙」、自然と重吉の感性との往還、これもまた、わたしたちにとって、普遍性を帯びる「生」と「死」ということを潜在させている。だから、誰かがいっていたように思うが、重吉の宗教的感性は、西欧的なものというよりは、アジア的宗教性に近いといえるような気がする。
 代表作といわれる「素朴な琴」は、華美と思われる琴を「素朴」とすることで、重吉の生への強い意志を、わたしなら感じてしまう。さらにいえば、重吉が紡ぎ出す繊細で抒情的な詩語は、「花がふってくると思う」という詩篇に象徴されるように、「かなしみ」を超えていこうとする思いが、滲み出ているからこそ、「素直」に、「ひとを感動させ」ていくのだと、わたしは、本書によって確信できるようになったといっておきたい。

(理論社刊・13.8)

「大杉栄と仲間たち」編集委員会・編
『大杉栄と仲間たち――「近代思想」創刊100年

(「アナキズム」第17号・13.11.16)

 月刊雑誌『近代思想』が、大杉栄と荒畑寒村によって創刊されたのは、大正元(1912)年十月のことだった。その一年半ほど前の一月に幸徳秋水たちが処刑され、いわゆる無政府主義、社会主義運動にとって冬の時代といわれた時期にあたる。
 いかにも、文芸的色彩を持たせた誌名によって、第一次二十三冊(〜1914.9)は、発禁処分になることなく順調に発行された。その後、月刊『平民新聞』(全六冊、四号以外すべて発売頒布禁止、1914.10〜15.3)をはさみ、第二次『近代思想』が、15年10月に再刊、復刊されるが、二号から四号(16年1月)までが発禁となり、その号で廃刊となる。
 例えば、第二次二号の巻頭言(復活号は大杉、三号は寒村、いずれも穏当な文章である)は、大杉が担当しているのだが、「動かし難く見える、大日本帝国の秩序の、如何に紊乱され易き事よ。(略)僅かに十行の無政府主義の説明を以て、吾々は此の大日本帝国の秩序を紊乱するに足る以上、吾々は最早、此の大日本帝国の其礎の如何に薄弱なるかを疑わざるをえない。/希くば大日本帝国よ、吾々が敵として戦うべくもう少し張合いのあるまでに、汝の其礎をして堅牢ならしめよ」(註=新かな漢字表記に書き換え、以下、同じ)と、明らかに国家(権力)へ挑発的な発言を記している。一号の穏当な文章から、なぜ、このような苛烈な文章になっていったのか、わたしには、その変容が興味深い。大杉による四号の巻頭言は、こうだ。
 
 「本誌は復活号を無事に出したのみで、十一月号も十二月(ママ)も、共に秩序壊乱の故を以て発売頒布を禁ぜられた。/僕は、先の平民新聞時代と、今回の此の引続いての発売禁止によって、数人の同志から、出せるようなものを出したら何うだ、と云う忠告を受けた。そして僕は、此の恐らくは厚意の忠告に対して、甚だしき不快の感を抱いた。そんな事を云って来る奴等は、同志でも友人でもない、とすら思う程に激兇靴拭よし僕の編輯した平民新聞なり近代思想なりが、どれ程没常識な無茶なものであった所で、僕の本当の同志や友人は、それ程無茶なものを造り上げた僕の心事を理解してくれるに違いない。(略)僕には、従来の僕の編輯した雑誌がそんな無茶なものだとは決して思えない。随分我を折った、僕としては殆んど恥じ入るばかりの、妥協に満ちたものであった。それでいて発売を禁止されるのは、される僕が悪いのか、する政府が悪いのか。(略)僕等は何故に此の雑誌を出しているのか。又政府は何故に此の雑誌を禁止するのか。僕等の本当の同志や友人は、僕等をして飽くまでも此の雑誌の発行を続けて行く事の出来るように、又政府をして此の雑誌の発行を禁止する事の出来なくなるように、出来るだけ僕等に協力してくれなければならぬ筈だ。/僕等は今、多少の、此の本当の同志や友人を持っている、しかしよし其の一人も無くなった所で、僕等は僕等の仕事を続けて行く。」

 言論の自由といったことが、とりあえずは前提となっている現在に立ってみれば、想像がつかないことに思えるかもしれないが、大逆事件以後数年は、言論弾圧は政府権力にとって当為のことであった。「数人の同志から、出せるようなものを出したら何うだ、と云う忠告を受けた」ことに対して、大杉は、「甚だしき不快の感を抱」き、そのような忠告をする「奴等は、同志でも友人でもない、とすら思う程に激兇靴拭廚販直に記しているが、もとより、そういうことは、自明のことのはずだ。「僕としては」、「随分我を折った」、「殆んど恥じ入るばかりの、妥協に満ちたもの」だったと述べているが、第一次と第二次とでは、第二次復活号の巻頭言と第二次第二号の巻頭言との変容と同じような差異を見ることができる。大杉のなかには、文芸・芸術的なるものを軽んじるつもりはなくても、やはり、運動誌を作って行きたかったはずだ。まだまだアナキズムの理念が、わが国においては未成熟の段階であることは、誰よりも大杉が一番痛苦に感じていたはずだからだ。発禁によって、その活動を委縮されるようでは、なんのために自らの思念をかけてまで、表現に拘るのかということだ。
 わたしは、今回、久しぶりに『近代思想』全二十七冊の復刻版(60年12月から62年3月にかけて五分冊で出された地六社刊の復刻版を、黒色戦線社が82年1月に復刊)を前にして思ったことは、雑誌である以上、広告によって、その経済的基盤を支えていこうとするのは、『近代思想』であっても同じことだなということだった。創刊号には、「明治天皇御伝」が、第二号には、「乃木大将論」が、第三号と第四号には、「乃木将軍と日本新聞」が広告として掲載されている。これだけでも、発禁にはならないだろうと断定できる。
 これらの広告とは違う意味で、わたしが、関心を持ったのは、
第十号から突然、表四で「ライオン歯磨・ライオン石鹸」(現・ライオン株式会社)の広告が登場する。それは、第二次廃刊号まで続いていくことになるのだが、このライオンの創業者小林富次郎は熱心なキリスト者として知られていて、大杉との接点は、順天中学生時、海老名弾正の本郷教会で出会ったことは、確かなようだが、わたしは、それ以上の詳しい事情や関係はわからない(本書でも誰ひとりとして触れていないのは不思議に思う)。第二次の場合、他には復活号と廃刊号の表二に「三越呉服店」(現・三越)の広告はあるが、出広量は激減していて、出版関係があるだけだ(幸徳秋水遺著『基督抹殺論』の広告もある)。
 こうしてみると、第二次を出す前に『近代思想』に関して、大杉は、その役割は終わったと考えていたように思えてくる。そして、伊藤野枝との随伴がはじまり(堀保子は、『近代思想』の事務方として支えていた)、『文明批評』を出した後、『労働運動』を創刊するのは、大正8(1919)年10月のことだった。大杉は、宣明どおり、「僕等は僕等の仕事を続けて行」ったことになる。
 昨年(2112年)の10月に、雑誌『近代思想』が創刊して一〇〇年ということで、記念集会が行われた。本書は、その「集会を契機にして生まれた論集」(「あとがき」)である。二四名(そのうち、冨板敦は、渾身の資料編を提示したことを付記しておきたい)の論者によって、「大杉栄」、「『近代思想』」、「仲間たち」といった項目立てにそった諸論稿を掲載している。
 いくらか恣意的に、幾篇かにしぼって触れてみたい。
 梅森直之は、「雑誌『近代思想』に、大杉栄が発表した多くの論説のうち、どれかひとつを選び語れといわれたなら、私は『鎖工場』を選ぶ」として、次のように述べていく。

 「国家の暴力が偏在していた時代にあって、国家以外のなにものかに支配の根元を見定めること。労働の神聖が声高に叫ばれていた時代のなかで、労働こそ鉄鎖の生産にほかならないと叫ぶこと。『鎖工場』は、日本の左翼思想史において、徹底的に反時代的かつ予兆的なテクストとして存在している。」(「『鎖工場』を超えて」)

 梅森は、さらに「社会主義の闘争の主要なアリーナを『国家』から『主体』へと移行させることであった」と付けくわえていく。わたしは、もし、大杉栄(の思想表現)が今日的な意味があるとすれば、日本のアナキズム運動史という枠組みで大杉を捉えるのではなく、梅森のように、アクチュアルに読まれる場合だと思っていたから、率直に共感できたといっておきたい。
 田中ひかるは、「『近代思想』を通読すると」、大杉の「『生』を強調するような文章とならんで、親しい人物の『死』や『喪失』にまつわる体験が反映された文章が多く掲載されていることに気づく」(「『近代思想』をおもしろく読む三つの方法」)として、大杉の代表的な論稿「生の拡充」に触れている。確かに、アグレッシブとも感じられるほどの大杉の「生」をめぐる思考のなかに、「親しい人物の『死』や『喪失』にまつわる体験が反映され」ていることを、わたしたちは、見失いがちだ。「生」と「死」は、断絶してあるのではなく、絶えず反照しあうものなのだ。
 小松隆二は、「『近代思想』とその時代は、大杉の生涯と運動においては重要な位置にある」として、『近代思想』に高い評価を与えている(前出地六社版復刻に小松が関わっている)。

 「『近代思想』は、第一次と第二次では性格も組織も大きく変わる。第二次は『平民新聞』の苦い経験から一歩退くものの、それでも復刊号を除いて、後は発禁の連続、資金も講演会活動等も思うにまかせず、といった実情の連続であった。(略)しかし、『平民新聞』と第二次『近代思想』の受けた弾圧は、大杉らに、むしろ運動の方向性・姿勢を固めさせた。弾圧を受けたとはいえ、一旦踏み出した方向を全く元に戻す姿勢は取らなかったからである。(略)たしかに、大杉らにとって『近代思想』の活動は、次のステージに進む準備の一面があった。と同時に、大杉らにもすでに思想、芸術、文化面でも他と対等に交わったり、先導したりする力が備えられており、大杉らの多様な活動・運動の一つが『近代思想』であったという理解・評価も可能である。社会主義者やアナキストの運動でも、明治期の『平民新聞』、また大正期の『労働運動』のような思想・運動専門の機関誌が唯一の、あるいは高い活動ではない。同時に文芸、文化、芸術、経済など多様な活動がなされてよい。『近代思想』は、そのような領域の時代的ニーズにはかなり応えていたのである。」(「『近代思想』にみられる大杉栄と堺利彦の距離」)

 わたしは、これまで『労働運動』と比較して、『近代思想』を幾らか低く見做していたように思う。わたし自身にとって、本書を読むにあたって、全二十七冊の復刻版をあらためて取り出し見たことは、大きな意味があったと思っている。なによりも、目の前に置くことによって、彼らの切実なる活動がひとつの描像をもって浮き上がってきて、いまと少しでも繋がることができたと感じられたからだ。

※「大杉栄と仲間たち」編集委員会・編
『大杉栄と仲間たち―「近代思想」創刊100年』
ぱる出版・13.6.27刊 四六判 340頁 本体2400円

本間健彦 著
『60年代新宿アナザー・ストーリー  
タウン誌「新宿プレイマップ」極私的フィールド・ノート
(「図書新聞」13.10.5号)

 わたし自身のことから、述べさせてもらうなら、高校を卒業して、上京したのが、68年4月。新宿という名前を冠した予備校に籍を置いたが、あまり通学した覚えはない。それがよかったのかどうか、結果的に東京の中で、住まいのあった国分寺についで、新宿は最も身近な場所となった。翌年、入学した大学は、御茶ノ水にあったから、国分寺まで中央線沿線が、わたしとっての生活圏となったわけだが、その中心は、やはり、新宿であった。藤圭子の『新宿の女』(69年9月)から、椎名林檎の『歌舞伎町の女王(98年9月)までの時空が、いわば、わが新宿といえる場所だったように思う。91年に都庁が移転して来てからは、かつての新宿はその相貌を変容させていったといっていい。
 本書は、ジャズ喫茶の活写から始まっている。わたしもまた、上京してすぐに、新宿のジャズ喫茶の洗礼を受けて、その世界に浸っていった。時代情況の反映といえばそうなのかもしれないが、当時のジャズは、どこか騒然としてアナーキーなイメージが、わたしにはあった。それがまた、新宿という街を象徴させていたと思っている。
 本書の著者が編集していたという月刊誌『新宿プレイマップ』(69年9月号〜72年6月号)を、わたしは、はっきり覚えていない。書店の店頭で手に取った記憶はあるが、購読したことはなかったはずだ。それは、著者がそれ以前に編集に関わっていた『話の特集』に関しても同じことがいえる。もちろん、雑誌自体はよく知っていていたが、購読者ではなかった。巻末の総目次を見て、いまさらながら、なぜ、もう少し関心を持たなかったのかと悔やまれた。実に幅広い執筆者が並んでいる。著者には申し訳ないが、いささか偏愛的にあげてみれば、野坂昭如、小川徹、林静一、加藤郁乎、相倉久人、斎藤龍鳳、清水哲男、平岡正明、つげ忠男、寺山修司、鈴木志郎康、五木寛之、田村隆一、赤瀬川原平、唐十郎、清水昶、吉増剛造、渋沢孝輔となる。
 本書は、著者が編集に関わった『新宿プレイマップ』誌のアンソロジー(著者は、コラージュとしている)であり、記録集でもあり、著者自身の六〇年代から七〇年代初頭にかけてのクロニクルでもある。
 著者は、六年間在籍した『内外タイムス』を67年10月に退社し、なぜか温泉旅館の番頭をした後、『内外タイムス』の先輩(周知のように映画評論家の斎藤龍鳳も在職していた)だった矢崎泰久の『話の特集』に在職、そして矢崎の紹介で、『新宿プレイマップ』に関わることになる。「発行元は新都心新宿PR委員会(委員長・田辺茂一)という団体で、新宿の百貨店・大手企業・商店街・専門店が会員となって構成されてい」て、「その名のとおり新宿の『街の雑誌』だった」と述べている。
 そしてさらに、『新宿プレイマップ』の当時の位置づけが、語られていく。
 「ある特定の街を冠にした雑誌は、それまでは単に『街の雑誌』とか『街のPR誌』、あるいは『商店街雑誌』などと呼ばれてきた。『タウン誌』という呼称は、『新宿プレイマップ』が創刊されて評判を呼ぶようになり、マス・メディアなどから取材を受けるようになったとき、私たちが意識的に連呼してきたことで普及したのだった。」
 いまでこそ、若者たちの街といえば、渋谷ということになるが、当時は、圧倒的に新宿がそうだったし、銀座とは違った意味で、新宿は東京の象徴として屹立していたといえる。本書によれば、地方在住者の購読者が少なからずいたという。それは、東京というのは、すなわち新宿という街のことであるということを意味している。
 しかし、突然、著者が「廃刊予告を受けたのは」、71年8月だったという。結局、72年の4月号で「新宿のタウン誌としての使命を終」え、マドラという広告制作会社(後に「広告批評」を発行)が発売となって、一般市販誌として再スタートするも、「情報ページだけのタウン誌」を作るようにと編集内容の変更を迫られ、二号だけ出して終刊となる。
 二年後の74年、まさしく、情報誌が創刊される。雑誌『ぴあ』である。しかし、その『ぴあ』もやがて、Net情報に押され、二年前に休刊した。歳月の過ぎゆく速さを思わざるをえない。
 だが著者は、いまも、自立タウン・メディアとして、『街から』(創刊して二十年、号数は120号を超えている)というタウン誌を出し続けている。

(社会評論社刊・13.6.15)

寺 畔彦 著
『戦艦ポチョムキンの生涯 1900▼1925

(「図書新聞」13.9.28号)

 ある程度の映画通であれば、エイゼンシュテイン監督作品『戦艦ポチョムキン』(1925年旧ソ連にて製作・公開、日本での公開は1967年)のことは、知っているはずだ。いま、手元にあるDVDジャケットの惹句には、「あらゆる映画の原点にして傑作」、「1958年のブリュッセル万国博では『映画史上のベスト1』に選ばれた、サイレント映画の最高傑作である」と最大級の賛辞が記されている。さらに、モンタージュ理論が確立された作品といわれ、映画制作を志す人たちにとっては必見のものとされてきた。だが、わたしは、スターリン政権下のプロパガンダ映画でしかないものを、なぜ、これほどまでに絶賛するのだろうかと、思い続けきた。だから、どういうかたちであったかは忘れたが、断片的映像を見ただけで、全編を通して見たことはなかった。じつは、遅ればせながら、本書を読むにあたって、ようやく全編を通して見たことになるのだが、確かに、当時としては斬新なカット割りや俯瞰映像などがあって、なるほどとは思ったが、作品自体への共感はまったく湧いてこなかったといっておきたい。むしろブライアン・デ・パルマの『アンタッチャブル』(87年―こちらは、封切時に見ている)で、有名なオデッサの階段シーンを踏襲する場面があるが、「原点」を遥かに凌ぐ迫力ある映像であったことを強調しておきたい。文学や思想に限らず、音楽、絵画、もちろん映画も、先駆的な作品や表現というものは、確かにある。しかし、先駆的なるものが、『戦艦ポチョムキン』のように、「あらゆる映画の原点にして傑作」といまだ冠せられ続けることの不可思議さを、わたしなら思わざるをえない。先駆的なるものが、乗り越えられてこそ、その表現ジャンルが豊饒になっていくと思うからだ。
 さて、本書のエピグラフに鈴木清順の「有名な『戦艦ポチョムキン』は革命のあとの産物であり、それは映画の方法論であるモンタージュを作り出したに過ぎません」という「アナキスとは誰だ!」と題した講演録の一節が引かれている。大杉栄やギロチン社というアナキスト集団に触れた清順の講演録の一節を引いた著者の思いは、1905年の戦艦ポチョムキンの水兵たちの猗斥隲瓩函革命後(21年)に起きたクロンシュタットの叛乱をなんらかのかたちで、対比させることではないかと思いながら、読み進めていったわけだが、本文最後の方になる238Pから、さりげなく取り上げている。著者は、「あとがき」で、「歴史に『真実』など存在しない。あるのは『解釈』のみである」と述べ、「『真相』だの『真実』などを描くつもりは毛頭無かった。私が描きたかったのは『解釈』だった」としている。しかし、「解釈」というものは、そもそも「考え方」から裏付けられたものだとわたしは思う。だから、著者の「解釈」に導かれながら、わたしもまた、ひとつの考え方に辿りついたといっていい。
 映画作品は有名でも、戦艦ポチョムキンがどのようにしてつくられ、どのようなかたちでその任務を終えたのか、わたし自身もそうだが、多くの人が知らなかったはずだ。「建造計画が始まってから五年、公式の建造が始まってからも二年の歳月が過ぎた」、1900年十月、ロシア海軍最新鋭の戦艦が進水式を迎える。やがて、日露戦争(04〜05年)が勃発。ロシア海軍は惨敗。最新鋭の戦艦にロシア海軍の威信がかけられることになっていく。“叛乱”は、日露戦争が終結に向かう時期と重なっていくことになる。戦艦ポチョムキンの水兵たちの“叛乱”が、いかにも革命前夜を象徴するかのように思われるが、レーニンたちが政権を奪取するのは、七年後のことだし、この“叛乱”が、起爆剤になったわけではない。要するに「蛆のわいた肉のために勃発するような、たんなる兵士の叛乱」だったといってもいいのだ。だが、オデッサの階段を見たエイゼンシュテインが、「血の日曜日事件」などの民衆弾圧をモチーフにして、激動の一年描く予定だった映画『一九〇五年』を、「ただ〈ポチョムキン〉及びオデッサのみについての物語に凝縮し」たことから、猗斥隲瓩蓮異様な拡大を遂げてしまったことになる。05年当時、レーニンもトロツキーも、戦艦ポチョムキンの叛乱について触れているが、革命後は、まったくその視野には入っていないという。閑却された出来事だったものを、映画の力によって、革命的なカテゴリーに組み入れられたことになる。著者はいう、「『甲板上のドラマ』同様、『オデッサの階段』も実際の出来事ではない」。映画は所詮、作りもので娯楽だといい切る清順は、先の講演録で芸術的かつ社会的映画を映画的価値に見立てることに、疑問を投げかけて、自分が、大杉栄やギロチン社事件を撮るなら娯楽映画に仕立てたいという思いを述べている。それは、真相や事実を求めるのではなく、清順自身が解釈したことを映像化していくことに他ならない。エイゼンシュテインは、解釈を放棄して、社会的映画を虚構化したことになる。やがて、その虚構化は、真相や真実になっていったことが、わたしには、耐えられないことだといっておきたい。
 一九一九年の春頃のこと、「セヴァストーポリの港内に、多数の老朽艦に混じって、一隻の旧式戦艦が蹲っていた。その戦艦は二年前からずっと係留、否、放置されたままの状態にあった」という。そして、イギリス海軍の水兵と士官らが、「屑鉄同然の戦艦の機関部に爆薬を設置し、それを爆発」する任務が与えられていて、それを実行した。その時が、戦艦ポチョムキンの「実質的な死」ということになる。

(現代書館刊・13.5.31)

吉本隆明 著、ハルノ宵子 追想・画『開店休業』
(「図書新聞」13.7.6号)

 本書は、中断がありながらも、吉本隆明が、「おいしく 愉しく 食べてこそ」という表題で四年間全四十回を雑誌「dancyu」に2007年1月号から11年2月号まで自筆原稿で連載したものに、長女で、『プロジェクト魔王』、『虹の王国』などの作品のある漫画家・ハルノ宵子が、多彩なカットとともに、四十篇のエッセイに対応するように「追想」文を書き下ろしで付して構成したものである。ハルノ宵子は、知る人ぞ知る名文家であると、わたしは思っている。文章のうまさもさることながら、鋭い観察眼によって紡ぎだされる文体の巧みさは、父親や母親(俳人)、そして妹(よしもとばなな)よりはるかに、凌いでいるといいたくなる。本書でも、父の衰える記憶やモチーフの重なりを、愛情を持って補っていく文章群に、わたしは、ただただ感動したといえば、それで本書について、いい尽したつもりでいるのだ。書名に関して、担当編集者によるあとがきで、吉本との応答から拝借したとしているが、わたしは、直ぐに、ハルノ宵子が隔月刊誌『猫びより』で長期連載中の「ハルノ宵子のシロミ介護日誌」(昨年、掲載された父が亡くなる前の描写と、家主が不在になった時のシロミの状態を活写した一文は素晴らしい)のプロフィール欄にある「漫画家(開店休業中)」のことを想起した。たぶん、吉本や編集者の意識のなかに、そのこともあったのではないかと思っている。
 わたしの、吉本隆明と「食」に関する最初のイメージは、吉本読者の先輩たちから聞かされた「病弱な妻に代わって家事を引き受ける、大衆に寄りそった思想家吉本」(本書29P)というものであった。いまから、四十数年前のことだ。74年に出された久しぶりの評論集『詩的乾坤』のなかに、「わたしが料理を作るとき」という一文が載っていて、なるほど、やはりそうだったのかということと、そこで、挙げられた「ネギ弁当」、「ソース・じゃが芋煮つけ」、「白菜・にんじん・豚ロース水たたき」の三品に衝撃を受けてしまったことを覚えている。ただし、「ネギ弁当」に関して、「職なく、金なく、着の身着のまま妻君と同棲しはじめた頃、アパートの四畳半のタタミに、ビニールの風呂敷をひろげて食卓とし、よく作って喰ベた。美味しく、ひっそりとして、その頃は愉しかった」と記されているのを見て、素直に納得できたものだった。本書のエッセイ群は、その時に書かれた記憶の食のイメージと重なるところが多々あるように思える。
 「わたしにとっての幼少期の味は、(略)母親にせがんで炊きたてのご飯で小さな塩おにぎりを握ってもらいぱくつくことだった。その味は今でも幻のように思い出す味だ。」「幼時を過ぎてまもない少年の頃、ごはんにおかずとして三本の指に数えるほどの好物が『焼き蓮根』だった。」「子供のころ、ほうれん草のおひたしにかつお節を振りかけて、醤油をたらし、それだけで温かいごはんをかき込んで満足したことは数知れない。いまでは、それが夢のように思える。」
 このように、少年期の記憶の味が記されるとき、わたしたちなら、幾らか、共有しうるものを感じることになる。シンプルで、質素ともいえるおかずであるにもかかわらず、特別なおいしさの記憶として残り続けるのは、なぜだろうかと考えてみれば、「味覚がにぶくなっても、思い出の味だけは忘れ難」いということになるからだ。
 ハルノ宵子は、「父の言う『味の思い出と思い込み』説に異論はない。とりあえず今この瞬間だけは、何の心配もなく楽しくて、まだ未来に向けて開けていると感じる黄金のひと時に食べた味こそが、きっと生涯忘れがたい味になるのだろう」と述べているのだが、「ほうれん草」に関しては、「父の舌はまったくもって正しい」としていく。確かに、「まだ未来に向けて開けていると感じる黄金のひと時」とは、いいえて妙な気分にさせるいい方だと思う。過去の時間は、いつだって憧憬感をかき立てるものだ。例え、過去が辛かったとしても、時の重なりがいつしか、「黄金のひと時」と思うようになる。やがて、「幻」や「夢」が、わたしたちの現在を潤していくように。
 「父が亡くなる三、四ヶ月前」のことだという。「父が『さわちゃん、そこにいるか?』と尋ねた」そうだ。
 「『いるよ。何だい?』と、手を拭きながら父の目の前に立つと、『すまないが、氷の入った水を一杯くれないか』と父は言った。その言い方が、これまでの父と違って、あまりにも、爛縫紂璽肇薀覘瓩世辰燭里濃笋篭辰、限りなくやさしい気持ちになって、あわてて水を入れに行った。(略)父は『ああ……うまい! うまいなぁ』と、本当に美味しそうに飲み干すと、奥の客間へと這って寝に行った。」
 二人の関係は父娘ではあるが、ここ十年以上は、食事をはじめ、日常的な事どもも含めて、父が娘へ過重に依存する関係だったと思う。爛縫紂璽肇薀覘瓩箸蓮△犬弔貌鷽佑隆愀犬鮠魂擇気擦襪いじ斥佞世隼廚Αこの時、この瞬間、「限りなくやさしい気持ち」を向けることで、やはり父娘という親和の関係なんだということを実感することになったはずだ。

(プレジデント社刊・13.4.30)

浦崎浩實 著『歿2―映画人墓参抄』
(「図書新聞」13.6.29号)

 映画人(監督、脚本家、俳優)、約160人への追慕記である。本書が、通例の追悼文集と違うのは、墓参記でもあるということと、全体の三分の二ほどの頁数に脚本家が取り上げられていることだ。それは、前著『歿―映画人忌辰抄』が、「キネマ旬報」誌に掲載された「映画人、逝く」(本書にも前著以後の分が収められている)を中心に編まれているのに対して。本書は、「シナリオ」誌掲載の文章を収載しているからだ。
 墓参というと、抹香臭さがつきまとうものだが、どこか晴れやかさのようなものを感じるときが、わたしにはある。もちろん、近親者の場合と、会ったことはない先人の墓を詣でたときとは幾らか違うのだが、それでも自分が共感する先人の墓を訪れた場合、ここでやっと会えたという不思議な感慨が湧いてくるからではないかと思っている。
 「(略)供養塔を『墓』と呼んでも不都合ではなく、今日では墓といえば遺骨か遺灰か、土葬なら遺体が埋葬されるところと思いがちだが、国内外を見ても葬る場所とお詣りする場所が別々の両墓制もなお生きている地域があろうし、墓、塚、碑が厳密に区別されているのでもない。(略)死者は格別にエラくない、生者と同等に偉いだけ……。(略)私たちは現在のところ、墓という弔いの様式を超えるものをまだ持ちえていないのではないか?/そして仏像に魂を入れるのはお坊さんの役目だが、墓に魂を入れるのは、参拝者だと思うことにしております。」(「私なりのお墓巡礼〜千の風にならず」)
 さらにいえば、この文章のなかでは、「千の風になって」という歌の皮相なモチーフや、映画『あなたへ』の死者が生者を強要するようなストーリーを俎上に乗せているのだが、そのことも含め、著者の「墓」をめぐる思いに、わたしは、まったくその通りだと納得するほかはない。わたしは、「墓に魂を入れるのは、参拝者」であるとするならば、墓石を通して、死者と生者が繋がることによって、死者と生者は同等であり、同じ関係性のなかに入ることだと思う。
 高橋貞二という俳優がいた。わたしは、リアルタイムで観ていたわけではないが、その死とその後のことは、覚えている。赤木圭一郎の事故死に先立つ一年半ほど前のことである。高橋は、「愛車ベンツを酩酊して運転、雨の横浜駅頭で自損事故を起こし死亡」、享年三十三。そして、「新婚8ヶ月余で夫に先立たれたみどり夫人」は、「高橋の死の翌々年の」、1月26日の朝、「アパートでガス自殺した」のだ。
 「小津たちの哀惜が込められた高橋貞二(本名・貞次)の墓は2×3.7メートルの塋域の、結界石を含め全てが白御影で敷きつめられて、死者の若々しさを今に伝えていた。/しかし、一番の感銘は夫人の名前が、夫ともども墓石中央にきちんと位置していることで、(略)みどり夫人の名前を、貞次の横に書き足したのではなく、新たに墓石に刻み直し(墓石を取り替え?)、2人の愛の証しのモニュメントにしているのだった。/折しも青山墓地は満開の桜が輝くばかりで、(墓碑の)2人の愛をまぶしく引き立てていた。」
 墓地に咲く桜がひと際、美しいと思ったのは、いつからだったのだろうかと、思い返し見る。近年のことでいえば、桜咲く三月下旬に自死した村上一郎さんの墓参をし始めた時だったかもしれない。
 本書のなかで、最も印象深く読んだのは、脚本家・大和屋竺(監督、俳優、歌手でもある。鈴木清順の『殺しの烙印』のなかでは、殺し屋を快演、主題歌も歌っている)の項である。墓参ではないことと、著者の筆致がじつにいいのだ。
 「氏はどこを向いても、自己否定が先に立つようで、これはかなりきつい生き方ではなかろうか。/墓はいらない、遺灰はインドのベナレスに撒いてほしい、が大和屋竺さんの希望だったそうで、(略)叡子夫人(引用者註=スクリプターであった)のお言葉に甘えお誕生日の6月19日(略)大和屋邸の仏壇にお参りした。(略)叡子夫人も自己否定のかたなのか、夫を評して『ちゃらんぽらんな人なんですよ』と苦笑まじりに言う。(略)私は、大和屋さんの自己否定の激しさと55歳という短命を思い、つい、『大和屋さんはお幸せだったんですね』と愚かなことを口にした。何てばかなことを聞くんだろうと叡子夫人に思われたかもしれないが、『ええ、そうだったと思います』とこれは否定なされなかった。」
 一緒に墓に眠る夫婦、死者と生者に別れながらも、しっかりと繋がっている夫婦、このことは、映画人だからというのではない。大げさにいえば、ありうべき対なる関係というものを示していることなのだと、わたしに思われる。

(ワイズ出版刊・13.3.15)

大本敬久 著
『触穢の成立――日本古代における「穢」観念の変遷』

(「図書新聞」13.6.22号)

 「穢」、「穢れ」、「ケガレ」、そして「触穢」、あるいは「罪穢」といった用語並びにそこに潜在する概念を歴史学的研究と民俗学的研究との往還を通して、日本的文化という構造のなかで、考究しようとした意欲的な論稿である。
 著者は、まずなによりも「穢」、「ケガレ」という観念の発生と変遷を、多様なテクストを配しながら、緻密な検証を加えていく。そのうえで、時間性において切断があることを認め、そこに新たな地平の切開を見ていこうとする。従来の、「穢」や「触穢」に対する捉え方の前提に、古代法(「国津罪」、「天津罪」)や神道からの抽出がある。しかし、著者はそうした「規定化、概念化された穢」がひとつの隘路を招来していると見做していくのだ。
 「ケガレ・穢研究の古代と中世の断絶を埋めるために、触穢思想それ自体の成立過程を、その根本基盤から見てみる必要があるということである。(略)『触穢』と『ケガレ』、つまり『規定化、概念化された穢』とそうでないものの区別が曖昧な面があったがために、古代のケガレ・穢研究は混乱し、例えば罪穢の用法の問題などが生じる結果となってしまったといえる。(略)古代におけるケガレ・穢研究の基本的立場として、神道学の用いるところの罪穢や民俗学のケガレを『方法』として安易に持ち込んではならないと考える。」(「第一章 ケガレ・穢に関する研究史と課題」)
 わたしは、著者のアプローチに、まったく同意する思いなのだが、率直にいえば、「穢」、「ケガレ」といった概念をもう少し拡張して捉えてみたい欲求がある。
 ところで本書は、94年12月に提出された立正大学大学院文学研究科史学専攻修士課程における修士論文を基にしたものであるそうだが、二十年近い時間性がありながらも、敢えて改稿せず刊行したという。それは、「現段階のケガレ・穢研究でも指摘・検討されていない成果」があり、今後の「研究の論点整理が容易になる」はずだという思いがあるからだと述べている。それは、次のような箇所に象徴していえるような気がする。つまり、記紀・続日本紀のなかの「『穢』の用例」が、「『穢』は単独の一文字名詞として現れることはなく、固定化された概念ではなかった」と捉え、奈良時代以前と以後の違いを見定めつつ、「天平年間以降、単に物理的に『キタナイ』ことを意味するものだけではなく、心理的次元のもの、具体的には、朝廷への反逆心を示す言葉として『穢』が出てくるようになる。(略)『穢』の概念は、仏教による直接的な影響により成立したとはいえないものの、仏教の受容に伴って顕在化したという間接的な影響があったことに注目すべきであ」(「第二章 触穢規定成立以前の『穢』―特に奈良時代以前―」)るとしている。
 わたしが考える拡張された「穢」、「ケガレ」という概念は、ここで述べられているように、「キタナイ」、あるいは不浄なものといった閉じられたイメージから離反させて捉えていくということである。だから、著者がさらに、踏み込んで「朝廷への反逆心を示す言葉」へと敷衍させていくことに、いうなれば本書の達成があるといっていいはずだ。
 「人は秩序の理解のために分類を行うが、分類しきれない境界性を帯びたものは嫌悪と畏怖の対象とな」り、身体的な「血、唾、尿、便、髪、爪」、共同体的には、「女性、被差別民、少数民族」を「秩序を干犯するものとして排除される」としながら、著者は、日本文化の基層へとその視線を射し入れていく。
 「日本において、これら身体感覚に浸透する穢れの特性によって固定化され、見えざる権力のように文化構造として長期間定着してきた。その穢れは日本文化においてどのような歴史的変遷をたどってきたのか(略)、未だ解明されているわけではない。」(「第一章」)
 清浄なものと不浄なものという、相対する位相は、対称的な構造のなかにあると見做すべきである。在るはずのない境界を、引くことで、共同性を強化する無意識性は、人が生みだす共同の幻想だといっていい。
 著者が、本書の後に、日本文化の基層へ、さらなる鋭利な分析をくわえていくことを期待したいと思う。

(創風社出版・13.1.31 )


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