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2013.09.27 Friday

タウン誌『新宿プレイマップ』のアンソロジー

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    本間健彦 著
    『60年代新宿アナザー・ストーリー  
    タウン誌「新宿プレイマップ」極私的フィールド・ノート
    (「図書新聞」13.10.5号)

     わたし自身のことから、述べさせてもらうなら、高校を卒業して、上京したのが、68年4月。新宿という名前を冠した予備校に籍を置いたが、あまり通学した覚えはない。それがよかったのかどうか、結果的に東京の中で、住まいのあった国分寺についで、新宿は最も身近な場所となった。翌年、入学した大学は、御茶ノ水にあったから、国分寺まで中央線沿線が、わたしとっての生活圏となったわけだが、その中心は、やはり、新宿であった。藤圭子の『新宿の女』(69年9月)から、椎名林檎の『歌舞伎町の女王(98年9月)までの時空が、いわば、わが新宿といえる場所だったように思う。91年に都庁が移転して来てからは、かつての新宿はその相貌を変容させていったといっていい。
     本書は、ジャズ喫茶の活写から始まっている。わたしもまた、上京してすぐに、新宿のジャズ喫茶の洗礼を受けて、その世界に浸っていった。時代情況の反映といえばそうなのかもしれないが、当時のジャズは、どこか騒然としてアナーキーなイメージが、わたしにはあった。それがまた、新宿という街を象徴させていたと思っている。
     本書の著者が編集していたという月刊誌『新宿プレイマップ』(69年9月号〜72年6月号)を、わたしは、はっきり覚えていない。書店の店頭で手に取った記憶はあるが、購読したことはなかったはずだ。それは、著者がそれ以前に編集に関わっていた『話の特集』に関しても同じことがいえる。もちろん、雑誌自体はよく知っていていたが、購読者ではなかった。巻末の総目次を見て、いまさらながら、なぜ、もう少し関心を持たなかったのかと悔やまれた。実に幅広い執筆者が並んでいる。著者には申し訳ないが、いささか偏愛的にあげてみれば、野坂昭如、小川徹、林静一、加藤郁乎、相倉久人、斎藤龍鳳、清水哲男、平岡正明、つげ忠男、寺山修司、鈴木志郎康、五木寛之、田村隆一、赤瀬川原平、唐十郎、清水昶、吉増剛造、渋沢孝輔となる。
     本書は、著者が編集に関わった『新宿プレイマップ』誌のアンソロジー(著者は、コラージュとしている)であり、記録集でもあり、著者自身の六〇年代から七〇年代初頭にかけてのクロニクルでもある。
     著者は、六年間在籍した『内外タイムス』を67年10月に退社し、なぜか温泉旅館の番頭をした後、『内外タイムス』の先輩(周知のように映画評論家の斎藤龍鳳も在職していた)だった矢崎泰久の『話の特集』に在職、そして矢崎の紹介で、『新宿プレイマップ』に関わることになる。「発行元は新都心新宿PR委員会(委員長・田辺茂一)という団体で、新宿の百貨店・大手企業・商店街・専門店が会員となって構成されてい」て、「その名のとおり新宿の『街の雑誌』だった」と述べている。
     そしてさらに、『新宿プレイマップ』の当時の位置づけが、語られていく。
     「ある特定の街を冠にした雑誌は、それまでは単に『街の雑誌』とか『街のPR誌』、あるいは『商店街雑誌』などと呼ばれてきた。『タウン誌』という呼称は、『新宿プレイマップ』が創刊されて評判を呼ぶようになり、マス・メディアなどから取材を受けるようになったとき、私たちが意識的に連呼してきたことで普及したのだった。」
     いまでこそ、若者たちの街といえば、渋谷ということになるが、当時は、圧倒的に新宿がそうだったし、銀座とは違った意味で、新宿は東京の象徴として屹立していたといえる。本書によれば、地方在住者の購読者が少なからずいたという。それは、東京というのは、すなわち新宿という街のことであるということを意味している。
     しかし、突然、著者が「廃刊予告を受けたのは」、71年8月だったという。結局、72年の4月号で「新宿のタウン誌としての使命を終」え、マドラという広告制作会社(後に「広告批評」を発行)が発売となって、一般市販誌として再スタートするも、「情報ページだけのタウン誌」を作るようにと編集内容の変更を迫られ、二号だけ出して終刊となる。
     二年後の74年、まさしく、情報誌が創刊される。雑誌『ぴあ』である。しかし、その『ぴあ』もやがて、Net情報に押され、二年前に休刊した。歳月の過ぎゆく速さを思わざるをえない。
     だが著者は、いまも、自立タウン・メディアとして、『街から』(創刊して二十年、号数は120号を超えている)というタウン誌を出し続けている。

    (社会評論社刊・13.6.15)

    2013.09.21 Saturday

    映画ではない「戦艦」ポチョムキンを描く

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      寺 畔彦 著
      『戦艦ポチョムキンの生涯 1900▼1925

      (「図書新聞」13.9.28号)

       ある程度の映画通であれば、エイゼンシュテイン監督作品『戦艦ポチョムキン』(1925年旧ソ連にて製作・公開、日本での公開は1967年)のことは、知っているはずだ。いま、手元にあるDVDジャケットの惹句には、「あらゆる映画の原点にして傑作」、「1958年のブリュッセル万国博では『映画史上のベスト1』に選ばれた、サイレント映画の最高傑作である」と最大級の賛辞が記されている。さらに、モンタージュ理論が確立された作品といわれ、映画制作を志す人たちにとっては必見のものとされてきた。だが、わたしは、スターリン政権下のプロパガンダ映画でしかないものを、なぜ、これほどまでに絶賛するのだろうかと、思い続けきた。だから、どういうかたちであったかは忘れたが、断片的映像を見ただけで、全編を通して見たことはなかった。じつは、遅ればせながら、本書を読むにあたって、ようやく全編を通して見たことになるのだが、確かに、当時としては斬新なカット割りや俯瞰映像などがあって、なるほどとは思ったが、作品自体への共感はまったく湧いてこなかったといっておきたい。むしろブライアン・デ・パルマの『アンタッチャブル』(87年―こちらは、封切時に見ている)で、有名なオデッサの階段シーンを踏襲する場面があるが、「原点」を遥かに凌ぐ迫力ある映像であったことを強調しておきたい。文学や思想に限らず、音楽、絵画、もちろん映画も、先駆的な作品や表現というものは、確かにある。しかし、先駆的なるものが、『戦艦ポチョムキン』のように、「あらゆる映画の原点にして傑作」といまだ冠せられ続けることの不可思議さを、わたしなら思わざるをえない。先駆的なるものが、乗り越えられてこそ、その表現ジャンルが豊饒になっていくと思うからだ。
       さて、本書のエピグラフに鈴木清順の「有名な『戦艦ポチョムキン』は革命のあとの産物であり、それは映画の方法論であるモンタージュを作り出したに過ぎません」という「アナキスとは誰だ!」と題した講演録の一節が引かれている。大杉栄やギロチン社というアナキスト集団に触れた清順の講演録の一節を引いた著者の思いは、1905年の戦艦ポチョムキンの水兵たちの猗斥隲瓩函革命後(21年)に起きたクロンシュタットの叛乱をなんらかのかたちで、対比させることではないかと思いながら、読み進めていったわけだが、本文最後の方になる238Pから、さりげなく取り上げている。著者は、「あとがき」で、「歴史に『真実』など存在しない。あるのは『解釈』のみである」と述べ、「『真相』だの『真実』などを描くつもりは毛頭無かった。私が描きたかったのは『解釈』だった」としている。しかし、「解釈」というものは、そもそも「考え方」から裏付けられたものだとわたしは思う。だから、著者の「解釈」に導かれながら、わたしもまた、ひとつの考え方に辿りついたといっていい。
       映画作品は有名でも、戦艦ポチョムキンがどのようにしてつくられ、どのようなかたちでその任務を終えたのか、わたし自身もそうだが、多くの人が知らなかったはずだ。「建造計画が始まってから五年、公式の建造が始まってからも二年の歳月が過ぎた」、1900年十月、ロシア海軍最新鋭の戦艦が進水式を迎える。やがて、日露戦争(04〜05年)が勃発。ロシア海軍は惨敗。最新鋭の戦艦にロシア海軍の威信がかけられることになっていく。“叛乱”は、日露戦争が終結に向かう時期と重なっていくことになる。戦艦ポチョムキンの水兵たちの“叛乱”が、いかにも革命前夜を象徴するかのように思われるが、レーニンたちが政権を奪取するのは、七年後のことだし、この“叛乱”が、起爆剤になったわけではない。要するに「蛆のわいた肉のために勃発するような、たんなる兵士の叛乱」だったといってもいいのだ。だが、オデッサの階段を見たエイゼンシュテインが、「血の日曜日事件」などの民衆弾圧をモチーフにして、激動の一年描く予定だった映画『一九〇五年』を、「ただ〈ポチョムキン〉及びオデッサのみについての物語に凝縮し」たことから、猗斥隲瓩蓮異様な拡大を遂げてしまったことになる。05年当時、レーニンもトロツキーも、戦艦ポチョムキンの叛乱について触れているが、革命後は、まったくその視野には入っていないという。閑却された出来事だったものを、映画の力によって、革命的なカテゴリーに組み入れられたことになる。著者はいう、「『甲板上のドラマ』同様、『オデッサの階段』も実際の出来事ではない」。映画は所詮、作りもので娯楽だといい切る清順は、先の講演録で芸術的かつ社会的映画を映画的価値に見立てることに、疑問を投げかけて、自分が、大杉栄やギロチン社事件を撮るなら娯楽映画に仕立てたいという思いを述べている。それは、真相や事実を求めるのではなく、清順自身が解釈したことを映像化していくことに他ならない。エイゼンシュテインは、解釈を放棄して、社会的映画を虚構化したことになる。やがて、その虚構化は、真相や真実になっていったことが、わたしには、耐えられないことだといっておきたい。
       一九一九年の春頃のこと、「セヴァストーポリの港内に、多数の老朽艦に混じって、一隻の旧式戦艦が蹲っていた。その戦艦は二年前からずっと係留、否、放置されたままの状態にあった」という。そして、イギリス海軍の水兵と士官らが、「屑鉄同然の戦艦の機関部に爆薬を設置し、それを爆発」する任務が与えられていて、それを実行した。その時が、戦艦ポチョムキンの「実質的な死」ということになる。

      (現代書館刊・13.5.31)


      2013.06.29 Saturday

      父吉本と長女ハルノの「記憶の食」をめぐるエッセイ──父の遺稿を、愛情をもって補っていく長女の文章群に感動

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        吉本隆明 著、ハルノ宵子 追想・画『開店休業』
        (「図書新聞」13.7.6号)

         本書は、中断がありながらも、吉本隆明が、「おいしく 愉しく 食べてこそ」という表題で四年間全四十回を雑誌「dancyu」に2007年1月号から11年2月号まで自筆原稿で連載したものに、長女で、『プロジェクト魔王』、『虹の王国』などの作品のある漫画家・ハルノ宵子が、多彩なカットとともに、四十篇のエッセイに対応するように「追想」文を書き下ろしで付して構成したものである。ハルノ宵子は、知る人ぞ知る名文家であると、わたしは思っている。文章のうまさもさることながら、鋭い観察眼によって紡ぎだされる文体の巧みさは、父親や母親(俳人)、そして妹(よしもとばなな)よりはるかに、凌いでいるといいたくなる。本書でも、父の衰える記憶やモチーフの重なりを、愛情を持って補っていく文章群に、わたしは、ただただ感動したといえば、それで本書について、いい尽したつもりでいるのだ。書名に関して、担当編集者によるあとがきで、吉本との応答から拝借したとしているが、わたしは、直ぐに、ハルノ宵子が隔月刊誌『猫びより』で長期連載中の「ハルノ宵子のシロミ介護日誌」(昨年、掲載された父が亡くなる前の描写と、家主が不在になった時のシロミの状態を活写した一文は素晴らしい)のプロフィール欄にある「漫画家(開店休業中)」のことを想起した。たぶん、吉本や編集者の意識のなかに、そのこともあったのではないかと思っている。
         わたしの、吉本隆明と「食」に関する最初のイメージは、吉本読者の先輩たちから聞かされた「病弱な妻に代わって家事を引き受ける、大衆に寄りそった思想家吉本」(本書29P)というものであった。いまから、四十数年前のことだ。74年に出された久しぶりの評論集『詩的乾坤』のなかに、「わたしが料理を作るとき」という一文が載っていて、なるほど、やはりそうだったのかということと、そこで、挙げられた「ネギ弁当」、「ソース・じゃが芋煮つけ」、「白菜・にんじん・豚ロース水たたき」の三品に衝撃を受けてしまったことを覚えている。ただし、「ネギ弁当」に関して、「職なく、金なく、着の身着のまま妻君と同棲しはじめた頃、アパートの四畳半のタタミに、ビニールの風呂敷をひろげて食卓とし、よく作って喰ベた。美味しく、ひっそりとして、その頃は愉しかった」と記されているのを見て、素直に納得できたものだった。本書のエッセイ群は、その時に書かれた記憶の食のイメージと重なるところが多々あるように思える。
         「わたしにとっての幼少期の味は、(略)母親にせがんで炊きたてのご飯で小さな塩おにぎりを握ってもらいぱくつくことだった。その味は今でも幻のように思い出す味だ。」「幼時を過ぎてまもない少年の頃、ごはんにおかずとして三本の指に数えるほどの好物が『焼き蓮根』だった。」「子供のころ、ほうれん草のおひたしにかつお節を振りかけて、醤油をたらし、それだけで温かいごはんをかき込んで満足したことは数知れない。いまでは、それが夢のように思える。」
         このように、少年期の記憶の味が記されるとき、わたしたちなら、幾らか、共有しうるものを感じることになる。シンプルで、質素ともいえるおかずであるにもかかわらず、特別なおいしさの記憶として残り続けるのは、なぜだろうかと考えてみれば、「味覚がにぶくなっても、思い出の味だけは忘れ難」いということになるからだ。
         ハルノ宵子は、「父の言う『味の思い出と思い込み』説に異論はない。とりあえず今この瞬間だけは、何の心配もなく楽しくて、まだ未来に向けて開けていると感じる黄金のひと時に食べた味こそが、きっと生涯忘れがたい味になるのだろう」と述べているのだが、「ほうれん草」に関しては、「父の舌はまったくもって正しい」としていく。確かに、「まだ未来に向けて開けていると感じる黄金のひと時」とは、いいえて妙な気分にさせるいい方だと思う。過去の時間は、いつだって憧憬感をかき立てるものだ。例え、過去が辛かったとしても、時の重なりがいつしか、「黄金のひと時」と思うようになる。やがて、「幻」や「夢」が、わたしたちの現在を潤していくように。
         「父が亡くなる三、四ヶ月前」のことだという。「父が『さわちゃん、そこにいるか?』と尋ねた」そうだ。
         「『いるよ。何だい?』と、手を拭きながら父の目の前に立つと、『すまないが、氷の入った水を一杯くれないか』と父は言った。その言い方が、これまでの父と違って、あまりにも、爛縫紂璽肇薀覘瓩世辰燭里濃笋篭辰、限りなくやさしい気持ちになって、あわてて水を入れに行った。(略)父は『ああ……うまい! うまいなぁ』と、本当に美味しそうに飲み干すと、奥の客間へと這って寝に行った。」
         二人の関係は父娘ではあるが、ここ十年以上は、食事をはじめ、日常的な事どもも含めて、父が娘へ過重に依存する関係だったと思う。爛縫紂璽肇薀覘瓩箸蓮△犬弔貌鷽佑隆愀犬鮠魂擇気擦襪いじ斥佞世隼廚Αこの時、この瞬間、「限りなくやさしい気持ち」を向けることで、やはり父娘という親和の関係なんだということを実感することになったはずだ。

        (プレジデント社刊・13.4.30)


        2013.06.21 Friday

        映画人160人を追悼、「墓」という弔いの様式をめぐる思い

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          浦崎浩實 著『歿2―映画人墓参抄』
          (「図書新聞」13.6.29号)

           映画人(監督、脚本家、俳優)、約160人への追慕記である。本書が、通例の追悼文集と違うのは、墓参記でもあるということと、全体の三分の二ほどの頁数に脚本家が取り上げられていることだ。それは、前著『歿―映画人忌辰抄』が、「キネマ旬報」誌に掲載された「映画人、逝く」(本書にも前著以後の分が収められている)を中心に編まれているのに対して。本書は、「シナリオ」誌掲載の文章を収載しているからだ。
           墓参というと、抹香臭さがつきまとうものだが、どこか晴れやかさのようなものを感じるときが、わたしにはある。もちろん、近親者の場合と、会ったことはない先人の墓を詣でたときとは幾らか違うのだが、それでも自分が共感する先人の墓を訪れた場合、ここでやっと会えたという不思議な感慨が湧いてくるからではないかと思っている。
           「(略)供養塔を『墓』と呼んでも不都合ではなく、今日では墓といえば遺骨か遺灰か、土葬なら遺体が埋葬されるところと思いがちだが、国内外を見ても葬る場所とお詣りする場所が別々の両墓制もなお生きている地域があろうし、墓、塚、碑が厳密に区別されているのでもない。(略)死者は格別にエラくない、生者と同等に偉いだけ……。(略)私たちは現在のところ、墓という弔いの様式を超えるものをまだ持ちえていないのではないか?/そして仏像に魂を入れるのはお坊さんの役目だが、墓に魂を入れるのは、参拝者だと思うことにしております。」(「私なりのお墓巡礼〜千の風にならず」)
           さらにいえば、この文章のなかでは、「千の風になって」という歌の皮相なモチーフや、映画『あなたへ』の死者が生者を強要するようなストーリーを俎上に乗せているのだが、そのことも含め、著者の「墓」をめぐる思いに、わたしは、まったくその通りだと納得するほかはない。わたしは、「墓に魂を入れるのは、参拝者」であるとするならば、墓石を通して、死者と生者が繋がることによって、死者と生者は同等であり、同じ関係性のなかに入ることだと思う。
           高橋貞二という俳優がいた。わたしは、リアルタイムで観ていたわけではないが、その死とその後のことは、覚えている。赤木圭一郎の事故死に先立つ一年半ほど前のことである。高橋は、「愛車ベンツを酩酊して運転、雨の横浜駅頭で自損事故を起こし死亡」、享年三十三。そして、「新婚8ヶ月余で夫に先立たれたみどり夫人」は、「高橋の死の翌々年の」、1月26日の朝、「アパートでガス自殺した」のだ。
           「小津たちの哀惜が込められた高橋貞二(本名・貞次)の墓は2×3.7メートルの塋域の、結界石を含め全てが白御影で敷きつめられて、死者の若々しさを今に伝えていた。/しかし、一番の感銘は夫人の名前が、夫ともども墓石中央にきちんと位置していることで、(略)みどり夫人の名前を、貞次の横に書き足したのではなく、新たに墓石に刻み直し(墓石を取り替え?)、2人の愛の証しのモニュメントにしているのだった。/折しも青山墓地は満開の桜が輝くばかりで、(墓碑の)2人の愛をまぶしく引き立てていた。」
           墓地に咲く桜がひと際、美しいと思ったのは、いつからだったのだろうかと、思い返し見る。近年のことでいえば、桜咲く三月下旬に自死した村上一郎さんの墓参をし始めた時だったかもしれない。
           本書のなかで、最も印象深く読んだのは、脚本家・大和屋竺(監督、俳優、歌手でもある。鈴木清順の『殺しの烙印』のなかでは、殺し屋を快演、主題歌も歌っている)の項である。墓参ではないことと、著者の筆致がじつにいいのだ。
           「氏はどこを向いても、自己否定が先に立つようで、これはかなりきつい生き方ではなかろうか。/墓はいらない、遺灰はインドのベナレスに撒いてほしい、が大和屋竺さんの希望だったそうで、(略)叡子夫人(引用者註=スクリプターであった)のお言葉に甘えお誕生日の6月19日(略)大和屋邸の仏壇にお参りした。(略)叡子夫人も自己否定のかたなのか、夫を評して『ちゃらんぽらんな人なんですよ』と苦笑まじりに言う。(略)私は、大和屋さんの自己否定の激しさと55歳という短命を思い、つい、『大和屋さんはお幸せだったんですね』と愚かなことを口にした。何てばかなことを聞くんだろうと叡子夫人に思われたかもしれないが、『ええ、そうだったと思います』とこれは否定なされなかった。」
           一緒に墓に眠る夫婦、死者と生者に別れながらも、しっかりと繋がっている夫婦、このことは、映画人だからというのではない。大げさにいえば、ありうべき対なる関係というものを示していることなのだと、わたしに思われる。

          (ワイズ出版刊・13.3.15)

          2013.06.14 Friday

          日本的文化という構造のなかで「穢」や「ケガレ」、「触穢」といった用語とその概念を考究する

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            大本敬久 著
            『触穢の成立――日本古代における「穢」観念の変遷』

            (「図書新聞」13.6.22号)

             「穢」、「穢れ」、「ケガレ」、そして「触穢」、あるいは「罪穢」といった用語並びにそこに潜在する概念を歴史学的研究と民俗学的研究との往還を通して、日本的文化という構造のなかで、考究しようとした意欲的な論稿である。
             著者は、まずなによりも「穢」、「ケガレ」という観念の発生と変遷を、多様なテクストを配しながら、緻密な検証を加えていく。そのうえで、時間性において切断があることを認め、そこに新たな地平の切開を見ていこうとする。従来の、「穢」や「触穢」に対する捉え方の前提に、古代法(「国津罪」、「天津罪」)や神道からの抽出がある。しかし、著者はそうした「規定化、概念化された穢」がひとつの隘路を招来していると見做していくのだ。
             「ケガレ・穢研究の古代と中世の断絶を埋めるために、触穢思想それ自体の成立過程を、その根本基盤から見てみる必要があるということである。(略)『触穢』と『ケガレ』、つまり『規定化、概念化された穢』とそうでないものの区別が曖昧な面があったがために、古代のケガレ・穢研究は混乱し、例えば罪穢の用法の問題などが生じる結果となってしまったといえる。(略)古代におけるケガレ・穢研究の基本的立場として、神道学の用いるところの罪穢や民俗学のケガレを『方法』として安易に持ち込んではならないと考える。」(「第一章 ケガレ・穢に関する研究史と課題」)
             わたしは、著者のアプローチに、まったく同意する思いなのだが、率直にいえば、「穢」、「ケガレ」といった概念をもう少し拡張して捉えてみたい欲求がある。
             ところで本書は、94年12月に提出された立正大学大学院文学研究科史学専攻修士課程における修士論文を基にしたものであるそうだが、二十年近い時間性がありながらも、敢えて改稿せず刊行したという。それは、「現段階のケガレ・穢研究でも指摘・検討されていない成果」があり、今後の「研究の論点整理が容易になる」はずだという思いがあるからだと述べている。それは、次のような箇所に象徴していえるような気がする。つまり、記紀・続日本紀のなかの「『穢』の用例」が、「『穢』は単独の一文字名詞として現れることはなく、固定化された概念ではなかった」と捉え、奈良時代以前と以後の違いを見定めつつ、「天平年間以降、単に物理的に『キタナイ』ことを意味するものだけではなく、心理的次元のもの、具体的には、朝廷への反逆心を示す言葉として『穢』が出てくるようになる。(略)『穢』の概念は、仏教による直接的な影響により成立したとはいえないものの、仏教の受容に伴って顕在化したという間接的な影響があったことに注目すべきであ」(「第二章 触穢規定成立以前の『穢』―特に奈良時代以前―」)るとしている。
             わたしが考える拡張された「穢」、「ケガレ」という概念は、ここで述べられているように、「キタナイ」、あるいは不浄なものといった閉じられたイメージから離反させて捉えていくということである。だから、著者がさらに、踏み込んで「朝廷への反逆心を示す言葉」へと敷衍させていくことに、いうなれば本書の達成があるといっていいはずだ。
             「人は秩序の理解のために分類を行うが、分類しきれない境界性を帯びたものは嫌悪と畏怖の対象とな」り、身体的な「血、唾、尿、便、髪、爪」、共同体的には、「女性、被差別民、少数民族」を「秩序を干犯するものとして排除される」としながら、著者は、日本文化の基層へとその視線を射し入れていく。
             「日本において、これら身体感覚に浸透する穢れの特性によって固定化され、見えざる権力のように文化構造として長期間定着してきた。その穢れは日本文化においてどのような歴史的変遷をたどってきたのか(略)、未だ解明されているわけではない。」(「第一章」)
             清浄なものと不浄なものという、相対する位相は、対称的な構造のなかにあると見做すべきである。在るはずのない境界を、引くことで、共同性を強化する無意識性は、人が生みだす共同の幻想だといっていい。
             著者が、本書の後に、日本文化の基層へ、さらなる鋭利な分析をくわえていくことを期待したいと思う。

            (創風社出版・13.1.31 )

            2013.03.16 Saturday

            「ふくらみのあるカント像」の提示

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              高田 純 編著
              『カント実践哲学とイギリス道徳哲学――カント・ヒューズ・スミス』

              (「図書新聞」13.3.23号)

               わたしのカント(1724〜1804)に向ける関心の在り処は、いわゆる代表的著作とされる『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』に象徴できる批判哲学ではない。これらは、カントが人間学に向かうための前段というべきものであって、『実用的見地における人間学』と『永遠平和のために』の二著が、カントにおける最大の仕事だとわたしは考えている。そういう意味でいえば、本書の著者は、わたしの考えを大きく補強する論拠を示してくれている。
               書名から見られるように、「カントの実践哲学とイギリスの道徳哲学の比較研究」ということが、本書のモチーフということになるが、従来、ヒューム(1711〜76)やスミス(1723〜90)がカントに影響を与えたことを過小に見做されていることに、著者は、疑義を抱いていたようだ。だから、「カントの従来の狭い図式的な理解を修正するうえ」でも、「イギリス道徳哲学の影響に注目することによって、ふくらみのあるカント像を浮かび上が」らせることを本書では、指向していくことになる。そして、著者の解析は、次のような地平へと開かれていく。
               「ヒュームの道徳感情論のカント道徳哲学に対する影響を直接に確認することは困難である。これに対して、人間の経験的観察、人間学的考察のなかにはヒュームの道徳哲学と道徳感情論の影響が認められる。カントの人間観察(人間学的考察)に最も強い影響を及ばしたのはヒュームであるとさえいえる。」「カントの人間学とヒュームの道徳哲学すなわち人間の学とのあいだには多の点で類似性がある。」「カントは、人間学は『けっして道徳形而上学に先行してはならず、それと混同されてはならない』といいながら、『それは欠くことができない』とも述べている。」「ヒュームにおいてはそもそも『人間の学』は『道徳哲学(精神哲学)』と等しい。」「人間学はその限界にもかかわらず、カントの実践哲学的研究において重要な位置を占める。」「ヒュームにおいては、人間の本性を観察の主題とする『人間の学』は他のすべての学の基礎であり、数学、自然学、道徳論、文化批評(文芸批評)もこれに依存する。」
               そもそも、哲学は、道徳や倫理といったものと、どのように交差していくのだろうか。あるいは、観念の領域は、現実生活に潜在する道徳や倫理といった考え方を退けるものなのだろうか。ことは、十八世紀ヨーロッパにおける思考の場所であるが、彼らの後の世代でもあるヘーゲル(1770〜1831)がそうだったように、ヨーロッパが世界そのものだった時代である。人間の思索において、彼らにとって、中国・日本といったアジア的感性は、埒外にあり、まぎれもなく西欧が中心にあると考えられていたところに哲学の源泉があったというべきかもしれない。だが、身体と思考(あるいは観念)は、切断されたものではない。どちらも、人間の存在性そのものだからだ。しばしば、哲学は難しい学問だという人たちがいる。それは、人間という存在が難解な有様を呈していることに淵源があるのだ。結局、哲学が人間をめぐる観念や心的な世界を解析せずして何を提示できるというのかということになる。だが、しかし、ほぼ同時代に、わが国には、安藤昌益(1703〜62)がいたことを、考えてみれば、じつに感慨深いものがあるといっていい。その事由は、いま触れないでおく。
               ともあれ、「『人間の学』は他のすべての学の基礎」であることは、当然のことだとわたしは、思っている。
               さて、本書は、後段、ホッブスやデカルト、スピノザ、ライプニッツ、ロックへの論及があり、それらと前段のヒュームに挟まれるようにして、スミスについて述べられていく。そしてカントの、スミスからの影響に関しては、「ヒュームの影響と同様に隠れたもの」だとしながらも、何人かの識者の言を引きながら、「カントが重視するのはスミスの道徳感情論そのものではなく、『立場の交換』の理論である」とする。初期のカントは、ハチソンやルソーの影響を受けながら、「『立場の交換』の論理によって道徳的問題を説明している」として、次のように述べていく。
               「カントは実践理性の立場を基本的に確立しており、道徳的感情は義務(普遍的な道徳的規則)による拘束についての感情であるという理解に到達していたのであるが、『他人の立場に立つ』という思想を踏まえながら、これを『普遍的観点』から捉えなおそうとする。」
               人間の関係性のなかで、「他人の立場に立つ」という考え方は、当然のことだし、ある意味最も核心的なことだといえるかもしれない。だが、同時に、それは実践的にはなかなかうまくいかない行為でもある。親和と共感という感性を拠り所にするのではなく、関係性というものが、そもそも「他人の立場に立つ」という考え方を必然としていると見做すべきなのではないかと、わたしなら思う。
               「カントは、自分の幸福の追求を道徳の基本にすえることを厳しく批判し、そのかわりに、他人の幸福の促進を道徳的義務の基本と見なす。他人の幸福の促進は、自分が他人の立場におかれるさいに『目的』として立てると推定されるものを実現することを意味する。ここでは、他人が立てる目的(幸福)と思われるものを自分自身の目的とし、これを実現するのであり、自他のあいだの〈目的の交換〉がある。」
               このように、著者によって「ふくらみのあるカント像」が提示されることで、わたしは、さらにまたカントへの近接感が湧いてきたことを確認したといっていい。

              (梓出版社刊・12.3.31)

              2013.03.09 Saturday

              「戦争が終わっても変わらなかったのは、お相撲と東大だ」と日高六郎は言った

              0
                黒川 創 著『日高六郎・95歳のポルトレ――対話をとおして』
                (「図書新聞」13.3.16号)

                 日高六郎(1917〜)の名を、初めて目にしたのは、六〇年反安保闘争(わたしは六〇年当時、小学五年生だった)に関連した本を、後に通観した時であり、それは、時あたかも、七〇年の日米安保条約期限延長阻止闘争が近づきつつある頃だった。また、六十年代後半にかけて、鶴見俊輔(1922〜)と共に、べ平連運動の中に、認知することにもなる。わたしのその頃の立ち位置は、「思想の科学」誌やべ平連に対してやや距離を置いていたから、積極的に日高六郎の著作や仕事に親近性を持ってきたわけではない。わたしの中で、日高の名を、やや忘失しかけていた頃、日高夫人が日本赤軍との関連を疑われて逮捕されたという報が入ってきた時は、意外な印象を受けたことを覚えている(本書によって、それが、74年だったこと、さらには、まったく根拠のない嫌疑だったことが、わかった)。
                 本書は、ほぼ年代順にそって、日高と著者の「対話」がなされていく(収録は、06年12月、07年4月と7月の三回)。略年譜をみると、パリ郊外に自宅を購入したのが、73年。しかし、74年、逮捕事件によって日本に戻らざるをえなくなる。そして、89年にようやく長期ヴィザが発給されてパリの自宅での生活を再開する(本書で日高は永住するつもりだったと述べている)。やがて、高齢にともなって、心身の不調もあり、06年に日本に戻って、京都・下鴨に居を定めることになる。二人の「対話」は、そういう時期になされたものだ。
                 日高は、率直に語っているし、その記憶力も凄いものがある。著者への信頼によって、語ることが奔流となって表れているといってもいい。
                 日高は、中国・チンタオで生まれ、中学卒業まで暮らしている。父母への敬慕、チンタオという「雑居都市」での体験が、後の思想形成の核となっていったように思える。つまり、閉じることと開いていくことを両義的に捉えないという考え方と多様性を認めていくというスタンスだ。
                 「思想史的に考えると、ソヴィエト崩壊の理由は、クロポトキン的発想をボルシェヴィキが軽んじていたことが、根本的な原因ですよ」「僕は絶対に学者じゃない。社会学者ではない。学者を自認したことはない」「学問というのは、僕にとって、思想を含んだ認識だ」「僕自身は、思想家でもないと思う。みんなから卑しめられる表現だけれども、『評論家』というのが一番いいと思うね。鶴見さんも評論家だと思う。優れたる評論家だね。そして、クリティックが、学問の本質だと思う」「人間の寿命と、社会的発展段階論の社会的時間の幅は、全然違うわけ。それよりも、一人の人間に食い込んでいく思想というのが重要だと、僕は思う」「国境を越える、大学を越える、人種、民族を越える、そこのところは強調したい」
                 明晰・明快な言及だといえるし、わたしとって率直に共感できる発言だ。
                 42年、東京帝国大学文学部で副手として採用、その後、助手に、49年、東大新聞研の助教授。60年に教授となる。略年譜の記述にしたがって記せば、69年、「東大全共闘の安田講堂占拠に対する機動隊導入に抗議して、東大教授を辞職」となる。
                 わたしが、集中、最も惹き込まれたのは、東大闘争時の、教授会の様相を語る個所である。当時、丸山眞男が自分の研究室を全共闘学生によって荒らされたことに憤りナチスでもやらない行為だといって、わたしたちから、大いなる顰蹙を買うことになったわけだが、それは、丸山を象徴とする東大の良識がまさしく、疲弊してしまったことを露わにしたとわたしは、思っている。日高はいう、「戦争が終わっても変わらなかったのは、お相撲と東大だ」と。
                 「東大は、法学部が中心です。なにか政治的なことが起った時は、実質的な決定権は法学部にある。学生の処分が重くなるか軽くなるかも、法学部の動向で各学部が右へならえする。法学部が権力なんです。その権力が文部省と交渉して、つまり、東大を守るわけだ」
                 なるほど、そうだろうなと思う。しかし、もっと信じられないことを、日高は述べていく。機動隊が安田講堂を鎮圧したことに対して、一、二カ月後に法学部教授会が、わざわざ感謝決議をして本郷の本富士署へお礼に行ったというのだ。丸山のナチス発言といい、感謝決議といい、絶句するしかないといいたい。東大と警察、東大と政府は、密接な関係が出来上がっているのだとも日高は指摘している。「学問というのは」、「思想を含んだ認識だ」、「クリティックが、学問の本質だと思う」という日高が東大を辞したのは、当然の矜持だったなと思われる。
                 現在、日高夫妻は、「京都の中心部からは大きくはずれているものの、市域の一角には位置している」高齢者施設で生活をしている。

                (新宿書房刊・12.11.20)


                2013.01.05 Saturday

                壮大な思考の旅――思考の方位をかたちづくる原初の力である、梶木剛の感性

                0
                  梶木 剛 著『文学的思考の振幅』・『文学的思念の光彩』
                  (「図書新聞」13.1.12号)

                   文芸評論家・梶木剛(1937〜2010)が死の直前、自ら編んで三冊分の原稿を託した遺稿集が、昨年の『文学的視線の構図』に続き、二冊の本書を持って完結したことになる。三冊合わせて一二〇〇頁を超える長大なものとなった。『振幅』の巻頭に配置された諸論稿は、「照葉樹林」をめぐってのものである。あまり知られていない「照葉樹林」に、梶木が着目したのは、66年頃であったと「衝撃、照葉樹林の発見」(絶筆―「息を引き取る数時間前まで病床で口述筆記」されたもの)で述べている。それは、中尾佐助の『栽培植物と農耕の起源』で提起されたことが、契機であったとする。そして梶木は、「照葉樹林」を、「日本では、樟、椎、犬樟(椨)などを総称する言葉という。初めて聞いたが、何だかとっても尊い感じの言葉だ」と記していく。この、「何だかとっても尊い感じの言葉だ」という梶木の感性こそが、思考の方位をかたちづくっていく原初の力なのである。つまり、「照葉樹林」が、「東アジア独特の森林」であり、「その地帯に存在する農耕文化複合」という視線を射入れることによって、わが列島へと拡張させていく思考の展開が、大胆になされていくのだ。「東北の照葉樹」という論稿では、さらに、柳田國男と折口信夫を援用・連結させて、思考の旅が描出されていく。まず、柳田が提示した椿の北限に着目する。
                   「(略)柳田國男は、ひとえに、照葉樹の一種としての、椿のみに関心を注ぐ。(略)椿がそうであるように、てかてかと光る厚い葉を持つ樹、それが照葉樹だ。(略)関東までならごくありふれて眼に留まることもない椿が、東北に入ると特異な風景を構成するものとして目立つことになる。(略)関東以西から誰かが運んだ、そう考えた方がいいのではないか。(略)古い古い時代の巫女たち、彼女たちが神木として携えた椿が、適地で繁茂したと、こう考えるのが一番いいのではないか。(略)東北雪国には、椿が最も適していた、神木として、霊木として、霜雪を耐え忍んで、春の歓びを伝えることに鋭敏な木、そういう木として椿はあるから。」
                   この後、椿を、折口が椨を古代には神木だったと捉えたことに通底させていく。つまり、「椨を問題としなければならないという折口信夫のこの主張は、柳田國男の椿にかかわる問題提示がそうであったように、空前にして、画期的であった」というように。
                   東南アジアの熱帯地域から、わが列島の東北へと注がれる照葉樹林という視角は、柳田の『海上の道』を想起させながら、生命形態の連繋を歴史的時間のなかに包摂して、雄大なイメージを、わたしに与えてくれたといっていい。それはまた、梶木も称揚する「吉本隆明が導き出した」、「アジア的」という「命題」にも連結していくことにもなるのだ。
                   「〈アジア的〉専制というのは廃棄されるべき弱点でしかないのかというと決してそうではなく、そこでの共同体のあり方のなかには『相互扶助共生感情、相互の親和感』が豊かにあり、人類永遠の〈理想〉ともいえる面が確かにある、だから困難なのだ、問題は、と(「世界史のなかのアジア」)。」(「アジア的、実感、まれびと」―『光彩』所載)
                   神木というものは、つまり、共同性、共同体における感性の象徴と見做すことができる。要するに、それは、「共生感情」や、「相互の親和感」に表象されていくものだからだ。飛躍を承知で述べるならば、わたしは、椿や椨という照葉樹をめぐる共同性の問題として、梶木は構想していたのではないかと、いいたいと思う。
                   「相互扶助と共生感情とを育む場所として、あの家に勝る場所があるはずがない。(略)けれども、その家が個を抑圧して止まなかった。だから、個の解放は家からの離脱となった。そのとき必然的に失わなければならなかったのが相互扶助と共生感情だとすれば、それを失わない個の解放はないものなのか。相互扶助と共生感情とを手放さない個の解放。それは逆にいえば、個の解放を許容する家ということであり、相互扶助と共生感情とに抵触しない個の解放ということである。これが現在の痛切な課題であり、アジアの家(家庭ではない)が現在の思想的地平にせり上がって来るのはここにおいてである。柳田國男『日本農民史』は、農民史というかたちでそういう現在的な思想課題を照らし出している点で、秀逸である。」(「個体信仰の逆説」―『振幅』所載)
                   照葉樹林文化から、共同的感性の在り処への析出、そう考えれば、これらの論稿は、壮大な思考の旅をかたちづくっているといっていいはずだ。
                   最後に付言しておきたいことがある。『光彩』の巻頭に配置された、「事件としてのある出会い 折口信夫と吉本隆明」の論稿は、わたしが、梶木に共感してきたのは、こういう論旨で自らの思考の足跡を辿れることができるからだと、あらためて思ったということになる。それと、もうひとつ。同じく『光彩』に収められている「逸脱と還相 吉本隆明『〈信〉の構造』を読む」は、わたしが、編集・発行していた小誌「燈通信」に執筆していただいたものだ。哀悼の気持ちを述べる機会がなかったけれども、いまこうして、その論稿が収められた遺稿集に接することができたことを、ひとつの喜ばしい邂逅と思っている。

                  (深夜叢書社刊・『振幅』12.8.20、『光彩』12.10.25)

                  2012.12.08 Saturday

                  映画芸術は今こそ回帰の時代を迎えつつある

                  0
                    小宮山量平 著『私の大学 テキスト版1  映画は《私の大学》でした』
                    (「図書新聞」12.12.15号)

                     著者は、児童書の出版社として知られている理論社の創業者である。12年4月、95歳で亡くなった。「編集後記」によると本書は、06年から09年の三年間(89歳から92歳の時期に当たる)に雑誌に連載されたものをまとめたものだそうだ。青春期から戦時下、そして戦後という時間性の中で語られる映画作品群は、自身の自伝的意味合いを持ちながらも、ひとつの映画史にもなっている。これは、著者が、映画を“わたしの大学である”というように、「映画芸術」というものに対して深い共感を有してきたからだ。
                     著者に関して、もうひとつ付言しておかなければならないことがある。それは、47年5月から53年7月(第21号)まで、季刊『理論』を発刊し続けたことだ。季刊『理論』は、日本共産党の影響下にあった民主主義科学者協会の哲学部会機関誌『理論』(47年2月創刊)とは、まったく別のものである。当時、「民科の『理論』がマルクス主義の正統で、季刊のほうは、異端とはいわないまでも傍流とされていて」、「その最大の原因はおそらく、季刊の執筆者には非共産党員が多かったことと、とくに杉本栄一(および小泉明)が近代経済学とマルクス主義経済学との『切磋琢磨』を主張したことにあった」(水田洋「季刊『理論』のころ」)からだという。また、杉本は小宮山の東京商科大学専門部時代の恩師であったと水田は述べている。60年安保闘争以前の、いわば新左翼思想萌芽期に、季刊『理論』は、重要な役割を果たしていたことになる。著者の映画への視線は、だから、ある意味、わたしたちを取り巻く「世界」への対抗的精神を胚胎することになる。例えば、次のように。
                     「私たちはいつしか、あらゆる芸術をエンターテインメントとして、余りに安っぽく貶めることに馴れきってしまったようです。(略)深い迷宮へと落ち込み、政治の世界は暗愚な裸の王様の支配する世界となり果てました。経済の世界も労働そのものが極限まで貶められ、ほんものの仕事への評価は消滅しようとしつつあります。/もしかすると二十世紀の原動力ともなった映画芸術が、その本来の使命を恢復するため、今こそ回帰の時代を迎えつつあるのかも知れません。試みに手許の和英辞典で回帰と引いてみて下さい。私もこのトシになって知ったのですが、回帰することそのものが革命=レボリューションなのです。」
                     映画『どん底』に関する言及から始まって、著者が青春期を送った神田神保町の素描を綴って本論へと入っていき、「映画の始まりは喜劇」として、チャップリンの世界を辿っていく。当然、ファシズムに対抗したチャップリン像を浮かび上がらせていくわけだが、いうまでもなく、チャップリン作品は、サイレント映画である。「動く映像」として画期的な芸術であった映画の初期から親しんだ著者は、「『無声映画』として楽しむ愛好心が育っており、そんな愛好心によって映像文化の世界は思いがけないほどの『芸術性』を確立していた」と述べていく。だから、やがて、映画の世界は、「音」が入り、「色」が付いていく、そのプロセスをひとつひとつの段階として感受していくことを著者は鑑賞眼の基層に置いているのだ。本書に接して、わたしは、段階ということを、再認識すべきこととして、気づかされたと、いっておきたい。
                     「思えば映画史をかえりみて名作と数え得る多くの作品は、納得のモノクロ作品のなつかしさで、墨絵のようによみがえる例が多いのです。(略)人間の奥底に影のように潜在して、優れた純文学作品めいた歴史的な語り伝えに輝きを示している艶やかな作品は少なくありません。」「木下恵介監督が既に明察していたように、単にカラーでありさえすれば映画のリアリティが深まるという訳ではありません。」
                     迫力ある音響と色彩豊かな3D画面での映画が登場する時代に生まれ育って、映画とはそういうものだと思う世代の人々にとって、著者のこのような考えは、アナクロニズムとして退けられてしまうかもしれない。だが、映画を映画館で観るということは、ほんらい小さな共同体で充足感を抱くことだと言いかえてもいい。だから、わたしは、例え、観客が数人しかいなくても、小さな共同体で共感しあうことの切実さを、大事にしたいと、いつも考え、一人ひとりが共感する映画作品を持つことは、最高に贅沢なことだと思っている。
                     「『若い芸術』の百年の歴史には、誰しもが『私のベストテン』とでも呼びたくなるような精神史の映像が刻み込まれています」と著者は述べ、本書で、AとBという「二筋の」、「私のベストテン」を挙げている。どれも、戦前期に封切られている二十本である。そしてそれらは、著者が、十代から二十代の時期にあたる作品群である。確かに、わたしにも、「精神史の映像が刻み込まれてい」て、直ぐにでも、ベストテンを挙げることができるが、著者と同じ様に、十代から二十代の時期に見た作品によって占められていることに気づく。わたしもまた、実際の大学より、映画の方が、まぎれもなく大学だったと、いま、あらためて思っている。

                    (こぶし書房刊・12.7.12)


                    2012.11.17 Saturday

                    満州こそ「アジア」的共同性を醸成する感性を発露させる場所だった

                    0
                      小林英夫 著『日本人のアジア観の変遷――満鉄調査部から海外進出企業まで
                      (「図書新聞」12.11.24号)

                       アジア論、あるいはアジア研究というものは、主に歴史学(あるいは政治思想史)や社会学といったカテゴリーで、数多く、しかも多様に展開されてきたわけだが、本書のような視点からのものは、わたしにとって初めてである。全八章(「終章」も含む)の構成で、四章から六章までは、それぞれ「日本企業の戦後東南アジア観」、「バブル経済と日本人のアジア認識の変化」、「漫画にみる日本企業のアジア観」といった章題を冠していることからも、それはいえる。戦前期の大陸中国・朝鮮半島・台湾・東南アジア地域への支配権確立をともなった侵略と、戦後期の賠償という名目をもって東南アジア地域への経済侵略は、パラレルであると素描風にいえば、そうなるわけだが、著者は、次のように概観していく。
                       「一九五〇年代初頭から日本企業が熱い視線を送ってきた東南アジアのインドに代表される地域はやがて経済成長の遅れと政治不安定のなかで次第に市場としての魅力を喪失していった。(略)替わって脚光を浴び始めたのがかつて日本が占領した東南アジア地域だった。これらの地域は、戦争中の戦災と関連して反日感情が濃厚だったため日本企業が進出するのに幾多の困難が予想されたが、日本はそうした障害を突破する切り札として賠償を十二分に活用した。こうして賠償を契機に東南アジア市場は日本企業の輸出市場として重要な位置づけを有することとなるのである。」
                       この経済進出を積極的に推進した政治家が、「満州産業の軍事化を推進する責任者となりその後日本に帰国して東条内閣時代の商工大臣を歴任し、敗戦後は戦犯に問われ」た岸信介であった。「五六年二月に発足した石橋内閣の外相に就任、はやくも『アジア・太平洋地域は日本外交の中心である』」と位置付けて、五七年二月に首相に就任の三ヶ月後、早速、東南アジア六カ国を歴訪した。岸は、「戦前の満州や中国での体験」を「内省」し、各国の「ナショナリズムを考慮にいれな」がら、「戦後ふたたび経済進出というかたちで東南アジア」地域を掌握しようとしたと著者は捉えている。
                       岸が率先して関わっていた満州への侵略・進攻(どのような美名のもとであっても、他国の領土を簒奪したことは確かなのだ)の基本構想を立てるための調査機関が、満鉄調査部であった。本書では二人の調査部員にフォーカスして、興味深い分析を提示している。「第二章 大上末廣・宮崎正義のアジア認識」は、いわば本書の骨格ともいえる章となっている。
                       二人は、ある意味、対象的なアプローチをしている。大上末廣(1903〜1944)は、橘樸からの影響を受け、満州農村の有様に苦慮し、どう救済すべきかということを視野に入れていく。ウィットフォーゲルのアジア的専制論をテクストにしながら、「農村協同組合による満州農村振興」策を模索していく。だが、大上は仕事半ばで満鉄調査部事件に連座し、新京で獄死している。
                       宮崎正義(1893〜1954)は、留学中、ロシア革命に遭遇し、いわば、「ソ連スペシャリストとして満鉄調査課に就職」したことになる。革命後のヘゲモニーを握ったスターリン政権が農業政策よりも重工業化路線を重視していったことを、あたかも模範とするかのように、満州における「重工業優先の経済開発計画」を指向していく。また、大上における橘のような存在として、宮崎には石原莞爾がいたことを著者は指摘している。
                       「宮崎正義と大上末廣は、ともに満鉄調査部員として活動し、一九三〇年代の同調査部の活動を支える中心人物でありながら、ともに彼らの構想は『見果てぬ夢』としてその終焉を迎えている。宮崎の場合には、政策化の過程で、彼が究極の目標とした満州国の生産力の増強は生産増強政策に変形したし、大上の場合には、富農層に依拠した協同組合化政策は、地主主体の生産力増強のなかで否定されていった。」
                       「第七章 満州国のイメージの変遷」でも触れていることだが、戦後の時空間の拡大によって、「なつかしき異国のふるさと・満州という構図」が浮き上がってくる。それは、満州へ渡って行った人たちの多くは、理想郷を求めていたからである。もちろん、土地は想像以上に不毛で、極寒の場所であったとしても、国内に居て極貧の生活を強いられるよりはいいはずだという思いが強かったはずだ。
                      「彼らの構想は『見果てぬ夢』」だったと著者はいう。例えば、橘樸が抱いた農村コミューンのようなものを満州という場所に想起すること自体、「見果てぬ夢」だったかもしれない。だが、なぜ、そのような夢想を抱かせる場所として、満州にはあったのだろうか。それは、満州こそ、まさしく「アジア」的共同性を醸成するような感性を発露させる場所だったからだと、わたしはいいたい気がする。

                      (勉誠出版刊・12.4.20)

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