高田 純 編著
『カント実践哲学とイギリス道徳哲学――カント・ヒューズ・スミス』

(「図書新聞」13.3.23号)

 わたしのカント(1724〜1804)に向ける関心の在り処は、いわゆる代表的著作とされる『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』に象徴できる批判哲学ではない。これらは、カントが人間学に向かうための前段というべきものであって、『実用的見地における人間学』と『永遠平和のために』の二著が、カントにおける最大の仕事だとわたしは考えている。そういう意味でいえば、本書の著者は、わたしの考えを大きく補強する論拠を示してくれている。
 書名から見られるように、「カントの実践哲学とイギリスの道徳哲学の比較研究」ということが、本書のモチーフということになるが、従来、ヒューム(1711〜76)やスミス(1723〜90)がカントに影響を与えたことを過小に見做されていることに、著者は、疑義を抱いていたようだ。だから、「カントの従来の狭い図式的な理解を修正するうえ」でも、「イギリス道徳哲学の影響に注目することによって、ふくらみのあるカント像を浮かび上が」らせることを本書では、指向していくことになる。そして、著者の解析は、次のような地平へと開かれていく。
 「ヒュームの道徳感情論のカント道徳哲学に対する影響を直接に確認することは困難である。これに対して、人間の経験的観察、人間学的考察のなかにはヒュームの道徳哲学と道徳感情論の影響が認められる。カントの人間観察(人間学的考察)に最も強い影響を及ばしたのはヒュームであるとさえいえる。」「カントの人間学とヒュームの道徳哲学すなわち人間の学とのあいだには多の点で類似性がある。」「カントは、人間学は『けっして道徳形而上学に先行してはならず、それと混同されてはならない』といいながら、『それは欠くことができない』とも述べている。」「ヒュームにおいてはそもそも『人間の学』は『道徳哲学(精神哲学)』と等しい。」「人間学はその限界にもかかわらず、カントの実践哲学的研究において重要な位置を占める。」「ヒュームにおいては、人間の本性を観察の主題とする『人間の学』は他のすべての学の基礎であり、数学、自然学、道徳論、文化批評(文芸批評)もこれに依存する。」
 そもそも、哲学は、道徳や倫理といったものと、どのように交差していくのだろうか。あるいは、観念の領域は、現実生活に潜在する道徳や倫理といった考え方を退けるものなのだろうか。ことは、十八世紀ヨーロッパにおける思考の場所であるが、彼らの後の世代でもあるヘーゲル(1770〜1831)がそうだったように、ヨーロッパが世界そのものだった時代である。人間の思索において、彼らにとって、中国・日本といったアジア的感性は、埒外にあり、まぎれもなく西欧が中心にあると考えられていたところに哲学の源泉があったというべきかもしれない。だが、身体と思考(あるいは観念)は、切断されたものではない。どちらも、人間の存在性そのものだからだ。しばしば、哲学は難しい学問だという人たちがいる。それは、人間という存在が難解な有様を呈していることに淵源があるのだ。結局、哲学が人間をめぐる観念や心的な世界を解析せずして何を提示できるというのかということになる。だが、しかし、ほぼ同時代に、わが国には、安藤昌益(1703〜62)がいたことを、考えてみれば、じつに感慨深いものがあるといっていい。その事由は、いま触れないでおく。
 ともあれ、「『人間の学』は他のすべての学の基礎」であることは、当然のことだとわたしは、思っている。
 さて、本書は、後段、ホッブスやデカルト、スピノザ、ライプニッツ、ロックへの論及があり、それらと前段のヒュームに挟まれるようにして、スミスについて述べられていく。そしてカントの、スミスからの影響に関しては、「ヒュームの影響と同様に隠れたもの」だとしながらも、何人かの識者の言を引きながら、「カントが重視するのはスミスの道徳感情論そのものではなく、『立場の交換』の理論である」とする。初期のカントは、ハチソンやルソーの影響を受けながら、「『立場の交換』の論理によって道徳的問題を説明している」として、次のように述べていく。
 「カントは実践理性の立場を基本的に確立しており、道徳的感情は義務(普遍的な道徳的規則)による拘束についての感情であるという理解に到達していたのであるが、『他人の立場に立つ』という思想を踏まえながら、これを『普遍的観点』から捉えなおそうとする。」
 人間の関係性のなかで、「他人の立場に立つ」という考え方は、当然のことだし、ある意味最も核心的なことだといえるかもしれない。だが、同時に、それは実践的にはなかなかうまくいかない行為でもある。親和と共感という感性を拠り所にするのではなく、関係性というものが、そもそも「他人の立場に立つ」という考え方を必然としていると見做すべきなのではないかと、わたしなら思う。
 「カントは、自分の幸福の追求を道徳の基本にすえることを厳しく批判し、そのかわりに、他人の幸福の促進を道徳的義務の基本と見なす。他人の幸福の促進は、自分が他人の立場におかれるさいに『目的』として立てると推定されるものを実現することを意味する。ここでは、他人が立てる目的(幸福)と思われるものを自分自身の目的とし、これを実現するのであり、自他のあいだの〈目的の交換〉がある。」
 このように、著者によって「ふくらみのあるカント像」が提示されることで、わたしは、さらにまたカントへの近接感が湧いてきたことを確認したといっていい。

(梓出版社刊・12.3.31)

黒川 創 著『日高六郎・95歳のポルトレ――対話をとおして』
(「図書新聞」13.3.16号)

 日高六郎(1917〜)の名を、初めて目にしたのは、六〇年反安保闘争(わたしは六〇年当時、小学五年生だった)に関連した本を、後に通観した時であり、それは、時あたかも、七〇年の日米安保条約期限延長阻止闘争が近づきつつある頃だった。また、六十年代後半にかけて、鶴見俊輔(1922〜)と共に、べ平連運動の中に、認知することにもなる。わたしのその頃の立ち位置は、「思想の科学」誌やべ平連に対してやや距離を置いていたから、積極的に日高六郎の著作や仕事に親近性を持ってきたわけではない。わたしの中で、日高の名を、やや忘失しかけていた頃、日高夫人が日本赤軍との関連を疑われて逮捕されたという報が入ってきた時は、意外な印象を受けたことを覚えている(本書によって、それが、74年だったこと、さらには、まったく根拠のない嫌疑だったことが、わかった)。
 本書は、ほぼ年代順にそって、日高と著者の「対話」がなされていく(収録は、06年12月、07年4月と7月の三回)。略年譜をみると、パリ郊外に自宅を購入したのが、73年。しかし、74年、逮捕事件によって日本に戻らざるをえなくなる。そして、89年にようやく長期ヴィザが発給されてパリの自宅での生活を再開する(本書で日高は永住するつもりだったと述べている)。やがて、高齢にともなって、心身の不調もあり、06年に日本に戻って、京都・下鴨に居を定めることになる。二人の「対話」は、そういう時期になされたものだ。
 日高は、率直に語っているし、その記憶力も凄いものがある。著者への信頼によって、語ることが奔流となって表れているといってもいい。
 日高は、中国・チンタオで生まれ、中学卒業まで暮らしている。父母への敬慕、チンタオという「雑居都市」での体験が、後の思想形成の核となっていったように思える。つまり、閉じることと開いていくことを両義的に捉えないという考え方と多様性を認めていくというスタンスだ。
 「思想史的に考えると、ソヴィエト崩壊の理由は、クロポトキン的発想をボルシェヴィキが軽んじていたことが、根本的な原因ですよ」「僕は絶対に学者じゃない。社会学者ではない。学者を自認したことはない」「学問というのは、僕にとって、思想を含んだ認識だ」「僕自身は、思想家でもないと思う。みんなから卑しめられる表現だけれども、『評論家』というのが一番いいと思うね。鶴見さんも評論家だと思う。優れたる評論家だね。そして、クリティックが、学問の本質だと思う」「人間の寿命と、社会的発展段階論の社会的時間の幅は、全然違うわけ。それよりも、一人の人間に食い込んでいく思想というのが重要だと、僕は思う」「国境を越える、大学を越える、人種、民族を越える、そこのところは強調したい」
 明晰・明快な言及だといえるし、わたしとって率直に共感できる発言だ。
 42年、東京帝国大学文学部で副手として採用、その後、助手に、49年、東大新聞研の助教授。60年に教授となる。略年譜の記述にしたがって記せば、69年、「東大全共闘の安田講堂占拠に対する機動隊導入に抗議して、東大教授を辞職」となる。
 わたしが、集中、最も惹き込まれたのは、東大闘争時の、教授会の様相を語る個所である。当時、丸山眞男が自分の研究室を全共闘学生によって荒らされたことに憤りナチスでもやらない行為だといって、わたしたちから、大いなる顰蹙を買うことになったわけだが、それは、丸山を象徴とする東大の良識がまさしく、疲弊してしまったことを露わにしたとわたしは、思っている。日高はいう、「戦争が終わっても変わらなかったのは、お相撲と東大だ」と。
 「東大は、法学部が中心です。なにか政治的なことが起った時は、実質的な決定権は法学部にある。学生の処分が重くなるか軽くなるかも、法学部の動向で各学部が右へならえする。法学部が権力なんです。その権力が文部省と交渉して、つまり、東大を守るわけだ」
 なるほど、そうだろうなと思う。しかし、もっと信じられないことを、日高は述べていく。機動隊が安田講堂を鎮圧したことに対して、一、二カ月後に法学部教授会が、わざわざ感謝決議をして本郷の本富士署へお礼に行ったというのだ。丸山のナチス発言といい、感謝決議といい、絶句するしかないといいたい。東大と警察、東大と政府は、密接な関係が出来上がっているのだとも日高は指摘している。「学問というのは」、「思想を含んだ認識だ」、「クリティックが、学問の本質だと思う」という日高が東大を辞したのは、当然の矜持だったなと思われる。
 現在、日高夫妻は、「京都の中心部からは大きくはずれているものの、市域の一角には位置している」高齢者施設で生活をしている。

(新宿書房刊・12.11.20)

梶木 剛 著『文学的思考の振幅』・『文学的思念の光彩』
(「図書新聞」13.1.12号)

 文芸評論家・梶木剛(1937〜2010)が死の直前、自ら編んで三冊分の原稿を託した遺稿集が、昨年の『文学的視線の構図』に続き、二冊の本書を持って完結したことになる。三冊合わせて一二〇〇頁を超える長大なものとなった。『振幅』の巻頭に配置された諸論稿は、「照葉樹林」をめぐってのものである。あまり知られていない「照葉樹林」に、梶木が着目したのは、66年頃であったと「衝撃、照葉樹林の発見」(絶筆―「息を引き取る数時間前まで病床で口述筆記」されたもの)で述べている。それは、中尾佐助の『栽培植物と農耕の起源』で提起されたことが、契機であったとする。そして梶木は、「照葉樹林」を、「日本では、樟、椎、犬樟(椨)などを総称する言葉という。初めて聞いたが、何だかとっても尊い感じの言葉だ」と記していく。この、「何だかとっても尊い感じの言葉だ」という梶木の感性こそが、思考の方位をかたちづくっていく原初の力なのである。つまり、「照葉樹林」が、「東アジア独特の森林」であり、「その地帯に存在する農耕文化複合」という視線を射入れることによって、わが列島へと拡張させていく思考の展開が、大胆になされていくのだ。「東北の照葉樹」という論稿では、さらに、柳田國男と折口信夫を援用・連結させて、思考の旅が描出されていく。まず、柳田が提示した椿の北限に着目する。
 「(略)柳田國男は、ひとえに、照葉樹の一種としての、椿のみに関心を注ぐ。(略)椿がそうであるように、てかてかと光る厚い葉を持つ樹、それが照葉樹だ。(略)関東までならごくありふれて眼に留まることもない椿が、東北に入ると特異な風景を構成するものとして目立つことになる。(略)関東以西から誰かが運んだ、そう考えた方がいいのではないか。(略)古い古い時代の巫女たち、彼女たちが神木として携えた椿が、適地で繁茂したと、こう考えるのが一番いいのではないか。(略)東北雪国には、椿が最も適していた、神木として、霊木として、霜雪を耐え忍んで、春の歓びを伝えることに鋭敏な木、そういう木として椿はあるから。」
 この後、椿を、折口が椨を古代には神木だったと捉えたことに通底させていく。つまり、「椨を問題としなければならないという折口信夫のこの主張は、柳田國男の椿にかかわる問題提示がそうであったように、空前にして、画期的であった」というように。
 東南アジアの熱帯地域から、わが列島の東北へと注がれる照葉樹林という視角は、柳田の『海上の道』を想起させながら、生命形態の連繋を歴史的時間のなかに包摂して、雄大なイメージを、わたしに与えてくれたといっていい。それはまた、梶木も称揚する「吉本隆明が導き出した」、「アジア的」という「命題」にも連結していくことにもなるのだ。
 「〈アジア的〉専制というのは廃棄されるべき弱点でしかないのかというと決してそうではなく、そこでの共同体のあり方のなかには『相互扶助共生感情、相互の親和感』が豊かにあり、人類永遠の〈理想〉ともいえる面が確かにある、だから困難なのだ、問題は、と(「世界史のなかのアジア」)。」(「アジア的、実感、まれびと」―『光彩』所載)
 神木というものは、つまり、共同性、共同体における感性の象徴と見做すことができる。要するに、それは、「共生感情」や、「相互の親和感」に表象されていくものだからだ。飛躍を承知で述べるならば、わたしは、椿や椨という照葉樹をめぐる共同性の問題として、梶木は構想していたのではないかと、いいたいと思う。
 「相互扶助と共生感情とを育む場所として、あの家に勝る場所があるはずがない。(略)けれども、その家が個を抑圧して止まなかった。だから、個の解放は家からの離脱となった。そのとき必然的に失わなければならなかったのが相互扶助と共生感情だとすれば、それを失わない個の解放はないものなのか。相互扶助と共生感情とを手放さない個の解放。それは逆にいえば、個の解放を許容する家ということであり、相互扶助と共生感情とに抵触しない個の解放ということである。これが現在の痛切な課題であり、アジアの家(家庭ではない)が現在の思想的地平にせり上がって来るのはここにおいてである。柳田國男『日本農民史』は、農民史というかたちでそういう現在的な思想課題を照らし出している点で、秀逸である。」(「個体信仰の逆説」―『振幅』所載)
 照葉樹林文化から、共同的感性の在り処への析出、そう考えれば、これらの論稿は、壮大な思考の旅をかたちづくっているといっていいはずだ。
 最後に付言しておきたいことがある。『光彩』の巻頭に配置された、「事件としてのある出会い 折口信夫と吉本隆明」の論稿は、わたしが、梶木に共感してきたのは、こういう論旨で自らの思考の足跡を辿れることができるからだと、あらためて思ったということになる。それと、もうひとつ。同じく『光彩』に収められている「逸脱と還相 吉本隆明『〈信〉の構造』を読む」は、わたしが、編集・発行していた小誌「燈通信」に執筆していただいたものだ。哀悼の気持ちを述べる機会がなかったけれども、いまこうして、その論稿が収められた遺稿集に接することができたことを、ひとつの喜ばしい邂逅と思っている。

(深夜叢書社刊・『振幅』12.8.20、『光彩』12.10.25)

小宮山量平 著『私の大学 テキスト版1  映画は《私の大学》でした』
(「図書新聞」12.12.15号)

 著者は、児童書の出版社として知られている理論社の創業者である。12年4月、95歳で亡くなった。「編集後記」によると本書は、06年から09年の三年間(89歳から92歳の時期に当たる)に雑誌に連載されたものをまとめたものだそうだ。青春期から戦時下、そして戦後という時間性の中で語られる映画作品群は、自身の自伝的意味合いを持ちながらも、ひとつの映画史にもなっている。これは、著者が、映画を“わたしの大学である”というように、「映画芸術」というものに対して深い共感を有してきたからだ。
 著者に関して、もうひとつ付言しておかなければならないことがある。それは、47年5月から53年7月(第21号)まで、季刊『理論』を発刊し続けたことだ。季刊『理論』は、日本共産党の影響下にあった民主主義科学者協会の哲学部会機関誌『理論』(47年2月創刊)とは、まったく別のものである。当時、「民科の『理論』がマルクス主義の正統で、季刊のほうは、異端とはいわないまでも傍流とされていて」、「その最大の原因はおそらく、季刊の執筆者には非共産党員が多かったことと、とくに杉本栄一(および小泉明)が近代経済学とマルクス主義経済学との『切磋琢磨』を主張したことにあった」(水田洋「季刊『理論』のころ」)からだという。また、杉本は小宮山の東京商科大学専門部時代の恩師であったと水田は述べている。60年安保闘争以前の、いわば新左翼思想萌芽期に、季刊『理論』は、重要な役割を果たしていたことになる。著者の映画への視線は、だから、ある意味、わたしたちを取り巻く「世界」への対抗的精神を胚胎することになる。例えば、次のように。
 「私たちはいつしか、あらゆる芸術をエンターテインメントとして、余りに安っぽく貶めることに馴れきってしまったようです。(略)深い迷宮へと落ち込み、政治の世界は暗愚な裸の王様の支配する世界となり果てました。経済の世界も労働そのものが極限まで貶められ、ほんものの仕事への評価は消滅しようとしつつあります。/もしかすると二十世紀の原動力ともなった映画芸術が、その本来の使命を恢復するため、今こそ回帰の時代を迎えつつあるのかも知れません。試みに手許の和英辞典で回帰と引いてみて下さい。私もこのトシになって知ったのですが、回帰することそのものが革命=レボリューションなのです。」
 映画『どん底』に関する言及から始まって、著者が青春期を送った神田神保町の素描を綴って本論へと入っていき、「映画の始まりは喜劇」として、チャップリンの世界を辿っていく。当然、ファシズムに対抗したチャップリン像を浮かび上がらせていくわけだが、いうまでもなく、チャップリン作品は、サイレント映画である。「動く映像」として画期的な芸術であった映画の初期から親しんだ著者は、「『無声映画』として楽しむ愛好心が育っており、そんな愛好心によって映像文化の世界は思いがけないほどの『芸術性』を確立していた」と述べていく。だから、やがて、映画の世界は、「音」が入り、「色」が付いていく、そのプロセスをひとつひとつの段階として感受していくことを著者は鑑賞眼の基層に置いているのだ。本書に接して、わたしは、段階ということを、再認識すべきこととして、気づかされたと、いっておきたい。
 「思えば映画史をかえりみて名作と数え得る多くの作品は、納得のモノクロ作品のなつかしさで、墨絵のようによみがえる例が多いのです。(略)人間の奥底に影のように潜在して、優れた純文学作品めいた歴史的な語り伝えに輝きを示している艶やかな作品は少なくありません。」「木下恵介監督が既に明察していたように、単にカラーでありさえすれば映画のリアリティが深まるという訳ではありません。」
 迫力ある音響と色彩豊かな3D画面での映画が登場する時代に生まれ育って、映画とはそういうものだと思う世代の人々にとって、著者のこのような考えは、アナクロニズムとして退けられてしまうかもしれない。だが、映画を映画館で観るということは、ほんらい小さな共同体で充足感を抱くことだと言いかえてもいい。だから、わたしは、例え、観客が数人しかいなくても、小さな共同体で共感しあうことの切実さを、大事にしたいと、いつも考え、一人ひとりが共感する映画作品を持つことは、最高に贅沢なことだと思っている。
 「『若い芸術』の百年の歴史には、誰しもが『私のベストテン』とでも呼びたくなるような精神史の映像が刻み込まれています」と著者は述べ、本書で、AとBという「二筋の」、「私のベストテン」を挙げている。どれも、戦前期に封切られている二十本である。そしてそれらは、著者が、十代から二十代の時期にあたる作品群である。確かに、わたしにも、「精神史の映像が刻み込まれてい」て、直ぐにでも、ベストテンを挙げることができるが、著者と同じ様に、十代から二十代の時期に見た作品によって占められていることに気づく。わたしもまた、実際の大学より、映画の方が、まぎれもなく大学だったと、いま、あらためて思っている。

(こぶし書房刊・12.7.12)

小林英夫 著『日本人のアジア観の変遷――満鉄調査部から海外進出企業まで
(「図書新聞」12.11.24号)

 アジア論、あるいはアジア研究というものは、主に歴史学(あるいは政治思想史)や社会学といったカテゴリーで、数多く、しかも多様に展開されてきたわけだが、本書のような視点からのものは、わたしにとって初めてである。全八章(「終章」も含む)の構成で、四章から六章までは、それぞれ「日本企業の戦後東南アジア観」、「バブル経済と日本人のアジア認識の変化」、「漫画にみる日本企業のアジア観」といった章題を冠していることからも、それはいえる。戦前期の大陸中国・朝鮮半島・台湾・東南アジア地域への支配権確立をともなった侵略と、戦後期の賠償という名目をもって東南アジア地域への経済侵略は、パラレルであると素描風にいえば、そうなるわけだが、著者は、次のように概観していく。
 「一九五〇年代初頭から日本企業が熱い視線を送ってきた東南アジアのインドに代表される地域はやがて経済成長の遅れと政治不安定のなかで次第に市場としての魅力を喪失していった。(略)替わって脚光を浴び始めたのがかつて日本が占領した東南アジア地域だった。これらの地域は、戦争中の戦災と関連して反日感情が濃厚だったため日本企業が進出するのに幾多の困難が予想されたが、日本はそうした障害を突破する切り札として賠償を十二分に活用した。こうして賠償を契機に東南アジア市場は日本企業の輸出市場として重要な位置づけを有することとなるのである。」
 この経済進出を積極的に推進した政治家が、「満州産業の軍事化を推進する責任者となりその後日本に帰国して東条内閣時代の商工大臣を歴任し、敗戦後は戦犯に問われ」た岸信介であった。「五六年二月に発足した石橋内閣の外相に就任、はやくも『アジア・太平洋地域は日本外交の中心である』」と位置付けて、五七年二月に首相に就任の三ヶ月後、早速、東南アジア六カ国を歴訪した。岸は、「戦前の満州や中国での体験」を「内省」し、各国の「ナショナリズムを考慮にいれな」がら、「戦後ふたたび経済進出というかたちで東南アジア」地域を掌握しようとしたと著者は捉えている。
 岸が率先して関わっていた満州への侵略・進攻(どのような美名のもとであっても、他国の領土を簒奪したことは確かなのだ)の基本構想を立てるための調査機関が、満鉄調査部であった。本書では二人の調査部員にフォーカスして、興味深い分析を提示している。「第二章 大上末廣・宮崎正義のアジア認識」は、いわば本書の骨格ともいえる章となっている。
 二人は、ある意味、対象的なアプローチをしている。大上末廣(1903〜1944)は、橘樸からの影響を受け、満州農村の有様に苦慮し、どう救済すべきかということを視野に入れていく。ウィットフォーゲルのアジア的専制論をテクストにしながら、「農村協同組合による満州農村振興」策を模索していく。だが、大上は仕事半ばで満鉄調査部事件に連座し、新京で獄死している。
 宮崎正義(1893〜1954)は、留学中、ロシア革命に遭遇し、いわば、「ソ連スペシャリストとして満鉄調査課に就職」したことになる。革命後のヘゲモニーを握ったスターリン政権が農業政策よりも重工業化路線を重視していったことを、あたかも模範とするかのように、満州における「重工業優先の経済開発計画」を指向していく。また、大上における橘のような存在として、宮崎には石原莞爾がいたことを著者は指摘している。
 「宮崎正義と大上末廣は、ともに満鉄調査部員として活動し、一九三〇年代の同調査部の活動を支える中心人物でありながら、ともに彼らの構想は『見果てぬ夢』としてその終焉を迎えている。宮崎の場合には、政策化の過程で、彼が究極の目標とした満州国の生産力の増強は生産増強政策に変形したし、大上の場合には、富農層に依拠した協同組合化政策は、地主主体の生産力増強のなかで否定されていった。」
 「第七章 満州国のイメージの変遷」でも触れていることだが、戦後の時空間の拡大によって、「なつかしき異国のふるさと・満州という構図」が浮き上がってくる。それは、満州へ渡って行った人たちの多くは、理想郷を求めていたからである。もちろん、土地は想像以上に不毛で、極寒の場所であったとしても、国内に居て極貧の生活を強いられるよりはいいはずだという思いが強かったはずだ。
「彼らの構想は『見果てぬ夢』」だったと著者はいう。例えば、橘樸が抱いた農村コミューンのようなものを満州という場所に想起すること自体、「見果てぬ夢」だったかもしれない。だが、なぜ、そのような夢想を抱かせる場所として、満州にはあったのだろうか。それは、満州こそ、まさしく「アジア」的共同性を醸成するような感性を発露させる場所だったからだと、わたしはいいたい気がする。

(勉誠出版刊・12.4.20)

石上三登志 著『私の映画史―石上三登志映画論集成
(「図書新聞」12.9.15号)

 わたしにとって映画評論家・石上三登志は、いち早く(六十年代の中頃)、鈴木清順を評価し、しかも、TVCMを鈴木清順に手掛けさせた仕掛け人ということになる。本書には、清順論は収められていないが、わたしには、ほとんど未知だった石上の映画に関わっていくことになった初源の場所を知って、ある種の親近性を抱いたといっていい(丁度、十歳の差だが、わたしもまた、「西部劇」の洗礼を僅かながらも受けた世代だからだ)。企画・監修を担当した町田暁雄によれば、長編評論「ぼくは駅馬車にのった」と「TVムービー評」が、「七〇年代前半における石上氏の映画関係の評論/研究の牾豊瓩良分」であり、それを本書編集の骨子としたという。そして、「TVムービー評」の中心が、『刑事コロンボ』シリーズ四十二篇となる。わたしのようなリアルタイムで爛灰蹈鵐椨瓩魎能したものにとって、本書を格別の思いで読むことになった(他に『警部マクロード』シリーズも採り上げられている)。町田が述べているように、「当時、TVムービーに本格的に注目していた人は皆無だったことを考えれば、これはまさに孤高の活動」だったということになる。本書で取り上げられている「TVムービーが約二八〇本、未公開映画が約七〇本」という数は、まさしく圧巻という他はない。
 七〇年代前半は、映画産業がある種の衰退期に入り、TVが、映画に代わる娯楽ジャンルの王道になりつつあった。著者は、このような情況を次のように見ている。
「いつの間にか、テレビは変わっていたのである。いや、映画は変わっていたのだといった方がいいのかもしれない。なぜなら、これはテレビの出発した時点からの命題、即ち映画とテレビの共存というそれの、あきらかに一つの解決だったからなのである。」(「『劇場未公開』映画から『メイド・フォー・TV』フィルムまで/テレビで長編劇映画を見るための未来論」)
 第一部に配置された「ぼくは駅馬車にのった」(『キネマ旬報』に73年から75年まで連載され本書が初収載)は、「映画ファンになり立てのころの少年時代からの体験からはじめて、当時の『現在ただ今』まで書いている、一種のドキュメンタリーということだ。自分のことを中心に、その時の犹代瓩琉婬舛髻¬晴にまとめようという、つまり特殊な自伝だと思う」(「あとがき」)と著者が述べているように、自伝的長編評論であり、まさしく書名ともなっている「私の映画史」そのものである。最近、わたしは、かなり遅ればせながら、矢作俊彦の初期作品『リンゴォ・キッドの休日』を読む機会を得た。読み終えて、『駅馬車』の主人公の名前がリンゴオ・キッドだったことをまったく失念していたことが分かったのだ。かくして、この長編評論の開巻は、「たとえばリンゴオ・キッドのように……」なのだ。石上は十三歳の時、戦後再映された『駅馬車』を観て、「一本の映画によってかくも興奮した事はない」という体験をすることになる。「なけなしの小遣いをはたいてビクター盤の『駅馬車』主題曲を買い」、以後、「この映画を何度も見た」という。そして、「リンゴオ・キッドは、僕にとって、最初のヒーローであり、つまり、僕の大人への道の大指針だったのであり、だから僕は、確実に、『駅馬車』という映画にのったのだ」と語っていく。『キング・コング』では、ある種のアンチ・ヒーロー像に感動し、やがてサム・ペキンパー作品『昼下りの決斗』(当時、ポスターにはピキンファと記され、著者は、ペッキンパと称していたというエピソードは面白い)との出会いが熱く語られていく(本書第二部に収められている「サム・ペキンパーの世界」は、石上映画論の白眉だとわたしは思う)。そして、ここでも主人公へ仮託する思いを、“僕も、スティブ・ジャッドのようにありたい”と述べる。共感した日本映画として加藤泰や鈴木清順についても触れられている。だが、石上の映画的姿勢は、どうしても日本映画との乖離を確認することになっていくのだ。
 「(略)僕は日本映画に大悪たれをついたのである。時に一九七〇年、僕の歳でいえば三十一歳。これは、僕が『駅馬車』から出発させた僕のヒーロー道が、こと日本映画に関しては追跡不可能だった事に対する腹立ちである。アメリカ的なものを求めて日本映画に踏み入ったら、おのれも日本人たる事を自覚してしまった事に対するうろたえでもある。とにかく僕は、そこで日本的感情だけは知ったわけであり、それはとても重要だと思っている。しかし、だからといって僕は僕のヒーロー志向だけは変えるわけにはしかないのである。そして、それが結局は非日本的な方向に僕を行かせるのなら、それでもいいと思っている。いやあえてそうしたいとさえ思っている。(略)それが間違いなく僕の理想の生、理想の未来。だから、あえて進んでみよう。」
 著者のアメリカ映画的ヒーロー像の追及が、自分の「理想の生」となり、「理想の未来」になるという、そのことこそが、著者の映画への熱情そのものとしてあることに、加藤泰と鈴木清順を核にして映画を観てきたわたしは、憧憬の思いを抱かざるをえなかったといい添えておきたい。

(論創社刊・12.1.15)

石 弘之 著『世界史の鏡 環境1 歴史を変えた火山噴火――自然災害の環境史
(「図書新聞」12.6.16号)

 3.11東日本大震災が、いまだ大きな傷痕を残し続けながら、一年過ぎたことになる。自然災害の脅威をまざまざと見せつけられたわたしたちは、いまあらためて「巨大な自然の営み」について考えを巡らす時だと思う。といっても、災害をいかに未然に防ぐかといった視線からだけではなく、著者が述べるように、「『地球』が生きていることを実感」することから、まず始めていくべきである。わが国は、地震列島とも、火山列島とも称されるが、著者は、そのことを「宿命」と捉えていく。
 「噴火や地震は地球の営みそのものであり、私たちにとって宿命のようなものだ。とくに、日本列島は沈み込む海洋プレートによってつねに圧力が加えられ、歪みが地殻の中に蓄積され、そのエネルギーやマグマが一挙に解放されることによって地震や噴火が発生する。それは、日本列島の成立以来絶えず繰り返されてきた。」(「まえがき」)
 とはいえ、それはまた、四季の変化、美しい景観、そして温泉と、自然から贈与されるものは、じつに豊穣にあるといってもいい。にもかかわらず、わたしたちは、「根拠もないままに、自然を支配できると思い込」み、「科学技術を過信するあまり、人間の歴史は自らの意志で決められると信じていなかったか」と著者は問うていく。津波対策として考えられた防潮堤や海岸線上に立つ原発が、3.11大震災で脆くも崩れ去ったことを、もう一度、「地球の営み」として考え直さなくては、また同じ失態を招来することになるのは明白だ。
 本書は、書名の通り火山噴火の歴史(二一〇万年前の火山噴火まで遡って叙述されている)を、二〇万年におよぶ人類史と重ね合わせながら、論述されていく。
 わたしが、本書から真先に受けた衝撃は、「火山の冬」ということだ。つまり、「噴出物に含まれるエアゾルと総称される細やかな粉塵やガスが、大気中に漂って太陽光線を遮ることによって」、急激な寒冷化が起き、「異常気象や飢饉を引き起こし」、「人類を絶滅寸前にまで追い込み、時には文明を崩壊させてきた」という。さらに著者は、衣服の発明を、火山噴火による寒冷化に関連づけて説明していく。
 「衣服が出現した七万年前ごろに、地球の気候が激変したことが知られている。その原因は、今から七万三〇〇年前(略)ごろに大噴火を起こした、トバ(引用者註=スマトラ島北部)にあるとする説が有力だ。」(「第三章 火山噴火が衣服を発明した」)
 生活階梯の進捗によって、利便性を求め、様々なことが発案されていくことが、必然的なことであったとしても、そもそも、わたしたちは、自然との関係の中で、段階的に生活の向上がなされてきたことを見落としがちになるものだ。衣服が、「火山の冬」によって生起された寒冷化対策とすれば、なにか暮らしにおけるイノセントな思いのようなものが湧きあがってくる。
 しかし、現実的なことを考えていけば、大規模な火山災害は、いつ起きてもおかしくないのは確かなのだ。そして、「災害」と「被害」の間にある空隙を著者は論及する。つまり、「災害」の発生頻度が変わっていないにもかかわらず、「被災者数や損害額などの『被害』は急増している」(「第一〇章 二〇世紀の火山噴火」)というのだ。著者は、人口の急増が、その遠因であると捉えていく。
 「噴火や地震の影響を受けやすい山岳地帯、洪水や津波に襲われやすい川岸や海岸の低湿地など、危険な場所にまで住まざるを得なくなってきたことが、被害を加速度的に拡大している。森林が失われれば、泥流や土砂崩れの被害がそれだけ大きくなる。『天災』とされて半ば諦められてきた災害は、いつしか『人災』の色が濃くなっていたのである。」(「同前」)
 だが、長年住んでいる場所が危険だからといって、自然災害の危険性の少ない場所へと移り住むことは、簡単にできることではない。「噴火や地震は地球の営み」である以上、そのことを「宿命」として受け入れざるをえないとしても、なにか手だてはないものかと思わざるをえない。気象庁に火山噴火予知連絡会が設置されて、火山噴火予知計画が始まったのは、地震予知計画に一〇年遅れた、一九七四年だったという。だが、地震観測に比べて「高精度の観測網」がないから、「予知にはほど遠い」と著者は断じながら、「火山活動の予報をめざすのであれば、主要な活火山には高精度の観測網を整備」し、「全国の火山噴火の歴史的な履歴を含む徹底的な調査研究が必要だ」(「終章 悪夢の時限爆弾」)と提言している。
 近年、「小規模な噴火」しかなかったとはいえ、わたしたちは、絶えず、「時限爆弾を抱えて生きている」ことには変わりはない。だからといって、恐怖感や不安感を抱き続けて生活することはできないし、巨大地震の可能性も含めて、自然の脅威と、わたしたちの日常的な平穏との間に、均衡を保つことは、なかなか出来にくいことは確かだ。しかし、わたしたちの日常といえども、永久不変に平穏であるわけがない。人間という生き物の性なのだろうか、生々しい事件・事象は絶えないし、やがて訪れる「死」は、絶対に誰にも忌避できないものとしてある。やはり、「『地球』が生きていることを実感」したうえで、わたしたちの生活があることを自覚していく以外、現在(いま)を超える思いはないのかもしれない。

(刀水書房刊・12.1.24)

加藤幹彦 著『日本の原風景 古民家礼賛』
(「図書新聞」12.6.9号)

 茅葺き屋根を象徴とする民家は、東京近郊では、保存対象となって貴重な文化財としてなら、まだ現存するのだが、生活空間では、ほとんど目にすることはなくなった。それは、地方でも同じである。わたしの故郷の秋田は、それでも、まだ、市街地を離れると僅かばかりだが点在する。それも、やがて、あたらしい住まいとなって建て替えられていくことになるはずだ。そのことを、とやかく言える立場ではないとしても、何か寂しさは、拭えない思いがするのは確かだ。
 かつて、柳田國男は、その著『秋風帖』(昭和七年刊)のなかで、「一九の『膝栗毛』を輪講する会ができ、それが感謝せられる時代になった。広重の『五十三次』などももう史料である。この写実の絵が絵空事かと思われるほど、東海道は別な物になってしまった」と述べてわが国の風景の変貌を次のように憂えていた。
 「ひとり鉄道と煉瓦とペイントとがこれを致したのではない。(略)人の頭から丁髷が引退したごとく、家の屋根からは栗檜の枌板が影を斂めた。菅笠や頬冠りが安い帽子に改まったように、田舎と聞けば目に浮かんだ草屋が、わずかな間にことごとく瓦葺になりきろうとしている。それにはまだ十分な理由があって、惜しいと思えばどうにか残し得るものではないようだ。世には何が何でも変化せねばならぬものが、この通りあるのである。(略)かつては農民の無細工な茅葺も、いったんは立派な芸術までに進んでいた。しかし残念ながらもう永くは続くまい。寺や社の一生懸命の普請にすら、萱を集めるためにどれほどの苦労をするか。ただの民家で言うならば、二十年に一度の屋根替えの用に、空しく十九年の萱野を立てておくことは不可能だ。」
 この後、「ゆい(結)」といった共同的な関係性が、葺き替え作業を可能にしていたが、瓦化していくことによって、その必要もなくなり、萱葺屋根の衰退が必然化していくことが記されていく。昭和期に入って、いわば、村落共同体が徐々に壊れていき、相互扶助的な関係性が希薄になっていくことが茅葺屋根民家の減少を助長していくことになったといってもいい。わたしたちが、現在、残存する茅葺屋根の古民家を見て、なぜか慰藉されるような感じを受けるのは、そこに関係性の襞のようなものが潜在しているからだといえる気がしてならない。
 著者は、40年前から、特に茅葺き屋根の古民家を描き続けてきたという。巻末に付された「制作歴」によると、昭和58(1983)年に始まって、平成10(1998)年まで五回の古民家をモチーフにした個展を行っている。画家として集大成の作品集が本書といっていいのではないだろうか。収載作品は水彩を基調とした127点(6点は油彩)で、北海道、東北、越後、信州、東海道、京都、岡山、四国と広域に渉っている。
 絵は、柔らかな描線によって、家々が静かに何かを語りかけてくるよう佇んでいる。家の手前には田圃や畑が配置され、生活することの清冽さを放っていく。茅葺きの家ではないが、「下伊郡・平谷村」の家並みの2点(77年と78年の二度訪れて描かれたものだ)の油彩の絵に強く惹かれた。やや傾斜を加えながら、一気に動かされたと思われる筆致感のようなものが、家々の存在の有様を活写していると感じられたからだ。作品中、俯瞰で描かれた「山形・湯殿山」の絵は、雪の積もった中の茅葺き家が際立つ。「荘川の里・木下家」の絵は、生活感が、自然なかたちで伝わってくるかのようだ。住まいこそ、生活の拠点なんだという、当たり前の、しかし、現在にあっては、忘失しがちなことを気づかせてくれる。一点一点を詳述したい気持ちを抑えながら、ふたたび、柳田の言に、触れるならば、「農民の無細工な茅葺も、いったんは立派な芸術までに進んでいた。しかし残念ながらもう永くは続くまい」として、昭和の初めに茅葺き屋根の家の衰退が危惧されているにも関わらず、それでも、まだこうして残っていたことに不思議な感慨が湧いてくる。
 「今から四十年前に三州路を旅した折、ふと目に止まった茅葺き屋根に心癒され、矢も楯もたまらずスケッチブックを開き、全て現場で仕上げ、感動を画紙に刻み込んだ。/庶民の家、民家にはドラマがある。そこに人が生き、人が死んだ。それが何代も繰り返され、生活臭が息づいている。年月を経た囲炉裏に煉された柱や梁、また雨露に耐えてきた土壁や美しい茅葺き屋根からは、その地方の歴史が語りかけてくる。」(「まえがき」)
 まさしく、作品中の古民家の絵たちは、「感動を画紙に刻み込んだ」ものとしての息遣いが、感じられる。「庶民の家、民家にはドラマがある」、「美しい茅葺き屋根からは、その地方の歴史が語りかけてくる」と捉える、この画家の言葉は、重い。このような視線こそ、わたしたちが生活することの実感を豊饒にしていく契機となるといっていいからだ。

(中日出版社・12.4.5刊)

渡辺みえこ詩集
『その日と分かっていたら フクシマのまほちゃん』


 「故郷」という詩篇が、収められている。その書き出しに、「まほちゃん ひろちゃん りょうた君」と三人のこどもたちの名が記されている。やがて、「幼いあなたたちの弔いに いったい/どんなふうな別れがあるのでしょうか」という詩句に出会う。「死」というものは、いつだって理不尽なものだ。病気、事故、災害と、死への誘因が、様々にあったとしても、「死」は、ひとつの「死」でしかない。ならば幼い死者への鎮魂の言葉を発するには、どんな思いを重ねるべきだろうか。それが、「どんなふうな別れがあるの」かと、逡巡する発語となる。「生き残った者は、同じ大地と海とこの空のなかで生きていく限り、死者と共にあり続け、喪った故郷を探し続ける」(「あとがきに代えて」)とこの詩集の著者はいう。確かに、そうだとしても、悔恨を拭えない「死」であれば、なおさら、「生き残った」ことの負い目のようなものは、消すことができない。
 地震と津波、そして原発事故による厖大な放射能飛散という事態が発生した3月11日から、ちょうど一年が経った。わたしのような年齢になると時間の経過は早く感じるようになるのだが、この一年は、そのようなことはなかったといっていい。暗澹たる気持ちが晴れることなく続いたからでもあり、私事においても、様々なことがあったからだ。これからさらに、一年先、二年先へと思いを馳せたとしても、暗澹たる気持ちが晴れるということはないといい切れる重い現実が未だにある。いまごろになって、様々な失態がメディアに載って明らかになったとしても、それは免罪符にはならないことを、政官業学報のペンタンゴン権力体系に巣食う者たちは知るべきである。既に、初動において、自然災害というよりも、人災という側面があったことは知られていたから、いまさらのような気がしてならない。気象庁による津波予報の過小分析は、大きな問題として露呈している。つまり、まるでSPEEDIを無視して、小出しに避難勧告をしていったことと同様に、6メートルから徐々に数字をあげていったお粗末さは、官による人災といってもいい過ぎではない。当初の想定外の津波による電源喪失という東電と原子力保安院の見解は、地震による喪失ということが明らかになりつつあり、いま、原発の存在それ自体(わが地震列島に立つ原発は、すべて安全だというのが、原子力共同体のお題目だった)を揺るがす事実が突き付けられようとしている。
 未曾有の自然災害による「死」から、もしかしたら、疲弊してきた社会構造の歪みから派生したことに起因した「死」かもしれないとすれば、悔やんでも悔やみきれない思いが湧いてくる。

 まほちゃん 六歳になったまほちゃん
 どこにいますか
 左足の小さな靴だけ残して
 相馬の海を止めてしまったまほちゃん
 今どこにいますか
 相馬の空は今どんな色ですか
 相馬の海はどんな色ですか
                       (「曼珠沙華」)

 静謐な憤怒とでもいうべき詩語が、溢れている。六歳のまほちゃんが、永遠に六歳のままであることをどのようなかたちで、わたしたちは記憶に留めておくべきかということが、この詩篇から問われることになる。他者の「死」と、自分自身の「生」を繋ぐものは何か。やがて自分自身にも訪れる「死」が、実は「生」のなかに絶えず胚胎していることをわたしたちは、真摯に考えていかなければならないはずだ。そのことによって、「死者」たちのあるべきはずの「生」を引き受けることに繋がっていくと、わたしなら思いたい。

 いま 君の名は 「行方不明者」
 そのとき君は おかあさんの
 柔らかい乳房に顔を埋めて
 行った のかな
           (「ヒロちゃん――そのとき君の『時』はお母さんの乳房に埋まって」)

 「死」とは、「死者」を前にして立ち上がってくる言葉だろうか。そうではない。「生きている者」の側からしか、認識しえないものが、他者の「死」であり、「死者」を前にしてただそう思うわけではない。ならば、「行方不明者」とは何者か。「生きている(はずの)者」か「死者」なのか。
 「おかあさんの/柔らかい乳房に顔を埋めて」いたはずの君(ヒロちゃん)は、間違いなく、その時、「生」の只中にいたはずだ。わたしは、この詩篇の断片は強い「生」へのメッセージのように受けとめたつもりだ。

 おはぎも 牛も しばらくしてまた
 土に還ってしまうけれど
 土に還らないもの
 人の命より長く生きるものを人は作った
                       (「ドロだんご」)

 「土に還らないもの」で、「人の命より長く生きるもの」が、次々と人によって作られてきたことを、わたしたちは、止めることができなかった。悔恨には、そのことが大きく占められている。
 しかし、いつまでも、悔恨や暗澹たる思いに浸り続けているわけにはいかない。まほちゃんたちの、あるべきはずの「生」と繋がるために、いま、できることから、なにかを始めなければならないからだ。

………………………………………………………………………………………………………………
七月堂刊・11.11.17・B6判・58P・定価[本体1000円+税]

溝口 章 著『三好達治論――詩の言語とは何か』
(「図書新聞」12.2.4号)

 周知のように三好達治は、『四季』派を代表する詩人である。わたしはこれまで、『四季』派の詩人たちを個別に、共感してきたわけではなかったが、『四季』派的抒情といわれる詩世界には、深い関心を抱いてきた。保田與重郎に惹かれ、いわゆる日本浪漫派をめぐって思考を巡らしていった時、『四季』派の詩人たちとの通交を知って、いくらか親近感を持ったことが、端緒だった。保田がそうだったように、十五年戦争時における詩人たちの情況への近接は、膨大な数の戦争詩を発表した高村光太郎と三好達治に象徴化されると思う。だからといって、わたしは、戦争推進者、戦争賛美者として、単純に弾劾しようとは考えない。彼らが、なぜ、時局へと取り込まれていったのか、あるいはそのように見られていったのかという基層を論及していくことによってしか、戦争を支えた思想や感性の深部の切開へと到達することはできないと思っていたからだ。
 本書が、三好の戦争詩をめぐる論及から始めていることに、わたしは、まず注目した。むろん、著者もまた、表層的に捉えていくわけではない。戦争詩以前、戦争詩以後と横断させながら、三好達治の詩的言語世界を照射して、達治詩の深奥をわたしたちに開示して見せてくれている。例えば、「詩壇十年記」という昭和十二年に発表した文章に触れて、著者は次のように読み解いていく。

 「三好は、ここであるべき詩の理想を真っ向から語っている。現代の詩語が成しえた『心理描写の詩的表現』を『進歩的表現』として一応は評価しながらも、その次元を超えた究極の詩を理想として求めていた。(略)即ち『詩歌の生命とも呼ぶべき』『気韻』と『暗示性』、更には『人の心を高める』『詩品の高貴さ』を有する詩であった。」「三好が文語にこだわったというよりは、口語に敢えてこだわらなかったからであろう。三好は、そのようにして、詩を殊更に現代にあわせることなく、むしろ、古今に通じる詩想の普遍を求めてそれをよしとしたようだ。」「詩人の主体は、様々な変位、変容があるとしても、結局は一つだと考える以上、そこの所を明かすしかない。勿論、そうは言っても、三好の膨大な戦争詩集を読むこと自体、なんといういとわしいことだろうか。私は、すでに幾度か試みて、遂に苛立ち放擲した。」(「 詩魂とフォルム」)

 著者の丹念な論述をさらに引いてみたい欲求を敢えて抑えることにする。わたしが、ここで問題としたいのは、「詩歌の生命」ということと文語と口語の関係ということになる。このことが、三好の戦争詩とそれに続く戦後直ぐの亡国を憂える詩群の位相の深奥に切迫する手立てとなるはずだ。著者は、戦後の詩群を歴史への悲歌、感傷と見做す。確かに、そうなのだが、わたしには、どうにも、三好達治の詩性といったことが、詩作品を通しては捉えにくいものとしてあるような気がする。萩原葉子の『天上の花』を持ち出すまでもなく、三好の女性に対するアンビバレンツな動態は、そのまま、詩世界へも敷衍できるのではないかと、わたしには思えてならないのだ。わたしなら、第一詩集『測量船』に対する自己否定といい、戦争詩への自省や悔恨を吐露することなく、亡国を悲嘆しながら天皇への戦争責任を表出する三好達治の有様に、「いとわしさ」と「苛立ち」を感じずにはいられない。

 「達治の戦争詩は、近代日本の矛盾と重圧を罪科のようにその空虚な『空』に取りこんで、次々と古語の惑乱に陥った。それが、帝国主義的な近代の戦争を、〈大和の国〉〈神州〉の戦争と錯覚させる詩の道に通じていた。」「『なつかしい日本』の表題にひかれて読みながら、天皇退位の道義論へと誘われるばかりで、肝心のものが何故かはぐらかされてしまう。日本のどこがなつかしいのか。どこに愛着を覚えているのかに、このエッセイはまともに応えていない。それとも、退位による道義貫徹が果す天皇中心の文化国家がそれだというのだろうか。(略)三好の頭の中に描かれた理想像が、それだとすれば、三好は、現実にないものをなつかしんでいることになる。」(「 詩の言語とは何か」)

 陸軍士官学校中退(二・二六事件で刑死した西田税と同期であり友人であった)後、三高、東京帝大仏文科を卒業した達治は、当然ながら西欧的知の洗礼を受けて、やがて秀逸な第一詩集を著す。「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。/次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。」と表現した詩人が、「神州のますらをすぐりあだの拠るわたのかぎりをおほひたたかふ」と歌う時、「詩歌の生命」とは、どこに偏在するというのだろうか。わたしは、思う。詩の理想や詩の普遍というものは、何処にもないという地平から出発して詩的言語を紡ぎ出すことこそが、やがて理想や普遍というものを超えた世界を獲得していくことになるはずだといいたい。「現実にない」理想や普遍を希求すればするほどに、アンビバレンツな境域に落ち込んでしまうことになるからだ。

(土曜美術社出版販売刊・11.12.30)


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